はてなキーワード: 蹂躙とは
ロシア :軍事力で脅してウクライナのNATO非加盟か、あわよくば領土拡張。まずは脅して交渉のテーブルに乗って貰わないと
欧米 :いい機会だし、軍事・経済いずれか、または双方でロシアぶっ潰してガスをタダ同然で永久に入手できるようにしようず
だから、アメリカはロシアとの交渉の場を閉ざしたし、追い込んで暴発する事を待ってるんだろう。
今アメリカが軍事力をウクライナに入れれば、ロシアを刺激したと批判されるが、ロシアが既にウクライナの都市を制圧したりすれば
ロシアをぶっつぶすって大義名分が生まれて、めでたく連合軍がロシアを蹂躙できるし、ロシア経済を徹底的に国際的な経済活動から日干しに出来る。
経済的にもロシアを追い込んで、ソ連崩壊時から続く二度目の国家経済の崩壊を国民が嫌になるほど味わった後に欧米の目的は達せられるのだろう。
欧州米国+日豪加、実質世界そのものの経済と軍事力を前にロシアに出来る事は、大日本帝国以上に何もない。時が経つほど失っていくだけです。
2022-02-23
なぜ厄介と言われるような行為をして当然と振舞えるのだろうか
楽曲がサビ、あるいは曲のラストへ向かって徐々に高まっていき、いよいよ最高潮に到達する直前にある一瞬の空白、大きく跳ぶための溜め、それを塗りつぶす大音量の獣声「イエッタイガー」
楽曲の助走とも言える前奏や、曲後半で、曲調と共に大きく聴き手の感情を揺さぶる特別な時間である落ちサビを蹂躙し、その時間も周囲の人間の感情も黒く塗りつぶす意味不明な単語の羅列「ワールドカオス」
リズムのいいメロディをその量で蹂躙し、繰り返すことで徹底的に踏み荒らす騒音の大行進「アイアイ」
ここでは煩雑さを避けるため、「厄介行為」の内容をこれらのコール系に限定して話を進めたい
しかし、光害や過度に腕を振り回すなどの身体的厄介行為にも共通するところもあると思っている
もちろん、アニクラのような場所では、これらがその場を盛り上げる“必殺技"として歓迎されているのだろうと思う
しかし、観客側が声を発することは副次的な楽しみであり、ステージ上のキャストやそのパフォーマンスを鑑賞することに重きをおいている人々が集まるイベント(以後この文章において「イベント」とはこういった場を指す)においては、これらは応援行為として許容される「コール」とは別の、行き過ぎた「厄介行為」として頻繁にトラブルの種になっている
厄介行為をする者らと、それを忌避する者とが席上で口論をしているのを見かけることがままあるし、終演後のSNSでそういった行為に鑑賞を妨げられたことを嘆く投稿を目にすることはもっと多い
少なくとも、一定数以上のイベント参加者から「厄介」などと通称されている時点で、これらが賛否両論未満の歓迎されざる行為であることは、イベントに参加する、厄介とそれを拒む人両方にその認識があるところではないかと思う
なぜ周囲の迷惑を顧みず、また冷ややかな視線に晒されてまで、厄介行為を実行、継続することができるのか。私は永らくそれがわからず、単に周囲の環境に無頓着な個人の性格又は何らかの特性がそれを可能にするのだと思っていた
しかし先日あるキャラクターコンテンツのイベントにおいて、自分史上最低最悪、四方を厄介に囲まれ、視界は飛び跳ねるオタクの背中が全てを覆い、気持ちは顔のそばで振り回される腕や肘にステージどころではなくなり、耳はアイアイ・ワ!ワ!・イエッタイガー!に塞がれて曲も歌声も届かない、本当に地獄のような環境でイベントに参加してきたのだけれど、諦観に包まれて心を殺しながら、それまでと違う見方で厄介行為に夢中になる彼らの心を少しばかり理解したような気になった。
ふとそれは、クラスや友人同士のコミュニティ内の「ノリ」が生み出す光景に似ていると思ったのである。
誇張され過ぎた担任教師のモノマネ、お調子者が鉄板にしている道化じみた言動、流行りの芸人やネタの粗末なコピー。一人冷静になれば何故?と思うようなことを、絶対「面白い」と感じてしょうがなかった経験は、私にもある
ああいった「面白さ」は、まずそれが「面白い」という認識を共有することから生まれる。個々人が心の底からそれを面白いと思っている必要はなく、ただその身内においてそう認識されていることで、それは「面白い」ことになる。
「面白い」ことを共有できていることは、身内という集団の価値を高めていると所属者に感じさせる。逆にいえば、身内においては共有された面白さは守られなければならない。そうでなくては今度は身内というクラスタが価値を損なうからだ。
したがって、身内の中で「面白さ」は繰り返し確認される。ここでいう確認は、再評価を行うことではなく、身内の中でその価値観を固めていく作業であり、それ以上に、所属しているものがその価値観を共有できていることを確認することだ。
学校のクラスや、サークル、趣味の仲間のような限られた世界で生きる者たちにとって、そのクラスタに所属していることは非常に重要なことだ。クラスタへの所属は、所属者のアイデンティティに深く結びつき、自己そのものに近い認識を持ち、クラスタを追い出されて孤立し、孤独になることを心の深層で恐れている。それは例えるなら、ジャングルで一匹のサルが群れを追い出されるのと同じく、極めて心細く、シに近いところへ追い出されることに違いないのである。
それ故に、クラスタの所属者たちは、自らがそのクラスタ価値を高め、維持することに貢献できることを示し、自分がクラスタにとって有用な「身内」であることを示そうとする。
クラスタの価値は、既に述べたように、「面白さ」を共有していることで高まると考えられているため、有用な「身内」であることを示したい所属者たちは、積極的にその「面白いこと」を繰り返し、さらには誇張し、エスカレートさせていくことで、自分が「面白さ」を共有できる「身内」であることをアピールする。彼らはそのクラスタの内部において「ノリがいい」と評価され、これこそがそのクラスタに所属し続ける条件になる。
同時に、クラスタの価値とイコールである「面白さ」を共有できない存在を、クラスタとその「身内」は許さない。「面白さ」を疑うことは、すなわちクラスタの価値を疑うことだからだ。そのような「ノリの悪い」者は「身内」とはみなされず、クラスタから排斥される。
彼らにとってその価値感を共有できる「ノリのいい身内」こそが重要であり、それが世界の全てになっている。排斥すべき「ノリが悪い」人間などはまったく気にかける必要はない。 むしろそういった「ノリが悪い」人間を否定することによって、クラスタとそこに属している「ノリが良い」身内の価値を、身内の中で確かめていく。自分自身は排斥されないよう「ノリが良い」ことをここでもアピールしなければならない。
イベントで厄介行為をする者たちも、こういったクラスタの一つなのだ。
彼らはその狭い世界で、「イエッタイガー」、「ワールドカオス」、「アイアイ」というような厄介行為を「面白いこと」として認識し、共有する。
雑談に交えて、カラオケボックスで曲に合わせて、自分たちの中でそれが「面白い」という価値観を踏み固めていき、そしてとうとう、自分たちだけのものではないイベントにもそれを持ち込む。
厄介行為に耽る彼らをみて、私は不思議に思っていた。彼らの中には、手を頭上で激しく叩くために顔は俯いている者、全身に力を入れようと目を固く閉じ天を仰ぐようにして大声を出すもの、飛び跳ねながら頭を振り乱しているものがいる。自分の声で曲が聞こえていないのはもちろん、ステージもまるで見ていないがそれでいいのかと。
しかしこう考えてみれば、ステージ上のキャスト達さえ、彼らにとっては世界の外の存在なのだと気がつく。より激しい身振り手振りで自分の「ノリのよさ」を「身内に示せる」のであれば、ステージ上で何が起きているかさえも、彼らにとって問題ではない。
今披露されている曲に個々人がどんな想いを抱くかよりも、クラスタにとってその曲をどう認識しているかが優先される。「イエッタイガー」が入る曲、「ワールドカオス」が入る曲、「アイアイ」が入る曲、それぞれクラスタがそう認識しているのであれば、そこにノリ遅れるわけにはいかない。
彼らは、周囲の相反する感情に対して耳を閉ざす一方、同様の思想のクラスタが隣接すれば、たちまち共鳴して自分たちの価値観を補強する。
この“クラスタ”は、構成員が一人でも成り立つ。ネットや、他のクラスタからその価値観を仕入れた彼は彼の中でその価値観を踏み固め、自己を受けれない周囲をその心から排斥して世界を形成する。そこには人と人との間に生じる揺らぎが起きづらい為にかえって強固にさえなりうる。
彼らにまったく罪悪感がないわけではないのだろう。周囲の冷ややかな視線に負けて、声が小さくなってやがてどこにいたのかわからなくなっていくクラスタを見ることもままある。
所属者が価値観を維持できなければ、クラスタも維持できないのだろう。 近くの観客に厄介行為を直接咎められたクラスタの者たちが「それくらいで怒るなよ」と嘲るようにしてみせるのを目撃したこともあるが、自分たちの行為を肯定し、相手を狭量と否定するのもお互いをそう位置付けないと価値観を守れないということだろうかと思う。
心を安住させるクラスタと、そこへの帰属を守るため彼らもある種必死なのかもしれない。
しかし、そうと思い至ったところで、それに巻き込まれて自分がイベントにおける体験を彼らに台無しにされることを許容する余地は全く生まれなかった。
温かい目で見てやることはできない。とはいえ結局のところ、私たちに彼らの行為から身を守る方法もほとんどない。私が彼らの隣の席になった時、彼らが私にもたらす不快感から逃れるため、彼らの鼻がひしゃげる程度にぶん殴ったとして、正当防衛が成り立つのかは、判例があったら伺いたいところであるが、なければ当面は祈るしかない。
私たちがイベントに参加するとき、まずチケットが当たることを祈り、次に少しでも良い席につけることを祈って、最後に周囲に厄介なクラスタがいないこと、せめてそれが複数隣接しないことを祈るしかない。
例えそれが、推しの卒業に関わるような、取り返しようのないイベントであっても。
もっとも、個人的な認識でいえば、例えセットリストの変わらないツアーの内の1公演でも、その時間、その体験を後からとりかえせるイベントなど、ありはしないのだが。
ジークアクスに負けてしまった――この事実が、どうしても悔しくて仕方ない。
サンライズが誇るガンダムという金字塔が、今、スタジオカラーによるエヴァンゲリオンによって“戦争”に勝ち、ガンダムをさらっていったかのように見えてしまう。私たちはその暴挙を前に、ただ立ち尽くすしかない。蹂躙されるのを傍観するしかないなんて、こんな屈辱があっていいのだろうか。悔しさで胸が引き裂かれそうだ。
シン・ゴジラが震災後の日本で新たなゴジラ像を提示して喝采を浴びたのは、確かに素晴らしい出来事だったし、特撮のリブートとしてウルトラマンや仮面ライダーへ広がっていくのも一理あると思う。けれど、ガンダムは今もなお多くのファンが愛している“現役”の作品だ。初代ガンダムが礎となり、近年ではサンダーボルトのような初代のアナザー作品も出てきて新しい視点をもたらしてきた。その長い歴史や積み重ねを、ただ“フリーライド”するだけの口実にされるなんて、考えただけで腹立たしい。
かつてサンライズの名を消し去ろうとしたバンダイの動きや、スポンサーの論理に振り回される現場を想像すると、憎しみが募ってしまう。富野監督が抱え続けてきた苦悩や、商業主義に対する怒りが、今になって痛いほどわかる気がする。私たちが愛するガンダムが、資本の力に絡め取られてしまったようで、ただただやりきれない。
ジークアクスという存在は、その絶望の象徴みたいに感じられる。リブートや新生の名の下、実際には“ガンダム”が築いてきた巨大な資産を都合よく食い荒らしているように思えてならないから。もちろんビジネス的には正しい選択なのかもしれない。でも、打倒エヴァンゲリオンと思っていた富野監督を始めとしたサンライズの作品群やガンダムの積み上げてきた新しいガンダムを産むという試みを踏みにじるようなやり方には、怒りや悲しみを隠せない。
結局、私たちが見たいのは、歴史あるガンダムの“誇り”をしっかり受け継ぎながら、新しい時代や状況に真正面から応えていく作品だと思うんだ。そこを無視してしまえば、それこそ“ガンダム”そのものがどこかへ連れ去られてしまうことになる。スタジオカラーのエヴァが勝者として君臨する現状は、もはや私たちの手の届かない場所で進んでしまっているのかもしれない。だからこそ、あまりに無力な自分たちが情けないし、何かしら抵抗したくても、ただ見ているしかないのが本当に悔しい……。
せっかく浄化されたと思ったのに、なぜ戦争を仕掛けてきたんだ。またエヴァンゲリオンも庵野秀明もファンにも失望させられた。しかしそんな世界で私たちは、生きていかなければならないのだ。
10年以上前、学生だった頃にネット麻雀「天鳳」にハマって打ちまくっていた。
当時は家でネット麻雀を打って、疲れたら気分転換に雀荘に打ちに行き、帰ってきたらまたネット麻雀というクズの極みみたいな学生生活をしていた。
凄く真剣に牌譜検討したりデータを分析したり本を読んだり強い人の牌譜を並べてみたりしていたし、天鳳の最上位卓である鳳凰卓でしのぎを削っていることが一種の誇りでもあった。
ただ、ある時ふと凄く不毛だなと感じてしまった。その時の私とトッププレイヤーの間の打ち方自体の差はもう小さいと感じていた。しかしその小さい差が1000戦2000戦という単位になると大きな結果の差に繋がっていく。
初心者の頃は学ぶことが多くてどんどん成長が実感できたけど、一応上級者の領域に足を踏み入れてからはこれ以上強くなるためには細かい所の精度をちょっとずつ改善していくしかないので物凄い苦難があるなと思うのと同時に、それをやって1000試合打っても統計学的に見てギリギリ有意かどうかみたいな差しか生まれない、というか何なら打ち方は改善されているのに結果は悪くなることさえあるというゲーム性にしんどくなってしまいぱったりとやめてしまった。
ということでしばらくネット麻雀からは離れていて、年に数回程度友達と打ったり時間つぶしにフリーに行ってみたりするぐらいの麻雀との付き合い方をしていたのだが、年末年始暇だったので「雀魂」のアカウントを作って打ち始めた。
四麻の東風戦専門なのだがついさっきようやく100戦に到達した。久々のネット麻雀なのでどの位打てるものか分からなかったが、成績は馬鹿みたいに良い。
10年以上真面目に取り組んでいなかったとはいえ、昔取った杵柄で雀魂の下位の卓(銅の間、銀の間)とは流石にレベルが違う。
たった100戦の成績で何かを語るなんてネット麻雀プレイヤーとしてはアレかもしれないのだが、とはいえ平均順位2.06位、ラス率9%、和了率28.65%、放銃率8.08%というのは統計学的に見ても十分に将棋で言う「手合い違い」だろう。少なくとも初心者たちに混ざれば蹂躙できる程度の腕はまだ残っていたらしい。
90戦ちょっとでようやく雀傑の段位になり金の間で打ち始めたので少しは手ごたえがあるかなと思ったが、牌譜を見返してみるとまだ金の間は初心者が多いらしい。天鳳で言えばまぁ上級卓ぐらいだろうか?
天鳳では上級卓まではドンジャラ、特上卓になると麻雀になる、とよく言っていた(ちなみに鳳凰卓は「天鳳」というまた別のゲームになるとも)。
早く「麻雀」が打ちたいので、もうしばらく頑張って早く1つ上の玉の間に行けるよう頑張ろうと思う。まぁ今は社会人なので、人生が崩壊しない程度の付き合いにはしたいと思うが。
アタシ、昭和生まれのオジサンで思想の令和カスタマイズが全然できてないし、オマケにボーダーギリギリのバカだから世の中のことなにもわからないの。
だけどね、最近Twitterでしばしば「判決が不服だったので、判決を下した裁判官に抗議しましょう」「判決を出した裁判所を許してはいけません」って話が流れてくるようになってね。
それで、署名なんか求めてくるわけ。
人生でこんなひどいことがあったら屈辱だし、尊厳を蹂躙した犯人はチンポが急激に膨れ上がって爆発しちゃえばいいな、と思うもの。
かといって「裁判官」や「裁判所」を矢面に立たせようというのは全然話が別のことよね?
アタシがそう思う理由の一つは、裁判官のお仕事は証拠と法律を照らし合わせた結果、証拠として提出されたものにキチンとした証拠能力があるか判断すること。
そして、司法の大原則って「疑わしきは罰せず」というスタンスであることだと思うの。
先日、どこかのお金持ちのお爺ちゃんが殺害された事件でも、弁護士の人は言ってたわよね。
薄いグレーはいくつ塗り固めても、グレーであって黒では無いって。
アタシ、あの事件に関してはこれだけ物的証拠を押さえて重ねていても、裁判員裁判において、司法の原則がグレーは黒ではない以上、裁判員がそれを黒にはできないのねと思ったわ。
従来であれば、あれだけ物的証拠、状況証拠が抑えていればもう少し検察側の意見に寄り添った判決が下されていたと思うのよね。
あらやだ、話がそれちゃったわ。歳を取ると話が長くなっちゃうわね。
今まで検察側から提出された証拠で状況を判断したところ、確かに何かしてるけど、今回の事件については刑事罰を問えるものじゃない……って。
これは、裁判の原則「疑わしきは罰せず」「グレーゾーンは黒ではない」の理論としても、そんなに間違った判断じゃないと思うの。
そうなったら最高裁で判断になるはずで、最高裁になるとまだ視点が変わってくるとは思うのよ。
だけどもし、この状態で検察が上告を諦めていたら「検察何してるの?」ってなるのは、アタシちょっとわかるのよね。
お前が証拠集められなかったクソザコだから、一審で出た証拠全部弁護士に舐めプされ負けたんだろうが、やーい、ざーこざーこ♥ ざこ検事♥
でも、正当な判断を下した裁判官と、その裁判所を糾弾するのはちょっと違うと思うのよ。
粛々と判断して自分のお仕事を全うした結果なのに、「お前は間違ってるぜ!」と言うのはね。
感情的にはわかるわよ!? 私だってひどい目にあった人は、気の毒だと思うもの。
でも、法律について何も調べていない一般人が、感情に流されて糾弾する相手として「裁判官」や「裁判所」だというのは、ちょっと違うと思うのよね。
これがもし「法律の解釈」という方面のアプローチだったらわかるのよ。
法律でそのような判断に至るのがいけない、こういった部分はもう少し被害者の心情に寄せた方がいいんじゃないの?
これは議論だと思うのよ。
でも「裁判官はの目は節穴」「裁判所にはろくな裁判官がいない」扱いはダメだと思う。
日本では司法は大きな権力に属さず中立である、というのが求められているわ。
当然よね。
司法のバックに大物のフィクサーがついていて、そのフィクサーの息がかかった犯人は法廷に出ない、みたいになったら一大事だもの。
実際はひょっとしたらそんなフィクサーもいるかもしれないけど、原則としては中立であり中立性を保つのが裁判所、司法の場だと思うのよ。
でも、その中立性を保たなければいけない所に、市民からの署名がドドッと集まったら。
そういうクレームのような対応を裁判所に背負わせてしまったら。
今まで独立し、中立を保持してきた裁判所の、存在意義を覆そうとするほど、危険な事だと思うのよね。
私はこの二つの点から「裁判官や裁判所に対する反対署名」ってのは危険だと思っているの。
それだったら事件に対する法解釈の珍妙さにメスを入れ、今回証拠として提出された証拠が、正しく証拠として機能するように求める方が建設的だと思うのよね。
でも、この署名はそこまで深く話に突っ込んでこなかったのよ。
裁判官と裁判所にクレームを入れよう、で終わらせることで、その事件に憤っている人たちの感情と思考を停止させようとしているんじゃないかしら? なんて疑いも抱いちゃうのよね。
本当にこの件で怒りを覚えていて、何かアクションをおこそうとしたら、そうする前にまず裁判の全体像を捕らえた方がいいと思うの。
実際、この件は主犯となる被疑者がいて、今回の裁判は主犯の手伝いをしていた人たちで、一人は刑が確定していて……みたいに、ちょっと複雑な状態での法廷だったのよね。
事件の内容から判例を気安く読めるような状態ではないと思うんだけど……ほら、判例って人の尊厳に関わる内容が多いと、大衆の好機の目にさらされないよう秘匿される傾向があるのよ。
これは悲しい思いをした被害者を守るためよね。
そうして、チクリとするなら法律側よね。
法律がどうしてこの内容で証拠不十分の判断ができてしまうのか、という部分を問題視して、どうしたら良いのかと考えることで、はじめて司法と向き合い、動き出すような気がしてるの。
私はね、この署名を正しいことをしているという風な態度で、TwitterはじめとしたSNSにいる人たちを煽っている「何か」が怖いの。
司法の独立性や中立性なんて全く説明もしてないところ、感情論だけで訴えかけて、同情や世の理不尽さという建前で人の名前や住所を集める人たち、その人たちが本心で何を考えているか……それが怖いのよね。
スタート地点からズレている署名は、たとえ1万人が集まったとしても強い効果が認められないと思うのよ。
だって、攻める場所じゃないところを攻めているんですもの。相手は全くそれを無視しても全然問題がないのよ。
仮に受け取ったとしても、裁判官や裁判所でできることはないのよね。
裁判官や裁判所という機能そのものが疑問に思うようになるとしたら……。
それは、司法の原則である独立性や中立性を脅かしかねない状況にもなりかねないのよね。
つまり、アタシが何を言いたいかというと……目先の可哀想や、気の毒だという話だけに流されないでほしいの。
だけどその熱意が利用され、悪い方向性に流れていったり、知らないうちに流されていったりするのは、怖いことよね。
法律ってのはとっても難しい話だわ。
一審なのか、二審なのかで内容も大きく変わってくるの。
だから、裁判の結果について思うことがあったら、それを機械に司法制度や法について考え、何がよくて何が悪かったのか、増田のみんなもじっくり自分の中に落とし込んで、軽はずみな行動で安易な批難や罵声をはなつだけで、事件そのものを消費しないでほしいわ。
そう、これを機会に増田のみんなも法に触れてみましょう♥
https://x.com/KSakanako/status/1868642247237107826
富山 実の娘に性的暴行の罪 初公判で父親が無罪主張 | NHK
「どこの世界に父からの性行為を受け入れる娘がいるのでしょうか。今、被害を受けている子どもたち、被害を受けた子どもたちが勇気を持って一歩を踏み出すためにも、父が厳正に裁かれますことを心から祈ります」
https://selforganizedseminar.files.wordpress.com/2011/07/butler-undoing_gender.pdf
親子の近親相姦を、親による子への一方的な侵害と考える必要はない。実際、近親相姦がもたらす蹂躙を理解し、近親相姦が蹂躙である場合とそうでない場合を区別するためには、子どもの身体を外部から押しつけられた表面としてのみ捉える必要はない。
子どもの身体を受動的な表面として再定義することは、理論的なレベルでは、子どものさらなる剥奪、すなわち精神的生命の剥奪を構成することになる。それはまた、別の次元の剥奪を犯していると言えるかもしれない。