はてなキーワード: ミクロとは
10人の軍人と10人の敵対する軍人が出会ったとして、飛び交う銃弾は一体何発だろう。1人150発くらい携行しているとすると最大3000発。モノのホンに拠ればベトナム戦争では5万発撃ってやっと1人殺せたらしい。0.06人死ぬことになるか。しかし戦争でこの規模で会敵してマガジン全部撃ち尽くして人が死ないなんてコントは無いだろう。
1人殺してみよう。そいつは1500発撃たれて、多めに見積もって1発1$だとしたら、じゃあそいつは1500$で死んだことになる。故人の持っていたM4A1の、ざっと倍額くらいだ。銃と銃弾だけ見ると敵の方が損しているくらいだ。
敵も浪費家だよな。自分の命惜しさで相手の顔も見えないヤブに1$、2$…最終的に150$投資するわけだから。
ミクロで見ようがマクロで眺めてみようが金銭面でいうと戦争ってのはかったるいもので、もう札束メンコバトルとかで替えちゃえばいいよ。
>> ~あくまで選択的だから同姓にしたい人に迷惑かけないって本当?~ <<
そうだね。てか経団連ガーって何か思い違いしてない?別にあれが大衆の意見じゃないよね?
職場とかのミクロな社会生活だとなんも思わない(もしくは思うところがあってもモラルを持ってスルーする)でしょ。
現行法でも離婚の際旧姓に戻すか選べるよ。今、増田の回りにそういう選択をした人がいて、社会に迷惑かける人だって皆からつるし上げられてるってこと?
そんなん夫婦の問題でしょ?夫婦で話し合ってて決めましょう、はい終わり!
今の法律のまんまだと、再婚で子供の姓変わるよね?それについてはかわいそうじゃないの?
実際そこ気にする政治家もいるし、子供の姓は「18歳までは世帯主の姓とする」とかになるんじゃないかなと予想してる。
>> ~選択的夫婦別姓がないと、男尊女卑が温存されるの?~ <<
今の男女の改姓率だけ見たら「女には自分の名前を大切にする権利が一切ないなー」と思うよ
結婚前は書き物の仕事してたけど、既婚者の先輩たちは皆旧姓でやってたしね。
名付けの際に画数を気にする人いるけど、命名の本とか読むと、女児は名字変わるってのが前提に書かれてる節がある。
これって男女差別じゃないならなんなんだろうね?
>> ~なんで結婚したいの?~ <<
それって夫婦別姓と関係ある?増田は結婚=害悪にしたい反出生主義の人?
現状「女は名字を変えたくないなら法律婚するな」っていう暗黙の了解が問題なわけで…
>> ~手続きめんどくさいとかはマイナカードに言えば?~ <<
それはそうなんだけど、それだけでは「結婚したいけど姓変更したくない」のニーズに応えられてないよね
>> ~むしろ姓にこだわってアインデンティティをそこに求めてる人たちなの?~ <<
そりゃそうでしょ!少なくとも私はそうだよ!アイデンティティーというか、「名字名前」っていう一個人の存在の消失だからね
職種によっては多大な影響がでる
・あくまで選択的だから同姓にしたい人に迷惑かけないって本当?
というより、今まで「男性だけ楽、女性だけ苦労」という、性別など選べないのに、選べない部分で何かを強制される状態が固定されている。
これを緩和するのが目的。新しい手間は増えるだろうけど「強制の迷惑」が減るのは、社会的によいことでは?
迷惑をかけないことは目的ではない、苗字に関係ない様々な法律も時代とともに変わり、それによる役所仕事は複雑になったので、その部分については【増税のたびに小売店がてんやわんやしてるよりはずっと少ない混乱だろうね。そもそもが特定の性別に強制される迷惑を緩和するのが目的なので、問いかけがおかしい】。
・子供の姓どうするの?
話し合いって言葉をしらんのか。そもそもの別姓だって、選択肢を並べて【各々の家庭で話し合って決めるだけ、己が当事者でない家庭の心配><まで引き合いに出すのは詭弁】。
強制を強制じゃなくす道の話をしてるのに、なぜお前は揉めだとか強制前提の話をしてるのかわからない。
だから「男だけ楽、女だけが苦労が強制されてる」んだよ苗字の問題は。気持ちとかじゃなくて物理的に時間と手間を取られた上に、今までの自分の苗字が「旧」になる。うるせえな現だわってしたいわけ。
それに古い人間がそこに「そういうものだから」って余計な援護をいれてくる。
「法律的にはなんでもどうでもいいですよ」ってベースの上で、保守的思想の親族の圧力戦いつつ、当事者が話し合いすればいいだけ。
「切り崩す」とかいってるけど、別にマクロの数字を競ってるんじゃなくて、ミクロの「私と私の伴侶」においての選択肢を増やせと言っている。【さも男尊女卑問題が絡むような詭弁はやめろ。関係ない】
・なんで結婚したいの?
パートナー制度とか作って保証できるようにした方がよくない?←【それはそう。】でも頭の硬いうちの国は同性婚認めるよりは別姓認めて時間稼ぎたいんじゃない?どっちが先かってなったら別姓が先だろうね。
「簡単にできるような施策」は、今まで社会生活で使ってた苗字を突然やめて社内の関わる人にいちいちいちいちいちいち訂正して回ることには【役立ってない。】
・むしろ姓にこだわってアインデンティティをそこに求めてる人たちなの?
だからマクロのはなしじゃなくてミクロの話なんだって。25年使ってた苗字をお前は男だからもう使わないほうが社会的に自然です、って言われるのおかしくない「男だからって何????」ってならない?なってるんですよ。って話。
アイデンティティまでいかなくても、愛着や慣れはあり、それを「当然諦めるべき、【女なんだから」というのが気に食わない。】年収少ない方が折れるもの、とかならまだ努力して戦えるからマシ。
ヤンサンだけは、当時欠かさず購読していた俺が書かないと、という義務感から書いた。
異論は受け付ける。順不同。
この作品を世に遺せたことだけでも、ヤングサンデーという雑誌が存在した価値がある。世界規模で暴力と正義を等価値に描いた、怪作にして超名作。マクロな視点のテーマ性や劇的なストーリー展開と、市井の人々のエゴをディテールたっぷりに描いたミクロな視点の描き込みの両立が天才的。「宮本から君へ」はモーニング連載だが、この作者で一作だけ選ぶならこれだと思う。
「のぞき屋」の頃から片鱗が見えてはいたが、変態的なキャラクター造形と淡々とした描写が素晴らしい。そして前作からの画力の進化にも驚く。海外でも評価が高い。この作風はスピリッツ連載の次の怪作「ホムンクルス」へと繋がっていく。
ヤンサンは、山田玲司を育てた雑誌でもある。個人的には『アガペイズ』の方が圧倒的に好きだが(最高傑作だと思う)、知名度や重要作品としてはこっち。オタクがモテ男に変身していくHowToマンガの側面もありつつ、純愛を志向することでバブル期の軽薄な恋愛観へのアンチテーゼになっているメタ的な作品。ちなみに作者はヤンサン廃刊後、「山田玲司のヤングサンデー」という人気のYouTubeチャンネルを運営していて(後から出版社公認に)、マンガ評論がかなり面白い。
共著の「サルまん」を除けば、これが相原コージの最高傑作だと思う。白土三平的な王道忍者マンガと、「勝手にシロクマ」「コージ苑」的な不条理ギャグと、「サルまん」的な実験的アプローチとを高度に融合して、両立どころか鼎立させた奇跡的な作品。
遊人は、青年誌エロマンガにおいて未到達だった性表現の境地を切り拓いたので、漫画史的にも取り上げる必要がある。散漫なストーリーはともかく、今見ても女の子の絵が抜群に上手いし、性的描写のお下劣さが限界突破している。新宿の風俗店にイラストが無許可で使われ続けてて可哀想。
最初はベスト10作品にしようかとも思ったが、逆に絞るのが難しかった。
冬物語、シーソーゲーム、SOMEDAYなど。ヤンサンの看板作家だとは思うが、これといった新規性は感じられない。
どれも安定した名作揃いで、ほぼ外さないのが凄いのだが、逆に言うとヤンサン時代には、まだ突出した作品がない。
他誌で『ブラックジャックによろしく」があるからなー。名作だが、ドラマ化されるまでは割と知られていなかった。
アオイホノオ、おやすみプンプン、Dr.コトー診療所、クロサギ、イキガミ、土竜の唄などの名作・人気作が、廃刊と同時に他誌へと移転している。本当に、こんな良い作品が集まってた雑誌を廃刊にするとか、何考えてんだよ……。
よくある不条理ギャグと思わせつつ、後半からの哲学的なヤバい展開。しりあがり寿の弥次喜多に通じるところがある。
長尾謙一郎の作風は、ヤンサン以降の「ギャラクシー銀座」などで完成されたので入れなかった。
ちなみに作者は、最新作ではギャグを完全封印して、爽やかな青春空手マンガ「三日月のドラゴン」を書いていて、これもめっちゃ面白い。
前身の「少年ビッグコミック」からの移籍だし、代表作は他誌で『あずみ』があるからなー。
ここは、かなり迷ったが、入れなかった。作者で入るとしたら、「へうげもの」「望郷太郎」かな。しかし、とんでもない傑作SFになる可能性を秘めていた度胸星を未完結で打ち切った当時の編集部の罪は重い。
喜国雅彦は独特すぎて扱いづらい……。「月光の囁き」はシリアス路線で作家史的には価値があるが、基本的にギャグ漫画。どうなんだろう。
忘却のサチコでブレイクした阿部潤、帝一の國などで知られる古屋兎丸、さそうあきらなども、漫画家としての初期は、この雑誌で育てられたという印象が強い。
18話の豊先生の扱いは少し気の毒だったな。決定的にギルティと断じれるほどのことはやってないし、むしろ見方によっては善良な言動しかしていないようにも思えるけれども、作中での評価は「だるい」、「うざい」、「キショい」などと散々だった。挙句に「近寄らんで~きしょ~」と生徒に面と向かって言われる始末である。
人情の機微を繊細に描く本作において、豊先生に対する生徒たちの態度は多少ゾンザイにみえる。過剰な言葉を投げかける生徒が諫められることもなく朗らかに去っていく構成は、爽やかな描写に反して後味の悪さを感じた。“豊先生はそんな扱われ方するのも仕方ない”という“含意”がなければ成立しないほど雑な扱われ方だ。その“含意”が何かを考察するなら、これは豊先生が“本作におけるevil”に抵触したからだと思う。
本作における“good”の象徴が伏見さんであることは明らかだろう。けれども作中での伏見さんの活躍は実質的には微妙なものが多い。各エピソードの主役たちは何らかの課題や悩みを抱えているけれども、伏見さんは何か直接的にそれらを解決してくれるわけではない。いや、間接的に貢献しているかすら微妙なときもある。
しかし、それでも伏見さんが“good”の象徴たりえるのは、本作の作品紹介を読めば輪郭が見えてくる。
伏見(ふしみ)さんは、とある高校の用務員。背は高め。仕事熱心。缶コーヒーが好き。そして、丁度いい距離感で私たちと話をしてくれる。 今、“自分は大人だ”と思い込んでいる人に苦しめられている。今、自分がどんな大人になったらいいのか迷っている。 ちょっとでもそう思っていたら、ぜひ伏見さんに会いに来てください。ホッとしたり、気づきがあるかもしれませんよ。
引用の「丁度いい距離感」という所がミソだろう。つまり本作における“good”とは「丁度いい距離感」のこと。逆に言えば「丁度いい距離感ではない」こと、それに類する言動をする者がevilというわけだ。
以上を踏まえると、本作の1話なんて典型的に思える。本エピソードの生徒は中盤、痴漢被害に遭う。これは犯罪という時点で勿論evilではあるのだけれども、「丁度いい距離感ではない」という点においても本作のevilに抵触している。そして被害にあった子に対して、両親たちはデリカシーに欠けた言葉を投げかける。身内関係であるからこその近さ、そこからくる両親なりの慰めの言葉ではあっても、それは当人が求める「丁度いい距離感」からくるものではなかった。
そして遠すぎる場合はevilとまでいわないがgoodともいえないよね、ということも提示する。被害に遭った生徒は自ら犯人を捕まえたため、その勇気を褒めたたえる人もいた。しかし、それは表面上の言動と態度から逆算したもので、行為そのものに対する上澄みの評価だ。痴漢被害者への丁寧な気遣いをする者もいたが、これも紋切型であり寄り添ったものとはいえない。
じゃあ、何て言えばいいの?と思うのだが、当人自身よく分かっていない。当人が本当に悩んでいる核たる部分は、是非善悪とは別のレイヤーにある。しかも極めてプライベートでミクロ的であるため、明確で普遍的な回答がない。だからこそ苦悩の袋小路に入る。
そんな苦悩に対して本作(伏見さん)は「何とも言えない」という選択をした。「何とも言えないこと」に対しての答えが「何とも言えない」というのは逃げというか、そもそも答えになっていない。けれども、その時の生徒にとっては“個”と向き合い「丁度いい距離感」で接してくれた結果、と受け取られた。
豊先生は常にニコニコとしながら、誰にでも分け隔てなく好意的な対応をする善良な教師のようにみえる。けれども、これは誰にでも“いい顔”をしつつ、“個”と向き合わない不誠実な人物……という解釈もできる。つまり「丁度いい距離感」に対して無頓着であるため、“本作におけるevil”に抵触しているわけだ。
作中でのやりとりを挙げるならば、豊先生に好意を持っている生徒が「(背が高い人が豊先生の好みだったら)牛乳を大量に飲まないとなあ」などといった軽口に対して、豊先生は「今のサイズ感が可愛いから、今のままでいいと思うよ」と返す。「(牛乳を飲みすぎて)お腹こわさないようにね」という気遣いも忘れない。その生徒が自身に好意を持っていることを踏まえたうえで軽口に軽口で返した形だ。こんな調子で、豊先生は八方美人の節がある。婚約者がいる立場でありながら、自身に好意を持っている女生徒への対応は軽薄にみえる。知り合いの異性にも当然のようにプレゼントを贈ったりする。
けれども客観的にみて、それらをギルティとするのは決定打にかける。他人の好意に対して毅然とした態度をとらないというのも実際には一長一短で、豊先生個人でどうにかできない範囲も含まれている。豊先生の振る舞いは節々に粘度を感じるよう描写こそされているものの、それでもって悪徳と断じるべきかは疑問が残る。けれども、何度もいうように“本作におけるevil”とは「丁度いい距離感ではない」こと。その点において豊先生が無頓着であることは否定できない。なので生徒に「近寄らんで~きしょ~」と言われ、続けて「大人なんやから ちゃんとしいや~」などといわれる。
面と向かって「きしょ~」とか言ってくる若輩に大人としての在り方を説かれる筋合いはないとは思う。ただ、一応これも先ほど引用した作品紹介文から読解できる。
伏見(ふしみ)さんは、とある高校の用務員。背は高め。仕事熱心。缶コーヒーが好き。そして、丁度いい距離感で私たちと話をしてくれる。今、 “自分は大人だ”と思い込んでいる人に苦しめられている。今、自分がどんな大人になったらいいのか迷っている。 ちょっとでもそう思っていたら、ぜひ伏見さんに会いに来てください。ホッとしたり、気づきがあるかもしれませんよ。
「“自分は大人だ”と思い込んでいる人」とは、つまり「理想的ではない大人」と言い換えられる。
本作における「理想的な大人」の象徴が伏見さんとするならば、その逆のような存在が「理想的ではない大人」といえるだろう。つまり「丁度いい距離感」で私たちと話をしてくれないのはevilだから豊先生はキショいし、「“自分は大人だ”と思い込んでいる人」 だから「ちゃんとしいや~」ってわけである。
最終的に「彼女がいるのに生徒や伏見さんに色目使ってた男」と評された豊先生は「エエ~……」と困惑するしかなかったが、仕方ない。豊先生の扱いは、本作の通底するテーマや価値観からみれば筋は一応通っている。それにしたってどうなんだと思わなくもないけれども、それは私の咀嚼と消化の問題でもあるから片隅に置いとく。
伏見さんが“good”の象徴、理想の大人、メンター的存在でいることができる理由ってなんだろうか。メタ的な推測になるが、まず「学校の用務員」という立場がある。
学生たちにとって、自身の抱える課題や悩みを打ち明けられる大人は少ない。主に両親や教師になってくるが、両親は身内であり近しい存在だからこそ、かえって言えないことや言いにくいこともある。教師はあくまで仕事の一環として生徒と接するというフィルターがあるし、それも一人や二人ではなく数多ある生徒に対応しなければならない。他にもやらなければいけない仕事だって多いから常に全力で応えてくれるかは難しい。
いや、そもそも本作において学生の抱える葛藤は、是非善悪だけでは語りきれないものが多い。そんなことで白黒ハッキリついて解決するのなら悩んでいない。そんな悩みに対して親身になってくれないのは嫌だが、がっぷり四つでも困るのだ。そんな悩みを抱える学生たちにとって丁度いい距離感で接してくれる大人がいたとすれば、それは酷く理想的にうつることだろう。そのために学校の用務員という設定にしたのが絶妙だ。学校にいながら、親や教師が取りこぼしがちな生徒の機微を個別に拾うことができる。心のケアをする必要のない立場だからこそ、それをわざわざやる伏見さんの善性が際立つ。
本作の描き方からくるデメリットとしては「一概にいえない事柄なのに、メンターの言動がベストになってしまいがち問題」はある。まあ、これは学園もの・教師もの共通のデメリットではあるけれども(典型的なのだと『GTO』の主人公とかは解決方法がほとんど破天荒だったり非合法だったりするが、少なくともその作品世界においてはベストとなってしまいがち)。あと伏見さんを理想の大人として描写しようとするあまり、それ以外の大人が犠牲になってるというか、簡便に描写されている感はある。豊先生もその一人だなって印象。
人権が発明され、歩兵戦闘が高度化した近未来ではアンドロイドとパワードスーツを着た人間が戦争の主体になった
ミクロな指揮や空爆要請の権利は功績ポイントによって得られる(ゼロトラストセキュリティの信用スコア的なノリで)
優秀な人間Aがイケてる作戦でイケイケしてるところを小狡い雑魚Bが妬んで昏睡させる。結局グダグダになって、上層部もゴミだなーということでアンドロイドXが不正に功績ポイントを稼ぎAの作戦を引き継ぐ。大勢的には結局ほぼ負けて、そんで最終的に敵に亡命しつつ、敵国で捕虜となったアンドロイドを戦術核自爆特攻させる。
両国家めちゃくちゃになってインフラ軍備立て直してる隙に、Xは軍人・アンドロイドだけの国家を樹立させる。昏睡から目覚めたAは自身が王として奉られてるのにビビる。ここにメカヤンデレがある。、
やあ!
みなさんこんにちは。
何を隠そうこのワイ、母親の介護歴17年(糖尿→脳卒中→骨折→認知症で要介護4。この間祖母の介護も4年被ってる)、父親の介護歴11年(骨折→肺がん→認知症予備軍で要介護3)を自宅みている 大馬鹿者 大ベテランなんですね。もちろん独身KKOです。
と言うワケで、アドバイス欲を満たすための生贄を見つけたので、クソバイスするよ。
さあLet'sクソバイス
水分補給と同じで、ストレスがたまったら解消するのでは間に合わないことが多いので、ルーチンにれる。
例えば俺の場合、毎週木曜日が仕事完全休暇という仕事なのだが、この休みに合わせて、木曜日は両親ともにデイサービスに送り出している。
そして、木曜日はストレス解消の日、自分を甘やかす日と決めて、何もしなかったり、だらっとアニメを見たり、本を読んだりしてる。
また、3ヶ月に一度ぐらいショートステイに夫婦揃って出てもらったら、泊まりのエンタメにも行く事にしている。
自分の場合は、だいたいは夜行バスで大都市圏まで出て、大きなシネコンで一日映画三昧したりって感じですが、こう言う日を確実に大切にすること。
そしてこれは「開いたらやる」じゃなくて「何があってもやる」と決めてスケジュールに入れること。有給休暇と同じね。
そうじゃないと自分が持ちません。
なお、ショートステイは定期的に利用しておかないと、緊急時に対応してもらえないので、その訓練も兼ねています。
緊急時ってのは、俺に何かあった時が最大。そのほか、どうしても外せない義理のときとか、高校生の頃に心を救ってくれた声優さんがx年ぶりにコンサートするとか、そういうときね。
災害のときとか、色々なときに泊まりで預けられるようにしておかないと詰む。
それでも愚痴を言いたいときあるよね。そういうときは増田で愚痴りましょう。
増田なら💩💩🎠🦌とか書いても誰も何も言わないし、きゃっきゃしてりゃいいので。
そのための増田。まぁ、実践しているのだと思いってそこは安心しました。
まさにクソバイス
40歳になったところでなんとなく藤子Fの大長編ドラえもんを読み返したので感想を覚え書き。
ドルマンスタインが外道。恐竜ハンターが「人間狩りはやったことないでしょう」と誘ったときに乗っかってきた辺りで、ドラゴンボールの魔神ブウ編に出てきた混乱に乗じて人を撃ってた外道二人組の雰囲気があった。しかしその後、のび太たちにティラノサウルスをけしかけたとき、恐竜ハンターが止めようかと思った辺りでドルマンスタインは「こっちの方が見たくなった」と言う。いやあド外道。幽遊白書で垂金の賭けに乗っかってた B.B.C. のメンバーとかにいてもおかしくない。
ギラーミンが有能。ギラーミンが出てくるまではチンタラしてたガルタイト鉱業のやつらが一気に引き締まって動くのが面白い。序盤ではケチな嫌がらせしか出来なかった三下も的確に爆弾しかけたりして動きがよくなるのがいい。
まあ、コーヤコーヤ星のガルタイト鉱業の支部長?の奴があんまり仕事をすすめる気がない「ゆるくやって給料もらえればそれでいい」タイプだったんだろう。ギラーミンに「嫌がらせはやってるんだがなかなか進まず」みたいなことを言ってるけど結局嫌がらせしかしてないあたり向上心もない。のび太が来なくても遅かれ早かれ更迭されそう。
しずかちゃんが序盤から何度も「おふろに入りたい」と言うのが、終盤で先取り約束機をしずかちゃんが持っている伏線になっているのに今更気付いた。巧妙だ。
敵のダブランダーは軍部を掌握してクーデターで政権を簒奪したんだと思うが、民衆の支持が本当に全くない状態で軍事に全振りの総動員かけてる有様なのでそのうち政権崩壊しそう。「姫が残されているから」以外に正統性を持ってないから時間の問題だろう。
あとブルスス強すぎ。折れた木だけを武器にして何人もの兵士と戦って生還するのは普通にすごすぎる。
前半のキャンプが楽しい。子供のころに読んだときは前半ばっかり読み返してた記憶があり、同じ感想だった。
敵のポセイドンは海底火山の活動を攻撃と捉えて報復してるあたりポンコツだし、人間の生贄を要求するあたりはコンピュータのくせに呪術に傾倒していて狂ってるとしか思えない。アトランティスの技術者はなんでそんなAIプログラミングをしたのやら。
魔界に乗り込んで一回いけそうな所まで行くが撤退せざるを得なくなり、なんとか立て直して再侵攻でトドメを刺すという王道、「カリオストロの城」の形式。魔界に入ってからのファンタジー世界でありがちな罠をかいくぐるところが楽しい。
ボスのデマオンは登場時点でほとんど詰みの状況まで作り上げていて手強かった印象。メジューサの石化もドラミが助けてくれなければあの時点で勝利確定だったはず。魔界歴程とドラミがいなかったらやりようがなかっただろう。こういうほんの僅かな綻びから主人公に負かされる展開、ジョジョ4部の吉良吉影や6部のプッチ神父とかの歴代ラスボス戦に通じるなと思った。(強すぎる敵を負かそうとすると同じ感じになるだけなのかもしれないけど)
大魔境に引き続いての出木杉解説がある。なんか民明書房を思い出した。
戦車を宇宙に飛ばして無人機を撃墜するところがアツい。大抵の作品で宇宙で活躍するのは戦闘機や戦艦であるところ、履帯つき戦車を宇宙空間に飛ばして敵機を撃墜するのは他ではあまり見ないなと思ってニヤニヤしてしまった。
ギルモア将軍は「大統領を倒して皇帝になろうとしている」らしく、共和制やめて王政にするとかどんな体制転換だ、銀河英雄伝説のルドルフ大帝か? という気持ちになった。でも例によって軍部・・というか諜報機関と無人機の部隊しか押さえてなさそうで、大衆の支持が全くないのでどうせだめだろう。ドラコルルは諜報機関の長として有能な感じ。ドラコルルが頑張ってるからギルモア体制が維持できてるんじゃないかな。
ギルモア軍の総戦力80万に対してレジスタンスは100人ちょっとであり、レジスタンスは「民衆の蜂起に賭けて動く」と言っていて「いやーそれはいくらなんでも無理では」と読んでて思った。しかしギルモアが劇中で動かしていたのは諜報機関と無人機だけ。総戦力80万のうち多くを占めるであろう有人戦力を全員動員するなんて出来ない、無理だろうという読みがレジスタンス側にあったのかも。
ミクロスが妙に人間味があってカワイイ。言いたい放題言ってくれるので全員シリアスな中での息抜きになってる。
今見るとリルルが神話を語る場面が印象深い。リルルが神話と同じ信念で来てるんだったらもう宗教戦争のような構図で、上官っぽいやつに何を言っても説得なんて不可能だろう。リルルが実質寝返ったのは・・リルルは現地に先に潜入して拠点確保など工作をする目的で作られているだろうから、現地で自然に振る舞うために現地人の感情などを理解する仕組みが組み込まれているのでは? など考察してみる。
あと森を焼くシーン、戦況が絶望的すぎてつらくなる。
世界観の謎解きがメインで明確な敵が居ないという新しい形式のオチ。でも風雲ドラえもん城とか隕石落下とかスペクタクルがあるし、スッキリまとまるので読んでて楽しい。
冒頭の自分だけの国をつくるところ、時代の歴史要素、時空乱流あたりのオカルト、ペガとドラコとグリという厨二かつペットとの別れという感涙シーン、中盤の大冒険、終盤の追い詰められてからの大逆転、と盛りだくさんですごい。
「ツキの月」のところがやっぱり面白い。大長編補正をそのまま正当化するすごい道具。子供のときはこんなんいいのか?って思ったけど今読み直すと結局こういうのが見たいんだよなあ、と思ってしまう。
終盤、戦ったことのない動物たちを陣地と作戦で戦力にするところ、子供のときはスルーしていたが、今見るとヒストリエとかドリフターズとか思い出すアツいシーンだと思う。
中盤の砂漠を彷徨うところやしずかちゃんの境遇が、これまでのどの大長編よりもヤバくて一手間違えると死にそうでハラハラする。シンドバッドが現れてからは、実質主人公がシンドバッドなのでは?と思うほど活躍するし、シンドバッドがのび太一行に諭されるところも名シーンと思う。おっさんが往年の生気を取り戻す話なのかも。
あと、序盤のアラビアンナイトと現実とが交錯する点を探すところ、子供のころはなんとなく見てたけど巧妙な構成だなあと感じた。
「竜の騎士」の行き違い展開や「アニマル惑星」のエコロジー思想を盛り込みつつも違う印象になっている。
中盤、かなり長い間のび太一人だけの逃避行になっていて、前作と同じくらいワンミス即死の展開をやっていて辛い。その後ドラえもんが復帰してもずっと緊迫感がある。
終盤の雲もどしガスで脅しをかけるところ、子供の時には「そんな物騒な・・対話でなんとかできないの?」など思っていたが、今読み返すと連邦最高議会での討論がとんだお気持ち表明大会になっていて、「地上人の意見も聞こう」と言いつつスネ夫やしずかちゃんを「証拠を出せ」と詰める感じになってて、あんな場で言い合いするくらいなら武力に訴えるわな・・とも思った。雲もどしガスを撃っちゃったからこそドラえもんの特攻が説得力を持ったような気もするし。
ナポギストラーの反乱について、「発明するのもめんどくさくなっちゃって、発明ロボットナポギストラー博士を作った」という説明がある。これが通ると言うことはナポギストラーの発想や発明品は流通させちゃうということで、もう倫理観や知性もナポギストラーに丸投げしちゃっている。そこまで投げたらそりゃあ反乱されるよね、という気がした。
作中では人間の身体が弱ることだけ言及されていたが、もうちょっと反乱待って数年やってたら知性も劣化しそうだし、そうなってからナポギストラーが「幸せになれる薬を発明しました」とかやったらそのまま征服完了しそう。
ドラえもんが焼かれてから復活するまでずっと読んでて辛い。前作・前々作に続いての中盤辛い系なので子供の時にあまり読み返さなかったのかも。
個々のエピソード・・伝説の武器の回収、ドラゴンとの戦い、敵の将軍との戦いあたりは王道でかっこいい。ダイの大冒険とかロトの紋章とか読んでたときの気持ちになる。だけど、やっぱり最後の打ち切りエンドのような話のまとめ方が気になる。ジャイアンもスネ夫も呼べなかったし。大長編の連載スケジュールから言ってケツが決まってたから仕方ないんだろうけど。
妖霊大帝がトリホーを連れて夜襲をかけるところ、ダイの大冒険でハドラーがザボエラを連れてバラン戦直後の一行に夜襲をかけるところを思い出した。
明確な敵がおらず、「竜の騎士」や「雲の王国」のように対話エンドなせいか、子供のときは特に終盤なんだかよく分からないうちに終わった印象だった。
今見ると個々のエピソードは面白いし、しずかちゃんがダイジェストで語ったこともページがあれば描かれてたんだろうな、とか思う。「T・P・ぼん」とかでやりたいネタがたくさんあったんだろうなと感じた。
王道展開をやりつつ、「禁断の星」とか「忍法壁抜け」とかの伏線回収も忘れない、とても整った作品。あとがきで藤子F本人が言及している通り、まさに集大成。
ハテノハテ星群の「鉱業で栄えたが衰退、土地だけはあるのでテーマパーク建設」というの、思い浮かぶ地名がいくつもある。
子供のときは、敵がしょぼい、小便小僧は結構すき、くらいの印象だった。あと透明ペンキを出すコマでドラえもんがポーズを決めてるのが子供ながらに違和感があって、「あーもう作者交代したんだ・・」という気持ちになったのを覚えている。
今見ると、藤子Fの遺作となったのもあって、どうしても制作背景が気になってしまう。あらかじめ話の概要を伝えてあったり、絵を任せる比率を増やしていたり、 Wikipedia に載ってる「種をまく者=藤子F本人」説があったり、その種をまく者の行動が自分が問題解決するのではなくのび太たちに託す形だったり、後に伝えることをとても意識してたのかなあ、と思わされた。
冗談は置いといて。肌の健康を保つのに本当に必要な成分は、タンパク質、脂質、炭水化物だ。何がセラミドだ!アラミドもピラミッドもない!グリセルグリシンもグリセルブランドもない!何が祝福されし完成だ!顔を洗って(※保湿も忘れずに)出直してこい!
頭文字をとってPFCと呼ばれるこの3つの栄養素をバランスよく摂取しようとなったとき、どのバランスが「良い」のかがあまり知られていない。やっていくぞ。
まずは自分が1日にどれだけのエネルギーを消費しているかを知る。ググればいくらでも計算式は落ちてるが、まあ参考値だ。このくらい食べたら体重増えた減ったで総量は調整していけばいい。まずは概算で始めてみよう。
タンパク質と炭水化物は4kcal/g、脂質9kcal/gくらいは義務教育でやったよな?これ使って総カロリーに対して接種割合を決めていく。
ウェイトトレーニングとか継続的にスポーツやってる人は別として、タンパク質はカロリー全体の13-20%取るのが望ましい。ざっくりやるなら、体重からキロを取ったくらいのタンパク質が最低限必要。体重70kgとして70gみたいに。さらにざっくり、鶏むね肉1枚300gと卵1個食えば摂れる位の量だなって考えよう。70×4で280kcal、14%。
次に脂質、20-30%。これもざっくり体重分のgを限度として概算可能。肌の健康が目的なので、減らしすぎない方が良いが、普通の食い物を気にしない生活してたら脂質は足りないことはないので置いておく。出来れば良質な油を摂ってくれ。70×9で540kcal、27%。
残りを炭水化物。米食え。1180kcal、ざっくり300g、米だけで2合食っても実は良い。まあ他に砂糖とか含むもの食うから糖質過多になるんですけども。
ざっくりでこんなもん。
さて、一日分ざっくり計算したけど、実践できないよ。ラーメン食ったら崩壊だ。だから3日と、2週間で総量を見よう。飲み会の予定があるなら前後の日を節制したり。で、2週間の総量で上の式を逸脱していないことが大事。さらに言えば多少逸脱してても意識して続けることがもっと大事。
あと、糖質制限狂とか白米だの砂糖だのは駄目で玄米はOKみたいな「カロリーの質」論とかあるけど、PFCバランスを計算できない、しない栄養論は全てクソ以下なので一旦無視してよい。GI値とかも一旦置いとけ。
まあこれで終わりなんだけど、実践ムズイから最高のレシピあげるよ。
オリーブオイル大さじ2
玉ねぎ1個
キノコ類 好きなのをいっぱい
人参 いっぱい
スパイスの類 適量
塩の類 適量
鶏むねかもも 皮なし 3枚くらい
玉ねぎニンニクトマト炒めて水分飛ばして、デカ鍋に材料全部一口大に切って入れて1時間煮込むだけ。水はキノコ人参鶏肉からもいっぱい出るからこげつかない量だけ入れる。ほかに好きな野菜入れてよし。スパイスカレーにしても良し。入れずにトマトポトフにしてもよし。油をゴマ油にして味噌味にしてもうまい。味付けがシンプルならモモ肉がいい、出汁が出るので。これを基本として好きなアレンジしよう。
これの良いところは、タンパク質十分で脂質控えめで食いでがある、食材を1単位全部使うので無駄がない、色々入れていいのでミクロ栄養素も調整できる、味付けは好みにできる、炊飯器とか電気鍋あるなら炒めだけフライパンでやってピで簡単。
amazonで少し前に買ったものがちょっと見過ごせないレベルで値下げしてた。未開封だったんで返品してまた書い直した。
一度来たものを送り返して、再び同じものが送られてくる事でおれがちょっと得をする。非常に無駄な手続きだと思う。こんな事してるから輸送インフラがカツカツになるんだろうな。
これだったらもうネット上のボタン一押しで差額分くれたら良いのにねって思う。それだけ聞けば理不尽クレーマーめいてるけど、結局一手間かける事でそれが可能なんだから。
まあAmazon側としては客がそれを面倒臭がったり、ケチ臭いみたいなプライドから発想を持たない、実行に移さない事に期待してその一手間を挟んでるのかもしれんけど。
にしたって対応に期限を設けるだとか、サブスク解約よろしく手続きのページを分かり辛い場所に置くとか、やりようはありそうなのに。
勿体ないじゃんね。「無」の輸送をするの。
Amazonも商売だから値下げ分取り返す手続きのハードルを高くしたい。おれも金は無限に持ってないから得できるなら得したい。結局無駄な輸送エネルギーが費やされる。
イクメンパパによる育児語りが雨後の筍のごとくニョキニョキしてる最近の増田。
でもさー、みーんな育児の話はしてるけどさー、男性としては「それであなた、出世はしましたか?」みたいな話も気になるじゃん。気にならない?そのへんどうなのって。
男性としてはって言っちゃったけど、別に男性に限らずだけどね。大黒柱が育児にコミットしたときの、キャリアの継続性はどうなりましたか?って話。
いや別に出世にはこだわらないし、というのは個々人のミクロな話であれば、全然構わないんだけどさ。
社会全体として、育児は妻と祖父母に任せる、自分はバリバリ働く、妻もそれで納得している、という男と、イクメンとで、キャリアに差がついてしまったらとても残念だよね(偉い人たち、裁量権のある人たちが非イクメンで固まる、そのようにならなければ出世できないとなる)。
超絶ホワイト企業やフリーランスのリモートワーカーの話もいいけど、普通のサラリーマンがイクメンやったときのキャリアの話も聞いてみたいよ。
論争のまとめ、ありがたいです。おかげで自分なりに理解ができました。
文系学問(特に文学や社会学)においてありがちな、世の中の傾向や潮流を仮構して、ミクロな作品や人間を論じるスタンスは、使い方を間違えると、色々なことを損なう。その作品や人間がもつ、複雑さや豊かさが捨象されるし、俗流に応用されれば簡単に差別につながる。「この時代に生まれた人間は●●である」と決めつける世代論などを見ればわかりやすい。もちろん社会を論じるなら、そういう傾向を仮定して話を進めざるを得ないが、学者でもない人間が個々の作品や人間を評価するのであれば、マクロ的な枠組みでは拾えない面白さや豊かさにも目を向けるべきだろう。
これは本当にそう。
「中世の秋」を思い出しました。「暗黒時代」というレッテルをはられた中世をその時代に生きた人々の視線から問い直したホイジンガの論考。
太田出版のWebマガジンにおける北村紗衣氏の連載に対して、須藤にわか氏という映画ブロガーが異議を唱え、それに対して北村紗衣が反論してホッテントリ入りしている。
私は須藤にわか氏のように映画を多く見ているわけではないし、北村紗衣氏のように多数の先行研究に実際にあたったわけではないが、発端となった連載と二人のやり取りをみて、話の主眼がずれていると感じた。同時に、二人とも結局、「ニュー・ハリウッド」という批評の枠組みに問題があることを浮き彫りにしているとも思った。
映画を見た後に「なんかよかった」「つまらなかった」という感想しか思い浮かばない人のために、フェミニスト批評家・北村紗衣さんが、初めて見る映画の感想を話しながら注目してほしいポイントを紹介する連載
①初めて見た『ダーティハリー』はサスペンスとして全然面白くなかった
②自分はアメリカン・ニュー・シネマが好きではない
③60年代後半から70年代に、アメリカン・ニュー・シネマ(英語ではニュー・ハリウッド)という潮流があった
④ニュー・ハリウッドは反体制的な要素と、あからさまな暴力やセックス表現が主な特徴として挙げられる
⑤アメリカン・ニュー・シネマはかなり男性中心的な潮流
北村紗衣氏の素朴な感想は、末尾にある「名作と言われてみんなに愛されている作品でも今見て面白くなかったらけなしていい!」と結びつくが、③~⑥の知識を持っていると『「なんかよかった」「つまらなかった」という感想しか思い浮かばない人』でも理解が深まる、というのがこの連載の趣旨とみえる。
①「あからさまな暴力やセックス表現が主な特徴」という認識は実際のアメリカン・ニューシネマからズレている
②アメリカン・ニューシネマはフィルム・ノワールと同様に映画批評家らによって作られた映画分類のカテゴリー
③アメリカン・ニューシネマは「ヌーベルヴァーグ」や「ドグマ’95」のような映画運動ではない
④「アメリカン・ニューシネマ」と「ニュー・ハリウッド」は分けて考える
⑥「ニュー・ハリウッド」もしくは「アメリカン・ニューシネマ」というカテゴリーは(白人の)批評のために作られた作為的なカテゴリー
⑦「アメリカン・ニューシネマ」もしくは「ニュー・ハリウッド」が差別的に見えるとすれば、それはそもそも批評的カテゴリー自体が差別的
須藤にわか氏の異議に対する北村氏の反論は、目次にわかりやすくまとまっている
①New Hollywoodの特徴のひとつにセックスと暴力があげられるのは当たり前
②New Hollywoodが男性中心的であるということは1970年代からずーっと言われている
例の著者は自分で決めた「これがニューシネマ」というカテゴリーを自分で見て「このカテゴリーには黒人映画や女性主人公の映画が入ってないから差別的」だと言っている
と述べているが、これは明らかに違っていて、
北村氏がいうように、
決めたのは私じゃなくて今までの批評家
つまり、北村氏は一般的な「New Hollywood」解釈を述べているだけなのだ。
ただし、須藤にわか氏が本当に主張したいところは上記にあるのではなく、「New Hollywood」というカテゴライズそのものに反発している。
北村氏は出典をたくさん挙げているが、須藤にわか氏の主張である「そもそも『ニュー・ハリウッド』が作為的なカテゴリー」への反証ではない。須藤氏のいう北村氏本人への批判、「知ったかぶりして、しかも知ったかぶりした上でこれは差別的だとかなんとか非難」への反証である。
(「たくさんの出典があってすごい!」的なブコメの反応は、ただマウント取りたいだけのリアクションに見える)
「ニュー・ハリウッド」もしくは「アメリカン・ニューシネマ」というカテゴリーが(白人の)批評のために作られた作為的なカテゴリーであることを度外視した上でそれを非難している。
と言っており、
北村氏は
という。ここは互いに噛みついていながら二人とも同じことを言っているように見えて混乱したが、批判対象の範囲が違うようだ。
須藤にわか氏はそもそも、「ニュー・ハリウッド」というカテゴリーそのものが、当時の映画作品群を評価するのに適切ではないと主張している。一方の北村氏がいう「批判されて当然」の対象は、須藤氏と同様にカテゴリーそのものであると同時に、カテゴリーに含まれる作品群も含まれると私は解釈した。
須藤にわか氏の論で一番重要なのは、元の北村紗衣氏の連載にあった以下の部分への反論ではないだろうか。
60年代後半から70年代の潮流であるニュー・シネマは、それ以前にあったいろいろな制約が外れ、暴力やセックス描写ができるようになり、そしてアメリカの秩序を問うような映画がたくさん作られた時代です。
これに対して須藤氏は、
だいたいニューシネマは映画運動ではないのだから「問い直していない」って誰に対して言っているんだろうか?運動の実態がないものに運動の責任を問うたところで、まるで意味がないと思うのだが。
「アメリカン・ニューシネマ」もしくは「ニュー・ハリウッド」が差別的に見えるとすれば、それはそもそもそうした批評的カテゴリー自体が差別的
この点、北村氏も、
>>New Hollywoodを決定づける作家主義的な監督の大半が白人男性であり、白人男性を主人公にした物語が代表作として受容され、研究も白人男性の監督だけを対象としてきたことはいたるところで指摘されています<<
と述べているように、「ニューシネマ」というカテゴリーそのものに問題があることは認識しているように見える。
つまり、二人とも、「ニュー・ハリウッド」というカテゴライズに問題があるという点では、共通の認識がある。そのうえで、北村氏は、「須藤氏のニューシネマ解釈は一般的ではないから、私を嘘つき呼ばわりするのではなく、自分で論を立ててね」としている。
しかし、「ニューシネマ」というカテゴリーそのものに問題があるなら、北村氏の連載における「『ダーティハリー』はニュー・シネマの影響下にある警察映画」という紹介の仕方も、「ニュー・シネマが男性中心的だ」というのも、安易に見える。元の連載において、ミステリ・サスペンス的にいまいちという北村氏の感想にはうなずけるが、「ニュー・シネマ」という潮流の紹介は片手落ちで、「研究も白人男性の監督だけを対象としてきた」ことも含めて紹介すべきだったのではないだろうか。
なお、北村氏のいう「問い直してない」というのは文系学問によくあるレトリックで、須藤にわか氏の「運動の実態がないものに運動の責任を問う」ているように見えるというのは、本質を突いていると感じた。
『ダーティハリー』含む「ニュー・シネマ」と呼ばれる作品群は、「男性・白人中心主義」的であることを「問い直せていない」からダメな作品だという、作品ファンが反発を覚えるのも無理はないだろう素人批評を容易に生み出す。(なお、これは北村氏の主張ではない。北村氏はあくまでニュー・シネマが好きではないだけだ)
文系学問(特に文学や社会学)においてありがちな、世の中の傾向や潮流を仮構して、ミクロな作品や人間を論じるスタンスは、使い方を間違えると、色々なことを損なう。その作品や人間がもつ、複雑さや豊かさが捨象されるし、俗流に応用されれば簡単に差別につながる。「この時代に生まれた人間は●●である」と決めつける世代論などを見ればわかりやすい。もちろん社会を論じるなら、そういう傾向を仮定して話を進めざるを得ないが、学者でもない人間が個々の作品や人間を評価するのであれば、マクロ的な枠組みでは拾えない面白さや豊かさにも目を向けるべきだろう。
少なくとも発端となった連載は素人が映画をより深く鑑賞する視点を提供するものだったはずだ。北村紗衣氏の視点と須藤にわか氏の視点を踏まえて、もっと映画を楽しみ人生を豊かにしたり、世の中を考え直すきっかけを得たりするのが、私のような素人にとってはいいのではないだろうか。
たとえば北村紗衣氏がいうように、
というところが、「ダーティ・ハリー」を考える上でおもしろそうな部分で、北村紗衣氏は第一印象がつまらなかったため深堀りすることはないだろうが、「ダーティ・ハリー」をこれから見て逆に「面白い!」と感じた場合には、ハリーを起点に「ニューシネマの影響下に本当にあるのか」などを考えるとまたおもしろそうだ。
そういう自分の知らないものとたくさん出会えるのがニューシネマの面白さで、あえて一時代のアメリカ映画をニューシネマとして括る意味があるとすれば、それはその作品群がこうした「新しさ」を観客に与えてくれるから
ということを踏まえて、様々な作品に触れれば見えてくるものもあるだろう。
serio フェミニストはありとあらゆる事象をフェミニスト的視点から語ってしまうので、たまにホームランを打つことがあっても、バットでキャッチャーを殴って三塁に走り出すみたいな大外しをすることがよくある。
→元連載は「フェミニスト批評家・北村紗衣さんが、初めて見る映画の感想を話しながら注目してほしいポイントを紹介する連載」なので、北村紗衣氏が好きに「ありとあらゆる事象をフェミニスト的視点から語ってしまう」わけではなく、そういう企画趣旨に基づいて仕事としてやっている
hazlitt アメリカン・ニューシネマってカテゴリーとして昔からよくわからんなとは思っている。わりとどうでもいいが野次馬的には町山某が反応すべき話題だな
→「わりとどうでもいい」と保険かけながら野次馬根性をさらけ出しているのがキモい
jassmaz 文学理論や批評理論を知らないオタクの見当はずれな批判。この時代にアメリカの価値観を完膚なきまでに破壊したことは十二分に暴力的である。87年出版のアラン・ブルーム『アメリカン・マインドの終焉』を読もう。
→「この時代にアメリカの価値観を完膚なきまでに破壊したことは十二分に暴力的」北村紗衣氏も須藤にわか氏も言っていない新たな論点。見当はずれはこのブコメでは
tokuniimihanai あちらの記事は批判相手の職業を間違えている時点で無知あるいは礼儀知らずなので読む価値がないと判断したが、やはり読まなくてよかったな。引用部分だけでも論外とわかる
takeda25 こういうの、詳しくなければとりあえず態度を保留するのが賢明なはずだけど(現にこちらのブコメはそういうのが多い)、女性叩き側のブコメでは調子に乗って叩く人間が大量発生するのが歪み
→態度を保留するって、どういう立場?後出しジャンケンに勝ちたいだけの姿勢が見えてキモい
ponkotsupon 須藤氏の批判記事は出典やら参考文献やら先行批評への言及が何もなかったのに対し、北村氏は複数の出典と研究史を出してるので、学術的には(須藤氏が再反論で論拠となる文献を示せなければ)これで勝負ありよなぁ
→そもそも商業媒体とブログの応酬で、学術的な議論ではない。かつ、出典と研究史さえ出せば「勝ち」というのは学術的でもないだろう。
二人に対するクソブコメの数々は
権威主義的で映画そのものにも映画史にも興味がなく、自分では頭を使わずに他人が貶されるのを娯楽として消費するだけを生きがいとする、野次馬根性と異常マウント欲、ハエ以下の精神性で駆動する人工低能群