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はてなキーワード: 葬儀とは

2025-02-28

弔電と自戒

先日、母方の祖母が亡くなった。

親戚一同が各地から葬儀に向かう中、自分都内に残り仕事の合間をぬって弔電を送った。

比較血縁関係の近い親族であることから、弔電が読まれ可能性が高いと考え、慎重に文章を考えた。

故人との思い出をいくつか記載し、テンプレート丸コピは避けつつも、葬儀に出席できないことを詫びる言葉を丁寧に添え、最後に追悼の意を表す文章で卒なくまとめた。

漆塗りの立派な台紙を選んだのは、せめてもの罪滅ぼしに他ならない。

身内の不幸が重なる年齢になったとはいえ、たった3年前に実の父が亡くなった際は視界が歪むほど号泣し、少しでも父の名残を感じると町中であろうと涙し、あれだけ世間に対して感傷的になったというのに、

その後立て続けに、父方の祖父、母方の祖父、母方の祖母が亡くなると、

身内の死よりも仕事を優先し、

「ウケ」を気にした文章が書けるようになり、

弔電の台紙の値段を見て「ここで8000円以上出す人間は故人に対して何か後ろめたい事でもあるんじゃないか

などと不謹慎考察をしてしまうぐらいには、立派に生きた人の死に対してまでも、ここまで無機質になれる人間になってしまったのかと、気がついた瞬間は落ち込んだ。

葬儀後の母親から、素晴らしい弔電だったと親族から評価が高かったと連絡を受けたとき、一瞬でもおごった考えをもってしまった自分を見て見ぬふりをしてしまったら、

それこそ大切なものを失ったまま戻れなくなってしまう気がする。

ギリギリのところで一歩立ち止まって、自戒のためにこの文章を書いているが、きっと過去には立ち止まれずに忘れ去ってしまった大切なものもあったのだろうとも思う。

2025-02-26

派遣おっさんが亡くなった

昨日、派遣おっさん享年不明)が急逝した。

正直、俺もババア先輩(32)もお姉さん先輩(49)も「えっ、本当に?」と驚いたが、死亡届も出されており、会社連絡網でも正式訃報が回った。

「いや、あいつが死ぬとか想像つかないんだけど…」と言いながらも、俺たちは黒いスーツに身を包み、お通夜の会場へ向かった。

葬儀場には会社人間も集まり、皆しんみりと故人を偲んでいた。

おっさん、意外と愛されてたんだな…」と俺が呟くと、ババア先輩も「まあ、憎めないところあったしね」としみじみ頷く。

遺影を見ると、いつもの少しふてぶてしい顔の派遣おっさんが写っていて、なんとも言えない気持ちになった。

そして、いよいよ焼香の時間

俺たちは順番に手を合わせ、「まあ、なんだかんだでお世話になったよな…」と心の中で語りかけた。

しかし、そこで異変が起こった。

「……おい、なんか苦しいんだけど」

え?今なんか聞こえたか?と思った次の瞬間、棺桶の蓋がバンッ!と勢いよく開いた。

会場が騒然とする中、なんと派遣おっさんがむくりと起き上がったのだ。

「……あれ?みんな何してんの?誰かのお通夜?」

いやいやいや、お前のお通夜だよ!!

俺たちはパニックになり、遺族も葬儀屋も「こんなことある!?」と動揺しまくり。

しかし、派遣おっさんはキョトンとした顔で「なんかよく寝たわ」と大あくびかましている。

「いやいやいやいや!お前、死んでたんだぞ!?」とババア先輩が叫ぶと、

派遣おっさんは「あれ?そうなの?でも、腹減ったな…通夜ぶるまい、俺も食っていい?」と普通に席に着こうとする。

流石にこれは現実か夢かわからなくなってきたが、最終的に医者を呼んで確認してもらったところ、

「えーと……心肺停止していたのは確かなんですが、何かの拍子で蘇生した可能性がありますね…」と説明され、結局「一度死んだけど復活した」という謎の結論に至った。

その後、派遣おっさんは何事もなかったかのように通夜ぶるまいの席で寿司を頬張り、

「やっぱ、こういう場ではしめ鯖が一番うまいな!」と満足げに語っていた…。

帰り道、ババア先輩が「マジでお前とはもう一生関わりたくない」と震えていたが、派遣おっさんは「でも、一度死んだらもう怖いもんないよな」と妙にポジティブな顔をしていた…。

2025-02-25

叔父が亡くなった

叔父がなくなったので感情の整理。

叔父が亡くなった。叔父最後誤嚥肺炎だったとのこと。晩年というか自分中高生くらいになってからかな、そのころから半引きこもりのような生活をしているようだった。なぜそのような生活を送るようになったのかは自分にはわからなかった。だけど引きこもって何もしなかったというわけではなく、祖母身の回りの世話をしていて、車を運転したり、買い物したり、食事を作ったりしていた。しかし、働かない大人というのは周りから腫物扱いされるもので、だんだんと触れてはいけない人のような、空気のような扱いをされるようになった。ご本人も、だんだん自分から身を隠すような、そんなそぶりを感じるようになった。自分はそのことにいつも、ずっと居心地の悪さを感じていた。

叔父の思い出を振り返ると、親戚の中で一番遊んでくれた大人だったことを思い出す。おばあちゃんの家は楽しいという幼少の記憶のセットとして覚えている。日産のとても古い車に乗っていていつも暖気運転してから、いろんなところに連れて行ってくれた。知らない外食屋さん、知らない公園、おぼろげな記憶がいくつかある。暖機運転中の鼻につくガソリン臭いが懐かしい。

自分中学生の時、1年ほど学校に通えない時期が続いた。心配をしてくれたのか、叔父はいくつか服を送ってきてくれた。オレンジ色タータンチェックの服とか、自分では絶対にチョイスしないださい服だった。でもおじさんらしいチョイスで、叔父が来そうな服でもあった。不登校になって、世の中のレールからはずれてしまって、ちょっとした絶望孤独感を味わっていた自分にとっては、心配してくれる誰かがいてくれたことにうれしさと安心感を覚えた記憶がある。あの時、なぜプレゼントをくれたのか。その理由は聞けていない。今更、どんな思いで贈ってくれたんだろうかなんて思う。そんなことももう聞けない。

叔父がなぜひきこもっていたのかわからない。だけど、繊細な人だったのだと思う。自分たち兄弟にやさしく接してくれた。社会に出ると、いろんなつらいことがある。叔父社会で生きていくにはやさしすぎたのかもしれない。叔父は静かに死んでいった。葬儀叔父兄弟だけでやるらしい。ご本人の心のうちはわからないが孤独で亡くならないでほしかった。そんな人ではない、という悔いが残る。自分もっと積極的コミュニケ―ションを取りに行っていたら変わったのかなと思ったりもするが、自分がそういうのが得意な人間でもないし、叔父はそんなことを望んでいないかもしれない。自分の中に残るわだかまりは、好きだったか孤独で亡くならないでほしかったという思いだけ。

ご冥福をお祈りします

そういえば漫画が好きだったね。1,2のアッホからんぽうとか世代でなければ読まない漫画を読ませてもらったな。ゲゲゲの鬼太郎ももらったな。

江戸時代弱者男性通称「馬尾馬尾」について

馬尾馬尾って誰だよ?

まず、「馬尾馬尾」ってのはあだ名だ。本名は記録に残ってないけど、江戸の町ではこの名前で呼ばれてたらしい。なんでそんな変な名前になったかっていうと、こいつの髷(まげ)が馬の尻尾みたいに長くて特徴的だったから。普通武士町人なら整った髷を結うもんだけど、馬尾馬尾はその辺がだらしなかったんだろうな。

身分町人農民の間くらいの、ちょっと曖昧ポジション。こういう中途半端立場って、どこにも完全に受け入れられないんだよね。だから彼は、どこにも属さずフラフラと生きてた。でも、その中途半端さがかえって彼の強みになったんだ。

弱者男性宿命

馬尾馬尾には、典型的弱者男性の特徴があった。無駄に博識で、細かいことに異常にこだわるくせに、空気を読めない。たとえば、祭りの準備でみんなが忙しいときに、「いや、それは非効率だ!」とか言い出して反感を買うタイプだ。しかも本人はそれに気づかないんだよ。

でも、完全に嫌われ者ってわけでもなかった。独特の正義感と意外な器用さで、トラブル解決することもあった。そういうときは「あいつ、意外とやるじゃん」って評価されるんだけど、またすぐに余計な一言台無しにしちゃうんだな。

ガジェット職人としての才能

そんな馬尾馬尾だけど、実はスゴい特技を持ってたんだ。それが、江戸時代版の「ガジェット」作り。木や竹、紙なんかを使って、小さな仕掛け時計パズルを作るのが得意だったんだ。子どもたちにはこれが大人気で、「馬尾のおっちゃん、おもちゃ作ってよ!」って頼まれてたらしい。

特に有名なのが、木製の「動く人形」。ゼンマイ仕掛けで茶碗を運ぶような簡単からくり人形だけど、それが当時の人たちにはめちゃくちゃ新鮮だった。職人としては一流だったのに、弱者男性としてのコミュニケーションの下手さで、広くは評価されなかったんだよな。

孤独最期

馬尾馬尾は、晩年にはすっかり人々の記憶から薄れていった。家族もいないし、友人も少ないから、孤独生活を送ってたらしい。彼が亡くなったとき葬儀を開く人もいなくて、遺品のガジェットたちだけが彼の存在物語ってたんだってさ。

でも、彼の作ったものは、その後骨董品として弱者男性学の専門家に注目されるようになった。一部のコレクターには「江戸天才職人」として評価されてるらしい。皮肉だよな、生きてる間に評価されないなんて。

2025-02-24

anond:20250224130237

公務員はそういうのありそう

公務員ってなーーーーーーーーーーんにも考えてないし

仕事民間外注横流しするだけ

淡々手続きをするだけ

「考える」ことを辞めた人間

それが公務員

葬儀手続きに行って葬儀代のお手当ももらえる話をしたらそれはまた今度来た時にとか言い出されてなんで今やらねえんだよ!

と初めて公務員に怒鳴った

時間がねえからきてんのに悠長なことを言い出す

今は時間がとか言い出したがいや今やれるだろ!?なんでできないの!?つったら

「やったことがなくてできません。すみません」とか勘弁してくれやってなった

2025-02-22

ネタバレ注意】 『どうすればよかったか?』

 この作品感想を見ていると、両親があんなだから統合失調症になったとか、治療を受けさせない両親の異常さに着眼したものが多いが、私はその視点は間違っていると思う。

 この作品において冒頭の映像無しの音声以外、映像の記録は統合失調症発症から20年近く経過した時点から記録が始まる。その時点で両親はすでに80歳近い年齢になっていた。娘さんの発症前に両親がどのような人柄であったかは残念ながらこの作品からほとんどわからない。冒頭の音声以外、それらの情報は作者の記憶から語られているに過ぎない。一視聴者の私には想像しかできないが、娘さんが統合失調症発症した時の両親の苦労が壮絶なものであることは容易に想像できる。もともとは両親もそこまでおかしな人たちではなく、娘さんの病気対処する中で徐々に両親もおかしくなっていってしまったのではないだろうか。これは別に統合失調症の娘さんに責任があると言っているわけではない。原因があることと責任があることはこの場合である

 確かに両親が責任回避しあう様子や娘さんが統合失調症であること自体否定する様子は見ていて腹立たしかった。しか高齢の親が子供に問い詰められて醜い言い訳を連発するのはそれほど珍しい光景なのだろうか。私の親戚にも似たところがあるし、親子に限らず教員と生徒、上司と部下という場面でもよく見られることである

 さらに両親が研究者であったため、作中で不気味に描写されてしまい、視聴者から非難されてしまっているという面もあるだろう。研究者一般にはなじみのない職業から視聴者には理解しづらい言動が多いかもしれない。(私は研究者ではないが理系出身のためある程度は理解できる。)使われていない高価な実験機器が散乱している様子、怪しい本に名前が載って喜んでいる様子、そして葬儀での父の行動。これらの行動の裏側にある両親や娘さんの思いが異常なものではないことが、研究者世界を知っている人にはわかるはずである。(もちろん行動そのものは異常であると私も思う。)

 私は、この作品だけをもって統合失調症になったことや、治療がうまくいなかった原因を両親の異常性に求めるのは同意できない。誰しもが持っている弱さや両親の職業独特の価値観が、娘さんの統合失調症発症を引き金に、あのように表出してしまったのだと思う。

 それを踏まえて、「どうすればよかったのか?」を考えることが視聴者には求められる作品だと思う。

2025-02-19

Time is money

時の砂粒は誰の掌でも等しく零れ落ちるわけではない。私は工場の窓ガラスに頬を押し付けながら、凍てついた冬空を眺めていた。遠くで鴉の群れが鉛色の雲を切り裂き、廃棄物置き場に降り立つ。ベルトコンベアリズムに同期するように、記憶歯車が軋み始める。

学生時代図書室で、埃っぽい哲学書の間に挟まっていた自分黄昏時の自転車置き場で、恋人の待ち合わせに浮き足立同級生たちを横目に、ただチェーンロックを掛ける手元を見つめていた自分就活会場の鏡に映った、ネクタイの結び目が常に微妙に歪んだ自分。それら全てが、今この油臭い作業服ポケットの中で錆びたコインのように冷たく重たい。

「君の時間は溶解炉で精製されたアルミニウムインゴットと同じだ」

上司新人時代に呟いた言葉が、溶接機の火花に混じって脳裏を掠める。均一な寸法、規格化された純度、交換可能存在価値。十二年間、私は製品検査機が合格判を押す音を、自分という存在承認音だと錯覚していた。

葬儀の夜、仏壇蝋燭が襖に投げかける影が、両親の面影を演じる。母が編みかけていた芥子色のマフラーが編み棒にぶら下がり、父の眼鏡新聞折込チラシの上で小さな宇宙形成している。遺品整理とは、消えゆく時間化石を発掘する作業だと悟る。

工場更衣室で、ロッカーを空けるたび舞い上がる鉄粉が、銀河の塵のように光る。私の勤務表は既に別の名前で埋まっている。工具箱の底で、学生証の写真が若き日の自分嘲笑う。あの頃の一日が、今の一ヶ月分の密度を持っていたことに、遅すぎる気付きが胸を締め付ける。

雪解け水が軒先で滴る音が、沙時計の音に聴こえる晩。私は納屋の梁にロープを掛けながら、奇妙な計算をしていた。余命36年=13140日=315360時間。これを分割可能なら、受験生には集中力ピーク時の100時間を、余命宣告患者には家族と過ごす1週間を、世界記録に0.01秒届かなかった陸上選手には、たった一度の深呼吸をする時間を。

首輪が軋む瞬間、窓の外で冬枯れの桑の枝がぽつりと折れた。その音が、遠い記憶体育館で聴いた跳び箱の落下音と重なる。人生最後自由落下で、ようやく理解した。時計の針が刻むのは等速運動ではない。密度によって膨張し収縮する相対値だと。そして最も高価な時間とは、誰かに捧げられることを待ちわびていた無償時間だと。

天井の梁がきしむ。足元で埃が螺旋を描く。ふと、小学校理科室で見た水の分子模型を思い出す。H₂Oの結合角が104.5度であるように、人生にも最適な角度があったのかもしれない。しかし今となっては、ただ重力に身を任せるだけだ。

鴉の羽音が近づく。工場夜勤サイレンが遠くで唸る。時計の針は、誰のためでもない時間を刻み続ける。

2025-02-16

anond:20250216174507

竹内力バージョンミナミの帝王での葬儀香典詐欺?の場面おもいだした

「オイおめー、相変わらずアコギなことやっとんのぅ」

「そないゆわんといてくださいや、これでもめっちゃ神経つかいますよってに」

2025-02-15

anond:20250215014529

連れ去り女の父親がくたばったんだよ!!

俺の娘の四分の一を構成してるんだから香典ひとつも渡しに行かないと不義理から

娘も俺を見たらとんで走ってくる

喪服?の娘もかわいいだろうな

勝手に髪は切ってないだろうか心配

葬儀場も火葬場も地元のだから行けばわかる

人が多くて帰ることになっても納骨の時に墓に行けば少人数だ

2025-02-13

↓故「論破っぱ」儀 葬儀会場

   増

   田

   院

   論

   破

   居

   士

💐🌼😝🌼💐

  ⚰️ 

 🕯️

 😭😭😭😭

 😭😭😭😭

2025-02-10

DINKS志向30代前半女だけど目が覚めたので子供を産む

子供は要らないと思っていた。なぜなら兄弟児だから障害児は心も身体も弱い。幼少期から親の疲弊した姿が印象的だった。父親親権母親押し付け離婚母親還暦を過ぎても兄弟生活心配している。子供を産むなんてまっぴらごめんだと思っていた。

子供は欲しくなかったけどマトモな家族が欲しかったので20代のうちに結婚した。

30代に入って、還暦を過ぎた母親加速度的に老いてきた。母親も昔は子供を産めとうるさかったが、幼少期から見てきた障害育児トラウマ過ぎるの一言であっさり納得してくれていた。

そんな母親から介護依頼が来た。

曰く、「子供を作らないなら介護できるでしょ」

絶対嫌だ。親の介護キャリア私生活犠牲にするくらいなら、出産育児の方が100億倍マシだ。

親の介護から合法的に逃れたい。お母さん、ごめん、子供から目が離せないか実家掃除には行けそうにもない…これだ、これが言いたい。悪い娘にはなりたくない。

初めは悪い娘になるくらいなら良い母親になりたいと強烈に思っただけだったが、よく考えたら自分人生の美味しいところはもう終わっている。学生生活、友人との青春就職恋愛結婚…これらは20代で全て済ませていて、残りのイベントは親の介護葬儀、後は自分と夫の凡庸キャリア一喜一憂健康問題くらいしか残っていない。

それが嫌なら子育てしかない。幸い夫も乗り気であるリスクは高いが子供を産めばもう30年くらい人生主体的に楽しめる。日本地球未来心配すべき価値があるものになる。

子供を産む。30代前半で目が覚めてよかった。自分母親が人より衰えが早くてよかった。母親はいつも身を挺して人生大切なことを教えてくれる。

ありがとう、お母さん。

私、母親になる。頑張ります

2025-02-05

姉妹が亡くなったこ

もうだいぶ経つけど、彼女がうけた傷をたいしたことないっていう人が世の中たくさんいるんだと悲しくなったので……

亡くなったのはだいぶ前だけど、従姉妹ちゃん20代前半で亡くなった。

私より年下で、私が中学高校?くらいの頃から気づけば親戚の集まりに来なくなっていた。

最初正月かな、顔を出さなかったとき

事故?かなにかでけがして入院してておばさんたちも大変なのよ、と何かごまかす感じで親に言われて、質問は受け付けないという雰囲気でただならなさを感じたのは覚えている。

その後もずっと親戚の集まりにも来ず、引きこもりらしい扱いになっていたので

聞いてはいけない雰囲気から私は勝手学校いじめられてその延長でケガをしたか、もしくは自殺未遂をしてしまったのでは、と思っていた。

おばさん(従姉妹ちゃんの母、私の母の妹)とおじさん(従姉妹ちゃんの父)は親戚の集まりとか法事で会うことはあった。

私が大学生の頃か、社会人になりたてくらいのとき祖母が亡くなった。

通夜葬儀に従姉妹ちゃんはいなかった。

別の親戚のおばさん(従姉妹ちゃんの母ではない)が、通夜のあとみんなが食事してるときに会場の外の廊下でしゃがみ込んでた。

私は多分トイレ行こうとしてたのかな。

そのおばさんはお酒飲めない人だったのでもしかして飲まされて気分が悪くなったのかと思って声をかけたらハンカチで口元抑えながら泣いてた。

私はてっきりおばあちゃんが亡くなったことで泣いてるのだと思って、背中さすりながら向こうで風にあたります?気分悪いです?誰か呼びましょうか?みたいな声をかけたと思う。

ちょっと落ち着いたそのおばさんが、「従姉妹ちゃんのこと考えたらもう悔しくて悔してくて…」と言ってまた泣き出した。

通夜葬儀には従姉妹ちゃんとその母は来てなくて、おじさん(従姉妹ちゃん父)だけが来てた。

現在も従姉妹ちゃんが家に引きこもっている話が出たらしい。

私はこのときまで従姉妹ちゃんはいじめが辛かったんだなあという勝手解釈をしてたので「大変みたいですもんね…」みたいな雑な相槌をうってたらおばさんが

あんなひどいことされて、あの子人生めちゃめちゃで、親にも会えないしまともに生きていかれないじゃないの」みたいに言いだして

そんなにひどいいじめだったのか…?会えないってなに?と思いながら適当に話を合わせてたら本当の理由を聞くことになった。適当に話し合わせて聞いてただけだったから断片的ではあったけど事実概要は知ったという感じ。おばさんはそのとき私が成人だったから知ってると思って知ってる前提の会話をしたんだろうと思う。

そのとき初めて知ったのは、従姉妹ちゃんはいじめではなく性犯罪被害に遭ってたということだった。

具体的な話も少しだけ聞いたけどここには書かない。

初めて聞いたとき怒りと悔しさで震えるとはこういうことかと思った。

被害は従姉妹ちゃん小学生の時で、おそらく怪我して入院して…と正月に来なかった頃なんだと思う。

男の人を見るだけで恐怖で過呼吸や引きつけのような発作を起こしてパニックになり、父親とすら一緒に過ごせない。

学校先生や生徒に男の子男性かいからいけないというかそもそもから出れない。

家の外は被害にあった場所なので怖くて出られない。

知らなかったけどおじさんは従姉妹ちゃんのために実は近くに安アパート借りてそっちで生活してたらしい。たぶんうちの両親は知ってたんだと思う。

カウンセリングか通院かはしてたらしいけど、もうずっと家の中で静かに過ごすしかない状態だったらしく、通夜ときに酒が入ったおじさんが「娘がおばあちゃん葬式にも来れない」ということをこぼして、おばさんが涙をこらえきれなくなって廊下で泣いてたということだった。

このときには多少パニック発作?のようなものは落ち着いてたみたいだけど、ひどいとき宅配水道業者とかの家に来る見知らぬ男性、家の外から聞こえる近所の男の人の声だけでもおばさん(従姉妹ちゃんの母)にしがみついて泣き叫んだりしてたらしい。

このおばさんは従姉妹ちゃんちの割と近くに住んでたので、従姉妹ちゃんちに度々行ってお手伝い(従姉妹ちゃん母が出かけないといけない時に従姉妹ちゃん留守番したりとか)してたらしい。うちの母も姉妹からよく相談受けてたけど私が未成年だったし内容もショッキング過ぎたので言わないようにしてたらしい。

自分の妹の家庭で起きた出来事をよく隠し通したなと思う。

あとで何がきっかけか分からんけどうちの親も「あ、この子姉妹ちゃんのこと知ったんやな」というのを察して知ってる前提で少し会話することがあった。

一度だけ、この葬式のあとに泣いてたおばさんと出かけたことがあって、その後に従姉妹ちゃんちへ行ったことがある。

私も女で親族とは言え、長らく会ってないほぼ他人に近い人では従姉妹ちゃんを刺激してしまわないかと思ったけど、おばさんが行こうと言うならまあ大丈夫なんだろうと思って手土産お菓子を持って行った。

私のいるときパニックみたいなことはなかった。

天気が良くて、縁側みたいなところで日にあたりながら久しぶりだね、大きくなったねって当たり障りのないことだけ話してお菓子を隣りに座って食べた。

かなり痩せていて覇気がなく、まだ幼い子供のように見えるけど、同時にすごく疲れて老けても見える不思議雰囲気だった。

その時に会ったのが最後で、その数年後に亡くなったことを聞いた。

自死だったらしい。

あの時泣いてたおばさんは葬儀ではより一層大泣きだった。

おばあちゃん葬式の時に事実を聞いてから、生まれてきて10歳かそこらの小学生とき被害に遭った従姉妹ちゃん人生は何だったんだろう、性被害を受けて苦しむだけのためにその後の時間が使われて、そんなことのための人生だったのか?何だったんだって、今でも性犯罪ニュース見るたびに従姉妹ちゃんを思い出して胸が苦しくなる。

聞いただけの私がこれだけ苦しくなるなら被害に遭った人はどれだけ苦しいんだろう、辛いんだろうって思う。

たいしたことなんてない。

2025-02-04

anond:20210609014615

「命の帳尻合わせに神は不在だ」

医師たちの白い壁に反射したのは、愛という名の残酷選択

不妊クリニックの待合室で培った鋼のメンタルが、

まさかNICUの照明で溶けるとは。

統計の3組に1組が背負う十字架の重さを、

葬儀社の領収書が優しく計量してくれる。

「乗り越えられる」という希望が、

今ここに息絶えた命への最大の叛逆であることを

喪服にシミになった涙が証明している。

2025-01-30

anond:20250130183541

親族の死と、システムに守られた私たち

 親族が亡くなった。悲しみの中で、私はあることに気づいた。死後の手続きが、驚くほどスムーズに進むことに。

 死亡届を役所に提出すると、淡々手続きが進み、戸籍に反映された。銀行に連絡すると、口座は即座に凍結され、相続の準備が始まる。年金事務所に問い合わせると、受給停止の案内が送られてきた。葬儀社は遺族の負担を軽減するために動き、病院も「事務的」に死を扱う。

 この「事務的」という言葉に、私は最初違和感を覚えた。しかし、時間が経つにつれ、それがどれほど大切なことかを理解した。悲しみに暮れる遺族が、感情に押しつぶされながら煩雑手続きをこなさなくて済むのは、すべてがシステム化されているからだ。

 日本社会は、こうした「死の処理」を徹底してマニュアル化している。そこには人間味がないようにも見えるが、実はそれこそが、遺族にとっての最大の救いなのではないか。もしも役所担当者が毎回感情を込めて対応していたら、処理は遅れ、遺族の負担は増し、社会は混乱するだろう。冷たく見える仕組みこそが、実は多くの人を支えているのかもしれない。

 しかし、この「完璧システム」にも、落とし穴はある。私の親族生前経済的に困難な状況にあった。病院に行くのをためらい、生活保護申請も躊躇していた。日本には助けを求める仕組みがあるのに、彼はそれを利用しなかった。

 「申請しなかったのが悪い」と言う人もいるだろう。しかし、本当にそれでいいのだろうか。なぜ彼は手を伸ばさなかったのか? それは、社会システムが冷たいからではなく、「申請すること」が恥ずかしいと思わされる風潮があるからではないか

 結局、社会は守るべき人を守る仕組みを持ちながら、それを「利用しにくいもの」にしてしまっている。私は、親族の死を通して、日本システムの「優秀さ」と「盲点」の両方を見た気がする。

 「自己責任」ではなく「自己防衛」の時代私たちは、社会が用意した仕組みを、もっと気軽に使えるようになるべきではないか親族の死を経て、私はそんなことを考えるようになった。

2025-01-21

anond:20250120232408

私は中村翔子、37歳。今、どうにかアルバイトで食いつないでいます学歴もない、貯金もない、夢もない。そんな私の人生は、振り返れば親の一つの選択」で大きく狂ったのだと、今でも思っています

父がいなくなった日

私が10歳のとき、父が急性心筋梗塞で亡くなりました。倒れたのは仕事中で、その日を境に私たち家族平穏は一瞬で崩れ去りました。母は専業主婦で、突然一家大黒柱を失った私たちは、途方に暮れるしかありませんでした。

母は必死役所を回り、遺族年金や手当を申請しましたが、それだけでは生活費や家のローンをまかなえませんでした。「お父さんが生命保険に入っていてくれたら……」と母が泣きながらつぶやいたのを、私は今でも覚えています。父はいつも「保険なんていらない。貯金があるし、元気だから問題ない」と言っていました。でも、その貯金葬儀代で消え、私たちはすぐに経済的に追い詰められました。

子どもだった私の現実

母は昼も夜も働き詰めで、私と弟の面倒をほとんど見られなくなりました。給食費が払えず、学校先生に呼び出され、友達に冷やかされることもありました。学費を工面できず、高校には進学せずにアルバイトを始めました。弟も似たような道を歩み、私たちはいしか「なんとか生きる」ことだけを目標にするようになっていました。

「もし」の話ばかりが浮かぶ

今でも思います。もし父が生命保険に加入していてくれたら、私たち人生はどうなっていただろう、と。保険金があれば、母が無理をせずに私たちを育ててくれただろうし、私は高校大学に進学し、もっと良い仕事に就けたかもしれない。弟だって自分の夢を諦めずに済んだはずです。

けれど、現実は違いました。父が「保険なんていらない」と軽く考えたその一言が、私たち家族未来台無しにしたのです。もちろん、父を責めたいわけではありません。でも、彼の「選ばなかった道」が、どれだけ大きな代償を伴ったかを、私は自分人生を通して思い知ったのです。

今の私から伝えたいこと

今、親になっている友人たちに会うと、必ずこう言います。「自分にもしものことがあったとき家族がどうなるかを想像してみてほしい」と。生命保険は贅沢品じゃない。子どもたちの未来を守るための最小限の備えです。

父が選ばなかったその道を、どうか他の人たちは選んでほしい。私のような思いをする子どもを増やさないために。

私は、父の愛を疑ったことはありません。でも、あの日、父が少しだけ将来の不安に目を向けてくれていたら――私の人生は、きっと違っていたはずです。

この増田GPT

生命保険を受け取れなかったことで不幸な人生を歩んだ私」を主人公とし、本人の口から自分人生がこんなに大変だったのは親が生命保険を軽んじたせいだ」と語らせてください

と依頼したことに対して出力された文章転載したものであり、実在中村翔子、37歳。とは一切関係ありません。

2025-01-20

ばあちゃんが死んだ。

ばあちゃんが死んだ。

僕の40の誕生日の前日に死んだ。

享年95歳の大往生

葬式など諸々終え、家に帰ってきて、やっと落ち着いたところ。

今の心情を自分自身でもいまいち掴みきれてないので、書いてみる。

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親族のみの葬式

とにかく人が多かった。

からない親族が多い。

子ども4人、孫12人、ひ孫19人、子どもや孫の配偶者、ばあちゃん兄弟、その子、その孫。

サマーウォーズより多いんじゃね?

ばあちゃんは寺の娘だったので、親戚には坊さんがいる。

3人の坊さんが経を読む。

坊さんはばあちゃんの甥、坊さん含め親族のみの葬式

先頭で経を読んだのは、ばあちゃんの甥の中で一番下の甥。

通夜葬式はひ孫達が騒ぐ騒ぐ。

ばあちゃんも坊さんも許すから全然オッケー。

ゆるい良い葬式だった。

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経を読み終えたタイミングで謎のフルート演奏

から聞いたのだが、斎場サービスらしい。

完全に場違いフルートに、皆ポカーンとし、奏者も可哀想だな…と思いつつ聴いて、葬式を終えた。

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親族の中でも近い人だけ火葬場へ。

僕も火葬場に向かった。

棺を焼く前に経を読み、最後挨拶

普通と違ったのは、坊さんも参列者と同じように、最後に声をかけた。

一番下の甥の坊さんは泣いていた。

僕は泣けなかったからか、何か知らんがそれを見て僕自身が救われた気がした。

その後棺は焼くことになり、焼けるまで1時間程度待つことになった。

後で聞いたのだが、そのドサクサに紛れて義理の息子である親父は泣いていたらしい。

なんでやねん

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孫の中で僕は上から2番目。

年長の孫であるいとこ、一番下の甥の坊さん、3人で話をした。

最初に、一番下の甥の坊さんに、フルートの時プルプルしてたから泣いてたかと思ってたらアレ笑いを堪えてなかった?とツッコむところから話は始まった。

坊さんあるあるとか色々話をしたあと、当然ばあちゃんの話に。

ばあちゃんの話になると必ずゲームの話が出てくる。

ばあちゃんがいつからゲームやってたのか、とか、何故やってたのか、とか、どんなゲームをやってたのか、とか色々話した。

俺の初めてゲームはばあちゃんお下がりディスクシステムのやつだった、パチンコにハマってたから抜け出すために息子(僕から見ると伯父)が買った、そういえばパチンコにハマってた時期もあった気がする、その前はルービックキューブだったらしい、俺が持ってないPS4とか持ってたぞ、ゲーム好きだったけど上手いわけじゃなかったかレベルアップでのゴリ押し結構多くて1セーブプレイ時間400時間とか700時間だったぞ、、、。

僕らは子どもの頃に話して以降30年近く話をしてなかったが、話題は尽きなかった。

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あっという間に、時間が過ぎ、ばあちゃんは骨になった。

なんというか、あっけなかった。

色々終わって帰ってきた、子どもらも寝かしつけ、一息ついたのが今。

微妙に落ち着かずふわふわする感じがあったので、消化するために文章に残すことにした。

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ばあちゃんがどんな人だったのか。

性格キャラ的なものを今風に言えば、天然系、不思議ちゃん、なのに、生命力強い、どんな環境でも楽しんで生きる、そんな感じ。

やたら印象に残る言動をする人だったので、ばあちゃん話題には事欠かない。エピソード力が強い人だった。

何故か鞄を持ち歩かず、ショルダーバックくらいの袋に荷物を詰め、そして下着の胸の辺り、ちょうどブラのパッドのあたりに、その袋を縫いつけ、小太りというか巨乳に見える感じになっていた。

何かを出す時は胸元から出すことになるが、昔は服の中に手を突っ込みゴソゴソして荷物を取り出してたが、そのうち上手く取り出せないからと、半分脱いで取り出すようになった。

普通に外でもそれをやるようになったので、買い物行く時は子どもや孫の誰かが連れていき、事前に財布を預かって、ばあちゃんの財布から支払う、というのが慣習となった。

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そういえば、ばあちゃんから直接昔の話を聞いたことはほぼなかったことに気付いた。

年寄りは昔話が好きな印象あるけど、ばあちゃんから思い出話をほとんど聞いたことない。昔手に入れた意味分からん謎のハックテクニック、を教えてもらえる程度。こちらの心配する、子どもや孫など周りのこと、ゲームのこと、とにかく今の話しかしなかったからかもれしない。

でも、ばあちゃんの周りからは、ばあちゃんの今まであったことはよく聞いた。

ここからのばあちゃんの昔の話は、皆の話の集合での話なので、何が本当なのかは分からない。

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ばあちゃんは、山奥の陸の孤島のような村にあるお寺の娘だった。

それが若い頃、じいちゃん駆け落ちで峠を越えた、と聞いた。

結果、じいちゃんが良いとこの人だと分かり、許してもらい帰ってきた。昔っぽい。

あとで聞いたのだが、じいちゃんバツイチ寡夫?だったらしく、ばあちゃん結婚した当時、ばあちゃん20、じいちゃんは44。そりゃ反対するわな。

それに加え、じいちゃんを知るであろう寺近くの老人達から稀にじいちゃんの話を聞いたことがあるのだが、どれも掴みどころがない。水墨画を描いてた、木こりだった、スキー板を作って売ってた、馬に乗って駆けてた、等々。皆のいうことが毎回違いすぎて何をしてた人なのかがマジでからない。今で言うフリーターだったのでは、と思ってる。

その後、ばあちゃん子どもを4人産んだが、3番目の子である僕の母が4,5歳のときに、じいちゃん結核で死んだ。

ばあちゃん身体を壊し、病院入院

生活ができないので、子どもらは、伝手のある寺が運営する児童養護施設生活することに。

何年かそんな生活が続き、長男(僕から見れば伯父)が中学卒業してすぐ働き始め、生活ができるようになったので、ばあちゃん兄弟らを集め、また一緒に生活し始めた。なんという「ひとつ屋根の下」。(ひとつ屋根の下、当時母はめっちゃハマって見てた)

その後しばらく経ってから長男は僕の母を除いた兄弟とばあちゃん自営業を始めた。

ここから人生に関しては、ばあちゃんにとって比較順風満帆人生だったと思う。

たぶん。

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僕はばあちゃんに一番可愛がってもらった孫だったように思う。

ばあちゃんファミコンをやるひざの上に乗ってたのが僕だった。

おかげで、僕は立つのより早くゲームをやっていた。

ある程度大きくなると、ばあちゃんの家によく泊まりに行った。

今思えば理由は単純で、高橋名人名言ゲームは1日1時間!!」を家では親が守らせようとするが、ばあちゃんの家では、朝から晩までゲームをやっていても怒られない。

ばあちゃんも、ゲーム攻略に詰まると、孫を積極的に呼んで、攻略方法を聞いたり、分からなくてもプレイしてやってみてくれとせがんだ。

僕が一番可愛がられたが、他の孫達も顔を出せば、同じように攻略をせがまれたので、孫らは皆ばあちゃんとみんなゲームをした経験が一度はあるように思う。

息子(僕から見て伯父)の自営業職場とばあちゃんの家が一緒になっていて、ばあちゃん生活は、昼間は働き、ご飯風呂趣味の畑仕事、残った時間はほぼゲーム、が大半だった。

昔はマリオとかアクションをよくやっていたが、途中からドラクエFFといったRPGが好きだった。

先にも書いたようにゲームやるからといって賢かったり上手かったりするわけじゃなかった、いわゆる下手の横好きだったので、とにかく朝から晩までゲームをし、攻略ノートを作ってメモをし、自分攻略ノートを見ながらプレイしていた。

何度も何度も飽きずにトライエラーを繰り返しまくるので、ばあちゃんセーブデータは、装備やアイテム微妙なのに、レベルが異常に高いことが多かった。

おかげで、途中からやった僕ら孫たちは、ばあちゃん説明するハマりポイントをひと通り振り返ったあと、装備を整え、ちゃんゲーム内の説明みてやれば、案外すんなり先に進めた。

ゲームをやるとばあちゃんから駄賃がもらえた。

ばあちゃんの駄賃は、できるだけゲームにつかった。

他の孫たちもゲームプレイし終わったら、中古屋でなく、ばあちゃんゲームを流した。

ばあちゃん自分ゲームを買っていた印象がほぼないが、とにかくばあちゃんの家にはゲームがたくさんあった。

ベッドの下の収納ボックスには、ソフトがギッシリ詰まっていた、

初代ファミコンスーパーファミコンPSPS2、64、ゲームキューブ、xbox…僕も大きくなるにつれ頻度が減り、就職地元を離れてからさらに頻度が減ったので、僕の知らないゲームハードもありそう。

見た記憶では、古いハードソフトはなかった気がするので、時折捨ててたのかも。

孫らで集まって話をした際に出てきたゲームタイトルは皆違ってた。

FFドラクエテイルズスターオーシャンゼルダ武蔵伝、等々。

ばあちゃんの妹の孫とかい若い男の子も来てて、ばあちゃんとのゲームの思い出話をしてたのは驚いた。

それもあって、親族のみの家族葬だったのに、縁のある親戚までも集まり、やたら人数の多い通夜葬式になった。

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ばあちゃんの僕の可愛がり方、溺愛ぶりはちょっとすごかった。

親戚一堂からは、溺愛しすぎて恋人みたいだ、と笑われていた。

義理の息子である親父もかなり溺愛してたので、本物の息子一堂から、本物の息子より息子してる、と親父も笑われていた。

ばあちゃんは、下駄が好きでよく履いてたのに、胸元に袋が入っていたから、ハキハキ歩くことができず、ペンギンみたいな歩き方になっていた。

不安定ゆっくりな歩き方だったので、当然荷物はまともに持てないし、隣を歩く僕の服の袖のあたりをつかんだりすることが多かった。

僕がいない時は、親父が並んで服の袖をつかまれていた。

僕や親父はその認識だったのだが、妹いわく、妹と一緒だと、不安定な歩きのままズカズカ先に歩いて荷物を持ってる妹に早く行くぞと先行してく、僕や親父の前だと猫を被ってる!!男尊女卑だ!!と愚痴っていた。

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孫らから流れてきたゲームで躓くと、当然元々ゲームの持ち主の孫に攻略を聞くことが多かった。

ひとつ印象に残っているのは、FF 10

平原マカラーニャの森あたりにいて、攻略手伝って欲しいからと、泊まって欲しいと、ばあちゃんにせがまれ、泊まることになった。

一緒にプレイし、ご飯も食べ、風呂も入り、寝る前にもう1プレイ

ちょうどそこで、マカラーニャの森の超ロマンティックなラブシーン。

当時、高校生だった僕は、真夜中に部屋を暗くして、ばあちゃんと並んで何観てるんだろう……と絶妙な気分になっていた。

ふと、横目でばあちゃんを観ると、キラキラした目で、★★素敵★★みたいなリアクションで、滅茶苦茶一生懸命みてたので、まぁいいか、と諦めにも近い気持ちになった。

その後少し経って、新しい孫がまた産まれ、ちょうどその孫の名前FF10ヒロインと同じ名前だったので、滅茶苦茶喜んで良い名前だ、と褒めていた。

葬式最後フルートが、美空ひばりの「川の流れのように」だったので、「ザナルカンドにて」をかけてあげれば良かったのにな、とフルート演奏を聴きながら、このことを思い出していた。

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葬式の参列者の話などを聞くに、僕がばあちゃんのところにあまり行けなくなった後も、他の親戚やゲームの関わりもあって、楽しくは過ごせていたようだった。

それが、6年前、真夏の早朝に、もうひとつ趣味であった畑仕事の途中で、脳卒中で倒れ、近くの通行人発見され救急車で運ばれた。

ばあちゃんは、脳死状態になった。

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主治医や長年お世話になっているかかりつけ医によると、意識回復する可能性は万に一つもない、そんな状態とのことだった。

ばあちゃんは、これまで大病患って、入院して死にかけたことは何度かあった。

入院のなか、どうしても回復傾向が見られない、という状況になってから、僕に連絡が来て、急遽地元に帰ってお見舞いに行くと、ばあちゃんゲームの話になり、そういえばプレイ中だったあのゲームの続きがやりたい、早く治して退院せねば!!と急にやる気になって、そこから超回復、という展開があった。

今回は流石にダメそうだった。

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流石にばあちゃんももう90だったので、そういう覚悟をしておかなきゃ行けないことは分かっていた。

病院に見舞いに行った際、分かっていても、それがただ寝ているようにしか感じられなかった。

手術のあとに寝てます、みたいな感じで、ただ寝てるだけ。

もう起きることは無いのに、そんなふうにしか感じられなかった。

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僕がその後ばあちゃんの顔を見れたのは、少し経って、ばあちゃんの家で介護するようになってからだった。

ばあちゃん介護に行く母について、ばあちゃんの家に行った。

病院よりも設備簡素になったためか、ああ、これは本当にもう目覚めないんだな、と今さらながら実感した。

そんな中、母はばあちゃんの世話をしながら、前よりちょっと良くなったとか、こうやってやると反応する、など色々話をした。

もう目覚めない、と分かると同時に、まだ生きてる、とも感じられる。

死んでるのだが、生きてる。

ばあちゃんが死んだと聞いて、葬儀の一連の流れを終えた今、本当に死んだ今この時よりも、あの瞬間が正直しんどかった。

今、思い出すだけでも、心が重い。

死が突きつけられるのに、世話をすればちゃんと生を感じられる。

その中で世話をし続けられるのか。

母すごいな……と。

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あとは死ぬだけ。

それを受け入れるための有余の時間が与えられた感じだった。

ゲームができない、楽しみに一生懸命になれないばあちゃんは、ばあちゃんなのか。

身体なのか、脳なのか、心なのか、それとも人格なのか、習慣なのか。

生と死に対することをぼんやり思いにふける。

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そういえば、ばあちゃん霊感が強い、というのがもっぱら周りの評価だった。

悪霊や死んだ人が見える、というより、死ぬ寸前の人が魂だけになって飛んでいるのを虫の知らせのような感じで分かるのだ、とか。

それで、遠方や疎遠になった知人の安否を確認し、それを当てることが多かったので、霊感が強いとされていた。

稀に、じいちゃんが迎えに来ると、まだやりたいことがあるから迎えに来んどいてくれーー!!と必死にお経を読むことがあるのだ、とか。

僕は実際にどの話にも立ち会ったことは無いが、確かにばあちゃんはその辺りの勘が冴えているような雰囲気があった。

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ばあちゃんの話を信じるとすると、脳死のばあちゃんには、ばあちゃんはいないことになる。

ばあちゃんがどこに行ったかは分からないが、ばあちゃんは生きているが死んだ。

あとは身体死ぬまでに、その死を受け入れてくしかない。

幸い、受け入れるまでの時間を6年も貰ったので、ばあちゃんの死、葬儀はなんとか受け入れることができた。

コレがポックリいかれていたら、悲しすぎてどうなっていたか想像できない。

正直助かった。

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心の準備は整えていたとはいえ、僕の誕生日の前日に亡くなり、僕の40歳誕生日がばあちゃん通夜になるとは、流石に予想つかなかった。

何もできないはずの死ぬ瞬間まで、印象を残す人だった。

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ばあちゃんの教え、みたいなのは、本当に全然覚えてないのに、ばあちゃんとの思い出はたくさん出てくる。

老人介護おむつを買いに行った際には、コレ凄く便利でトイレに行かなくても良いかゲームができる!!とドヤ顔したり……

我が弟が母の付き添いでばあちゃんの買い物に付き合うため家に呼びに行ったら全裸ゲームしてたり……(前日夜風呂上がりに服着替える前にゲームをやり始めたら止まらなくて翌朝までやり続けていたのが真相

僕がいとこと一緒に富士山近くに旅行した際、いとこに「富士山のかけらだ」と言って渡したそこら辺に落ちてた溶岩石が、何故か数年後ばあちゃんちの神棚に飾ってあり、いつの間にか凄い石だとして御神体みたいになってたり……

なんかあり過ぎて、もう思い出せない。

でも、何かあるたび、何気ない面白かった思い出が掘り返される。

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自身もばあちゃんと同じく、子どもが4人いるので、悲しみに暮れている暇はない。

悲しくてしんどい、みたいな感覚はないのだが、なんか気持ちふわふわして落ち着かず、何かにつけてやる気が起きない。

この文章も、このままではいけないと思いを決して、何度かに書き分けながら、書き進めている。

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やる気がでないので、ぼーっと異世界転生ものアニメを観ても、ばあちゃんだったらマジで異世界にすら行きそうだな、行ってて欲しいな…と想像してしまう。

ココまで書いた文章自分でも振り返ってみると、ばあちゃんの最大の教えは楽しむこと、それ自体のような気がしてきた。

から初七日とか四十九日かに法要やるってことは、亡くなってからそれくらいの日数はこの感覚は抜けないのかもしれない、と諦めることにした。

とりあえず楽しめるようになるまで、このままぼーっとふわふわすることにしよう。

2025-01-19

親戚が〇んだ

親戚が〇んだ。

まだ20代の、私より年下の親戚が。

Aとする。

Aは10年ほど前に受験を前に急に学校に行けなくなった。進学校だし頑張りすぎたのかな、また学校行けるようになるといいね、と当時は思っていたけど、そこからずっといわゆる引きこもりをしていた。

葬式はしない、お経もあげない、葬儀場に安置してもらってるけどそのまま火葬場に行くらしかった。顔が見れる時間に呼ぶのも最低限だと。

(新幹線距離だが)来るか?と家族に聞かれたが、悩んだ末に断った。

私はAの出来なかった「普通の人がする人生」をしている人間から。Aは普通の人がやっていることをなぜ自分は出来ないのか…と悩んでいたらしかった。

Aの親からすれば、私は大学まで出て結婚して子供もいる人間で。片や自分の子供は引きこもりを続けて最終的に〇んだ。私は「我が子の〇に顔を出さな非常識な女」くらいの方がAの親にはちょうどいい気がした。

それとAのきょうだいが来るか分からないと聞いたのもある。以下Bとする。

AとBは幼少期、仲が良かった。休みの日にはよく図書館に行って2人とも本を読んでるような子だった。

だけど、Bは就職して家を出てから一度も実家に帰っていないようだった。

Bは父が嫌いで、〇す想像をする。と言っていたので、父が嫌いで近寄らないのか、Aの引きこもりが疎ましく思っているのかは分からない。

仲睦まじい幼少期のふたりを知っている私はとても寂しかった。だからといってAを引きこもりから救うこともBを実家に寄り付かせることも、何も出来なかった。

私はAとBには、Aが引きこもりになる前の中学高校辺りまで会っていた。それが最後記憶

Aは私たちの中では1番年下で、それはもう可愛かった。可愛い顔、意地悪すると泣くところ、意地悪しすぎて噛まれたこともあったな。一緒に秘密基地作ったね、シャボン玉やったね、遠出して科学館行ったね、楽しかったね。

大人になったしさ、皆でお正月に集まる時にお酒飲みたかったね。

お互いの甥っ子姪っ子とか連れてきてさ、うちら大人になったよね~お年玉貧乏だよね、とか笑いたかった。

助けてあげられたことあったのかな、LINE交換すれば良かったのかな、強引に東京に遊びにおいでよ!とか言ったら来てくれたかな、それは負担だったのかな。分からないよ。

2025-01-16

俺の祖母コンピューターおばあちゃんだった

 俺がまだ幼かった頃、周りの大人たちはよく「近頃の技術はすごいなあ」とか「昔とはえらい違いだ」と口々に言っていた。けれど、そんな大人たちを尻目に、さらに先を行っていた人がいる。それが俺の祖母——通称コンピューターおばあちゃん”だ。これは、俺が子どもの頃に祖母と過ごした日々や、彼女が残してくれた大切なものについての回想録。今は亡き祖母への想いを、ここに綴りたいと思う。

1. 祖母と呼ぶより“コンピューターおばあちゃん

 俺がまだ物心ついたばかりの幼稚園児だった頃、祖母はすでにパソコン自在に使いこなし、テレビラジオ流れる新しいテクノロジーニュースには目を輝かせていた。家には分厚い辞書百科事典が何冊も並んでいたが、さらに机の上には最新のパソコン雑誌や科学雑誌、果てはプログラミング関連の本まで置いてあった。幼い俺が「あれ何?」「これどうして?」と尋ねると、祖母はまるで電子辞書のように即座に教えてくれた。当時の俺にとって、難しい用語祖母解説にかかれば、スッと頭に入ってくるから不思議でならなかった。

 「コンピューターおばあちゃん」は、子ども向けの音楽番組みんなのうた」で流れていた歌のタイトルそのままだったが、俺にとってはその呼び名のもの祖母の姿を表していた。機械に強く、知識に溢れ、しか子ども相手にやさしく噛み砕いて教えてくれる姿は、歌のイメージのものだったのだ。たとえば、俺の住んでいる町が他のどの町より暑かった日に、「なんでこんなに暑いの?」と尋ねると、「それはね、地球の自転と公転、それに加えてこの町の地形が影響していてね……」と、クーラーの効いた部屋でわかりやすく教えてくれる。さらパソコンを立ち上げ、天気予報の画面を見せながら「この等圧線と高気圧の動きがね……」と続けるのだ。幼稚園児の俺でも妙に納得してしまったのを覚えている。

2. 図書館よりも頼りになる知恵袋

 祖母知識の幅はとにかく広かった。歴史地理科学文学芸術、果てはゲームまで。どんなジャンル話題を振っても、少なくともある程度は知っている。まるでいくつもの電子図書館」が頭の中に入っているようだった。まさに子ども番組で言われる“コンピューターのように何でも知っているおばあちゃん”であり、俺はいしか自然彼女をそう呼ぶようになった。

 人間誰しも得手不得手はあるはずだが、祖母は「知らないものを知らないままにしておくほうが、私には合わないんだよ」と微笑んでいた。だから気になることがあれば何でも調べ、またはパソコンを使って検索する。俺が「ゲームセンターで見た変な機械、あれは何?」と聞けば、それがどんな仕組みの機械なのか、どのメーカーが作っているのかまで丁寧に教えてくれる。さらには「いつか一緒にゲームセンター行って、じっくり観察してみようか」と、学びの場として遊びに誘ってくれた。その姿勢はいつも驚かされたし、また「大人ってこんなに遊び心があっていいのか」と思ったものだ。

 大人になった今になって思えば、あれはただの“学問”に留まらない、祖母生き方のものだったのだろう。常に新しいことを取り入れ、面白がり、わからないことを探求する。その姿勢が、彼女の若々しさを保ち、俺たち孫の世代とも自然につながっていられる原動力だったに違いない。

3. 日常を彩る“歌”と“人生レシピ

 祖母はよく鼻歌を歌っていた。その中にはもちろん「コンピューターおばあちゃん」を思わせるフレーズもあれば、ほかの子ども向けの曲や懐メロもあった。俺が小学校に上がる頃には、祖母自作の“歌詞抜粋ノート”が存在し、そこには祖母が好きな歌の一節が手書きで書き写されていた。日付や一言コメントも付いていて、当時の祖母の心境や季節の移ろいが見えるようだった。

 ある日、そのノートを見ていた俺は、ふと「この歌詞意味はどういうこと?」と尋ねた。すると祖母は、歌詞が持つ文脈や背景、そして作詞者の想いや時代性まで話してくれた。まさに“人間コンピューター”の面目躍如である。だが、祖母は決して「理屈」や「知識」だけを語る人ではなかった。必ず、そこに自分感想や教訓を加える。「このフレーズはね、人生におけるこんな出来事を思い出すなあ……だから〇〇なときには、こんな気持ちでいるといいのかもしれないね」といった具合に、子ども心にもスッと染み込む言葉をかけてくれた。

 彼女の持つ叡智の素晴らしさは、学校の成績を上げるためだけの“お勉強”とは違っていた。生活人生を楽しむための“レシピ”がそこにはあった。たとえば、落ち込んだ日は「お腹から笑うといいよ」と言って、祖母自身ゲラゲラ笑っておどけてみせる。心配事がある日は「眠る前に紙に書き出すといい。それで一旦置いて寝ちゃうんだ」と、実践的なアドバイスをくれる。どれも祖母自身が実際にやってきたこなのだろう。まるで一冊の辞典のように、そして誰よりも暖かい人生の先輩としての言葉をくれた。

4. パソコン越しにつながる世界

 祖母パソコンを扱うだけでなく、インターネット世界にもかなり明るかった。俺が小学校高学年になる頃には、オンライン海外博物館映像や、世界ニュースを一緒に見たりもした。そこで初めて知ったのは、インターネットが単なる機械的な情報交換の場ではなく、人間同士の交流を広げるための“窓”でもあるということだった。祖母はまさにその窓を巧みに開き閉めしながら、遠い世界を俺の前に見せてくれたのだ。

 「パソコンの画面を通して見る世界は、ただの映像じゃなくて、“人”がいるところなんだよ」と祖母は言った。「画面の向こうにも誰かがいて、きっと同じように息をして、ご飯を食べて、笑ったり泣いたりしている。そこに興味をもてば、お友達になれるかもしれないし、いろんな考え方を学べるかもしれないね」。まだ子どもだった俺にとって、それは驚くほどスケールの大きい話に感じられたが、祖母は「一歩ずつでいいの」と笑った。実際、海外の子どもたちが作ったというWEBサイトを一緒に覗いて、俺が英語がわからなくても、祖母サクサク辞書を引きながら一緒に解読してくれた。その過程がとても楽しかったのを覚えている。

 そんな祖母の探求心に刺激を受け、俺自身ももっと世の中を知りたいと自然に思うようになった。中学生になってからは、祖母と一緒にインターネットでさまざまな情報を探したり、調べ学習資料をまとめたりするのが習慣になっていた。夏休み自由研究でも、祖母が遠慮なくアイデアをどんどん出してくれるから、いつもクラスでも評判の出来になったっけ。まさに“コンピューターおばあちゃん”との共同作業。あの頃の夏休み特別に充実していた気がする。

5. “悩み”も解析? コンピューター越しの優しさ

 祖母機械だけでなく、人間の心にもとても敏感だった。そんな祖母に“悩み”を打ち明けると、まるでコンピュータ検索をかけるように、じっくりとヒントを探してくれた。といっても機械的な冷たいやり方ではなく、温かく、しかときユーモアを交えながら、俺が自分で答えに気づくまで導いてくれるのだ。

 高校生になると、友達関係部活、将来の進路……いろいろな悩みが増え、俺の心は常にモヤモヤしていた。祖母はそんなとき、まず俺の話を黙って聞き、「なるほどねぇ」と目を細めながらうなずく。そして「ここにデータがあるとしたら、どんなふうに整理する?」と、まるでコンピューターフォルダ分けをイメージさせるような問いかけをするのだ。「まずは心配事をカテゴリごとに分類してみよう。友達とのことは友達フォルダ、将来のことは将来フォルダ、と。そこからもっと細かくファイルに分割して、どれくらいの優先度があるか考えてみるんだよ」と。

 そんなふうに、一見堅苦しそうな“整理術”を教わるうちに、俺自身の頭の中もすっきりしてきて、不思議問題が大きく見えなくなっていった。「つまり人生って、ひとつの巨大なデータベースみたいなものかもしれないね」と祖母は微笑む。「たくさんの情報がごちゃごちゃに入っているときは、まずはちゃん仕分け検索やすいようにすればいい。大事なのは、どうタグ付けするか、そしてどのデータが今の自分にとって本当に必要かを見極めること」。それは小難しそうな言葉だけれど、祖母の口から語られると、なぜかすんなりと腹落ちした。まるで大きなやさしい手で、俺の悩みを丸ごと包んでくれているようだった。

6. そして別れの日

 俺が大学に進学してしばらくすると、祖母は少しずつ身体の不調を訴えるようになった。ただ、それでも祖母知的好奇心は衰えず、入院先でもタブレット端末を使いこなし、看護師さんたちと仲良くなっていた。担当のお医者さんが口にする専門用語もほぼ理解できるし、わからないことはすぐに調べる。周りの家族心配そうに「無理しないで」と言っても、「何もしないでボーッとしてるより、私にはこっちのほうがずっと元気が出るんだよ」と笑っていた。

 そんな祖母の容態が急変したのは、俺が大学四年生の夏だった。夜遅く病院から連絡を受けて駆けつけると、祖母はベッドの上で小さく息をしていた。もう思うようには口がきけない状態だったが、俺を見て微かに笑ってくれたように見えた。その笑顔はまさにいつものコンピューターおばあちゃん”の面影で、俺は涙が止まらなかった。

 祖母はそのまま、静かに旅立った。最後まで、頭の中にはきっといろんな知識や、俺たち家族への思いが溢れていたのだろう。「みんなのうた」で聴いた“コンピューターおばあちゃん”は、まさに祖母のものだった。お別れは悲しかったが、祖母が教えてくれたことは俺の胸に深く根を下ろしていると実感した瞬間でもあった。

7. 祖母が残してくれたもの

 葬儀が終わり、祖母の遺品を整理していると、昔家族で撮った写真ノート、そして祖母パソコンが出てきた。パソコンの中には、家族写真データ日記のようなファイルさらには雑多なフォルダに分けられた学習ノートデジタル版が保存されていた。そこには祖母自身が調べてまとめた、さまざまなジャンル知識や観察メモがあって、見ているだけで祖母と会話しているような気持ちになった。

 そのファイルの一つに「大切な人たちへ」とタイトルがつけられたテキストがあった。開いてみると、そこには「私が得たものは、すべてあんたたちに残していくから、どうか自分の好きなように使ってほしい。知らないことに心おどらせるのは、本当に素敵なことだよ。これからもずっと、学びを楽しんでね」というような内容が書かれていた。文章を読み終えたとき、俺は思わず涙が零れ落ちた。そこにはいつも笑顔知識を授けてくれた、あの祖母の姿が確かにあった。

 さらパソコンデスクトップには、「コンピューターおばあちゃん」に関する記事や、祖母なりに歌詞アレンジして書き溜めたノートもあった。そこには、あの歌がもたらす夢や希望について彼女が感じ取ったことがびっしり綴られていた。「なんでも知っていて、なんでも教えてくれるおばあちゃん、それは私の理想じゃなくて、私自身の生き方のものだ」と。祖母にとって「コンピューターおばあちゃん」はまさに人生象徴だったのだろう。

8. 受け継がれる“好奇心”と“優しさ”

 祖母を失って寂しい気持ちは今でも消えない。それでも、祖母が残してくれた“調べること”“学ぶこと”“遊ぶように知識を楽しむこと”は、今の俺の人生を豊かにし続けている。職場でも「どうしてそんなにいろんなことを知っているの?」と聞かれることがあるが、俺は胸の中で「祖母の血かもしれないな」と思っている。実際、祖母から学んだ“分からないものは楽しみながら調べる”という姿勢が、仕事でも役立っていると感じるのだ。

 そして何より大きいのは、祖母の“人を思いやる優しさ”を忘れないようにしていること。どんなに新しい技術情報を知っていても、そこに相手への気遣いがなければ独りよがりになってしまう。祖母が俺に常に教えてくれたのは「相手立場気持ち想像しながら、一緒に探求していく喜び」だった。だから今、俺が後輩に教えるときや、友達と話をするときには、決して上から目線押し付けにならないように気をつける。そして「もしよかったら一緒にやってみよう?」と声をかける。その方がずっと楽しいし、きっと祖母も喜んでくれるに違いない。

9. 最後

 もう祖母の肉声を聞くことはできない。あの独特の優しい笑い声も、パソコンに向かう姿勢も、そばに座っていたときの温もりも、すべて思い出の中にしか存在しない。それでも、祖母が残してくれた言葉ファイル、そして一緒に過ごした時間記憶は、今でも俺を支えてくれる。人生において何か新しいことに挑戦するとき、あるいは壁にぶつかったとき、「そういえば、おばあちゃんはこんなとき何て言ってたっけ?」と心の中で問いかける。すると不思議なことに、祖母の声がスッと降りてきて、「それを調べてみるのは面白そうだね」と背中を押してくれる気がする。

 歌には「どんなことでも教えてくれる不思議なおばあちゃん」が登場するけれど、俺にとっての祖母はまさに“完璧なおばあちゃん”だった。彼女のように何でも知っていて、優しくて、そしていつだって俺の好奇心を歓迎してくれる存在がいたからこそ、今の俺がいる。そして祖母のような生き方を少しでも真似できるなら、それは最大の感謝の表し方かもしれないと思う。

 祖母がいなくなっても、その“コンピューターおばあちゃん”の精神は俺の中で生き続けている。何かを調べたり、新しいものに触れたりするとき祖母の姿が脳裏に浮かぶのだ。俺はこれからも、祖母が示してくれた「好奇心と優しさ」を糧に、歩んでいきたい。それが“俺の祖母コンピューターおばあちゃんだった”と胸を張って言える、何よりも大きな証なのだから

2025-01-11

未返却の文庫本

去年の夏、彼は私に村上春樹文庫本を貸してくれた。「読み終わったら感想を聞かせてよ」。

そう言って差し出した本を、私はカバンの底に忍ばせたまま、今日まで放置していた。

昨日、彼の訃報を聞いた。突然の心臓発作だったという。42歳。まだ若すぎる。

机の引き出しから取り出した文庫本カバーは、既に埃を被っていた。しおり位置は、一年前のままだ。

葬儀の日、本を返そうか迷った。でも、それは余りにも自分勝手贖罪に思えた。結局、その本は今も私の本棚に眠っている。未読の状態で、永遠に感想を伝えられない本となった。

時々思う。もし早めに読んでいれば、もし感想を伝えていれば、もう少し会話の機会があったのではないかと。本の延滞は、実は時間の延滞だったのかもしれない。

されど、今はもう返す先を失った本が、静かに、私の後悔を見つめている。

2025-01-10

親父が死んだ

親父が死んだ。

親父と母は、20年前に離婚している。

姉だけが結婚後もずっと親父の面倒を見てくれていた。

何度も何度も「会いにこないか」と姉から言われていた。

わたしはそれを断り続けていた。

親父に会いたくなかったわけじゃない。

正直、連絡がくる度に悩んでいた。

会っても、どんな顔をして何を話せばいいかからなかった。

なにより、母の気持ちを考えると会えなかった。

母は「好きにしていい」と言っていたが

父と会ったことを隠して、母と普通に話せる自信がなかった。

何十年も連絡すらとっていないのだ。

会って何を話せばよかったんだろう。

少なくとも、「会いたい」とは思えなかった。

葬儀で姉と会った。

姉にこれまでのことを謝ると、「いいよいいよ」と言ってくれた。

立派なお葬式をしてくれた。

棺桶の中で眠る親父は、小さかった。

葬儀に行っても、姉や親戚に「帰れ」と言われるんじゃないかと怖かった。

そう言われたら、大人しく帰ろうと思っていた。

それが当然だと思っていた。

親父の記憶は正直あんまり無い。

どんな人だったのか思い出せない。

母と喧嘩していたシーンしか思い出せない。

葬儀で集まった親戚から聞く親父の話は、知らない人の話みたいだった。

いま、1人になると涙が出る。

会っておけばよかった、という後悔ではない

なんで、親父の世話をしてくれている姉の力になってあげられなかったんだろうという後悔が止まらない。

自分気持ちしか考えられていなかった。

だって自分と同じ子供時代経験をしているのに。

きっと思うことはたくさんあったはずなのに

葛藤もあったはずなのに

長女だから、という理由だけで、全てを背負ってくれていた。

自分の家庭だって仕事だってあるのに。

自分が情けなくて涙が止まらない。

お姉ちゃんごめんなさい。

ありがとう

頼りないかもしれないけど、これからは力になりたいです。

遅くなってごめんなさい。

2025-01-09

葬式

2025年1月9日

朝8時、遺影を見つめる。スーツの襟が窮屈だ。昨日まで会社廊下会釈を交わしていた友が、今日は白木の箱の中にいる。

10時、葬儀が始まる。彼の息子は小学生。胸ポケットから折り鶴を取り出しては、泣きじゃくっている。隣で妻が黒いハンカチを握りしめている。数日前のLINEで「今度飲もう」と約束したばかりなのに。

13時、火葬場。煙が空に消えていくのを見送りながら、会社の後輩が「昨日も普通に仕事してたのに」と呟いた。確かに彼は、最期まで仕事メールを送っていた。

15時、骨上げ。箸から箸へ。白い骨が、かつての友の形を留めている。「パパの背骨だよ」と息子に教えてあげたくて、でも声が出なかった。

19時、自宅に戻る。スマホの連絡先から、彼の名前を消そうとして、どうしても指が動かない。LINE最後メッセージ「また今度な」が、まだ未読のまま残っている。

明日からまた、日常が始まる。でも、誰かの日常永遠に終わってしまった今日は、どうしても終わらせたくない夜になった。

2025-01-05

anond:20230921125631

これ、自分が書いたのだけれど

因果か偶然か、年内に親が、そして半年も経たないうちに妻がこの世を去った。

図らずとも答え合わせができてしまった。

やはり、他人に触れてほしくなく、必要以外は距離を置かせてほしい、それがアンサーでした。

あと、ちょっと極論言うけど葬式結婚式も同様、式や葬祭の費用集める手段だね。

葬儀会社はもちろん、お寺に払うお布施結構するし、家族葬にしたら収支だけで言うとかなりの赤字だったよ。

2025-01-03

anond:20250102072040

私の猫は突然死じゃないけど、急に発作の様な状態になり救急病院に行ったけど…結局翌日まで持たずに死んだ。1か月前には動物病院に検診して貰ってたのに。

燃やしたくない気持ちは私も理解出来るよ。でも私の猫の場合暑い時期だった。愛猫を腐敗させる方がキツイ24時間営業ペット葬儀社に早朝に来て貰ったよ。

大きなフリーザー購入して気が済むまで冷凍するのも…アリかも。本人が別れの時を決めれば良いと思う。

2025-01-01

昔の葬式遺体を座らせて野に埋めてた

葬式に行くことを

「参列」というのも

葬儀とはそもそも野に行く間の列のことだったこからきているそうだ

 

現代人はそういった風習を忘れて死が遠くなった、というけど

みんな内心めんどくせえと思ってたからなくなっただけだろうな

 

冠婚葬祭は、外に出れば一ミリも偉くもねえ親戚が威張っててイラつくから消える運命だよ

 

そんなの仕事で十分、なんで休みの日までカスに頭下げないといけねえのかって話だわ

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