はてなキーワード: 新しい時代とは
東京・霞が関。報道陣を前に、往年の鋭い眼光を見せたダグラス・マッカーサー元帥は、静かに口を開いた。
「私は再びこの国に戻ってきた。しかし、ここで目にしたものは、かつて私が知っていた日本ではない。『新作ポケモン』とやらを見て、私は深い失望を覚えた。」
かつて戦後復興を導いた“日本の父”が、国民的ゲームをここまで激しく批判する理由とは何か。
「この作品には“理想”がない。かつての日本人が持っていた創造への情熱、挑戦への勇気、それらが消え失せている。ポケモンがかつて教えていたのは“絆”や“友情”ではなかったか? 今はただ、見栄えと売上に取り憑かれているように見える。」
マッカーサーはテーブルに置かれたSwitchを手に取り、淡々と続けた。
「私はこの国を“精神的に12歳”と評したが、どうやらその精神年齢は逆行しているようだ。新作ポケモンは、成長を拒んだ日本そのものだ。新しい時代を切り拓く代わりに、過去の栄光を何度も焼き直している。」
最後に元帥は、かつての名演説を思わせる口調で言葉を締めくくった。
「日本よ、かつての勇気を取り戻せ。進化を拒む者に、未来はない。ポケモンの真の敵は“敵ポケモン”ではなく、“惰性”という名の怪物だ。」
最近、OpenAIとNVIDIA、それにOracleの関係がちょっと話題になっている。
ニュースでは「戦略的提携」とか「AIインフラへの投資」とか、いかにも前向きな言葉が並んでいるけれど、構図を見ていくとどうも怪しい。
ざっくり言うと、NVIDIAがOpenAIに巨額の資金を出し、そのOpenAIがそのお金でNVIDIAのGPUを買う。
さらにOracleとも巨大なクラウド契約を結んで、そこにも資金が流れる。
関係各社が互いに金と契約を回しているような形で、外から見れば数字は派手に伸びているように見える。
けれど、中身は実需というよりも“資金の循環”に近い。
一部のアナリストはこれを「circular deal(循環取引)」と呼んでいる。
帳簿上は儲かっているように見えるけれど、実際には同じ輪の中でお金が行ったり来たりしているだけ。
バブル期にはよくある話だ。
企業としては「パートナーシップ」や「インフラ整備」という建前のもとで動いている。
ただ、こういう構造が続くと、本当に市場の外から需要があるのか、それとも企業同士で景気を演出しているだけなのか、境目がどんどん曖昧になっていく。
AIブームの勢いはすごいけれど、儲け話の構造はどこか既視感がある。
2000年代のITバブルでも、2008年の金融危機でも、似たような“内部で回るお金”があった。
でも、最終的にその“時代”は弾けた。
NVIDIAやOpenAI、Oracleといった企業は、リスクを織り込み済みで動いている。
一方で、NISAでAI関連株を「夢の成長産業」と信じて買い込んだ個人投資家は、そうはいかない。
ただし、株価の上昇や取引の盛り上がりが「技術の成果」だと思ったら危ない。
いま回っているのはGPUではなく、金の循環だ。
いつものように、最後に損をするのは個人投資家――今回もきっと、例外じゃない。
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もう少し「辛辣なトーン」や「皮肉を強めた締め」にすることもできます(例:「NISA民はまた“未来”を信じて高値を掴むのだろう」など)。
どちらの方向で仕上げましょうか?
日本初の女性総理大臣が誕生する、その歴史的な前夜。社会学者の東山教授は、自室の書斎で苦虫を噛み潰したような顔をしていた。テレビ画面の中では、次期総理の座を確実にした、天城(あまぎ)るり代表が、勝利宣言で満面の笑みを浮かべている。
「天城さん、初の女性総理として、長年この国を覆ってきた『ガラスの天井』をどう打ち破りますか?」
記者の紋切り型の質問に、天城はマイクの前で小首を傾げ、悪戯っぽく笑った。
「天井? 申し訳ありませんが、わたくし、上ばかり見て走ってきたので、道中に天井があったことには気づきませんでしたわ。そもそも、存在しない壁や天井の話をするのは、もうやめにしませんこと?」
その瞬間、スタジオは凍りつき、SNSは沸騰した。そして、東山教授の堪忍袋の緒は、見事に切れた。
「愚か者めが…!」
東山教授は、長年にわたり「日本社会に蔓延る、見えない構造的差別」としての『ガラスの天井』を研究し、その存在を説いてきた第一人者である。彼女にとって『ガラスの天井』は、単なる比喩ではない。それは彼女の学問のすべてであり、彼女自身が丹精込めて織り上げた、知的で高尚な、しかし目には見えない「至高の御衣(ぎょい)」だったのだ。
この御衣の存在を理解できる者こそが、現代社会の知的エリートであり、ジェンダー意識の高い「わかっている人間」。逆に、これが見えない者は、時代遅れで、差別的で、救いようのない「馬鹿」なのである。
それなのに、天城るりという女は、その御衣の存在そのものを、国民の前で一笑に付したのだ。まるで、裸の王様を指さす無邪気な子供のように。いや、子供より性質が悪い。彼女は、圧倒的な実力と国民の支持という「権力」を持って、それをやってのけたのだから。
「彼女は家父長制に取り込まれた『名誉男性』に過ぎない。天井が見えないのではない、見る能力と思想がないのだ」。
東山教授はすぐさまメディアにコメントを発表し、取り巻きの学者やコメンテーターたちも一斉に同調した。彼らは、来る日も来る日も、テレビや新聞、ネット上で「ガラスの天井」という御衣の素晴らしさを語り続けた。
「この緻密で複雑な構造が見えないとは、なんと浅はかなことか!」
「天城総理の成功は、天井に偶然空いた小さな穴をすり抜けただけの例外だ!」
「我々『賢い人間』には、その透明な天井がはっきりと見えているのだ!」
彼らは、自分たちだけが見える高尚な天井画を、互いに褒めそやし続けた。
天城るりが総理大臣に就任し、組閣は驚くべきスピードで進んだ。能力主義を徹底し、性別や年齢、派閥など一切関係なく、適材適所の人材を抜擢していく。彼女の政策は明快で、実行力に満ちていた。国民の支持率は、うなぎのぼりだった。
そんな中、東山教授とその一派は、国会議事堂の前で奇妙なデモを計画した。プラカードにはこう書かれている。
『天井はここにある!』
『見えないからって、無いわけじゃない!』
『我々の知性を無視するな!』
彼らは空に向かって指をさし、「見よ、この分厚く、冷たいガラスの天井を!天城総理、あなたにもこれが見えないのか!」と代わる代わるシュプレヒコールを上げた。しかし、道行く人々は、何もない空を指さして熱弁をふるう一団を、ただ不思議そうに眺めるだけだった。中には、不審者を見るような目で、足早に通り過ぎていく者もいた。
「どうして見えないのだ、この愚民どもには!」
東山教授は苛立った。彼女が何十年もかけて織り上げてきた、世界で最も高尚で、最も知的な「見えない御衣」が、誰にも理解されない。それどころか、天城総リは、そんな騒動を意にも介さず、外交に、経済政策に、次々と目に見える成果を上げていく。
国民は、もはや空虚な天井画には興味がなかった。彼らが見たいのは、自分たちの生活が良くなるという、具体的な未来予想図だった。
就任後、初の所信表明演説の日が来た。国民の注目が、官邸から国会へと注がれる。東山教授も、テレビの前で腕を組み、天城がいつ「天井」の存在に言及し、自分たち知識人に謝罪するかと待ち構えていた。
壇上に立った天城るりは、朗々と、しかし力強く語り始めた。経済、外交、社会保障。具体的な数値と計画を伴った演説に、野党からさえも感嘆の声が漏れた。そして、演説の最後に、彼女はふと笑みを浮かべ、こう言った。
「さて、一部の賢明な方々が、わたくしが打ち破るべき『天井』の存在について、大変ご心配くださっているようです」
「その方々が仰るには、わたくしには見えていないだけで、この国の空には、それはそれは分厚いガラスの天井が広がっているのだとか。そして、それが見えない者は、愚か者なのだそうです」
天城はそこで言葉を切り、満場の国会議員と、その先にいる全国民に向かって、堂々と宣言した。
「ならば、わたくしは、喜んで愚か者でありましょう。わたくしには、見えない天井を見上げて嘆いている時間はありません。わたくしが見ているのは、天井の先にある、この国の未来です。国民一人ひとりの、笑顔です」
彼女は両腕を広げた。
「皆様。存在するかどうかもわからない天井の話は、もう終わりにいたしましょう。それよりも、わたくしが仕立てた『繁栄』という名の新しい服を、共にご覧いただきたい!」
その瞬間、割れんばかりの拍手が議場を包んだ。それは、もはや誰にも止めることのできない、新しい時代のファンファーレだった。
テレビの前で、東山教授は呆然と立ち尽くしていた。彼女が心血を注いで織り上げたはずの「至高の御衣」は、いつの間にか、誰の目にも見えないどころか、誰の記憶にも残らない、ただの空気に成り果てていた。
「王様は裸だ…」と叫んだのは誰だったか。いや、そもそも王様などいなかったのだ。いたのは、自分の仕立てた服こそが最高だと信じて疑わなかった、時代遅れの仕立て屋だけだったのである。
まじでみんな〜!チョーたくさんのマジリスペクトなみんなと、自民党の新しい時代を刻んだよ!あざます!マジ感謝!🙏
まず、これまでマジで、参議院も衆議院も少数派でチョーきつかったのに、野党のみんなともめっちゃ丁寧に向き合って、ヤバい苦労を重ねてくれたんだよね。しかも、去年の総裁選の時に激アツで言ってた、防災庁の設置とか地方創生にデカい道を開いてくれた石破総裁には、マジで心からリスペクトと感謝を伝えたいっす!あざっした!💖
今、うれしいってよりも、マジでこれからがヤバいって思ってる。みんなと一緒に力を合わせてやらなきゃいけないことが山盛りなの!
マジでたくさんの政策、しかも爆速で実行しなきゃいけないことがいっぱいあるんだから!そして、みんなと一緒に、自民党をもっと気合い入ったアゲアゲな党にする!たくさんの人が抱えてる不安を希望に変える党にするために、マジで頑張るよ!✨
さっきも言ったけど、ウチは約束は絶対守るよ!全世代がフルパワーで、全員参加で頑張んなきゃ、マジで立て直せないって!だって、人数少ないし、もう全員に働いてもらうからね!馬車馬みたいに働いてもらうんだから!🐴
だからみんなも、ぜひ日本のために、そして自民党を立て直すために、それぞれの得意分野で、マジでたくさんお仕事してほしいんだ!心からお願いしまーす!🙏
んで、ウチはこれからちゃんと謙虚にやってくから、色んなアドバイスちょうだいね!マジでお願いしまーす!
クソフルエンサー系スピリチュアルに限って「風の時代突入!」とか言ってるようだな
ユーチューバーとかオンラインサロンとかで稼ぐような時代になるということらしい
おいおい、そんな虚業時代のどこが進歩だよ、退化してるじゃねーか
大体な、虚業で飯を食う連中ってのは、自分が生み出すものが社会にどんな価値を与えているのかを一切考えちゃいねえんだよ
だが虚業屋どもはどうだ?数字を誇張し、幻想を売りつけ、人の弱みに付け込んで金を巻き上げるだけ
「自己表現」とか「夢を売る」とか、きれいごとを並べ立てても実態はただの依存構造の強化にすぎん
フォロワーに中毒を植え付け、サロンで囲い込み、最後には「自分なしには生きられない」と思わせる
これは倫理の名を借りた搾取であり、支配だ。奴隷制度と構造的に何が違う?
しかも恐ろしいのは、そういう虚業に群がる大衆の側もまた倫理を放棄している点だ
要するに「楽して稼ぎたい」「承認だけ欲しい」といった動物的欲求を正当化するために、虚業者の言葉にすがっている
倫理があれば自らの消費が虚業者の繁殖を助けていると気づくはずだが、現実にはそれを無視し快楽に逃げる。これこそ社会の退廃の本質だ
虚業時代は人類の進歩ではない。倫理的に見れば、これはただの堕落であり退行だ
最近、ふと考えるんです。
テクノロジーがこれだけ進んで、AIが何でも答えてくれるようになった未来、僕らの社会ってどうなってるんだろうって。
これって、単なるSFの話じゃありません。もう僕らの目の前で起きている、とんでもなく大きな変化の話です。
AIっていう、人間の頭脳そのものを外付けできるような技術が出てきたことで、
社会を成り立たせていた一番大事なもの、つまりみんなが何となく共有していた「物語」が、音を立てて崩れ始めてる。
その先に待ってるのって、人類の輝かしい「進化」なんでしょうか?
それとも、国なんてものが生まれる前の、バラバラな「回帰」なんでしょうか?
そもそも「国」って、たぶん、みんなが同じ物語を信じることから始まるんですよね。
歴史を遡ると、8世紀頃に、時の支配者たちが一大プロジェクトを立ち上げてるんです。『古事記』とか『日本書紀』を作ったこと。
あれって、単なる神話集めじゃない。
「この国は、天照大御神っていう太陽神から続く天皇が治める国なんだ」っていう壮大な物語を、国民の心にインストールする、国家的なOS開発だったわけです。
「三種の神器」っていうアイコンも設定して、他の豪族とは格が違うんだよ、と。
このOSがインストールされたことで、列島に住む人々は初めて「俺たち、同じ神様と天皇をいただく一つのチームなんだ」っていう意識、つまり「日本人」の原型を持つようになった。
そのOSが、庶民レベルまで完全に浸透したのが、江戸時代っていう、超巨大な培養器の中でした。
幕府は、身分制度とか参勤交代で、社会がガチャガチャ動かないようにガッチリ固定する。
そして、外国からの影響をシャットアウトした「鎖国」っていう培養器の中で、浮世絵や歌舞伎、お相撲といった、超ドメスティックな文化が花開く。
この時代、人々はみんな同じような文化に触れ、同じような価値観を共有してた。
「日本人らしさ」っていう、僕らの文化的DNAが完成したのが、この江戸時代だったのかもしれません。
でも、その当たり前だった「みんなで見る物語」が、いつの間にか壊れ始めてた。
2000年代、インターネットが登場して、僕らはいつでもどこでも情報にアクセスできるようになりました。
でもその裏で、僕らの頭の中にはヤバい変化が起きてました。
複雑な問題にあった時、じっくり「どっちが正しいんだろう」と判断するんじゃなくて、手っ取り早く「正解を検索する」というクセがついちゃったんです。
昔は、図書館で本を何冊も比べたり、人に聞いたり、頭を抱えて悩んだりっていう、思考の「摩擦」がありました。
でも、検索エンジンはその面倒なプロセスを全部すっ飛ばして、「答えはこれだよ」って教えてくれる。便利ですよね。
でもそのせいで、僕らの思考の筋肉は、確実に衰えていきました。それに、昔はみんなで見てた「お茶の間劇場」も終わっちゃった。
昔は、家族みんなで同じテレビ番組を見て、次の日には学校や会社でその話題で盛り上がりましたよね。
良くも悪も、日本中が同じ物語を共有する「お茶の間劇場」があったんです。
でもSNSは、僕ら一人ひとりに「あなただけの快適な世界(フィルターバブル)」を用意してくれました。
もう、嫌いな意見や、自分と違う価値観に触れる必要はありません。
その結果、僕らは共通の話題を失い、「共有される物語」が生まれる土壌そのものが、なくなっていったんです。
そして、そこにAIがやってきた。これは、社会の分断を決定的なものにする、究極のテクノロジーかもしれません。
AIは、考える人にとっては自分の知性を何倍にも拡張してくれる最強の「翼」になる一方で、考えるのをやめた人にとっては思考の筋肉を完全に退化させる快適な「車椅子」にもなる。
この技術は、人類の間に「知的格差」という、とんでもない溝を生み出そうとしています。
まるで、あなただけの「マトリックス」へようこそ、とでも言うように、AIはあなた以上にあなたのことを理解し、あなたが一番心地よいと感じる「神話」=あなただけの現実を生成してくれます。
あなたは、自分の正しさが毎日証明され続ける快適な仮想現実(マトリックス)の中で、気持ちよく生きていける。
でもその代償として、違う現実を生きる他人と対話する能力を失います。じゃあ、そのマトリックスを設計するのは誰か?
それは、AIを使いこなし、大衆が信じ込む「神話」をデザインできる、新しい時代の支配者層です。
こうして分断された社会では、かつての「右翼」「左翼」なんていう古い分け方を超えた、新しい「部族(トライブ)」が生まれています。
参政党やれいわ新選組、あるいは様々な陰謀論。彼らが熱狂的な支持を集めるのは、イデオロギーがどうこうというより、「腐敗した世界を正すのは我々だ」という、シンプルで強力な物語を提供しているからです。
その物語のエンジンは、いつだって「俺たちは悪くない。悪いのは特定のあいつらだ」という他責主義です。
で、ここからが本題なんです。AIという究極のテクノロジーは、皮肉なことに、僕らを国家が生まれる前の「部族」の時代に連れ戻そうとしている。
ただし、その部族は血や土地ではなく、情報と思想でつながる、全く新しいものです。
この螺旋階段の先にあるのは、過酷な情報環境に適応した、新しい人類の「進化」の姿なんでしょうか。
それとも、共通の現実を失い、協力する能力をなくした、ただの「退化」なんでしょうか。
この記事に、その答えはありません。
ツイッター(自称X)でどの世代がドンピシャだのなんだの話題になっている。
まず、平成女児という流行においてはどう見ても平成元年~10年頃生まれが主に幼少~小学生時代に流行ったものがリバイバルグッズとして販売されいる。
ただ平成女児という言葉そのものにおいては平成に女児だった人すべてが含まれる。
これらが対立すべきではないと思う。リバイバルのメインターゲットが違うだけなんだよね。
呼称が同じなのが悪い。というか売る側やメディアがネットの言葉そのまま使ったのが悪い。
平成女児といいつつ2010以降流行ったものはリバイバルしていない。
アイカツやプリパラはシリーズ物だからちょくちょく復活してるから別にリバイバルとは感じないし、
プリキュアもやたら初代(MH含)と5(gogo含)が推されているが、間のSSはスルーされがちだし。
つまりは売る人たちは売れればなんでもよくて、もともと売る予定だったものに勝手に平成女児と名付けてるだけだと思っている。
それはそれとして、この問題で「自分たちはなんだったのか、虚無の世代」という発言がちらほら見られた。
虚無なんてことはない。森ガールファッションがしまむらにめちゃくちゃ並んでたり、KERA系ファッションがアベイルにめちゃくちゃ並んでたじゃないか。蛍光色のプラスチック製鎖とかあっただろ。なあ!
きゃりーを筆頭に原宿系が市民権を得たり、ボカロや深夜アニメが市民権を得始めたり、進撃が流行ったり、いろいろあったはず。まぎれもなく平成だよ。
サン宝石だって平成女児っていわれてるけど、ほっぺちゃんに限っては君らの世代のものだろ。
まあ…それらがリバイバルされるのはいつになるかわからないけどさ。
ただやっぱりこういう人たちを見ていると、自分が時々考えている最近のコンテンツリバイバル推しすぎ問題がチラつく。
なかよしは顕著だった。セーラームーンを始めCCさくら、ぴっち、しゅごキャラ。
平成女児だった人たちを狙ったコンテンツを、今を生きる女児がメインターゲットのはずの本誌で続編だの周年付録だの。
別冊やムック本、なんならウェブコミックのみでやればいいのにと思ったよ。(その点りぼんはがんばってるね、すごいね。)
今の子供たちが25歳くらいになったとき、何をリバイバルする気なんだろう。今の子供たちが大人になったとき、「私たちの世代といえばこれだよね」って言えるものはあるのか。
余計なお世話、大きなお世話だと思う。でも、自分がいろんな新作コンテンツ、新作おもちゃがバカスカでてた時代に女児できたのは、そういう新しい時代を作ろうとする大人がいてくれたからだと思うから。
なかよし70周年の付録を見て、50周年のときに過去人気だった作品のポストカード!とかじゃなくて本当に良かったと思ってしまったから。
だって実際、武内直子先生のときめかが新連載で始まったとき、当時は「絵柄が古臭い」とか思っちゃったもん。
自分の周りのなかよし読者もときめかは読んでないって言ってる子がほとんどだった。(自分は読みはしていたけどやっぱり絵柄が気になっていた。)
大人になった今見るとかわいいと思うし、面白いとも思ったけど、短期で終わったのはそういうことでしょ。
簡単に儲かるからってウチらの財布ガン見すんな。新しいもの作って今の女児と新しい時代を作れ。もう令和7年だぞ。いつまで平成にすがっとんねん。
はてなダイアリーの頃は、誤字を見つけたらコメント欄で「ここ間違ってますよ」と指摘して、すぐに修正される――そういうほのぼのとしたやり取りがよくあった。
アップする側も「人に見せるのだから」とセルフチェックをしてから投稿していた。
でも今は違う。
Yahooニュースに出てくる「エキスパートライター」の記事ですら、誤字脱字や変換ミスが一つや二つじゃなく見つかる。
それを指摘しようものなら「野暮だ」「マウント取りだ」と受け取られてしまうので、誰も言わない。
しかしそれだけならまだ誤字指摘はできる。
ややこしいのは、誤字が「意図的」かもしれないという点だ。
コピペ盗作を見抜くために、わざと誤字を残している可能性がある。ある程度アクセス集める記事は自動コピペされてアフィブログや誘導サイトに利用されたりするから。
AI学習への嫌がらせとして誤字をしている可能性もある。みなが誤字や誤変換をそのままにしておけば学習精度は下がりアウトプットの正確性も落ちるから。
そう考えると、もはや「誤字指摘文化」なんてものは成立しない。
商業施設「NEWoMan(ニュウマン)」の名称は、「新時代を自由に生きるヒトとともに、STORY(=物語)をクリエイションし続ける場所」という意味が込められており、「新しい生き方をしている女性」をメインターゲットとしたコンセプトに由来しています。
名称の由来
「新時代を自由に生きるヒトとともに、STORY(=物語)をクリエイションし続ける場所」というコンセプトから、名称がつけられました。
「新しい生き方をしている女性」をメインターゲットとしており、性別にとらわれずに、これからのバレンタインの形を模索・提案したいというメッセージが込められています。
ルミネとの関連:
「NEWoMan」は、ルミネが運営する施設であり、ルミネよりも年齢層の高い、上質で本物志向の「あたらしい女性」を対象としています。
このように、NEWoMan(ニュウマン)は、新しい時代に生きる人々に寄り添い、共に物語を創造していく場所でありたいという想いが込められた名称です。
CAPCOMストリートファイター6の乱入イラストコンテストの入賞作品にAI生成疑惑が出てプチ炎上してる。
問題のイラストはこれ→ttps://pbs.twimg.com/media/GwiY4wfbMAAmO6X?format=jpg&name=large
この事件で思ったんだけど、もうAI区別するのアホらしいからやめないか?
誰も言われなきゃAIだって気づかないし選考者も見抜けないレベルだし。センスが良い絵はセンスが良い絵でいいじゃん。誰も困らんでしょ
AI禁止は料理人は禁止で、料理を作る場合は自分で野菜を栽培しなければならないと言ってること変わらなくない?自動車だって自社で作ってるのエンジンくらいであとは部品メーカーの寄せ集めだよ?
エヴァンゲリオンだって庵野秀明一人が作ったわけじゃなくて才能あるクリエーターが集まって傑作が誕生しただけだよ?なんでAIだけ目の敵にされるのかわからない。
誰もが気軽にAI駆使して良い作品作れるわけじゃなくてAI活用もセンスが必要でしょ。たぶん。新しい時代の料理人みたいな認識でいいんじゃないの。
注:ちなみに今回のイラストコンテストに関しては注意事項にAI生成禁止と表記されていたにも関わらずAI生成なので違反は違反です。でもAI生成禁止自体も時代遅れなんじゃね?って議論もすべきだと思う。
今回の参院選を受け、各党の選対本部では選挙結果に対する総括が行われると思うが、そのいずれにも関与する立場にないので、ここにメモ書きを置きます。関係者の誰かにこれが届いて、何かの参考になれば幸いです。
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今回の参政党の躍進は、無党派層ではなく無投票層、つまりこれまで選挙に行かなかった層の掘り起こしに近年では初めて成功し、その足を投票所に運ばせたことが大きかったと思う。超ポピュリズムなキレのいいキーワードや、切り取りによる拡散を見込んだ演説のスタイル、SNSの活用など戦略的にも見るべき点が多々あった。しかしその根底に流れる本質は、いかにしてバカをおだてて木に登らせたか、の一点に尽きると思う。
当初の下馬評としては「参政党は若い世代の支持を集めている」という論調だったが、蓋を開けてみれば意外にも30代〜40代の支持を固めていた。この層は「有権者になったばかりで政治や選挙がよく判らない」のではなく、社会に出てそれなりの経験を積みながら、政治も選挙もよく判らないので投票に行かなかった層だ。批判を恐れずに定義するなら、頭の悪い人々だ。そこにターゲットを見定めて、彼らの知的水準に合わせた表現で、彼らが心の底で聞きたがっていた「自分たちでも理解できる内容の、自分たちが抱えてきた不満や不安への回答」が、耳障りよく提示された。その心地よさが、彼らの足を投票所に運ばせた。
これは高度なプロトコルだ。個人的には、ゲッベルスの知見と手法を身に付けたヒトラーの振る舞いにも見える。この層に対して正論やファクトで説得を試みても、そもそもそれが判らないがゆえに安直なポピュリズムに取り込まれた層なので、理解されない。それどころか反発され、いっそう強固な姿勢を取られて、ポピュリズム陣営の支持基盤を固めることになってしまう。
しかしそこに切り込まない限り、次の選挙ではポピュリズム陣営も手法をさらにブラッシュアップしてくるので、ますます食い込まれる。どの陣営も、党勢の巻き返しには苦労することだろう。というか、既存の政党の方法論で、あの超ポピュリズム戦略に対抗できる手段を持っている陣営は、ないと思う。いちばん近かったのはれいわ新選組だが、自分たちが仕掛けようとしていたことを想定外に下世話なスタイルで上書きされ、結果を出され、山本太郎はほぞを噛んでいるのではないか。
次の選挙に向けて打つべき布石は、洗脳解除と同じだ。超ポピュリズム陣営の支持層を取り崩さなくとも、まだまだ無投票層は存在する。そこにアプローチするためには、自分が何階層も降りていって、まず相手の目線の高さでその声を聞き、相手が理解できるように話すことだ。これは「政」の基本であったはずだが、今回の選挙で実践し、成功させたのは参政党だけだったと思う。もちろんその主張の大半には根拠もないのだが、投票するまで気付かせなければいい。煽り続けて、登った木から降さなければ、選挙は終わる。その意味では、次の国政選挙まで時間がないのは、彼らにとって有利だ。対抗するには、今回それでも投票しなかった4割以上の有権者に、どう働きかけるか。言い換えれば、その4割の心の声をどう拾い集めるか、ではないだろうか。
その一方で、今回その支持基盤を大きく減らした自民党だが、流出した層は二分され、おそらくリベラル保守層は国民民主党に、ラジカル保守層は参政党に回収された。報道機関の長期アンケートの分析では当初の国民民主クラスタから参政党への移動が認められたようだが、それも仮説と矛盾しない。自民党に見切りをつけた保守層の中にも、超ポピュリズムの影響は色濃く出ていた、ということだろう。
この流れに対抗する手段は、おそらく既存の政党の既存の方法論の中には、ない。新しい時代の新しい選挙に対応するプロトコルを実装するためには、まず敵の戦略および戦術をしっかりと見定め、分析し、転用して自らのものとするしかない。だからといって、もちろん同じようにバカを見つけて騙せばいい、ということではないというのであれば、生まれ変わるレベルでの発想の転換も必要だと思う。そこに着手できるのは、どの陣営だろうか。
ところで、選挙が終わるたびに敗軍の将は「お訴えをした政策がご理解いただけなかった」とか「説明を重ねたが時間が足りず……」と弁明するものだが、そもそも間違っていると思う。政治の世界だけでなく行政など公のスタンスでは、しばしば「いい企画なので人を集めてください」というのだが、本当に企画がよければ人は勝手に集まるはずだ。その意味では「ご理解いただけなかった政策」は、有権者が求めていたものではなかった、ということに他ならない。
インターネットの時代になって、世の中には情報があふれている。その大半は無料で、簡単に手に入るものだ。もちろんその情報には正しくないものが散見されるのだが、ほとんどの人はその正当性を疑わず、次から次へと情報を求め、求めた情報が開かれていないことに拒否反応を示すようになった。
しかし本来の「政」とは、難しいことは判らないけど任せるよ、という付託を得ることではなかっただろうか。これまで選挙をスキップしてきた4割の人々に、胸を張って「任せてください」と伝え、それに首肯が返ってくるような信頼関係を築くためのアプローチが、これからの選挙には必要なのだと感じる。もちろんそのアプローチを、悪意を持って駆使する輩は、今後も出てくるだろう。往々にして善意の人より悪意の輩のほうが研究熱心で、分析に長け、努力を惜しまないものだ。
自分たちが正しい、と妄信するばかりでは、次の選挙でも勝機は見えない。まず自らの振る舞いを疑うことから始める必要があるのではないだろうか。
星は個人的な好みを表したもので作品への評価ではないです。たぶん見ていくうちに変わるし変えてる。
自分と違ったとしたら「こいつとは趣味があわんな」くらいのレベルで見てください。
主人公しずかちゃんは、ネグレクトな家庭環境とイジメのある学校を往復する毎日。
そんなしずかちゃんの前にタコ型地球外生命体、タコピーが現れる。
もうこのしずかちゃんの逃げ場のない環境で胸が締め付けられる人いるだろうね。
原作未読。以前から評判は聞いていた。そのため過剰に警戒していたからか、私には思ったほどの衝撃ではなかった
タコピーがそうだったように1度 精神的恐怖を与えられると動けなくなるものだという表現はよく出来てたと思う。
というかこれくらいの内容の作品はテレビで放送できないものか。尺の問題なら初回1話+2話の1時間SPで放送すればいいかな。ストーリー的にもあの2話から始まりだと思うし(簡単にいうな)
内容も残酷なシーンがあるが、放送できないほどではないと思うんだけど。イジメや自死したりそれを強要する表現はアニメや実写で今でもあるし。NHKでもやる。
と簡単に思ってしまうのは、私がこれを見て苦しくなるような経験や記憶がないからなのだろう。私は実に幸せに暮らせてきたということなのか。
全6話。声の演技がとても良かった。内容に関しては、はてなユーザーによくいる人が好きそうだなという感じ。
『どうすればよかった?教えてくれないじゃん。』『わかんない、ごめんね。』
前の前橋ウィッチーズもそうなんだけど、現実にはどうしても解決できない問題があるよね。
特別なアイテムを持った異星人が来たって、魔法が使える魔法少女になったってできないことはある。
そういうのを見せてくれた。
水が貴重なもんで、人間で初老の保安官、魔王の息子と目付け役の3名で水源を探すべく旅をする。
どうしても制作時期の近いドラゴンボールDAIMAと比べてしまうところがあるんだけど、あちらより断然好き。
最初の印象とは違ってすごい面白い。アクションめっちゃ動くし。キャラクタも個性的でいいキャラしてるし冒険してる感がある。
6話で1部が終了。7話から第二部。
若い頃は高校生名探偵などとチヤホヤされていたが、年をとった今では体にガタがきており、世の流行りも分からないダメなオッサン探偵である。
そんなところに女子高生が助手になりたいとたずねて来るのであった。
OPは岡崎体育。歌詞が面白い。おっさんあるある。これ私の歌詞だ・・・
ギャグ強め。フィジカル超強めの女子高生がぶっとんだ言動と行動をしてオッサンはじめ周囲が振り回される様が非常に面白い。
終始ギャグ、濃いキャラクタだった。最終話のテンポは特殊だったような気がする。続きはなしって感じなのかな。
剣勇伝説YAIBAを現代風に新アニメ化した真・侍伝 YAIBA。
OPは曲はそのままだが歌詞が2番になってアニメーションに変更あり。ED変更。
全24話。最終話OPはまさかのSE付きだった。第2期 かぐや編制作決定。
テンポもギャグとシリアスのバランスも好き。今回追加キャラクターが登場するとか。
地上波ではバレーで総集編回が潰れたが、BS放送では放送された。
総集編とありながら、セレクション放送。7話Aパートと8話Bパート。私の中ではカンシ特集だったかな。
前のシーズンから引き続き。13話で鬼に堕ちた父を討ち、実家と再び決別で一旦終わり。
こういう人の縁、想いが長きに渡り受け継がれていくお話は大好きです。
だんだん絵が怪しくなってきて23話以降においてはアニメーション制作上の都合のためということで1週遅れになった。
14話よりOPとEDが変更。18話になってようやくEDの画が流れる。EDの画はネタバレになるからね。
19話のAパートは何度見ても泣く。21話で江戸時代終了、色んな人と別れ、新しい時代となる明治維新へ。
全24話。古き同郷の人との再会、時空を超えた再会、なかなかにいい最終回でした。ストーリーはほんといいんだよ。
ここからも辛いことがありそうだけれど、絶対続きやってください。
まさかのぬ〜べ〜新アニメ化。最近のリメイクでは(YAIBAみたいに)よくあることなんだけど、スマホが登場していたり時代を今にあわせている。
初回1話2話連続で力入ってはいるけれど、バトルシーンマシマシになってる。
あれ、バトル漫画だっけってくらい。玉藻がもう出るし。人気キャラとはいえ早すぎっしょ。
1, 2話の感じが続くのであれば視聴やめてたかも。3話からがいつものぬ〜べ〜
なんかキャラデザが、とくに女性キャラクターのデザインが変わっている気がする。
2クール目突入。OPとEDが変更。EDはユニコーンのすばらしい日々
13話の 中古家電論争はどちらも「あるある」「わかる」で面白かった。
桜子のおぼこさ好き。天空橋のオタク気質も好き。天空橋と微笑み小町の感じ、いいな。幸あれ。
14話もいいなー。機械への理解。機能性のある機械ってたくさんあるけれど、使いこなせないよね。使いこなしたら世界が広がるんだろうけどさ。
認知症による行方不明者を探す時に昔の地図を使うというのはなるほどと思った。確かに、実際に彼・彼女たちと話をしていると見えてる世界が昔のままに感じるもの。
13人の勇者が最恐の魔獣王討伐に出るがあっさり全滅。このやられ方がまたエグい。
魔獣王はその勢いでひとつの国を滅ぼすが、その際に赤子を引き取る。
魔獣王、人族を育てると決意。倒した勇者のうち1人の女勇者だけを生かし(死んでるけど)下僕として扱い、子育てを始めるのであった。
その後も結構理不尽で辛い話が続く。そして描写がまた・・・。だがそこが面白い。
したと思ったらタイトル通り。
1話でうーんって感じだったけど2話で仲間が増えて、掛け合いが面白い。
「見ろ、あれが金に取り憑かれた者の末路だ(仲間を指差しながら)」
笑ったわ。セランがいいキャラしてる。音楽はジャズバンドのSOIL&"PIMP"SESSIONSが担当しており、なかなかオシャレ。
全12話。続きがありそうな終わり方だったが2期の発表はない。作画はそれほどでもないが、ストーリーとギャグは結構好きだった。
姉と違い使用人みたいな扱いで過ごすというシンデレラみたいな生活。赤毛にそばかすとアンみたいな容姿。
そんな彼女が大富豪の伯爵に溺愛されてしまう。という、王道のシンデレラストーリーか。
親からの扱いは酷いが姉妹の仲はいい。この後にあっさり死んでしまった(元々は伯爵の婚約者であった)姉のアナスタジアの扱い方が不憫に思う。
だってこのお姉さん、外見も中身もいい娘なのに周りから幸せになることを望まれてない感じだもの。ひどいや。と1話を見て思ったのだが・・・
8話、9話でそんなアナスタジアの不憫さが語られてよかった。しかしマリー面倒くさいなぁ
主人公マリーの声は前橋ウィッチーズの緑の子なのね。主演とはすごいじゃないですか。
マリーの周りにまとってある緑のオーラみたいなのが、グリーンバックの抜き忘れみたいで邪魔に見えちゃう
全12話。マリーがどうして赤毛で、あそこまで蔑まれているかも判明。最後は大団円でいい最終回だった。きれいに終わったと思う。
1期好きで見てたんだけど、もういいかなって感じになってきた。
転生後が自動販売機という意外性、自動販売機以外にもAEDや幸せ家族計画に変身した意外性?もやったし。冒険もそれなりにやったからなー
特にないです
全12話。3期決定。
臆病で人見知りな16歳の少女。そんな見た目はか弱い少女だが、実は無詠唱で魔術が使える唯一無二の魔術師。
七賢人の一人、沈黙の魔女だった。面白い!と1話では思ったんだけどなぁ
絵が綺麗なのとかわいい。それだけで十分と言えばそうなんだけど。
七賢人で無詠唱魔術師という特色があるんだけど、表現してるけど、「おおすげー」「さすが、やっぱり」と唸らせるくらいに現して欲しいなー 8話はまぁ。
というのと、犯人探し、今日の友は明日の敵、幼馴染との再会、こういう人間関係を薬屋みたいにやって欲しかったな。
全13話。すばらしい最終回だった。
みなさんご想像通り自信のない自分にクラスのイケメン王子が仲良くしてくれるやつ。
ハニーレモンソーダーみたいなイケイケ俺様男子じゃなくて、スキップとローファーのような自然体な彼。
主要メンバーの名字は山手線の駅名になっているのがちょっと面白い。
EDのスーベニアがすごい好き 11話と12話の挿入歌もこのGLASGOWが作ってる。
青春ブタ野郎はランドセルガールの夢を見ないのラストシーンの続きから始まる。大学生編。
直近で劇場3部作の放送もあったので、予習した人もいるだろう。
最初の3話、「青春ブタ野郎は迷えるシンガーの夢を見ない」から始まる。
その次から「サンタクロースの夢を見ない」1期の世界線と2期の世界線を繋ぐ重要な話。
シリーズ新作『青春ブタ野郎はディアフレンドの夢を見ない』2026年劇場公開
3年ぶりの2期。
相変わらず海夢の行動力がスゴイこともあり、テンポがいいいアニメとなってる。
好きなものに対して凄い熱量で話をするのでセリフ量がはんぱないな。
OPは常連のスピラ・スピカ、EDはPiKiのデビュー曲。作詞作曲は中田ヤスタカで懐かしい80年代の曲調になってる。
全12話(#13-#24)+特番(アフタートーク回)安定して面白かった。
長身で一見怖そうな男の子と、見た目ちっちゃくて仕草もかわいい女の子のお話。
二人が通う高校はお隣同士なんだけど、これまた正反対な底辺男子校とお嬢様女子校。
でも、二人の内面はどちらも純粋誠実で似たもの同士な気がするな。
めっっちゃかわいい。ヒロインの女の子はもちろんのこと、主人公の男の子もかわいい。
男の子の家がケーキ屋で甘々な恋物語を見るのはホリミヤ以来か。6話は拍手したわ。
自分の気持ちも周りの親友のことも諦めない。なんと眩しい作品か。だいたい悶絶しながら見てるか泣きながら見てる。
主人公の親友たちも、スラムダンクの花道軍団にカッコ良さを感じた世代には刺さるだろう。
ぬぉぉぉぁぁあぁ 最高ですね。全13話。昴の話も見たいので絶対2期やってください。
どう見たってたぬきなんだけど、犬に見えるらしい。
どゆこと?
ダンボールを畳んだり、ペンで文字を書くのに「芸達者だね」で済まされるらしい。
どゆこと?
たぬきの仕草やフリップ芸が面白い。きのこいぬ好きな人はこれも好きだろなー
ユーモアあるオッサン仕草も面白い。つば九郎と一緒に住んだらこんな感じだったのかな。
これも音楽いいなー
ばらかもんもそうだったけど、同じくらいの年の子役が声を担当するの好き。
11話のEDが特殊。いつもは本と眼鏡が置いてあるところがヌイグルミと針刺し(針山)になっている。
全12話。終わっちまった。週末はこれを見て寝るのが気持ちよかったのに。
キラキラが好きな女子高生の瑠璃が、鉱物学を専攻する大学院生の凪に出会い、鉱物学を学びながら鉱物採取を楽しむお話。
瑠璃ワガママなところ、自分に正直すぎるところがイラッと来る人がいるかもね。
ブラタモリ見てて鉱物学、地質学の話が好きな人にはお勧め。私?大鉱物です。
強調された胸、チラリズム、そんなセクシーさが学術的な話にはノイズという声もある・・・私もどっちかといえばそっちかも。
それでも好きな作品であることに変わりないんだけどね。原作からこんな感じなので仕方がないのだけれど。
いやー7話いいですね。映像だけでなく、すごく綺麗なお話でしたね。瀬戸ちゃんの人生に輝きがでて見てる方も救われましたわ。
12話はまさかの鉱石ラジオ・・懐かしい・・・。夏休みシーズンにやってほしかった。
全13話。いい最終回(採集回)だった。13話の温泉や石灰の話はブラタモリ #97「有馬温泉」の回でも同じ様なことが学べます。
どう見たってしっかりそのまま "あらゐけいいち" ワールドで京都アニメーションなので日常が浮かぶんだけど、日常とは少し違った面白さです。
どうしても日常が頭に出てくると思うけれど、日常のように主軸となってくる女子高生や学校関係者とは違い、
5話すげーー。情報量おおすぎ。一回じゃ見れない。どうやって作ってんのこれ
いや6話の勢いと演出もすごいな。あらゐけいいちが多才だということ、その素材をそのまま京都アニメーションが現わしてくれている、そんなアニメーション。
7話、そうか、こうやってCITYは回っていくのね。もうね。すごいよ、これ別格だわぁ
11話は提供クレジットないなーと思ったらCMなしでぶっ続けだった。って12話もかい。
全13話。最終話の序盤はみんな大好きまつりとえっちゃんの話、その後は洋食マカベを中心に最終回特有の全員集合。そして長尺ミュージカルからの大爆発。店長声良すぎw
長くなったので続きは以下、別投稿で書く
最近の日本が作るのは既存アニメカルチャーを担う有名人(老齢)に既存の有名IPを乗っけて手堅く成功するようなやつだけ。いや爆死も多いが。
でも、中国や韓国はゲームの分野で完全新規IPに果敢に挑戦して、予算も熱意もかけてグローバルでヒットさせるようなものを頻繁に生み出している。
miHoYoとかSHIFT UPとかね。映像表現では、KURO GAMESなんかも特筆すべき芸術的創作性を備えてきてる。
そういうものは、怠惰で忍耐力のないアニメ視聴者に媚びた、「行間を読ませない」ような作品づくりとは対極の、作り手と同じくらいの熱意を持って自発的に散らばった行間(伏線)を探してくれるようなユーザーを喜ばせる、濃度の高い複雑怪奇な創作スタンスを持っている。高IQ者でないと理解するのが難しい表現や高度に文化的な表現も多用する。置いてけぼりにされたことすら気づかないくらいのミーム圧だ。リスペクトにあふれているとも言える。
それから、ヘイトコントロールというより、ラブアンプリファイとでも言うような、ゲームだからこそできるキャラ一人ひとりの背景をじっくり、場合によっては数年かけて掘り下げるアプローチで、どのキャラも自然と好きになれるので、オタクからの信頼を新規IPというビハインドを感じさせない勢いで獲得してる。
アニメ調ゲームは作り手も消費者も若く「ガチ」なものに溢れるホットなオタク領域だが、日本のTVアニメという創作分野はくたびれた中年~初老のかつてオタクだった人向けにお決まりのものを提供する場になりつつあるのではないか。
それこそテレビバラエティが老人向けのものになっていったように。これらは老人向けなりに若めのカルチャーに目を向けて、登場させるタレントや美術センスこそ若さを感じさせるようにすることで、しょぼしょぼ感が画面から滲み出ないように作られているが、実態として消費者は老人ばかりなのだ。
そういう創作スタンスの欺瞞性を、一世代、二世代若い人たちは容易に見抜いては呆れることを繰り返してきた。作り手の古臭い価値観が滲み出ているからね。TVアニメはその流れとは関係ないと思っている人もいるようだが、まったくそんなことはない。
有名IPアニメを見て「勉強」してる場合なのか?と思う。創作というのは、小手先の技法のモダン表現へのキャッチアップは枝葉末節であり、本質的なのは、創作の源泉となる思想のアップデートだ。新しい時代の価値観を内包した思想性へのアップデート。それが伴わない限り、キャラが操り人形に見えてしまい、すべてがニセモノじみた茶番になる。それが分からない人が創作の小手先を学んでも、世の中に残るものは残せないよ。
ピンと来ないなら、宗教団体が今風のアニメ表現でショート動画を作ったのを見るときの「なんか浮いてる気色悪さ」を想像してもらえばいい。年寄りたちが今風の表現を借りて作るTVアニメ作品には、それと同種の気色悪さがあるが、作り手と同じくらいの感性で止まっている人にとってはそうは感じない、という話。
それがまさに若者がバラエティを見たときに感じる気持ち悪さと同じ。
もちろん、これらは所詮娯楽だから、一消費者としてならそこで止まり続けて、死ぬまで慣れ親しんだものを消費していくのでも構わない。それを揶揄されようと気にしないでいればいい。なんなら逆に、こういう指摘をしてくる自分のような人間を小馬鹿にしつづけたらいい。
2025年、私たちはソフトウェア開発の歴史的な転換点に立っている。大規模言語モデル(LLM)の進化は、GitHub Copilotのようなコード補完ツールに始まり、今や「何を作りたいか」を自然言語で伝えるだけで、アプリケーションの雛形が数分で生成される時代を現実のものとしつつある。この光景を目の当たりにした多くのプログラマが、漠然とした、しかし確かな不安を抱いているだろう。「私たちの仕事は、いずれAIに奪われるのではないか」と。
この問いに対する私の答えは、半分はYesであり、もう半分はNoだ。より正確に言えば、プログラマの仕事の本質が、歴史上かつてないレベルで抽象化され、その役割が再定義されるのだ。私たちは、コードを「書く」作業から解放される一方で、これまで以上に高度な思考を要求されることになる。
本稿では、プログラミングの歴史を「How(いかに作るか)」から「What(何を作るか)」への移行として捉え直し、LLMがこの流れをいかに加速させるかを論じる。そして、その先にある、AIには決して代替できない、人間ならではの競争優位性、すなわち「Why(なぜ作るのか)」を定義し、記述する能力の重要性について深く考察していく。これは、単なる未来予測ではない。今を生きるすべてのソフトウェアエンジニアにとっての、生存戦略の提示である。
LLMの登場を特異点として捉える前に、我々が立っている場所を正確に知る必要がある。ソフトウェア開発の歴史は、常に「抽象化」との戦いであった。そしてその歴史は、プログラマの関心が「How」から「What」へと徐々に移り変わっていくプロセスとして描くことができる。
コンピュータの黎明期、プログラミングとは、計算機が理解できる命令(How)を、一行一行、丹念に記述する作業そのものであった。アセンブリ言語や初期のFORTRAN、COBOLといった言語は、ハードウェアの制約を強く受けており、プログラマはメモリ管理やプロセッサの動作といった、極めて物理層に近いレベルでの「How」を意識する必要があった。
この時代のテストもまた、「How」に強く束縛されていた。書かれた手続きが、意図した通りに順番に実行されるか、特定の入力に対して期待された計算結果を返すか。テストの関心事は、あくまで「手続きの正しさ」の検証にあった。ビジネスロジックと実装の詳細が密結合し、コードは特定の処理手順を記述した、硬直的な塊となっていた。
風向きが変わり始めたのは、ソフトウェアの規模が拡大し、その複雑性が人間の認知能力を超え始めた頃だ。1990年代後半から2000年代にかけて提唱されたエクストリーム・プログラミング(XP)の中で、テスト駆動開発(TDD)という考え方が登場する。
TDDの本質は、単なるテスト手法の改善ではない。それは、プログラミングのパラダイムを根底から覆す思想だった。TDDは、「まずテストを書く」ことを強制することで、プログラマの意識を「これから実装するコード(How)」から「そのコードが満たすべき振る舞い(What)」へと強制的に転換させたのだ。
テストはもはや、書かれたコードの後追いで正しさを検証する作業ではない。それは、これから作られるべきソフトウェアの「仕様書」であり、「振る舞いの宣言」となった。例えば、「ユーザーがログインボタンをクリックしたら、ダッシュボード画面に遷移する」というテストコードは、具体的な実装方法(`onClick`イベントハンドラの中で`window.location.href`を書き換える、など)には一切言及しない。それはただ、達成されるべき「What」を記述しているだけだ。
この思想は、ビヘイビア駆動開発(BDD)へと発展し、`Given-When-Then`といった、より自然言語に近い形式でソフトウェアの振る舞いを記述するスタイルを生み出した。プログラマだけでなく、プロダクトマネージャーやビジネスアナリストといった非技術者をも巻き込み、「What」を共通言語として定義する試みが本格化したのである。
TDD/BDDによってプログラマの意識が「What」に向かい始めると、コードそのものもまた、宣言的なスタイルへと進化していく。この変化を劇的に加速させたのが、モダンなフレームワークの存在だ。
Reactを例に考えてみよう。Reactが登場する前、フロントエンド開発はjQueryに代表されるように、DOMを直接操作する命令的なコード(How)の連続だった。「このボタンがクリックされたら、この要素のテキストを書き換え、あちらの要素を非表示にする」といった具合だ。
しかし、Reactは「UIとは、ある状態(state)に対する純粋な写像である」という宣言的なモデルを提示した。プログラマがやるべきことは、UIの状態(`state`)と、その状態がどのように見えるか(JSXによるコンポーネント)を宣言することだけだ。状態が変更された際に、DOMをどのように効率的に更新するかという面倒な「How」の部分は、Reactの仮想DOMと差分検出アルゴリズムがすべて隠蔽してくれる。プログラマは「What(UIのあるべき姿)」を記述するだけでよくなったのだ。
この「WhatからHowへの変換」は、様々な領域で見られる。
これらのフレームワークやツールは、いわば「特定の制約下における、WhatからHowへの高性能な変換器」として機能してきた。プログラマは、フレームワークが課す「お作法」や「制約」を受け入れることで、退屈で間違いの多い「How」の記述から解放され、より本質的な「What」の定義に集中できるようになった。我々が「生産性が高い」と感じる開発体験は、この優れた変換器の恩恵に他ならない。
現状は、この歴史的変遷の延長線上にある。プログラマの仕事は、手続きを記述する職人から、振る舞いを定義し、それを実現するための最適な「変換器(フレームワーク)」を選択・設定するアーキテクトへと、その重心を移してきたのだ。
フレームワークがもたらした「WhatからHowへ」の潮流は、LLMの登場によって、未曾有のスケールで加速されようとしている。フレームワークが「特定の領域に特化した変換器」であったのに対し、LLMは「あらゆる領域に対応可能な、究極の汎用変換器」としてのポテンシャルを秘めているからだ。
前章で述べたように、ReactやTerraformといったフレームワークは、その恩恵と引き換えに、私たちに特定の「制約」を課してきた。Reactを使うならコンポーネントベースで思考し、状態管理の作法に従う必要がある。Terraformを使うなら、そのエコシステムとHCLの流儀を受け入れなければならない。これらの制約は、WhatからHowへの変換を自動化するための「レール」であり、私たちはそのレールの上を走ることで効率を得てきた。
しかし、LLMはこの前提を覆す。LLMは、特定のフレームワークや言語の知識を事前に学習しているが、その利用において絶対的な制約を課すわけではない。私たちは、より自由な形式で「What」を伝えることができる。
例えば、こうだ。
ユーザー認証機能付きのシンプルなブログアプリを作ってほしい。フロントエンドはReactとTypeScript、UIコンポーネントはMUIを使う。バックエンドはNode.jsとExpressで、データベースはPostgreSQL。ユーザーはGoogleアカウントでログインでき、新しい記事を作成、編集、削除できる。記事にはマークダウン記法が使えて、画像もアップロードできるようにしてほしい。
この要求(What)は、特定のフレームワークの流儀に則ったものではない。複数の技術スタックを横断し、機能要求を自然言語で並べただけのものである。しかし、現在のLLM、特にGPT-4oやそれに類するモデルは、このレベルの要求から、ディレクトリ構造、設定ファイル、APIエンドポイント、フロントエンドコンポーネントに至るまで、驚くほど具体的なコード(How)を生成することができる。
これは、フレームワークが担ってきた「WhatからHowへの変換」が、特定のレールから解き放たれ、より広範で柔軟な領域へと拡張されたことを意味する。これまで自動化が難しかった、あるいは特定のフレームワークが存在しなかったニッチな領域や、複数の技術を組み合わせる複雑なシステム構築においても、AIによる宣言的プログラミングの恩恵を受けられる時代が始まろうとしているのだ。
LLMという汎用変換器の登場により、プログラマの生産性は、「いかに質の高いWhatをLLMに伝えられるか」に直結するようになる。これは、俗に「プロンプトエンジニアリング」と呼ばれるスキルだが、その本質は、ソフトウェア開発における「要求定義」そのものである。
質の高い「What」とは何か。それは、曖昧性がなく、網羅的で、矛盾のない要求である。
これらは、優秀なソフトウェアエンジニアが、プロダクトマネージャーやデザイナーとの対話を通じて、日常的に行ってきた思考プロセスそのものではないだろうか。LLMの登場は、この思考プロセスを、より明確に、よりテキストベースで「記述」する能力を求める。私たちの頭の中にあった暗黙的な仕様が、LLMへの入力(プロンプト)という形で、明示的に言語化されることを要求するのだ。
やがて、ほとんどのプログラミング作業は、この「Whatの記述」に収束していくだろう。TDDがテストコードという形式で「What」を記述したように、私たちは自然言語や、より構造化された要求記述言語を用いて、AIに対して「What」を宣言することになる。コード(How)は、その宣言から自動生成される中間生成物に過ぎなくなる。まさに、コードが蒸発していく未来である。
「What」を伝えれば「How」が手に入る。この魔法のような世界の到来を前に、私たちは一つの重大な問いに直面する。それは、「そのWhatからHowへの変換は、本当に一意に決まるのか?」という問いだ。
答えは、明確にNoである。
ある「What(要求)」を実現するための「How(実装)」は、無数に存在する。そして、どの「How」を選択すべきかを決定するためには、単純な機能要求(What)だけでは情報が全く足りない。そこには、必ず「Why(なぜそう作るのか)」という、背景、文脈、そしてトレードオフの考慮が必要不可欠となる。
簡単な例を考えてみよう。「1億件のユーザーデータを格納し、ユーザーIDで高速に検索できるシステム」という「What」をLLMに与えたとする。LLMは、どのような「How」を提案するだろうか。
これらの選択肢は、どれも「What」を満たしている。しかし、その特性は全く異なる。案Aは多くのエンジニアにとって馴染み深く開発が容易だが、10億、100億件へのスケールは難しいかもしれない。案Bはスケール性に優れるが、厳密なトランザクション管理は苦手だ。案Cは高速だが、運用コストとシステムの複雑性が増す。案Dは安価だが、検索速度は他に劣る。
LLMは、これらの選択肢をリストアップすることはできるだろう。しかし、このプロジェクトにとって最適な選択肢はどれかを、自信を持って決定することはできない。なぜなら、その決定には、LLMが与えられていない「Why」の情報が必要だからだ。
これらの「Why」こそが、無数に存在する「How」の中から、ただ一つの「正解」を選び出すための羅針盤なのである。そしてこの「Why」は、ビジネスの目標、組織の文化、ユーザーの期待、技術的な制約といった、極めて人間的で、文脈依存的な情報の中にしか存在しない。
ここで重要なのは、これまでもエンジニアは、この「Why」に基づく意思決定を、意識的あるいは無意識的に行ってきたという事実だ。
私たちが技術選定を行うとき、単に「流行っているから」という理由だけでReactを選ぶわけではない。「SPA(Single Page Application)にすることでユーザー体験を向上させたい(Why)」、「コンポーネント指向の開発によって長期的な保守性を確保したい(Why)」、「Reactエンジニアの採用市場が活発だから(Why)」といった、様々な「 Permalink | 記事への反応(0) | 17:09
2025年、私たちはソフトウェア開発の歴史的な転換点に立っている。大規模言語モデル(LLM)の進化は、GitHub Copilotのようなコード補完ツールに始まり、今や「何を作りたいか」を自然言語で伝えるだけで、アプリケーションの雛形が数分で生成される時代を現実のものとしつつある。この光景を目の当たりにした多くのプログラマが、漠然とした、しかし確かな不安を抱いているだろう。「私たちの仕事は、いずれAIに奪われるのではないか」と。
この問いに対する私の答えは、半分はYesであり、もう半分はNoだ。より正確に言えば、プログラマの仕事の本質が、歴史上かつてないレベルで抽象化され、その役割が再定義されるのだ。私たちは、コードを「書く」作業から解放される一方で、これまで以上に高度な思考を要求されることになる。
本稿では、プログラミングの歴史を「How(いかに作るか)」から「What(何を作るか)」への移行として捉え直し、LLMがこの流れをいかに加速させるかを論じる。そして、その先にある、AIには決して代替できない、人間ならではの競争優位性、すなわち「Why(なぜ作るのか)」を定義し、記述する能力の重要性について深く考察していく。これは、単なる未来予測ではない。今を生きるすべてのソフトウェアエンジニアにとっての、生存戦略の提示である。
LLMの登場を特異点として捉える前に、我々が立っている場所を正確に知る必要がある。ソフトウェア開発の歴史は、常に「抽象化」との戦いであった。そしてその歴史は、プログラマの関心が「How」から「What」へと徐々に移り変わっていくプロセスとして描くことができる。
コンピュータの黎明期、プログラミングとは、計算機が理解できる命令(How)を、一行一行、丹念に記述する作業そのものであった。アセンブリ言語や初期のFORTRAN、COBOLといった言語は、ハードウェアの制約を強く受けており、プログラマはメモリ管理やプロセッサの動作といった、極めて物理層に近いレベルでの「How」を意識する必要があった。
この時代のテストもまた、「How」に強く束縛されていた。書かれた手続きが、意図した通りに順番に実行されるか、特定の入力に対して期待された計算結果を返すか。テストの関心事は、あくまで「手続きの正しさ」の検証にあった。ビジネスロジックと実装の詳細が密結合し、コードは特定の処理手順を記述した、硬直的な塊となっていた。
風向きが変わり始めたのは、ソフトウェアの規模が拡大し、その複雑性が人間の認知能力を超え始めた頃だ。1990年代後半から2000年代にかけて提唱されたエクストリーム・プログラミング(XP)の中で、テスト駆動開発(TDD)という考え方が登場する。
TDDの本質は、単なるテスト手法の改善ではない。それは、プログラミングのパラダイムを根底から覆す思想だった。TDDは、「まずテストを書く」ことを強制することで、プログラマの意識を「これから実装するコード(How)」から「そのコードが満たすべき振る舞い(What)」へと強制的に転換させたのだ。
テストはもはや、書かれたコードの後追いで正しさを検証する作業ではない。それは、これから作られるべきソフトウェアの「仕様書」であり、「振る舞いの宣言」となった。例えば、「ユーザーがログインボタンをクリックしたら、ダッシュボード画面に遷移する」というテストコードは、具体的な実装方法(`onClick`イベントハンドラの中で`window.location.href`を書き換える、など)には一切言及しない。それはただ、達成されるべき「What」を記述しているだけだ。
この思想は、ビヘイビア駆動開発(BDD)へと発展し、`Given-When-Then`といった、より自然言語に近い形式でソフトウェアの振る舞いを記述するスタイルを生み出した。プログラマだけでなく、プロダクトマネージャーやビジネスアナリストといった非技術者をも巻き込み、「What」を共通言語として定義する試みが本格化したのである。
TDD/BDDによってプログラマの意識が「What」に向かい始めると、コードそのものもまた、宣言的なスタイルへと進化していく。この変化を劇的に加速させたのが、モダンなフレームワークの存在だ。
Reactを例に考えてみよう。Reactが登場する前、フロントエンド開発はjQueryに代表されるように、DOMを直接操作する命令的なコード(How)の連続だった。「このボタンがクリックされたら、この要素のテキストを書き換え、あちらの要素を非表示にする」といった具合だ。
しかし、Reactは「UIとは、ある状態(state)に対する純粋な写像である」という宣言的なモデルを提示した。プログラマがやるべきことは、UIの状態(`state`)と、その状態がどのように見えるか(JSXによるコンポーネント)を宣言することだけだ。状態が変更された際に、DOMをどのように効率的に更新するかという面倒な「How」の部分は、Reactの仮想DOMと差分検出アルゴリズムがすべて隠蔽してくれる。プログラマは「What(UIのあるべき姿)」を記述するだけでよくなったのだ。
この「WhatからHowへの変換」は、様々な領域で見られる。
これらのフレームワークやツールは、いわば「特定の制約下における、WhatからHowへの高性能な変換器」として機能してきた。プログラマは、フレームワークが課す「お作法」や「制約」を受け入れることで、退屈で間違いの多い「How」の記述から解放され、より本質的な「What」の定義に集中できるようになった。我々が「生産性が高い」と感じる開発体験は、この優れた変換器の恩恵に他ならない。
現状は、この歴史的変遷の延長線上にある。プログラマの仕事は、手続きを記述する職人から、振る舞いを定義し、それを実現するための最適な「変換器(フレームワーク)」を選択・設定するアーキテクトへと、その重心を移してきたのだ。
フレームワークがもたらした「WhatからHowへ」の潮流は、LLMの登場によって、未曾有のスケールで加速されようとしている。フレームワークが「特定の領域に特化した変換器」であったのに対し、LLMは「あらゆる領域に対応可能な、究極の汎用変換器」としてのポテンシャルを秘めているからだ。
前章で述べたように、ReactやTerraformといったフレームワークは、その恩恵と引き換えに、私たちに特定の「制約」を課してきた。Reactを使うならコンポーネントベースで思考し、状態管理の作法に従う必要がある。Terraformを使うなら、そのエコシステムとHCLの流儀を受け入れなければならない。これらの制約は、WhatからHowへの変換を自動化するための「レール」であり、私たちはそのレールの上を走ることで効率を得てきた。
しかし、LLMはこの前提を覆す。LLMは、特定のフレームワークや言語の知識を事前に学習しているが、その利用において絶対的な制約を課すわけではない。私たちは、より自由な形式で「What」を伝えることができる。
例えば、こうだ。
ユーザー認証機能付きのシンプルなブログアプリを作ってほしい。フロントエンドはReactとTypeScript、UIコンポーネントはMUIを使う。バックエンドはNode.jsとExpressで、データベースはPostgreSQL。ユーザーはGoogleアカウントでログインでき、新しい記事を作成、編集、削除できる。記事にはマークダウン記法が使えて、画像もアップロードできるようにしてほしい。
この要求(What)は、特定のフレームワークの流儀に則ったものではない。複数の技術スタックを横断し、機能要求を自然言語で並べただけのものである。しかし、現在のLLM、特にGPT-4oやそれに類するモデルは、このレベルの要求から、ディレクトリ構造、設定ファイル、APIエンドポイント、フロントエンドコンポーネントに至るまで、驚くほど具体的なコード(How)を生成することができる。
これは、フレームワークが担ってきた「WhatからHowへの変換」が、特定のレールから解き放たれ、より広範で柔軟な領域へと拡張されたことを意味する。これまで自動化が難しかった、あるいは特定のフレームワークが存在しなかったニッチな領域や、複数の技術を組み合わせる複雑なシステム構築においても、AIによる宣言的プログラミングの恩恵を受けられる時代が始まろうとしているのだ。
LLMという汎用変換器の登場により、プログラマの生産性は、「いかに質の高いWhatをLLMに伝えられるか」に直結するようになる。これは、俗に「プロンプトエンジニアリング」と呼ばれるスキルだが、その本質は、ソフトウェア開発における「要求定義」そのものである。
質の高い「What」とは何か。それは、曖昧性がなく、網羅的で、矛盾のない要求である。
これらは、優秀なソフトウェアエンジニアが、プロダクトマネージャーやデザイナーとの対話を通じて、日常的に行ってきた思考プロセスそのものではないだろうか。LLMの登場は、この思考プロセスを、より明確に、よりテキストベースで「記述」する能力を求める。私たちの頭の中にあった暗黙的な仕様が、LLMへの入力(プロンプト)という形で、明示的に言語化されることを要求するのだ。
やがて、ほとんどのプログラミング作業は、この「Whatの記述」に収束していくだろう。TDDがテストコードという形式で「What」を記述したように、私たちは自然言語や、より構造化された要求記述言語を用いて、AIに対して「What」を宣言することになる。コード(How)は、その宣言から自動生成される中間生成物に過ぎなくなる。まさに、コードが蒸発していく未来である。
「What」を伝えれば「How」が手に入る。この魔法のような世界の到来を前に、私たちは一つの重大な問いに直面する。それは、「そのWhatからHowへの変換は、本当に一意に決まるのか?」という問いだ。
答えは、明確にNoである。
ある「What(要求)」を実現するための「How(実装)」は、無数に存在する。そして、どの「How」を選択すべきかを決定するためには、単純な機能要求(What)だけでは情報が全く足りない。そこには、必ず「Why(なぜそう作るのか)」という、背景、文脈、そしてトレードオフの考慮が必要不可欠となる。
簡単な例を考えてみよう。「1億件のユーザーデータを格納し、ユーザーIDで高速に検索できるシステム」という「What」をLLMに与えたとする。LLMは、どのような「How」を提案するだろうか。
これらの選択肢は、どれも「What」を満たしている。しかし、その特性は全く異なる。案Aは多くのエンジニアにとって馴染み深く開発が容易だが、10億、100億件へのスケールは難しいかもしれない。案Bはスケール性に優れるが、厳密なトランザクション管理は苦手だ。案Cは高速だが、運用コストとシステムの複雑性が増す。案Dは安価だが、検索速度は他に劣る。
LLMは、これらの選択肢をリストアップすることはできるだろう。しかし、このプロジェクトにとって最適な選択肢はどれかを、自信を持って決定することはできない。なぜなら、その決定には、LLMが与えられていない「Why」の情報が必要だからだ。
これらの「Why」こそが、無数に存在する「How」の中から、ただ一つの「正解」を選び出すための羅針盤なのである。そしてこの「Why」は、ビジネスの目標、組織の文化、ユーザーの期待、技術的な制約といった、極めて人間的で、文脈依存的な情報の中にしか存在しない。
ここで重要なのは、これまでもエンジニアは、この「Why」に基づく意思決定を、意識的あるいは無意識的に行ってきたという事実だ。
私たちが技術選定を行うとき、単に「流行っているから」という理由だけでReactを選ぶわけではない。「SPA(Single Page Application)にすることでユーザー体験を向上させたい(Why)」、「コンポーネント指向の開発によって長期的な保守性を確保したい(Why)」、「Reactエンジニアの採用市場が活発だから(Why)」といった、様々な「 Permalink | 記事への反応(0) | 17:09
昨日森山幹事長から打信を受けた際に私から申し上げたことは、今の局面で大事なことは組織団体に忖度のしない判断をすることだと思いますと、私はそういう思いですが、よろしいですかと、それが大事だと思うと、そういったお話をさせていただいた
国民の皆さんにとって、これだったら安心して買える、その価格まで政治の決断によって下げていく、この政治決断が求められている局面でもあると思います
今までの日本の農業を考えた時にやもすると組織団体にも気を使いすぎて本来であれば消費者の目線、生活者の目線でやってこなければいけなかった改革が遅れてる
米はまさにそういった象徴的な1つの政策でもありますので、その思いを持ちながらも幅広く、コミュニケーションを取って共に前に向かって新しい時代の農林水産行政を築いて、
消費者の皆さんの理解とそしてまた生産者の皆さんの意欲がしっかりと距離感が縮まるようなそんな関係が気づければ私は日本にとっては前向きな方向に転換できるチャンスにもできるんではないかなと思っています
農水改革への意欲
近年、「AI生成にはもうウンザリ」という声が広がっていますが、私たちはAIがもたらす創造の新たな可能性について、もう一度考え直す時期に来ているのではないでしょうか。
確かに、AI生成コンテンツには従来の手作業による創作とは異なる特性があります。しかし、それは「価値がない」ということではなく、価値の形が変わったに過ぎません。思い返せば、私たちは常に記憶に価値を置いてきました。そして、これまで価値があると認められてきたものは、形を変えながらもこれからも価値があり続けるでしょう。
「AIによる作品には温かみがない」という意見をよく耳にします。しかし、記憶や物質に価値があるかどうかは、人によって、そして瞬間によって異なるものです。AIツールを巧みに操るクリエイターが生み出す作品には、手作業の痕跡とは違った、新しい時代の創造性が宿っています。
私たちが「以前の方が良かった」と感じるのは、過去の自分が満足していた瞬間に特別な価値を見出しているからかもしれません。そのときに体験したことや目にしたものを美化する傾向があります。これは高齢者が「あの頃はよかった」と懐古的になる感覚と似ています。過去のある期間から良い瞬間だけを抽出して総合的に比較すると、良い記憶が集積した過去の方が現在の一瞬よりも価値が高く感じられるのは当然です。
実際のところ、AIによる創作は新たな可能性の扉を開いています:
1. 創作の民主化: かつては一部の才能ある人々だけが独占していた表現の場が、今や誰にでも開かれています。身体的制約や経済的ハードルを超えて、多くの人が創造の喜びを体験できるようになりました。
2. 共創の新しい形: AIは単なるツールではなく、共同創作者としての側面を持っています。人間とAIの対話から生まれる作品には、従来にない独自の価値と可能性があります。
3. 時代を映す鏡: AI生成作品もまた、それを生み出した人間の意図や願望、そして時代の息吹を映し出しています。これらは将来、2020年代の文化を象徴する重要な記録となるでしょう。
創作の価値は「手間」や「労苦」だけに宿るのではありません。その作品が誰かの心に触れ、感動や思索を生み出したかどうかこそが重要です。そして、それはAI生成作品であっても十分に可能なことです。
手作業による創作の価値を尊重しながらも、AIという新しいパートナーとともに歩む未来を受け入れる柔軟さこそが、真に豊かな創造性を育むのではないでしょうか。過去を美化するのではなく、新しい価値観を受け入れ、AIと人間の共創時代における新たな可能性を探求していきたいものです。
GenAIによる分析その2
匿名ダイアリーの記事(https://anond.hatelabo.jp/20240709080000)で描写されている石丸伸二氏と荻上チキ氏のやり取りについて指摘を行います。
記事の描写を読むと、石丸氏の議論の進め方において、以下のような点が詭弁として批判されうると考えられます。
1. ストローマン(藁人形論法)と、それに続くレッテル貼り・人身攻撃の組み合わせ
記事の描写に見られる可能性: 記事では、荻上氏が特定の論点や懸念(例えば、多様性への配慮や、特定の層への影響など)について問いかけているのに対し、石丸氏がその問いの意図や背景を歪めて解釈し、「既存の体制を守ろうとしている」「変化を恐れている」といった、より単純化・悪意化された「藁人形」を作り出し、その「藁人形」に対して反論しているかのような描写が見られます。さらに、その「藁人形」に関連付けて、質問者(荻上氏)やその背後にいるかのような存在(古い勢力、既得権益者など)に対して、変化を阻む敵であるかのようなレッテル貼りをし、あるいはその属性をもって主張の正当性を否定しようとする人身攻撃に繋がっているように読み取れます。
これは議論の本質から目をそらし、相手の主張を正確に理解しようとせず、歪んだ形で攻撃するという、討論の場で最も避けるべき行為の一つです。相手が提示した正当な問いや懸念に対して真正面から答えず、勝手に相手の意図を邪推・曲解し、それを攻撃するという手法は、誠実な対話の放棄に等しいと厳しく断じられても仕方ありません。「あなた方が言っているのは結局こういうことだろう」「それは〇〇を守りたいだけだろう」といった決めつけは、相手を議論の土俵から降ろし、自身の主張を一方的に押し通すための暴力的なコミュニケーションになり得ます。これは論理的な議論ではなく、感情的・印象操作的な攻撃であり、公共の場で議論を行う人物としては資質を問われるレベルだと批判されるべきです。
記事の描写に見られる可能性: 記事からは、荻上氏が具体的な政策課題や、ある方針がもたらすであろう具体的な影響について問うているのに対し、石丸氏が「古いものを壊す」「新しい時代を作る」「既得権益と戦う」といった、抽象的かつ紋切り型のスローガンや改革論に終始し、具体的な応答を避けているように読み取れます。本来答えるべき「How」(どのように実現するのか、具体的にどのような影響が出るのか)から、「Why」(なぜ改革が必要なのか、何を目指すのか)という抽象的な理由付けに論点をすり替えている可能性があります。
これは、具体的な責任や困難な問題への言及を避け、耳障りの良いスローガンや抽象的な正論によってその場を乗り切ろうとする姑息な手法だと厳しく批判されるべきです。特に、公職に就こうとする者、あるいは既に就いている者は、理念だけでなく、その理念をどのように現実の政策として落とし込み、どのような影響が出るのかについて、具体的な説明責任を負います。抽象論に終始し、具体的な問いに答えようとしない姿勢は、問題の本質から逃げている、あるいは具体的な方策を持ち合わせていないことの露呈であると見なされても仕方ありません。これは、聞き手である有権者や市民を軽視している表れだと厳しく非難されるべきです。
3. 選言的(誤った二分法)に見せかけた、自己の立場への誘導
記事の描写に見られる可能性: 記事の文脈によっては、「私の改革を支持するか、それとも古い体制を守るのか」「変化を選ぶか、停滞を選ぶか」といったように、実際には多様な選択肢や立場が存在するにも関わらず、議論を自身の立場を肯定する方向ともう一方の否定的な方向という二つだけに限定し、その二者択一を迫るかのような論法を用いているように読める箇所があるかもしれません。
これは、多様な意見や複雑な現実を無視し、自身の主張を有利に見せるために意図的に選択肢を狭めるものであり、フェアな議論の放棄だと厳しく批判されるべきです。実際には、改革の方向性には複数の選択肢があったり、変化の中にも良い変化と悪い変化があったりします。それを単純な善悪の二項対立に還元し、自身の立場を選ばない者は悪であるかのように誘導する手法は、聞き手の思考停止を誘い、批判的な検討を封じ込めるためのプロパガンダ的手法だと断じられても仕方ありません。