はてなキーワード: 字面とは
いや大きい決断の前にパートナーと問題共有しろやっていう当然のことを言ってるだけであって、
AIを擬人化して「わたしをさしおいて…寂しいっ!」って言ってるわけじゃないんだよ
こういうとこなんだよな
今朝肌の調子が久しぶりになんか起きて顔洗ってモッチリしていて、
おお!ってなったわ。
でもさ
これ2時間と6時間とでしか決まった時間のカウントしかできなくて、
寝るちょうどいい2時間前にスタートして且つ起きる頃の6時間後にオンにさせるってわけなの。
細かく時間を指定するためにはボタンやそれを表示させるための画面を作らなくちゃいけないので、
それらのタイマーは昨日するの。
うーん、
なんかさ
夜もう眠たい時に、
これ今時間加湿器タイマー掛けて何時間後にオフになって何時間後にオンになるの?って計算できないのよ。
割り切れないわ!
でもこれ逆に計算しなくても押せばタイマーを仕掛けることができるので、
計算の手間なく押すだけ!って確かにそれは何も考えなくても良いわよね。
水の量だけ気にしておけば、
原始的にお湯を沸かしての蒸気で保湿させるタイプのはやっぱり加湿パワーがあるわ!
気化式のあるじゃない加湿器。
濡れたフィルターに風を当ててなんか加湿された風が出てくるようなやつ。
でも毎日お水は4リッター減ってるの!
謎だわ。
でも水は減るのよ。
毎日毎日4リットル減っているということは確かにこの空間に広がっているのだと思うわ。
これじゃエブリリトルシングさんの信じ合える喜びをなんてどころの話じゃないわ!
そう思いながら私はエブリリトルシングさんの信じ合える喜びの曲がかかっているときに食べたいハンバーガーの紙の包みを開けてちょうどそれを持ったときに手が汚れないような開け方をしつつ片手にもちつつ壁にもたれながらアメリカ出身の正義超人レスラーテリーマンの様に壁にもたれながら食べるのは
この味だけは信じ合える喜び逆に言うとELTバーガーとも言える、
もはや概念の話ね。
目に見えて加湿感がわかるし加湿されてる感も分かるし、
私が唯一信じてやまない加湿器なわけなの。
あとほぼメンテナンスフリーだしね!
常に沸騰したお湯が内部で沸いているから雑菌の繁殖の余地がないのよ。
それも楽チンな仕組み!
もう加湿器の中ドロドロよ!
定期的に洗わないと沼ってるわ!
あれ気になるのよね、
汚れたままの内部を通した風邪が撒き散らされていると思うと!
なので、
もうさ、
何が大変買って行ったら
川にまで出向いて洗いに行かないといけないぐらいそれなんて桃太郎の婆さま?ってぐらい
これ外して洗ってまた装着するときにデカいプラスチックの筒みたいなのがあるんだけど、
濡れたフィルターは湿っていて滑りが悪い上に
そのプラスチックの土台になかなかハマらないのよね!
もうなんど諦めて窓から投げ捨てようとしたのかしら?
その都度私はエブリリトルシングさんの信じ合える喜びの歌を思い出すの。
負けそうなとき
なにが必要かって信じる心だと思うの。
意地を張ればなおさら。
私はフィルターと向き合ってその装着する土台に装着しずらいときは
一度気を落ち着かせて
そうしたらなぜか美味くフィルターと土台とが上手く装着することができて、
ペキカンなの!
でも信じてあげたら叶うってことを証明できて私は大満足!
そのエブリリトルシングさんの信じ合える喜びの歌を聞いているとどうしても字面で食べたくなるBLTバーガーなのよね。
そう思って私は街に飛び出したけれど、
そう言う時に限って
なんたるちゃー!よね。
間違えないように。
あ!早速間違っちゃった!
それを食べてご機嫌で
デカい大きな加湿器との格闘で勝利して勝利のグラコロを得たわけ!
もちろん片手でグラコロを持ちながら壁にもたれながら食べるテリーマンスタイルで食べることは忘れていないわ。
一件落着ね!
お掃除終わり!
私はそんなお仕事を終えて帰ってきて今日もほっと一息就寝時間で
もちろん電気ポットタイプの加湿器をタイマーを仕掛けておやすみするのよ。
おやすみするときに加湿器のタイマーモードはおやすみおはようモードでなんかややこしいけれど
これでバッチリ!
でも今朝は、
確かにターマーおやすみタイマーとおはようタイマーを同時に設定していたのに、
加湿器朝オンになってなかったのよ!
たぶんご想像つくと思うんだけど
つまずいて電気ポットをひっくり返さないようにすぐ抜けるパターンの仕組みになってるじゃない、
それ!それなのよ!
その弾みで電源ケーブルが抜けちゃって外れちゃってて
朝オンになってなかったのよ!
そう言うこともあるわね、
さすがにそう言う時は
信じ合える喜びとは言えないわね。
それはきっと化粧水パワーかも知れないわって思うの。
まあ顔を洗ったときになんか肌調子いいかも!って思って上がったからいいわよね。
蒸気じゃなくて私の気分が!
あれ?私の心潤ってる!?
なんてね。
うふふ。
どちらを選ぶか。
今回は生レモンつーか
レモン1玉買ってきたので
皮を剥いてスライスして
お湯投入で出来上がっちゃうタイプの簡単ホッツ白湯レモンウォーラーってところかしら。
微かなレモンの香味が香るわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
増田にとって辛かったのは、単に男女の友情が成立するかしないかという世間的真理の問題よりも、「一番の友達だ」「人と付き合ったりすることができない」「俺もだ」と言語化されていた関係を裏切られたことだったんじゃないかな。「嫌だ」って言ってるのに受け止めてくれなかったことじゃないかな。
世の中にいるんだよな、言葉を字面通りに受け取ってくれないやつ。恋愛が苦手だ、って言ってたのに告白してくるやつ。性的なことが苦手だって言ってたのに、それでもいいから付き合ってって一旦了承してから、やっぱセックスしたいとか言い出すやつ。NoがNoであると理解できないやつ。
そういう連中は決まって「でも常識的にはこうだから、その発言は無効だ」みたいなことを言い出すわけ。「口ではそういってても、実際には違うでしょ、カマトトぶってるだけでしょ」「そうはいっても一緒に映画をみたじゃないか、世間ではそれは通用しない」みたいな。世の中の人間の価値観や思考様式はさまざまなんだから、その差異を埋めるために言語を使うのが知的生物たる人間だ。それでも、放たれた言葉を真正面から受け止めず、自分の価値観が「多数派」であることを盾にして相手を飲み込もうとする。それは単なる暴力だ。
悲しいことに、確かに増田にできることは自衛しかない。そういう奴らは話が通じないから、話を通じさせる前提条件が飲み込めないのだから、説得してどうこうなる相手じゃないわけだ。襲いくるモンスターからは早めに逃げるしかない。どんなにあなたに非がなかったとしても。
だとしても、「男女の機微」なんてフレーズで、真正面からの合意形成をサボタージュしようとする連中の言葉をありがたがってみせる必要はない。自分ではない誰かと共に生きるならば、まるで異なる他者と生きるならば、それが恋愛であれ友情であれ、言語による合意形成の不断の努力なしには成り立たないのだから。
いててっ いててててててっ 字面が痛ぇ!
どっちかな、もなにも同列にするのは問題認識の粒度に問題ありでしょ。
ドラマのは役で言ってるだけで実際には害意はないこと論じるまでもない
虚空に叫ぶのも実際に誰か特定個人を想定して殺したいと思ってるというより単なる独り言でもあることからその字面に反して単なる漠然としたむしゃくしゃした気持ちの反映としてそう言ってるだけと捉える余地がある。
では増田で特定のトラバに殺すとか言及するのは?明らかにそのトラバを書いた画面の向こうの相手を想像して少なくともその想像の相手を明確に意識して害意を向けてるよね?
その証拠というか裏返しというかそういう言及をされた人が「俺に殺すと言ってる」と明確に自分への害意を認識して不快な気分になることがあるのはいうまでもないだろう。
Wikipediaにも何やらそれっぽい語源説が書かれてるけど、1990年の伊丹十三の映画『あげまん』以前に「あげまん」なんて言葉はなかったよな。
なんて、いかにも昔からある言葉のように演出したら、みんながそれを信じちゃったってことだろう。
ただし、同じ意味の言葉として「福マン」というのはあって、これは1970年代ごろから使われていたようだ。
1970年の雑誌『小説宝石』に掲載された伏見丘太郎『男が知りたいズバリ女の感度めぐり 男よ、おかめを探せ』に「福マン」の解説があるのが、調べたかぎりでは最も古いか。
男子の「運」というものは、ほとんどの場合、それを齎らす女性によってつけられるものなのである。斯く申せば、諸君は、ではそうしたツキを齎らす女性とは、いかなる女性であるか、大いに知りたいと思われるであろう。私はこんなところで、決して諸君に気をもたしたりはしない。ズバリ言おう。それは「福門」を有する女性なのである。
「解すべき」というのは、つまり「門というのは女性器のことだと解すべきだ」という意図だろう。
この筆者は、おかめ顔(お多福)で体毛(陰毛)が薄い女性こそが「福マン」である、としており、逆に濃い陰毛を持った女性は「厄マン」だと述べている。
その前年1969年の『週刊サンケイ』では「福マン」ならぬ「運マン・貧マン」が紹介されている。
男どもは世にこの貧マンのあるのを、意外と知らないで、ただひたすらミミズ千匹、タワラ締めなどを求め、めぐりあっては随喜の涙を流し、かくて、ろくでもない運命をつかんでしまう。
当然、この反対に運マンがある。これは、接触すると、とにかくよくなっちゃうのである。ある男がいた。これが、女が見てもうらやむほどの、ものすごい美人と結婚した。しばらくすると仕事が順調に伸びだし、たちまちにして、その世界でひとかどの人物になってしまった。
概念自体は「福マン」あるいは「あげまん」と同じようだし、またミミズ千匹だのタワラ締めだのと明らかに女性器を意識して名付けられてもいる。
また1970年の野坂昭如『好色覚え帳』には「福チン」が登場する。
「そりゃ、きっとその先生が福チンなんだなあ、福チンが勝ったにちがいねえや」という、福チンとはなんぞや、庄助考えこんでいると、「福の神のオチンチンですよ、定奴の貧乏おそそと、勝負して福チンがやっつけちまったんだねえ、だから定奴にも運が向いてきたんですなあ、あれだけの先生なら福チン持ってて不思議はないやね」
「おそそ」は女性器のことなので、「貧乏おそそ」は「厄マン」的なものだろう。
などとして「福・損」「マン・チン」の組み合わせを取り揃えている。
「あげまん」については「女性器のことではなく『間』が転訛したんだ」といった説明もされるが、こうして見るとやはり女性器のことだと考えるべきなのだろう。
そして伊丹十三は、こうした「福マン」「厄マン」的なものから着想を得つつ、元のイメージから切り離すためにちょっと字面を変えて「あげまん」としたんだろうな。
追記。
申し訳ない。
1980年刊の『或る馬賊芸者・伝 : 「小野ツル女」聞き書より』にて「上げマン」「下げマン」を確認した。
特に奴(やっこ)が生きてきた芸妓の世界では、ことが多過ぎた。貧乏性で相手を必ず破滅へと落し入れる女、何人もの男の命を奪い取る女、逆に男を出世させる女など…。上げマンとか下げマンという言葉も残されている。
私だけ特に背が高かった。
いつも二学年以上上に見られて、幼少期には知恵遅れと勘違いされた。
体育の時間で奇数の時は必ず私が一人余ったし、身体が弱くても力仕事を任された。少しでも小さく見られたくて、背を丸めて歩いたこともあったし、記念撮影の時に膝を少し曲げて背を低く見せてた。
標準体型だから悪いのかと思ってモデル体型まで痩せて、フェミニンな格好をして歩いても、たまに駅で「女装かな」って言われた。
化粧の問題かと思って2万円するメイクレッスンにも行って化粧を勉強しても、毎月美容室に通っても、歩いてたら知らないおじさんによくわからない言葉で罵倒された。(もしかしたら身長は本当は関係なくて、あのおじさんたちは、罵倒できたら誰でもよかったのかもしれない。それでも私は「デカい」からターゲットにされるんだと傷ついた。)
拗らせてしまった自意識もあると思うし、私の性格の悪さもあるんだと思う。でも「好きでこの身長になったわけじゃない」って泣き叫びたかった。
大人になって、やっと背が高いことを含めた自分を受け入れることができて、好きなハイヒールを履いたり(電車で頭ぶつけるけど)、胸を張って歩くことができるようになった。
でもデカいって表現で何度も泣いたから、たまにインターネットで見る「デカ女」という字面だけで辛くなる。小さな頃から背が高くて、たくさん泣いた自分を思い出して涙が溢れそうになる。
ずっと蔑称として使ってきてたじゃん、それ。