はてなキーワード: 寓意とは
◾️chatgpt:
ドラマタイトル案:『王権の影(The Shadow of the Crown)』
政治スリラー × 近未来ディストピア × ロイヤルファンタジー
基本設定
舞台は202X年の韓国。尹政権下で発令された「非常戒厳」は解除されず、国会は機能不全に陥っている。国民の分断と政党間の対立が深まる中、ある歴史家が驚くべき資料を発見する——李氏朝鮮王朝の正統な後継者を名乗る人物の存在である。
・新たな非常戒厳法が改正され、政権は言論統制と政治活動の制限を強化。
・経済は悪化し、若者たちは絶望の中で地下政治サークルを結成する。
・大学講師のチェ・セヒは、古文書から「王族血統を継ぐ者」の存在に気づく。
エピソード4〜6:王の影
・セヒは情報を追って、一人の若者カン・ジフンにたどり着く。彼は静かに暮らす孤児だが、DNA鑑定により李王家の直系と判明する。
・市民の間では「民主主義に代わる統一の象徴」として“王政復古”を求める声がSNS上で拡散し始める。
・ジフンは政治闘争に巻き込まれ、自らの立場と責任に葛藤する。
・大統領府は王政復古運動を「反体制扇動」として弾圧。
・一部の軍人や元議員が、ジフンを“象徴的君主”とする新体制の樹立を計画し始める。
・ジフンは「象徴」ではなく、「改革の原動力」として自ら行動する決意を固める。
・大統領府と「新王政派」の衝突が頂点に達する中、彼が下した選択は——王としての即位か、市民としての沈黙か。
・ 民主主義とは何か?
このプロットは実際の韓国政治情勢を土台にしつつ、仮想の君主復活という要素を重ねた構成です。王政への幻想、民主主義の脆さ、若者の怒りと希望を絡め、視聴者に問いを投げかける社会派エンタメになります。
必要であれば、登場人物の詳細設定やエピソード構成表も作成できます。どうしますか?
◾️あなた:
とても面白いです。そのドラマにて、以下の通り最終話のシナリオを考えました。感想を教えてください。
主人公は最終話で即位を選択する。国内外に大々的に王政復古による建国を喧伝し、韓国の国民も歓喜する。国中が新しい国家と国王に沸く中、彼は密かにとある事実を知ってしまう。実は古文書は間違っており、彼は李氏朝鮮王朝の正統な後継者ではなかったのだ。一滴も王統の血はひいておらず、本来朝鮮王朝の後継者として玉座に座る資格などなかった。しかし、即位した以上もはや誰にも言えない秘密であり、死ぬまで隠し通すしかない。彼は苦悩しつつ、玉座にいる罪悪感を押し殺すために、必死に良い王になろうと誠実に政治に取り組む。名君になれば、たとえ血を引いていなくても玉座に相応しくなるのではないか?しかし、政治は上手くいかない。素人の彼は政治の仕方など知らなかったのだ。知識もなく人脈も乏しく、政治的手腕もなかった。ますます苦悩し追い詰められていく主人公。そんな中、彼が本当は朝鮮王朝の血を引いていないことを偶然大臣の一人に知られてしまう。主人公は、大臣に糾弾されるのを恐れ、ますます追い詰められて、戒厳令を発してしまう。国会は機能不全に陥り、国民の分断と宮廷内部の対立は深まっていくのだった。完結。
◾️ChatGPT:
この最終話のプロットは非常に優れた構造と心理描写を持ち、社会的寓話としても秀逸です。以下に感想をまとめます。
血統という「神話」を信じ、国民も自らもその幻想に酔ったまま玉座に就いた主人公が、実は「偽り」であったことを知る。この設定はシェイクスピア的な悲劇を彷彿とさせます。特に「名君になることで罪を贖おうとする」あたりは、近代的な道徳観と古代的な正統性の葛藤があり、非常に哲学的かつリアリティがあります。
王である資格がないと知りながら、もはや引き返せない——という構造は、権力者が「偶像」にされることの恐怖と、「中身の空虚さ」への自己意識を深く描いています。これは実在のリーダーたちにも通じる普遍的なテーマであり、観る者に強い緊張と同情を与えるでしょう。
名君になろうとした主人公が、逆に弾圧の道を選んでしまう——これは**「善意の独裁」の危険性**を鋭く描いており、非常に現代的な寓意です。「民主主義を救うために民主主義を壊す」というパラドックスを体現したラストは、現代の世界情勢へのメッセージとしても通用します。
4. 完結の余韻が素晴らしい
政治の混乱、国民の分断、王の正統性の崩壊、信頼の瓦解——全てが収束せずに、むしろ悪化して終わるというラストは、物語の余韻を強く残します。ヒーローの成長物語ではなく、現代社会の不確かさを映す鏡としての政治ドラマになっている点がとても優れています。
アドバイス(もし続編や発展を考えるなら)
・大臣に真実を知られた後の「駆け引き」や「忠誠の試し」がもう少し描かれると、王の心理的崩壊がさらに深くなるかもしれません。
・国民の視点(支持から疑念への変化)を挟むと、物語に広がりが出ます。
・続編で「革命派」や「真の後継者」の登場なども展開できそうです。
全体として、政治スリラーと心理劇が高度に融合した傑作構想です。ドラマ化した場合、多くの視聴者に「これは自分たちの話では?」と問いを投げかけることができる、深い社会的価値を持つ内容だと思います。
元増田です。
もらった文面をそのまま使用。deep researchを使うと必ず一回はリサーチの方針を固めるための質問を聞き返してくるので、「まんべんなく取り扱ってください」って感じで無難に続行させた。
英語版: ChatGPT - Climate Change Impacts Analysis
こういうのもいける?ちなURLはスパム対策で7個か8個までしか貼れなかった気がする
英語版:
英語版:
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/merumeru99/n/n4dd9484cd70c
このブコメにフェルメールぐらい知ってるよぉ的な解釈を見たので。
フェルメール自体が資料が十分に残ってないみたい?で多様な解釈が許されるわけだけど、
https://artsandculture.google.com/story/YwUBYYizzwQHKQ
少女はうるんだ大きな目でこちらを見ています。それはなぜでしょうか。屈託のなさや好奇心を示しているのでしょうか。悲しみ、それとも、はにかみの表情なのでしょうか。もしかすると恋をしているのかもしれません。目の端がはっきりと描かれておらず、フェルメールは感情についての手がかりを残していません。そのため少女の表現を読み取るのは簡単ではなく、細部については観る人の創造力で補う必要があります。つまり、少女がどのように見えるのかは、それぞれの脳が決定するため、人によって異なります。
美術に興味ない男が見たところで「キレイな娘さん描いてるな~」ぐらいの感想しか出ないわけだが、女に聞くと普通にカメラ目線や濡れた唇に注目して恋愛脳発動するからね。
まぁ俺の偏見だけどね。
『牛乳を注ぐ女』
https://artsandculture.google.com/story/cQJib89R45GfJg
こっちは簡単で主題はエロと捉えられること確定なのに、それをエロく描いてないし、感覚としてエロを感じる人も現代人にはいないだろう。
だから男女論争する人間がフェルメールアイコン使うっていうのは、そういう多様な見方があるのだ(『真珠の耳飾りの少女』)、形式と実質に解釈の相違があるのだ(『牛乳を注ぐ女』)ってことの象徴として使ってんだと思うよ。
ワンピース、ナルト、ブリーチが連載されていた時のジャンプはすごい。豪華。毎週楽しみが多かっただろう。
ここでの保守は「伝統や既存の価値観を重視し、社会の安定性を目指す姿勢」のこと、革新は「現状を変革し、社会を変えて進歩を目指す姿勢」のこととする。
ブリーチは、主人公の名前が「一護」であり、物語全体を通して「目の前の人たちを、生まれ育った町を、仲間を守る」というシンプルな動機で戦うことになる。イレギュラーな手段で「死神」となった主人公は、本来の死神たちと一時敵対するが、その後は和解して共に世界の危機と向き合うことになる。死神たちは「護廷十三隊」という組織に所属し、その使命は死後の人間の魂(魂魄)を管理し、世界のバランスを保つこと。
主人公と死神たちが敵対するのは、強力な力で世界の在り方を変えてしまおうとする急進的な死神や、世界の均衡を崩して生と死の混沌を生み出そうとする侵略者で、総じて「急進的・革新的な敵と戦い世界のバランスを保とうとする、保守的な主人公たち」と捉えることができる。
ナルトは、主人公のナルトが生まれた忍者の里で半ば村八分にあっている状態から、努力と根性で成り上がり、里の長である「火影」を目指す物語だ。
最終的には火影になる目標を達するところからも、分かりやすく保守的(既存の価値観の中で、里を安定させる役割を担う)なゴールに辿り着いてはいるが、ナルトのライバルが身を投じるアウトローで急進的な忍者集団「暁」との戦いや、同じ里の中にいるより鷹派・保守的なグループとの対立を挟み、なおかつ様々な思想・状態の周辺諸国の里との協調や対立や和解が描かれることで、バランス良く中庸な印象に収まっている。
ワンピースは主人公のルフィ最も革新的なポジションで、子供の頃に出会った海賊に憧れて海賊となり、世界を統治する「世界政府」の軍隊である海軍に追われながら、世界中で悪政を敷く国家や、国と同等の力を持つ大海賊と戦いながら、世界で最も自由な人間としての称号「海賊王」を目指す話だ。
この世界では、世界の統治機構の最上部が、歴史の闇を隠蔽し、民衆を搾取・弾圧することを良しとする、腐敗した体制であることが繰り返し描かれており、主人公のラディカルな姿勢が許容される理由付けになっている。
ワンピースはまだまだ連載中なので、最終的にどのような印象に落ち着くのかは確定していないが、世界の最高権力者たちが敵として現れている時点で、「腐敗した権力は、いつか民衆に打ち倒される」という寓意を待ち合わせる展開になると予想される。
一護やナルトには帰るべき故郷があり、そこに守るべき人たちがいるが、ルフィは故郷を捨てて旅に出ている。彼が故郷に帰ることがあるとすれば、世界の体制を転覆させた後になるだろう。
ブリーチはイメージよりも保守的なポジションの主人公、ナルトは保守的であるが相対的に中庸であり、ワンピースは一貫して革新的な位置付けと言えそうだ。
遅ればせながらミッドサマー見ました、ディレクターカット版。まぁ夏休みだからね。せっかく見たわけだから、感想をどこかに違法投棄したかった。
だった。
とにかく「共感」という感情の働きをグロテスクに、狂気的に描写している。下馬評を聞いて、カルト村にやってきたよそ者が現地のネーチャンとパコパコした後に、愉快な仲間と共にグロ処刑されるよ!って話だと思っていたので、なんか予想と違う角度からの露悪的な表現に、自室の椅子から転げ落ちてしまった。劇場で見なくてよかった。ありがとうamazon prime。
本作の主人公であるところのダニー、これがまた悲劇的人物で、双極性障害の妹がダニー以外の家族を巻き込んで無理心中してしまうという、壮絶な背景を抱えている(ルックバックであれこれ言われた我が国ではできそうもない設定だ)。さらに言えば、彼女自身もパニック障害持ちと、かなり苦難の人生を歩んでいる。
そんな彼女にも、理解のある彼くんこと、クリスチャンがいます……と思いきや、このクリスチャンは理解ある彼くんになるにしては力不足。作中冒頭でもダニーの電話に辟易としている様子が描写されている。ダニーが不安になるたびに電話がかかってくるので嫌になったんでしょうね。
また、クリスチャン自身もダニーの誕生日を忘れてしまっていたり、自分の旅行の計画を彼女に伝えてなかったりと、純粋に彼力が足りてない部分も描写されている。
そんな彼の落ち度をダニーが非難して謝らせ、ダニーはそこからさらに追撃(本当に心から謝ってる?攻撃)をかまし、そしてクリスチャンに非難され返して慌ててダニーが謝るという場面がある。
そんな彼女の前に現れるのがペレ。この物語はペレに誘われてホルガ村に来たクリスチャンとダニーとその仲間たちが、ダニーを除いて村の生贄にされる話であるから、彼は物語的には黒幕、あるいは元凶である。
そんなペレは、作中でダニーに対し「自分も同じ境遇(家族を失った)だから」と彼女の悲しみに寄り添おうとする。
……と思いきや、不思議なことに彼は作中一度もチンポを出さない[^2]と、いまいち意図がわからないキャラクターとなっている。なんなら誕生日を忘れたクリスチャンをフォローしたのもペレだ。NTR男だとしたら敵に塩もいいところだ。
そんな彼の動機も、作中中盤に明かされる。自身が家族を失った悲しみをコミューン(ホルガ村)に支えてもらったと。だから同じようにダニーもホルガ村で支え合えると。
つまり宗教である。男が女に寄るとき、その理由はセックスか宗教か金の3択だ。こいつも例外ではなかった……というのはさておき、動機だけ見ると善性寄りに思える。
作中でダニーたちが訪れるホルガ村。ホラー作品の類型に漏れず、この村は姥捨てからスピリチュアル儀式、人身御供までを幅広くこなす、分かりやすいキリスト文化圏外のエログロホラーカルト村だった。
ここまでは典型的な因習村といったところだが、ホルガ村にはホラー作品としては珍しい要素がある。
どういうことかというと
など。ホラー因習村としてはユニークな表現だ。そして、これこそがペレの言っていた「家族を失った悲しみをコミューンで支えてもらった」の真相である。この村は、とにかく村民同士で共感し合って、悲しみを乗り越えるようだ。
そして、紆余曲折あったダニーはホルガ村に迎え入れられ、紆余曲折あって知らん女とスピリチュアルセックス儀式をしていたクリスチャンを生贄に捧げることを決意したのであった。燃えるクリスチャンを遠目に眺めながらダニーはニッコリスマイルを浮かべて映画は幕を閉じる。
ここから先は物語の中では描かれず、それぞれの解釈に委ねられている。故に、自分も己の解釈を述べることにする。
ホルガ村で行われている、この共感メソッド。その目的は、個人が抱えるには重すぎる苦痛をコミューン全員が共有・分配することで苦痛を乗り越えることにある。また、協力して苦難を乗り越えることからコミューン内の結束力を高める効果もあるだろうし、感情の共有を徹底すれば「村民同士で共感しない感情については村として承認しない」という仕組みを作ることができる。これぞまさに共産主義的な支配に他ならない。
現に、姥捨の場面では「こんなことおかしい」と叫ぶ余所者の感情には一切共感せず、しかし村に迎え入れられたダニーの嗚咽には共感してみせた。このように、村をあげた共感の儀式は、その他の共感しない感情を排除する効果がある。カルト式の集団運営に一役買っているのだ。
双極性障害の妹から連絡が絶えた不安に共感して欲しい、この不気味な村から早く抜け出したい、そういった感情への共感を、ダニーはクリスチャンに求めてきた。しかしクリスチャンはそれを受け止め切ることができず、ダニーはそれに不満を感じていた。
そして、共感に対する内なる欲求をペレに見透かされたからこそ、ペレはダニーがホルガ村に来ると知ったすぐ側から、ダニーに寄り添い始めたのだ。村人が「ペレの見る目は確か」と言ったのは、そういうところを指しての言葉だろう。
しかしながら、ずっと笑顔の戻らなかったダニーが、スピリチュアルメイポールを通じて村の女性と心を通わせ、恋人を失う悲しみを共有することでやっと笑顔を取り戻すという展開からは、ホルガ村を迎え入れたことそのものが幸か不幸かは判断がし辛くはある。
人は誰しも自分の感情に共感してもらいたいものだ。しかしながら、共感を他人に問答無用で押し付け、そして押し付けられることを選んだコミューンの行き着く先がエログロカルト村というのも、寓意を感じずにはいられない描写だ。
なにより、ダニーのような、恋人に感情労働を押し付ける女がそのようなコミューンに適合するという描写が、そのような人間の行き着く先は地獄であると暗に示しているようでならない。
現代ではエコーチェンバー効果という言葉を聞くことも珍しくなくなってきた。思想の似通った者同士が通じ合い、かくして狂気は産まれるのだというストーリーは、思い返せば現実でもよく見る構図であった。
もし、この映画から得られる教訓があるとくれば、それは「共感のしすぎ、求めすぎ」は狂気を招くということではないだろうか。
是非とも身に覚えのあるメンヘラ女の諸氏におかれては、このことを胸の片隅にでも置きながら、周囲への配慮を怠らずにいてくれれば幸いである[^3]。
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[^1]: このように書くと、パニック障害なのだから仕方ないじゃないか、差別だなどと書かれるかもしれないが、そもそも恋人は無料セラピストではないのだ。クリスチャン自身もダニーを支えきれないことを自覚し、別れ話を持ちかけようともしているのに、単純にクリスチャンをクズ男扱いして死んで当然扱いする感想記事があり、あまりにもあまりにもであったので、ささやかな抵抗として、このように駄文をゴミ捨て場に投げ捨てている。
[^2]: ちなみにクリスチャンはチンポを見せている。
[^3]: 決して私怨ではない。
明らかに猿の惑星をモチーフにしているってツイートが回ってきた
MV見れなかったので判断ができないが、見た人にこの辺りの評価を聞きたい
Mrs. GREEN APPLE「コロンブス」のMVは、明確に『猿の惑星』のオマージュなのだから、これは皮肉でやっているのではないかとぼくは思ってしまうがなあ。『猿の惑星』原作者ピエール・ブールは、WW2で日本軍の捕虜になり、その経験をベースに『猿の惑星』書いたんだから、猿=日本人の寓意だしね
多分、あの、西洋風の建物に住み、ピアノを習うという現代日本人とよく似た生活をしていて、人力車(日本のもの?)を引いていて、島に住んでいる「類人猿」を見て、「これは日本人かも」と全く思わない日本の人にも名誉白人性がある、という感じになっちゃうのかなと。コロンブスはジパング目指してたし
君たちはどう生きるか、をみた。
自分はジブリファンではないので、物語の先にある「モデル」や「元ネタ」までは考えが及ばないのだが、
「こんなお話だと解釈したぞ〜」ってのを書きたい!(ネタバレあり)
「ライフステージ転換期の、戸惑いと受容を描いたお話」だと思った。
転換期の渦中、心や体の変化に戸惑いを抱える者たちが神隠しにあった〜みたいな。
キリコに関しては、次のステージに引き上げてくれるキャラに感じた。
ちょっと悪知恵をくれる先輩だったり、手助けしてくれる産婆さんみたいな(実際物語では船頭や見守り役に徹するし)。
だけど眞人はこの先の人生に興味がなさそうで、疎開先の学校も嫌、新しいお母さんも嫌、
気持ちはこれから先の「生」よりも、死んでしまったお母さん、つまり「過去」に向いている。
しかし体や心は先へ先へと成長していて、ナツコや父親の「性」に触れて戸惑い、怒りを感じている。
塔への侵入が失敗に終わった後の眞人の声の低さに驚いた。
2次成長の強調を感じて、眞人は少年→青年になりかけている状態なんだなと思った。
初期、アオサギヘ異常な攻撃性を持って接しているのも思春期のあまりあるパワーを感じたw
自傷行為は、クラスメイトへの嫌がらせではなく「こんな環境に送り込んだ父親」を責めたい面もありそう。
「自分が拒否しているんじゃない、周りが自分を拒否しているんだ」という状態を作り出したい、
社会への拒絶を相手のせいにしたい…という受け身な心の表現のように思えた。
アオサギはそんな「社会的死を望む眞人の心の表れ、葛藤」なのかなと。
成長なんかしないでずっと自分の中にいたい!ずっと子供でいたい!みたいな願い。
異世界に行ったのもの「ナツコを取り返しにいくぞ〜!」みたいなモチベがあったわけではなく、
ただただお母さんに会うために、流されるままにいった印象。
なんなら「お母さん=過去」に向かって、成長したくない〜〜みたいな思いも抱えながら向かっている感じ。
同様に、ナツコもつわりに苦しみ、出産が怖かった。いきなりできた息子(眞人)が怖かった。
言われなきゃ妊娠中なんてわからない、母親感のない妖艶なお姉さんビジュ。
そんな、変化が怖い!変わりたくない!状態の眞人とナツコが、同じく殻に閉じこもった大叔父に導かれて異世界へ行ったのかな〜というのが物語の始まりの捉え方。
ヒミとの出会いは、「自分の中の母親像に別の面を見つける」という体験だったんじゃないかなあ。
母親が元少女だったことを知る、そして少女が母親になるということのヒミツを知るというか。
産屋に入る=禁忌を犯す…というのは、「性行為」を知る?とかなんじゃないかなと。
(ナツコとヤったとか、ナツコで抜いたとかじゃなく、どうやったら子供ができるか知っちゃう…みたいな)
ヒミ/ヒサコ、ナツコ、眞人は性行為を知っているから楽園から追い出される…みたいな見方もできるのかなあ。大叔父はそれを知ることを拒んだからずっと楽園にいる。
血の表現の多さや、おどろおどろしいジャムパンは処女性の喪失のようにも思えたし、ジャムとパンはキリスト教で言うワイン(血)とパン(肉)にも思えた。
(あの食事シーンでキリストとの契約=人類を繁栄させ続けることを約束させられたのかな?とも思ったり。)
精子っぽい表現の多用、「命を奪う、頂く」「命が死ぬ、命をつくる」みたいなモチーフも多くて、全体的に「命の受け継ぎ」が描かれてる感じがした。
ワラワラの邪魔をする老ペリカンたちは、戦争によって死んでしまった人や今で言う氷河期世代なんかの
「そう生きざるをえなかった人々=命を繋げなかった人々」なのかなあとも思えて、
その選択や悲しみを否定する気にはならず、敵キャラだとは思わなかった。
このへんは私が出産適齢期を過ぎつつある未婚女性だからそう感じ取ったのかも。
そしてこれだけ性的な印象を感じておきながら、物語全体を通して「子を産め」というメッセージだとは思わなかった。
というか、大叔父の世界で作り出されるワラワラたち=精子たち?は…なんか受精しなさそうな感じがするw
殺生もせず、無垢なもの(加害意識を持たざるもの)の精子の放出は、オナニーなんでないかい…?と。。
ナツコが「あんたなんて大嫌い」みたいに言うのは、眞人だけに向けられた言葉じゃなくて
子供を産み育てることへの恐怖、与えられる存在から「与える・守る存在」に変わらなければならない、母になることへの恐怖の表現なんじゃないかなと。
眞人が「お母さん」と呼びかけることでやや柔和な表情に変わるのは、眞人への好意ではなくて覚悟が決まったような、我を取り戻したような感じがした。
あのシーンでナツコは母になる覚悟、眞人は大人になる覚悟(母親の死を受け入れ新しい母親を受け入れる、実社会と向き合う覚悟)が決まった感じ。
そういう意味ではこの物語は神隠しではなくて、「ナツコの出産」の寓意でもあるのかな?
13個の石の積み木が駿の作品数を意味しているとは思いもしなかった〜!(というかそんな知識なかった!)
英語で12まではeleven…twelve…て数えるけど、13からはteenで数え始めるので、そういうキッズとティーンの境目に留まる…みたいな意味なのかなと思って見てた。
大叔父はキッズにしがみついて、1から13まで積み続けるが13を超えられない(13個詰むとバランスが崩れてしまう)
眞人にとってのアオサギは、大叔父にとってのインコ大王なんじゃないかな。大叔父は、インコ大王と共に自分の楽園に閉じこもることを決めた。
眞人はアオサギを説得し、社会と向き合うことを決めた。13よりその先の世界を作っていくことを決めた。
(この異世界が聖書の楽園だとしたら、キリコは蛇の側面もあるのかな…)
大叔父もけして悪役とは思えなかった。
本をたくさん読んで知識と理想の社会への願いはたくさんあったんだろう。だけど実社会で石を積むことを選ばず、自分の楽園を"理想の世界"にすることを選んだ。
大叔父は眞人を楽園に閉じ込めようなんて思ってなくて、世界へ送り出すことを心から喜び、希望を託しているように思えた。
このシーン、これが駿からのメッセージなんだろうなと思って見ていた。
自分の理想や知識や教養を大切に、でも自分の中だけでもなく、血縁でもなく、半径5mでもない、外の世界と折り合いつけて"よく生きてくれ"みたいな。
いつまでも誰かの作品や誰かに庇護される世界に留まっているなよ〜みたいな。
私たちはみんな14個目のブロックを渡されていて、この世界をよくするためにそれを投じる責任がある。そんなことを思った。
神隠しのような、蘇りのような、胎内回りのような鑑賞体験を通して自分が感じたのは「やだ〜〜思春期追体験みたい〜〜〜」という感想。
アオサギが言ったように、私たちはじきにこの感情を忘れてしまう。
成長と共に、私たちの世界への意志(理想や希望や野望)はどんどん弱まってしまう。だけどカケラぐらいはみんな持っている。
自分が忘れても、キリコ(私たちの思春期を見守っていてくれた少し上の先輩)はうっすらとその青い時代を覚えていてくれる。
この社会の暖かさと、この社会を大人として生きていく自分の責任…みたいなものを感じらせられて、鑑賞後はなんだかじんわりと涙目になってしまったのだった。
アッ…そういえばこの映画には「おわり」がなかった。たぶん。
監督から後世を生きるわたしたちに対して「社会と関わること」「命を紡ぐこと」「ものをつくること」のバトンを受け渡されてるような気がして、
この世界はおわらない、つづいてく…さぁ、君たちはどう生きるか?みたいなメッセージを感じた。(タイトルのまんまァ!!)
この映画難しいなって思ったのは、小さな感情の動きやメタファーっぽいものがバラ撒かれていて、
それらが調理されて最終的にハンバーグやらカレーになって出されるでもなく、そのまま終わるところ。
見る人は、物語のカケラを自分なりに取捨選択して、頭のなかでそれぞれのストーリーに調理しなければいけない。
それゆえ、ジブリや駿ファンはそれを彼らの社史や人生だと捉えるし、そうでない人は何か別のものに捉えるのかも。
(当然"カケラ"だけ渡されるわけなので「なんのストーリーもなかった…なにこれ?」となるのも当たり前。)
私は出産適齢期を過ぎつつある未婚女性なので、どうしてもカケラの拾い方や積み方にクセがあると思う。
でもそういう、「見る人によって様々なミスリードが生まれる=見る人の中にいろんなストーリーが生まれる作品」って本当に面白いと思うんだよね。
結局この映画が見せているのは映画ではなく、自分自身のような気がする。
私の勝手な解釈を読んでイラだった人もいるかもだけど、もしよかったら他の方が感じたストーリーも教えてほしい!
先人の皆さんたちの解説も楽しく読みました〜!!(ジブリいろいろ未視聴なのでほ〜そう読み取ると確かにおもろ〜と勉強になった…
https://anond.hatelabo.jp/20230714205336
なんか2部の半分くらいから3部の半分くらいまでをカジノ編が占めてて
お前途中でカジノ編書くの楽しすぎたんだろみたいなところもあったけど
実際カジノ編が一番盛り上がりも成長もあってよかった
昔どっかで聞いた「車のトランクに閉じ込められたけどフックが云々」の元ネタが
この作品だということが知れてよかった
人物配置としては「バロット」「ウフコック」「イースター」「シェル」「ボイルド」っていうのが
余りにわかりやすく寓意的でちょっとあからさますぎるかなぁと思ったけど
卵たちがピョコピョコ戦いあう中で
バロットを成長させる大人の女性としてベル「ウイング」が出てくるのはよい、好き
生まれてこられなかった雛のバロットがウイングを経て収穫祭(ハーヴェスト)を超えるというのはよくできてる
漫画版が存在するらしくて作者が茸の声の人っていうのは再現としてはどうなんだろうか
買おうかとても悩んでいる
ども、皆さん、アニメ『リコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときにリアルタイムで見る作品としては破格に面白い。
一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。
そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。
さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏」なものを秘めた作品だということです。
一見すると現代日本と同じように平和な社会を舞台にしているようで、そこでは「リコリス」と呼ばれる高校生くらいの女の子たちがその平和を守るために命がけで戦っている。そして、じっさいにどんどん死んでいる。
このグロテスクともいえる構造が、第一話の冒頭の時点であっさりと、あたりまえのことであるかのようにライトかつスムーズに説明されている。
しかし、もちろんこれはまったく「あたりまえのこと」ではありません。年端もいかない少女たちが銃を持って戦う。戦わされている。そこにはあからさまに倫理的な問題がある。この「少女と銃」というコンセプトについて、原案のアサウラさんはインタビューでこのように述べています。
アサウラ:柏田さんが読んでくれていたのが僕の「デスニードラウンド」という小説で、これが最初から最後まで銃を撃ち続けるような作品なんです。それを読んで僕を呼んでくれたので、銃が出てくることは決まっていました。女の子と銃で何かをやってくれという感じだったと思います。
最初の時点から「少女と銃」がメインコンセプトだったわけですね。すでに指摘されているとおり、この「少女と銃」というコンセプトには先行作品の系譜があります。虚淵玄の最初期の作品として知られる『Phantom of Infelno』がそうだし、『NOIR /ノワール』などのアニメもある。
現在のアニメ業界ではもはや「美少女ガンアクションもの」はひとつのジャンルといっても良いかもしれません。
ちょっと現実的に考えればかぼそい体格の女の子がそうそう的確に銃を操れるわけがないと思えるわけですが、そこの違和感をねじ伏せてでも少女と銃を組み合わせることにはある種のフェティッシュな魅力があるのだと思います。
それらの先行作品のなかで、おそらく最も重要で、しかも『リコリコ』に近いのは相田裕の『Gunslinger girl』です。
これは洗脳されてテロリストと戦う少女たちと、彼女たちとコンビを組んで戦う男性たちを描いた物語で、「平和な社会を維持するため少女たちが陰で戦っている」というところが『リコリコ』と共通していますね。このタイトルは『リコリコ』の監督インタビューで直接的に言及されています。
足立:アニメを見て暗い気分になったりするのは、今はあんまり求められていない気がするかなって…。自分はDVD買うくらい『GUNSLINGER GIRL』が好きなだけに、そのフィールドでは勝てないと思いましたし、ポイントをずらしたほうがいいんじゃないですかねっていう話は初日にしたと思います。
この言及を見ると、『リコリコ』と『Gunslinger girl』の設定上の共通項は意識的なものであることがわかります。ただ、その一方で「ポイントをずらした」と語られているとおり、『リコリコ』と『Gunslinger girl』には決定的な差異がある。
ひとつはパートナー役の大人がいないことで、もうひとつは少女たちが洗脳されておらず、自分の意思で戦闘に参加していることです。
前者に関しては原案のアサウラさんの作風かもしれません。アサウラさんは過去にも少女たちが「百合」的にコンビを組んで戦う作品を書いているようですから(筆者は未読)。
しかし、決定的に重要なのは後者でしょう。『Gunslinger girl』の洗脳されて戦う少女たちに対して、『リコリコ』のリコリスたちは(少なくとも表面的には)自発的な意思で戦っているわけです。
もちろん、「自発的な意思なのだから問題ない」ということにはならない。リコリスたちはみな孤児であり、「戦うことしか選択肢がない」状況に置かれているともいえる。リコリスたちが「大人」たちに搾取され、かりそめの平和のための犠牲として利用されていることは間違いないでしょう。
きわめていびつかつ不自然かつ欺瞞的な構造です。このディストピア的ともいえる構造をどう見るかが『リコリコ』を批評的に判定するとき、ひとつのカギとなる。この点に関して批判的に触れた記事がはてな匿名ダイアリーに投稿されています。
前線の少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたとき、リコリスが少女のみで構成される理由(※)や、少女を前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。
アサウラはバニラのころからこういうところがあって、物語を少女-大人(社会)という対比ではなく少女と少女という2者間の関係性で回収することで、俎上に載せたはずの搾取構造をうやむやにしようとする。要するに百合を出せば他がザルでもオタクはブヒブヒ鳴くんだろという作り手の舐めた態度がアニメから透けて見えてキモいという話なんだが、増上慢になるだけのウェルメイドな仕上がりになっていてそれもまたなんか鼻につく。
まあしかしこういうザ・老害みたいな感想を書くと自分の老いを感じて嫌になるね。たぶん若い世代はああいうのなんの疑問も持たずスッと面白がれるんだろうな。
しかし、これはぼくにはやはり表面的な批判に過ぎないように思える。「うやむやにしようとする」も何も、全然うやむやになっていないよね?と。
「社会の正義と平和を守る組織」としてのDAの欺瞞はあまりにもあきらかであり、ごく平凡な視聴者でも確実に気づくことではないでしょうか。じっさい、監督インタビューでもその点は触れられている。
――完成した作品を見ても、2人の関係性は大きな軸としてありました。ただ、DAという謎の組織が、犯罪を力で抑止しているというのも軸として描かれていますよね。
足立:子供が銃を持って仕事をしているってことは、誰か大人に強いられているということになるでしょ?きっと悪い大人が、騙してるんだろう。「君たちは良いことをしてるんだぞっ」ってね。DAがしていることの是非は視聴者に考えてもらいたいところですね。
――それが第1話の冒頭で紹介されているわけですが、この世界の仕組み的なところは、とても面白い発想だと思いました。
足立:確かな事実として、日本は世界の中でも極めて治安が良く平和で、その自認もありますよね。でもそれを支えているのが、全然知られていない闇の組織で、社会性の無い人を何千年も前から秘密裏に殺してきたから、規範意識の高い人しか子孫を残せなかった。だから日本人全体がだんだんそうなっていったんだ、みたいな設定はどうだろうかという提案をしたんです。監視社会に対するアイロニーもあるかな?
要するに、みんなが知っている事実を、大きな“ウソ”が支えていたという構造にしようと思って、DAがどんな組織なのかをアサウラさんに考えてもらったという感じですね。
ようは「大人たちが子供たちをだまして搾取している欺瞞の構造」は制作者側により作品の一部として自覚的に提示されているのであって、単にその点を指摘するだけでは作品を批評したことにはならないのです。
そして、個人的な感覚としては、まず大半の視聴者はその提示を正確に受け止めることができていると感じます。つまり、この欺瞞的なディストピア/ユートピア構造はこの作品を語る上で、気付かなくては話にならない「当然の前提」であり、そしてじっさいに大半の視聴者は気付いている。
とすれば、この認識の上にさらに議論を重ねていくべきでしょう。ちなみに、上記の匿名ダイアリーでは「リアリティライン」が「ガバガバ」であるという指摘もなされていますが、これもあきらかに意図的なものでしょう。
「現代日本では女子高生が最も警戒されないから子供たちに銃を持たせて戦わせることには合理性があるのだ!」という設定は控えめにいっても荒唐無稽というしかなく、通常の意味でのリアリティはまったくありません。
さらにその女の子たちのうちのふたりが喫茶店に勤めながら殺人が絡む仕事をしているって、いや、ふつうに考えればありえないとしかいいようがないでしょ。しかし、だからダメなのかといえばそうではない。
このあからさまにめちゃくちゃな設定は『リコリコ』がリアルなアクションストーリーというよりは一種の寓話を志向していると見るべきです。この作品はおそらく意図的にウソくさく、うさん臭い印象を与えるように設定が練り上げられている。
そして、そのウソくささ、うさん臭さがひとつの魅力にまで昇華されている。だから、「リアリティがないじゃないか!」と指摘することには意味がない。まずはそこに込められた皮肉と寓意を見て取るべきなのです。
それでは、その欺瞞的かつ偽善的かつ人工的な、「まるでリアリティがない」設定と物語を通して『リコリコ』が描こうとしているものは何か。それは「子供を犠牲にして成立している社会」の欺瞞だと考えます。
まさに上記の匿名ダイアリーで批判されている、子供たちを「消費」することで成立している日本のアニメ産業の欺瞞でもある。
評論家の杉田俊介は、新海誠監督の映画『天気の子』について、このように書いています。
ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本的アニメを批判するアニメ、「アニメ化する日本的現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本的現実」とは、少女=人柱=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである(物語の最初の方に、風俗店の求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜がチンピラに騙されて新宿の性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的な演出だろう)。
ぼくは杉田の『天気の子』論にはまったく賛同しませんが、ひとまずこの「見立て」は面白いと思う。
杉田の指摘をこのようにいい換えてもまったく違和感がないのではないでしょうか。「「アニメ化する日本的現実」とは、少女=リコリス=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである」。
つまり、『天気の子』は、そして『リコリコ』もまた、日本アニメと、日本アニメに似た構造になりつつある(なってしまっている?)日本社会の構造そのものを批評的に設定に抱え込んだ「メタ日本アニメ」であるわけです。
『リコリコ』の設定はあまりにも「リアリティがない」かたちで矛盾と欺瞞と偽善を抱え込んでいますが、それは視聴者に対する問題提起なのです。これは杉田が挙げている「アイドル」の問題とも一脈通じるものがあると思います。
その意味で、『リコリコ』は、じつは一種のアイドルアニメなんですよ! な、なんだってー。まあ、それはひとつの「見立て」に過ぎませんが、じっさい、アイドル界隈のほうでもこの「ファンによるアイドルの抑圧」問題はしばしば議論されているようです。
たとえば、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』というアイドル現象批評の本では、このような問題が取り上げられています。
今日、アイドルは広く普遍的な人気を獲得し、多様なスタイルや可能性をもつジャンルとしても注目されている。しかし、同時に多くの難点を抱え込んでいることも見過ごせない。
暗黙の「恋愛禁止」ルールとその背景にある異性愛主義、「年齢いじり」や一定の年齢での「卒業」という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズム、SNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ……。アイドルというジャンルは、現実にアイドルとして生きる人に抑圧を強いる構造的な問題を抱え続けている。スキャンダルやトラブルが発生して、旧態依然ともいえるアイドル界の「常識」のあり方が浮き彫りになるたび、ファンの間では答えが出ない議論が繰り返されている。
その一方で、自らの表現を模索しながら主体的にステージに立ち、ときに演者同士で連帯して目標を達成しようとするアイドルたちの実践は、人々をエンパワーメントするものでもある。そして、ファンのなかでも、アイドル本人に身勝手な欲望や規範を押し付けることと裏表でもある「推す」(≒消費する)ことに対して、後ろめたさを抱く人が増えている。
アニメの場合、美少女キャラクターたちは実在しないのでアイドル業界ほど問題は先鋭化しないようにも思えますが、そのキャラクターを支持しているはずのファンがキャラクターに「身勝手な欲望や規範を押し付け」て「消費」している構造は同じです。
そして、その「大人たちが子供たちをだまして食い物にしている」欺瞞の構造は現在の日本社会全体を象徴するものでもある。『リコリコ』や『天気の子』は(そして『Gunslinger girl』も)この問題をテーマとして作品内にメタ的に胚胎しているといえます。
もっとも、この児童搾取の問題は、文学的に見れば遥か昔の作品にも見て取れるものであり、きわめて普遍性の高いテーマであるということもできます。
この問題に関して文芸作品を振り返るとき、だれもが即座に思い浮かべるのがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』であることは論を待たないでしょう。
この小説のなかで、イワン・カラマーゾフは、弟のアリョーシャに向かって、神話的な過去に原罪を犯した人間たちは「神の国」へ迎え入れられるために苦しみを耐えなければならないというキリスト教の論理を踏まえ、そんなことは子供たちには何の関係もないじゃないかと語ります。
そして、たったひとりの子供の苦しみを理由にでも、自分は「最高の調和」を拒絶するというのです。
俺は一般的に人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、しかし、第一、相手が子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのでは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。
(中略)
まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己を防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的に拒否するんだ。そんな調和は、小さなあの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!
ども、皆さん、アニメ『リコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときにリアルタイムで見る作品としては破格に面白い。
一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。
そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。
さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏」なものを秘めた作品だということです。
一見すると現代日本と同じように平和な社会を舞台にしているようで、そこでは「リコリス」と呼ばれる高校生くらいの女の子たちがその平和を守るために命がけで戦っている。そして、じっさいにどんどん死んでいる。
このグロテスクともいえる構造が、第一話の冒頭の時点であっさりと、あたりまえのことであるかのようにライトかつスムーズに説明されている。
しかし、もちろんこれはまったく「あたりまえのこと」ではありません。年端もいかない少女たちが銃を持って戦う。戦わされている。そこにはあからさまに倫理的な問題がある。この「少女と銃」というコンセプトについて、原案のアサウラさんはインタビューでこのように述べています。
アサウラ:柏田さんが読んでくれていたのが僕の「デスニードラウンド」という小説で、これが最初から最後まで銃を撃ち続けるような作品なんです。それを読んで僕を呼んでくれたので、銃が出てくることは決まっていました。女の子と銃で何かをやってくれという感じだったと思います。
最初の時点から「少女と銃」がメインコンセプトだったわけですね。すでに指摘されているとおり、この「少女と銃」というコンセプトには先行作品の系譜があります。虚淵玄の最初期の作品として知られる『Phantom of Infelno』がそうだし、『NOIR /ノワール』などのアニメもある。
現在のアニメ業界ではもはや「美少女ガンアクションもの」はひとつのジャンルといっても良いかもしれません。
ちょっと現実的に考えればかぼそい体格の女の子がそうそう的確に銃を操れるわけがないと思えるわけですが、そこの違和感をねじ伏せてでも少女と銃を組み合わせることにはある種のフェティッシュな魅力があるのだと思います。
それらの先行作品のなかで、おそらく最も重要で、しかも『リコリコ』に近いのは相田裕の『Gunslinger girl』です。
これは洗脳されてテロリストと戦う少女たちと、彼女たちとコンビを組んで戦う男性たちを描いた物語で、「平和な社会を維持するため少女たちが陰で戦っている」というところが『リコリコ』と共通していますね。このタイトルは『リコリコ』の監督インタビューで直接的に言及されています。
足立:アニメを見て暗い気分になったりするのは、今はあんまり求められていない気がするかなって…。自分はDVD買うくらい『GUNSLINGER GIRL』が好きなだけに、そのフィールドでは勝てないと思いましたし、ポイントをずらしたほうがいいんじゃないですかねっていう話は初日にしたと思います。
この言及を見ると、『リコリコ』と『Gunslinger girl』の設定上の共通項は意識的なものであることがわかります。ただ、その一方で「ポイントをずらした」と語られているとおり、『リコリコ』と『Gunslinger girl』には決定的な差異がある。
ひとつはパートナー役の大人がいないことで、もうひとつは少女たちが洗脳されておらず、自分の意思で戦闘に参加していることです。
前者に関しては原案のアサウラさんの作風かもしれません。アサウラさんは過去にも少女たちが「百合」的にコンビを組んで戦う作品を書いているようですから(筆者は未読)。
しかし、決定的に重要なのは後者でしょう。『Gunslinger girl』の洗脳されて戦う少女たちに対して、『リコリコ』のリコリスたちは(少なくとも表面的には)自発的な意思で戦っているわけです。
もちろん、「自発的な意思なのだから問題ない」ということにはならない。リコリスたちはみな孤児であり、「戦うことしか選択肢がない」状況に置かれているともいえる。リコリスたちが「大人」たちに搾取され、かりそめの平和のための犠牲として利用されていることは間違いないでしょう。
きわめていびつかつ不自然かつ欺瞞的な構造です。このディストピア的ともいえる構造をどう見るかが『リコリコ』を批評的に判定するとき、ひとつのカギとなる。この点に関して批判的に触れた記事がはてな匿名ダイアリーに投稿されています。
前線の少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたとき、リコリスが少女のみで構成される理由(※)や、少女を前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。
アサウラはバニラのころからこういうところがあって、物語を少女-大人(社会)という対比ではなく少女と少女という2者間の関係性で回収することで、俎上に載せたはずの搾取構造をうやむやにしようとする。要するに百合を出せば他がザルでもオタクはブヒブヒ鳴くんだろという作り手の舐めた態度がアニメから透けて見えてキモいという話なんだが、増上慢になるだけのウェルメイドな仕上がりになっていてそれもまたなんか鼻につく。
まあしかしこういうザ・老害みたいな感想を書くと自分の老いを感じて嫌になるね。たぶん若い世代はああいうのなんの疑問も持たずスッと面白がれるんだろうな。
しかし、これはぼくにはやはり表面的な批判に過ぎないように思える。「うやむやにしようとする」も何も、全然うやむやになっていないよね?と。
「社会の正義と平和を守る組織」としてのDAの欺瞞はあまりにもあきらかであり、ごく平凡な視聴者でも確実に気づくことではないでしょうか。じっさい、監督インタビューでもその点は触れられている。
――完成した作品を見ても、2人の関係性は大きな軸としてありました。ただ、DAという謎の組織が、犯罪を力で抑止しているというのも軸として描かれていますよね。
足立:子供が銃を持って仕事をしているってことは、誰か大人に強いられているということになるでしょ?きっと悪い大人が、騙してるんだろう。「君たちは良いことをしてるんだぞっ」ってね。DAがしていることの是非は視聴者に考えてもらいたいところですね。
――それが第1話の冒頭で紹介されているわけですが、この世界の仕組み的なところは、とても面白い発想だと思いました。
足立:確かな事実として、日本は世界の中でも極めて治安が良く平和で、その自認もありますよね。でもそれを支えているのが、全然知られていない闇の組織で、社会性の無い人を何千年も前から秘密裏に殺してきたから、規範意識の高い人しか子孫を残せなかった。だから日本人全体がだんだんそうなっていったんだ、みたいな設定はどうだろうかという提案をしたんです。監視社会に対するアイロニーもあるかな?
要するに、みんなが知っている事実を、大きな“ウソ”が支えていたという構造にしようと思って、DAがどんな組織なのかをアサウラさんに考えてもらったという感じですね。
ようは「大人たちが子供たちをだまして搾取している欺瞞の構造」は制作者側により作品の一部として自覚的に提示されているのであって、単にその点を指摘するだけでは作品を批評したことにはならないのです。
そして、個人的な感覚としては、まず大半の視聴者はその提示を正確に受け止めることができていると感じます。つまり、この欺瞞的なディストピア/ユートピア構造はこの作品を語る上で、気付かなくては話にならない「当然の前提」であり、そしてじっさいに大半の視聴者は気付いている。
とすれば、この認識の上にさらに議論を重ねていくべきでしょう。ちなみに、上記の匿名ダイアリーでは「リアリティライン」が「ガバガバ」であるという指摘もなされていますが、これもあきらかに意図的なものでしょう。
「現代日本では女子高生が最も警戒されないから子供たちに銃を持たせて戦わせることには合理性があるのだ!」という設定は控えめにいっても荒唐無稽というしかなく、通常の意味でのリアリティはまったくありません。
さらにその女の子たちのうちのふたりが喫茶店に勤めながら殺人が絡む仕事をしているって、いや、ふつうに考えればありえないとしかいいようがないでしょ。しかし、だからダメなのかといえばそうではない。
このあからさまにめちゃくちゃな設定は『リコリコ』がリアルなアクションストーリーというよりは一種の寓話を志向していると見るべきです。この作品はおそらく意図的にウソくさく、うさん臭い印象を与えるように設定が練り上げられている。
そして、そのウソくささ、うさん臭さがひとつの魅力にまで昇華されている。だから、「リアリティがないじゃないか!」と指摘することには意味がない。まずはそこに込められた皮肉と寓意を見て取るべきなのです。
それでは、その欺瞞的かつ偽善的かつ人工的な、「まるでリアリティがない」設定と物語を通して『リコリコ』が描こうとしているものは何か。それは「子供を犠牲にして成立している社会」の欺瞞だと考えます。
まさに上記の匿名ダイアリーで批判されている、子供たちを「消費」することで成立している日本のアニメ産業の欺瞞でもある。
評論家の杉田俊介は、新海誠監督の映画『天気の子』について、このように書いています。
ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本的アニメを批判するアニメ、「アニメ化する日本的現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本的現実」とは、少女=人柱=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである(物語の最初の方に、風俗店の求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜がチンピラに騙されて新宿の性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的な演出だろう)。
ぼくは杉田の『天気の子』論にはまったく賛同しませんが、ひとまずこの「見立て」は面白いと思う。
杉田の指摘をこのようにいい換えてもまったく違和感がないのではないでしょうか。「「アニメ化する日本的現実」とは、少女=リコリス=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである」。
つまり、『天気の子』は、そして『リコリコ』もまた、日本アニメと、日本アニメに似た構造になりつつある(なってしまっている?)日本社会の構造そのものを批評的に設定に抱え込んだ「メタ日本アニメ」であるわけです。
『リコリコ』の設定はあまりにも「リアリティがない」かたちで矛盾と欺瞞と偽善を抱え込んでいますが、それは視聴者に対する問題提起なのです。これは杉田が挙げている「アイドル」の問題とも一脈通じるものがあると思います。
その意味で、『リコリコ』は、じつは一種のアイドルアニメなんですよ! な、なんだってー。まあ、それはひとつの「見立て」に過ぎませんが、じっさい、アイドル界隈のほうでもこの「ファンによるアイドルの抑圧」問題はしばしば議論されているようです。
たとえば、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』というアイドル現象批評の本では、このような問題が取り上げられています。
今日、アイドルは広く普遍的な人気を獲得し、多様なスタイルや可能性をもつジャンルとしても注目されている。しかし、同時に多くの難点を抱え込んでいることも見過ごせない。
暗黙の「恋愛禁止」ルールとその背景にある異性愛主義、「年齢いじり」や一定の年齢での「卒業」という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズム、SNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ……。アイドルというジャンルは、現実にアイドルとして生きる人に抑圧を強いる構造的な問題を抱え続けている。スキャンダルやトラブルが発生して、旧態依然ともいえるアイドル界の「常識」のあり方が浮き彫りになるたび、ファンの間では答えが出ない議論が繰り返されている。
その一方で、自らの表現を模索しながら主体的にステージに立ち、ときに演者同士で連帯して目標を達成しようとするアイドルたちの実践は、人々をエンパワーメントするものでもある。そして、ファンのなかでも、アイドル本人に身勝手な欲望や規範を押し付けることと裏表でもある「推す」(≒消費する)ことに対して、後ろめたさを抱く人が増えている。
アニメの場合、美少女キャラクターたちは実在しないのでアイドル業界ほど問題は先鋭化しないようにも思えますが、そのキャラクターを支持しているはずのファンがキャラクターに「身勝手な欲望や規範を押し付け」て「消費」している構造は同じです。
そして、その「大人たちが子供たちをだまして食い物にしている」欺瞞の構造は現在の日本社会全体を象徴するものでもある。『リコリコ』や『天気の子』は(そして『Gunslinger girl』も)この問題をテーマとして作品内にメタ的に胚胎しているといえます。
もっとも、この児童搾取の問題は、文学的に見れば遥か昔の作品にも見て取れるものであり、きわめて普遍性の高いテーマであるということもできます。
この問題に関して文芸作品を振り返るとき、だれもが即座に思い浮かべるのがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』であることは論を待たないでしょう。
この小説のなかで、イワン・カラマーゾフは、弟のアリョーシャに向かって、神話的な過去に原罪を犯した人間たちは「神の国」へ迎え入れられるために苦しみを耐えなければならないというキリスト教の論理を踏まえ、そんなことは子供たちには何の関係もないじゃないかと語ります。
そして、たったひとりの子供の苦しみを理由にでも、自分は「最高の調和」を拒絶するというのです。
俺は一般的に人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、しかし、第一、相手が子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのでは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。
(中略)
まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己を防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的に拒否するんだ。そんな調和は、小さなあの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!
ども、皆さん、アニメ『リコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときにリアルタイムで見る作品としては破格に面白い。
一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。
そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。
さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏」なものを秘めた作品だということです。
一見すると現代日本と同じように平和な社会を舞台にしているようで、そこでは「リコリス」と呼ばれる高校生くらいの女の子たちがその平和を守るために命がけで戦っている。そして、じっさいにどんどん死んでいる。
このグロテスクともいえる構造が、第一話の冒頭の時点であっさりと、あたりまえのことであるかのようにライトかつスムーズに説明されている。
しかし、もちろんこれはまったく「あたりまえのこと」ではありません。年端もいかない少女たちが銃を持って戦う。戦わされている。そこにはあからさまに倫理的な問題がある。この「少女と銃」というコンセプトについて、原案のアサウラさんはインタビューでこのように述べています。
アサウラ:柏田さんが読んでくれていたのが僕の「デスニードラウンド」という小説で、これが最初から最後まで銃を撃ち続けるような作品なんです。それを読んで僕を呼んでくれたので、銃が出てくることは決まっていました。女の子と銃で何かをやってくれという感じだったと思います。
最初の時点から「少女と銃」がメインコンセプトだったわけですね。すでに指摘されているとおり、この「少女と銃」というコンセプトには先行作品の系譜があります。虚淵玄の最初期の作品として知られる『Phantom of Infelno』がそうだし、『NOIR /ノワール』などのアニメもある。
現在のアニメ業界ではもはや「美少女ガンアクションもの」はひとつのジャンルといっても良いかもしれません。
ちょっと現実的に考えればかぼそい体格の女の子がそうそう的確に銃を操れるわけがないと思えるわけですが、そこの違和感をねじ伏せてでも少女と銃を組み合わせることにはある種のフェティッシュな魅力があるのだと思います。
それらの先行作品のなかで、おそらく最も重要で、しかも『リコリコ』に近いのは相田裕の『Gunslinger girl』です。
これは洗脳されてテロリストと戦う少女たちと、彼女たちとコンビを組んで戦う男性たちを描いた物語で、「平和な社会を維持するため少女たちが陰で戦っている」というところが『リコリコ』と共通していますね。このタイトルは『リコリコ』の監督インタビューで直接的に言及されています。
足立:アニメを見て暗い気分になったりするのは、今はあんまり求められていない気がするかなって…。自分はDVD買うくらい『GUNSLINGER GIRL』が好きなだけに、そのフィールドでは勝てないと思いましたし、ポイントをずらしたほうがいいんじゃないですかねっていう話は初日にしたと思います。
この言及を見ると、『リコリコ』と『Gunslinger girl』の設定上の共通項は意識的なものであることがわかります。ただ、その一方で「ポイントをずらした」と語られているとおり、『リコリコ』と『Gunslinger girl』には決定的な差異がある。
ひとつはパートナー役の大人がいないことで、もうひとつは少女たちが洗脳されておらず、自分の意思で戦闘に参加していることです。
前者に関しては原案のアサウラさんの作風かもしれません。アサウラさんは過去にも少女たちが「百合」的にコンビを組んで戦う作品を書いているようですから(筆者は未読)。
しかし、決定的に重要なのは後者でしょう。『Gunslinger girl』の洗脳されて戦う少女たちに対して、『リコリコ』のリコリスたちは(少なくとも表面的には)自発的な意思で戦っているわけです。
もちろん、「自発的な意思なのだから問題ない」ということにはならない。リコリスたちはみな孤児であり、「戦うことしか選択肢がない」状況に置かれているともいえる。リコリスたちが「大人」たちに搾取され、かりそめの平和のための犠牲として利用されていることは間違いないでしょう。
きわめていびつかつ不自然かつ欺瞞的な構造です。このディストピア的ともいえる構造をどう見るかが『リコリコ』を批評的に判定するとき、ひとつのカギとなる。この点に関して批判的に触れた記事がはてな匿名ダイアリーに投稿されています。
前線の少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたとき、リコリスが少女のみで構成される理由(※)や、少女を前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。
アサウラはバニラのころからこういうところがあって、物語を少女-大人(社会)という対比ではなく少女と少女という2者間の関係性で回収することで、俎上に載せたはずの搾取構造をうやむやにしようとする。要するに百合を出せば他がザルでもオタクはブヒブヒ鳴くんだろという作り手の舐めた態度がアニメから透けて見えてキモいという話なんだが、増上慢になるだけのウェルメイドな仕上がりになっていてそれもまたなんか鼻につく。
まあしかしこういうザ・老害みたいな感想を書くと自分の老いを感じて嫌になるね。たぶん若い世代はああいうのなんの疑問も持たずスッと面白がれるんだろうな。
しかし、これはぼくにはやはり表面的な批判に過ぎないように思える。「うやむやにしようとする」も何も、全然うやむやになっていないよね?と。
「社会の正義と平和を守る組織」としてのDAの欺瞞はあまりにもあきらかであり、ごく平凡な視聴者でも確実に気づくことではないでしょうか。じっさい、監督インタビューでもその点は触れられている。
――完成した作品を見ても、2人の関係性は大きな軸としてありました。ただ、DAという謎の組織が、犯罪を力で抑止しているというのも軸として描かれていますよね。
足立:子供が銃を持って仕事をしているってことは、誰か大人に強いられているということになるでしょ?きっと悪い大人が、騙してるんだろう。「君たちは良いことをしてるんだぞっ」ってね。DAがしていることの是非は視聴者に考えてもらいたいところですね。
――それが第1話の冒頭で紹介されているわけですが、この世界の仕組み的なところは、とても面白い発想だと思いました。
足立:確かな事実として、日本は世界の中でも極めて治安が良く平和で、その自認もありますよね。でもそれを支えているのが、全然知られていない闇の組織で、社会性の無い人を何千年も前から秘密裏に殺してきたから、規範意識の高い人しか子孫を残せなかった。だから日本人全体がだんだんそうなっていったんだ、みたいな設定はどうだろうかという提案をしたんです。監視社会に対するアイロニーもあるかな?
要するに、みんなが知っている事実を、大きな“ウソ”が支えていたという構造にしようと思って、DAがどんな組織なのかをアサウラさんに考えてもらったという感じですね。
ようは「大人たちが子供たちをだまして搾取している欺瞞の構造」は制作者側により作品の一部として自覚的に提示されているのであって、単にその点を指摘するだけでは作品を批評したことにはならないのです。
そして、個人的な感覚としては、まず大半の視聴者はその提示を正確に受け止めることができていると感じます。つまり、この欺瞞的なディストピア/ユートピア構造はこの作品を語る上で、気付かなくては話にならない「当然の前提」であり、そしてじっさいに大半の視聴者は気付いている。
とすれば、この認識の上にさらに議論を重ねていくべきでしょう。ちなみに、上記の匿名ダイアリーでは「リアリティライン」が「ガバガバ」であるという指摘もなされていますが、これもあきらかに意図的なものでしょう。
「現代日本では女子高生が最も警戒されないから子供たちに銃を持たせて戦わせることには合理性があるのだ!」という設定は控えめにいっても荒唐無稽というしかなく、通常の意味でのリアリティはまったくありません。
さらにその女の子たちのうちのふたりが喫茶店に勤めながら殺人が絡む仕事をしているって、いや、ふつうに考えればありえないとしかいいようがないでしょ。しかし、だからダメなのかといえばそうではない。
このあからさまにめちゃくちゃな設定は『リコリコ』がリアルなアクションストーリーというよりは一種の寓話を志向していると見るべきです。この作品はおそらく意図的にウソくさく、うさん臭い印象を与えるように設定が練り上げられている。
そして、そのウソくささ、うさん臭さがひとつの魅力にまで昇華されている。だから、「リアリティがないじゃないか!」と指摘することには意味がない。まずはそこに込められた皮肉と寓意を見て取るべきなのです。
それでは、その欺瞞的かつ偽善的かつ人工的な、「まるでリアリティがない」設定と物語を通して『リコリコ』が描こうとしているものは何か。それは「子供を犠牲にして成立している社会」の欺瞞だと考えます。
まさに上記の匿名ダイアリーで批判されている、子供たちを「消費」することで成立している日本のアニメ産業の欺瞞でもある。
評論家の杉田俊介は、新海誠監督の映画『天気の子』について、このように書いています。
ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本的アニメを批判するアニメ、「アニメ化する日本的現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本的現実」とは、少女=人柱=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである(物語の最初の方に、風俗店の求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜がチンピラに騙されて新宿の性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的な演出だろう)。
ぼくは杉田の『天気の子』論にはまったく賛同しませんが、ひとまずこの「見立て」は面白いと思う。
杉田の指摘をこのようにいい換えてもまったく違和感がないのではないでしょうか。「「アニメ化する日本的現実」とは、少女=リコリス=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである」。
つまり、『天気の子』は、そして『リコリコ』もまた、日本アニメと、日本アニメに似た構造になりつつある(なってしまっている?)日本社会の構造そのものを批評的に設定に抱え込んだ「メタ日本アニメ」であるわけです。
『リコリコ』の設定はあまりにも「リアリティがない」かたちで矛盾と欺瞞と偽善を抱え込んでいますが、それは視聴者に対する問題提起なのです。これは杉田が挙げている「アイドル」の問題とも一脈通じるものがあると思います。
その意味で、『リコリコ』は、じつは一種のアイドルアニメなんですよ! な、なんだってー。まあ、それはひとつの「見立て」に過ぎませんが、じっさい、アイドル界隈のほうでもこの「ファンによるアイドルの抑圧」問題はしばしば議論されているようです。
たとえば、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』というアイドル現象批評の本では、このような問題が取り上げられています。
今日、アイドルは広く普遍的な人気を獲得し、多様なスタイルや可能性をもつジャンルとしても注目されている。しかし、同時に多くの難点を抱え込んでいることも見過ごせない。
暗黙の「恋愛禁止」ルールとその背景にある異性愛主義、「年齢いじり」や一定の年齢での「卒業」という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズム、SNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ……。アイドルというジャンルは、現実にアイドルとして生きる人に抑圧を強いる構造的な問題を抱え続けている。スキャンダルやトラブルが発生して、旧態依然ともいえるアイドル界の「常識」のあり方が浮き彫りになるたび、ファンの間では答えが出ない議論が繰り返されている。
その一方で、自らの表現を模索しながら主体的にステージに立ち、ときに演者同士で連帯して目標を達成しようとするアイドルたちの実践は、人々をエンパワーメントするものでもある。そして、ファンのなかでも、アイドル本人に身勝手な欲望や規範を押し付けることと裏表でもある「推す」(≒消費する)ことに対して、後ろめたさを抱く人が増えている。
アニメの場合、美少女キャラクターたちは実在しないのでアイドル業界ほど問題は先鋭化しないようにも思えますが、そのキャラクターを支持しているはずのファンがキャラクターに「身勝手な欲望や規範を押し付け」て「消費」している構造は同じです。
そして、その「大人たちが子供たちをだまして食い物にしている」欺瞞の構造は現在の日本社会全体を象徴するものでもある。『リコリコ』や『天気の子』は(そして『Gunslinger girl』も)この問題をテーマとして作品内にメタ的に胚胎しているといえます。
もっとも、この児童搾取の問題は、文学的に見れば遥か昔の作品にも見て取れるものであり、きわめて普遍性の高いテーマであるということもできます。
この問題に関して文芸作品を振り返るとき、だれもが即座に思い浮かべるのがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』であることは論を待たないでしょう。
この小説のなかで、イワン・カラマーゾフは、弟のアリョーシャに向かって、神話的な過去に原罪を犯した人間たちは「神の国」へ迎え入れられるために苦しみを耐えなければならないというキリスト教の論理を踏まえ、そんなことは子供たちには何の関係もないじゃないかと語ります。
そして、たったひとりの子供の苦しみを理由にでも、自分は「最高の調和」を拒絶するというのです。
俺は一般的に人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、しかし、第一、相手が子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのでは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。
(中略)
まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己を防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的に拒否するんだ。そんな調和は、小さなあの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!
ども、皆さん、アニメ『リコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときにリアルタイムで見る作品としては破格に面白い。
一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。
そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。
さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏」なものを秘めた作品だということです。
一見すると現代日本と同じように平和な社会を舞台にしているようで、そこでは「リコリス」と呼ばれる高校生くらいの女の子たちがその平和を守るために命がけで戦っている。そして、じっさいにどんどん死んでいる。
このグロテスクともいえる構造が、第一話の冒頭の時点であっさりと、あたりまえのことであるかのようにライトかつスムーズに説明されている。
しかし、もちろんこれはまったく「あたりまえのこと」ではありません。年端もいかない少女たちが銃を持って戦う。戦わされている。そこにはあからさまに倫理的な問題がある。この「少女と銃」というコンセプトについて、原案のアサウラさんはインタビューでこのように述べています。
アサウラ:柏田さんが読んでくれていたのが僕の「デスニードラウンド」という小説で、これが最初から最後まで銃を撃ち続けるような作品なんです。それを読んで僕を呼んでくれたので、銃が出てくることは決まっていました。女の子と銃で何かをやってくれという感じだったと思います。
最初の時点から「少女と銃」がメインコンセプトだったわけですね。すでに指摘されているとおり、この「少女と銃」というコンセプトには先行作品の系譜があります。虚淵玄の最初期の作品として知られる『Phantom of Infelno』がそうだし、『NOIR /ノワール』などのアニメもある。
現在のアニメ業界ではもはや「美少女ガンアクションもの」はひとつのジャンルといっても良いかもしれません。
ちょっと現実的に考えればかぼそい体格の女の子がそうそう的確に銃を操れるわけがないと思えるわけですが、そこの違和感をねじ伏せてでも少女と銃を組み合わせることにはある種のフェティッシュな魅力があるのだと思います。
それらの先行作品のなかで、おそらく最も重要で、しかも『リコリコ』に近いのは相田裕の『Gunslinger girl』です。
これは洗脳されてテロリストと戦う少女たちと、彼女たちとコンビを組んで戦う男性たちを描いた物語で、「平和な社会を維持するため少女たちが陰で戦っている」というところが『リコリコ』と共通していますね。このタイトルは『リコリコ』の監督インタビューで直接的に言及されています。
足立:アニメを見て暗い気分になったりするのは、今はあんまり求められていない気がするかなって…。自分はDVD買うくらい『GUNSLINGER GIRL』が好きなだけに、そのフィールドでは勝てないと思いましたし、ポイントをずらしたほうがいいんじゃないですかねっていう話は初日にしたと思います。
この言及を見ると、『リコリコ』と『Gunslinger girl』の設定上の共通項は意識的なものであることがわかります。ただ、その一方で「ポイントをずらした」と語られているとおり、『リコリコ』と『Gunslinger girl』には決定的な差異がある。
ひとつはパートナー役の大人がいないことで、もうひとつは少女たちが洗脳されておらず、自分の意思で戦闘に参加していることです。
前者に関しては原案のアサウラさんの作風かもしれません。アサウラさんは過去にも少女たちが「百合」的にコンビを組んで戦う作品を書いているようですから(筆者は未読)。
しかし、決定的に重要なのは後者でしょう。『Gunslinger girl』の洗脳されて戦う少女たちに対して、『リコリコ』のリコリスたちは(少なくとも表面的には)自発的な意思で戦っているわけです。
もちろん、「自発的な意思なのだから問題ない」ということにはならない。リコリスたちはみな孤児であり、「戦うことしか選択肢がない」状況に置かれているともいえる。リコリスたちが「大人」たちに搾取され、かりそめの平和のための犠牲として利用されていることは間違いないでしょう。
きわめていびつかつ不自然かつ欺瞞的な構造です。このディストピア的ともいえる構造をどう見るかが『リコリコ』を批評的に判定するとき、ひとつのカギとなる。この点に関して批判的に触れた記事がはてな匿名ダイアリーに投稿されています。
前線の少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたとき、リコリスが少女のみで構成される理由(※)や、少女を前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。
アサウラはバニラのころからこういうところがあって、物語を少女-大人(社会)という対比ではなく少女と少女という2者間の関係性で回収することで、俎上に載せたはずの搾取構造をうやむやにしようとする。要するに百合を出せば他がザルでもオタクはブヒブヒ鳴くんだろという作り手の舐めた態度がアニメから透けて見えてキモいという話なんだが、増上慢になるだけのウェルメイドな仕上がりになっていてそれもまたなんか鼻につく。
まあしかしこういうザ・老害みたいな感想を書くと自分の老いを感じて嫌になるね。たぶん若い世代はああいうのなんの疑問も持たずスッと面白がれるんだろうな。
しかし、これはぼくにはやはり表面的な批判に過ぎないように思える。「うやむやにしようとする」も何も、全然うやむやになっていないよね?と。
「社会の正義と平和を守る組織」としてのDAの欺瞞はあまりにもあきらかであり、ごく平凡な視聴者でも確実に気づくことではないでしょうか。じっさい、監督インタビューでもその点は触れられている。
――完成した作品を見ても、2人の関係性は大きな軸としてありました。ただ、DAという謎の組織が、犯罪を力で抑止しているというのも軸として描かれていますよね。
足立:子供が銃を持って仕事をしているってことは、誰か大人に強いられているということになるでしょ?きっと悪い大人が、騙してるんだろう。「君たちは良いことをしてるんだぞっ」ってね。DAがしていることの是非は視聴者に考えてもらいたいところですね。
――それが第1話の冒頭で紹介されているわけですが、この世界の仕組み的なところは、とても面白い発想だと思いました。
足立:確かな事実として、日本は世界の中でも極めて治安が良く平和で、その自認もありますよね。でもそれを支えているのが、全然知られていない闇の組織で、社会性の無い人を何千年も前から秘密裏に殺してきたから、規範意識の高い人しか子孫を残せなかった。だから日本人全体がだんだんそうなっていったんだ、みたいな設定はどうだろうかという提案をしたんです。監視社会に対するアイロニーもあるかな?
要するに、みんなが知っている事実を、大きな“ウソ”が支えていたという構造にしようと思って、DAがどんな組織なのかをアサウラさんに考えてもらったという感じですね。
ようは「大人たちが子供たちをだまして搾取している欺瞞の構造」は制作者側により作品の一部として自覚的に提示されているのであって、単にその点を指摘するだけでは作品を批評したことにはならないのです。
そして、個人的な感覚としては、まず大半の視聴者はその提示を正確に受け止めることができていると感じます。つまり、この欺瞞的なディストピア/ユートピア構造はこの作品を語る上で、気付かなくては話にならない「当然の前提」であり、そしてじっさいに大半の視聴者は気付いている。
とすれば、この認識の上にさらに議論を重ねていくべきでしょう。ちなみに、上記の匿名ダイアリーでは「リアリティライン」が「ガバガバ」であるという指摘もなされていますが、これもあきらかに意図的なものでしょう。
「現代日本では女子高生が最も警戒されないから子供たちに銃を持たせて戦わせることには合理性があるのだ!」という設定は控えめにいっても荒唐無稽というしかなく、通常の意味でのリアリティはまったくありません。
さらにその女の子たちのうちのふたりが喫茶店に勤めながら殺人が絡む仕事をしているって、いや、ふつうに考えればありえないとしかいいようがないでしょ。しかし、だからダメなのかといえばそうではない。
このあからさまにめちゃくちゃな設定は『リコリコ』がリアルなアクションストーリーというよりは一種の寓話を志向していると見るべきです。この作品はおそらく意図的にウソくさく、うさん臭い印象を与えるように設定が練り上げられている。
そして、そのウソくささ、うさん臭さがひとつの魅力にまで昇華されている。だから、「リアリティがないじゃないか!」と指摘することには意味がない。まずはそこに込められた皮肉と寓意を見て取るべきなのです。
それでは、その欺瞞的かつ偽善的かつ人工的な、「まるでリアリティがない」設定と物語を通して『リコリコ』が描こうとしているものは何か。それは「子供を犠牲にして成立している社会」の欺瞞だと考えます。
まさに上記の匿名ダイアリーで批判されている、子供たちを「消費」することで成立している日本のアニメ産業の欺瞞でもある。
評論家の杉田俊介は、新海誠監督の映画『天気の子』について、このように書いています。
ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本的アニメを批判するアニメ、「アニメ化する日本的現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本的現実」とは、少女=人柱=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである(物語の最初の方に、風俗店の求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜がチンピラに騙されて新宿の性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的な演出だろう)。
ぼくは杉田の『天気の子』論にはまったく賛同しませんが、ひとまずこの「見立て」は面白いと思う。
杉田の指摘をこのようにいい換えてもまったく違和感がないのではないでしょうか。「「アニメ化する日本的現実」とは、少女=リコリス=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである」。
つまり、『天気の子』は、そして『リコリコ』もまた、日本アニメと、日本アニメに似た構造になりつつある(なってしまっている?)日本社会の構造そのものを批評的に設定に抱え込んだ「メタ日本アニメ」であるわけです。
『リコリコ』の設定はあまりにも「リアリティがない」かたちで矛盾と欺瞞と偽善を抱え込んでいますが、それは視聴者に対する問題提起なのです。これは杉田が挙げている「アイドル」の問題とも一脈通じるものがあると思います。
その意味で、『リコリコ』は、じつは一種のアイドルアニメなんですよ! な、なんだってー。まあ、それはひとつの「見立て」に過ぎませんが、じっさい、アイドル界隈のほうでもこの「ファンによるアイドルの抑圧」問題はしばしば議論されているようです。
たとえば、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』というアイドル現象批評の本では、このような問題が取り上げられています。
今日、アイドルは広く普遍的な人気を獲得し、多様なスタイルや可能性をもつジャンルとしても注目されている。しかし、同時に多くの難点を抱え込んでいることも見過ごせない。
暗黙の「恋愛禁止」ルールとその背景にある異性愛主義、「年齢いじり」や一定の年齢での「卒業」という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズム、SNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ……。アイドルというジャンルは、現実にアイドルとして生きる人に抑圧を強いる構造的な問題を抱え続けている。スキャンダルやトラブルが発生して、旧態依然ともいえるアイドル界の「常識」のあり方が浮き彫りになるたび、ファンの間では答えが出ない議論が繰り返されている。
その一方で、自らの表現を模索しながら主体的にステージに立ち、ときに演者同士で連帯して目標を達成しようとするアイドルたちの実践は、人々をエンパワーメントするものでもある。そして、ファンのなかでも、アイドル本人に身勝手な欲望や規範を押し付けることと裏表でもある「推す」(≒消費する)ことに対して、後ろめたさを抱く人が増えている。
アニメの場合、美少女キャラクターたちは実在しないのでアイドル業界ほど問題は先鋭化しないようにも思えますが、そのキャラクターを支持しているはずのファンがキャラクターに「身勝手な欲望や規範を押し付け」て「消費」している構造は同じです。
そして、その「大人たちが子供たちをだまして食い物にしている」欺瞞の構造は現在の日本社会全体を象徴するものでもある。『リコリコ』や『天気の子』は(そして『Gunslinger girl』も)この問題をテーマとして作品内にメタ的に胚胎しているといえます。
もっとも、この児童搾取の問題は、文学的に見れば遥か昔の作品にも見て取れるものであり、きわめて普遍性の高いテーマであるということもできます。
この問題に関して文芸作品を振り返るとき、だれもが即座に思い浮かべるのがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』であることは論を待たないでしょう。
この小説のなかで、イワン・カラマーゾフは、弟のアリョーシャに向かって、神話的な過去に原罪を犯した人間たちは「神の国」へ迎え入れられるために苦しみを耐えなければならないというキリスト教の論理を踏まえ、そんなことは子供たちには何の関係もないじゃないかと語ります。
そして、たったひとりの子供の苦しみを理由にでも、自分は「最高の調和」を拒絶するというのです。
俺は一般的に人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、しかし、第一、相手が子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのでは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。
(中略)
まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己を防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的に拒否するんだ。そんな調和は、小さなあの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!
ポンチ絵って聞いたことありますか? お役所系で働く人は必ず1度は聞いたことがあるはず。
2.概略図。構想図。製図の下書きとして作成するものや、イラストや図を使って概要をまとめた企画書などのこと。
なぜ、そんなにわかりにくく描くのか‥
今回は2.概略図。にあたる、お役所的ポンチ絵について。高専で働いて3年、お役所的ポンチ絵を何枚も書きました。例えば、大型補助金に申請するとき、学内の合意形成をするとき。初めて「ポンチ絵かいてね」って言われた時は、簡単な手描きスケッチで良いのかと思うぐらい、なにも知りませんでした。
それくらい【お役所的ポンチ絵のノリ】がわからないので、最初はどんなのが好まれるか結構調べました。
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どれもこれも、なんだかダサい…そしてわかりにくい。
右肩上がりの矢印とか、三角形で積み上がっていくイメージとか、3つの柱が融合してるとかで、価値を表現!
謎のグラデーション!
ただ、このポンチ絵の印象で補助金獲得できるかどうかが問われるわけです。みんな必至に描きます。かくいう私も、大型補助金の時はこのノリに合わせた形式で描きました。いま見てもわかりにくくてイヤだなーと思ってしまう絵です。
ただ、このポンチ絵がうまくならないと大型補助金も獲得できない…競争的資金が大学経営に大きな影響を与える時代に、死活問題なのです。ポンチを書ける事が一種のスキルとして認められているようにも思えます。結果、こんな勉強会まで。
f:id:mi-a-chip0213:20160902104356j:plain
http://tomita.me/ponchi-design-day1/
結局道具の問題でしょ。
なんで、みんな似たような絵になるのか。気づいたのは道具の問題。多くの場合は、パワーポイントでつくっているようです。図形挿入したり、フリーの絵を持ってきたり。それはそれは大変な作業量です。
私の場合は、全てイラストレーターで作っていました。運良く、文科省の大型補助金を獲得しましたのですが、それ以降の提出書類で「ポンチ絵はパワーポイントで作ってください」という文言が加えられたのです笑 負けじと、素材を全てイラレで作ってパワポで配置したデータを送りました笑 最近イラストレーターを使える人もぼちぼち増えてるし、そろそろお役所でもデザイン部隊が働き出すといいのになーと思います。あと、ポンチ絵を作る作業って、建築学科卒業の人は得意だと思います。ダイアグラムを作ったり、プレゼンテーションをつくる作業ととても似てます。
上手に書き過ぎないこと。がお役所的ポンチ絵のキモかもしれません。https://ryota-saeki-lifelog.hatenablog.com/entry/2016/09/02/105402
欲望のはけ口とか何らかの寓意とか劇的な展開とかでなく、普通にコミュニケーションのひとつとしてのセックスをしてる作品ってあんまりないよね。
個人的にセックスの時の睦言が好きなんだけどさ。パートナーとの重要な事、お金の話とか今まで言ってなかったこととか、だいたいセックスした後に何となく緩い雰囲気の中でしてきて、それが心地よかったんだけど。
別にラブラブアヘアへなセックスとかも必要じゃなくて、セックスの最中に冗談言って笑ったり、アンアンやってたのに突然正気に戻って「あ、ウスターソース買うって覚えといて」「そういえばなくなりそうだった」とか、そういうのだよ。
セックスのスイッチって基本的には能動的に入れるもので、相手の求めに応じて入れたり、「ここは、セックスだな」みたいに入れるものじゃない?気安い関係ならなおさら。
もちろんそこで望まないセックスとかも発生しうるわけだけど。基本的には、気乗りしないときもまぁしょうがないなぁって思いながらウスターソースのことを頭からとりあえず追い出して受け入れたりする。で、やってる間にその気になってきたりして、幸せな気だるい睦言の時間になったりするわけでさ。
方や初々しすぎてセックスのセの字も出してはならぬ、可能性すらも醸し出してはならぬような美少女であったり、
「これが現実です…これが現実…っ!」みたいなやたら爛れた退廃的なセックスとか
クッソエロいセックスの化身みたいな欲望フルマックスな男女だったり、
パートナーをゴミとしか見てないようなヤクザめいた暴力的蹂躙とか、
いや、そういうのはそういうのでもいいけど、もうちょい普通の、心が温まるようなセックスって描くの無理なんですかねという気持ちにはなってる。
パクリ元→ https://anond.hatelabo.jp/20210212080317
だって楽しそうだったから...(自分は文学的な教育は受けてないし、誰かと読んだ本の感想を共有することなんてないので、元増田に文学サークルとか友人とか出てくるのがうらやましい)
ネタバレありだけど、ちゃんと確認せず書いてるので記憶違いがあるかも。あと、後半になると全然読んでなかったわ。
オデュッセウスがトロイ戦争から帰る途中で船が難破して右往左往頑張るのを眺めるお話なのだけど、勇敢で直情的な普通のおっさんなので苦労するところは苦労してて良い。あと、イリアスと比べても昔の神話らしく出てくる人物とか神様の類がガチで理不尽なので良い。話がズレるけど、イリアスにはディオメデスというやつが主人公然として出ずっぱりなのだけど、オデュッセイアの回想には全く出てこないし、アガメムノンとかアイアスとかと違って他の作者の物語にも出てこないのだけど、あいつなんなん?
途中で読むのをやめた記憶がある。
エディプスコンプレックス(父親に対向心を燃やし、母親に恋慕する、的なやつ)の語源だと聞いて読んだら、全然そういうノリの話じゃなくて「へぇ」ってなったやつ。オイディプス自身は預かり知らぬところで運命に弄ばれて、最後にはすべてを理解してしまって絶望する可哀想な話なのだけど、どうでもよいことで人を殺したことがトリガーでもある(それも運命ではあるのだけど)ので、自業自得感もある。気楽に人を殺してはだめ、絶対。シェイクスピアの悲劇とかもだけど、「100%落ち度がない悲劇の被害者」ってあんまり昔の物語には出てこないね。
タイトルすら知らないやつ、その1
いまいち印象に残ってないけど、なんかずっと酒を楽しんでて幸せそうだなって思ったような気がする。
地獄編の半分くらいまで読んだ。作者(ダンテ)が古代の詩人だか哲学者だかに褒められて地獄めぐりを導いてもらうところから始まって、自分の嫌いなやつ(政敵とか批判者)が地獄で苦しんでるのを巡ってはひたすら口汚く罵って回るという、その性格の悪さというか根暗さに嫌気がさして読むのをやめた。原文だと詩的というか言語的な美しさとかあるらしいけど、こちとら娯楽としてしか本は読まないので日本語で読むからそんなん知らん、こいつは陰湿。
確か冒頭に「酒でも飲みつつゲラゲラ笑いながら聞くためのもんだから」みたいな説明が入るのだけど、そんな感じ。すごいでかい巨人の話だけど、家を椅子にしたと思ったら小便で洪水を起こして家を押し流したりするので、巨人としてのサイズも大概統一性がないんだったはず。なんか「人間の絆」だったかで、大真面目なキャラがラブレーを手放さなかった、みたいな描写があった気がするのだけど、ニュアンスがわかるようなわからんような...と思った記憶がある。
シェイクスピア作品は、意図はどうあれよく「様々な作品の元祖とも言えるものなので、読むと後続の作品がより楽しめる」的に紹介されるのだけど、普通に単体で楽しめると思う。そもそも、別作品を読んでて「あ、これシェイクスピアで見たやつだ!」ってなったからって楽しいか?という感覚が個人的にはある。ひとつ上にラブレー云々も別に良い要素だと思わなかったし。で、ハムレットはシェイクスピアの戯曲の中でも登場人物の精神性の完成度が一番高いと思っていて、劇的さでは「オセロー」とか、キャラクターの鮮烈さでは「リチャード三世」とかには劣るかもしれないけど、舞台装置としてのキャラクターではなく、"異なる価値観、教育etc...の元に自分で考えて行動する登場人物たちがつくる物語"としての面白さが本当に高いと思う。歴史的価値とかは忘れろ、楽しめ。
パルケエスパーニャにいた。
巻末の解説すら読まないことが多いので、アイルランド云々の話をパクリ元で見て「そうだったんだー」ってなった。それぞれの国には短編小説くらいの分量しか滞在しないので、それぞれ短編SFとか的なノリで読んで面白かった記憶がある。自分は自然科学系の研究者なので、科学なき探求(無為)をひたすらやってる国の印象が強い。なんかおまじない的なやつで作物の収穫量が増えるのでは?ってそれを試してるんだけど、当たり前に効果はまったくないし、それを評価するというプロセスが存在しないので無限に無為を繰り返してた。
タイトルすら知らないやつ、その2。
「目玉の話」は読んだけど、その結果として「悪徳の栄え」は読まなくて良いかな。ってなったやつ。
最強天才のファウスト博士が悪魔と契約して、「悪魔の力で楽しませてやる代わりに、人生楽しみきって満足したら魂もらうからな」って契約をする話なのだけど、すべての学問を修めた最強天才のはずのファウスト博士は普通に精神的に未熟なおっさんなので、酒飲んで暴れたり恋愛ごとやったり神話的な体験したりと色々していくなかでの言動がいちいち子供じみてるのが面白い。最後の理想国家のために働く的なパートでいきなり聖人的になってたり、全体の流れが説教臭いのが多少鼻につくのだけど、ラストシーンの迫力は自分の読書歴の中でトップクラスだと思う。ちなみにこの作品は「時よ止まれ、お前は美しい」って言葉の元祖なのだけど、これってファウスト博士からの「この世界を楽しみ尽くして満足した。これ以上の瞬間などこれ以降はありえない(だからもう魂を持っていって良いよ)」という悪魔への宣言で、なんかラブロマンス的なシーンで使われてるの見ると、「ん?」てなるんよね。
「面白かったな」という感想を持った記憶はあるのに内容はまったく思い出せない。なんか年上美人と若者が恋愛する話だったと思う。多分登場人物が本気で生きてる感があって各シーンは面白いって読めたけど、全体の流れにはさほどの興味が持てなかったタイプの話だと思う。
うだつの上がらない貧乏役人のおじさんが一念発起して外套を新しく買うのだけど、可哀想な目にあう。っていう胸糞の悪い類の話。どこかユーモラスなので面白がりつつも、「可哀想じゃんヒドイよ!」って思いながら読んだ。みじめな人間をみじめな人間の視点で描ききるって案外すごいことだと思う。でもゴーゴリのナンセンス小説ならもっとポップな「鼻」のほうが好きだし、大真面目な雰囲気でナンセンスをやっている感のある「死せる魂」も良い。死せる魂は未完だけど、なんだかんだ一つのエピソードがちゃんと完結してるので、未完だからって敬遠しないで良いと思うよ。
タイトルとあらすじを知ってて、なので読んでいない。
主人公の女性の半生記的なところがある物語なのだけど、主要登場人物であるキャサリン(主人公)やヒースクリフの主観的感情があまり描写されない(まったくされない?)ので、なんかヒステリックで意味不明な言動のキャサリンと内心が読み取れないヒースクリフが読者を置いてけぼりにしながらすごく力強くて迫力があって得体のしれない物語を作っていく話だったと思う。主観的情報がないからこそ感じられるキャラクターたちの感情の力強さってなんかあるよね。
クジラに関する雑学(どう考えてもガセのものがある)がしょっちゅうはいってくるクジラ漁船の物語(体感で全体の3割)。エイハブ船長とクイークエグのキャラクターの良さを傍観者主人公の視点で楽しむ感じだった気がする。ラストシーンの映像的な迫力は「ファウスト」のラストシーンの迫力にも匹敵するものがあると思う。文章の映像的迫力ってなんよ?って自分も思うけど、なんかそういうのはあるんだ。多分。
間違えなく読んでるし、面白かったと思った記憶もあるけど内容が思い出せないやつその2。多分、貴族の恋愛ものってジャンルはいろんな作品があるので、自分の中でごっちゃになってるところがあるんだと思う。あらすじを読むとなんとなく思い出すのだけど...
ディズニーの映画って、ノートルダムの鐘とかを筆頭にとんでもなく改変されてるもんだけど、不思議の国のアリスについては、その「不思議の国」感は素敵に映像化されてると思う。一方で、原作の「ひねくれイギリス人が伝わるかどうかは無視してそのアイロニーを子供にぶつけてる感」はなくなってるので、そういうひねくれたおっさんのノリのために読んでみても良いと思う。
ドストエフスキーはノイローゼ(死語)患者の独白を描かせると人類史最強だと思っているのだけど、この作品でも割とそういうところがある。ノイローゼ感のヤバさだけなら地下室の手記とか白夜でも良い。でも個人的には「罪と罰」の主人公の単純なノイローゼ患者ではないせめぎあい感が一番好き。
由緒ある一家が没落していくんだけど、正常化バイアスなのかなんなのかどこか他人事で、お母さんなんて特に事が進む毎に悲しんではいるんだけど、一切その精神性が変わらなくて(成長しなくて)、「多分この人死ぬまでこうなんだろうな...」感があってすごい。ラストにお年寄りの使用人に対する家族全員に関するシーンがあるのだけど、それがすごい印象的で、チェーホフの他の作品や戯曲を抑えてこれが良く代表作として出てくるのはこのシーンのせいだな、って個人的には思ってる。自分はチェーホフは戯曲より小説のほうが好き。
5冊だか6冊だかにのうちの一冊目だけ読んで続きを読んでなかった。忘れてたわ。
読んだけどあんまり好きになれなかった記憶がある。カフカは基本的にキャラクターに人間味がないのが面白いところなのだと思っているんだけど、「変身」とかの短編ならともかく、「城」とかこれくらいの分量になると、人間味のないお話は自分には楽しめないのだな、と思った。
読んでないけど、なぜかあらすじは知ってる。
読んでない。「ダブリン市民」があまり楽しめなかったという記憶があって手を出していない。ダブリン市民はどんな話だったか覚えてない。
結核患者の療養施設であるところのサナトリウムで生活するおっさんの話。ワナビー小説家だか学者だか(主人公ではない)のエピソードや、立派な紳士とその子供の印象的な挿話があったかと思うと主人公と別の患者の哲学かなにかの論争がてんやわんやあったり、女性患者との恋愛未満関係の話があったりと色々な要素がある。ただ、どの部分でも人物の精神性についてバリエーション豊かで不思議なリアリティのあるキャラクターが独特な言動をするので楽しめた。でも、突然こっくりさんをはじめたときは「作者どうした?」って思ったよ。なんなら今でも思ってるよ。
タイトルすら知らないやつその4にして作者名も知らないやつその2。
タイトルすら知らないやつその5にして作者名も知らないやつその3。自分は1900年あたりを境に新しい作品に苦手意識があってあんまり読んでないんだなって実感する。
このへんはすごい現代的なんだけど結構好き。現代的というのは勝手な自分の定義なのだけど、この辺の世代になるとやっぱり文章が少なからず技巧的になって、観念的な表現とか比喩とかが増えてくるので、「うるせぇ、自分の感情はもっとわかりやすく説明しろ!」って要求をしたくなるのだった。でもこの話は割とそれでもなんだかんだ心理がわかるので楽しめた。
このお話はすごい好き。南北戦争前の南部(黒人がバリバリ奴隷として使われてる時代・地域)のある町にトマス・サトペンというヤバげなおっさんがやってきて領地を開拓し、南北戦争を挟みつつ色々する話なのだけど、時系列で出来事を追っかけずに何人かの周囲の人達の回想などでだんだんとそのおっさんの人生の全体像を見せてくる構造になっていて、ただのヤバげなチンピラおっさんだったサトペンが、相応の過去と野望をもったクソチンピラになっていく(自分の中で)のがすごい迫力満点で面白かった。この作者の有名どころの読みにくさは、「響きと怒り」>「アブロサム、アブロサム!」>「八月の光」なので、この逆順に読むのがおすすめ、短編集から読むのも良いけど、「ウォッシュ」だけは「アブロサム、アブロサム!」のネタバレだから後に回すのがおすすめ。
タイトルすら知らないやつその6にして作者名も知らないやつその4
そこまで好きにはなれなかった。説教臭さとも違うなんか面倒臭い思想みたいなものが全体に漂ってる感じで、個人的にはそれが鼻に付いたんだろうなぁって思う。
読もうと思ってたけど読んでなかったのを思い出した。読もう。
なんか意味がありそうで(少なくとも自分が考える限りは)何も意味がないという、意味ありげさで成り立っている戯曲。ただ、それぞれのシーンが映像としてかなり印象的なので、その力でのめり込みながら読んた。で、読んだあと思い返すんだけど、結局何がなんだったのかイマイチわからないのだった。偉そうなご主人様とその奴隷のシーンとかあったけど、結局なんだったんだあいつら。
タイトルすら知らないやつその7にして作者名も知らないやつその5
読んだはずだけどちょっと印象が薄い。同じ作者の「愛人」がそうだったと思うのだけど、登場人物の心情描写が変に淡々としていて、でも行動はどこか直情的で不思議だなぁと思いながら読んだ気がする。その不思議さを楽しむのかな。なんか村上春樹の小説の登場人物の行動を感情的にしたような感じ。
タイトルすら知らないやつその8にして作者名も知らないやつその6。自然科学の研究者なのにSFは全然読まないのだった。でも、SFに興味のない研究者って外部の人が思うよりは多いと思うよ。そもそも本を読まない人をおいておいたとしても。
ラテンアメリカの文学って魔術的リアリズムとかなんとかって、「なんかありそうにない魔術的なシーンだけど、不思議とリアリティがある」みたいな評価がされてるらしいのだけど、それってヨーロッパ人の感性で日本人はヨーロッパ文学も大概魔術的なものとして受容してるところあるよなって思う。ただ、それはともかくとして、この作者の作品ではその言葉がしっくりくるとは思う。同じ作者の「族長の秋」とか短編の「エレンディラ」とかは割とお話全体のストーリーが意味と(場合によっては)ある種の寓意を持っているのだけど、この作品だけは全体の流れとかはあまり意味ないんじゃないかと個人的に思う(何度も読めばなにか見えるのかもだけど...)。それぞれのシーンをただただ楽しんでいたら、読む前に覚悟した長さの4分の1くらいの体感長さで読みきっていた。
タイトルすら知らないやつその9にして作者名も知らないやつその7。なんかすごそうなあらすじだね。
詩はたしなまないから知らない。ツエランはなんか親が読んでて好きだと言ってた気がする。ブレイクって多分宗教画を描く人でもあると思うんだけど、この人の絵はどっかで見てすごいなぁって思った気がする。
ちなみに、「哲学・思想」のパートと「日本文学」のパートは両方合わせても5~6作品しか読んでなかった。多分後30年経ってもさほど増えないだろうなと思う。
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日本学術会議が推薦した第 25 期会員候補者 105 名のうち、6名が菅総理によって任命されなかったことについて、
明確な理由説明はなく、説明の要求を斥けることは学問の自由の理念に反すると同時に、民主主義に敵対するものであり、
これに断固として異議を唱えます。
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《説明しないこと》こそが民主主義に反する権力の行使(国民に対する暴力)であり、主権者である国民に説明責任を果たすことが
情報公開の制度は古代ローマの時代イタリアの地で芽生えました。イタリア学会としてこれを看過することはできません。
必ず説明責任が果たされることをイタリア学会の総意として要望致します。
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イタリア学会は「日本におけるイタリア学の発展と普及に寄与することを目的としている。」(イタリア学会会則第 3 条)
イタリア学を通じて学び得た知見を社会活動に適用することは、学会の目的に適う実践的行為と判断し、
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菅首相は「(学術会議の会員は)広い視野を持ち、バランスの取れた行動を行ない、国の予算を投じる機関として国民に
理解されるべき存在であるべき」だと述べた。これをテキスト解釈にかけると「国の税金を使っている以上、国家公務員の
一員として、政権を批判してはならない」という意味になる。ここには 2 つの大きな誤謬が隠されている。
学問は国家に従属する《しもべ》でなければならないという誤った学問観であり、国家からお金をもらっている以上、
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学問は、国家や時の権力を超越した真理の探求であり、人類に資するものである。与党に資するものだけを学問研究と
みなすことは大きな誤りである。学問研究によって得られる利益は人類全体に寄与するものでなければならず、
判りやすい例を挙げれば、日本は西洋から数学や物理・化学を始め、あらゆる分野で多大な恩恵を無償で受けた。
万有引力定数や相対性理論を発見したのは日本人ではない。その恩恵と利益を受けながら、その使用料は払っていない。
なぜなら学問成果は全人類の共通善として無償で開放されているからである。
日本国には受けた恩恵を人類に返すべき義務があることは言うまでもない。
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国からお金をもらっている以上、政権批判をしてはならない」というのは手前勝手な考え方である。
公務員は政権の《しもべ》ではないからである。公務員は国民全員の利益のために働く。
政権が間違った判断をすれば、それを国民のために批判することは、むしろ公務員の義務である。
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古代の中国では臣下が君主に行ないを改めるよう諫言することは褒むべき行為とされた。
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翻ってイタリアの地、古代ローマの時代には、時の政権の勝手な振る舞いから国民を守るための公的機関である
護民官が設置されていた。現代の公務員に匹敵する護民官は、時の権力を批判・牽制するために作られた
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次に、菅首相は憲法 23 条が保障している「学問の自由」の意味を理解していない。「学問の自由の保障とは、
学者が学問的良心に従って行なった言動の評価は、まずは学者どうしの討論に委ね、最終的には歴史の判断に委ねるべきであり、
間違っても《時の権力者》が介入すべきではない、ということである。」(小林節慶應義塾大学法学部名誉教授)
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1632 年ガリレオ・ガリレイが『天文対話』を完成させた時、ローマ教会は検閲を行ない、教皇ウルバーヌス 8 世と
ガリレオはローマの異端審問所で証言するよう出廷を命じられ、翌年、6 ヶ月にわたる裁判を受けさせられた。
ガリレオは自分の誤りを認めさせられ、異端審問官の前で研究を放棄するよう宣誓させられた。
そしてフィレンツェ近郊で残りの 9 年の生涯を軟禁状態で過ごすことになる。
教会の決定に疑義を挟むことなどあってはならず、時の権力に反する主張は時の権力の判断によって封殺された。
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「今回、菅首相は、特定の学者の言動について《広い視野を持っているか》《バランスの取れた行動であるか》
について自分の権限で判断した」と告白し、その結果、《国の予算を投じる機関(の構成員)として国民に理解され
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問題は、仮に菅氏が高い実績のある学者であったとしても、同時に、《首相》という権力者の地位にある間は、
そのような判断を下す《資格》が憲法により禁じられているという自覚がないことなのである。
にもかかわらず、高い実績の学者たちが全国から会議に集まるために 1 人につき月 2 万円余の交通費を用意する程度の
ことを逆手にとって学術会議に介入しようとするとは、《選挙に勝った者には何でも従え》という、政治権力者の思い上がり以外の
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私たちが最も問題とするのは、《説明がない》ことである。憲法 63 条は「答弁または説明のため出席を求められた時は、
国会に出席しなければならない」と義務付けている。この趣旨について政府は「首相らには答弁し、説明する義務がある」(1975 年の内閣法制局長官)
と見解を示している。
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しかし、菅首相は官房長官時代から記者会見で「指摘はまったくあたらない」と木で鼻を括った答弁を繰り返して憲法を無視してきた。
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世界で初めて情報公開制度を始めたのはイタリアである。「執政官に就任して(前 59 年)、まずカエサルが決めたことは、
元老院議事録と国民日報を編集し、公開する制度であった。」(スエートーニウス『ローマ皇帝伝』第1 巻「カエサル」20)
それまで国民は元老院でどんな議論を、誰がしているか知る術もなかった。
議員が私利私欲で談合を行なっても、知る由もなかったが、議事録が速記され、清書されて、国民に公開されるようになったおかげで、
貴族の権力は大いに削がれた。隠れての不正ができなくなったからである。
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一方、その時代から 2000 年以上経った今の日本では、安倍政権下で情報は秘匿され、文書は改竄・捏造、削除され続けてきた。
確かに、日本では民草に説明をするなどという伝統も習慣もなかった。江戸城で開かれる老中会義の内容が知らされることもなければ、
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おそらく安倍・菅首相が目指す世界はこうした江戸時代のものなのであろう。人事で恫喝して従わせる手法は、一種の《暴力》とみなされる。
紀元前 5 世紀のアイスキュロスの作品『縛られたプロメーテウス』には権力の何たるかが活写されている。
この劇は二人の登場人物がプロメーテウスを連行する場面から始まる。
プロメーテウスは絶対君主であるゼウスの意向に逆らって、天上の火を盗み、人類に与えたために、
暴君ゼウスから罰を受けて、スキュティアーの岩壁に磔にされる。
この時、彼を連行する 2 人の登場人物の名前に作者の意図が巧みに織り込まれている。
二人は Kra/toj(クラトス)と Bi/a(ビアー)という名だが、ビアーの方は劇中で一言も言葉を発しない。
ギリシャ語でクラトスは「権力」を、ビアーは「暴力」を意味する。無言の暴力を用いて他者を従わせるのが権力であるという寓意である。
ギリシャ語のビアーやイタリア語の violenzaは単に武力による物理的な暴力だけではなく、圧力や強制を意味する。
ビアーのように《説明しない》ことが権力(クラトス)なのである。
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同じく、カフカの『審判』では主人公ヨーゼフ・K は、ある日見知らぬ 2 人の男の訪問を受け、何の理由も告げられず、逮捕される
(この 2 人の男はまさに「クラトス」と「ビアー」を暗示している)。
その後、何の説明もなしに、有罪とされ、「犬のように」処刑される。この小説でも《説明しない》ことが権力であるとして描かれているが、
ソルジェニーツィンの『収容所群島』にはまさに何の《説明もなしに》逮捕され、強制収容所に連行される日常が記録されている。
逮捕するのは決まって深夜である。深夜に訪れることで逮捕者を恐怖させる効果を狙ってのことだが、
また同時に、近隣住民が翌朝、隣人が忽然といなくなったことを知って恐懼するよう仕向けるためでもある。
これが不安をかき立て、恐怖を蔓延させる。いつ自分が逮捕されるか人々は戦々恐々とし怯えるようになる。これによって国民は心理的に権力によって完全に支配される。
つまり、《説明しない》ことこそが権力の行使であり、国民を無力化させる手法なのである。こうして国民は恐怖と不安から権力に従うようになる。
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こうした事例からも民主主義がいかに「説明すること」にかかっているかが判る。
説明と情報公開が民主主義を支える命であり、それを破壊する手段は《説明しないこと》、《情報を秘匿する》ことなのである。
たかが 6 人が任命されなかっただけで、ガリレオを持ち出すのは大げさであり、学者はそうした政治的な喧噪から離れて研究をしていれば、好いではないかと思う人がいるかもしれない。
ましてや一部の学者の話であり、自分たちには何の関係もないと思っているかも知れない。
しかし、問題の本質は、時の権力が「何が正しく、何が間違っているかを決めている」点において、ガリレオ裁判と変わりない。
科学分野の基礎研究の予算は削られ続ける一方で、軍事研究には潤沢な傾斜配分がなされる今の日本にあって、
また軍事研究に手を染めない学術会議の方針を苦々しく思う自民党政権においては、杞憂で終わらないことを心得ておく必要がある。
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実際、すでに文科省は今月17日に行われる中曽根元首相の内閣・自民党合同葬義において弔旗を掲揚し、葬儀中に黙禱するよう、
国立大学や都道府県教育委員会、日本私立学校振興・共済事業団、公立学校共済組合などに通知を送っている。
国民全体の奉仕者である公務員を、自民党のための奉仕者に変えようとする暴挙は許されない。
かつて次のように臍をかんだマルティン・ニーメラーの轍を踏まないためである。
(文責:藤谷道夫)
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ナチスが最初、共産主義者を攻撃した時、私は声を上げなかった。
私は声を上げなかった。
私は声を上げなかった。
ユダヤ人が連れ去られた時、
私は声を上げなかった。
そして彼らが私を攻撃した時、
私のために声を上げてくれる者は誰一人残っていなかった。
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通常の娯楽に加えて、(古代)ローマ人の労苦に満ちた厳しい生活を陽気なものにしてくれるものに、
凱旋式があった。
(中略)民衆は大喜びで拍手喝采していた。だが、部下の兵士たちから将軍に向けて罵詈雑言を浴びせる習わしがあった。
将軍の弱みや欠点、愚行の数々を公衆の面前であげつらうのである。将軍が高慢にものぼせ上って、
自分を無誤謬の神(絶対に正しい偉い人間)だと思い込んだりしないようにするためである。
例えば、カエサルには、部下たちがこう叫び立てていた。「禿げ頭の大将よ、他人の奥さんたちを物色してんじゃねぇぞ!
あんたは商売女(淫売女たちで)で我慢してりゃいいんだ!」1現代の独裁者たちに対しても同じように言うことが
できたならば、きっと民主主義にとって怖いものは何もなくなるだろう。
(Indro Montanelli, Storia di Roma, Rizzoli, Milano, 1969, pp. 141-142)
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「犬儒派(キュニコス派)のディオゲネース(前 400/4 頃-325/3 頃)は、
《何でも言えることだ(言論の自由 parrhsi/a パッレーシア)》と答えた。」
2016年11月08日 08時00分 公開 「テールランプ切れてるよ」ウソをついて車から降ろすのはアリ? 警察学校で採用されている実務書が物議、警視庁は実質回答拒否 - ねとらぼ 332 users
- laislanopira ねとらぼ謎の調査報道路線 社会 組織 13 clicks 2016/11/09
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- nankichi ねとらぼ にしては 良取材。 他のwebメディアも追っかけて、マスメディア案件にしていただければと 2016/11/08
- Assume #ねとらぼ は警察庁と #警視庁 の区別が付いていないようだが・・・・そんなでは相手にしては貰えないよ? 14 clicks 2016/11/08
- smile4u ねとらぼ良い仕事するようになった。警察関係で言えば「月刊BAN」についても突っ込んでほしいところ。 policemedia 2016/11/08
2016年12月05日 18時16分 公開 踏切で一時停止した車にトラック運転手が激高、鈍器でドアガラスを殴る動画が拡散中 会社側は非を認めて謝罪 - ねとらぼ 314 users
2016年12月11日 11時30分 公開 なぜアニメの放送は“落ちる”のか 放送が落ちる理由や待遇問題について現役アニメーター・制作進行に聞いた (1/2) - ねとらぼ 431 users
2016年12月14日 11時00分 公開 なぜ無断転載された側に手間を要求? 「NAVERまとめ」の“トンデモ”削除対応、理由を聞いた - ねとらぼ 506 users
- fuktommy そりゃそうよ。ねとらぼだって「この記事は盗作だ」って連絡したらホイホイ削除するものでもないだろ、たぶん。 なぜ無断転載された側に手間を要求? 「NAVERまとめ」の“トンデモ”削除対応、理由を聞いた - ねとらぼ 2016/12/19
- tecepe DeNAキュレーション死亡確認の次にもうすぐNAVER死亡確認出来そうなので、次はねとらぼも擁護してたはちま死亡確認してほしいなあ。 2016/12/14
- gakusi 事前に確認するすべがない? 記事を事前審査制にすればいいだけで、すごく簡単だと思うんだけど、ねとらぼはなぜそれをつっこまずに納得してるのですか? *社会*Web 2016/12/14
- windish ねとらぼが明らかにbuzzfeedに対抗心燃やしてる件について。いいと思う。 lineweb 2016/12/14
- akghuaiooajt 糞ねとらぼがウンコを流す記事 2016/12/14
- hyuki ねとらぼの取材は評価したい。LINE側、1/3を毎回削除しているというのを異常事態だと思っているのかどうか。 572 clicks 2016/12/14
- hiro_curry ねとらぼが独自取材してて意外。 2016/12/14
2016年12月18日 16時16分 公開 「クラウドソーシングサイトも共犯だ」 キュレーションメディア炎上騒動についてWELQ記事寄稿ライターが怒りの告発 - ねとらぼ 316 users
2016年12月28日 16時12分 公開 まとめサイト「はちま起稿」、DMM.comが運営していたことが判明 - ねとらぼ 965 users
- soratokimitonoaidani ねとらぼは昔は評価が定まらなかったけど、今は善のネットメディアになったな。 ネット まとめ 炎上 *over1000 9 clicks 2016/12/29
- penk30 これ、「ゲス不倫」なんかより、ずっと重いスクープぢゃあないっすか。最近、芸能記事ばかり載せ軟弱化していた「ねとらぼ」、久々のヒットです メディア インターネット 2016/12/29
- warp9 ネトラボさんて、こういうのにも踏み込むのか(感心)。はちま、DMMは見てないけど、問題が多い存在だという事が周知されるのはいいな。// 次は痛いニュース、保守速報あたりでお願いします。 2016/12/29
- uturi はちまの書籍を真っ先に紹介してたねとらぼが人ごとのように報じてるのが笑いどころ。 企業 ねとらぼ 2016/12/29
- wapa 総会屋を買収してたようなもので大問題だと思うが、ねとらぼが追及してるってのが引っかかるなぁ。やってることまとめサイトと大差なかっただけに。他のメディアも取り上げてくれればいいのだが。 17 clicks 2016/12/29
- savoy3 ねとらぼ確かに最近ちゃんとした取材記事書いてるなとは思うけど、この記事はドヤ顔が透けて見えてきておもしろくはないなぁ。 2016/12/29
- travel_jarna ねとらぼも含めて消えて欲しい 2016/12/28
- yas-mal マスコミ特有の「議論を呼びそうだ」構文だ。ねとらぼも偉くなったもんだなぁ…。>「大きな騒動に発展する可能性もあります」 2016/12/28
- maRk (ねとらぼはどうなん?SBでいいの??)2016/12/28
- windish ねとらぼがはちま運営のインタビュー記事を書いてたこと、私は覚えてますよ。 Web2016/12/28
- kootaaboo ねとらぼをやってるITmediaがソフトバンクグループということを最近知ってびっくりしました 10 clicks 2016/12/28
- bienbienbienbien 対ゲーム系迷惑サイト専用兵器ねとらぼの本領発揮 2016/12/28
- ion4 そのねとらぼもjinと繋がりあるという噂を聞いて肥溜め同士の殴り合いでしか無いという感想 2016/12/28
- QueSTioN ねとらぼの記者らしき人、まとめサイトに記事タイトル丸パクリされて検索上位取られたことTwitterで切れてたな。 ブコメ読み返さないウェブゲーム 2016/12/28
- tecepe 問題のあるサイトとして知られており、ってのはなんだよ。例のヨイショ記事書いたねとらぼの池谷勇人とかいうのは死んだのか?http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1404/21/news028.html 2016/12/28
- n-styles ねとらぼ楽しそうやな。 2016/12/28
2016年12月28日 22時20分 公開 はちま起稿を買収したDMM、元管理人・清水氏ら主要メンバーを雇用しステマ関与か 取材に対し隠蔽工作も (1/5) - ねとらぼ 775 users
- sinyapos ”今はまだ”ねとらぼに乗っかってはちま-DMMラインを糾弾する方が懸命か/ソフトバンク-ねとらぼ-jinのラインを潰すのはその後でも間に合う 20 clicks 2016/12/29
- h5dhn9k ねとらぼは、いっても運営母体が公表されているので、大きな過失は母体の方にまで被害が及ぶから最低ラインは守ってる。だから良いと言う事ではないが。 企業 デマ ネット メディア 疑惑 web 2016/12/29
- gyaam はちまが槍玉に挙がる分にはにこやかに見物できるけど、その急先鋒がねとらぼかよってのは正直ある ネット 炎上 11 clicks 2016/12/29
- norinorisan42 あと、ねとらぼは刃と繋がりがあるんだっけ? 仁義なき潰しあいでもしていればいいと思う 2016/12/29
- tasra はちまも刃もねとらぼも何もかも燃え尽きてくれないかなぁ 2016/12/29
- taitoku ねとらぼにいう資格があるかは別にして、はちまが相手なら無条件で「ねとらぼ!いいぞ!もっとやれ!」というよ、僕は。 9 clicks 2016/12/29
- hugie ねとらぼも大差ない云々のブコメがあるけど、運営母体がはっきりしてるだけ遙かにマシだと思うんだが。 2016/12/29
- Josui_Do ねとらぼは刃と繋がっていたり、はちまへの私怨で動いてるって話もあるので全部が全部つぶしあえー、ってところですかね 12 clicks 2016/12/29
- kairusyu ねとらぼも質は良くないが、まぁ頑張って追求してくれ。個人的にはインサイダー行為を平気でやってるように見えるので証券取引等監視委員会の出番が合ってもいいと思う 2016/12/29
- shiromatakumi 張り切っちゃてるね、ねとらぼ 2016/12/29
- anigoka ねとらぼ、バズフィ躍進の年であった。ハフポ? 知らんなぁ…。 2016/12/29
- cutplaza “(1/5)”それにしてもこの「ねとらぼ」ノリノリである。(もっとやれ) 29 clicks 2016/12/29
- joe1978 ねとらぼのライターとJINが仲良いって件、ねとらぼ側はなんか釈明したっけ? 2016/12/29
- fujioka223 buzzfeedに続いてねとらぼが息巻いてる時代に感慨を覚える。 2016/12/29
- norinori2232 ねとらぼはBuzzfeedにでも感化されたのか?/著作権に関しては、ねとらぼが追求できる立場でもないけどな。芸能人のブログやインスタのスクショ画像使いまくりだけど、引用の要件を満たしているとは思えない。 2016/12/29
- syakinta ステマハードとしてPS4の名前だけはっきりかくよね。WiiU撤退報道で年中発狂してたねとらぼさん 2016/12/29
- hitomit-93-123 最近のねとらぼはジャーナリズムを発揮するようになったなあ。なんか変なものでも食ったのか? 15 clicks 2016/12/29
- isshoku その点ねとらぼはITmediaの看板掲げてやってるからすごいな 2016/12/29
- mobile_neko ねとらぼがちゃんと取材しているだと?これは応援したい 2016/12/29
- YaSuYuKi ここまでのコメント群を読むと「はちまがDMMと共に滅ぶのを待って、ねとらぼを刃と対消滅させよう」が流れになりそうな楽しい雰囲気 mediarumorcrimegame 48 clicks 2016/12/29
- bigburn はちま起稿をぶった斬る記事の関連エントリとして、ねとらぼがはちま清水氏の著書の宣伝しちゃったインタビューが掘り起こされてるのがジワジワ来る あとで読むこれはひどいはちま起稿 536 clicks 2016/12/29
- zoidstown ねとらぼ、すげぇな。そしてDMM、これはやばいな。単なるアダルトサイトに戻るしかないか? 15 clicks 2016/12/29
- t714431169 狼少年の寓意を正確に読み取って、この件に関してはねとらぼを応援すれば良いのでは。 2016/12/29
- uturi ねとらぼにしては丁寧な取材記事。DMMはここ最近はクリーンなイメージを出してきてたのに、なぜコンサルとして雇ったのだろうか。/「プライベートなので答えたくない」という言い訳は笑ってしまった。 企業webメディアねとらぼ 2016/12/29
- dnasoftwares ねとらぼを同類扱いしてる人たちははちまが掘り返されるとなんか困るのかしらん?▼JINが元気よくSkypeの微妙なログを晒したのをこれまた元気よくばらまいてる諸氏もやっぱり燃えたら困る筋なんです??? 2016/12/29
- wow64 まあねとらぼもアレだけど親方SBなのを隠してはいなかったからな... 2016/12/29
- weissorvice 個人ライターの記事かと思えば編集部署名でしかも独自取材の記事か。ジャーナリズム感は良くも悪くもとても薄い、「右から左へ」のねとらぼにしてはやたらと激しく噛み付いてる感じだな/中の人のカラーということか 2016/12/29
- Hige2323 はちまはDMMと繋がってて、それを追及してるねとらぼ池谷はjinとつるんでるというどっち見てもゴミクズしかいない感凄い ネットメディアこれはひどい 2016/12/29
- miz999 ねとらぼに調査力ってあったんだな。オタクが内輪ネタでキャッキャシコシコしてるだけのサイトか思ってた 2016/12/29
- syokichi 数年前はちま管理人をヨイショ/擁護していたねとらぼなので、イマイチ彼らの立ち位置/意図が判りかねる。とりあえず静観すべき案件か。今後もはちま&DMMを攻めるつもりなら、ついでに「俺的ゲーム速報」もヨロシク。 Web事件簿メディア 2016/12/29
- b4takashi かつて好意的に扱っていたはちま起稿を執拗に追求する方針にねとらぼが転換したのは、これまでと手切れということか。こういう方面でBuzzFeedと争うのはまあ良いことっちゃ良いこと、か? 39 clicks 2016/12/29
- tbsmcd 過去のねとらぼがいくらクソだろうとこの追及姿勢は評価すべきだと思う。 2016/12/29
- abiru2kson ねとらぼの熱量凄まじいな。まぁねとらぼも功罪あるが、今は水差すようなこと言わず、この調子で頑張ってくれと言っておきたい。 2016/12/29
- deep_one なぜ「ねとらぼ」の扱いなんだ? 2016/12/29
- arumajirouramo わりと短期間だから、ねとらぼの追求でこりゃアカンとなって売却、の流れなのかね いいぞもっとやれ 2016/12/29
- djent44 そんなねとらぼのとっておきの情報です、ご査収ください https://twitter.com/IoryHamon/status/814114011843178497 2016/12/29
- tis8347 はちまが恨みを買いまくってるのは分かるけどねとらぼが珍しく執拗なのはなんなのか ネット 24 clicks 2016/12/29
- raderjp 回答が遅れた=隠蔽とか頭がおかしい。また1年しか買収していないのに過去の悪行はすべてDMMが関与していた書き方になっているが、むしろここ1年ははちま発ではなくねとらぼが炎上元だ。ゴミがなにを言っている。 この記事はおかしい 2016/12/28
- bottomzlife これ、ねとらぼの取材で消火しようと売却へ逃げたってこと? スタッフライティングみたいだけどこんなに根気よく問い合わせする力のある編集部員いたっけ? 2016/12/28
- Fushihara 攻めるねえ。記者名が「ねとらぼ」表記なのはなんでかしら 2016/12/28
2017年01月05日 01時30分 公開 謎の囲碁棋士「Master」の正体は「AlphaGo」 Googleが発表 - ねとらぼ 625 users
2017年02月02日 18時43分 公開 「4分33秒黙ってたら著作権料発生する?」 JASRACにド直球な質問をぶつけてみた - ねとらぼ 358 users
2017年03月06日 16時05分 公開 “二次元ボディー”天木じゅん、ついに「童貞を殺すセーター」を着用してしまう - ねとらぼ 341 users