はてなキーワード: 愛人とは
彼女居たことない、友達もほぼ居ない、でもパパ活女子の遊び相手、愛人は結構な人数居る、始めたのが36歳から
35歳くらいまでにパートナーを作らなきゃその後の人生だいぶ変わるかも、というタイムリミットに焦ってるんだと思う
本当に寂しいのか、単に焦ってるだけなのかって実はわかんなくて
俺の場合は焦ってるだけだった、36歳くらいになったらすごくスッキリした
「30代になって急に寂しくなった」って正直あやしいんだよね
20代からずっと寂しかった独身は、40代独身になって更に寂しくなると思うけど
20代で「まあ別に一人でもいいし」と思ってたやつは、40代独身では気にならなくなると思う
例えば独身の人生を歩んでいた時、「ひょっとしたら結婚したほうが幸せだったかもなあ」となってしまう
そういう未練たらたらな人生を歩むのが嫌なら、一回行動したほうが良い
何でも良いから前のめりで女性と関わって、付き合う手前でもいいから行ってみると、徐々に解像度が上がってくる
その結果、「やっぱりパートナーが欲しい」となるかもしれないし、「いややっぱ要らないわ」となるかもしれないが
「やっぱい要らないわ」となってからの独身人生は非常に自信が持てるんだ
そうなれないと、酸っぱい葡萄のように「これだから女は!」って言い続ける人生になってしまいかねない
パートナーに限らず、人間近くなりすぎると色々厄介なことが起きる
「家族の良いところと嫌なところ」が「好きな女性」に付与された状態が彼女/嫁だと思うので、それと数十年付き合いたいか考えるべきだと思う
独りでいるときよりイベントは増えるから、そういう強制イベントが楽しいのかどうかって話でもある
パートナーが居なくてもダチがいればよくね?みたいな人いるけど
30代40代でダチが減っていくんだよね
むしろ心の平穏を保つならこちらに注力すべきだけど、ダチの中に既婚者は混ざるはずだから、そしたらやっぱり「結婚したほうが幸せだったのかなあ?」が出てくるから未練問題が発生する
風俗は行くべきだと思う、自分のモヤモヤが性欲なのか性欲以外なのか分離できるから
もし性欲だった場合、新人みたいな風俗嬢に凸して欲しい、「ああ素人ってこんなもんか」ってなるから
30代童貞がドスケベ嫁を捕まえられるわけないんだから、その子くらいのぎこちない性生活になるはず
キャバ・コンカフェ・ガルバは寂しさを紛らわせるのに良いんだけど
パパ活は金があるならおすすめだけど、基本おすすめしない、上手くやってるパパが思ったより少ない
恥の多い生涯を送ってきました。
私には「女性の性欲を満たすセックス」というのが全くわからないのです。
私は大手ガス会社の子会社に勤務する父親と、大手ガス会社の子会社元社員で専業主婦の母親の間に長男として生まれました。
私は幼少期から歯並びが悪く、歯科医にて歯列矯正をすすめられたのですが、その際に上下4本の抜歯の必要があることを告げられました。
母親は「せっかく生えた歯を抜くなんて…」「どうせ歳を取ったら抜けるのに子供のうちから抜くなんて…」と難色を示し、最終的に「歯並びなんか気にならないくらい可愛いのよ」という言葉により私の歯列矯正は立ち消えになりました。
また、私は父方の祖父母と同居する三世帯家族であり、祖父が建てた家に住んでいました。
モダンな住宅と異なり、木の柱、畳、古い土壁で暮らす私は幼少期から鼻炎に悩まされました。
この鼻炎と歯並びの悪さにより、私の顔面は女性の子宮を刺激しない造形となりました。
思春期になると「成長期」という男の人生の第三の分岐点があります。
ちなみに第一分岐点は顔の造形、第二分岐点はドッジボールやサッカーなどの学校でのスポーツです。
第一分岐点、第二分岐点とloser に分類された私は最後の逆転ポイントでも敗北しました。
I am a loser.
ちなみに、第一分岐点、第二分岐点でwinnerだったイケメンでスポーツのできる同級生が第三分岐点でloserとなり現在でも独身という事象は男の人生の厳しさを体現しているでしょう。
私はそれ以来、ちんちくりんで華奢な身体に口ボゴな顔面の頭部を乗っけて生きてきました。
「大東亜帝国群の大学」から大手ガス会社の「子会社」に就職した微妙なスペックの冴えない男の息子ということもあり、私は容姿以外の能力も低かったのです。
中学受験に失敗し、都立高校から一橋大学を受験するも不合格だった私は冴えない容姿の早稲田大学の学生となりました。
話が逸れたのでセックスに戻りましょう。
私は高校1年の終わりに初めての彼女ができ、高校2年へ進級する春休みに初めてのセックスをしました。
2人目のセックスの相手はサークルの同級生で、大学1年の秋ごろに付き合い、付き合い始めた数日後にセックスしました。
3人目の相手は社会人になってから付き合ったゼミの後輩で、付き合ってから最初の土日に行った小旅行でセックスしました。
現在の妻です。
やはり付き合って最初の週末、私のアパートに泊まりに来た際にセックスしました。
私は風俗に通ったことがなく、今まで述べた4人の女性としかセックスをしたことがありません。
お分かりでしょうか。
私のセックスは女性にとって「パートナーとの関係性を継続するためのセックス」でしかなく「性欲が満たされ女性としての悦びを感じられるセックス」ではないのです。
私の大学時代の学部の同級生に、身長が179cmで歯並びが綺麗でキリッとした二重瞼が特徴の男がいました。
彼は東京花火というよさこいサークルに所属する真面目で明るくセックスが大好きな健全な大学生でした。
私の3人目の彼女は私と付き合う前、この男と飲み会で出会ったその日にセックスをしました。
この男には彼女がおり、その飲み会でも彼女の話をしていたそうです。
それなのに、彼女は付き合ってもいない彼女持ちのこの男とセックスをしたのです。
私と彼女の関係が破綻したのは、付き合ってしばらくしてからそのことを私が知ったからでした。
彼女は私と付き合う前、「付き合ってない人とはセックスしない」と言っていました。
しかし、実際には付き合っていない先述の男にセックスを許していたのです。
私には「付き合っていない状態でのセックス」を許さず、件の男に許したのはそれが「性欲が満たされ女性としての悦びを与えられるセックス」だったからです。
私に許さないのは、私とのセックスが「関係を継続させるための義務」であり自発的なものではないからでしょう。
そうであるなら「付き合っていない時にするセックス」は意味を持たない苦痛なだけのものです。
私はよさこいイケメンの下賜品に時間と金を無駄にしたのでした。
それ以来、私は妻含め多くの出会った女性と「付き合っていない状態でセックスする」ということに心血を注ぎました。
しかし、私はグッドジーンズではなくグッドダッドと見做されたので、その努力は水の泡と消えました。
しかし、その幸せは砂で作った細い柱の上に立っている脆いものなのです。
妻は私に「付き合っていない状態でのセックス」を許しませんでした。
もし、それにもかかわらず妻に「付き合っていない状態でのセックス」を許した相手がいたとしたら。
私の最愛の妻は「どこかのイケメンの下賜品」「セカンドストリートで買った型落ちの家電製品」になります。
私は処女厨ではないので。付き合った状態でセックスをした相手(元カレ)が何人いようと構わないのですが、付き合っていない状態でセックスをした相手(倫理や貞操を突き破るイケメン)がいたことを許すことはできないのです。
妻が学生時代の話(特に大学)をすると私は会話を濁して話題を変えます。
妻が学生時代の同性の友人との食事や飲みに私を誘ってきても、私は絶対に行きません。
それは、私の最愛の妻がどこかのイケメンの下賜品であるということを匂わせるあらゆる瞬間を人生から排除したいからです。
ちなみに、タイプではないが性格や安定性に惹かれたパートナー男性のことを女性が嫌う瞬間があるそうです。
それは排卵期。
排卵期になると女性は自身の性欲を満たすようなグッドジーンズに惹かれるそうです。
悲しいですね。
私は女性にとって一番大事なタイミングで女性から愛されない男なのです。
話が長くなりました。
何が言いたいかと言うと、私は「千葉真一の息子」になりたかったのです。
私の両親の嫡出子ではなく、千葉真一の100番目の愛人の非嫡出子になりたかったのです。
なぜなら、男として女性から愛され幸せになるには私の両親の待望の嫡出子より、千葉真一が顔も名前も覚えていない100番目の浮気相手の息子に生まれた方が良いからです。
周りの友達にも地雷発言多いし、フェミ馬鹿にし始めてきたし終わりやな
昔は何がフェミニズムなのか、説明を理解していた。理解する知能はある。だから自分を馬鹿とは思ってないんだよな。
ただ理解する理性よりも欲に負けるスピードが早い。SNSで手軽に流れてくるデマ記事にすぐ影響され、深く考えるよりも、深く想像するよりも、性的な妄想や面倒臭さ、自分が下だと認めたくない心、自尊心をくすぐる娯楽にすぐに屈している。
性的妄想はアドレナリンが出るらしく、それもまた抜けられない依存行為となっているから、ツイフェミで抜いたなどかなり倒錯している。
元から教養があるわけじゃなく、人の話を聞いただけの付け焼き刃なので、どの方向にも応用が効かない。
違うとこちらが説明した話については洗脳が解けるけど、日々新たな題材を拾って毎回洗脳されてくるからエンドレス
俺はフェミニストはいい事してると思ってるよwツイフェミが頭悪すぎて無理なだけw
他の話題でなら「自分は社会運動も何ひとつしていないのに頑張ってる他人を批判できるような立場には一切ない」を理解できるけど、
SNSのアンフェ記事をよく流し読みしているので、そのコピペのように、ツイフェミだけは腐すことに抵抗がないらしい。
正直、ご本人の方が頭悪いし、見た目は下の下の下だし、性格もすぐ欲に負ける高潔さのない人物だし、年収は工事現場で働いてるから悪くはないがいつまで続けられるかわからないし、
たぶん多くのツイフェミは彼から見たら全くバカにできるような相手ではない。
本当は、彼は、自分が、世の中の多くの人には逆立ちをしても勝てないということに気付いたんじゃないだろうか?
今までは若い子として沢山褒められてきたのに、今後の人生は、キモい金のないおじとして、かつて自分がキモい金のないおじを「おっさんきめえw」と蔑んできたように、蔑まれる存在になると無意識にリアリティを感じ始めたから、
ヒガミっぽくなって、
可愛くて人生が充実している存在に、妬みを感じるようになった心の穴を、ツイフェミ叩き記事が埋めたんじゃないか。
男っていいな、は、自分の無能を直視することにしかならないから心が物凄く痛い。
女っていいなコンテンツは、女を下に見るミソジニー文がもれなくついてきて「俺は無能」という痛みを緩和してくれるから、痛みなく妬みを振り回すことができる。
そういった無意識の心の動きが、暇アノンにぴったりハマったのだろう。
彼は、歳をとってきて自分の年収や将来の天井がリアルに見え始めたこと、
このままウダツの上がらない、キャリアもない、人からちょっとキモいと思われるオジサンになる未来にリアリティが生まれたこと、
似たり寄ったりの彼女ができて、彼女からイケメンとか褒められており、それを本当に信じ込んで自分を客観視できなくなったこと、
世の中の女はブスばかりだけど俺は結構いけてる(多分彼女がそう言っている)と思ってること、
付き合った彼女が性欲ブーストで世界一可愛く見えていること(世界一可愛いし一生大事にする、穴が無くなったらポイ捨てするけどね、もう要らないもん、と言っていた)
実際は普通
底辺男はモテないし結婚できないしどうしようもないということを実体験として実感していながら、
(彼女より可愛くないブスで性格悪くてヤバそうな)底辺女はなんでみんな付き合ってるんだ?
と思ってること
この辺がキッカケにはなっていたのかもしれないな。
仲間内のすげえ男を尊敬する文化はあるのに、女を尊敬する文化は弱いこと(定規がホモソ軸に強く歪んでいること)もあるかもしれない。
レジェンドの女、しごでき女、天才女がいても、その人は何らかの男(セクハラ、厄介ファン、嫉妬、無自覚破壊おじ、顔面採点おじ、愛人誘いおじ、関係薄ガチ恋チー牛、無料キャバクラ男、カスハラおじ、チャラクズ男、ナンパ男、中身は色々)がウザすぎるという理由で、
大体、男化するか気配を消すか女臭を強く脱臭している。才能があればあるほどそうなるようだ
だから「できる女を尊敬する」よりは「あの人を尊敬する」になっている。
女も、仲間内での人を尊敬する軸の中に「男を尊敬する」が自然に含まれてはいないと思う。
「スポーツできる男」は、本人が相当のスポーツ好きorスポーツやってない限りはなかなか尊敬する人には入ってこないだろう。
しかし例えばお金を儲けようとしたら、女の世界にも「仕事のできる男を尊敬する」が入ってくる。
女の尊敬は、男社会に染められるが、男の尊敬は、女社会に染められることがない。
男社会は金銭的利益に強く結びつくが、女社会は今の自分の欲求に直接必要になってこない。
そういったことも原因だろう。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/dailyportalz.jp/kiji/pasta-for-a-month
デイリーポータルZのヨシダプロの最新記事がブコメで叩かれている。
ヨシダプロを叩くブコメに対する「ヨシダプロは昔からこんな感じ。何をいまさら」みたいな意見ももう見飽きた。
よく見に行くサイトにひときわクオリティの低い不愉快な記事が定期的に上がってきたら文句の一つも言いたくなる。
ヨシダプロはかつて「ヨシダプロホムーページ」というサイトを運営しており、2000年代にはかなり人気のサイトの一つだった。
基本的に今記事に付属しているようなおもしろイラストを発表するサイトだった。ちなみに画力は当時から一切変わっていない。
鉛筆画をスキャンしてペイントで彩色しているのかってくらい画質も塗りも20年間ガビガビである。
当時はアンパンマンを劇画調に描くみたいなユーモアでさえネットで大人気であったため、ヨシダプロも人気者になった。
というか実際2000年代中盤は街で見たイラストをリアル化するみたいな記事も多かった。
彼のDPZでの初出は2003年で、そこからヨシダプロホムーページをそのまま部分移植したようなおもしろイラストによる記事を連載する。
昔のDPZはFLASHゲームの「おぎわら遊技場」みたいにネット上のおもしろクリエイターが作ったものを闇鍋のように集めたポータルサイトで、今でいうオモコロのような感じだった。
なのでヨシダプロが描くイラストや漫画も別に浮いた存在ではなかったし、当時のネット上の人気者が終結した感じがあって楽しかった。
しかしDPZがだんだんとライターが足でネタを取りに稼ぐ記事や発想力をプロダクトにする記事であふれていく。それとともにヨシダプロの記事は浮き始める。
すると彼の「世界の狭さ」がどんどん露呈し始める。彼の記事を読めばわかるが、実家住まいで出不精のヨシダプロの記事はほとんどが「食べ物」と「愛犬」と「家族」で占められている。
たまに流行をイジッたりもするがちゃんと調べるほどの情熱がないため最後は冷笑のコタツ記事になって終わる。
「尿酸値を4か月でどれだけ減らせるか!?」ってなんだよマジで。日記じゃねえんだぞ仕事だぞ。
ここで疑問なのは、なぜDPZはヨシダプロを切らないのか?ということだ。
たしかに立ち上げ当初の功労者ではあるのかもしれないが、記事のクオリティがやっつけ仕事すぎるのは林も理解しているはずである。
またヨシダプロはベネッセに勤務していることを過去にホムーページで明かしており、実家住まいで家族も健在のため生活に困窮しているわけでもなかろう。
林がお情けで金を恵んでるのでなければ、理由が全く分からない。
謎の女性タレントが急に番組に起用されたりするとプロデューサーや大物タレントの愛人だと噂する人の気持ちがなんとなくわかる。
ここまできたらヨシダプロが林の性欲処理をしているとかそういうたぐいの話が沸いたほうがまだ納得できる。
『ドールハウスの夢』っていう小説読んだんだけど、それに出てくるマルコムくんが弱者男性すぎて泣いた
マルコムは5歳の時に母に捨てられた
金髪碧眼の美女である母は愛人ができて駆け落ちして、マルコムと父は捨てられた
母の愛がまだまだ恋しい時期なのでマルコムは母を思って泣き暮らし、長じるにつれて愛人をつくって家を出るという母のトンデモビッチさを理解して憎悪もした
マルコムは金髪碧眼の女を激しく憎悪して蔑視しつつ、金髪碧眼の女にチンチンがイライラしてたまらない性癖になった
性が芽生え始めた小学校高学年の時にはクラスの金髪の女子を押さえつけて頭を丸刈りにする事件を起こしたりした
そういうマルコム自身が金髪碧眼で母に似ているので自分の容姿が嫌い
年頃になったマルコムは、身長180超えで鳶色の髪を持つブスな女と結婚した
金髪な美人はどうせビッチでクズだから手堅い女を選んだつもりだが、全然その気になれなくて新婚初夜をスルーして以降もブスを抱かなかった
母親の部屋は家出した当時の状態のまま保管されており、けして入らないようブスに言い聞かせていた
しかしブスは好奇心に負けて母の部屋に入り、ゴージャスベッドに転がった
母のベッドに転がる姿を見ていたらマルコムはチンチンがイライラしだして、はじめてブスを抱いた、というかレイプした
母のベッドで母の名を呼びながら、というシチュエーションならブスにも興奮することを知り、その手段で子供が二人できた
でもそんな裏技を使ってもマルコムは結局金髪碧眼の美女がドストライクで、その後も金髪碧眼美女に執着して身を持ち崩していく
最後には半身麻痺の車椅子生活になり、大粒の涙をこぼしながらブスに泣き縋って、ブスの嘘に騙され続けながら死んでいく
これ、俺だ・・・
そんなリスク高いやり方してないで、フジテレビ幹部専用キャバクラでも、専属愛人倶楽部でも作ってその箱の中なりデリバリーなりでその辺のキャバ嬢系美人十人位囲って回した方が安全じゃない?
女子穴みたいな恥名度高い女じゃないといやなのかな?
かつて所属していた文学サークルで、先輩が角田光代「菊葉荘の幽霊たち」って作品をテーマに読書会を開いた。何事にも投げやりな女性が主役なこの作品が全く好きになれず、その後角田光代という名前を見ても全く手が伸びなかった。今にして思えば、全体的に生きる気力がないというか、適当にその辺の相手と何となく交際してしまう感じの、怠惰な女性が出てくるのに嫌悪感があったのだろう。理想的な美を探し求めていた大学生の僕には、うまく理解できないキャラクターだった。あるいは、当時女性を理想化しすぎていたからかもしれない。理想の恋人が、僕と同じように美や最高のクォリティ(なんじゃそりゃ?)を求める存在であると望んでいたのだろう。なんというか、十代の考えそうなことである。しかし、それは後述するように、すべて自己愛だ。それはさておき、「源氏物語」も僕は講談社学術文庫で読んだ。確か、今泉忠義訳である。再読のときは、角田光代訳でもいいのかも。書き続けられている作家ということは、力があるってことだし。
光源氏の恋愛遍歴や、彼を取り巻く女性たちについての思いは昔書いたので省く。僕がこの小説が好きなのは、恋の物語だけが理由ではない。もちろん、欲望まみれだった僕は、例えば朧月夜との密通で須磨に流されるというプロットを面白く読んだのは事実だ。
けれども、もっと魅力を感じたのは、恋する貴公子光源氏が、だんだんと権力を持った嫌なオッサンになっていくのが生々しく表現されていたからだ。己の愛人である女三宮と密通した柏木を睨みつけ、彼を絶望から再起不能に陥れるあたりがリアリティがあって嫌だ(褒めてる)。ふっふっふ、ハーレムを作るイケメンの末路はこんなものよ。
僕が真っ直ぐな目をした青年の目が濁っていく文学を見るのが好きな理由はいくつかあるのだが、彼女に浮気されて一時期軽薄なナンパ野郎になり3Pまで経験した旧友や、好きな作品を貶されたせいか強烈なアンチフェミになってしまった友人、それから寝取られ経験からイチャラブ漫画が読めなくなって寝取られや暴力的な物ばかりに手を出している畏友のことが頭にあるからかもしれない。だから田山花袋「田舎教師」や、風俗に行って嬢のおっぱいをもんで「豊年だ! 豊年だ!」と叫ぶ志賀直哉「暗夜行路」が好きなのである。「暗夜行路」はその後の展開が大事だとは言え。
ところで、繁田信一が「殴り合う貴族たち」の中で、著者は菅原孝標女が「源氏物語」にハマった理由を推測している。それは源氏が女性に直接暴力を振るわないからだという(部下たちは「車争い」のシーンで乱闘を演じているとはいえ)。その程度で理想の貴公子になれる、当時の倫理はこんなものだったのである。
古典には今からすれば受け入れられない行動をとる人々が出てくる。それでも、心動かされるのは、貪・瞋・癡の煩悩から逃げられない人間の本質が変わらないからだろう。法律やコンプラで縛ってはいても、やりたいことも欲望の本質も変わらない。古典を現代的な価値観で批判するのは大事だが、上から目線で裁きたくはない。聖書によれば人間は自分が裁いてきたように裁かれるのである(こんな風に、聖書には結構な頻度でクールなセリフが出てくる)。
それに、過去のものが全部ダメだというのなら、例えば殺人者カラヴァッジョの絵画は展示すべきではないし、最終的にはルーブル美術館を爆破しなければならないだろうし、植民地からの富で栄えた都市はICBMでふっ飛ばさねばならない。しかし、他人の作ったものを破壊するのは、「指輪物語」のオークの所業である。悪とは何かを創造できず、捻じ曲げて模倣したり壊したりしかできない連中のことなのである。具体的な顔や団体が浮かんでくると思う。
そういえば、去年の大河ドラマは「光る君へ」で、王朝を扱った文学を知っていると典拠がわかってニヤリとするシーンが多々あったが、きちんとは見ていない。理由はいくつかあるが、一つには作家が主人公なので作家になりそこなった僕は見ていてつらい。それに、大河ドラマは夜八時の公共放送だからしょうがないとはいえ、例えば人を斬って領土を切り取ってナンボの戦国武将が平和を唱える違和感があってもともと好きではない(これが現代のオタクの言うところの「解釈違い」というやつか)。たぶんこのシリーズを読んでくれている人はもうわかっていると思うけれど、僕は基本的に非常に面倒くさいのである。それに、元々ドラマは五十時間もつきあうほど好きなジャンルではない。逆に、それだけ付き合うことができれば、ドはまりするのだろうと予想はしている。「好き」を測る尺度の一つは、それに対してどれくらいの時間を費やしたかだ。ただし、みんな正座してドラマを見ていないのかもしれない。きっと何となく見ている。作品を素直に楽しむことから自分を遠ざけているのは、完璧主義なのかもしれない。
それこそ「紫式部日記」に出てきた女官の衣装の再現は良いと思ったけれどね。元々僕はブラウスという言葉の正確な定義も怪しいほどファッションにほとんど興味がないので、該当箇所は読み飛ばしてしまっていた。
面白いエッセイを書くには性格が悪くないといけない。ここでいう「性格が悪い」というのは、もちろん褒め言葉だ。他人が見落としてしまうことにいちいち言いがかりをつけているとか、筆で他者をおちょくるのが上手いとか、そんなことを指す。「枕草子」はこの定義にぴったり当てはまる。言語化できていなかったけれど、「実はみんなそう思ってた」みたいなのも結構ある。
こういうタイプの人は友人に一人欲しい。「香炉峰の雪」(第二百九十九段)は日常で漫画の台詞をぴったりのタイミングで引用したときみたいにめっちゃ盛り上がったと思う。これは全くの推測だが、清少納言って物事をはっきり言うけれど、言い方がカラッとしていて毒のある事を言っても周りの人が思わず笑ってしまう人だったんじゃないだろうか。楽しい思い出話というか、ちょっとドヤ顔しているエピソードもあって楽しい。
もちろん第三百十四段の身分の低い人間が火災にあったところを笑っているところは弁護できないが、これは時代の制約だろう。それに、「除目に司得ぬ人の家~」(第二十五段)のくだりは当時の公務員の辛さが描かれているので、読んで怒りを覚えた人もいるかもしれない。だから晩年没落したという伝承が生まれたのかも。笑っちゃうのは第三十段「説教の講師は、顔よき」、つまりイケメンがレクチャーすると内容がありがたく聞こえるってこと。あっはっは。チクショー。これは旺文社の翻訳で読んだ。ネットで拾ったので番号は間違っているかもしれない。
「方丈記」は政治の乱れと絶え間ない災害で混乱する時代の空気をよく伝えてくれる。ところが、父の高校時代の教師は「世間から目を背けた負け組の愚痴に過ぎない」とバッサリやっていたそうだ。ひどすぎない? 確かに鴨長明は政争に負けたけれど、僕は好きだ。混乱する世の中からある程度距離を取りたいって気持ちはよくわかる。ただ、読んでみると隠遁生活は楽しそうなんだが、どこか悟り切れていないオーラがある。市古貞次校注。
「徒然草」は前にも書いたが面倒くさいおじさんのエッセイなんだけれど、子どもがいたずらした狛犬を有難がったとか(第二百三十六段)、入口ばかり拝んできて本殿を見ずに帰ってきちゃったとか(第五十二段)、間抜けな人々の話が説教臭いが普通に面白い。
それに、「ふざけてバカの真似をしている時点でバカだが、逆に立派な人の行いを真似るのは十分に立派だ」(第八十五段)とか「修行中寝てしまう人は、寝ていないときだけでも頑張ればいい」(第三十九段)とか、励まされる話も多い。近くにいたら面倒くさそうなおじさんだが、その言葉には勇気が出る。これも旺文社の翻訳で読了。
もちろん時代の制約はある。たとえば、珍しい姿の盆栽を育てていた人の話がある。第百五十四段である。ある時に雨宿りで見かけた大勢の身体障害者の曲がった身体を見て嫌悪を覚え、帰宅した途端に「俺のコレクションはこういう連中を集めてるようなもんだったんだな」と考えて、植木をすべて捨ててしまう。これなんかはなかなかに弁護できない。個人的には、コレクターが飽きる瞬間の描写として面白いし、当時の病に対する態度がよく分かって興味深いけれど、すべての人がここまでくみ取ってくれるかどうかは疑わしい。
これは全くの余談であるのだが、高校生時代に模擬試験を受けたとき、ある古典の問題文が主張している内容が差別的だということで、問題を差し替えてそこだけ再試験になったことがある。確か「私は身体障害があるからこうして人の喜捨で生きていける。かえって幸せだ」と述べる箇所があった。出典は忘れた。
個人的には、例えば中世の障害者はどういう扱いを受けていたか、解説をしたり議論したりしたら、すごくいい授業になったと思う。周囲では「事なかれ主義」だという批判も聞いた。おそらく、「先述したレベルで議論をするのは高校から先の大学以降でやりましょう」ってことなのだろう。もっとも、米国の大学ではナボコフ「ロリータ」の精読を基礎教養から外したと聞いたので、大学院レベルなのかもしれない。どうも米国はよくわからない。合理主義に見える一方で、いろいろな表現規制の根っこには、建国以来のピューリタニズムの遺風があるのではないかと邪推している。
今まで読んできた日本文学についてまとめるのは、一つには我が身を振り返って余計な過去をバッサリと切り捨てたいからである。小説家になりたいという妄念を過去のものにしてしまいたいのである。ここで自分が抱えている妄念を文章にしてしまうことで、意図的に小説の素材として使う機会を潰したい。書きたいという狂気を鎮めるのである。人生で辛かったさまざまな出来事ことでさえ、世間的にはいたってよくあることなのだ。これらについては長くなるし、恥ずかしいので書かない。
小説家として戦うには、いつまでも過去について考え、それを発酵させ、そのうえで自分から離れた普遍性あるものにしないといけない。さらに、時には他人の苦痛を咀嚼して想像しなければならない。自分の妄想は、他人に売りつけるに値するものだろうか?
小説家になる夢はあったが、こんな形でわざわざ嫌なことを思い出して、毎日を過ごすのは絶対に嫌だ。だからここに書き散らして、退路を断ってしまうのである。絶対に忘れてやる。連中の名前もグーグル検索しないと誓って数年が過ぎた。試みは成功している。あいつらのほうが「オス」として優秀に思えても、無視するに限る。しかし、こうして書くこともまた「創作」であろう。文章を読まれたいという欲望は尽きない。だが、万が一創作活動に舞い戻っても、絶対に絶対にぜーったいに自分のトラウマには触れないぞ!
このエントリ群を書きながら内面の暗いところまで沈んで行ったら相当にうんざりしてきたので、こういう創作は二度とやるまい。ちなみに、ブログでなく増田で書いているのは、創作活動をやっている/やっていたと公開しているはてなブログでは、こんなひがみや政治意識丸出しの発言をするわけにはいかないからである。また、初稿では倍ぐらい個人的な過去の出来事の愚痴を描いたのだが、本筋から離れるので削った。
そう、忘れてはいけないのだが、このエントリを書いた一番の動機は、古典の名作を紹介したいからだ。これだけの古典が現代にまで生き延びて読み継がれている国は稀有だろう。日本という国は、まったく非常に多くの問題を抱えているのだが、先人たちの積み重ねには頭が下がる。自分の雑文でちょっとでも興味を持つ人が増えてくれたらとても嬉しい。作者の名前とタイトルを授業で覚えるだけよりも、中身を知ってる方が絶対楽しいからね。
ちなみに、これはタイ王国をディスっているわけではないのだが、プラープダー・ユン「パンダ」の解説で、タイでは(純文学系の?)小説の初版部数は一千から二千冊程度で(タイの人口は七千万弱)、娯楽小説ばかりが売れているそうである。娯楽小説に罪はないし、むしろ好きなのだが、人間の心の基礎研究とでもいうべき純文学はある程度の人数に読み継がれていってほしい。
あとは、自分の好きなことについて語るのが単純に楽しいからだ。何が好きで何が嫌いかを明確にしていくことで、次にどこに向かって進めがばいいのかがわかってくる。次に何を読めばいいのか、自分が本音では何を求めているのか、だんだんと明らかになってくる。
源氏物語のあらすじはこんなかんじだ。
高校時代のときの記憶だから、結構いい加減だから間違ってるところはたくさんあるだろうけど、雰囲気で聞いてくれ。
ちなみに、高校時代は理系だったから、源氏物語はさらっと読んだだけ。
この主人公、ロリコンでマザコンっていうシャア大佐みたいな性格でしたとさ。
で、話は進んで、成長したら筆おろしは年上のおばさんに童貞を奪われる。
作者どんだけ欲求不満なんだよ!って感じ。
このおばさんけっこうやばくて、嫉妬で他の女を念力で殺すやっちゃう。
ロリコンだから少女誘拐して囲ったり、FIREした未亡人やら、ナンパした素人とか、ときにはブスに言い寄ったり。
本命は誘拐して囲った幼女なんだけど、いろいろあって正妻にはできない。
なお、囲った幼女がついに理想の女になる手前、我慢しきれなくて肉体関係になるところで抜いた記憶がある。
たしか、こんな感じだった。
中略
でだ、いろんなところで女食い散らかすわけ。
ちなみに、主人公は変態だけど紳士だから、基本的に優しいし、飽きても捨てずに贈り物したりで恨まれないようにして、スキャンダルにならないよういろいろやるわけだ。
で、兄の嫁だか父の後妻だかを寝取っちゃう。
兄だか父だかは、天皇だから、バレたら超やばいスキャンダルだけど、バレずに托卵成功。
そんな感じで、食って食っての日々だったんだけど、主人公みたいんチャラチャラした男が嫌いなお堅い性格のオッサンの娘に手を出して、それがバレる。
で、そこでも現地妻作るんだわ。
まあ、この現地妻がなかなかいい女。性格的にも。そんで、この現地妻との間にできた娘もいい子ちゃん。
何年かして、本社(都)に戻ったんだな。
地方の現地妻との間に作った娘が、本命幼女(といってもこのころはもう大人)になぜか懐いてくれて、幸せな家庭を築くわけ。
その娘もいいとこに嫁にいって、子なしとはいえ本命子とつつましい老後にすりゃいいのに、
やっぱり男子が生まれないのはアレなんでと、若い女を妻にするの。
もうオッサンなのにどうかしてるって思うよね。
このへんが、あれだ、今回の中居正広のスキャンダルに重なるね。
主人公って、イケメン設定とはいえ、このときは小汚いオッサン。
ちょっと気が利いた和歌とか詠めるだけで、基本的には出世コースからは外れてたいした権力もない。そのくせ、まだ若い子いけるだろって思ってて勘違いも甚だしい。
これがね、若くてカッコいいアイドルなんかじゃないし、ジャニーズっていう力もなくなった中居正広に重なるんだわ。
で、中居正広の場合は女子アナが、無理やりヤラれた!って騒いだわけだけど、
源氏物語の主人公のほうはどうかというと、超若い妻を迎えたんだけど他の若い男に寝取られて托卵されちゃいましたとさって話。
托卵されたとか、それはそれで恥ずかしいんで、自分の息子として育てるわけ。
仕方ないよね。
若いころ同じように托卵したんだし。
で、第二部は、この戸籍上の息子がダブル主人公のうちの一人で、薫って子。
俺が初めて源氏を読んだのは小学生の頃で、子供向けの本には登場人物紹介に「宿命の子」って書かれてて、理解出来なかった。
もう一人の主人公は、愛人の娘が嫁いだ先で作った子供、光源氏からしたら遺伝子上の孫だったはず。
名前は忘れてた。
何十年後か、中居正広の隠し子が芸能界デビューしてほしいね。源氏物語の第二部をなぞって欲しい。
いしだ壱成みたいに。
そんで、またスキャンダルで沈むところまでいったら最高。
法律婚じゃなくてもパートナーに1/2の相続権を認めるのかって話だけど、結婚と同等の権利を与えるなら、当然そうなるよな。ただ、事実婚の拡充って言っても、何のルールもなしに相続1/2を認めろって話じゃない。ちゃんと公的な手続き、たとえばパートナーシップの登録制度みたいなものを設ければ、条件が曖昧で争いが増えるみたいな心配も避けられるんじゃないか。
あと、重婚的パートナーシップの問題も、法律婚と同じで一組の関係しか認めない形にすればいいだけじゃないか? そもそも法律婚でも、愛人がいた場合の相続とかで揉めることは普通にあるし、事実婚だけ特別リスクが高いわけじゃないと思う。
結局のところ、結婚制度を変えるのがいいのか、事実婚の権利を整える方が合理的なのかって話なんだから、問題点を挙げて「ほら、ダメじゃん」じゃなくて、どう設計すればうまくいくのかを考える方が建設的じゃないか?
源義経は母親を平清盛に手籠めにされ愛人にされたので、その仕返しに平清盛の娘である平徳子を犯したということだ
2022年のアニメ『平家物語』では徳子はcv.早見沙織の重要キャラだったので記憶に残った人も多いだろう
平家が追い詰められ多くの者が海中へと身投げする中、徳子も身を投じたが、源氏方に引き上げられ救命されてしまった
徳子は一度は天皇の后になり国母まで産んだ尊い身分の美女である
義経は徳子を手籠めにすることにしたと『壇ノ浦夜合戦記』にある
もう平家は滅びたのだから過去を忘れ源氏の者となるよう心を慰めるため、義経は酒宴を開いて徳子を酔わせる
義経が口づけをすると徳子は思わず舌を少し出したが、ギリギリで理性が残っておりそれ以上は乗っては来ない
徳子の緋袴の中に義経は手を伸ばし、その描写は「春草まばらにしてやわらかなり」とあり陰毛のことだろう
酔って強くは抵抗しないものの、徳子は股間に力を入れて指の侵入を拒んだ
「すでにここにいたれり。なんすれぞ、さらにはじていずれのときをか期せんとする。なおしからずんば、かくのごとくせんのみ」
(すでにこうなっているのに。どうしてこれ以上ためらうのだ、いつ実行させてくれるのだ? もしさせないのなら、このようにするほかない)
徳子は痛みのはずみで足の力を抜いてしまい、義経はすかさず二本の指を挿入しつつ、銜珠(クリトリス)を愛撫する
徳子は、天皇には指で責められたことはなくはじめてのことだと語る
「やめよ。指をもってするなかれ。嗚呼、ほとんど堪え難し。嗚呼、それ指をやめよ」
徳子を横寝させ、義経も同じ方向を向きがら横寝して背後から挿入した
更には義経が仰向けに転がり、徳子に騎乗位をさせる体位に転じた
「嗚呼、美快迫る。寧ろ此の美快に死するを得んか。君願わくば妾の事殺せよ。嗚呼、君の手に死さば本望足る。嗚呼、それ、死す」
(ああ、美しい快感が迫ってくる。むしろ、この快感の中で死ぬのが本望だ。お願いだ、私を殺してくれ。ああ、あなたの手で死ねるなら本望だ。ああ、これで死ぬのだ)
と言いながら徳子は達した
徳子が最初の頃に流した涙は枯れ、後にはただ腰を打ち付け合う音が響いたという
これが平家物語の末路だよ