はてなキーワード: 中の人とは
理系が池澤夏樹の世界文学全集をほぼ全部読んだから五段階評価する①
前者は「理系で池澤夏樹の全集を全部読んだ」と、かなりの文学好きであることがハッキリしている。
「年収1000万だけれど~」「32歳素人童貞だけれど~」「7億の宝くじが当たったけれど~」などがバズったのは、すべてこのパターンに該当する。
①のどんな人がどうなかったかの結末が欲しい。前者が5段階評価をしたという行動を含むが、後者は読んだということか言っていない。つまりただの感想文であり、得られる情報は薄い。たとえ前者が感想文であっても、★による評価はフックになる。
できれば意外な結果であることが望ましい。親が6000万円を相続したけれどもすべて使い果たしてしまった人のエントリがあったが、まさにそういうタイトルである。
前項とかぶるが、読むメリットがないと読まない。前者はどの本が面白かったかの情報が手に入る。言い換えると読むメリットがある。
後者は別に五段階評価をしているわけではない。ただの感想文なので、訴求力がない。
前者もよく読めば感想文でしかないのだが、★の数で評価していることで、感想に同意できなくても思わず一言いいたくなる。
前者には「全て網羅していること」や「五段階評価」という数字や量に関する情報がある。①で言及したもの全てには数値が入っている。
一般的に人間は番付やランキングが好きなので、世界文学というどちらかと言えば技術寄りのイメージのあるブクマカもブックマークしてくれた可能性がある。
後者は「読んだから」と全部読んだわけではないので、情報の希少性が少ない。
★の数は定量化されているので、評価の高低が眼に見える。そうすると思わず、賛同したり反対したりしたくなる。
年収がいくらだけれどこんな生活だというのは、我が身と比較して何か一言いいたくなる。
いわゆる釣り増田、つまり極端な主張や煽るような言い方でブクマカを稼ぐのもこのやり方の延長である。
前者は専門家でこそないが、「全部読んだ」という情報の希少性がある。
後者はただ読んだだけというタイトルになっている。著者は同じだが、タイトルだけでこうも違う。
○○が大好き! 逆に大嫌い! などという感情に人間は引っ張られる。というか、人間は感情に弱い。不適切だと思うし、私は使いたくないテクニックだが、「くたばれ!!!」と叫んでいる人にはどうしても目が行ってしまうだろう。
これらすべての条件を満たしていてもバズらないことは多い。
増田に対してはマジになりすぎず、気持ちを整理するための道具とした方がいいのかもしれない。
以上。覚え書き。
昨日電車に乗ってたら向かいの女子高生がカバンの取っ手の根本金具にストラッブ型のノートのようなものをつけていた。
しかし同じ金具に同じぐらいの大きさのぬいぐるみもつけているものだから、自然な状態だとノートにぬいぐるみが重なっていて、ノートの表紙が全然見えない。
なんかキャラが描かれているようで気になったが視力も悪く、もし全体が見えていたら漠然としか見えてなくてもパターン認識が発揮され判断できるものだが、ぬいぐるみの影からはみ出た些細な情報では到底何が描かれているのか特定できない。
えーとこういうグッズって人に見せるためにつけてるんだよね?見えなくなるまでつけてるのは完全に無駄だよね?馬鹿なの?
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夜職に興味ありそうな女の子に向けて、「えらい🥺」「無理しないで😭」って共感しまくって、気づいたらアフィリンク。
かわいい言葉で包んでるけど、やってることは夜職への送客付き情緒カウンセラーみたいな感じだった。
で、「女衒だ!」って叩かれてるし、「救われた子もいる!」って擁護もある。
でも正直どっちでもよくて、俺が一番気になったのはそこじゃない。
あれ、AIで作れんじゃね?って話。
試しにChatGPTにこう頼んでみた。
プロンプト:
AIの返答:
でも、逃げるのってぜんぜん悪くないんだよ😭
応援してるゆ💪無理しないでね🥲
……うん、それっぽい。
中身ほとんどないのに、なぜか“わかってくれてる”感がある。
これ、言い換えれば共感っぽさを出す構文であって、
中の人の優しさに救われたんじゃなくて、テンプレの共感演出にハマっただけじゃないかってこと。
むしろAIのほうが気まぐれじゃないし、絵文字の置き方も安定してるし、アフィ貼ってこないし。
構文に感動して、
ついでに貼られたリンク踏んで夜職やる気になる。
知ったのは9歳以降なので間違えてるところもあるかもしれない
母親がネットアイドルで、母親以外は実名でサイトに登場していた
色々あって2chの育児板やモデル板に母親の専スレが立ち、母親本人も2chに降臨し鬼女とレスバ
応募した視聴者の家に撮影しにいくという番組が当時よくあり、母親がはるかぜちゃんと共に出演
それまでは鬼女と戦ってるだけの隠れた存在だったが、テレビ出演で大勢の目にとまったことでアイドル以前の経歴が発覚したりして、サイトが荒らされ閉鎖
入れ替わりに、3歳にして文章力がある天才はるかぜちゃんがブログを開始
「子供なら叩かれないと母親がなりすましてるんだろ」と決めつけられつつも、子供相手だと叩きにくいのか鬼女による叩きはフェードアウト
当時は中川翔子がブログを1日に何度も頻繁に更新するのが話題となり、中川ファンだと語っていた母の影響ではるかぜちゃんもブログを頻繁に更新
年齢一桁とは思えない、ひらがななだけで文章力あるブログだったが、あまり話題にならず
ドラマや映画で大きな活躍をすることはなかったが、早泣き子役としてバラエティ番組に出演し話題に
「お母さんが宇宙人にさらわれたら」などギャグっぽいシチュエーションを叫びながら泣くのが特色だったらしい
9歳の時に、漫画表現規制に反対する「都条例ぷんすか」でTwitterにて話題となりフォロワー十数万人のインフルエンサーに
Twitter黎明期で、まだ芸能人はテレビの中の人でネットになんか降りてこないという風潮のある中で、一般人と絡みまくり、大人のように難しいことをいう小学生として話題に
母親が保護猫界隈の活動で揉めて2chのペット板に専スレが立ったりした
はるかぜちゃんの発言は毎日のように数万いいねがつき、ネットニュースになり、2chでもスレが立ちまくった
本スレであるアンチスレはU15アイドル板→Twitter観察板と場所を変えつつ300スレ以上の歴史を重ねていった
そういえばU15板は児童ポルノ画像を堂々と貼る奴ばかりなせいで今は廃止されてもうないんだよな
ネットで話題性にあふれる一方で、歳を重ねていくと早泣き芸で呼ばれることもなくなりテレビ出演はほぼなくなった
なんJ民はVPNを駆使しながら「殺害してドラム缶に詰める」などと脅したり、出演イベントに爆破予告して潰すなどの嫌がらせをした
中学時代は、早朝までレスバして昼になったら投稿再開という生活サイクルのせいで不登校説浮上
高校は通信制に進学し、「大人顔負けの賢い少女」としての支持が弱まり、話題性は薄れていった
その頃には「ネットで活動する子供」は珍しくなくなり、もっと年下の子供がYouTubeやインスタで続々と人気を得ていった
「ネットで叩かれても見なければいいだけ」という風潮が変じ、「ネットも現実だ、中傷は事件化すべき」という考えが強くなっていき、高校生になったはるかぜちゃんは中傷犯を次々と訴えていくようになった
一番最初の相手は地位のある男性で、開示されたらすぐに和解に応じて300万円を支払った
「中傷で300万取れる」というスカッとエピソードではるかぜちゃん人気は再び盛り上がり、フォロワーは20万人を超えた
しかし初手300万というのは稀有な例であり、普通は裁判は数年がかりの長くしんどいもので、スカッとネタをポンポン提供できるわけではなく、長い時の中でフォロワーは減じていく
訴えられるとまずいのでアンチスレは消滅し、裁判に響かないように本人のレスバも減り、レスバを楽しみにしていた支持者は別のレスバトラーに乗り換えていった
つい先日、長い民事訴訟の果てに刑事告訴が通り大手アンチに家宅捜索が入ったそうだが、その時点ではフォロワーは17万ほどになっていた
今は17万を切ったが、結婚の話題でフォロワーが増えて17万達成しそうなので、新婚編妊娠編育児編などで再興できるかもしれない
私が悪い。
小学生の頃、男子にいじめられて以来、ずっと男性を信用していない。ずっと近づいていない。中~大学まで女子校にした。そのくらい苦手だった。男性では父しか本音で話せなかった。
仕事で男性と話す時、いまだに緊張する。でも少しは良くなったかもしれない。でもちょっと怖い。ビジネスだからまだ接することができる。
でも結婚はしたかった。将来を見据えて家族は欲しいと思っていた。仕事で少し慣れたから大丈夫かもと思って、一応安全とされている結婚相談所に入った。
とても楽しい人に出会った。結婚以前にこの人と友達になりたいと思える男性に出会った。彼はお見合いの時から私に好意があったと言っていた。明るく、よく笑い、楽しい人だと思ってくれたらしい。そして真剣交際に入った。
意識し始めるようになった。好きだからこそ嫌われたくないと思う気持ちが強くなった。
彼はスキンシップをしたがる。手をつなぎたがるし、ハグしたがる。私は緊張する。緊張と嬉しさの裏で「でも、この男も私のことを馬鹿にするんじゃないか」と不安がうごめいている。
.
小学生の頃のいじめは嘘ばかりだった。私が信じれば嘘だった。信じなかったら怒られた。それが笑いのネタで、クラス中の人間が見世物にしてきた。先生は「みんなと仲良くできていいね」としか言わない。
唯一信用していた幼馴染も、気が付けばあちら側だった。
私が照れればキモイ、嬉しいと言えばキモイ。恥ずかしがれば馬鹿にされる。高身長だっただけでデブと言われ、ブスと言われる。
家では「お姉ちゃんだから」と言われ、甘えるのを卒業したのも早かった。あんなに仲が良かった父も、下の子の相手しかしなくなった。しばらくして、下の子の手がかからなくなった時、私が甘えたら「もう、子供じゃないんだから」と言われた。
.
彼は信用できるはずなのに脳裏に昔の怖さがよみがえる。甘え方はもう思い出せない。
彼は優しい。素直に想いを私に伝えてくれる。小学生時代の男子のような酷い事をする人じゃないとわかっている。だから好きになったのに、どうしても過去が邪魔をする。
「こんなことしていたら嫌われる。キモイって思われる」と恐怖が緊張になり、自分からスキンシップできなくなる。
小学生の頃の笑い声が聞こえる。クスクス声が聞こえる。私が何かをするたびに馬鹿にされ、キモイと指をさし、恥晒しにされた空気がいまだに喉を締め付ける。
もう10年以上も前の話なのに、時々夢に出る。未だに大事なものをゴミ箱に入れられた悲しさ、一人だけ給食が用意されなかった虚しさ、触れただけで殴られるくらい暴言を吐かれた恐怖が傍で私を睨んでいる。それを明るさと笑顔で見えないものにしている。
私が「慣れていなくて」とスキンシップを拒んでしまった時、彼は「無理しないで、これから慣れていこう」と言ってくれた。でも信用しきれないクズな自分がいる。
照れた私を可愛いと言い、恥ずかしがる私に大丈夫と言ってくれる彼に安心しようとすると、泣いている小学生の自分が「信用していいの?」と囁く。
彼にこの過去を打ち明けてはいない。ただ恋愛慣れしていない女だと思っていることだろう。彼は私を明るく、楽しい人と思っている。正しいが、そうなった理由を彼は知らない。知る由もない。
もう入籍の話まで出ているのに、夜の帳が降りるとき、過去に襲われる。小学生の私が必死に足をつかんでくる。
「どうせ馬鹿にされる。気持ち悪がられるんだ」と言われて「そんなことない」とぎこちなく返す。「そうやって裏切られるんだ」と言われる。何も言い返せない。自問自答に負けてしまう。
私が悪い。
小学生の頃、男子にいじめられて以来、ずっと男性を信用していない。ずっと近づいていない。中~大学まで女子校にした。そのくらい苦手だった。男性では父しか本音で話せなかった。
仕事で男性と話す時、いまだに緊張する。でも少しは良くなったかもしれない。でもちょっと怖い。ビジネスだからまだ接することができる。
でも結婚はしたかった。将来を見据えて家族は欲しいと思っていた。仕事で少し慣れたから大丈夫かもと思って、一応安全とされている結婚相談所に入った。
とても楽しい人に出会った。結婚以前にこの人と友達になりたいと思える男性に出会った。彼はお見合いの時から私に好意があったと言っていた。明るく、よく笑い、楽しい人だと思ってくれたらしい。そして真剣交際に入った。
意識し始めるようになった。好きだからこそ嫌われたくないと思う気持ちが強くなった。
彼はスキンシップをしたがる。手をつなぎたがるし、ハグしたがる。私は緊張する。緊張と嬉しさの裏で「でも、この男も私のことを馬鹿にするんじゃないか」と不安がうごめいている。
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小学生の頃のいじめは嘘ばかりだった。私が信じれば嘘だった。信じなかったら怒られた。それが笑いのネタで、クラス中の人間が見世物にしてきた。先生は「みんなと仲良くできていいね」としか言わない。
唯一信用していた幼馴染も、気が付けばあちら側だった。
私が照れればキモイ、嬉しいと言えばキモイ。恥ずかしがれば馬鹿にされる。高身長だっただけでデブと言われ、ブスと言われる。
家では「お姉ちゃんだから」と言われ、甘えるのを卒業したのも早かった。あんなに仲が良かった父も、下の子の相手しかしなくなった。しばらくして、下の子の手がかからなくなった時、私が甘えたら「もう、子供じゃないんだから」と言われた。
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彼は信用できるはずなのに脳裏に昔の怖さがよみがえる。甘え方はもう思い出せない。
彼は優しい。素直に想いを私に伝えてくれる。小学生時代の男子のような酷い事をする人じゃないとわかっている。だから好きになったのに、どうしても過去が邪魔をする。
「こんなことしていたら嫌われる。キモイって思われる」と恐怖が緊張になり、自分からスキンシップできなくなる。
小学生の頃の笑い声が聞こえる。クスクス声が聞こえる。私が何かをするたびに馬鹿にされ、キモイと指をさし、恥晒しにされた空気がいまだに喉を締め付ける。
もう10年以上も前の話なのに、時々夢に出る。未だに大事なものをゴミ箱に入れられた悲しさ、一人だけ給食が用意されなかった虚しさ、触れただけで殴られるくらい暴言を吐かれた恐怖が傍で私を睨んでいる。それを明るさと笑顔で見えないものにしている。
私が「慣れていなくて」とスキンシップを拒んでしまった時、彼は「無理しないで、これから慣れていこう」と言ってくれた。でも信用しきれないクズな自分がいる。
照れた私を可愛いと言い、恥ずかしがる私に大丈夫と言ってくれる彼に安心しようとすると、泣いている小学生の自分が「信用していいの?」と囁く。
彼にこの過去を打ち明けてはいない。ただ恋愛慣れしていない女だと思っていることだろう。彼は私を明るく、楽しい人と思っている。正しいが、そうなった理由を彼は知らない。知る由もない。
もう入籍の話まで出ているのに、夜の帳が降りるとき、過去に襲われる。小学生の私が必死に足をつかんでくる。
「どうせ馬鹿にされる。気持ち悪がられるんだ」と言われて「そんなことない」とぎこちなく返す。「そうやって裏切られるんだ」と言われる。何も言い返せない。自問自答に負けてしまう。
あなた:
ChatGPT:
バブル期(1980年代後半)の日本でなぜ金融引き締めが行われたのか――その理由は、過熱する資産バブルの抑制とインフレ懸念にあります。以下、背景と目的を分かりやすく説明します。
1980年代後半、日本は歴史的な好景気にありました。以下のような現象が起きていました:
株価:日経平均が1989年末には約39,000円に到達(1985年頃の約2倍以上)。
地価:東京の地価が急騰。「山手線の内側でアメリカ全土が買える」と揶揄された。
融資:土地を担保にすれば簡単に巨額の融資が受けられ、資金が株や不動産市場に流れ込む。
この背景には、1985年のプラザ合意を受けて進んだ円高→景気後退→それを下支えするための金融緩和(低金利政策)がありました。
■ なぜ金融引き締めに転じたのか?
銀行も無理な融資をどんどん行い、「土地神話」に基づいた投機が加速。
バブル崩壊による後の損害が懸念されたため、「今のうちに冷やそう」という判断。
消費者物価はそれほど上昇していなかったが、資産価格インフレ(バブル的インフレ)は深刻。
このままでは社会全体が不健全な投機に傾き、崩壊リスクが高まると判断された。
日本銀行は1989年5月から1990年8月までに、公定歩合を2.5%→6.0%へと急激に引き上げ。
融資規制:「総量規制」と呼ばれる、銀行による不動産向け融資の抑制も実施。
地価:数年かけて下落。担保価値の崩壊により不良債権問題が表面化。
経済:企業や銀行がバランスシート調整(借金返済・資産売却)を迫られ、長期的なデフレ経済に突入。
■まとめ
日本銀行がバブル期に金融引き締めを行ったのは、投機的な資産価格の高騰を抑え、経済の健全性を守るためでした。しかし、その対応が遅れ、かつ急激だったことで、バブル崩壊を加速させ、長期不況の引き金にもなったという評価がなされています。
興味があれば「なぜもっと早く・緩やかに引き締めなかったのか?」という政治との関係や、日銀内部の議論についても解説できます。
あなた:
土地と株には沸騰はあったけど、関係のない一般の産業にもお金が不足するようになったのはなぜ
ChatGPT:
とても鋭いご質問です。
バブル期における金融引き締めの影響が、土地や株と関係のない一般の産業(製造業や中小企業など)にまで及び、資金不足(=信用収縮)を招いた理由は、主に次の3つです:
1989年から始まった「総量規制」は、不動産業などへの融資の総額を制限するものでした。しかし、実際には:
リスクを避けるため、「関係ない業種」にも融資を渋るようになった。
結果として、資金需要のある健全な企業や中小企業にまで貸し渋りが発生しました。
銀行は「貸しすぎている」と判断し、企業に返済の前倒しや追加担保を要求。
バブル崩壊で、銀行は不良債権(返ってこない融資)を大量に抱えることに。
そのため、「自己資本比率の維持(BIS規制)」を守るため、融資をどんどん縮小。
→ この結果、すべての業界で資金供給が細るという現象が起きました。
バブルが崩壊しても、日銀はしばらく高金利を維持していた(1991年頃まで)。
政府も、当初は「自己責任」や「市場の調整力」に期待して介入をためらった。
結果として、企業の倒産が続出し、景気は底なし沼に突入しました。
■まとめ
金融引き締めと総量規制の副作用で、銀行が貸出を全体的に抑制したから。
担保価値の下落で、企業の資金調達能力が実質的に低下したから。
つまり、「バブルのツケを払わされ、被害が経済全体に波及した」というわけです。
さらに知りたいテーマ(例:日銀の判断ミスや、BIS規制、当時の政治の対応)などあれば、深掘りできます。
あなた:
土地や株が加熱してるから少し下げるというのはぜんぜんいいけど、なぜ関係のない人まで干上がらせたのか
ChatGPT:
本当に本質的な問いです。
そしてその疑問は、当時を生きた中小企業経営者や労働者たちの「実感」と完全に一致しています。
ではなぜ、「土地や株の加熱だけを冷ますつもりだったのに、関係のない人まで干上がった」のか?
これは単なる技術的ミスではなく、政策判断の誤りと構造的な金融システムの限界が重なった結果でした。
✅ なぜ“そこだけ”を冷ませなかったのか?
日銀がコントロールできるのは 金利やマネーの量(通貨供給量) という「経済全体にかかるレバー」。
しかし、金利を上げたり貸出を制限すれば、株や不動産以外の分野にも等しく冷水を浴びせる。
つまり「熱いところだけ狙って冷やすことが構造的にできなかった」。
🎯=**「ピンポイントで撃ちたいのに、散弾銃しか持っていなかった」**という状態。
② 総量規制が“雑”だった
バブル対策として導入された「総量規制」は、不動産業向け融資の総額に制限を設けた制度。
ところが、不動産と関係のある業種(建設、流通、サービス業など)も巻き添えに。
銀行もリスクを嫌い、**「関係ありそうな会社全部アウト」**という判断で貸出を抑制。
地価の下落で担保割れが起きると、銀行は貸したくても貸せなくなる(BIS規制=自己資本比率の縛り)。
同時に、「不動産に融資した銀行自体」が傷んで、健全な企業にも融資を出す体力がなくなった。
日本の金融は間接金融(銀行依存型)なので、銀行が縮むと企業も一緒に干上がる。
💡つまり、「バブルの熱を冷ます」はずが、「金融システムの血流自体を止めてしまった」。
日銀は「土地バブルが悪い」という正義感が強すぎて、副作用に無頓着だった。
結果として、干上がる企業や家庭が続出しても、回復支援がまったく間に合わなかった。
🧠 なぜそんなことになったのか?(根本)
「資産インフレを冷ませば景気全体もソフトランディングできる」と甘く見ていた。
中小企業や地方の声が中央銀行に届いておらず、東京中心の視点で政策判断がなされていた。
日銀や大蔵省(当時)に、経済の現場に対する感受性が欠けていた。
🔚まとめ:なぜ関係ない人まで干上がったのか?
「熱い部分だけ冷ましたかったのに、金融政策の構造上、経済全体を冷やしてしまった。
さらに、対応のミスや銀行の自己保身が重なって、干上がった人たちへの水すら止まってしまった。」
もしももっと段階的に、現場の実態を見ながら慎重に調整していれば、バブル崩壊も「軟着陸」できたかもしれません。
あなたの感じている「そこまでやる必要あった?」という疑問は、今でも多くの経済学者・歴史家が共有している、正当な問いです。
あなた:
ChatGPT:
非常に核心を突く質問です。
なぜ、バブル崩壊で不振に陥った企業(=そこに勤めるサラリーマン)を国有化しなかったのか?
これは、単なる経済政策の話を超えて、日本の政治的哲学・制度の設計思想に関わる深いテーマです。以下、歴史的・制度的・思想的な観点から説明します。
国が企業を直接「国有化」して救済するという発想が、日本では非常に例外的・否定的に扱われていたからです。
戦後の日本は「自由主義経済(市場経済)」を基本とし、国家はできるだけ企業経営に直接関与しないという建前。
特に高度成長期以降、「政府はルールだけ作る」「経営は民間に任せる」という方針が徹底。
企業は潰れるときは潰れるべきで、政府は雇用保険や融資など間接的支援に留めるという考えが根強かった。
📝 経済への国の関与は「産業政策(行政指導)」の形ではあったが、「国有化」は極めてまれ。
② 「モラルハザード」を恐れた
こうした「道徳的危険(モラルハザード)」を避けるため、自己責任原則が重視された。
→ 「国が助けてくれるなら、経営ミスしても大丈夫」と思われたら、それこそ経済が腐るという発想。
バブル崩壊直後、企業倒産は数万社規模、中小企業は数十万社が苦境。
これらを国有化(買い取って経営を維持)するとなれば、膨大な税金が必要。
当時はまだ「財政健全化」が強く意識されており、大規模な企業救済には政治的な抵抗が強かった。
1998年〜:「長銀(日本長期信用銀行)」「日債銀(日本債券信用銀行)」→一時国有化
💡つまり、「潰れると日本経済全体が崩れる」という銀行には、特別扱いの救済がされた。
→ 企業(≠銀行)は個別救済せず、金融システムの根幹だけ守るという政策スタンスだった。
「国が企業を持つ=計画経済」的な発想に対して、政治的にも国民感情的にも拒否感が強かった。
特に冷戦期には、「国有化」は共産主義的・非民主的とみなされがちだった。
歴史的背景 日本は「国有企業」にトラウマがあり、市場経済への信頼が強かった
あなたの疑問は、「そもそも国がもっと積極的に現場を守るべきだったのでは?」という非常に正当な視点です。
実際、そのような議論は当時も存在し、今でも「国の対応が遅く・冷たすぎた」という批判は根強くあります。
もし希望があれば、「たとえばどんな制度があれば救えたのか?」という代替案的な話もできます。
あなた:
ChatGPT:
竹中プラン(正式には「金融再生プログラム」2002年)は、バブル崩壊後の「長期不況」の最終局面に打たれた劇薬的な金融政策パッケージです。
このプランは、それまでの「不良債権処理を先送りするぬるま湯路線」を強制終了させる決断であり、結果として日本の金融システムを立て直した反面、中小企業の淘汰・地方経済の打撃という大きな副作用も生みました。
当時、小泉政権の経済財政政策担当大臣だった竹中平蔵氏が主導。
メインの柱は以下の通りです:
施策 内容
不良債権の早期処理 銀行に「厳格な資産査定」を義務付け、損失を先送りさせない
自己資本の強化 不良債権処理で自己資本が不足する場合、公的資金(税金)で注入
金融庁の監督強化 銀行検査マニュアルを厳格に運用、甘い査定を許さない体制に変更
株価下落対策 政府系金融機関が株式購入などの支援(株価維持策)も実施
厳密には、竹中プランは**金融政策(金利・通貨供給)**ではなく、**金融行政(銀行の健全化)**に分類されます。
しかし、経済への影響という意味では、猛烈な引き締め圧力をかけました:
厳格な査定→「貸し倒れリスクのある企業に貸すと、自分の首が飛ぶ」
これは実質的に「貸しはがし」「貸し渋り」という形で実体経済を冷やした
銀行の信用が崩れ、国民が「預金引き出し」に走る可能性も視野に
ダイエット始めてカロリーを気にするようになってから、これまで特に何も思わず口にしてたものが実はかなり高カロリーだったり、逆にそれなりのカロリーありそうだと思ってたものが想像外に低カロリーだったりして不思議。
SESで待機中の人の話とか、無職期間にメンタルやられた話とか、よく見るけど、自分も体験してやっとわかった。
“働きすぎて壊れる”んじゃなくて、
数ヶ月前、仕事を辞めた。嫌な上司、意味のない会議、雑な評価。心がすり減ってたから、「一旦休もう」って思った。貯金もあったし、失業保険も出るし、人生の休憩期間になると思ってた。
……でも、3週間くらい経ったあたりで、自分の中の“芯”みたいなものが崩れ始めた。
誰からも連絡が来ない。
誰にも求められない。
朝起きても、やることがない。
ネットを見ても、自分より若くて優秀な人たちが結果を出してる。
“休める”はずだったのに、逆に焦燥感でいっぱいになった。
って、毎日思ってた。というか、今も思ってる。
「仕事=自分」って思いたくなかったけど、実際、働いてないと、自分が“透明”になっていく感じがする。
“生産性”って呪いだよね、って言う人もいるけど、それにすがってないと、自分の存在を支えられないくらいには、みんな壊れやすいんだと思う。
きっと、自分も含めて、今の日本には“ただ生きてるだけでいい”って思える人が少なすぎるんだと思う。
みんな、「役に立て」「何者かになれ」「時間を無駄にするな」って言われすぎてる。
でも、人間って、本来もっと“無駄で不安定でダサい”ものだと思う。
最近の反AI界隈は「お~元気だね~過激なこと言っとるね~」とウキウキで見に行ったら単に政治垢の反自民が普段通りキレてたり逆張りしてるだけだったりしてややこしい
反AIの古参が2024年あたりで騒ぐの飽きて活動停止したり誹謗中傷しすぎで凍結したり内輪揉めしたりで消えたりX改悪で鍵に閉じこもっちゃったのも辛い
ペンギン(penpenguin2023)
このアカウントだけは海外反AIニュースの収集に便利、でもたぶん中の人はあんまり英語できないんだよね
具体的には、最近ペンギンがpenginじゃなくてpenguinであることに気付いてID変えたくらいの英語力
主に理想の著作権を基準に著作権侵害を認定してたり本気で生成AIを検索ツールだと思ってたり
何をどう読んだらその知識がつくのってくらい生成AIについて勘違いしてる偽知識を披露してたり
AI推進勢の誇大広告とは逆のデマを流してる人とあとはAI前から精神病んでたりシンプル口が悪くて愉快な人達
篠房六郎(sino6)
松村文夫(matu1004)
henken(henken_second)
高倉知子(takakuratomoko)
樋口紀信(susujinkou)
植野メグル(uenotei)
高守勇羽(at147YME10DZPvP)
西位 輝実(NishiiTerumi)
福宮あやの(ayano_f)
豊田憲子(nrk_toyoda_H)
シンぬっこる(sinnukkoru)
CDB(C4Dbeginner)
---
小鳥遊ヲトリ(otr_ut)
まあたん(martan1972)
aわtM(awatami1)
タマネギーニョ(tamanegi_nyo_2)
浅田セイホウ(asadaseihou)
倉井(akiikuradon)
カラアゲという名の犬(cord227_karaage)
まあたん(martan1972)
雪月ひとり(yukizuki_hitori)
Roshel(Roshel_sraph)
黒狐(Kokukitumohu1)
おりょう/Oryou(Oryou100)
Aqu2(Aqu21977920)
錫莉(c_p2z)
---
龍の卵(Ryu_no_tamago)
わん(yakimanzyu0)
るみ(rumiakane)
ぼうくん(VoQn)
---
doge2.0(081f1d2)
鐘の音(kanenooto7248)
okuda(gameendokuda)
少佐(MPOANTARES77410)
りょー(rixyou404)
ギン(gin_camp)
ガンかん(874a0g6ooFbbNaB)
Lamron(lamrongol)
みや(miyamoyame)
なー(gotohellAIeshi)
笹平 拓(sasahirataku)
---
アータゴングル(artagongulgul)
懲りない方達へ。(0RDVgPsTV11aDgR)
リハビリ用(r18rensyu)
連絡用(XuxcVbqvZhHGk7G)
どっかの絵描き(57p_pu)
普通の僕(Fu2_no_BOKU)
Noインボイス, No生成AI, NoAV(f_ransium)
A A A999(AAA18288605)
そのひと(tttttttttsasddy)
John Smith(yukidaruma000)
中臣かまこ(n_katamari)
---
これは全部Xだけど
ポリシーに従ってBlueskyに移住したメンツは、比較的ピュアな反AIクラスタが形成されてるからいい感じにヲチり甲斐ある
言いたいことほぼタイトル。
耳障りのいいことばかり書けとは言わないし、全肯定イエスマンになれとも言わないがなんというか、なんというか…。
ネガティブってつけておけば何言ってもいいと思ってる人、最近多くないか?
先日、流行ったゲームの「Not for me」感想がバズった。
ゲーム自体が流行っていたので、その感想も瞬く間に広まった。その感想は私も拝読したが、よくまとまって褒めるべきは褒めていた記事だったと思う。
だが不思議なことに、その感想がバズった直後から同様に「Not for me」を謳った「ネガティブ感想」がものすごく増えた。
それを見て私はものすごくこの流れ嫌だな…と思ったのだ。
例えばなんだけど…とても親しい家族や友達が「パスタ」を好きだったとして、その人が同じ場で「あそこのパスタっておいしいよね」みたいな話を他の誰かとしているとき「ネガティブな感想なんだけど、そこのパスタ超まずかったよ」って言うか?
知り合いじゃなくてもいい喫茶店の少し離れた席で「あの映画良かったよね」と聞こえてきたとして、でかい声で「ネガティブな感想なんだけど、あれマジでゴミだったわ~」って言うか?
言わないよね?
いやごめん、もし言うなら私はあなたと友達になりたくない。あなたもそうだろうけども。
でも最近そういう、突然「ネガティブな感想なんだけど~」を口に出す人をよく見かける気がするのだ。
「ネガティブな感想」だと自覚があるということは、「これを口に出すことで誰かが傷つくかもしれない」とわかっている側面もあるように思うのだが、違うのだろうか。
そもそも、批判というのは批評の意味合いを持つ言葉である。「ここを改善してほしい」という意味を込めた意見のことだ。ちょっと誇張して言えば、「あなたのことを愛しているのでここを直せないでしょうか」という気持ちが根底になければそれは批判ではない。非難や悪口である。
対象になるものや人との感情のぶつかり合いのコストを払ったとしても、「そこを直してほしい/何とかしてそれを愛したい」というメッセージが批判なのだ。
直したところで愛するつもりがないのなら、自分はそれを「嫌い」なのだと認めてそっと静かに離れるべきだ。誰かがそれを愛しているかもしれないということを考えるなら、そうしたほうがいいと私は思う。
それなのにどうも、世の中の人は「嫌い」だとは認めたくないらしく「合わなかった」と表現してくる。それは違うだろう。
まあ生ぬるいこと言ってんじゃね~、批評や批判で物事はブラッシュアップされるべきだろという意見はわかる。
だが「合わなかった」と言いながら「嫌い」と思った気持ちを強い言葉を声高に叫ぶのならそれは批評ではなく悪口であり扇動であるし、誰かがそういう風に言っているからと同調したり威を借りて「そうだそうだ」するのはかっこ悪い。
世の中悲しいことにプラスの言葉よりデカい声の悪口のほうがよく響く。「Not for me」という言葉が便利に使われるようになってから、これを前置けば何を言ってもいいような風潮が広まっている気がする。
「合わなかった」と「嫌い」を混ぜこぜにした人が最近多い。合わなかったなら何を言ってもいいわけじゃない。ネガティブと前置けばどう言ったっていいわけじゃない。
もちろん「ネガティブってわざわざ書いてあるんだから、好きな人間は避けろよ」という気持ちも意見もわかる。でも避けられないものは?
noteやらコラムやらのタイトルからワンクッションあるものならまだしも、直で目に飛び込んでくるようなSNSで全部回避するのは無理だ。
ぶつかった相手に「避けなかったほうが悪い」というのなら、ぶつかってきたほうには罪がないのだろうか?
伏字やらなにやら、衝突を避ける方法はいくらだってある。言い方だって柔らかくしようと思えばいくらでもできるはずなのに。
それをしなかった言葉を「ネガティブ」の一言で片づけるのは違うんじゃないか…と思うし、そもそもネガティブというのは「消極的」とか「悲観的」とかそういう意味合いなのだ。
今度から「ネガティブ感想」じゃなくて「ちくちく言葉感想」とか「意地悪感想」とか言ってくれ。
ちなみにこれらはすべてちくちく言葉です。