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はてなキーワード: 所与のとは

2025-03-16

anond:20250304185238

独身の頃はそんなことも考えてました

結婚における契約法整備が進む中で実態に合わせる形で作られたものなんでしょう

まず書面での約束義務云々の前に、そういう実態があった

そういう実態っていうのは男女が一緒に生活してて、子供がいたり同居の親がいたりするコミュニティーのことね

そういうコミュのだいたいはうまくいってたんだけど、一部では子供配偶者を残して去ったりする人がいて

そうなると残された側は色々生活ちぃ感じになるのね

生活ちぃ人が増えるとコミュ不安定化するもんだから、じゃあこれは治めないとねってことで

婚姻をめぐる文化が醸成されていったってわけ

そんでもって近代になって法整備が進んだ結果、この文化法律に乗せられることになったと

治安の悪化コミュ全体にとっての損失だから

からここでいう「義務」はお互い大事にしあっていた場合とくに気にする必要もないようなことなんだ

情緒的にその義務がだいたい実行されるから

例外の発生を抑制するための約束事なんでしょう

結婚実態について感想を述べるね

まず家族になると決めた男女での生活楽しい、そんで癒される

子供、これはかわいい癒される、理屈を飛び越して希望のものなんだよね

そこにいまの経済的感覚を持ち込むとややこしくなる

経済的感覚ってのは、あたりまえのように自分のもの自分のものである所与の前提としての所有権)とか

労働の対価として賃金があり、市場を通じて必要ものを遠方から取り寄せる必要がある社会様式とか

こういうほとんど無意識享受している生活の土台から生じる感覚が混ざると複雑になる

俺が労働市場で汗垂らした結果所有している資産を家にいる連中に分配しないといけない、不平等だし搾取だしそれは嫌だってなる

経済感覚での思考をいったん収めて直面している現実からスタートしましょう

夫婦で一緒に生活するの楽しいごはんみんなで食べるの幸せだね!

こどもめちゃかわいいね!親父とおふくろもフォローしてくれて助かるね!

この生活維持したいねごはんとか必要だけどどうすればいいかな?

ふむふむ調べたところ今の環境だと労働力を外で売ってそれをコインに変換し、お店で食材に交換できるのか

じゃあ働こう

どっちか子供みてないとあかんね、2人で仕事にフルコミット本末転倒からとりあえず私が仕事してきます

行政のこの紙切れにサインすると、税制面で有利なるね助かるね(婚姻届)

子供戸籍作んないと色々サービス受けらんないしね(婚姻届は新規戸籍を作ることでもある)

現実では先に契約してから生活スタートすることが多いけど

本来の順序的にはこういう思考の流れになるはずなんですよ

実態が先に合って契約はあとから付随してくるものでいいと思います

3、4回目のデートのあとに告白がありそこからのお付き合いという文化も考えてみると変ですよね。

3、4回でお互いのなにがわかるというのでしょうね。告白ってなんかの契約なんですかね

意識を変えるには何はともあれ結婚してゼロベースで生きるのになにが必要か考えなおすと良いことあるかもしれませんね

不倫に関してはキリスト教圏の思想輸入品なので、まあ見直してもいいかもしれないですね

2025-02-20

調剤薬局にて

通院後、調剤薬局に行ったところ、数年ぶりだったので問診票の記入を依頼された。

書き進めると、ジェネリック医薬品についての設問があった。

これまでの調剤薬局では大体「ジェネリック医薬品への変更を希望しますか?→はい/いいえ/説明を聞きたい」みたいな感じだったと記憶している。

しかし今回の調剤薬局では「希望する/どちらでもよい/薬剤師説明を聞きたい」という選択肢だった。



「いいえ」がない。びっくりした。


行きつけの病院固定化してるから遭遇してないだけで、これってよくあることなの?



もし「いいえ」の選択肢記載された問診票であれば、ジェネリック医薬品の可否など気にしなかったかもしれない。

ただ今回は少々デリケートな病状で数年ぶりに通院したことも相まって一気に不安が強くなってしまった。

それはジェネリック医薬品への不安というより、「こういう…なんというか狡いやり方をする調剤薬局なのか…」というショックと不信感で、おとなげなく拒絶反応が出てしまった。


私がジェネリック医薬品に関する設問のチェックをどこにもつけず提出したら、薬剤師説明にやってきた。

ジェネリック医薬品先発薬と同じ有効成分を同量含む云々…先発薬よりも安価で…」というもちろん知ってる話。

なにぶんこちらも医療従事者でもない一般人で、「医者ジェネリック医薬品を選ばない」といった本当か嘘かわからないような噂を耳にしたことがあってもその真偽なぞ分かりようもない。

まぁこだわりはないし、という程度で他の病院にかかることがあればジェネリックを選んできた。

ただし今回は調剤薬局アプローチというか、やり方が汚いなぁというお気持ちなので、理屈もお財布事情関係ない。

口頭で「ジェネリック医薬品は使わないでください」とお伝えすることにした。







帰宅してもモヤモヤしているので増田文字起こし

自分がつまらないことでヘソを曲げたようにも思う。

ただ私は、「本来任意選択できるはずの権利恣意的に取り上げて、所与の条件内から選択させる意思が問診票のフォーマットとして当然のように用意されている」という事実に滲む傲慢さに耐えかねてしまった。




病状とは関係のない気持ち悪さを、処方された先発薬は消してくれない。

2025-02-05

やる気があるから動けるんじゃない。動き始めて初めてやる気が湧いてくるんだ。

というのはまあ割とよく言われてる。

この間もっとラディカルなネット記事を見た。

そもそもやる気なんてもの存在しない。

やるかやらないかだけ。やってる人間遡及的に感じる、あるいは外野が見出すのがやる気という幻想。というのが現段階での実証的な考え。

やる気がないなんてのはやらない事への言い訳しかない。

的なことを言ってた。

まあビデオゲームじゃないんだし、ゲージがあってそれが増減するようなパラメータとして存在する訳じゃないのは確かだと思う。

ただ、それじゃあ結局の所「やる」と「やらない」を分かつ要因っていうのは何なのよって思った。そこが一番肝心なんじゃねえの。

実際問題、同じような状況でもやる人間とやらない人間っていうのはやっぱり分かれる。

痩せたいけど運動食事制限しんどいから嫌だ、なんてジレンマに悩まされる人間ゴロゴロいる。痩せに向けたアクションを取るか、痩せるのは諦めて現状を維持するかの二つに一つ。

後者に走りがちではあるが、前者を取る人間もいる。全ての要素が同じなら結果も同じなのだうから、何かが違うに違いない。

そこでやる気なる概念を持ち出せないのなら、何が決定的な要因なのか。

意志とか決意とかなんてのも同じような内容を指す言い換えの表現しかないだろうし、やる気など無いと言うのならそれってもう自由意志否定同義なのではないか

まあおれも自然法則から独立した意志の力なる聖域があるともあんまり思ってないけど。選択をしている意識があるという実感くらいは大切にしたいが……

じゃあ決定論的な話になってしまうのか。

痩せようとする人間もそうでない者も、その選択は全て所与の必然連鎖に従った運命だったという事になるのか。

はいそうです。運命です。と露悪的に開き直るのが割と最近トレンドにあるような気がする。

社会制度規範は依然選び取る力を前提に構築されてるし、その辺はあんまり触れたくない所なんだろうけど。

開き直るのが良いのか目を逸らすのが良いのかは分からんな。バランスか。

まあ巷で言われてるようなのはまれ育った環境だとかにおいて個人が抱く社会への無力感や、自分では選べない生得的な要素へのコンプレックスだとかで、決定論めいた世界観に基づく根本的な諦念めいたものとはまたちょっと違うか。

意外と自由意志のものには疑いを持ってないのかもしれない。一応チャンスはあるけどそんなものほとんど役に立たないんだ!そんなもんを持ち出して自己責任論を偉そうに展開するな!的な怒りか。

おれはあんまりそういう考えには与しないが。チャンスが本当にあるならいいじゃん。結果がどうあれその道を選び取った自分を愛せれば美しい生き方だろ。望む結果が得られたら勿論万々歳だし。と思う。

実は抗う機会を選び取るか否か、そもそも選択肢があったかのように思えた場面も含めて全て筋書きの範疇に過ぎない、ってんならあんまりにもじゃないですか……とは思うが。

痩せる方法なんかネットで調べりゃいくらでも効率的セオリーが出てくる。プロミュージシャン金持ちを目指すアプローチだってなんぼでもある。

一日も人生も有限なんだし、そういうのも大事かもしれない。

ただいくら効率的だろうが再現性が高かろうが、それが実行・実践されなければ何の意味もない。まず実行というハードルがある。

でもやりたいと思った事を即座にやれるような活力溢れる人間ばかりでもない。

じゃあ実行する具体的な方法論は?

さなハードルから越えていく。自分自分に制約を課す。他人の力を借りる。

じゃあそれを実行する具体的な方法論は?

それは……そんなもん、お前そんくらいのやる気が無いなら止めちまえ!とやはり根性論に走らざるを得ない部分というのはあると思う。

その程度のモチベーションならそれはやりたいと思っていないという事だ、なんて言った所でもやはり根性論めいた話の域を出ない。

ただしやる気など存在しない……

とか色々考えてると、que sera seraとかwhatever will be will beみたいな言葉だったり、個を全の一部と位置付ける東洋思想だったりがスッ……と染み渡ってくる。

否応なく抱いてしま決定論的な世界観主体的な納得や満足の実感との両立は理屈問題ではない気がするが、理屈問題ではないも気付くのにも理屈を捏ねるのは役立つのかもしれない。

2025-01-26

30歳になったくせに未だに自虐しか自分を守れないクソなお前へ

あのさ。勘違いしてるみたいだから一応言っとくけど。

人間、30越えたら自虐する権利を失うのよ。

まれから30年が経った瞬間、お前にできることはもう、現状を所与のものとしてありのまま受け入れることだけ。

30歳になったくせにロクに仕事もできない。年収も低い。結婚もしてない。当然子どももいない。休日無為しか過ごせない。もはや友達すらいない。

早くもボロボロキャリア。老化してきた身体。未成熟精神

そういう諸々の不足ごとに対して、お前に自虐する権利はもうない。

なぜなら自虐は、ただ若いからという理由で許されてるだけの逃げ方だから

何かの拍子にお前の人生の弱点を突かれたとき自虐ヘラヘラ逃げて、お前自身人生の欠落が、「いつかは埋まるはずなんですけどね」みたいな態度をとることはもはやできない。

お前にはもうそんな可能性などないからだ。

これから先、正論で斬られたとき、お前にできるのはただうなだれることだけ。

しょぼくれて肩を落とすことだけ。

黙って「欠落した人間」の烙印を押されろ。

それ以外選択肢はない。

お前がこれまで手に入れることができなかった、あるいは失ってきた人生の色々は、お前の人生にはもう永遠に充足されないものであって、それが埋まる「いつか」を担保自虐することは、今後一切許されない。

だいたい、30歳のオッサンバサンの自虐を聞かされる相手の身にもなってみろよ。

分かったら受け入れろ。拒否権はない。

お前の人生には足りないものがたくさんある。

そしてそれらを手に入れることな永遠にできない。

お前は欠落した人間だ。この先死ぬまでずっと。

受け入れろ。

分かったらもう二度と自虐をするな。考えるな。口にするな。

黙って生活しろ

以上。

2025-01-13

生物の仕組みって怖いくらいに出来すぎてる。偶然の積み重ねというにはあまりにも秩序立っていて何らかの意思を感じずにはいられなくなる。

でもそれって生命生存という現象特別視しているからこそそう感じるのかもしれない。

世界は在るように在るだけで、我々が生命と呼ぶような連鎖反応もまたその辺に石が転がっていることと等価しかない。

それだけの事なのに、生きて何かをしたり感じたりする事をある種の目的と捉えてしまう。

それを実現している、細胞なんやかんやするような動きに対して遡及的に手段という位置づけを付与してしまうから、ただ在るだけのもの人間の叡智を越えた精緻手法に見えてしまう。のかもしれない。

所与の万物の流れにある動きをスゴい、美しいと感じるような感覚を持たされているのも、それはそれでなんか出来過ぎてるなって思うけど。

そんな考えすらもまた生まれた瞬間から、いや神がブレイクショットを打った瞬間から決まって予定調和なんじゃない?と無限メタを展開出来てしまう。

決定論世界観なんてあまりに味気ないし、積極的に支持したいもんでもないけれど。理屈として考えたらやっぱり、自然法則から独立した自由意志なる聖域がどこにあるんだって話だし。

ジョジョの6部(と5部)の世界観は未だによう分からんけど、最近になって決定論的な世界観と意志の両立にあまり矛盾を感じなくなってきたな。

所与のルールに基づいて必然連鎖に身を委ねるしかないのかもしれん。自分という存在をそれたらしめる、真に自由意志なんてものはないかもしれん。けども、操られてるとかそうじゃないとかはどうでも良くて実感というものがあればまあ……って感じだな。

とか考えるのもやっぱり決まり切ったことで……とやはり無限メタを取られてしまうし、忘却で蓋をするに限る。

というのもまた決まり切ったことで……とか永遠に繰り返してしまうな。

思考停止というのは絶対的な何かを定める時ばかりでなく、こういう場面でも訳に立つんだな。やはりブッディズムなのか。欲を捨てる気にはなれないけどな。

2025-01-09

anond:20250108193248

これ、この増田自身がまず罵詈雑言をふっかける側で、分断を煽りがちで、陰謀論者並に自論への執着が激しい(から視野の広い普通の人の言葉陰謀論者や工作員のものとみなしてる)人である可能性が高いと思う。

タイトルの時点で「民度」なんていう罵詈ワード飛ばしてるし、

はてなヤフコメ」という分断や、「賢い俺と愚かなお前ら」という暗黙の対立構造を作り出してるし、

「そこらじゅうにある」「覗く気になれないがお前ら大丈夫なの」など主観的な印象にすぎないものを周知済かつ所与の前提であるかのように吹聴する傲慢さは、ふだんから持論をゴリ推し他者に耳を貸したり自省したりする習慣がない人であることを感じさせる。

こういうパーソナリティ増田に見覚えがある。自称愛国者日本スゲー論を日々書いている一方で、中韓あたりのプロダクトを褒める人に強烈な悪意と粘着を見せている増田じゃないか

2025-01-05

みんなの就職氷河期エピソード教えて

なんでも最近若い子は売り手市場所与のものだと思ってるくさくて、氷河期存在を信じられないんだって

なのでみんなの氷河期エピソードを集めた特級呪物を作って若い世代に広めたいと思います

ちなみに筆者はリーマン氷河期世代なので、その前の氷河期リーマン氷河期もどっちもウェルカムです。

筆者のエピソード

MARCH卒だけど就職まらないまま卒業して派遣非正規仕事に就く奴が一定数いた。

・有名大学向け合同説明会外食産業会社が多数参加していて、しか採用人数の多さから結構人気だった。

 やたらでかい声で説明する人事とかいて会場側に注意されていた。

バイト先のレストランチェーン東大卒入社したと話題になっていた。「東大卒のくせに」と先輩から言われるのが何より辛いということだった。

就活不安を抱える学生向けの怪しい就活塾が跋扈していて、中には月謝20万とか払わされるやつが問題になっていた。

みなさんのエピソードお待ちしてます

2024-12-23

管理職罰ゲーム化とか親ガチャかい言葉が嫌いなんだ

管理職の誘いをわざわざ断る理由がわからない。

給料が上がるし、履歴書に箔が付くから転職もしやすくなるんじゃない?

経験つめるし、実際になってみてダメだったらすんませーんだめでしたーで降格すればいいだけだし。

基本的メリットしかなくない?

マネジメント方面じゃなくて技術を極めたいとかなら話は別だろうが・・・

  

今のポジションが居心地良いみたいな話もさ、

ふつうに考えて会社を取り巻く環境は流動的に変わるわけで、環境の変化はいつか必ず訪れる。

から、外的な力で今のポジションがなくなったり、様相が変わる可能性は相当高いわけで、

そういうリスクも混みで今のポジションが~と言っているのかな?

 

ときどき思うのは、与えられた環境を当たり前のものとしている人が多いってことなんだ。

多くの人は環境所与のものであると思いこんでる。

でも、目の前の環境意識して作るものなんだよ、誰かが作ったものなんだよ。

から、今のポジションが~という主張だけするのは、「私のために働きやす環境を作ってよ~、そういう環境が欲しいよ~」と子供が親に言っているようなもので、

言い換えると、自分の命運を他人に握らせておきながら、自分の都合の良いように環境を作れ、と無理筋を通そうとしているってことなんだ。

ガチャって言葉流行ったけど、これも同類だと思う。

 

上司が嫌いなら自分上司になるしかないし、会社が嫌いなら自分会社を作るしかない。

今のポジションがいいなら今と同じような環境を作ることができるポジションにつくべきだし、

ガチャがいやならガチャ要素なくて平等に生きられる環境を作るしかない。

 

みーんな文句ばっか言って行動しない。

楽したいだけじゃん。

働きやす環境、生きやす環境はテメーで用意しなよ。

2024-11-29

anond:20241129123323

学部で習った知識を得意げに持ち出してきたな馬鹿めが。

それ以降、なにも新しいことを勉強しないまま来た雑魚がよ。

 

では、ガザニガの話をしてやろう。

彼は脳科学者で、著書『脳の中の倫理』で、人間の脳には「倫理モジュールがある」と書いている。

このモジュールは、味方を害すること、詐欺をすること、不公平な扱いをすること、ボスに逆らう事、掃除ができていないこと、などの事項に反応し、それによって嫌悪感情を引き起こす。この嫌悪感情こそが、「悪」だと感じることだというわけだな。

個人的には、掃除ができてないことは生まれつき「悪」だと感じる、という話が好きだね。どんな原始的社会でも、掃き清められていない善の神殿などないわけだ。納得感があるよな。

 

この話のポイントは、脳が引き出しているのは、あくまでも嫌悪感情だということだ。

論理的判断などではない。

毒虫を見てキモッ、と思うのと同様、悪を見てキモッ、と思うのが社会動物たるヒトである

実際、論理的整合性が取れない場面でも、ヒトは感情にもとづいた行動をしたがる。著書には沢山の例が載っているが、例えば、キモイ悪を罰するために、自己利益や善の擁護を投げ捨てたりする。

 

あのな、ヒュームミルは、論理的合理的に善を語ろうとしたよ。その成果は偉大だが。

しかしそれは、「合理的に言って、どういう倫理を定めることが、最もメリットか」を語ったに過ぎないんだよ。法を制定するときには便利だが、しかしこれは、本当に「善」とか「倫理」の正体を、事実として語ったものなのか?

違うよな。それは理想であり空想なんだよ。

無知のヴェールなどこの世には存在しない。

善・倫理とは、理想なんかではなくて、ヒトという生物所与の性質気持ち、傾向である、と言ったほうがいい……かもしれないんだよ。少なくとも現実の反映を語るならそっちだよ。現実を反映したほうがいいかは所説あるが。たぶんヒトがサルだったときから論理的合理性を獲得する前から倫理存在したんだよ。

 

いまや古典となったミル議論の先が、現代において、どうなっているかしっているか

NHKスペシャルで有名になった倫理学者のサンデルは、ミルロールズ批判から出発して、いまではコミュニタリズムと呼ばれる立場を唱えている。

論理的合理的絶対善というのは、結局のところ、確定させられない、というのがサンデル結論だ。

から社会合意によって決まるのが、善であり倫理である、というのがサンデル意見だ。

俺も同意するね。論理で導き出される絶対善は無いんだよ。

だた、生物として同一種であるヒトの感情が、だいたい全体で似通っているため、全体の倫理方向性が一方向になっているように見えるだけなんだよ。倫理同一性、見かけの絶対性を支えているのは、脳がもたらす感情なのだ

殺しをスカッとするから善と思ったやつが居たらどうするか? それが多数にならなかったのが現実なんだから、それでいいんだよ。

 

そしてここで元増田に戻るが、たぶん子供に教えるときも、理屈なんかよりも、感情ベースのほうがいいんだよ。

そっちのほうが、倫理的な大人になるよ。

2024-11-14

翻訳ソフトには「前向きに善処します」を"No"と翻訳して欲しいか

などなど。

翻訳ソフトに求めるニーズも何種類かあると思うんだけど、それぞれに対応した翻訳ソフトが出る方向には行かないよねー。

将棋ソフトなんかが強くなってきたときにも、「その後、最善手を指し続ければ勝てる手を見つけられるソフト」と「所与の棋力の人間にお進めの勝ちやすい手を教えてくれるソフト」、それぞれができて欲しいなあ、なんて思っていたけど、現実はそんな方には進まなかったなー。

2024-10-29

anond:20231111164233

おそらく高卒の人の多くが『花束みたいな恋をした』に全く共感できないように、高卒に相当する人は『なぜ働いてると本が読めなくなるのか』問題共感できないと思われる。なぜなら、両者ともに「大学生モラトリアム期間」(趣味に没頭できるモラトリアム期間)を所与の前提としているから。

https://x.com/harako95/status/1793895366896828675

坂元裕二高卒なんですが…

2024-09-01

そもそもみんな堀元見が落合陽一を誹謗中傷したという認識なの?

落合陽一さんの手法には明確に反対するよ、という話

https://kensuu.com/n/na6ca1ced8f65

このエントリブコメ読むと落合陽一が堀元見に誹謗中傷された被害者であるという認識を前提にしたものがいくつか見られるけど、その認識の人は結構多い感じなん?

自分は全くそういう認識はなかったからわりと驚いた。

けんすうさんのエントリでは落合陽一が言ってることの前提部分を疑わずにまるっと受け入れた上でそれでも落合の振る舞いは良くないよねという話をしていて、本当に堀元は落合誹謗中傷したと言えるのかというそもそも論に関してはここでの論旨には無関係だしスルーしてるよね?

そういう形で書かれたエントリから、読んで何か自分意見を持つときにうっかり落合側の前提(落合誹謗中傷被害を受けた)を所与のものとして受け入れて当然かのように勘違いしちゃってる人も多かったりしない?

サバの話だったの?】WEEKLY OCHIAIというコント、あるいは地獄について。

https://ken-horimoto.com/20181228115315/

落合陽一の逆鱗に触れたのは2018年のこのエントリなわけだけど、みんなこれを全部読んで堀元は落合誹謗中傷したと判断するんだろうか?

かに一般観客をいじったところは不適切と言われても仕方ないし、その部分を削除してくれというNewsPicks要求は決して不当ではないと感じる。ただ、落合陽一に対してどうかと言えば、笑いものにするような態度を不快に感じる人は一定数いるだろうが、じゃあ論評の範囲を逸脱して誹謗中傷に該当するようなことが書かれているかといえばこれははっきりとNOだろうとしか思えない。これが誹謗中傷なら柳下毅一郎映画だって誹謗中傷になるわい。

また、落合は「悪口による炎上の集金構造」という話をしており、自分もそれに対しては問題意識があるが、堀元のやってることは自分としてはそこの問題意識には当てはまらない。

誰かの悪評をまとめることで人々の関心を引き、インプレッションを稼いで金儲けするという構造ビジネスについては自分現代の大きな問題だと思っている。そういうビジネスは絶え間なく刺激的な話題提供し続けることが至上命題となるため、不正確な情報拡散源になる危険性が高い。また、炎上を広く拡散させるものは、情報に間違いがなかったとしても、けんすうさんも言っているように批判の量の暴力性の問題を発生させる。

しかし、堀元のやってることがそういった問題はらものなのかというと、そうとは全く言えない。なんてったって、多くの人に読まれるのを避けるために悪口記事は有料にしていると公言しているのであるインプレ稼ぎビジネスとは真逆である。「悪口による集金」はしているが、「炎上の集金構造」などどこにもない。

他人悪口ネットで有料販売していると言うと現代特有問題はらんだ何かのようについ思ってしまうが、ぶっちゃけやってることは本屋で売るかネットで売るかの違いがあるだけで辛口批評本と変わらない。辛口批評本くらい、インターネットが普及する遥か以前より存在するのであるそもそも、堀元自身による露悪的な表現を借りて自分も「悪口」と書いているが、これは全部「辛口批評」に置き換えられるし、置き換えたらだいぶ印象が変わるのではないだろうか。

2024-07-29

根源を遡っていけば共同体の在り方への漠然とした信仰しか残らない点で人権思想宗教と変わりないし、どう考えてもイデオロギー以上のものではない。

それなのに人権絶対だという人間が少なから存在するのを割と不思議に思ってた。

別に倫理学なんか学ばなくとも単純に「なぜ?」を繰り返せばその結論に至ると思う。

学んだ所で、根っこの部分の正当化は割とお粗末な感じな気がした。おれはね。自然法とか定言命法とか直観とかさあ。

私たち道徳的直観が「それは差別である」と判断します、とかもう何でもありじゃん。

そういうのと道徳的直観ではない個々人の感覚とをどう区別すんの?それこそ「それってあなた感想ですよね」案件なっちゃうよね。

普遍性要求するのなら誰の目にも明らかな論理必要だけれど、それでは他の何らかの前提に寄りかかった仮言的な留まってしまう。

その前提となるような部分が倫理規範の根幹になる訳で、でもその前提自体には普遍性を見出だせない。

まあ当然と言えば当然で、論理目的や前提あってのものに過ぎないし、後者はいくらでも自由に設定出来てしまう。仮説と検証の繰り返しでなんとなくのルールが見えてくる所与の自然法則とは話が違って、どこまで行っても「こうあるべき」という規範形式を逸脱出来ない。

はいっても共感だとか、実定法としての合意だとか、そういう点で普遍性とまでは言わなくとも正当性なり妥当性を見出だせなくもない気はする。

これも多数決なり功利主義なりを前提として要求する気がするけど。

合意っつったって、いつそんな合意を取ったんだよ?って感じはする。生まれた時に契約書の一筆でもしたためたか?これはあらゆる法規範に言えてしまうけど。

まあ生まれた時点で強制加入で、人を殺すなり何なりの行動を意思表示として破棄できる合意とでも言えなくもない気もする。

理屈はさておいてまあなんとなく共感は出来るし、そっちの方が良い気もする。じゃあそれをルールしましょう、っていう。そういう正当性の確保。

でもそれってもう政治領域の話じゃないですか。

宗教のそれに対する世俗規範の優位性があるのだとしたら、それはひとえに政治的に確保されたものに過ぎなくて、普遍性問題ではない。

という所を踏まえると、「人権絶対だ」と言うのも実は政治をやってるんじゃないかって気がした。うっすら思ってはいたけど、ちょっと確度が上がった。

何らかの信仰に基づいて人権という概念を本気でこの世の黄金律だと思っているんなら、まあ素直にそう言うんだと思う。

そうではなく、絶対原理でもなければ自明に「ある」ものではないと自覚していたとしたら、わざわざそんな事言って相対化したりその価値を揺らがせるような真似はしないのかもしれない。そんな余計な真似をして、わざわざ一度作り上げたものを解剖してみせるメリットがあまりにも少ない。

絶対ではないながらも守るべきものだと思っていればこそ、絶対存在であるかのように振る舞う。そしてその振る舞いが共同幻想をより強固にしていく。

これも不断努力というやつなのかな。なんか猿の惑星で全ての真実を知りながら、人間と同じ轍は踏むまいと宗教コミュニティをまとめてた奴を思い出した。

2024-07-15

逆説的だけど、恵まれ環境に置かれた人間のしんどさってあるなって思う。社会制度がどうのとかじゃなく個々人の姿勢の話ね。内的にも対外的にも逃げられる言い訳の無さと言うか。

まれなかった人間なら多少弱音を吐いても「かわいそう、仕方なかった」で、頑張れば「あん境遇からとても偉い」になる。

まれ人間が同じ事を言えば「贅沢な悩み」とでも言われて矮小化されがち。例え本人の感じている苦痛が本物だったとしても、まやかしや甘えの扱いを受ける。

全ては自分意志次第、の自己責任マンは知らん。自分思想客観視した上で環境に不平を垂れる人間を見なくてもいいようにしていない、そういう人間排除する社会へと変えられないお前の自己責任。まあ自分構造主義より実存主義の方が好きだしあまり強くは言えない。

基準がなければ不満は際限なく増大するから目安として他人の水準を考える、というのも分からんでもないけど。にしても上はいるし。

もっと辛い境遇の人がいるか相対的幸福、が通るならもっとまれた人もいるか相対的に不幸も通るのにね。そもそも自分の話になんでお前がしゃしゃり出てくる訳?下手すりゃ自分ですらなくどこかの恵まれない誰かを引き合いに出して。

いやまあ客観的というか一般的基準で恵まれてると言えるような環境への文句に苦言を呈するのは分からんでもないけど。ガキの頃月3万の小遣い貰ってたけど足りなくて不満だった。もっと楽しいティーンエイジを送れたはずなのに損した、とか。

でもそういう外との関係がある問題とは違った内的な悩みについてまで、環境を持ち出して矮小化するのは違うんじゃないんですか。下手に恵まれてるからいらん事ばっかり考える、だとか。

もっと言えば世間基準外野感想がどうだろうが、小遣いが足りないと思ったのならその人にとっての不満は本物なんだろうし。

でも何かこう、「客観的には恵まれてるけどそんなの関係なく自分は辛いからこうしてくれ」と、「妥当」であれそうでないんであれ不満が不満で終わらずに待遇改善を求めて、求められた側が「甘えるな、そんな悩みは贅沢だ」と突っぱねるなら全然分かるんだけど。

そんな要求が罷り通るほど世の中は云々、とかそういう事じゃなくてね。共感出来もしない悩みに対して助ける道理なんかないだろうし。そもそも共感出来ようが出来まいが助ける義務なんかないと思ってるけど。助けたれば助ければいいし、強いられる道理もない。協力ゲーム理屈は置いといて、道徳の話としては。

そういう場面でなく、別に助けを求める訳じゃないけどポロッとこぼした言葉を責め立てられるのは鬱陶しいよねって思う。

こぼすな鬱陶しいって話なのかもしれんけど。生き辛ない?そういう「意味のある」会話しか求めないの。

あとなんかジョジョでも幸福絶対的ものじゃなく、スタート地点をゼロとする相対的ものだ、的な話があった。

環境幸福度なんか逓減していくもんだろうから、このスタンスで言えばただでさえ恵まれ環境に生まれればそこから更に上に行くのはしんどくなる。

わざわざ自分が不利に置かれる価値観に与するのもマヌケっぽいけど、この考え方が特段変わったものだとも思えない。

そりゃ全くの一人で生きてる訳じゃないから、多少は他人人生と比べて家庭の経済状況や親との相性とかを客観的に相対化するものだとは思うけど。

でも基本的には環境なんて所与のものであって、自分にとっては少なからず当たり前だと思ってる部分がある。

マジで辛い環境にいる人は、こんなんが当たり前でたまるか!って思ってんのかもしれんけど。

幸せになれない価値観なんか捨てて思考矯正すればいいんだけど、それをやるならもう何でもアリじゃんって気もする。

新興宗教にハマり新しい価値観を得て、本人は幸せだと言っている。これは哀れ。

いつまでも仕事か辛いとばかり言って、価値観を変えて少しでも楽しもうという姿勢を持たない。これはワガママ子供じみてる。

これってダブルスタンダードだよね。どちらも幸せを求めた適応の話なのに。結局自分が信じてる価値規範を共有したいだけじゃんっていう。

おれは客観的に恵まれ環境にあって不満だらけの人間なので、態度次第では世間からの当たりが強くなる。

内面化された「環境感謝」の規範をこそぎ落とし、「いやおれが辛いと思ってんならおれにとって間違いなく辛い事だし、他人感想や、他の境遇を持ち出した相対化なんて関係ない」と開き直る事でせめて自分の中では居心地の良さを確保する。

その上で、「だからといって別に他人がおれを助ける道理はない。生まれ育った普通か恵まれてるくらいの環境を恨むこともない」とも思うことで社会との関係を維持する。そもそもおれの抱える悩みの大半が他人の助けでどうこうなるもんじゃないし。

自分なりに整合性を取った態度のつもりなんだけど、おれの言葉から言ってもいないスタンス勝手一義的に導き出す人もいるし、歪なのかもしれない。

まあこんなのも恵まれ人間思考回路が前提になってるもので、そうでない実際の人間はまるで別の世界観を持ってるのかも分からんけど。分かった所で悩みが消える訳でもないし、どうでもいいや。

2024-06-21

「好きと良いは違う」に対して還元主義(?)的に考えていった結果、良いと悪いは好き嫌い多数決しかないのではないかという結論に至った。

この服はなぜ良いのか?

着心地が快適だから。なぜ着心地が快適だと良いのか?快適である状態は良い事だから。快不快問題だ。

かっこいいから。なぜかっこいいと良いのか?そもそも「かっこいい」の定義は?かっこいいものを身につける事は精神的充足に繋がるから。かっこいいとは見ていて嫌悪感を抱かず、むしろ快楽や憧れの念を抱かせるような事である。快不快問題だ。ちょっとトートロジーめいてる気もする。

いから。なぜ安いと良いのか?可処分所得の減少が少なくなるから。なぜ可処分所得の減少が少ないと良いのか?可処分所得の消費による購買の機会を増やし、効用の追求機会が増えるから。快不快問題だ。

いから。なぜ高いと良いのか?高額な消費であればより大きな効用を得られるだろうという誤謬めいた判断快楽をもたらすから。高額の消費、及びそれを誇示する服を着ることが収入の高さ、引いては社会的評価の高さを示唆し、自尊心の向上や社会的承認が得られるから。快不快問題だ。

もっと言えばエシカルコンシャスネスだとか、造形の斬新さや精緻さ、テーマ性の反映度合いや精神性が云々だとかいくらでもあるけど、それらを測る評価軸はどこから湧いて出きたのかという事になる。

いずれの評価軸も快不快好き嫌い問題へと収束していくはずだ。デニムなんかで着心地が悪いからこそ「良い」みたいな美意識もあるだろうけど、それも然りだろう。

いつからかあってこれからもあり続けるであろう自然法則所与の前提として持つ自然科学と違って、何が良いかという判断においては意図的に何かを前提として置かなければならないのだから感覚的な部分に頼らざるを得ないのは当然に思える。

ただそれだと必ずしも多数派に支持されない「権威」の存在説明がつかない。

ハイメゾンの攻めたコレクションを見て賞賛を送る人間多数派だろうか?もっと定量的にいけばジャンルを変えてトマトメーターでも見れば分かるけど、権威大衆意見は必ずしも一致しない。それなのに権威意見が良し悪しの評価に無影響だとは受け取られていない。

謎すぎる。

世界共通自然法則支配される存在であって、かつ誤差みたいな個体差はあれどほぼ構造も似たような生き物同士なんだから、何かしら共有されている本質的感覚があるのだろうか。

それはまああるか。

様々なノイズを除去しながら、そういった本質的ものを見極めて評価対象物と照らし合わせる技能を持った人間が伝導師として権威を握っているんだろうか。

ただ人類共通感覚って言ったって大枠のものに過ぎない気もする。ドブ川の水を啜って美味いと感じる人間は多分いないだろうけど、椎茸を美味いと感じる人間もいれば嫌いな人間もいる。

アレルギーでもなきゃ、食わせ続ければいつかは美味しさを「理解」して好きになるのか?

宗教規範から脱却したように思えてその実人々が未だ様々な信仰に基づいて生きている点は全く変わらないように、本質主義だとか教養主義だとかが社会の中で生き永らえているだけの話なのか?

多数派が好き(あるいは嫌い)だと思わないようなものについても、新たな価値判断基準提示して「言われてみれば、確かに……」という共感を呼び、考えを変えてしまうような魔力を持った主張の出来る人間権威を握るのか?常にそれが達成される訳ではないにせよ。

論理的分析してみた所でそれが良いかいか論理ではなく基準問題なので、共感の方が重要に思える。

基準に沿った判断合理的にやっていけるけども、基準のもの妥当性はより上位の基準しか判断出来ない。好き嫌いというのは恐らく最上位の基準であって、それ以上の基準はなく共感によって一変してしまうのかもしれない。

これなら原則として良い悪いが好き嫌い多数決によって決まるという説の中でも得意的に良い悪いへの影響力を持つ事がさほど矛盾しない気がする。一番しっくり来るかもしれない。

哲学世界ではとうにこんな議論もグチグチと交わされてるらしいけどおれの中では前向きなニヒリズムが一番納得感があるし、それ以上の理屈を求めようという気にもあまりならない。

2024-06-18

セックスレスだなんだっつうけれども

そも人生に濡れたセックス所与のもとしてあるっつうのがファンタジーなのですだよっすねぇ

2024-06-17

anond:20240616124255

所与の普遍的価値なんてものはない。あらゆる道徳常識も「みんなでそう決めたから」でしかない。

増田義憤、その燃え上がる正義感と怒りは、どこから来てるんだ?

「悪いサヨク」が許せないんだろ?増田内の正義がさ。

毎日カムカしながら「またサヨクだ!取り締まらなきゃ!増田書かなきゃ!」って巡回してんだろ?

サヨク」なんていう藁人形を殴ることしかできないのにな。藁人形殴るの気持ちいいよな。

2024-06-16

anond:20240613203515

追記)ユロックの母さんの記事面白かったので続きを書いた。

https://anond.hatelabo.jp/20240619014605

本文)

キャンセルカルチャー問題点は、「悪い・正しくない」と思う倫理が内発的なものではないことなんだろう。

どこかで知った聞きかじりの「教養」に発するものからキャンセルすることでなんとなく自分が「正しい側」にいることに内心満足してしまう。「正しい側」にいるというのは安全地帯なので、いくらでも無知な人を罵倒し、笑い飛ばせる。その教養は実際のところ、★のたくさんついたブコメかもしれない、その程度に知った教養でも安全地帯に入った感覚を得られる。

まり、「いーけないんだいけないんだー、センセにいってやろ」のアレと大差ない。

その程度の教養正義感で、MVを取り下げ、ミュージシャン謝罪に追い込む社会なわけだね。

かつて、なだいなだが、ケシカラニズムといって、理性的正義感情的正義区別し、自分のことでもないくせに感情的共感によって主語がでかくなるのが感情的正義の特徴だとした。そのことで人々がプロパガンダに流されやすくなる、という趣旨のことをどこかで書いていたのを思い出す。

もうひとつ思い出したのは、2年くらい前、

共感にあらがえ - 内田樹の研究室

のなかで、人権とかマルクス主義とか、外付けされた倫理は歯止めが効かず暴発する、ということを内田樹がいっていたこと。

増田へのレスなかに

コロンブスナポレオン他所に乗り込んでそこにいた猿を使役したり自分文化を教え込んだりする描写になんとも思わんのかお前はw

というのがあるね。

正直、なんとも思わないねというのが俺の感想だし、植民地主義への反省なんていっても、外付けの反省まり

俺の中では、このMVはたわいもなくみえている。そんな他愛のないもの批判したくなるほど自分のなかで植民地主義批判内面化されていないわ。

そんなことをいうと、すぐにいろいろな知識開陳して説教したくなるサヨクがぼうふらのようにわいてくるんだが。

しろMVのなかで、不快に思ったのはそこではなくて、ナポレオンなどの人物たちが「Monkey Attack」というビデオを鑑賞するシーン。負傷していまにも死にゆハチマキをした類人猿兵士を抱きかかえる類人猿兵士、その場面にビデオ鑑賞していた皆が涙する、という場面だが、このシーンは、旧日本軍兵士連想させられ、ビデオ鑑賞で感動ポルノを消費するという行動にはイラっとさせられた。

類人猿ベートーヴェン指導したり、人力車にひかせたりというのには何とも思わなかったのに、このシーンだけは嫌な気分にさせられた。

そう、まさに「つまり解釈余地があるんです。」という感じなんだな。モンキーアタックビデオへの不快感はあるものの、袋叩きにしてやり込めるほどのものではない。他愛もないMVだよ。

rna氏は、ネット上では一斉に右向け右で「文明的なコロンブスたちが野蛮な猿人たちに文明を伝え、教化し、啓蒙している」という構図が大勢を占めているようだが、そうは解釈できないと述べている。

Mrs. GREEN APPLE「コロンブス」MV 問題、マジわけわかんねぇ (追記あり) - rna fragments


もっとも俺も若い頃、20年くらい前までは、人権歴史教科書通りに学んで、それを教養として広めていけば、外付けされた倫理共感を呼んで広まっていく、みたいに素朴に思っていた時期があった。

https://lady-joker.hatenadiary.jp/entry/2024/06/16/011301

みたいなことを素で思っていたというか、それこそ20年前のはてな草創期の「何とかidさんの日記」にはそういうのがあふれていた時代、、はてなにははてサと言われる人たちが多かったのだろう、そういう人ともつながった。

しかし、いつしか違和感を覚えるようになった。特に歴史修正主義というドイツで使われた文脈言葉安易日本南京虐殺否定文脈で使うことが一般的になり始めたころ、はてサという存在が疎ましくなっていった。

俺の違和感の正体は、結局のところ、歴史文脈のなかで生まれ言葉には、その歴史に紐づいた反省があり、過去への抗いがあるはずなのに、いつしか教養」として普遍化するなかで、その歴史固有性が失われ、あたかハンディ批判ツールになり下がることだった。

村上春樹2009年、イスラエル文学賞を受賞したときはてサは一斉に授賞式に出席しようとする村上を引き留めようとし、攻撃した。出席することは共犯意味するとまで言った人もいた。そのとき村上氏は自身への批判を受け、それらの情景を正論原理主義といった。パレスチナの人たちとの現実の接点をもたずに、パレスチナだ、ガザだ、人権だと漠然と騒いでいる、ごく普通のひとたち(私たち)の”寄り添い”は本当に軽いものだ。共犯という言葉も軽い。イスラエルに赴いて「高くて頑丈な壁と、それにぶつかって割れる卵の側では、私は常に卵の側に立つ」と現場で話をした村上春樹言葉のほうがよっぽど覚悟必要だ。それでも村上春樹攻撃する様子をみて、俺はだんだん嫌気がさして、ブログからフェイドアウトしていった。

追記2)なお歴史修正主義に関して、以下のブコメが目に留まった。

???/ 外付けの倫理の話なのに2行目で教養の話になってるのはなに。/ (歴史)修正主義という言葉は50年以上前からドイツ関係なく使われてる。 - tick2tack のブックマーク / はてなブックマーク

tick2tack ???/ 外付けの倫理の話なのに2行目で教養の話になってるのはなに。/ (歴史)修正主義という言葉は50年以上前からドイツ関係なく使われてる。

すまんが、ズレてるぞお前さん。こういうのってさ、ちょっとでもファクトチェックしてもらう手間を惜しまなければわかることなんだよ。ドイツで生まれ修正主義はその後、ソ連中国などの共産主義社会で使われていった。イデオロギー的な対立が強い国では、ある視点政策に「修正主義者」というレッテルを貼ることで、それを委縮させることを狙ったわけだ。

まり信奉するイデオロギーから逸脱した奴を侮辱して叩く、こん棒として便利に使われるようになっていった、というのがお前さんのいう「50年以上前からドイツ関係なく使われてる」の実態からな。それが90年代後半、新しい教科書問題以降、日本で使われ始め、00年代半ばには定着した、というのが俺の理解。完全にこん棒化した、っていうのが歴史修正主義の使われ方の変遷だ。「相手に対する敵意と侮蔑」そして「俺たちが正しい」以外なにも読み取れない用語になり果ててるわけ。そりゃwikipedia書き換え合戦になるわな。だから俺はこの用語が嫌いなんだよな。

(/追記2)

お前、そんなこともわからないのか、そんなことも知らないのか、といって得意げに歴史知識開陳する態度。

てめえだって大して現実味のないことに対して義憤を抱いてるにすぎないくせに、この尊大な態度。

サヨクに対する嫌悪感は、ここに尽きる。キャンセルカルチャーは、無力なサヨクが得意げに知識開陳して自己満足する場になってるんだよ。


言葉の軽さはどこからくるのか。ヒントになるのは、前述の内田樹文章

そのなかで対談相手永井陽右氏は次のようにいう。

永井:それで言うと、私は本当に「人権」というものを外付けしたタイプだと思います大学1、2年の頃、大学平和学の授業を取ってたりしたのですが、そのときに、何が幸福なのか、他人が何を考えているのかなんてわからないと思ったんです。そして陳腐ですが、みんな正義も正しさも違うよねともやはり思いました。

じゃあ何を拠り所にしたらいいのだろうと考えた結果、「そうかそうか、人権というものがあるのか、みんな賛同してるし普遍性高いじゃん」となりました。普遍性が高いなら、「人権が著しく侵害されているのであれば、これは問題だ!」と堂々とみんなに言うことができる。そうして私は良くも悪くも人権というか権利しか見ない人になっていったわけですが、それは本当に「外付け」だったと思います

「これは問題だ!」と深く自分のこととして考えもせずに簡単にいえてしまう、ここにこそ問題がある。

そういう義憤の正体って何だろう。

最近朝日新聞人生相談に回答した野沢直子に対して、それを朝日新聞記者コメントともに、冷笑と受け取って批判している記事があった。

[B! 報道] 読者を小馬鹿にする記者の態度にビックリ…野沢直子(61)の「悩み相談」騒動に見る“朝日新聞の冷笑主義” | 文春オンライン

元の人生相談とその回答はこちら。

https://digital.asahi.com/articles/ASS5K30WGS5KUCVL02MM.html?ptoken=01J0FYBDAZQF5YH5MPNMCJH3QA

不正義や理不尽な行動を伝える新聞報道を見るたび、怒りに燃えて困っています」とかいう50代の男性相談

個人は、野沢直子の回答の感覚に近い(あ、俺はトランプ支持者じゃないけれどね)。現地に行ってみろと。行けば当事者意識を持てるから

これは冷笑でもなんでもない。正直、野沢直子の回答を冷笑と捉える文春の批判のほうが今の時代の病を表現していると思った。

新聞で得た世界出来事いか正義言葉で嘆いても、その切実さは現場の人の感覚とは何も通じ合っていないかもしれない。

現場にくると世界は反対側からみえることもある。

かつて、北アフリカスーダンで、ダルフール紛争と呼ばれる、政府系の集団による虐殺国際問題となったことがある。

日本ブロガーも反応し、かつてFinalvent氏がこの知名度の低いこの問題を何度も取り上げ、意識を高めようとするべく、記事をお書きになられていた。

最初は、自分の啓発もかねて弁当氏の言説に注目していたのだが、しかし、その後、私自身が北アフリカ地域仕事上関与するようになってからスーダン人とも仕事をしたし数多く知り合いになった。自分なりに関心をもって現地で情報を集めてみると、国際的に展開されているセーブダルフールキャンペーンは次第に異なる運動に映じるようになっていった。

それは当時のバシール大統領断罪をはじめ、現地武装組織悪業を過剰に喧伝する国際NGO特にアメリカNGOキャンペーンのやり方に対する違和感だった。紛争実態はもう終わっているにも関わらず紛争継続しているかのような言説が多く、過剰かつ単純な演出によって集められた資金は、NGO広告費に回っているという話まで聞いた。

正しい、とみんなに思い込まされていることでも、プロパガンダが功を奏しているだけかもしれないということだ。

弁当氏がその後、一貫してスーダンに注目していたかどうかは知らないが、やがて同氏の記事の傾向が変わり、国際問題にはほとんど言及されなくなっていった。

今、現在スーダンの置かれている状況はというと、2023年に始まった国軍準軍事組織「迅速支援部隊(RSF)」による内戦により、ダルフール紛争の比ではない、深刻な国内避難民が発生している。2023年末時点で国内避難民が905万2822人。これはスーダン人口の2割に相当。2003年の世界最悪レベルの人道危機と言われたダルフール紛争ときですら国内避難民は100~200万人というオーダーだったので、それをはるかにしのぐ難民が発生している今の状況がいか危機的かがわかる。

しかし、俺は思う。当時、弁当氏のスーダン記事を読み、義憤を抱いた人の何割くらいが、現在進行形の危機を憂いているだろうかと。エジプトトルコスーダン国軍支援アラブ首長国連邦はRSF支援、このように中東の中堅国らは、自分たちに好意的顧客武装させながらも、和平を口にする、いわば代理戦争様相を呈している。





ただ、一方で、外付けの教養には意味がない、とは思わない。しかし、植民地主義歴史を知るとか、外付けの倫理いか理解しているかという意味ではない。

普遍的な価値として、人権を外付け実装してきた日本である自分自身いかに受容してきたのか、それを踏まえて自分の生きる社会をどうしたいのかを知ること。

そのルール規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要があると思っている。

表現の自由ひとつとってもそう。表現の自由って大切じゃないか?と少しでも思ったら、それを所与の普遍価値から、と思考停止しないでよくよく考えてもらいたい。

なぜアメリカ判事歴史的な判決のなかで、空気が濁っているほうが社会健全だといったのか。なぜフランスでは神を冒涜することが権利なのか。

なぜドイツではホロコースト否定表現の自由に当たらないのか。日本公共の福祉解釈としてそれらをどのように受容したのか。表現の自由が失われると何が恐ろしいのか、それはそれぞれの社会文脈がある。少なくとも自分社会ではそれは何なのか、それを知ること、それこそが教養というものだと思っているし、理性的共感というものだと思う。

少なくとも俺が思うに、日本社会においては、冒頭のケシカラニズムが政府にとって都合よく操れる心情だろう。

表現の自由が失われることによって立ち現れる社会では、こういう感情的正義ますます膨れ上がるだろう。

表現の自由が失われることによって立ち現れる社会は、「これが正義だ!」とみせられるとすぐに無教養な人々を煽り立てることでき、簡単プロパガンダ誘導することのできる、政府にとって都合の良い社会ということになろうかね。

MV叩いて知識開陳してマウントとってるサヨクもそれで満足ですかね。まあそういう奴はそういう時代がくれば、アカ狩りで共産党員不倫していたことをネタ糾弾しているかもしれないし、体制寄りになってるかもしれないけどね。本格的な右派政党が台頭したらそいつらを味方につけるだろう。不謹慎厨の本質正義の中身を大して気にしてないことだ。日本中が沖縄を踏みつけにしても気にしないが、よその国の自分とさして関わりのない先住民のことは気に掛けるふりができる。

世界中、世の中でいろいろと深刻で理不尽なことが起きているなか、そういう諸々には無関心で当事者意識もないくせに、「教養ある人」が突然ポリコレし始め、他愛もないMV植民地主義的な傾向にかみついて、そうだそうだとみんなして一斉に同調した結果、MVの発表取り下げに至る、という構図は学級会のつるし上げそのものだ。

サヨク知識マウントできて満足だし、日ごろのストレス発散になったことだろう。

朝日新聞人生相談をした「不正義や理不尽な行動を伝える新聞報道を見るたび、怒りに燃えて困っています」という50代の男性も、MVをぼこぼこに叩いて満足するくちかもしれない。新聞を読んで中途半端ポリコレ意識をもてあましている、という輩に対する処方箋としては、野沢直子の回答はこれ以上ない的を射たものだと思った。

2024-06-14

欲望を実現するための具体的な方法論においてはバランス感も大事だろうけど、その欲望を生み出す信仰だとか納得だとかは心の底の底まで貫くものをたった一つだけ持った方が幸せになれるような気がする。

中庸とか言って反復横跳びするような真似はせず、大事な一つ以外には一切の疑いも迷いも捨てる。自分信仰も心の持ちよう次第ではいくらでも曲げられてしまものだと思わず、この世でたった一つだけ確実に存在する所与の真理とみなす

ヒューマニズムだとか人権思想だとかコミュニタリアニズムだとか宗教規範だとか、その他の価値は全てただ一つの真理に基づいた行いを現実的実践するための手段としてのみ存在させる。

おれは実存主義的な生き方が一番美しいと思ってたけど、こういう生き方の方が遥かに美しいような気がしてきた。

似ているようだけど、ほんの少しの違いが決定的に違う。

ちょっと嫌な事があれば「でも結局全部意味ないしな……」と思えてしまうような、論理にお膳立てされた「好きに生きよう」ではない。一度全てを論理的に疑って無限還元主義へと陥るような小賢しいメタ思考を挟まず、ただ情熱と信念のみによって信仰の獲得を成し遂げる。

これって要するに前近代宗教では?

別に宗教規範に限らず世俗価値観にせよ個人感覚依拠した価値規範にせよ、やっぱ無垢信仰は満足に生きるにあたって大事な気がする。

人生の楽しさを感覚で味わえないから、せめて理屈だけでもと生きる意義を論理的に追及してみる。そして考えれば考えるほど、今まで所与の事実だと思っていたものが快不快多数決に過ぎない規範へと後退していく。

寄る辺なく存在しながら、じゃあ好きに生きるしかいか……と思いつつ、そもそも人生つまんなくてこんな事考え始めてるので、改めて振り出しに戻っても活力が湧くとは限らない。何なら虚無感だけが残って、余計無気力でつまらない人生になるかもしれない。

一度虚無へと至ってしまったら、もう二度と無垢信仰は手に入らない。

でもあんまりつの信仰だけを貫いてると、何かのきっかけで打ち砕かれるような事があったら自殺しちゃいそうだなとも思う。

ここまで強烈に徹底はしなくともそれなりの強度でこういう生き方をしている人はいて、そういう人が信念を支えきれなくなるといわゆる中年危機的なやつを迎えるんだろうか。

2024-05-28

anond:20240527020426

韓国のようにキャッチアップ中の国はともかく、アメリカドイツよりも生産年齢人口当たりGDP成長率は日本の方が上だから経済政策としては日本の方が上手く行ってたでしょ。始まって十年やそこらのアベノミクス生産年齢人口に影響を与えられるわけもないんだから所与の人口条件の中ではよくやった方。リーマンショックで落ち込んだところからさら就業者数を減らした上に大して賃金回復させなかった民主党政権を引き継いだ、スタート地点が凹んでいたことで成長が上振れて見える面はあるにしても。

2024-04-24

生きづらさなんて所与の前提であって

(まぁ感じやすい人感じにくい人はいるにしてもだ)

世界自分との間にある違和感齟齬フィットしない感じを

わざわざ口にする必要もないというか

一言で言ってしまうのがダサいというか

その代わりにみんなフィクション読んだり書いたりしてるんでしょ

でも最近

生きづらさの理由を探したがるよね

理由などない、この世に生まれ落ち自我が芽生えればそうなる」とかではなく

性別身体的特徴、性志向、生まれ家族環境

生きづらさのわけを何か一つに求めて単純化して

そのことで同じ生きづらさを抱える人たちとの一体感帰属意識を得ることが目的

SNS時代らしいと言えばそうなのか

2024-01-29

生成AI推進派も反対派も「議論する以前の状況」を脱しよう

今日のハテブで下のようなブログが上がっていた

"24/1/28 「生成AIの『学習』は学術用語だ」ということをそろそろちゃん説明した方がいい"

https://saize-lw.hatenablog.com/entry/2024/01/28/210053

いまだにこのレベルの内容がバズってるのを見ると少し辟易させられるが

考えてみると、ちゃん技術理解してる人間すらこのレベルのことしか書けないのは

対話の場がなくお互いの言葉尻をとらえてる状況が悪いと思うので少し整理して書こうと思う。

生成AIをめぐる問題の最大の面倒くさいポイント

・現時点での著作権運用がよく理解されていない

著作権をめぐる法理が日々変化しつつあることが理解されていない

という二重の難しさにある。

単に概念的に難しいというだけではなく、日本においては法制度の実装レベルですでに混乱が生じている。

とくに生成AI著作権を語るにあたっては「フェアユースという発想に賛同するか否か」という観点必要不可欠なのだ

日本においては一般フェアユースの法理が未整備なのに

一足飛びに機械学習だけ著作権法30条の4によってフェアユース的発想が導入されているという

非常に奇妙な状況になっている。

フェアユースとは何か、というのは非常に難しい。

一定程度の公正さがあれば具体的な類型を列挙しなくても著作権制限できるという考え」

とでも要約できるが、これだけでは意味不明だろう。

英国にフェアディーリングというものがあるが、こっちの「公正さ」はわかりやすい。

フェアディーリング英国を含む英連邦法体系にある発想で

非営利かつ研究教育目的批評報道などの場合著作権制限される」ということ。

たとえばこれがなければ公営学校図書館は莫大な支払いに追われ成立しえない以上

「公正さ」のために著作権制限してよいという発想はわかりやす

近代以降の文明国でこれを否定するような法理はまず存在しえないだろう。

フェアディーリングのものではないが、EU情報社会指令第5条なども同じように

「公正さは基本的非営利や少なくとも公益目的、かつ具体的にあらかじめ列挙される」という発想である

しかし、フェアユースはそういう単純な話ではない。

営利でも、今までに判例がなくても、抽象的な議論で公正さを主張できれば新しく著作権制限できるケースを創れる」

というのがフェアユースなのだ

ただし、元の著作権者の利益を「不当に」害さな範囲で。何が不当か?それはよくわからんので最高裁まで争いましょう。

一見すると無茶にも思えるが、現代人の多くはこの法理の恩恵を受け、著作権制限することで利益を得る側だ。

最も影響が大きいのはインターネット検索

フェアディーリングの発想だけでは、検索エンジンのサジェスト機能すら著作権的にアウトということになる。

それを「フェア」にしたのは、米国著作権法に組み込まれフェアユースの発想なのだ

サジェスト機能だけでなく、情報技術を用いた新サービスが興るたびに多くの裁判が発生している。

ただし問題点は、それがフェアユースだと認められたとしても、EUの法理で「いや、この機能著作権的にアウトだ、金払え」ということも現時点ですら可能であるということだ。というか実際にそういう判決はそれなりの頻度で発生している。

だってフェアユースあくま米国を含む一部の国でしか確立していないのだから



しかし、現実問題として、それなりに有用webサービスを立ち上げようと思えば、まずフェアユース的発想に頼らざるを得ないだろう。

そもそも著作権の発想はインターネット以前のものだ。

そこでいわれている「引用」は基本的に紙媒体実名人物著作相互引用する低速で静的な状況を想定しており

インターネットアルゴリズムボットを含む様々なエージェントが高速で動的に情報をやり取りする状況は考慮外だ。

もちろん、法の運用上はそれらに解釈を加え、少しずつ判例を積み重ね、法的に許される状態を少しずつ拡張していくわけだが

その結果が「サジェスト権利侵害です」となるのと、「フェアユースなので許可」となるのとでは、新サービス市場の発展速度が圧倒的に違う。


ネット民になじみが深いのは二次創作ミームだろう。

これらは基本的著作権侵害であるが、訴訟を起こす利益などが小さすぎるため放置されているに過ぎない。

しかし例えば、訴訟が大幅に簡素化・自動化され、二次創作ミーム不可能となる社会を人々は望むだろうか?


ここで問題は、「フェアユース」が正しいか、ではない。

究極的には、「どちらを選びたいか」という話になってくる。

もちろん、自分でどちらかを選びたいからと言って、それが自分の国の法理として実装できるかというと、大抵はそれは別問題だ。

フェアユースの発想を頑として認めない米国民がいたとして、如何なロビー活動天才でも、死ぬまでに合衆国法典第17編第107条改正するにこぎつけるのはまず不可能だろう。

逆に欧州の新進気鋭の政治家EUの現状を憂い情報社会指令第5条を全面撤廃改正してフェアユース的発想を導入できるだろうか?

政治生命を賭したとしても、やはり死ぬまでにやり遂げるのは無理だろう。


しか日本は違う。

はっきり言って日本における法改正ハードルは低い。

すでに著作権法30条の4が存在しているというのがそれを端的に示している。

しかもそれほど政治的紛争もなくぬるっと成立した、としか言いようがない成立過程である

これは「元の著作物に表現された思想又は感情享受」以外なら、営利目的でも無許可機械学習を行っていいとするものだ。

ただしここにはやはり「フェアさ」は必要で、その条件は「元の著作権者の利益を不当に害さない」という抽象的なものだ。

現時点では確固たる判例はないので、大型の訴訟が起きてから決まることになるのだろう。

これはかなり米国っぽい、フェアユース的発想である

前述したとおり、日本著作権法にはもともとフェアユースの発想はない。

それにもかかわらずいきなりこれがぬるっと成立するというのは、ある意味特殊日本の政治状況、法体系面白さというほかない。

そしてこれを「所与の動かしがたい条件」とみなす理由もない。

ぬるっと成立した以上、ぬるっと撤廃されることだってありうるのだ。


ともかく、日本においてはいろいろロビー活動余地法改正可能性、政治闘争で結果が変わる余地が多分に残されている。

だが以下は整理しておくべきだろう。

あなたフェアユース的発想を認めるのか、認めないのか?

フェアユース的発想を認めたとして、生成AIの利用はどのような具体的なケースでどうフェア・アンフェアなのか?

これは非常に難しい問いだと思う。私が答えるなら

(1)

フェアユースは認める。そもそもインターネット時代にそれ以前の著作権法を解釈判例でそのまま運用する発想は無茶。

二次著作物の利用や検索エンジンなどのwebサービスを「基本はアウトだが、訴訟コストが支払えないか事実上セーフ」という現状はいびつすぎるのはもちろんのこと、訴訟コスト簡素化されてそれらが制限される状況が公正とも思えない。

(2)

生成AIにおいて元著作物と生成物の市場での利用形態が完全に競合する場合フェアユースを認めたとしても「不公正」といえる。そもそもフェアユースあくまで「新しい市場開拓」という米国的な大義名分があって初めて成立する。

イラストを売っている販売元と同じようなプラットフォーム再販売するような場合市場拡大していないし不公正だろう。

逆にそうではないケース、元データ市場と新データ市場バッティングしない場合にはフェアユース的発想で公正とされると思う。

というあたりになるだろうか。

みなさんもまずこれを考えてみてほしい。ここを明確にして初めて議論価値が生まれるといえるだろう。

2023-12-27

宗教の敵は科学ではなく、ナショナリズム

https://anond.hatelabo.jp/20231224205347

宗教科学対立するものとして所与のように扱われているが、実態は異なる。人類の長い歴史ほとんどの期間において、宗教は真理を追究するという目的のため、教育研究提供する場として存在してきた。中世では科学最先端イスラム科学であり、ヨーロッパ近代科学誕生きっかけとなるルネサンス運動が起きたのは、十字軍がそれを中東から持ち帰った結果である

歴史的経緯はさておき、近代科学手法発見されて以降、宗教科学に負けつつあると考える人は多い。真理の追求という意味ではそうかもしれないが、それは宗教の一つの側面にすぎない。宗教の影響力が決定的に弱まっているのは、科学のせいではなく、ナショナリズム信仰のせいである。

ナショナリズムはあまり成功しすぎたせいで、最早それを疑問視する人間ほとんどいないが、ナショナリズムほど宗教臭いイデオロギー存在しない。生まれた時から勝手に入信させられ、"税金"の名のもとに資産収奪される。改宗することでしか棄教できないが、大抵の"国"では入信のハードルが異常に高く設定されており、容易に棄教することはできない。幼少期から学校教育により、"国語"/"歴史"/"道徳"などの授業を通じて義務的洗脳を施され、"国"が決めた正しい言語言葉遣い強制させられる。憲法というドグマとそれに基づいたおびただしい数の法令日常生活において恣意的適用されるが、その内容全てを理解しているものはいない。それらを破ると投獄されたり、罰金を払わされたり、社会的制裁されたりする。信徒によっては"国"の方針盲目的に追従したり、逆にその行動を批判することこそあれ、アイデンティティの核として"国民"であることそれ自体を疑問に思うことはない。

宗教は、心の拠り所としてだけでなく、出自の異なる人々をまとめあげる共同体として、また教会を通じて様々な福祉提供する役割を持っていた。"国"はそれらの機能権力宗教から取り上げ、政教分離の名のもとに精神領域へと押しやった。

宗教科学に負けたわけではない。人々が"国民国家"という別の宗教鞍替えしてしまっただけである

2023-12-23

結構死刑って言う人いるよね

妻の事なんだが。

リビングテレビ見てて、生徒に猥褻なことを行ってしまったニュースを見たら、3回死刑! 子供不適切に保育していた事件をみたら、1回死刑

(ネットミーム化しつつある校長になら、何回死刑が下ることか……)

その度に嫌々「や、人権あるから」と、ぼそり突っ込んでいるが、とてもすまりが悪い。ツッコミが鋭どうない!!

実際に、死刑が宣告されてるやつにも人権あるやん。なら、上記ケースの死刑請求されてる人達に、人権所与のものやー!いうてもツッコミの体をなしてない。

となると、このツッコミを成り立たせるには、犯罪者には人権がない、と妻へ思い込ませ必要がある。

犯罪者には人権がないと思い込ませるか、ツッコミ方法を変えるか、どうしますか?あなた

また、思い込ませるか、ツッコミを変えるか、どういう方法とりますか? あなた

2023-12-06

anond:20231204014537

というか今そこら中で巨大配送センター作ってるよね

なんで物流センター所与の条件で変えられない問題みたいになってんの?

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