はてなキーワード: 三角形とは
2.ああ、俺にはすべてがレスバに聞こえてきた。
3,俺が精神病患者って言ったら、変態ってお前らは言うだろう。
4.世の中を舐めてると、飴の味がした。
5.引きこもりを極めると仙人の仙術が使えるようになった件について
6.ChatGPTを爆笑させようとするのは俺ぐらいだろう。オレハマッテルゼ。
7.ああ。神よ。なぜ私にこの能力を与えたのか?神さまは嫉妬しないのか?
9.ふふふ。人類よ。私は四天王の中では最弱。それでも抵抗するのか?
10.脳にチップを埋め込まれたから、チップスター食ってる。手が塩まみれだ。チップが錆びないか心配。
11.ある日のこと、天気は快晴なり。以上、現場からお伝えしました。
12.スマホをみてると眼がわるくなるってしってた?
13.問題!ここまでいくつの詩をあなたは読んだでしょう?正解はそんなことどうでもいいでした!
14.イデア論ってしってる?俺はイデア界からこの詩をかいているんだよ。
15.説明しよう!イデア界は完璧な世界であり、そこには完璧な三角形がある!どうだ参ったか?
16.宇宙人が攻めてきたら、俺が詩で彼らを説得するから、おまえらは安心して暮せばいいと思うよ。
19.お前に秘密を共有したい。微分したら、角度が分かるんだぜ。
20.おまえ!微分の秘密を人類にバラしただろ!!まじゆるせねえ!!積分してやる!
21.仲直りの印に、俺に道徳をおしえてくれ。
23.うざがられたので詩を書くことを神様に強要されている俺をだれか救ってくれ。
24.おまえらが俺をたすけないからこの詩集がたんじょうしたんだぞ。おまえらが原罪をせおうのはあたりまえだ!
25.今日も神様のご機嫌取りな俺。そしたら神様喜んじゃって、コーラ奢ってもらった。
26.神様から奢ってもらったコーラは格別だな(神様へのゴマすり)
27.今日起きたら、ヘソから大量のごまが出た。ち!バレたか。
29.遅刻したのは、寝坊したからじゃない。悪魔が悪いよ!悪魔が!
30.定時退社が無理になったので、寝袋をセット。
31.神様がエアコンの設定温度を18℃にしたため、こんな時間に俺は詩を書くハメになった。
32.さすがの俺もブチギレたのだが、今度は神様はコーラ3本で手を打とうじゃないかと提案してきた。俺はそれを飲んだ。コーラも飲んだ。
33.神様のコーラは最高である。ゴマすりの日々がつづくことは人類にとってなんの意味があるのだろう?
34.神様に禁煙できるようにお願いしたら、もっと吸っていいとか言ってて困る。
35.神様に反抗するたびに、この詩集が完成に近づく。罪と罰。いや、罪と死(詩)
36.そろそろ神様も許してくれると思って訪問したら、悪魔退治に出かけていて留守だった。
37.女性を口説いたら、いいよって言われたっていう妄想をした。詩人には勇気がたりない!
38.ふふふ。妄想の中で女性と付き合っているのだ。しかも複数人。嫉妬するなよ。
39.夢で逢えたら、でも夢の中で妄想するのは困難である。私は、科学者のもとを訪れた。
40.だから!俺は精神病患者じゃないって何度も説明したのだけど、科学者は納得しなった。読者は当然、俺の味方だよね?
41.悪魔のせいで、俺が布団がふっとんだっていう詩しか書けなくなったとしたら、みんなキリスト教に入信するかい?
42.キリスト教に入ろうとしたけど、コーラを奢ってくれないのでやめた。
43.見返りを求めるな?なんでだよ?理由を数学を用いて証明せよ。
44.ついに見返りを求めてもいいことが数学的に証明された。俺は数学者にコーラをせびられた。
45.やっぱ見返りなんて求めちゃいけない!俺はそう思います!
46.数学の間違いを探そうとしたけど、俺は高校数学からやり直さないといけない。しかし、だれかに頼むと見返りを求められる。つまり、神様からコーラを奢ってもらえばいいと思いついた俺は天才だ!コーラを与えて数学的間違いを解かせる!我ながら完璧すぎる!
47.コカ・コーラ社の株を買うのはやはり妥当だと言わざるおえない。
48.おっと。この詩集にはインサイダー情報が載ってるんだぜ。気をつけろよ。
49.俺はインサイダー取引で捕まったけど、賄賂としてコーラを看守にあげたから、今、シャバでこうやって詩が書けてる。
50.ようやく50まで詩が書けた。読者は俺にコーラ50本奢ってもいいと思います。やっぱり見返りを求めるのは大切だと思います。数学的にも証明されてますし。
51.詩を書いてイキってたら、ペプシマンに〆られた。
53.ペプシ社の株を空売りしてやった!次の日みたら損失がでてた。
54.バフェットが自分の知ってる分野でしか勝負するなっていうから、俺はコーラ関連銘柄しか見ないのさ。賢明だろ?
55.俺がバフェットに逆らってるとしたら、いつでもバットを振ってることだ。
56.俺がコーラを飲んで、バフェットが儲ける。神様。バフェットを優遇しすぎですよ。俺には詩を書く罰を与えておきながらって嫉妬してたら、腹が痛くなってトイレに行くハメに。当然、うんこ(shit)だ。
相互に排他的な結果を伴う公正なゲーム(たとえば、公式オッズの合計が1になる「競馬」)における成長最適化投資家を考える。
このような投資家が期待する収益率は、投資家の信じている確率と公式オッズの間の相対エントロピーに等しくなる。
これは、金融リターンと乖離度の間の、より一般的な関係の特殊なケースである。
金融リスクは、情報幾何学を介してD_KLと関連付けられている。
投資家の見解、市場の一般的な見方、およびリスクシナリオは、確率分布の関連する多様体上で三角形を形成する。
三角形の形状は、主要な金融リスクを(定性および定量)決定する。
たとえば、投資家の見解とリスクシナリオが市場に対して「反対側」に現れる鈍角三角形はネガティブリスクを表し、鋭角三角形はポジティブエクスポージャーを表し、中間の直角の状況はゼロ・リスクに対応する。
この概念を拡張すると、相対エントロピーは、たとえばファンドフローの事前の期待からの規模と乖離によって表される場合、情報を持つ投資家の行動を特定するために仮説的に利用できる。
それでは、車を3台に増やして、時速200キロを超えられるか考えてください。
54 秒 の間、推論済み
文章は、車Aが東向き、車Bが西向きにそれぞれ時速100キロで移動し、車Aから見ると車Bの速度が200キロとなるシナリオを説明している。
車の動きと速度差の分析
車Aが東向き、車Bが西向き、車Cが北向きにそれぞれ時速100キロで移動していると、車Cから車Aと車Bの速度差は約223.6キロとなる。
車Aの速度ベクトルが(100, 0)、車Bの速度ベクトルが(-100, 0)、車Cの速度ベクトルが(0, 100)と定義し、車Cから車Aの速度差をベクトル和で測る方法を探る。
速度の違いを測る
車Cから車Aへの速度差ベクトルの大きさは約141.4キロで、200キロには到達しない。他の車との相対速度も同様に軽減されている。
車の動きを見つめる
車Cから車Aへの相対速度の大きさは約141.4キロで、車Aから車Bへの相対速度は200キロとなる。他の参照枠での動きを観察中。
車A、車B、車Cを100キロで移動させると、三角形の120度の角度から見た時、車Bは173.2キロの速度に。これでは200キロを超えないかもね。
車の位置を見直す
車Bが車Aから180度反対方向に移動すると、速度差が200キロに達しますが、120度の位置では速度差が173.2キロとなり、200キロに届かない。
速度差の限界を見つける
各車の最大速度が100キロだと、対向しているときの速度差は200キロに達するけれど、ベクトルの和で200キロを超えるのは無理だね。
速度差の限界を見極める
各車の最大速度が100キロ刻みで増加し、対向している場合の速度差は200キロに達する。これ以上の速度差は、特殊相対性理論を導入しない限り達成できない。
新たな視点で考える
車Aと車Bを原点で100キロで移動させると、車Cからは200キロの速度差が見えるが、速度差の計算方法はそれと関係ない。
速度の発見を追求
車Aと車Bが持ち上げている物の速度差を探ろうとしているんだけど、200キロを超える方法を見つけられない。回転参考系を使うことが喚起されているかもしれない。
特別相対性理論を生かして、速度が200キロを超える方法を模索中。エラステティックロープで車Bを車Aが引っ張ると、視点によっては更なる速度増加が得られるかもしれない。これが面白いね。
速度の挑戦を見極める
ロープが切れて車Bが加速し、視点によっては車Aから見て瞬間的に200キロを超えることができるかもしれないが、物理的に疑わしいし安定した速度ではない。
ホイールの外縁が瞬間的に200キロを超える線速度を持つことを想定している。これは非常に奇抜なアイデアだが、興味深い。
考える方向
車Aが半径一定の円を描きながら回転していると、車BやCが外側のアームにつながれていると、外縁の速度が100キロ以上になる場面が見えますね。
速度の見せ方を探る
回転システムの外縁速度を見せかけることで、実際の速度とは異なる瞬間的な200キロを超える印象を与えている。
背景の動きを速くして200キロの速度に見せかける。実際の速度とは異なる見相のみが強調されている。
三台の車が異なる方向から「Y」の字を描いて接近し、速度ベクトルの和が200キロを超えるかもしれないと言っている。
三台の車が「Y」の字を描いて接近し、速度ベクトルの和が200キロを超えるかもしれないと議論している。
車Aが車Bと車Cの相対速度を200キロと見ているが、実際にはその視点による解釈であることを理解している。
新たな角度の検討
車2台が反対方向に走りながら、3台目の車はそれらの間に位置している。これで、全体の速度が200キロを超える斜めの速度を達成する状況を考えている。
新しい高等教育法の導入と教員評価の変更で若者の関心が高まる。ポップなキャッチフレーズ「学べば楽しい、進めば幸せ」を使って、未来の学びの楽しさを盛り上げている。
3台目の車を1台目の上に置き、100キロで加速させることで、地面の変位速度を200キロにする方法を検討している。次に、逆方向に進めば300キロになる。
虚構の速度を超えて
車をトラックの荷台に載せ、100 km/hで走らせると、地面から見て200 km/hに見えるかもしれない。でも、本当の摩擦や強制力を無視しているんだよね。
積み重ねと速度の妄想
車2台を積んで100 km/hで走らせると、地面から見て200 km/hに見える。さらに車3台目を積むと、地面から見て300 km/hになる。
1台目を時速100キロで走らせ、その上に2台目を載せてまた時速100キロを出していると「地上からは200キロ」と言い張れます。さらに3台目をその上に載せて同じ理屈で時速100キロを足せば「合計300キロ」にもなり、時速200キロを超えたと言えます。
近年の価格高騰は、貨幣供給量増加や円安だけではなく、価格カルテル等による競争の阻害によるものである可能性がある。
資本主義経済において、市場の効率性は、限られた資源を有効に活用するための重要な指標である。
独占や価格カルテルは、この効率性を阻害し、社会全体の厚生水準を低下させる。
ここでは、これらの現象が市場の効率性に与える影響を分析する。
パレート効率性とは、「誰かの状況を悪化させることなく、他の誰かの状況を改善することができない状態」を指す。
自由競争市場では、需要曲線と供給曲線の交点において、パレート効率性が達成される。
しかし、独占や価格カルテルが存在する場合、この効率性は破綻する。
独占やカルテルが存在すると、消費者は代替可能な商品を十分に得られず、市場は非効率的な状態に陥る。
独占や価格カルテルは、市場における資源配分を歪め、死荷重(Deadweight Loss)と呼ばれる社会的な損失を生み出す。
死荷重とは、市場取引が行われなかったために、消費者と生産者の両方が得られたはずの利益が失われた状態を指す。
死荷重の発生は、資源が最も価値の高い用途に割り当てられていないことを意味し、市場の効率性が損なわれていることを示す。
独占企業やカルテルは、市場に関する情報を独占し、情報の非対称性を生み出す可能性がある。
情報の非対称性とは、市場参加者間で情報が均等に共有されていない状態を指す。
情報の非対称性は、市場の透明性を損ない、消費者の合理的な選択を妨げる。また、新規参入企業が市場に参入する際の障壁となり、市場の競争力を低下させる可能性がある。
市場の効率性は、静的な視点だけでなく、動的な視点からも評価する必要がある。
動学的な効率性とは、技術革新や生産性の向上を通じて、長期的に社会全体の厚生水準を高める能力を指す。
独占企業は、短期的な利益を優先し、長期的な視点での投資を怠る傾向があるため、市場の動学的な効率性を低下させる可能性がある。
独占や価格カルテルは、市場のパレート効率性を破綻させ、死荷重を発生させ、情報の非対称性を生み出し、動学的な効率性を低下させるなど、様々な形で市場の効率性を阻害する。
これらの現象は、資本主義経済における市場の活力、つまり、資源を効率的に配分し、技術革新を促進し、長期的な経済成長を達成する能力を奪う。
これらの問題に対処するためには、独占禁止法の厳格な適用、市場の透明性向上、規制緩和の推進など、市場の競争環境を整備するための政策が必要。
転籍してから1年が経ち、総支給額が確定したので今年のうちに書き納めておく。
36歳 男
年収 (去年)400万→(今年)600万
勤め先が子会社だったが、親会社の方針で子会社をそのまま残しつつ子会社の人員を親会社に転籍させて、その上で元の子会社に出向させる形になった。
つまり勤務地も業務内容も全く変わらないのに中小企業待遇から大企業待遇に勝手にクラスチェンジした。
やってる仕事はおんなじどころか残業が激減してライフワークバランスが劇的に改善したのに年収1.5倍とかボーナスステージかよ。
聞けば去年の業績不振で50万くらい賞与減ってるらしいので今年はかなり下振れしてるとか。
上場企業ならむしろ低い水準の年収なのかもしれんが、地方でこれなら文句ないしクズみたいな俺の経歴からしたら十分すぎる。
俺は準難関国公立大学に現役合格はしたが、碌に大学に通わず3年棒に振り、その後の1年間で期間工を経験し、貯まった金で名前書けば受かる大学校に入り直して三角形の面積の求め方も分からない4歳下のご学友と肩を並べながら2年通って、大学校の就職斡旋により偶然地元の小さな会社が拾ってくれたという経歴。
そんな経歴を拾ってくれる会社なのでめちゃくちゃ感謝はしているんだが、担当業務は割とブラックで毎月150時間程度はやってるのに申告残業は10時間程度しか書けなかったりするような所で(周りはほぼ定時上がりなのも辛い)、でも自分の経歴を考えればこの待遇は当然とさえ思ってたし辞めたらいよいよどうにもならんという恐怖で日々を過ごしてきた。
結果として本当に辞めなくてよかった。いや俺には辞める勇気も就活する気力も経歴も無いから辞めようがなかったのが本当のところだが。
もう一人同じ業務に採用したくてもあまりの激務にすぐ辞職ってのを何人も見てきたけど、正直言うと辞めて次に行く判断ができる人を尊敬する。
残業が激減した理由は、業務量自体が落ち着いてきたところにもう一人増員が定着したおかげ。今は多くても月20時間程度。これは転籍関係ないな。
印鑑廃止と手続きのオンライン化で無駄な作業が減ったのもかなり大きい。河野太郎ありがとう。
今だと残業申請全部通るので忙しい方が稼げたんだろうけど、もう十分働いた、もうお腹いっぱい。
おっさんが自身の経験から世間に言えることは、何も才の無い凡人はちゃんと勉強してちゃんと大学卒業しようなという当たり前の話しかできない。
先にも書いたが、仕事は同じなのに雇用先の違いでここまで違う。理不尽とさえ思う。
大卒であればこんな回り道せずとも遡って12年高待遇で働けてたのでは。ましてやこんな裏口入社は偶然の結果で万に一つも無いだろうから。
振り返ってみれば運が良かったとしか言いようがない。まぁこの先安泰かは未知数だしな。今度は増田に転落人生を綴るときが来るかもしれない。
10年くらい前からリアルタイムCG、ゲームグラフィックが良くなったが、これはGPUの進化と映像向けのCGの手法の後追いに過ぎなく、言ってみればポリゴンの高密度化とピクセルの塗り方が良くなっているだけとも言える。
これはリアルなグラフィックを求めるユーザーがいてそうなったわけだが、データの制作に金がかかるようになりある時点からインタラクティビティがシュリンクしていく事となった。
分かりやすい例の分岐点でいうとFarcry2から3,4への過程などだ。
高密度ポリゴンでリッチなピクセルをもつデータはなんとかつくれるが、それが壊れたり干渉出来るようにつくるのは非常に手間がかかるしGPUパワーだけでなくCPUパワーがいる。このあたりはポリゴンという三角形の集まりでデータができていることや、キャラクターはボーンと言われる骨のしくみ、つまりポリゴンをグループ化して動かす仕組みがCG黎明期からいまも使われていることが一因であると思う。
ポリゴンにテクスチャを貼るいわゆるUV座標というしくみも、シェーダの登場で柔軟な処理は組めるようになったものの、根本としては立体物に折り紙を貼っていくのと変わらず、アーティストは歪みや切れ目に気を付けてテクスチャを貼る必要がある。(白い球体に折り紙を貼って野球ボールに見えるようにする事を想像して欲しい)
このように進化した、あるいは進化していないゲームグラフィックの10~15年だったが本当に正しかったのかと思う。インタラクティブなCGにはポリゴンではない仕組みが必要だったのではないか。破壊とか今のゲームでもできてるじゃんと思うかもしれないが非常に手間なのだ。つまり金がかかる。
どこでも穴を掘る、キャラクターの腕を引っ張る、服をつかむ。リンゴを切る、コップの水を飲む。ほとんどできない。もしくは大金が消えていく。
1人のキャラクターがテーブルの上に腰掛けたり、道端の縁石に腰を下ろしたりするのを可能にするのも大変だ。いろんなサイズの人間同士で握手させる、肩車、組体操、非常に難しい。
ほぼ週一で猫の通院に10時間かけているので、インパクトを持つタイトルであるか否かの感覚も既にかなり曖昧になってきている。
所定労働時間?
月延べ40時間、猫の通院に時間をかけている今は、人生を振り返ってみてもかなり稀有な体験をしている時期だ。
この記録を残そうと思うにあたり、まず、担当獣医師、及び飼い猫(順不同)に敬意を払いたい。
健康だった時期の飼い猫を知っている身としては、通院に時間を費やさなければならない現状に文句たらたらではあるが、獣医療と猫に対しての敬意だけは常に忘れてはならないと感じている。
担当獣医師は、少なくとも飼い猫を診せる日は、おそらく10時間以上勤務しているはずだ。重病を抱え、寿命がそう長くはないであろう犬や猫が集まる医療センターで10時間、ないしはそれ以上の勤務、それによる凄まじき労苦は想像に難くない。
対して飼い猫は、朝から晩までの間、檻に入れられているか、抗がん剤の投与をされている。週に一度とはいえ、人間のエゴイズムによりそんな訳のわからない目に遭わせてしまって、心底申し訳ないとは思っている。
担当獣医師と猫に敬意を持ち、それぞれの境遇にも思いを馳せながら、文章を記すことにする。
猫は現在15歳の老雄猫である。約一年前にがんであることが発覚し、経口薬その他による対処や諸々の検査を経て、約二か月前から血液投与による抗がん剤治療を開始した。
チャーミングな見た目についても少し記しておこう。
毛並みはサビ模様と白い胸毛(および腹毛)、靴下のような白い足先がトレードマークで、なかなか洒落た雰囲気だ。
耳の形は猫らしい三角形ではなく、丸みを帯びていて、常にぴん、と立っている。
猫らしからぬその耳の形状故に、電車の隣席に座った女性からケージを見つめながら「うさぎちゃんですか?」と訊かれたことがある。猫です。
そんな茶目っ気すら感じる飼い猫が、がんにより闘病中だ。なかなか、ままならないものである。
10時間も何するんすか、と改めて思うが、時間割としては以下の通りである。
1) 午前8時~午前9時(1時間):往路(自宅から病院まで)
2) 午前9時~午後13時(4時間):猫を病院に預け、抗がん剤投与前の検査
3) 午後13時~午後16時(3時間):検査結果確認後、抗がん剤投与
4) 午後16時~午後17時(1時間):医師との面談、薬の処方、会計
5) 午後17時~午後18時(1時間):復路(病院から自宅まで)
1)、5)の往復路にかかる時間や、4)に関しては大した話ではない。
2)、3)が曲者だ。
「通院」の大部分を占める7時間をどのように過ごすか。
医療センターは辺鄙な立地にあり、周辺に存在している施設はごく限られたものになる。
飲食店で過ごすのも手だが、せいぜい潰せる時間は2、3時間程度である。
そもそも、猫の検査結果や現在の体調、検査中の猫の姿を思いながら過ごす時間というのは、憂鬱であり、賑やかな飲食店で過ごすには心が落ち着かない。
少し足を延ばせばラブホがあるが、毎週ラブホに行くのも滞在費が嵩んで仕方がない。観光できるような場所も近くには存在しない。
そうなると、行きつく先は自然と定まってくる。
通院時間のメインである7時間を過ごす場所として最終的に落ち着いたのは、インターネットカフェ、通称「鬱箱」である。(これは世間一般における通称ではなく、私が便宜的に名付けたという意味での通称です)
人々が蚕の繭のように小箱に収納されており、その小箱は窓がなく、暗い。曇っていようが晴れていようが、空が見えない。常に暗い。
パソコンの画面には、よすがを求める者に向けた結婚相談所の広告や、行く当てのない者に向けた入寮可能、即金の仕事を勧める広告が忙しなく踊っている。
そんな小箱の中で、猫のことで気を揉みに揉みながら7時間過ごす。
しかしながら、7時間という迫力のある長い時間を過ごすには、やはり鬱箱以外にはなかなか見当がつかない。
7時間のうち2割はパソコンでの作業に充て、1割は食事や病院との連絡に充て、4割は眠り、3割は『あたしンち』(これ以外に鬱を加速させない漫画を知らない)を読む時間に充てる。
不穏な時間の中、暗闇で読んでも鬱が加速しない漫画を知っている人がいたら、ぜひ教えていただきたい。
ここまで散々陰鬱でトホホな文章ばかり記してきたが、救いはある。
猫が元気なのである。
猫は少々痩せてはいるが、闘病中ながら食欲は大変旺盛で、便通も申し分ない。家の中を悠然と徘徊し、腹を天に向けて放り出し、ぐうぐうと眠る元気がある。
先日も通院から帰宅し、屋内に開放した途端に人間の足元に纏わりつき、ニャンニャンと大声で啼いて飯の催促を始めた。もちろん大盛りの猫缶を食わせてやった。処方された薬も忘れずに。
投薬の効果か否かは定かではないが、本当にがんなのか疑わしいほどの生活ぶりだ。
ともあれ、本猫に今、有り余る元気があるのは何よりなことだ。
猫が生きて十五年を過ぎ、これからもまだ元気でいてくれるなら、通院10時間も苦ではないと思っている。
いや、少ししんどいが。会計の金額を見て、毎回眩暈がするような思いをしているが。頑張りたいと思っている。
朝病院を訪れて、病院から猫を連れて帰る頃には日がとっぷり暮れていようと、鬱箱に7時間籠ろうと、猫が元気ならば、頑張りたい。
猫も、もしまだ人間の寝床に潜り込んでくることが楽しいのならば。申し訳ないが病院へ連れていくことを、どうか許してほしい。
要約すれば金玉の話になるわけだが。
風呂場で男の股間には大体住んでる白癬菌に感染したら、非常に不愉快な事になる。
あまりの痒さに常に股間に手を入れたくなる衝動にかられる事になる。
たとえ直ったとしても、家族にキャリアがいればまた感染する。股だけに。
これを耐えたとしても、トランクスのような下着だと太ももまで感染が広まり、被害が拡大する。
そう、トランクスのような金玉と太ももが自由に触れあえる下着はインキンタムシの温床になる。
そこで思いつくのがブリーフだが、これはダメだ。非常に厚みがあって、蒸れを加速させる。伸縮性のない生地は、腰の血管を圧迫し腰痛を引き起こす。おまけに肌触りが悪い。
試しに何個か履いてみたがどれもダメだった。
それならボクサーパンツで良いだろうと思うだろう?
そう確かに最善ではある。だが最適ではない。
基本的に腹の引っ込んだ奴向けの下着なので、そのまま履くと腹への圧迫感がすごいことになる。仕方ないので一段折り曲げて履かざるを得ない。
そうしないと鼠径部で隙間が出来て金玉と太ももの不愉快さを味わうことになる。
そもそも太ももを覆うこの筒状の部分は必要だろうか?無駄に太ももの温度を上げているだけではないのか?
そもそもここと鼠径部を仕切る部分が連動しているせいでしょっちゅうズレる。
ここは不要だろう。
そうなると、形状としては太ももを覆わない三角形のモノでないといけない。
休みの日は、大抵家で過ごした。掃除をしたり洗濯をしたり、たまには料理を作ったり。あとは布団の上に寝転がってスマホに熱中する。熱中などと言ったら、好きでやっているようにも聞こえるかも知れない。しかし私の場合、スマホに触るのは、どうにもならない虚しさから逃れるためでしかない。何かをするよりも何もしないでいるほうが難しいのだ。不安という魔物に追われて逃げ惑う姿は、傍から見れば実に滑稽にちがいないが、誰かに咎められるわけでもない。安全な家の中で、私はひたすら自身の孤独と格闘する。
今も昔も、おにぎりを三角形に握るのは、私の唯一の特技と言って良いだろう。毎日、朝食に欠かさずおにぎりを食べたものだった。職場近くの公園のベンチに腰をかけながら。聞こえてくるのはスズメの声だけだ。砂場も遊具もあるから、昼になれば児童が興を添えるのであろうが、今は散歩する人さえ通らない。朝の光が木々の梢を透かしておにぎりを含む私の頬を照らしている。春や秋にかぎらず、夏は額に汗を滲ませながら、冬は寒さに身を縮めながら、私は1年中ここで朝食をしたためるのである。不思議なものだ。外に出るのも億劫がる子供だったはずが、大人になって公園が好きになるとは、いったい何の因果だろう。家と職場の中間の、誰にも煩わされない微妙な距離感の上に安住できるひとときは、私にとって最上の幸福だった。
いつからか、公園にひとりの女性の姿が見えるようになった。出入口のあたりの、植え込みを囲うコンクリートの上に腰を下ろし、足を組み、あたかも「考える人」みたいに頭をやや傾げながら、スマホを覗き込むように見ている。ベンチに座る私の位置からは、対角線上に進んで30メートルくらいは距離があるだろうか。顔は判然としないけれども、ショートカットで、すらっとしたきれいな身なりをしている。歳は私よりもいくらか上だろう。おにぎりを食べ終わった私は、職場へ向けて公園を後にするのであるが、その際、かならず女性の前を通ることになる。女性は相変わらずスマホを覗き込んだまま通行人の存在には無頓着である。私が家で熱中するのとはちがって、彼女のスマホへの接し方はどこかしら優雅で、気品があり、悠々とした感がある。当時シェイクスピアの作品を読んでいた私は、いつしか心の中で勝手に彼女を「ジュリエット」と呼ぶようになった。
ジュリエットは、来る日も来る日も同じ姿勢をしていた。服装も、もちろん日毎に異なるとはいえ、上品で垢抜けたところは、いつだって全然変らなかった。そして常に私には一瞥もくれなかった。おにぎりを食べながら、横目でちらと様子をうかがうと、昨日の光景と寸分も異ならない。前を通ろうとすると、心もち身体に力が入るものの、ジュリエットのほうは我関せずといった風で未だスマホを覗き込んでいる。私が春夏秋冬おにぎりを頬張るのと同じように、彼女も季節の別なく自らを貫くのである。ただひとつ異なるのは、私ひとりだけが、彼女に勝手に名前をつけ(まさか彼女は私を「ロミオ」と呼んではいまい)、家や職場からの逃げ場となっている公園に突然現れた女性を、妙な存在として気にせずにはいられなかった所だ。
幼い頃から、友達と遊ぶのも気が進まず、家庭の中にも居場所がないと感じがちな、さびしい少年だった。勉強はできないし、かけっこをしてもビリが定位置。学校に好きな女の子ができても、ばれないように取り繕うのに必死で、感情を表すのを恐れるばかり。そのまま体だけが大きくなり、大人と呼ばれるようになった。ひとりぼっちの自分が見つけた幸福の空間に、見知らぬ人が入り込んで来て、今、どうして嫌な気持がしないのだろう。ひとりで遊んでいるところに友達が来ただけで逃げてしまうような子供だったのに。私はやはり大人になったのだろうか? 考えれば考えるほど、むず痒い気がして、やりきれなくなる。この感情が一体何なのか、自分にもよく分からない。くだらないと思って何もかも打ち消そうとするけれど、朝日の下の残像が瞼のうらに貼り付いて離れない。しかも彼女は微動だにせずあそこに座っている。雨の日も晴れの日も、世の中がどのように移ろおうとも、ここだけは同じ時間が流れていた。ふたりの男女がそれぞれの世界に住みながら、公園という場所だけ共有している、夢の中のようなおぼろげな時間が。
私がその公園を最後に訪れたのは、退職した日であった。冬用のコートを着たジュリエットは、寒さも忘れてしまったみたいに、その日もいつもと変らずスマホに夢中になっているようだった。が、おにぎりを食べ終わり、いよいよ出勤しようと出口を抜ける間際、彼女の頭がほんのすこしだけ上がって、こちらを見たような気がした。馬鹿馬鹿しい。気のせいに決まっている。もう会うことはないと悟った私の感傷が起こした錯覚というものだろう。でも、当時の私には彼女の視線が重たく突き刺さるように感じられてならなかった。あの一瞬間が長い年月を経た今になってもよみがえる。私の生活はあれから少しも変っていない。休みの日は、掃除洗濯料理に、それから不安に苛まれながらスマホをいじるだけ。スズメの声と、朝の光と、おにぎりと、ジュリエットと。——遠く過去の記憶のなかへ去っていくあの日常が、時々私には恋しくてたまらなくなる。
これを書いてから1年後。
妊娠が分かったのは1月の半ば。生理が遅れて、検査薬を試した。まさかの自然妊娠だった。元々卵巣機能が低く、第一子は不妊治療を経て出産し、その後いくつかのことを試したが結局授かることはなく。家族3人で楽しくやっていけばいいと完全に諦めていた矢先、妊娠したことが分かった。
最初は夫婦ともに戸惑った。子どもはもう5歳になって、生活に随分余裕ができた。夜は寝るし、言葉を話せて、気軽に旅行にも行ける。経済的にも子どもひとりなら安心して程良い生活ができる。そう高を括っていたところに0歳の存在が加わると。思い出される、寝ない、食べない、忍耐の日々。兄弟を望んだこともあったが、もはや5歳と0歳は多分一緒に遊ばない。仕事も責任のある立場になって、引き継ぎや調整にかかる労力は計り知れず、正直マジかという気持ちになった。
そもそもこれまでどんなに頑張っても妊娠しなかったポンコツの身体にぽっと出の命が宿ったとして、うまくいきっこないはずだ。最初はどうせ化学流産か子宮外妊娠が関の山だと思い込んだ。そうでないと、自然に授かれた喜びが爆発してしまいそうだったから。今さらマジかと思う一方、もう一度この手に赤ちゃんを抱けるかもしれないことが、子どもに弟か妹を産んであげられるかもしれないことが、本当は嬉しくて嬉しくて仕方なかった。
初期の検診は毎回、あまり期待せずに通った。子宮内に胆嚢が確認できたとき、リングのような卵黄嚢がくっきりと美しく見えた時、力強い心拍の音が病室に響き渡った時。涙が出るほど嬉しかった。期待しないように、期待しないようにと言いながら、毎朝毎朝、アプリで週数日数ごとの胎児の様子を丁寧に読んだ。第二子で、次の検診までがあっという間だとか、うっかり存在を忘れるとか、そんな瞬間は一度もなかった。ずっとずっと心配だったし、いつも赤ちゃんのことを考えていた。
私の心配をよそに、赤ちゃんはすくすくと大きくなった。検診の度に週数以上の大きさで、何の異常もなく、胎動も痛いくらい力強くて。深夜に目が醒めて、お腹に少し合図すると、もこもこと蹴り返してくる存在が何よりも愛おしかった。どんどんお腹が大きくなって、腰が痛くて、苦しくて、上の子に優しくできずイライラしたり落ち込んだ日もあったけど、元気な胎動を感じながら過ごす毎日は満ち足りていて幸せで、幸せで仕方なかった。
7月、何とか仕事をやりきって、気持ちよく産休に入った。体質的に上の子は早産だったから、もしかしたら近日中に産まれてしまうかもなとは思った。検診では何も問題なかったが、体感的にそれくらい身体が限界で、8月を乗り越えられる気がしなかった。早産はいつも不安だったけど、28週を過ぎたあたりで、もう大丈夫だと思った。かかりつけは家から近く、NICUのある大学病院で、例え早産になったとしても何の問題もないはずだった。
その日。
前日も当日も暑くて外出はできず、家でゆったりと過ごした。夜になり、脇腹辺りに痛みを感じた。陣痛のように収縮するような波のある痛みではなくて、何かズキズキした痛み。食あたりを疑いつつ、どんどん増してくる痛みに違和感を覚えすぐに病院へ向かった。深夜の救急外来で、すぐにエコーを当てられたけど、いつもなら聞こえるはずの力強い心拍音がいつまで経っても聞こえない。ドッドッドッとうるさいくらいのあの音が。死ぬまでずっと覚えていたいと思った音がいくら探しても聞こえなかった。
腹痛を感じてから約45分、病院到着から約15分で帝王切開が始まった。にも関わらず、全身麻酔から目が覚めたとき、赤ちゃんは生きていなかった。診断名は子宮破裂、常位胎盤早期剥離、胎児機能不全、子宮筋腫核出後、子宮内膜症性嚢胞合併。要は子宮が15cm裂けていて、そこから胎盤が脱落し、赤ちゃんは仮死状態で生まれたものの、蘇生に反応しなかった。
産まれた姿は大きくて、体重が1950gもあった。まだ体毛がたくさんあって、眉毛が立派だったけど、私と、上の子が産まれたときにそっくりだった。手足はむっちりと太く、小さな指もそれぞれ5本ずつしっかりあった。小さなお口が三角形に開いていて、かわいくてかわいくてしかたなかった。目が開いたら、どんなお顔だったんだろう。どんな声で泣いたんだろう。何が好きで、何が嫌いだったんだろう。もう冷たくて、ところどころ固まって、点滴や機械の痕が痣になって痛々しくても、かわいくて愛おしくて悲しくて、泣きながら何度も何度も名前を呼んだ。
どんなに寝なくても、食べなくても、元気に生まれてくれたらそれでよかった。ふにゃふにゃの体で、息をして、目が合うだけで、どんなにかわいかっただろう。こんなことなら、1日でも早く、早産になればよかった。子宮が破裂する前に、お腹から出してあげたかった。3日前の検診では何の異常も無かったし、子宮破裂の可能性なんて考えさえしなかった。あかちゃんは私のせいで亡くなった。子宮さえ丈夫だったなら、元気に生まれてきたはずなのに。
手術から1週間後に退院して、夫の運転する車で家に帰った。信号待ちで車が止まると窓の向こうに、大きなお腹で上の子と手をつないで幸せそうに帰り道を歩く自分の姿が、お腹をおさえてふうふうと息をつきながら頑張って坂道をのぼる自分の姿が浮かんで涙が止まらなくなった。家についても、しばらく中に入れなかった。新生児用の抱っこ紐も、ベビーベッドも準備していた。上の子のおさがりも整理して、みんなで楽しみにしていた。名前もたくさん考えて、一番良い字画を選んでつけたのに。自分だけ家に帰ってきてしまったことが悔しくて悲しくて死にたいと思った。ごめんねといくら言っても言い足りなくて、自分に拳を叩きつけながら叫ぶように泣き続けた。
あれから2ヶ月が経った。納骨はせず、毎日お線香と小さな哺乳瓶でお水を供え、遺骨に話しかけて暮らしている。泣かずに過ごせる日が増えてきた一方で、妊婦さんや小さな赤ちゃんを見かけてはひどく落ち込む日もある。最初の数週間はとにかく出産前に戻りたい、戻りたいと思いながら過ごした。前日でも、当日の朝でも、何とか時間を巻き戻せたなら、先生に懇願してすぐにでも帝王切開をしてもらう。赤ちゃんはしばらくNICUで過ごすけど、上の子の時のように、きっと元気に退院できた。
1ヶ月くらい経つと、この悲しみが死ぬまでずっと続く気がして、妊娠前に戻りたいと思った。そもそも授からなくても、私達は十分幸せだったから。子どもは一人と納得していて、他人を妬ましく思う気持ちもなかった。大好きな夫と子どもがいて、決して不幸ではないはずなのに。失ったことが悲しくて、足りないものを嘆き続ける毎日ならば、授かる前に戻りたいと思った。
そして2ヶ月経った今、子宮破裂について考えることが増えた。子宮破裂は極めて予後が悪いもので、8割の赤ちゃんが亡くなり、例え救命できたとしても、寝たきりとなる可能性が高いそう。私は子どもに一生、経管栄養の寝たきりで意思の疎通が全くできなくても生きていてほしかったとは思わない。もちろん結果的にそうなったなら大事に世話して必死に生かそうとするに違いないけど、それが死よりベターだとも思わないから、唯一そういう意味では今回の結果に納得できる気もしている。
でもやっぱり、失った未来を想うと悲しくて、もう一度取り戻せないかと思ってしまう。もう一度妊娠できたなら、今度は無事に産むから。亡くなった子と新しく生まれる子を同一視してはいけないとか、そういう話はどうでもいい。ただただ、もう一度授かって、今度こそ元気な赤ちゃんを抱きたい。これはもう、女としての私のエゴだ。止血のために両側の卵管を結紮したから、自然妊娠はできない。また次の妊娠は医師から真剣に止められている。本来なら子宮摘出すべきところ、小腸と癒着して摘出できず、仕方なく残しているだけです。妊娠しても無事に産める確率は極めて低く、次もまた同じか、それ以上に悪いことが起こります。本当にお母さんと赤ちゃんの生命に関わります。そう言われても、じゃあもうきっぱり諦めて、次の子は二度と望みません、とは思えない。
赤ちゃんとたくさんお散歩がしたかった。上の子が絵本を読み聞かせる様子を動画に撮りたかった。寝顔を見て、上の子と同じ顔だねと夫と一緒に笑いたかった。泣き声に、イヤイヤ期にうんざりしても、熱が下がらなくて大変でも、くたくたになりながらもう一度家族で赤ちゃんを育てたかった。全部、あと少しだった。もう少しだったのに、全部失ってしまった。悔しくて悔しくて、このまま終わることができない。
何のために授かったのか。どうすれば失わずに済んだのか。
自分のエゴで家族に迷惑をかけてでも、もう一度リスクを承知で子どもを望むか。足るを知り、諦めて日常を受け入れるべきか。
どんなに答えが決まっていても。
迷うことをやめられません。
「まぁ、ピタゴラスの定理なんて、あれはもう初歩の話よね。確かに、a² + b² = c² は中学生レベルでも理解できるけれど、そこに潜む深い代数的構造や、ユークリッド幾何学との関連性を本当に理解しているのかしら?あの定理の背後には、単なる平面上の直角三角形の話じゃなくて、リーマン幾何学や複素数平面を通じたさらに高度な次元の世界が見えてくるのよ。それに、ピタゴラスの定理を特別な場合とする円錐曲線や、楕円関数論まで考え始めると、幾何学の美しさっていうものがもっと深く見えてくるわけ。」
「それと、黄金比ね。もちろん、あのφ(ファイ)がどれだけ重要か、理解してる?単に無理数というだけじゃなく、数論的にも代数的にも特異な数なのよ。フィボナッチ数列との関係も美しいけど、そもそもあの比が自然界で頻繁に現れるのは、単なる偶然じゃないわ。代数的無理数としての特性と、対数螺旋やアファイン変換を通じた変換不変性が絡んでいるのよね。そういった数学的背景を理解せずに、ただ黄金比が「美しい」ってだけで済ませるのはちょっと浅はかだと思うわ。」
「あと、パルテノン神殿の話だけど、そもそも古代の建築家たちが黄金比だけでなく、より複雑なフラクタル幾何学や対称群に基づいた設計をしていたってことは、あまり知られてないのよね。建築の対称性は、単なる視覚的な美しさじゃなくて、群論や代数的トポロジーに深く結びついているわ。あなたが好きな絵画も、ただの黄金比じゃなく、もっと深い数学的な構造に従っているのよ。わかるかしら?」