はてなキーワード: システムとは
【はじめに】
本稿は、現代日本政治を一つの均衡状態として捉え、その内的論理を記述する試みに過ぎない。ここで描かれた「歪なリヴァイアサン」は、不正義でも愚鈍でもなく、ただ与えられた条件の下で最も合理的に振る舞っている存在である。
しかし、合理性は永続性を保証しない。均衡とは、あくまで外乱が加わらない限りにおいて成立する一時的な静止点に過ぎない。経済の衰弱、国際秩序の変動、技術による媒介構造の変化——いずれも、このキメラの前提条件を静かに、しかし確実に侵食している。
本稿の目的は、このシステムを擁護することでも、告発することでもない。ただ一つ、「なぜ変わらないのか」という問いを、「変わらないこと自体が合理的である状況」として再定義することである。
もし将来、日本政治がこの枠組みから逸脱するとすれば、そのとき我々は初めて「変化が起きた」のではなく、「変化を許す条件が整った」のだと理解すべきだろう。
日本政治を観察する際、我々は常に強烈な「違和感」に襲われる。
表面的には米国流の民主憲法を掲げながら、そのOS(オペレーティングシステム)はプロイセン流の官僚機構であり、さらにその深層では江戸時代の村落論理が駆動しているからだ。
「自民党一強」や「官僚内閣制」、「対米従属」といった既存の単一的な理論では、この怪物を説明しきれない。
本稿では、現代日本という政治システムを、「幕府の遺風(骨格)」、「明治の遺老(神経)」、「米国の遺産(皮膚)」という、本来互換性のない三つの要素が無理やり縫合され た「キメラ(合成獣)」として定義し、その構造的欠陥と強靭さを分析する。
日本政治の基層にあるのは、民主主義ではなく「封建制」である。
自民党は近代政党ではない。それは「現代の大名連合体」である。
派閥という名の「藩」:政治家にとっての忠誠対象は、国家よりも党、党よりも「派閥(オヤジ)」にある。
世襲という正統性:地盤・看板・鞄(カバン)の世襲は、まさに江戸時代の家督相続そのものであり、システム維持のコストを最小化するための合理的装置だ。
「根回し」の合意形成:国会審議は儀式に過ぎない。真の意思決定は、料亭や密室での「根回し」によって行われる。これは内戦を避けるための「封建的コンセンサス」の知恵である。
この層は、システムにおける「利益配分」と「動員」を司っている。
政治家が舞台上で演じる役者だとすれば、脚本を書き、演出するのは霞が関の官僚群である。彼らは明治維新以来の「指導的行政」の継承者だ。
無責任の体系:大臣は頻繁に交代するが、次官や局長は居座る。実質的な立法権と、法の「解釈権」は彼らが独占している。
解釈権という主権:法文そのものに意味はない。内閣法制局がいかに「解釈」するかが全てだ。これは一種の「神学政治」であり、官僚は唯一の解釈権を持つ神官である。
この層は、システムの「運用(オペレーション)」と「リスク回避」を司っている。
戦後、外から移植されたこの異質な器官は、平和憲法や日米安保として具現化している。
征夷大将軍としての米国:構造的に見れば、ワシントンは現代の「将軍」である。平時は大名(日本政府)の内政に干渉しないが、外交・安保という存立に関わる部分では最終裁定権を持つ。
「結界」としての憲法九条:保守派にとっての憲法は、足枷であると同時に、米国の過度な軍事冒険に巻き込まれないための「免罪符(盾)」としても機能してきた。
この層は、システムの「外部安全保障」と「国際的正統性」を保証している。
この三層構造は、絶妙なナッシュ均衡によって維持されている。この均衡を無自覚に破壊しようとした者がどうなるか。歴史が証明している。
小泉氏は「自民党をぶっ壊す」と叫び、ポピュリズム(米国層の力)を借りて、自らの足場である「幕府層(派閥・郵便・土建)」を攻撃した。
結果、自民党という組織は「骨粗鬆症」に陥った。彼が去った後、求心力を失った自民党があっけなく下野したのは必然であった。
2009年の政権交代は、システムに対する致命的な挑戦であった。民主党は「幕府・明治・米国」のすべてを同時に敵に回してしまったのだ。
対「明治層」戦争:「政治主導」を掲げ、官僚機構を敵視した結果、サボタージュに遭い、行政機能が麻痺した。
対「米国層」戦争:普天間基地問題で「将軍」の逆鱗に触れ、鳩山政権は崩壊した。
(党内に派閥がなければ奇妙なことが起き、党外に野党がなければ独裁に陥る)。
自民党における派閥は、疑似的な政権交代機能(自浄作用)を果たしていた。しかし、「党内無派閥」を理想とした民主党は、内部対立を調整する「封建的知恵」を持たず、内ゲバで自壊した。
民主党の敗北は、無能だったからではない。日本の「国体(システム)」に対する免疫拒絶反応だったのである。
なぜ安倍晋三(第二次政権)は、憲政史上最長の安定政権を築くことができたのか。
それは彼が、小泉流の「破壊」も民主党流の「理想」も捨て、システム構造のハッキングに成功したからだ。
彼は「三層の矛盾」を解消するのではなく、「三層すべてを掌握する」ことで、この奇妙なキメラを飼い慣らしたのである。
民主党は官僚と「闘った」が、安倍政権は官僚を「飼い慣らした」。
その決定的な武器が、2014年に設置された「内閣人事局」である。
霞が関のエリートたちの人事権を官邸が一元管理することで、官僚たちは「抵抗者」から、官邸の意向を過剰に読み取る(忖度する)「優秀な参謀」へと変質した。
これにより、明治以来の「官僚の自律性」は去勢され、行政機構は完全に安倍一強体制の手足となった。
安倍氏は、対米自立を掲げるのではなく、逆説的に「対米従属を極める」ことで政権のフリーハンドを得た。
2015年の安保法制(集団的自衛権の行使容認)は、憲法解釈の限界を突破するものであったが、これは「将軍(米国)」に対する最大の忠誠の証であった。
将軍の信任を得た大名は、国内で多少強引な振る舞いをしても、外圧によって倒されることはない。彼は「外堀」を米国に守らせることで、内政に専念したのである。
「機動的な財政出動」と称されたアベノミクスは、経済政策であると同時に、高度な「封建的再分配システム」であった。
異次元緩和によって溢れ出したマネーは、株高を演出し、企業(経団連)を潤し、公共事業を通じて地方組織(農村・建設)を潤した。
かつて小泉氏が断ち切った「カネのパイプ」を復旧させることで、派閥政治の不満を封じ込め、党内の求心力を盤石なものにした。
それは、人事権で官僚を縛り(明治)、安保で米国を縛り(米国)、カネで派閥を縛る(幕府)という、「三層の完全縫合」に成功した、極めて洗練された「復古政権」であった。
日本という「歪なリヴァイアサン」は、内部からの革命では死なない。
「党外に党なし」――強力な野党が存在しないのではなく、安倍政権が完成させたこのシステムが、野党(代替案)の存在を必要としないほど強固な「安定」を提供してしまったからである。
このキメラが倒れる時があるとすれば、それは内部崩壊ではなく、宿主である経済が死ぬか、将軍(米国)が去るか、そのどちらかであろう。
高等教育への支援が日本を復興させる、と会田誠がXで書いていた。
日本の戦後の復興は、戦後に「偶然」起きたのではない。むしろ戦争そのものが、復興のための下地を、皮肉なほど周到に準備してしまった。戦争は破壊であると同時に、国家をひとつの巨大な工場に変える。資源配分、計画、規格、物流、品質、そして何より、人間の配置と訓練。これらが「総力戦」という名のもとに、暴力的に、しかし異様な密度で組み上げられていく。技術開発とは、研究室の机上で美しく完結する知の遊戯ではない。目的が与えられ、期限が切られ、失敗のコストが極端に高い環境で、試行錯誤を反復し、設計・製造・検査・運用までを一気通貫で回す能力の総体だ。戦争は、その能力を、恐ろしい速度で社会の中に注入した。
戦時の研究開発は、単なる発明ではなく、システムの構築だった。たとえば「技術者」という語は、ひとりの天才の顔を連想させがちだが、実体は違う。設計者がいて、解析者がいて、材料の供給者がいて、加工の技能者がいて、検査の手順を作る者がいて、現場に落とし込む監督者がいる。部品表があり、図面があり、仕様があり、誤差の許容範囲があり、標準化がある。つまり、工学的知識と組織的運用が結びついて、初めて技術は社会に実装される。戦争は、その結び目を強制的に太くした。しかも、若者を大量に吸い上げ、時間を奪い、睡眠と健康を削り、失敗に対する許容を奪うことで、訓練を「圧縮」した。倫理的には呪うべき圧縮だ。しかし能力形成の観点だけを冷酷に抜き出すなら、戦争は、最悪の形で最高効率の訓練装置になり得た。
そして戦後。御存知の通り日本は完膚なきまでの敗北を喫した。当然だ。しかし瓦礫と飢えと混乱の中に、奇妙な資産が残った。焼けた街ではなく、焼け残った手だ。軍需のために鍛えられた設計思考、現場の段取り、試験と改善の習慣、そして「とにかく動かす」ための執念。戦争目的が剥ぎ取られたあと、その手は、民生に向けて仕事を始める。工場は鍋を作り、ラジオを作り、やがて車を作る。品質管理という名で統計が導入され、カイゼンという名で現場が賢くなる。輸出という名で世界と接続され、稼ぐという名で生活が安定する。高度経済成長は神話ではなく、忌まわしき制度と虐げられた技能の合成体・キメラだ。そして、その合成の触媒として、あるいは淘汰圧として、戦争という毒が、過去に撒かれていた──そう言ってしまうと、気分が悪いほどに筋が通ってしまう。敗北はしたが、敗北するためには戦わなくてはならず、戦うためには戦えなくてはいけない。奇妙なことに戦えてしまったことが呪いであると同時に祝福でもあった。真珠湾攻撃は、無条件降伏を経て、米国中を所狭しと走り回るトヨタに至った。まともな経済感覚をもっている米国人は一時期まで日本車を買うのがあたりまえだった。
だからこそ、戦後日本の次なる課題は、戦争なしに繁栄を継続することだった。ここが本丸だった。戦争が供給するのは「目的」と「緊急性」と「資源の集中」であり、その果実として新しい「産業」が結ぶのだ。平時の社会では、それらが自然に生まれない。目的は分散し、緊急性は個人の都合に解体され、資源は合意形成の手続きに溶けていく。ゆえに、平時の繁栄には、別種のエンジンが要る。暴力や強制ではなく、自発性と創造性によって、産業の餌を自分で狩りに行くエンジンだ。そこで登場したのが、大学院という高等教育の訓練装置だ、という物語をわたしたちは信じた。研究という名の訓練。論文という名の競技。専門性という名の武器。産学連携という名の橋。これらを通じて、戦争の代わりに「知」が繁栄を準備するはずだ、と。
だが、いつの間にか装置は、別の生き物を量産するようになった。保身に東奔西走するばかりの大学教員だ。大学院が、主体性の発火点ではなく、依存の温床になったとしたら、それは制度設計の敗北だ。研究費、評価指標、採用、任期、ポスト、学会、査読、ランキング。こうした外部条件が、大学教員個人の内側に「餌は上から降ってくるものだ」という反射を植え付ける。申請書の書き方は教えるが、産業という新しい鉱脈の掘り方は教えない。論文の体裁は矯正するが、社会の問題を嗅ぎ分ける鼻は鍛えない。安全な問いを選ぶ癖、失敗しない範囲での最適化、既存の潮流に寄り添うことによる生存。そうした行動は合理的だ。合理的であるがゆえに、群れは同じ方向にしか動かなくなる。
そしてSNSだ。SNSは思想の市場であると同時に、承認の自動給餌機になった。群れは、空腹そのものを叫ぶことで、誰かが餌を投げてくれると学習する。「分かってほしい」「評価してほしい」「誰かが何とかしてほしい」「政府は間違ってる」。鳴く。鳴くことが生存戦略になる。しかも鳴き声は可視化され、数値化され、増幅される。いいね、リポスト、フォロワー。これらは、栄養ではなく興奮剤だ。満腹にはならないが、空腹の感覚を麻痺させる。やがて、いつまでも上から餌を与えてくれるのを求めて、ぴいぴい鳴き続けるトッチャンボウヤのような元雛鳥の群れができあがる。外敵に襲われない巣の中で、口だけが上を向き、翼は畳まれたまま、眼球だけが光る。自分の脚で地面を蹴るという最初の行為が、いつまでも始まらない。
自分の地位が脅かされるときは自分が悪いのではなくいつも政府が悪い。省庁が悪い。国民の教育水準が、頭が悪い。外で何が起きているのか少し頭を働かせてみようともしない。誰かが群れから外れたことを言ったときは袋叩きにして火にくべる。その結果、誰もが同じことばかり言い続けている。
だが、はっきり言っておく。お前が新しい産業という餌を捕るんだよ。お前がやることになってたんだよ。餌を「作る」のでもいいし、「掘る」のでもいいし、「盗む」のでもない形で「奪い返す」のでもいい。つまり、価値を生むという行為を、制度の他人に外注するなということだ。もちろん少子高齢社会は強力すぎる逆風ではあるが、それさえも誰かのせいに陰謀論めいて帰着させる前に一度よく考えてみたらどうか。産業は勝手に湧かない。誰かが、失敗の責任を自分で引き受け、見えない需要を言語化し、未熟な技術を鍛え上げ、供給網を組み替え、法や倫理の地雷を避け、顧客の怒りと無関心の中で立ち続けた結果として、ようやく姿を現す。論文の引用数のように、キーボードを叩けば増えるものではない。獲物は森にいる。森に入った者だけが、血の匂いと風向きを知る。
お前たちは選択と集中ではなく研究者の自発的な興味や関心が大事という。
では聞くが、お前たちはお前たちが学生だった頃の自分たちに恥じることはないだろうか。
お前たちは、お前たちが知りたいと思ったことを、お前たちが知りたいと思ったかたちで、明らかにしつつあるのか。
わたしは大学の門をくぐったとき、自分が畳の上で安らかに死ねるとは思わなかった。畳の上で死ぬというのは、単に死に場所の話ではない。生が、社会と和解しているという感覚だ。努力が見返りに接続し、未来が計算可能で、家族が暮らし、老いが制度に回収されるという約束だ。だが、あのときのわたしには、その約束が見えなかった。見えなかったというより、最初から信じる気がなかった。自分は、本と論文と電線の塵芥の中で、目を開けたまま息絶えるのだと思った。研究室の片隅で、半田の匂いと紙の埃にまみれて、未完成の仮説を握ったまま、呼吸だけが止まるのだと。
なぜそんな死に方を想像したのか。たぶん、それは恐怖ではなく、ある種の誓いだったのだろう。畳の上の安寧を最初から目標にしない者だけが、森に入れると。森に入るとは、制度の外側に一歩出ることだ。誰も餌をくれない場所に行き、自分の手で何かを捕まえることだ。捕まえられなければ飢える。飢える可能性を引き受ける者だけが、捕まえる可能性を持つ。そういう単純な力学を、大学に入った頃のわたしは、たぶん予感していた。戦争をする国家という本質的な暴力装置に大学そのものを重ねて見ていた。
戦後の復興が戦争によって準備されたのだとしたら、戦後の次の繁栄は、戦争ではなく、わたしたち一人ひとりの「狩り」によって準備されなければならない。制度は餌箱ではなく、森へ向かうための靴であるべきだ。大学院は巣ではなく、飛び立つための筋肉を作る場所であるべきだ。SNSは鳴き声の競技場ではなく、狩りの情報を交換する地図であるべきだ。そうなっていないなら、装置を叩き壊すか、装置の使い方を変えるしかない。鳴くのをやめて、翼を伸ばして、地面を蹴るしかない。
最後に、あの想像に戻る。目を開けたまま息絶える、というのは、救いのない悲観ではない。目を閉じる暇も惜しんで見ていたかった、ということだ。世界の配線の仕方、言葉の連結の仕方、仮説の跳ね方、そして価値が生まれる瞬間の、あの微かな火花を。もし本当にそういう最期が来るなら、せめて塵芥の中に、誰かの餌になる小さな骨を残して死にたい。鳴き声ではなく、獲物の痕跡を。上から落ちてくる餌ではなく、自分で森から引きずってきた何かを。畳の上で死ねなくてもいい。だが、巣の中で口を開けたまま死ぬのだけは、御免だと。
お上を叩くのは簡単だ。叩いても腹は減らないからだ。制度を呪うのは気持ちがいい。呪っても給餌は止まらないからだ。君たちの批判は刃物ではない。換気扇だ。臭いを抜いて、建物を延命する装置だ。君たちは自由の名で柵を磨き、純粋の名で鎖を正当化し、公共性の名で自分の安寧を公共財にすり替える。いつまで巣の縁で鳴くのか。餌は捕れ。捕れないなら黙れ。黙れないなら巣を出ろ。——平和の繁栄は、配給では続かない。
某テレビ局の番組で、自民党・維新の会・参政党を「強くてこわい国」を目指す勢力として分類したフリップが炎上しているらしい。「偏向報道だ」「レッテル貼りだ」とネット上では大合唱が起きているわけだが。
正直、何に怒っているのか全く理解できない。
あれ、ただの「事実陳列」だろ?
誹謗中傷でもなんでもない。彼らが掲げている政策、語っている未来像を素直に解釈すれば、どうあがいても「強くて(軍事力マシマシで)こわい(国民を統制する)国」にしかならないからだ。
むしろ、オブラートに包まずによく言ったと褒めるべきレベルなんじゃないの?
まず「強い国」の部分。これ、彼らが一番やりたいことの筆頭だろ。
「国を守るため」という美名のもとに、数兆円単位の金が兵器に消えていく。ミサイルを買います、戦闘機を作ります、敵基地攻撃能力(反撃能力)を持ちます。
やってることは完全に「軍拡競争への参加」だ。
周辺国との対話を諦め、「力には力で」という思考停止に陥っている。生活が苦しい国民からさらに金を吸い上げ、それを火薬に変える国。これを「強い国」と言わずしてなんと言うのか。
維新なんて核共有(ニュークリア・シェアリング)の議論まで持ち出しているし、かつての「非核三原則」なんて、彼らにとってはただの邪魔な足かせでしかないらしい。
「強い日本を取り戻す」なんて勇ましい言葉に酔っているようだが、その強さを維持するために痩せ細っていくのは、我々一般市民の生活だ。
そしてもっと深刻なのが「こわい国」の部分だ。ここを否定する奴は、彼らの政策の危険性を本当に分かっているのか?
名前だけ聞けば聞こえはいいが、その実態は「国家にとって不都合な情報を漏らす人間、あるいは探ろうとする人間をしょっ引く法律」になりかねない。何が「機密」で何が「スパイ行為」かを決めるのはお上だ。
ジャーナリズムや市民活動が「国益を損なう」と判断されれば、監視対象になり、逮捕される。そういう社会を目指していると公言しているようなもんじゃないか。
これも「有事の対応」を隠れ蓑にしているが、要は「内閣が国会を無視して法律と同じ効力を持つ命令を出せる」という独裁へのフリーパスだ。
一度発動されれば、人権なんて簡単に制限される。「国の安全のため」と言われれば、言論の自由も集会の自由も消し飛ぶ。
そして、その先に見え隠れするのが徴兵制だ。
少子化で自衛隊員のなり手がいない。でも軍拡はしたい。兵器はあるけど人がいない。じゃあどうするか?
「まさか現代で徴兵なんて」と笑うかもしれないが、彼らの「国を守る義務」への執着を見ていると、経済的徴兵制(奨学金返済の免除と引き換えに入隊など)も含めて、国民を戦場に送り込むシステムを作らない保証なんてどこにもない。
異論を許さず、監視し、国のために命を投げ出すことを美徳とする。
これを「こわい国」と呼ばずに、なんと呼ぶんだ? 「美しい国」か? 冗談も休み休み言えよ。
今回、この3党がセットにされたのも至極妥当だ。
・自民党:既得権益と結びつき、長年の政権維持のためにタカ派政策を推し進め、憲法を変えて「戦争ができる国」の仕上げにかかっている本丸。
・維新の会:自民党以上のタカ派であり、新自由主義的な「強者生存」を是とする。改革という名の切り捨てと、勇ましい外交安保論がお家芸。
・参政党:ナショナリズムを煽り、さらに極端な復古主義的・排外主義的な思想で「日本を守れ」と叫ぶ。
アプローチや支持層に多少の違いはあれど、目指しているベクトルは完全に一致している。
「個人の権利」よりも「国家の都合」を優先し、軍事力と統制力で国を維持しようとする点において、彼らは間違いなく同類だ。
「強くてこわい国」というレッテル貼りに怒っている人たちに言いたい。
「強くてこわい国」をガチで実現しようとしている政治家たちと、それに無自覚に賛同してしまっている現状に対して怒るべきなんじゃないのか?
テレビ局は、ただ単に「あなたたちが投票しようとしている先は、こういう国を目指していますよ」と、分かりやすく要約してくれたに過ぎない。
その未来図を見て「それは嫌だ」と思うなら、批判すべきはメディアではなく、その政策を掲げる政党であるはずだ。
盗聴・監視・徴兵・言論統制。そんな「戦前トリバック」な社会がお望みなら、まあ、そのまま支持すればいいんじゃないですかね。
だからあらかじめ言っておくけど、おれはこの世界のだれかが、なにか悪いことをしたって言ってるわけじゃない。
この世界はクソじゃないし、いいこともたくさんある。
けど、会社とかなんとかってのはつくづく人を人として見てないって感じる。
そして、多くの人がそれを当たり前だとおもってる。
評価とか、規範とか、規律とか、意味わかんねーよ。いつも全力でやってるよ。
そんな状況が一日の半分を占めているってどういうこと?
働いてる人も意味わかんねーことを言ってくる。
相手は会話として喋ってるんじゃなくて、規範に則って喋ってるから、まるで意味がない。
規範って誰だよ?
「働くことに意味を求めすぎでは?職場の人間関係は割り切ってやればいいんだよ」
違う。人はどの瞬間でも相手を尊重すべきだ。尊重がない関係なんて地獄だ。
そう割り切らなくちゃいけない状況にあるなら、それはなにかがおかしい、っておれはおもう。
上手くやれないのは、ただ単に、おれが仕事のできない間抜けだからなのか?
会社は人を物のように扱って、おれはそれに屈服してる。
屈服してるなら、それは加担してるのと一緒だ。
いまの職場は十何個目かの職場だから、一般化とかじゃないとおもう。
すべてではなくても、ほとんどの場所が同じシステムを使って動いてるから、
ほとんどの場合働きづらいからって、職場を変えれば済むって話じゃないんだ。
今は耐えていればいつか変わるなんてのも幻想だとおもう。
これは沢山言われてることだけど、
「やるべきことをすべて終えたら本当にじぶんのやりたいことをやろう、なんてことは絶対にできない」
何かを終えたら、何かがやってくるだけだし、今を満足させるのを我慢して、未来に託すふりして逃げ続けてるだけだから。
民主主義ってなんだよ。
おれは「人間じゃない何か」に従ってる。
でも別に誰もわるくない。
この世界はクソじゃない。
ここの意見について論評して
以下、引用部分を経済学・制度の両面から分解して論評します。結論から言うと、
でも「国債があること自体が間違い」は 制度的にも経済学的にも言い過ぎ
「国債は金本位制の名残」は 一部は歴史的に当たるが、現在の国債の役割を過小評価している
これはかなり重要で、Bさん(または引用元)が言いたい核心はたぶんこれです。
後から税で回収する
という順序で動けます。
なので、「国債発行がないと支出できない」という家計的発想は誤りです。
ここが肝です。
金利を安定させる仕組み
ので、「やればいいじゃん」と軽く言える話ではありません。
たしかに昔は
金(ゴールド)との交換制約がある
この意味では「金本位制の時代の名残」という言い方は理解できます。
なので「金本位制の残骸」ではなく、
という方が実態に近いです。
国債廃止論は、MMT界隈で時々出ますが、実務的には難題が多いです。
が出ます。
政策金利(短期)だけで経済全体を制御するのは不安定になりがちです。
国債がなくなると
この意見は、
✅ 「国債がなくても政府支出は可能」という点では、貨幣の仕組みを理解している
❌ しかし「国債は間違い」「金本位制の名残でしかない」は、現代金融での役割を無視して極端
❌ 国債廃止には代替制度(安全資産・金利形成・金融政策オペ)をどうするかがセットで必要
という評価です。
知識問題は3問ぐらいしかなくて、あとは問題で与えられたシステムや処理の設定を理解していけば簡単
毎週毎週標準化の本番稼働
こんなに本番稼働が続くことはこれまでなかった
恐ろしいのは、5年後にこの更新がまた一気にやってくること
子持ち: 2000万
子なし: 8000万
平均的な収入の場合でも、最終的な資産はこのくらいの差が生まれる。
問題は満足に資産形成できなかった子持ちがこれにイチャモンを付け始めたこと。
【はじめに:分析の前提と射程】
その焦点は、「所与のルールと制約条件下において、システムがいかに作動し、どのような均衡点に至るか」を記述することに限定されている。したがって、特定の政治家の資質、有権者の道徳的判断、あるいは個人の選択の是非を評価する意図は一切ない。
本文において個人の主体性や価値判断、「あるべき論」を意図的に捨象しているのは、それらの重要性を否定するためではなく、分析のレイヤーを「制度が生み出す必然的帰結」のみに絞るためである。
結論への賛否は重要ではない。もし論理の断絶や構造的な見落としがあれば、その指摘こそが本稿にとって最も価値あるフィードバックとなるだろう。
最近、19世紀の国家運営シミュレーションゲーム『Victoria 3』の視点で、現在の日本政治――特に先日発表された高市首相による「奇襲解散」――を分析してみると、ある戦慄すべき事実に気づいてしまった。
日本という国は、「民主主義」という皮を被っているが、その中身は特定の「利益グループ」以外が勝てないように調整された、極めて高度な「封建的寡頭政治(オリガルキー)」なのではないか?
多くの人が「なぜ野党は弱いのか」「なぜ経済は停滞するのか」を嘆いているが、システム論で見れば答えは単純だ。この国は意図的に改革が不可能なように、勢力均衡がロックされているからだ。
今回は、2026年の「高市解散」を実例に、日本という国家システムの裏側にある論理を解析する。
まず、今回の解散総選挙について。ニュースでは「大義がない」「奇襲だ」と騒がれているが、ゲーム的視点で見れば、高市首相(プレイヤー)の操作は極めて合理的だ。
通常の民主主義国家のルールなら、選挙は定期的なイベントだ。しかし、日本サーバーには「憲法7条解散」という特殊コマンドが実装されている。
これは、「首相(プレイヤー)の都合がいい時だけ、敵(野党)の準備が整う前に強制的に選挙イベントを発生させ、敵の組織力をゼロにする」という、ゲームバランス崩壊級の強力なスキルだ。
支持率という名の「正当性」が一瞬でも上がれば、即座にこのボタンを押す。これにより、野党は永遠にリソース(資金・候補者)を蓄積できず、万年「デバフ(不利な状態異常)」を受け続ける。これは三権分立というルールを無視した、行政権による立法権への「ハメ技」である。
では、なぜこのような強権的なプレイが許されるのか? それは、この国を支配する利益団体(インタレスト・グループ)の構成が、通常の近代国家とは異次元の進化を遂げているからだ。
ゲームのセオリーでは、工業化が進めば「農村民・地主」勢力は没落する。しかし日本では、「一票の格差」というシステム補正によって、彼らは21世紀になっても最強の「政治力」を維持している。
彼ら(JAや地方議員)は補助金と公共事業を吸い上げ、その対価として鉄壁の「組織票」を納品する。これは近代政党ではなく、システムに守られた「保守の要塞」だ。
本来、改革派であるはずの「知識人」グループが、日本では「官僚機構」に置き換わっている。
彼らの特性は「自由主義」ではなく「権威主義」かつ「現状維持」だ。政治家が選挙パフォーマンスをしている間に、実際の法律(コード)を書いているのは彼らだ。つまり、国の頭脳が保守と合体しているため、改革のトリガーが引かれない。
ここが日本の最も歪な点だ。本来、「実業家」は自由市場を求めて古い地主勢力と戦うはずだ。
しかし日本の実業家は、「護送船団方式」という固有イベントにより、政府の保護下にある。彼らは地主(自民党)に政治献金という名の「保護費」を払い、その見返りに有利な規制緩和を受け取る。
「改革」を叫ぶ実業家が、実は「保守」の最大のスポンサーであるという矛盾。これが「保守の永久機関」のエンジンの正体だ。
これほど歪んだ構造なら、シミュレーション上は民衆の「急進性(怒り)」が爆発して革命が起きるはずだ。しかし、日本は静かだ。なぜか?
日本企業は、終身雇用や年功序列(あるいはその残滓)によって、本来国家がやるべき福祉を代行してきた。これにより、労働者は「会社と運命共同体」となり、ストライキをする牙を抜かれた。
結果、労働組合は機能不全に陥り、国民は政治への怒りを向ける代わりに、「少子化(人口成長率マイナス)」という静かなるボイコット(退出)を選んでいる。
2026年の今、我々が見ているのは、高度な工業力と、中世並みの農業保護と、死に体の野党が同居する、キメラのような国家だ。
高市首相の「君子豹変」解散は、彼女個人の資質の問題ではない。このシステムがいかにプレイヤー(権力者)にとって都合よくできているかを証明したに過ぎない。
経済という巨大なエンジンが、その動力を最も効率よく伝えるために「自民党政治」というギアを選んだ。だから、エンジン(利益構造)を載せ替えない限り、ギア(政治)だけを弄っても車は変わらないのだ。
Google+って当初はHNや匿名でも問題ないTwitterスタイルだったから別にFB相手じゃなかったと思うぞ
途中でなぜか実名主義になってしかも偽名っぽいのはGoogle AccountごとBANしだしたから爆発しただけでw
しかもその後迷走してやっぱり実名じゃなくてもいいですになったし
システムとしてはFollowerのみとか特定のグループのみ公開とかで結構よかったんだけどね
「Googleが本気出せばOpenAIなんてすぐ潰せる」と言う人がいるけど、かつてGoogleが全社運を賭けてFacebookを潰しにいった・・・
『Google+』というサービスがあってだな…。結果惨敗でサ終
Googleはインフラを作るのは強いけど、コミュニティを作るのは絶望的に下手というのがこれまでのお家芸。… pic.twitter.com/5LYEWoywzN— 借金さん。 (@syakkin3) January 22, 2026
「ネットメディアの良い所は短期間の大量消費のシステムが構築されている為、イラストや漫画などのコンテンツにおいては勝者総取り方式ではなく二流クリエイターにもチャンスがある所
世間は消費社会の弊害ばかりに着眼し、表現家への憧れを叶えるユートピアのようなエコシステムが広がっている事に誰も気付いていない」
この事実に、どれだけの人が気づいているでしょうか。
多くの人は「消費されること」を恐れています。しかし、私は断言します。この「高速消費サイクル」こそが、私たち凡人が待ち望んでいた救済のシステムなのです。
なぜ、この環境が「表現者のユートピア」なのか。その構造的な美しさと、私たちが享受している恩恵について、3つの視点から紐解いていきましょう。
かつて、クリエイターの世界は「選ばれた天才」だけのものでした。
出版社や画廊といった「門番」が目を光らせ、一流の技術を持たない者は、打席に立つことさえ許されませんでした。それは美しい世界に見えて、実は多くの才能の芽を摘む冷酷な独裁国家でした。
あるのは「常に新しいコンテンツを飢えたように求めるアルゴリズム」だけです。
このシステムは、あなたの画力が未熟であることを咎めません。デッサンが狂っていても、背景が真っ白でも構わない。そこに「新しさ」や「共感」があれば、等しく拡散のチャンスを与えてくれます。
「作品がすぐに消費されて消えてしまう」と嘆く人がいますが、それは逆です。
「すぐに消えるからこそ、次の席が空く」のです。
もし、すべての作品が100年残る名作だったらどうなるでしょうか? コンテンツの棚はすぐに埋め尽くされ、後発の私たちが入り込む隙間など1ミリもなくなってしまいます。
このサイクルのおかげで、私たちは「最高傑作」を作る重圧から解放されました。「今日の暇つぶし」として消費されることを許容した瞬間、私たちは「質で勝てないなら、スピードと愛嬌で勝負する」という、二流ならではの最強の戦い方を手に入れたのです。
そして何より素晴らしいのが、「1位にならなくても生きていける」という点です。
従来の「勝者総取り」の世界では、金メダル以外は無価値でした。
しかし、このユートピアでは違います。ネットの海はあまりに広大で、ユーザーの嗜好は細分化されています。
このシステムにおいては、トップ層にはなれない「二流(マジョリティ)」であること自体が、親近感という武器になります。
数万人のファンはいりません。あなたの「未完成な魅力」を愛してくれる数百人のコアなファンがいれば、FanboxやSkebを通じて、創作活動を続けていくための糧を得ることができます。
消費社会を批判するのは、もはや古いインテリの懐古趣味に過ぎません。
私たちは、消費されることを誇りましょう。
使い捨てられることを恐れず、次々と新しい自分を市場に投入しましょう。
そこには、天才との比較に苦しむ地獄はありません。あるのは、「誰でも描いていい、誰でも見てもらえる」という、かつて夢見た単純で幸福なサイクルだけです。
さあ、筆を取りましょう。
この手のアホってすぐ日本はーって言い出すけど日本と都合のいい比較対象しか知らないの?
日本のキャッシュレス決済はクソ。ワイは個人経営の好きな店でのまとまった支払いは必ず現金で払う。日本はPOSを通したりクレカを使うと3%前後店側が粗利を削られる搾取システム。タイのPrompt Payみたいな公共インフラ型なら紙に印刷したQRから口座間直送金。手数料ほぼ無料で回せる。 pic.twitter.com/IJl0an5lFz— 🇹🇭 もっさん (@MossannExtreem) January 21, 2026
そうか......強化系が理想だったのだが。
後期の富樫みたいな能力で使いづらい...。
まず前提として、HUNTER×HUNTERの念系統に当てはめると――
理由:
いわゆる
「自分は前に出ないけど、世界のルールを書き換える側」**の念能力者です。
念能力名
― Ads Insert Into Reality ―
直接操らない。
洗脳もしない。
⸻
発動条件(めちゃくちゃ重要)
⸻
「第三の選択肢」や「気になってしまう選択肢」**を挿入する
• 選択肢は必ず
• それっぽく
• 合理的で
• 一見すると無害
つまり、
「なぜかそれを選んでしまった」
「元からそう考えてた気がする」
という結果になる。
⸻
制約と誓約(強い代わりにキツい)
❌ できないこと
⚠️ 重い誓約
• 自分の選択も「これは本当に自分の意思か?」と疑い続けることになる
戦闘での使い方
• 相手が
• 慎重になる
• 余計な準備をする
その「ズレ」を作る
直接殴らない。
「戦わなくていい状況」を作る能力者。
⸻
• フロントに立つより
• 協会
• 裏方
に回るタイプ
「一番面倒だが、一番信頼できるタイプ」
と言われるやつです。
正直に言うと、
いや精神病院に入院して総合IQ出してもらったんだけど、大学生の時やった時と比べて20も上がってたのよ。あ、その時も精神病院で測らされたんだけど。
発達とかの検査ではないやつね。ワイスだかワイズだかいうやつ?しらんけど。
当時102だったのが今122。別人じゃん。
これって誤差とかたまたま出たとかたまたま正解を引いた結果なんすかね、って聞いたら、いや、正確、というようなことを言われた。
俺のAIの使い方としては知らない分野、例えば経済学とか心理学、医学、アウトサイダー・アート、哲学、奴隷制・身分制のこと、国内外の売春の歴史やシステム、各国の障害福祉政策、宗教や歴史、憲法、外国の生活保護制度の比較、戦争や紛争、ジェノサイドの例とパターン、日本文化、奇形の種類とか、挙げればキリないけどヒマさえあればありとあらゆる知的好奇心を満たすためだけに幅広く聞きまくったり調べまくったりして、それぞれ延々壁打ちしまくってディープリサーチもさせまくって深化させたものをタイピングしまくって、noteにまとめるっていうそういう趣味で使ってたのね。
文章はAIに書かせてない。文章とか音楽とか画像とか今なんでもAIが高品質なものを作れるって知ってるし見抜けないようなものもあるって知ってるけど、俺は文章を書くのが好きだからそこは俺がやってるわけ。で、どれもこれもつまみ食いなわけだけど例えば経済学だとケインズのことだけめちゃくちゃ詳しく語れるけどハイエクっていう真反対のことを主張した人のこととかはからっきし知らないしもちろんマルクスもちょっとは常識程度で知ってるけど全然知らないわけ。憲法に関しても権利関係はほぼ網羅してそれらがどれだけ国家権力から国民を守っているかとかは詳しくなったけど憲法9条とかは別にあんま興味ねーしなって感じであんま深くも語れるだけのインプットはなかったりするのよ。
けど、書籍を読むよりも簡単に教養(といっていいのか)が深まりまくった1年だったなーとAIがガンガン進歩する昨年末感慨深く思ってたわけ。
で色々あって措置入院?強制入院?になってあーまたかってなって、2ヶ月閉鎖、スマホ取り上げ、あースマホでAI壁打ちできねー、ヒマー。アー。って感じだったんだけど。
そこでヒマしてたらついでにIQ検査もしときますかってなって。ヒマだったんでじゃあやりますかってなって。
そしたら題名の通り。あとでChatGPTにそんなことが起こり得るのか、と早速聞いてみたいところだが先に増田のお前らにも聞いてみたいなってここに今書いてるわけ。
シンプルに攻撃力ー防御力=ダメージというシステムで、ためるが攻撃力2倍とすると
ためると120ダメージ[100×2ー80]と3倍になるからなあ
攻撃力2倍≠ダメージ2倍なシステムも多いし、こちらの行動で相手パターンが変わり攻撃回数を減らしたいケースもある(端的なのはカウンターを使う相手)。その他にもゲームの設計如何でいくらでもあるだろう。十分にレベルを上げて脳停止状態で戦っていたりすると必要ないだろうが、ギリギリレベルで攻略するなら使う場面は少なくないかと。
人生を楽しむには絶対に性格が良い方がいいと思うのだが、成人して十余年、私の性格はすっかり悪くなってしまった。
私は小さい頃から勉強がよくできて、日本で一番と言われる大学に入った。日本の教育システムは偏差値でランク付けされる傾向が強いため、受験競争を勝ち抜いた私には「自分は頭がよい」というアイデンティティが自然と形成された。
社会に出るまでは、そのことで悩むことはなかった。同級生も自分と同じくらいか、それ以上に勉強ができる人ばかりだったからだ。しかし社会人になると、それまで出会わなかったような人と仕事をする機会が増えた。私が一流企業ではなく、微妙な会社にしか入れなかったというのが直接の原因ではあるが。
「自分は頭が良い」と思うことは「他人の頭が悪い」と思うことの裏返しであり、その時点で性格が悪い。周囲からは常に過小評価されるように感じてしまうし、認識の浅さにイラッとしてしまう。ソフトウェアエンジニアなら、営業畑の人間から「SQLでサクッとやっちゃって」みたいなことを言われ、侮蔑にも似た感情を抱いたことが一度はあるのではないか。
自分の話していることの前提が理解されないことも多い。「本当に頭が良い人は説明もうまい」なんて言うが、あんなの嘘っぱちだ。どうしたって説明できないことは存在する。プログラミングのプの字も知らない人間に、素人がAIで作ったソースコードの問題をどうやって伝えるのか。本当に「頭が良い」ことと、頭の悪い人から見て頭がよく見えることは別物だ。このことが一定真実であるからこそ、始末に負えない。
他人を「頭が悪い」と思ってしまう背景には、知能を数直線上に捉え、優劣をジャッジする価値観が埋め込まれている。現代において、頭が良いことは武器になる。そのことが分かってなければ、知識労働者として頑張ろうなどとは思わないだろう。多くの人は自分の知的能力を中の上だと認識している、という話もあるが。
とにかく私は性格が悪い。頭の良し悪しが全てじゃないことは重々承知しているつもりだが、どうしても同僚のトンチンカンなコメントに苛立ってしまう。自分で物事を進めた方が早いと感じてしまう。そんな自分が嫌になるが、変えられない。そうやって私は、社会から精神的に孤立していく。本当に馬鹿なのは自分自身なのだろうなという虚しさを感じながら。
味方からの援護の他にも
・ダメージ計算次第では、2回攻撃より溜め攻撃の方が実ダメージが多くなる。
([攻撃100-防御50]×2回=100ダメと攻撃100×2倍-防御50=150ダメみたいな)
・相手がカウンターを狙っている、相手が次のターンで防御力が低下するなどの相手側の環境変化。
・システムギミックで特定条件で攻撃するとダメージ増加!みたいなやつのターン数や条件合わせ。
(古いゲームだけどクロノクロスのフィールドエフェクトみたいな)
パッと思いつくのだとこの辺り?
「AIイラスト投稿禁止」を掲げるサイトを見つけて、ホッとしているイラストレーターの仲間たち。
悪いことは言わない。今すぐその認識を改めて、自分の足元を見てほしい。
「AIイラスト投稿と学習を禁止しているから、ここなら安心」とか甘いことを考えているんじゃないだろうか。
お前たちが今使っているその「AI排除サイト」、実は「AIが書いたコード」で動いている可能性を考えたことはあるか?
今、ウェブ開発の現場は生成AIパラダイスだ。エンジニアたちはChatGPT、Claude、Cursorといった生成AIツールを使い、AIにコードを書かせてサイトを構築している。
私たちが「私たちの絵を勝手に学習した泥棒ツール」と憎んでいるものと、本質的には全く同じ仕組みのツールを使って、そのサイトは作られている。
プログラミングコードなら問題がない?そのAIたちは、一体何を学習したと思う?
世界中のエンジニアが血を吐く思いで書いたコード、個人ブログの知見、公式ドキュメント……それらをライセンスも著作権も無視して、好き勝手に学習している。
イラストレーターの私たちが、これまでどれほど苦しめられてきたか思い出してほしい。
勝手に学習され、絵柄を盗まれ、さも自分が作ったかのように出力される。
そんな「泥棒の道具」で建てられた家の中に、お前らは自分の大切な作品を並べようとしているのか?
「AIイラスト禁止」という甘い言葉に騙されて、そのサイトに群がり、友達を呼び込む。
それは、「AIによる略奪によって作られたシステム」を肯定し、支持しているのと同じことだ。
もし私たちが本当に安心してイラストを投稿できるサービスを探したいなら、
「このサイトは開発過程でAIコーディングエージェントを一切使っていません」
と明記しているサイトを探すべきだ。
そんなサイト、今どきほとんど存在しないだろう。 だが、見てみろ。俺が今書いているこの「はてな匿名ダイアリー」はどうだ? ここは生成AIなんてものが蔓延するはるか昔に作られた、はてなの遺物だ。
メンテナンスすら満足にされていない。だからこそ、ここは「AIという病」に侵されていない、数少ない、本当の意味でクリーンな場所だと言える。
「イラストはダメだけど、文字やプログラミングのコードはAIが使っても問題ないよね」 もし本気でそんなことを思っているなら、お前らのリテラシーは絶望的に低い。
文字なら良くてイラストはだめ?そういうことを言っていたからイラスト生成AIに荒らされたんだ。きっと次にはイラストは良くて動画はダメとか言っている。
そんなダブスタを振りかざしているから、AI推進派が鼻息荒く群がってくるんだ。
敵は「AIイラスト」だけじゃない。 AIによって作られたウェブサービスそのものが、私たちの敵かもしれないんだ。
そのサイト、本当に信用できるのか?
よく考えろ。
いま、この転換点において、皆さまとご一緒できることを光栄に思います。同時に、私たち国内SIerにとっての責務でもあります。
本日は、世界の“秩序”の断絶、心地よい物語の終わり、そして、巨大な力を持つプレイヤーの競争がほとんど制約を受けない厳しい現実の始まりについてお話しします。
しかし同時に、国内SIerのような「中堅の担い手」は無力ではない、と申し上げたい。私たちには、信頼・安全・持続可能性・顧客の主権・データの保全といった価値を体現する新しい秩序を、実務から積み上げていく力があります。
私たちは毎日のように思い知らされています。いまは、巨大プラットフォームや巨大ベンダー、地政学リスクを背景にした技術覇権が競い合う時代であること。オープン性や互換性、フェアなルールに支えられた前提が薄れつつあること。そして、強い側が条件を決め、弱い側は受け入れざるを得ない局面が増えていること。
古典的に言えば「強い者はできることを行い、弱い者は耐えねばならない」という構図です。これは不可避だ、これが自然な競争原理だ、と片付けられがちです。そして、その論理を前にすると、私たちには「波風を立てずに合わせる」強い誘惑が生まれます。摩擦を避けるために順応する。相手に合わせれば安全が買えると期待する。
では、選択肢は何でしょうか。
1978年、チェコの反体制知識人ヴァーツラフ・ハヴェルは『無力者の力』という論考を書きました。そこで彼は、体制がなぜ維持されるのかを問いました。
彼の答えは、一人の店主の例から始まります。店主は毎朝、店先に標語を掲げる。「万国の労働者よ、団結せよ!」。本人は信じていない。周囲も信じていない。それでも掲げる。面倒を避けるため、従順さを示すため、波風を立てずに“やっているふり”をするために。そして、どの通りの店主も同じことをするから、体制は続いていく。
暴力だけではなく、人々が、内心では虚構だと知りながら儀式に参加することで、体制は維持される。ハヴェルはこれを「嘘の中で生きる」と呼びました。体制の力は真実ではなく、皆が真実であるかのように振る舞うことから生まれる。そして脆さも同じところにある。たった一人が“看板を外す”だけで、幻影にひびが入る。
いま、企業としても、業界としても、私たちは「看板を外す」時です。
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長い間、ITの世界には「ルールや標準が機能し、相互運用性が担保され、勝者も敗者も一定のフェアネスの中で競争できる」という物語がありました。国内SIerも、その物語の上で成長してきた面があります。標準化、ベストプラクティス、認証制度、ガイドライン、そしてグローバルに広がる巨大なプラットフォーム。私たちはそれらを称賛し、活用し、その予測可能性の恩恵を受けました。
もちろん、その物語が“部分的に虚構”であることも知っていました。強い側は都合が悪いときに例外を作れること。ルールの適用が非対称になり得ること。互換性や標準が、実態としては特定のエコシステムに誘導する装置として働くこと。そして、契約条項、価格体系、APIの変更、提供地域や機能制限などが、力関係の影響を強く受けること。
それでも、その虚構は便利でした。巨大プラットフォームが提供してきた“公共財”も確かにあった。スケールする計算資源、安定した開発基盤、セキュリティ機能、グローバル展開の足場、部品としてのOSSやツールチェーン、紛争を減らす共通言語。
だから私たちは、看板を掲げ続けました。「オープン」「中立」「相互運用」「ベストプラクティス」という言葉を、実態が追いつかない場面でも口にしてきた。そして、言葉と現実のずれを大きく指摘することを避けてきた。
率直に申し上げます。いま起きているのは“移行”ではなく“断絶”です。
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過去20年の間に、金融危機、パンデミック、エネルギー制約、半導体不足、サプライチェーン混乱、サイバー攻撃の常態化、そして地政学リスクが、極端なグローバル統合の脆さを露呈させました。
さらに近年、巨大な力を持つプレイヤーが「統合そのもの」を武器として使い始めています。値上げや課金体系変更が交渉力になる。契約や利用規約、認証・ID、クラウド管理基盤が実質的な拘束力になる。提供停止や機能制限、地域制約が、企業や組織に圧力として作用する。サプライチェーンが“突かれる弱点”になる。
「統合すれば相互利益」という前提のまま、“嘘の中で生きる”ことはできません。統合が従属の源泉になった瞬間、前提は反転します。
かつて中堅の担い手が拠り所にしてきた「みんなで決めるはずの場」も弱まっています。標準化が追いつかない。デファクトが事実上のルールになる。透明な合議より、エコシステムの都合が優先される。結果として、多くの企業が同じ結論に向かい始めています。
人材、セキュリティ、データ、クラウドの選択肢、重要部材、運用ノウハウ、AIの基盤、そしてサプライチェーンにおいて。
自分で守れない者は、交渉の選択肢がありません。ルールが守ってくれないなら、自分たちで守るしかない。
ただし、行き先を直視すべきです。全員が要塞化すれば、コストは上がり、分断は進み、脆さは増し、持続可能性は下がります。
そしてもう一つの現実があります。巨大プレイヤーが、ルールや価値の“建前”すら捨てて、露骨に取引主義へ傾けば、関係性を恒常的に収益化することは難しくなる。顧客もパートナーも、保険を買い、選択肢を増やし、分散します。これは「主権」を取り戻す動きです。かつてはルールに支えられていた主権が、これからは「圧力に耐えられる能力」によって支えられるようになる。
古典的なリスク管理はコストがかかります。しかし、そのコストは共有できます。レジリエンスへの共同投資は、各社がそれぞれ要塞を作るより安い。共通標準は分断を減らす。相補性は正の和を生む。
国内SIerにとっての問いは、「この現実に適応するか否か」ではありません。適応は不可避です。問いは、ただ壁を高くして閉じこもるのか。それとも、より野心的なことができるのか、です。
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私たち国内SIerは、比較的早い段階で警鐘を受け止め、姿勢を変え始めました。
「日本で長く通用した前提」、つまり、既存の取引慣行や、系列的な安定、特定ベンダーとの強固な関係が、そのまま将来の繁栄と安全を保証するという前提は、もはや十分ではありません。
私たちの新しいアプローチは、いわば「価値観に基づく現実主義」です。別の言い方をすれば、理念を持ちつつ、現実に即して動く。理念と実務の両立です。
顧客と社会に対する説明責任。セキュリティとプライバシー。データの保全と可搬性。人権と安全に関わる領域での慎重さ。重要インフラを支える品質と継続性。
同時に、私たちは現実主義でもあります。進歩は多くの場合、段階的です。利害は一致しないこともある。すべてのパートナーが同じ価値観を共有するわけではない。だからこそ、目を開いたまま、戦略的に、広く関与する。世界を「あるがまま」に扱い、「こうあってほしい世界」を待たない。
私たちは、関係の“深さ”を価値観に合わせて調整します。影響力を最大化するために、関与は広く、依存は偏らせない。流動化する秩序と、その先にある賭け金を踏まえて、現実的に動く。
そして今後は、価値の強さだけに頼らず、「強さの価値」も積み上げます。
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人材育成と採用、設計・開発・運用の標準化、サイバーセキュリティ、AI活用、検証環境、そしてミッションクリティカルを支える運用力。加えて、特定技術への過度な依存を減らし、移行可能性と可搬性を高める。
生成AI、データ基盤、ゼロトラスト、ソフトウェアサプライチェーン対策、Observability、そして重要領域の内製力強化。これらは“コスト”ではなく、交渉力と継続性を生む“資本”です。
守りは、事後対応ではなく、設計・調達・運用に埋め込みます。国内産業の裾野とも接続し、調達・開発・運用の循環を厚くする。
特定の巨大プラットフォームや単一のモデル提供者に賭け切らない。複数のクラウド、複数の実装選択肢、複数の調達経路、複数の人材パイプラインを持つ。
グローバル課題への対応も、論理は同じです。論点ごとに連携の形を変える「可変幾何学」でいきます。
データ主権では、顧客がデータの所在とアクセスを決められる設計原則を共同で整備する。
標準と相互運用では、地域・業界をまたぐ参照アーキテクチャとオープンAPIの合意を積み上げる。
AIでは、特定の覇権や特定の巨大クラウドに“二者択一”を迫られないよう、モデル、データ、評価、ガバナンスの選択肢を確保する。
これは、甘い理想論ではありません。機能不全になりつつある“建前の場”に頼り切ることでもありません。論点ごとに、動ける相手と動く。必要なら多数派を作る。そうして、将来の挑戦と機会に備える、密度の高い接続網を作るのです。技術、投資、人材、運用、文化のレイヤーで。
国内SIerのような中堅の担い手が連携しなければならない理由は単純です。設計図の会議に席がなければ、要件は上から降ってきます。席がなければ、食卓のメニューになる。
巨大プレイヤーは単独でも戦えます。市場規模、研究開発、資本、影響力がある。しかし国内SIerは違う。にもかかわらず、巨大プレイヤーと一対一で交渉し続ければ、交渉は弱い立場から始まります。提示された条件を受ける。自分たち同士で「より従順な方」を競い合ってしまう。
それは自律ではありません。従属を受け入れながら、自律しているふりをすることです。
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「真実の中で生きる」とは何か
ここで、ハヴェルに戻ります。
私たち国内SIerが「真実の中で生きる」とは、どういうことでしょうか。
「オープンでルールに基づく、互恵的な統合」という言葉を、現実がそうでないのに唱え続けない。いまを、巨大プラットフォーム競争が激化し、統合が交渉力と拘束力の源泉として使われる時代だと認める。
第二に、一貫して行動することです。
相手が誰であれ、同じ基準で評価する。都合の良い相手の一方的変更には沈黙し、別の相手には批判する、という態度は「看板を掲げ続ける」ことになります。
第三に、自分たちが信じるものを“機能する形”で作ることです。
標準準拠を唱えるだけでなく、移行可能性を担保する設計、相互運用の実装、透明な運用ルール、監査可能なガバナンスを、合意と実装として積む。復古を待たずに、動く枠組みを作る。
強い国内基盤を持つことは、企業にとっても最優先です。分散は経済合理性であるだけでなく、誠実な姿勢を貫くための物質的基盤です。報復や圧力に脆弱な状態のままでは、理念を語る資格すら維持できない。
---
さらに、私たちは理解しています。いま起きていることを直視し、合わせて自分たちを変える決意が必要だということを。
この断絶が求めるのは、単なる適応ではありません。世界をあるがままに見て、誠実に語り、国内で強さを作り、連携して動くことです。
古い秩序は戻りません。嘆いても戦略にはならない。ノスタルジーは戦略ではありません。
しかし、断裂の先に、より良いものを作ることはできます。より強く、より公正で、より持続可能な形を。
それが、中堅の担い手である私たちの仕事です。要塞化した世界では失うものが大きい一方で、本当の協働が成立する世界では得られるものも大きい。
虚構に合わせるのをやめ、現実に名前をつけ、国内で強さを作り、連携して動く力です。
離島への航空便がマイル目当ての客で埋め尽くされ島民が乗れない問題が話題になっている。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.bengo4.com/c_18/n_19897/
10年ほど前にクロアチアの離島を旅したときに「なるほど地元民のことを考えているなぁ」と思った予約システムがあったので語りたい(今はシステムが変わっているかもしれないので、旅行を計画している人は増田ではなく最新の旅行情報をチェックしてほしい)。
クロアチアはアドリア海に面していて、フヴァル島やコルチュラ島など多数の風光明媚な離島がある。増田はそのうちのひとつを家族旅行することになった。とりあえず島の宿を予約しておいて、「まあ、島への便は現地で何とかなるやろ!」と思ってクロアチアに向かった。
ところが、家族は増田が島への便を予約していないことを島への出立前日に知って狼狽し、夜だというのに船会社の受付まで行こうと言いだしたり(当然閉まっていた)、ホテルの窓口で予約手段を聞き出そうとして失敗するなどしていた。どれだけ頑張ってもネット上では島への船便が取れない。最終的にバスを予約し、フェリーで島に向かうことになった。
さて、島に着いたので、さっそく2日後の本土へ戻る船便を予約しようと、船会社の営業所に向かった。そこで知らされたのは、島に発着する船便は前日から受付で対面販売だから今来ても買えないという話であった。つまりウェブ予約などはできないのだ。翌日営業所に向かうと、観光客が帰りの便を取るために列に並んでいた。
なるほど。これなら島民が本土に行きたくなったときも、前日に営業所に行けばいいのだ(増田が知らないだけで、島民はIDを見せればその前から予約できたりしたのかもしれない)。最悪当日朝に営業所に駆け込めば何とかなる可能性はワンチャンある。ツアー客のドタキャンで船が空なのに島民が乗れないとかそんな問題も起きない。とにかく現地に来なければ何もできないのだから。マイル目当てで島に着いてすぐ引き返すなんていうのも無理だ。これで島に来た外からの旅客は、宿代なり喫茶店代なりのお金を島で支払う必要があるだろう。島民は船に乗れ、島にお金も落ちる。観光客は苦労して行ったリゾート地の思い出を自慢できる。Win-Winの三方良しだ。
ただし結果として、島にアジア人は全然いなかった。ドゥブロヴニクなんて街の半分がアジア人なんじゃねえのというくらいにアジアからの観光客が大勢来ていて、レストランに日本語やタイ語のメニューがあったりしたし、近場のコトルでも日本からのツアー客を見かけたりしたのだが、島に来ているのは白人観光客ばかり。たしかに、ヨーロッパ在住で数週間の休暇が取れるとかじゃないとこんなとこ来れんわな。下手するとホテルの予約をキャンセルする必要が出てくるかもしれないわけで、多くの日本人が旅行を尻込みするには十分なハードルだ(増田の家族が来たのは「増田が予約しているだろうと信じていたから」であり、仮に予約していないことを知らなかったら旅程を取り消していたかもしれない)。
さて、多良間島にマイル修行僧が押し寄せて島民が乗れなくなっている問題について。はてブでは、「島の役場からしか予約できない席があってもよいのでは」という案が出ていて、個人的にはそれに賛成。すべての席をそうすると純粋な観光客が来れなくなってしまうので問題があるけれど、一定の席を多良間村役場からでないと予約できないようにしておいて、島の住民じゃないと予約させないようにすれば、最低限の島民の足は保たれるのではないか(帰省しにきた島民の親戚とかは柔軟な判断をすればよい。この人口規模なら「ああ、◯◯んとこの息子か!」で通るだろうし)。
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具体的に何が原因かと書かれてないんだけど、この場合何が原因なの?
「国論を二分するような大胆な政策、改革にも果敢に挑戦していく」
高市早苗首相が総選挙に向けて放ったこの言葉、背筋が凍る思いがした。
具体的に「何を」するのかは言わない。詳細は選挙後に決める。でも、私に任せろ。
これ、完全に白紙委任状(カルト・ブランシュ)を求めてるだけだろ。
歴史を少しでも知っている人間なら、この手口に既視感を覚えるはずだ。
危機を煽り、「強い指導者」を演出し、具体的なプロセスはすっ飛ばして全権を掌握しようとする。
かつてドイツで全権委任法が成立した時も、最初は「決断できる政治」が歓迎されたんじゃなかったか?
「ヒトラーのやり方と同じ」と言われても反論できないレベルで、構造が酷似している。
本当に恐ろしいのは、この「中身のない強権」に対して、諸手を挙げて賛成している支持層だ。
お前ら、本当に大丈夫か?
「高市さんなら日本を良くしてくれる」「サヨクが発狂してるから正解」とか、思考停止もいい加減にしろよ。
例えば、徴兵制。
「国を守る気概」とか美しい言葉で飾って、若者を戦場に送り出すシステムができない保証なんてどこにもない。
「まさかそんなこと」って笑ってる奴、その「まさか」が起きた時にお前の子供や孫が取られても、同じように笑ってられるのか?
「スパイを取り締まる」という大義名分があれば、一般市民のLINEやメールを政府が自由に覗き見てもいいと思ってるのか?
「やましいことがなければ堂々としていればいい」なんて言えるのは、権力が絶対に暴走しないと信じているお花畑だけだ。
そして、言論統制。
放送法の解釈変更をちらつかせた過去を忘れたわけじゃないだろう。
政府に都合の悪いニュースは「偏向報道」として潰され、大本営発表しか流れない世界。
そんなディストピアが、もう目の前まで来ている。
「高市早苗という人間に、白紙の小切手を渡して、好き勝手に国を改造させる権利を与えるかどうか」を問う選挙だ。
保守を自認するなら、本来は権力の暴走を誰よりも警戒すべきはずだろう。
それなのに、思考停止して「高市親衛隊」になり下がっている現状は、滑稽ですらある。
独裁への道は、いつだって「熱狂」と「無関心」、そして「思考停止した信者」によって舗装されるんだよ。
後になって「こんなはずじゃなかった」と泣き喚いても遅い。