はてなキーワード: 中世とは
また随分と薄っぺらなメッキ思想を誇らしげにぶら下げて歩いてるもんだな。
お前のその「宗教=監視カメラ」論、まるで放尿感覚で思いついた便所思想だな。
そこらの壁に立ちションして「俺って深いっしょ?」と悦に入ってるだけの自慰的知的放尿だ。くっせぇんだよ。
まず第一に、「神による監視=宗教の本質」と断じた時点で、お前は宗教の発生原理も機能構造もまるで理解していないことが露呈してる。
宗教というのは、「監視」じゃない。存在に意味を与える試みであり、人間という理性と死を意識する唯一の動物が、自壊せずに生を構築するための統合知だ。
お前の言う「神様が見てるからいい子にしましょうね」程度の理解は、宗教の末端的な副次効果、それも牧師の子ども向け説教レベルだ。中世神学者が聞いたら血尿を噴くぞ。
それに、「宗教がなくなると監視カメラを増やすしかない」? それは逆だ。宗教の衰退というのは、意味の空白が生じた社会に、形式と制度で蓋をする現象だ。
倫理が崩壊したからカメラが増えるんじゃない、倫理を制度に置き換えようとする過程でカメラが増える。
つまり、宗教とは「監視の代替」ではなく、監視の発生を抑止する思想インフラだった。
分かるか? カメラを増やさせないためにあったのが宗教なんだよ。
さらに、「日本は世間が宗教代わり」などという話も、通俗的な文化論に酔った自己愛発言だな。
日本に宗教がない? だったらお前の毎年初詣は何だ? なぜ無神論者が合格祈願に神社へ行く?
あれを『監視カメラ参拝』とでも言うのか? まるで鏡を見て自己放尿してるのと変わらん。
「神が監視してる」という考えをバカにするが、じゃあお前は誰にも見られてなければ何をしてもいいのか?
もしそうなら、お前の道徳は全裸の放尿レベル、羞恥心がないのではなく、羞恥の存在すら知らない赤子以下だ。
宗教を「監視カメラ」と断じて悦に入るような浅知恵は、せいぜいTwitterのトイレ個室レベルで垂れ流すにとどめておけ。
本気で論じたいなら、少なくとも「神とは何か」「規範とは何によって生成されるか」「制度と思想の相関」くらいは勉強してから来い。
近年放送された『ガンダムジークアクス』は、視聴者の間で賛否両論を巻き起こしている。その大きな理由の一つが、「とにかく情報量が多い」という点だ。画面に映るシンボル、断片的に提示される過去の戦争、唐突に引用される哲学用語や神話モチーフ。これらが次々に提示されるにもかかわらず、ストーリーの本筋に対する説明や関連づけはほとんどされない。まるで「意味があるように見せる」情報のシャワーに晒されるような視聴体験だ。
この感覚、どこかで経験したことがある――そう思った視聴者は多いだろう。1995年に放送されたテレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』もまた、まさに同じような作りだった。エヴァンゲリオンもまた、謎が謎を呼ぶ構成、断片的に差し込まれる宗教的記号や心理学的用語、キャラクターの内面描写が突如として象徴化される演出など、「情報の多さと不明瞭さ」が最大の特徴だった。だが、今振り返ると、多くの視聴者が没頭していたそれらの“考察”の多くは、本筋のストーリーとは実はほとんど関係がなかった。
たとえば、「カバラの生命の木」や「セフィロトの樹」、「ロンギヌスの槍」など、当時は「この配置には深い意味があるに違いない」と騒がれたが、後に監督自身が「それっぽく見せるために使っただけ」と述べている。つまり、それらは「本質」ではなく、演出上の装飾だったのである。
これとまったく同じことが、今『ガンダムジークアクス』でも起こっている。情報過多、意味深なセリフ、過去作の引用――それらを受け取った視聴者たちは、掲示板やSNS、考察系YouTubeチャンネルなどで、あれやこれやと解釈を試みている。しかし、そこに見出された“深読み”の多くは、結局のところ物語の展開とは直接関係しない。なぜなら、それらの情報は「世界観をそれっぽく見せるため」のツールであり、作者からの「本当に読んでほしい意図」ではないからだ。
では、こうした「意味のない情報量」による演出は、視聴者を欺くためのものであり、悪しき作劇法なのだろうか? いや、決してそうではない。むしろ、そうした“意味のない意味深さ”こそが、今のアニメ文化における重要な快楽のひとつになっている。つまり、「意味があるように見える情報」を自分たちで咀嚼し、解釈し、語り合うというプロセス自体がエンターテイメントなのだ。
エヴァンゲリオンの時代は、まだネットが発達していなかったため、考察は雑誌の読者投稿欄や、限られたオタク同士の会話の中で行われていた。しかし、現在ではSNSやYouTubeなどのプラットフォームが整備され、視聴者が考察を“コンテンツ”として発信・共有する時代になった。『ガンダムジークアクス』は、そのような現代的な「考察文化」にぴったりとフィットする作品なのである。
とはいえ、ここで忘れてはならないのは、**「考察と物語は別物である」**という点だ。考察はあくまで視聴者側の楽しみであり、物語の本質はその枠の外にある。エヴァンゲリオンの本質は、父との関係に苦しむ少年の心の成長であり、ガンダムジークアクスの核もまた、パイロットたちの「選択」と「責任」の物語である。シンボルや用語が何を意味しているのかに囚われすぎると、かえってその本質を見失う危険がある。
結局のところ、情報量の多さは、作中世界に厚みやリアリティを与えるための「霧」なのかもしれない。その霧の中に意味を探そうとする視聴者の営みもまた、作品を楽しむ一つの方法であることは間違いない。しかし、その霧の向こうにある「物語の本筋」を見失ってはならない。情報を読み解く楽しさと、物語を味わう感動の両方を得るためには、「この情報は本当に必要なのか?」という視点を持つことが、実はとても大切なのではないだろうか。
『ガンダムジークアクス』の情報過多に圧倒されながらも、どこか懐かしさを覚えるのは、それがエヴァンゲリオン的な「問いかけの形式」を受け継いでいるからだ。だが、その形式の本質は、「答えが提示されること」ではなく、「答えのない問いを前にして、我々がどう考えるか」にある。つまり、考察とは“解答”ではなく、“自己の姿勢”の表れなのだ。
だからこそ、『ジークアクス』のような作品に向き合うとき、必要なのは「正解」を求めることではない。むしろ、あの情報量の洪水の中で、自分が何を感じ、どう解釈したのか――その“対話”こそが、この種の作品の最大の魅力であり、現代アニメ文化における「考察することの意味」なのだろう。
古典文学が「マウントを取るためのもの」だったという視点、確かに歴史の中でそれが一部の階層にとっては**機能**していたのは事実です。
とくに古代~中世~近世の支配層や知識階級において、文字を読めること、ましてや漢文・ラテン語・和歌・詩文などを理解することは、**選ばれた者だけが持つ資格**として扱われました。
「秘伝」という形でわざと難しく、閉じられた知識体系にしておくのも、その地位を維持・強化するための戦略だったわけです。
たとえば、源氏物語の解釈ですら江戸時代には「特定の家」だけが継承できるようなものとされていたこともあります。
ただ、それだけではないとも思います。
文学は、ある種の「美しさ」や「真理」を言語で捉えようとした記録でもあります。
だから、そうした意図――たとえば**人間とは何か、愛とは何か、死とは何か**――を真剣に追求した書も確かに存在する。
マウント道具として利用された一方で、それを超えて人の心を揺さぶる力を持ち得るのも、古典文学のもう一つの側面です。
でも、それが今に残っている理由が、「単にエラい人が残したから」だという冷めた見方も、やはり拭いきれません。
残す側の「都合」が大きく影響していたのは、どうしても否定できない。
結局、どちらの側面もあるんです。
ガンダムもアイドルも全く通ってこなかったからあんまりピンとこないが、ガンダムってパロディアニメ的な側面が強い作品なのか?オリジナルで硬派なIPかと思ってたわ
ことジークアクスにおいては乃木坂46を聖典に位置付けて履修しとかないと芯を食った考察はできないのはアイドルファンじゃないと辛かろうなぁ
推しを作品にねじ込むのは気持ち悪いなぁ程度の感想しかないけど、負の歴史である2014年の虚実三銃士まで引っ張ってきて墓標まで立ててってのは人の心が無さ過ぎると思いますね
まぁ公式には何も言ってないので、こじつけ難癖の域を出ないだろうけど、芸能人の不倫否定と同じで受け手が問題ないと思えば愛され続けるしアカンと思えば人が離れていくだけだよな
それにしても増田で結構盛り上がるんだな。思えば匿名オタクの吹き溜まりみたいなところだもんな
TES世界も王道中世ファンタジーの大パロディの中に刀とか日本のパロディも入ってくるしそういうもんだよな!
そこに乃木坂とか入ってきたら即座にかなぐり捨てるが
中国が内需拡大に動いてるのは事実だが、それは今なお内需が成立していない証拠だ。
内需=国民の可処分所得と中間層の厚みで成立するが、中国の年収中央値は都市部ですら130万円前後、地方はそれ以下。
これは先進国どころか、マレーシアやタイと比較しても下位だ。つまり中国は巨大な経済規模を持ちながら、実態は全体として貧困。
都市の見た目は派手でも、全国民の6〜7割は年収100万円未満で暮らしている。日本の弱者男性の年収は400万。どう考えても日本のほうが一人あたりで見れば強い。
これは購買力・金融資産・税収・福祉全てに影響する。GDPをいくら積み上げても、それを国内で使える層がいない。だから投資依存→過剰設備→バブル→不良債権のループから抜け出せない。
「バブル崩壊は軽微」?現実は住宅ローン支払い停止運動、デベロッパー大量倒産、地方債務膨張、若年失業率20%以上。これを軽微と言い張るのは、火事の中で「温かいですね」と言うようなものだ。
香港のGDP?関係ない。あそこは本土と通貨も制度も分離した外国資本の中継地。それを出してきて「中国の先進性」だと叫ぶのは、離島の免税店の売上で国家を語るようなもの。
そもそも中国の本質は「国民の大半が貧困のまま、国家が先端産業にフルベットする超格差経済」。
だから経済成長率が高かろうが、生活の質は上がらないし、社会は不安定化する。つまりこれはもう国家の富ではなく、集団的な中世的労働搾取であり、先進国とは根本的に異なる経済モデルだ。
違うだろ。思想の自由とは「気に入らない思想も共存する」ことを許容する概念だ。
そこから逸脱した瞬間、それはただの独裁放尿だ。自由じゃない、ただの脅しだよ。
そもそも、君が「思想の自由を否定しろ」と思想してる時点で、その思想の発露を誰が守ってやってると思ってる?
自由の枠組みだろうが。自由の盾の下で自由を否定する。それは、自分の足場にノコギリ入れて「安定して立ってる!」って叫んでるのと同じ。
愚の骨頂、知的放尿だ。
これで論理が勝ったと思うなら、君は中世の拷問官と同じ発想だ。
君の主張が本当に正しいなら、言葉で証明してみせろ。できないから口を縫いたがる。それがすべてを物語っている。
そしてな、君の言う「有害な思想」とは、何にとっての害なのか? 権力か? 自尊心か? 君の妄想にとってか?
君が有害だと思うものが消された世界は、君自身が次に消される番の世界だ。検閲国家は必ず内ゲバを始める。歴史がそれを証明している。
もし本当にこの社会に君の言うような統制と抑圧が必要だと考えるなら、まず君が自主的に思考停止して、沈黙の手本を見せろ。
君の中の言論を自ら抹消してから、もう一度、思想の自由に土下座して謝るべきだ。
俺が有害であるなら、それは君の脆弱な論理にとっての毒という意味だ。
なんか「本気で言ってるのだろうか」と思うのが多かったので
何も言えないともやもやするので書き散らかし
エヴァがウルトラマンネタ豊富、シン仮面が仮面ライダーネタ豊富、とかにかこつけて言っている人がいる
正直、それらと「宇宙世紀IF(他社の版権シリーズを企業として受託したもの)のガンダムで乃木坂」が同列に見えてるなら、かなり驚く
庵野さんのそれは、一本道の文脈にのっとった再解釈やサービスだ
エヴァはウルトラマンが好きすぎる氏の自分の「光の巨人」再解釈シリーズとしてまっすぐに完全新規IPとして打ち出されているし、
シン仮面だってそもそもが再解釈&リブートを個人監督として依頼されての仕事だ
「ガンダムの宇宙世紀IFが、実は監督の個人的な趣味であるあれもこれも乃木坂を仕込む喜び優先で作られていた」とは意味も出自も違いすぎる
・面白ければ何でもいいだろ1
その通り
キャラの名前が実は好きなアイドルから取ってきていて……なんてどうでもいい
ところが、ジークアクスは6話までいろいろと煮え切らない、脚本軸でも映像軸でもどっちで見ても微妙な作品かも……という状況
毎週宇宙世紀大好きなガンダムオタクたちが、指人形的に出演する旧キャラおよびその次回予告について線ではなく点で盛り上がっているだけという現状だ
宇宙世紀にもかかわらずメインキャラたちの精神性は30年ほど前の若者然としており、共感を覚えることも好きにもさせてくれない
外見がかわいい、ぐらい
OPアニメも戦闘シーンも、スローモーションやストップモーションの見得切りが多用されすぎていて、スピード感を犠牲にしてまで尺を稼いでいる印象だ
OPの0:57と1:13~1:16は正気かと思う 嘘だろ、なんとかならなかったのか、と もうちょっと頑張ってほしかった、と
……という脚本的にも映像的にもなんかなぁという中で、乃木坂の再現だけは目を血走らせて頑張っていたことが判明
ニャアンの本棚をニャアンの元ネタの人の本棚に丁寧に再現して映す予算と工数で、脚本はともかく戦闘シーンのスピード感は改善できなかったのか
ジオン工科大学の赤本さえ写せばいいとして、他は抜いてもいい部分だ
(ギャグ漫画日和だけ監督の自著に差し替えられているのは、どういう意図でどれほど細かい直接指示があったのか狂気的に感じる)
優先順位的に、「そう」なのか
そういう疑惑が事後発覚から生まれてしまうのは、当然不安や不満として表出する
・面白ければ何でもいいだろ2
前項で好きなネタを組み込むオーバーラップは面白ければ何でもいいと言ったものの、それはキャラクターの内面に及ばない範囲でのことだ
ニャアンがラーメンをかっ込むシーンが、ニャアンの元ネタの人の過去放送シーンのトレス的で済まされている
特徴的な端の持ち方(親指が立つ)などもそのままだ
ニャアンは難民という設定があり(ちゃんと描かれてないし6話の部屋もかなり豊かに見えるが)、
いわゆる躾け的なことも受けていないからこういう食べ方……と思っていたら、元ネタの乃木坂の人のトレス的パロディであったことが発覚する
これはまた別問題となる
作中世界のキャラのパーソナリティよりも、モチーフの人の行動を真似させることを優先するなら、それはもうちぐはぐだ
乃木坂の人は宇宙世紀の人でもなければ難民でもなく、その言や動をトレスすることに必然性はないので
ファンマインドの表明が作品世界作りよりも優先されているとしたら、それは本来的な意味で真面目に作っていないと言えるだろう
その真偽がどうあれ、疑義が発生すること自体、プロならば当然に避けることだ
これが一番驚く
さすがに情報を全然知らないで行っているか、工作員か、ネタだと思いたいが
ただ単に純粋な創作をしているだけで、何から何までここまで語や描写がかぶることは絶対にありえない
マチュとニャアンの愛称に加えて本棚のだけで黒であり、シイコ・スガイの名前、コインランドリー、アンキーの水着などは「頑張ってこだわりすぎている」レベルだ
uuuuuuXがwwwXなんて一周回って「なるほど、すごいな」と拍手を贈りたくなったほどだ
こじつけでも何でもなく、制作段階での監督と周囲の提灯持ちたちはノリノリでアレも入れようこれも入れよう、ウハーッと盛り上がっていたことだろう
こんな杜撰な創作においてもノーを言わせてもらえない現場は「うへえ」だっただろうが
見え見えの絶対王政を前に絶対王政なんて陰謀論で起きていない、というのはさすがに驚いた
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こんな感じ
尊敬できるかできないかで言えば全然できないし、好きか嫌いかで言えば大嫌いだ
というか、駆け出し期の新人が「実はすごいことをしている」とウヘヘヘヘと持ってくるものが大体こういう「裏設定・パロディ盛り」だ
作品世界を突き詰めることより、作中でプラスに機能しない自己満足的な裏設定を盛り込んで、自分だけが真言を知る教祖になることを目論むエセ創作だ
古い漫画で「バクマン。」があるが、あれの漫画家志望主人公二人の原稿をジャンプの編集者が最初に見て最初に驚嘆し認めるのは、
(この歳で、ここまでエゴを排して作品を構築しているとは……)という点においてだ
センスを誤解する創作初心者にありがちな自己満足的な内容がなく、ただただ作品世界がその中身だけで打点が上がるように仕上げていてすごい、という表現である
残念ながら、ジークアクスはそういう次元になかったことは今回の件で明らかになってしまった
とはいえ、私がさらに気になるのは「結局、バレてほしかったのか、バレてほしくなかったのか」という点だ
ここまで露骨に、しかも予算と工数をかけてまで盛り込んでいるのならば、バレてほしいのではないか……と思いつつ、
直前のアニメメディア等のインタビューではここまで執拗に盛り込んだ乃木坂に一切触れていない
やはり、不実レベルのおかしな優先順位に依った制作はバレたらまずいという自覚はあるのか
もしそうならば、なぜここまでしてしまったのか
これは私の想像力が及ばず、モヤッとしているところだ
まあ、やりきった後に発覚→バンダイから絶対に言うなと釘刺し、が一番ありそうな所だけど
どこまでの関係者のレイヤーが「薄々気付いていた」のかはともかく、
今、バンダイは大変だろうなと思う
バンダイやアイドル組織と完全に話がついていたのならともかく、実在する人物や集団を核にしての事後承諾は、ビジネスの世界では実にいろいろある
そもそも並以上のプロなら、まともな大集団を率いるPJTの長なら、自作を騙って他作への愛ばかり表明したいという発想がまず浮かばない
女オタクはカップリングに地雷があり、解釈違いで喧嘩がおこるし、それを見せないために検索避けする。
また、別ジャンルに対しても地雷があるのでアカウントは作品ごとに分ける
という文化を聞いてめんどくせーなって思った。
男オタクは全然そういう地雷とかないし、not for meで済ませられるのにと
機動戦士Gundam GQuuuuuuX(機動戦士ガンダム ジークアクス)だ
これは、従来の宇宙世紀のIF戦記物として、過去作の設定を大胆アレンジした作品だ。
また、キャラクターの造形もポップに今風にして、新規のファンの獲得も多い。
一方で、歴史改変を行ってはいるが今までのガンダムシリーズの設定は引き継いでさらに発展させており、従来のファンも納得の作品になっている。
シャリア・ブルとシャアのBLとか、マチュとニャアンのGLとか色々ある。
どのキャラがどうCPされても良いんだが、僕の中の厄介な部分がピキるスイッチを発見した。
例えば、疑似重力の件
BL二次創作でソドンの疑似重力が止まり、急にフワっとなりシャアとシャリア・ブルがくんずほぐれつ。。。みたいな描写の二次創作があったんだが、
重力発生装置とかいわれていて、「ああ違うそうじゃない。装置じゃないんだ」と思ったり、
「ソドンの腹巻みたいな部分が回ってるんだよ。急に止まったらまず壁に衝突するでしょ」とか気になったり。
後よくあるのは、シャリア・ブルがエグザベ君の思考を読んで、誘惑をするパターンもあるけど
「ニュータイプは思考を読めるわけじゃないんだよ。無意識で相手を分かりあえるんだよ。」とか
元々作品が持つ前提に対して非常にメンドクサイ奴だということがわかった。
結局経営者とか運営の思想次第なので、そこら辺が社会常識があり「人を雇う」「人を働かせる」「法人として各種法律を守って労働者の管理を行う」という感覚があるならまともになる
そういう感覚がかけてる、「働かせてやってる」「労基とか安全とか硬いこと言うな」みたいな奴がやるとブラック企業通り越して中世の奴隷契約みたいなノリすらでてくる
一応腐っても赤の他人を雇って働かせるのがデフォの一般企業と違って、労基が適用されない身内で回すのが基本の農業界隈はそういう常識欠けてる人も多い
なので全部が闇というより「まともな所はまともだけど闇が深い所はめちゃくちゃ闇が深くて、事件化でもしないと同業者すら認知しにくい。というかそいつらも親から受け継いだ農地と農家でしか働たらいたことない連中が結構いて社会の一般常識がかけてたりする」という感じ
教皇は無事レオ14世に定まった。レオの名前の登板は1903年死去の13世以来である。
先代はオリジナルな教皇名を名乗り、先々代は80年ぶり襲名のベネディクト。その前のヨハネ・パウロはその前が33日で死亡(暗殺説有)を引き継いだ形である。
一方、昔の教皇名で今使っていない"留め名"になっているものも結構ある(留め名は、落語・相撲でその名を継がせない措置。普通はそれを上回れないとみなされるので。志ん生なんか)。
じゃあなんでこれが留まっているのか、代数の多い十一傑から探ろう。11としたのは当代レオが入っちゃうから枠を拡大しているのである。
なお教皇の名前は1回だけの奴が44人おり、襲名された名前は37。明らかに永久欠番なのは、初代のペテロである。これは対立教皇(非正統/主流の勝手名乗り。熊沢天皇的な)が名乗ったケースがある。意気や良しだが、簒奪には至らなかった・・・。
教皇名 | 最終代 | 最終在位 | 最終代の事績 |
ヨハネ | 23 | 1958-63 | 短期間の「繋ぎの教皇」。近代化を図り第2バチカン公会議開催。列聖。ただしこの名前は対立教皇の存在から500年忌避されていた |
ベネディクト | 16 | 2002-13 | 先々代で襲名は80年ぶり。本人の敬意(先代と同名修道会創始者)による |
グレゴリウス | 16 | 1831-46 | イタリア統一を読み切れず世俗国家と溝。反近代主義 |
クレメンス | 14 | 1769-74 | 反イエズス会で禁止令。世俗の圧力に抗しきれず。美術品の一般公開開始 |
レオ | 14 | 当代 | どうなるかはシラネ |
インノケンティウス | 13 | 1721-24 | 反イエズス会。フランスの一部離反招く |
ピウス | 12 | 1939-58 | 外交分野に足跡もナチとの政教条約が汚点。批判が今世紀になって覆されつつあり |
ボニファティウス | 9 | 1389-1404 | 教会大分裂修復せず。聖職売買や贖宥状で悪名 |
ステファヌス | 9/10 | 1057-58 | 在位7月。修道院改革も東西教会分裂早める。初代が聖別前に死去したゴタで代数が2通りある |
ウルバヌス | 8 | 1623-44 | 教皇領最大も巨額負債で教皇庁弱体化。最後の中世的教皇 |
アレクサンデル | 8 | 1689-91 | 縁故主義で財政悪化 |
これ以下の雑魚は以下を参照のこと
https://en.wikipedia.org/wiki/Papal_name#Papal_names
纏めた限りだとまあ、これを襲名しようという気には・・・ならないメンツが多いすな特に近世以前は。ヨハネ、ベネディクトあたりはまだ芽がありそう。これとレオを合わせて当面使い回すのかしら。
ダンジョン飯が「お約束的世界観に対して上から目線でメスを入れ」るコンセプトだと聞いて意外だった。というのもあの作者がやってる事は当たり前の世界観構築の一つだと思っていたから。
>ダンジョン飯みたいな「古典RPGのお約束的世界観に対して上から目線でメスを入れようとする作品」が前から嫌いだった
https://anond.hatelabo.jp/20250427090957
多分なんだが、元増田はJRPG一貫でRPG黎明期とかに興味がないのではないか。
そういう約束事というのは最初からあったのではない。グラフィックがプアな黎明期に製作者達が共同幻想を構築していったので出来たものなのだ。
ダンジョンはそもそも城の地下に築かれる地下牢を指していた。中世~近世のヨーロッパには教育刑の概念はない。だから地下牢では拷問が行われたり単に囚人を放置して餓死させたりしていたし、灯火も無く発狂必須だったりした。大きさはそんなに広くはない。
そこから怨念が染みついた恐ろしい場所というイメージが付いた。
更に城が放棄されて崩壊しても地下構造は残る。そこで「崩壊した古城の地下には財宝が残っているかも」という妄想が付きまとうようになった。
1970年代のテーブルトークRPG(TRPG)の代表、D&D(ダンジョンズ・アンド・ドラゴンズ)ではこの妄想を膨らませ、「ダンジョンには巨大構造があって深くなうほど怪物が強くなって最奥にはドラゴンが財宝を守っている」という設定を作った。
ゲーム盤はただのマス目とサイコロだけであり、付属のカードのイラストで世界観を想像してね、という仕様だ。
因みにドラゴンは旧約聖書にも載っている「悪の手先」で、モンサンミッシェル寺院の屋根の上でミカエルに踏んづけられていたりする。昔からだれもが知っている悪の手先とダンジョンの妄想世界観を組み合わせたんだな。
黎明期にはこの手の「世界観設定」の途中で意味が付与された事物が沢山ある。例えば
羽が生えた悪魔みたいな生物、ガーゴイルだが、これは元々はキリスト教会の雨樋のことだ。
教会建築では建物が痛まないように屋根の雨を壁から離れたところに落とす為の雨樋を付ける。日本の雨落しみたいな方法だ。
この雨樋の水出口には動物や怪物の顔から吐出するデザインが用いられていた。ごれがガーゴイルで、「うがいでガラガラ」みたいなオノマトペなのだ。ガラガラ言うからガーゴ。
ローマ水道で吐出口がライオンの頭みたいなもんで、欧州の伝統的な魔除けデザインだった。
これを黎明期RPGでは悪魔型怪物として「生命」を持たせたのだな。
エルフの伝説は各地によって異なり、悪戯好きの悪鬼の地域もある。これが今の耳が尖って痩身で聡明という風に固定されていった。
特にRPGの約束事の形成に影響を与えたのがウルティマ Ultima、バーズテイル The Bard's Tale、ウィザードリー Wizardryの三つだ。
このうちバーズテイルは日本だとややマイナーかもしれない。これは発売時期が他の二つより遅くてJRPGの発売時期と被ってしまった為だ。
でもこの作者はUltima、wizを繋ぐ鎹みたいな人物だ。バーズテイルの舞台はスコットランドに現存する遺跡から名を取ったスカエブレイという町なのだが、このスカラブレイという町はウルティマにも登場する。そこにはホークウィンドという重要人物が居るんだが、これがバーズテイル作者のロー・アダムスの成り替わりキャラ。
一方、wizには人間離れした強さの忍者、ホークウインドが登場する。これもロー・アダムス。
で、この三つの作者はD&Dが作ったファンタジーRPGの世界を拡大して今の「約束事」が出来ていくわけだ。この時独立独歩じゃなくて三大タイトル作者三人が協働したのが大きい。一人のアイデアを他が模倣する事で世界観が確立していくわけだから。
だからこの当時のプレイガイドなどを見ると、所謂攻略本などとはかなり違う。「この怪物はどういう生き物か」「この地形はどういうものなのか」という設定資料的な記述がとても厚い。
グラが貧弱な分、そういう所で世界観を膨らませる&作者たちの世界観を共有する事がプレイの楽しみという感じなのだ。それはだから単なるゲームではなくかなり文化の香りを纏っていた。
これを翻訳した日本でもその世界観の紹介は重要コンテンツとなった。何しろRPGという約束事が無い所にコンテンツを持ってくるのだから。
でもそのせいで恥ずかしい失敗もしている。代表例が、wizに出てくるかなり強い剣「blade cusinart」を「名匠カシナートの打った名刀」と紹介してしまったことだ。これの正しい訳は「クイジナートのフードプロセッサ」なんである。
cusinartはアメリカのキッチン用品メーカーであって、作者は悪ふざけで入れたアイテムだったのだが、翻訳チームはその辺のニュアンスを感じ取れなかった。今のフランス料理を「ヌーベルキュイジーヌ」って呼ぶこと、綴りを知ってたら間違えなかったのにな。
こんな風に三大タイトルは世界観構築に勤しんでRPGというジャンルを形成していったのだが、そのうちのウルティマがRPGの約束事を超えて風変りな変化を始める。
まず、モンスターを殺しまくってラスボスを倒し、財宝を手に入れ救世主として祭り上げられる、というRPGの目標を無視して、時に二律背反する命題を乗り越えて善行を積み、人格者として成就するというのがゲームの目標になる。
次に世界を救ったはずが他者の文明を破壊しており、他の種族の侵攻の原因を作ったのが主人公だった。その種族との調停和平を目指すというのがゲームの目標になる。
次にNPCが生活するようになり、店員は夜になると家に歩いて帰り、食事をして寝る。だから夜に店に行ってもサービスを受けられない。
次に凡そすべてのアイテムが動かせるようになり、好きな所に置いておくことができる。移動した物はそのままそこに残り、位置もセーブされる。ついでにそれらに生命を吹き込むと勝手に移動する。
これらはもうゲームの進行に何も関係が無い。だけど現実世界では物は動かせて外出から戻ってもそのままある。会社員は定時で退社して家に移動してご飯食べて寝る。だったら再現するのが当たり前だ、という考えである。
そしてこういう現実で出来る事は出来るようにするという仮想世界構築の妄執がウルティマオンラインという世界初のMMOを産んだのだった。
当初のウルティマオンラインの熱量というのは語り草で、ドワンゴの川上量生が時々熱っぽい文章を書いているのを見た事があるかも知れない。
これは単に初めてのネトゲと言うだけじゃなくて、RPGとしては異常なものであったからだ。
というのも、当初のUOにはクエストも無ければクリア目標もない。一切無い。ただ仮想世界があるだけ。
モンスターが徘徊する世界を強くなれば安全に冒険できるが、装備品は鍛冶屋に作ってもらう必要がある。でも一人で沢山のスキルを持つ事はできないようになっている。だから協働必須なのだ。
更に鍛冶屋は原料を仕入れる必要がある。原料→中間製品→製品とする事で、疑似的な経済循環が成立する。オフラインゲームしかやった事無い人がこんな世界に放り込まれたら最初は困惑するがやがてハマって「もう一つの世界」から出て来れなくなる。
しかもなんの役に立たないアイテムが超大量に存在する。ゲームじゃなくて仮想の「世界」であるならそれは当然だな。
「RPG世界を構築する」の妄執を続けていったら到達した怪作と言っていいだろう。
ただ、プレイヤーの行動は作者の思惑とは違うところも多かったようだ。
最初は店のアイテムもそのまま移動できた。だがリアルでそれを持って行くのが悪徳なら仮想世界内でもそれを控えるだろう、と作者は考えたが、そうはならず結局は制限を付けるしかなかった。
一方、ゲーム産業が隆盛した日本ではRPGはそれらとは違う進化を遂げることになった。やる事が細分化されて示され、それをクリアするのが目標となった。
また、「この〇〇というのは古代ケルトの風習で」とか「ケルトの風習なら△△では□□をするのがしきたりか」みたいな世界解釈をするという文化的文脈が余り無い。すると余計な詮索は世界に半畳を入れるような無粋な真似、という事になる。
するとお約束世界観に対する解釈を行う行為がポストモダンの「脱構築」の如くと言うのは得心が行く。
でもポモが虚仮にされるのは、世界に対する自分のルサンチマンが見えるからだ。批判の対象になるものをまるで理解も出来ないのに、「独自解釈」で切ればその対象の支配者になった気分になる。彼らはその為にやっている。概ねその対象は職業社会や国際関係などの身体的に揉まれないと会得出来ないもの、基礎常識が大量に必要になる物が多い。
そのノリでサブカルチャーなどの作品やジャンルを斬れば斬られた方は棄損するしユーザー層は冷や水掛けられてシラケる。
だけどダン飯の場合は棄損して終わりではなくて、先に述べた黎明期の世界観構築と相同の行為であるからポモなんてゴミとはかなり違うだろう。
そもそも年喰ったポモなんてネトウヨになってるのが相場だ。心性が右翼だからじゃなくて社会にコミット出来ない自分の自我保護の為にやってるのだな。はてなにも居るな。彼らって言ったがはてなのは彼女らかな。
ファンタジーで日本刀が強すぎ、とか侍が特別扱いされ過ぎ、というのがよく話題にのぼるが、これもRPGが関係してるのよ。
1960~70年代に日本ブームがあった。このブームの主体はアメリカの反体制ベビーブーマーで、要するにヒッピーの類縁なのだ。
当時のアメリカの若者の一部は己らの西洋文明がイヤになっていた。物質主義で、商業主義で、民族自立に対して戦争で弾圧していた。理想主義だったマルクス主義はとんでもない抑圧的体制にしかなっていない。
そこで注目されたのが東洋哲学、特に禅だった。特に「日本の禅」に強く吸引されたのだ。当時の日本は敗戦で世界の表舞台から消え、工業が再興して居たが文化的には謎の国となっていた。ビートニクと呼ばれる小説家集団の影響もある。
端的にいうと、ヒッピー的には日本とは精神的で特別な存在だった。
これが同時代のサブカルチャーに影響を与えるようになる。例えばスターウォーズのジェダイとは時代劇の「ジダイ」の事で、侍に類した強い精神性を武器としている。
だからwizには他の地域の戦士はいないのに最初から侍と忍者は登場する。ウルティマにも刀が登場する。
また、日本刀の制作は限られた刀匠以外には禁止された事もあり、その制作過程は過剰に伝統工芸的で精神的だ。これもヒッピー的文脈にある人を魅了した。
故に1980年前半に勃興したコンピュータRPGに登場したのだ。だからムラマサはワードナでも真っ二つなのだ。彼ら制作陣はベビーブーマー後期からその下の世代である。
因みにウルティマの作者の思想はガチヒッピーである。ウルティマ6のオープニングに表れているので暇があったら見てみて。https://youtu.be/7nBWuV_E6Eg?si=WIOEs3PObTpBFADO&t=462
魔法の残量をマジックポイントMPと書くゲームとマナと書くゲームがあるだろう。
この「マナ」というのは文化人類学用語なのだ。民族部族で魔法や神力があると信じられている場合、その力をマナと言うのである。だからMPよりもより正しい用語に直したのだな。
だからあのマンガがやってる事は物語にメスを入れて切り裂く行為ではなくて、黎明期に構築していった行為と相同であり、黎明期の精神を共有していると見える。
というか、wizやウルティマのプレイガイドそっくりなのだ。作者がwizを後からプレイしたと知って驚いたくらいなのだ。
因みに増田は普段はマンガを読まないのだが、ダン飯にはハマってしまい、その世界が終わるのがイヤで最終巻をまだ読んでいないのだ。我ながら病的である。
ところでなんでもサービスイン当初のUOをやりたいと考える人は多く、その為のクラシックサーバが出来たようなのだ。増田もちょっとやってみようかな。
しかし、報告に限って言えば、トランス女性を女性として扱わない立場からのものであるものの、表現は抑制されたものであり、反論や議論に開かれており、
その形式は「学会活動の自由と公正のための宣言」で謳われる「あらゆる形態の差別をしない」に反するものとは見られない。
いや そもそも「トランス女性を女性として扱わない」というスタンスは現代において発言はもちろん思想として認められないと思うんだが…
重度身体障害者は殺すべきか
と同じことを言ってるようにしか聞こえない
異常者の発想
ギャグで言ってるのか
そうでないなら犯罪者予備軍だろ
なにいってんだ?
と何が違うんだ?
イカレてんのか?
正気か?
https://x.com/jk_rowling/status/1918747065460420745
英国最高裁による性別に基づく権利の判決を批判する、最近の学界や芸術界からの公開書簡を受けて思い出しておくべきかもしれないのは、「人間が性別を変えられる」とか「性別の二分法は物質的事実ではない」と本気で信じている正気の人間など、かつて一人としていなかったし、今もいないということだ。こうした書簡は、我々が痛いほど知っていること、つまり「この虚構を信じるふりをすることがエリート階層の美徳の証となっている」という現実を再確認させるだけである。
私は時折思うのだ。こうした書簡の署名者たちは、良心の声を押し殺してから、女性や少女の権利を奪い、異性愛への拒否を公言する同性愛者をいじめ、心に問題を抱える子どもたちの不妊化を推進する運動を、どうにかして公に支援しているのではないかと。彼らは、自分たちの信仰の根幹にある「トランス女性は女性、トランス男性は男性」という嘘を唱えながら、何の呵責も覚えないのだろうか?
私にはわからない。ただ一つ確信しているのは、「そのスローガンは自己矛盾のナンセンスだ」とジェンダー活動家に説得しても全く無駄だということだ。というのも、彼らはそれが真実だから唱えているのではなく、むしろ「嘘であること」こそが核心だからだ。彼らはその嘘を「真実にする」ために、他人全員に強制的に信じさせようとしている。あの嘘は、カテキズム(教義問答)であり十字架でもある。「私は神の側に属している」と説明する手間を省く呪文であり、悪魔的な事実や理性を祓うための武器であり、偽科学と詭弁を推し進めるための呪符でもあるのだ。
こうした書簡の署名者たちは恐怖に動かされている、という意見もある。キャリアを失う恐怖、そして時には暴力に訴える狂信的で自己愛的な男たち、告げ口を喜ぶ同僚、ネット上で晒し者にする者、レイプの脅迫をする者、そして自由主義的職業階層の中枢に潜む影響力のある熱狂者たちへの恐怖だ。もっとも、こうした人々が果たして「自由主義的」かどうかは疑問だが。ジェンダー・イデオロギーは、異端者を罰する点で中世カトリックにも負けないほどである。ならば頭を低くして「アヴェ・マルヴェイニー」を唱えるのが賢明なのでは?
とはいえ、怖気づいて裏でこっそりTERF的な思考を抱えているTWAW信者たちに同情する前に、彼らの多くが進んで松明や熊手を手に取り、異端審問の粛清に加わったことを忘れてはならない。私に「女性らしい」同情心が欠けていると非難されても構わない。彼らが助長し、時には先頭に立って資金提供までしてきた数々の害悪——弱者女性への糾弾と羞恥、生活手段の強制的剥奪、未成年への無規制な医療実験——を思えば、私の涙腺は最初から枯れているのだ。
歴史は、不合理かつ有害で、かつては絶対視されていた信仰体系の瓦礫で満ちている。オーウェルの言葉を借りれば、「知識人だけが信じるほど愚かな考え」もある。ジェンダー・イデオロギーは、上から押し付けられる形で我々の制度に深く根を張っているが、決して無敵ではない。
司法の場での敗北は積み重なりつつある。ジェンダー活動家の傲慢さ、過剰な要求、自惚れ、攻撃性は、日ごとに世論の支持を削っている。女性たちは反撃に出ており、着実に勝利を手にしている。スポーツ団体はようやく目を覚まし、「男性は女性より大きく、強く、速い」という事実を思い出した。医療界の一部も、「10代少女の健康な乳房を切除することが本当に心の健康の回復なのか?」と疑問を呈し始めている。
「トランス女性は女性、トランス男性は男性」――この一見無害な白い嘘を、ほとんどの場合、深く考えもせずに口にしたところから始まって、数年のうちに、自分は道徳的に最も高潔だと信じる人々が、「そう、レイプ犯の代名詞は死守すべきものだ」とタイプし、全女性対象のレイプ・クライシスセンターを求める女性は「絞首刑にされ斬首されるべき」と叫ぶ人々と肩を並べ、過去最大級の医療スキャンダルが明るみに出つつある中でもなお、それを必死に否定し続けている。
彼らは一体、自分がどうしてこんな場所に辿り着いたのか、時折でも考えることがあるのだろうか? そして、いつか恥を知る日は来るのだろうか?
世界は「19世紀」に戻り、米国は「非自由主義的民主主義」に陥りつつある | 一人の男のエゴイズムのため
というクーリエジャポン(中身はLe Monde)の記事へのブコメでランド研究所のレポート を教えてもらった。
そのブコメとはこちら https://b.hatena.ne.jp/entry/4769813175171719233/comment/shugetsu-sai
アメリカのランド研究所では、2000年頃から既に世界は「新中世主義」と呼ぶ新たな時代に入っていると分析しており、ザカリア氏の19世紀回帰論には誤りがある。 https://www.rand.org/pubs/research_reports/RRA1887-1.html
ただし、ブコメの指摘と異なりRANDレポートの主旨は、米国と中国で起きていることを対比し、いずれも国家の力が相対的に弱体化しており(Weakening States)、国民社会は連帯を弱め国家以外の多様なコミュニティへと帰属し(Fragmenting Societies)、経済成長は鈍化と不均衡(Imbalanced Economies)、自然災害・感染症・無法で暴力的な非国家主体の脅威(Pervasive Threats)、パラミリ・国際的犯罪組織・サイバーなどによる戦争の非公式化(Informalization of Warfare)が2000年頃からの特徴となっていることを指摘している。
そして、こうした事柄を指して、ランド研究所の U.S.-China Rivalry in a Neomedieval World—Security in an Age of Weakening States は、「ネオ中世」と呼んでいるのだけど、それは別に実際の中世ヨーロッパ(5〜15世紀)を指して、そう呼んだ訳ではなく、近代国民国家のような強い中央集権、国家統治によって国家vs.民衆といったフラットな構造ではない重層的でそこここに権力が分立している様を指して「ネオ中世」と呼んでいることに気付く。
したがって、本件のブコメとなっているファリード・ザカリアのインタビュー記事の「19世紀に巻き戻る」というのも、Liberalを標榜する戦後西ヨーロッパの価値観(*法の支配*)から過去に巻き戻るという意味で使われている点で共通している。
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ノアの七つの掟(שבע מצוות בני נח, Sheva Mitzvot B'nei Noach)の一つに、確かに「偶像崇拝の禁止(איסור עבודה זרה)」が含まれています。
つまり、これはユダヤ人だけでなく、すべての人類に課せられた基本的な倫理的・宗教的ルールの一つとされています。
じゃあ、「キリスト教徒はノアの掟を破ってるの?」って話になりますよね。
ここが微妙で複雑なところなんです。
ラビの中には、三位一体の教義(父・子・聖霊)を信じることは、厳密に言えば一神教ではなく、Avodah Zarah(偶像崇拝)に該当するとする人もいます。つまり、「人間(イエス)を神とするのはノアの法に違反する」と。
他のラビたちは、キリスト教徒の信仰が倫理的・道徳的なモノテイズム(唯一神信仰の一形態)に基づいているという点を評価し、「これは偶像崇拝とはみなさない」とする見解もあります。
特に、中世のラビ・メナヘム・ハメイリや現代のラビ・ヤコブ・エメデンは、キリスト教徒は異教徒ではなく、倫理的な人々であると述べています。
また、ラビ・モーシェ・マイモニデス(ラambam)も「三位一体はAvodah Zarah」とはっきり言いましたが、その信仰によって世界中にモノテイズムの概念が広まったという功績も認めています(ヒレフ・メラキーム 11章)。
間伐材をその場でマルチにするフォレストリーマルチャーの話題な。
畑に行ったら畝を黒いビニールで覆ってあるじゃん。あれがマルチ。
花屋さんに行くと大きい鉢植えの土の上が細いココヤシ繊維で覆われてるじゃん。あれもマルチ。
マルチメディアのマルチmulti-ではなく、mulchと綴る。中世の英語のmolsh(柔らかい、湿った)が語源らしい。
雨水で土が流出するのを防ぎ、土からの水の蒸発を抑え、日差しを遮って雑草を防ぐ。あと黒いビニルのは春先に早めに地中温度を上げる狙いもある。
オレは林業は全然わからんが、林業でのマルチングは↓の記事が分かりやすいと思う。
https://jifpro.or.jp/tpps/conditions/conditions-cat03/d01/
フォレストリーマルチャーの話題では、生木を砕いてばら撒くのを肥料にしてると言ってるブクマカが多いけど、
自然素材やポリエチレンシートなど複数のマルチ素材を試した結果、いずれの素材も植栽木の成長に効果があるが、ジュート麻で植栽時にマルチングすると、その後自然分解するので手間がかからずコストも低いと評価している。
とあるように、自然分解しないポリエチレンシートでも良いのがマルチ。
畑だと自然分解は待てないのでビニール製のが普通だけど、林業なら分解を待てるのかもしれない。いまググったら、果樹園向けだと苗木用は1〜2年で分解する生分解性、成木用は7〜8年使える高耐久性が売られてるな。 https://ts37.co.jp/products/agriculture/agriculture-agriculture/product-387/
生分解性なら肥料になるのかもしれないけど(ただ、肥料というと普通はN-P-K(窒素-リン-カリウム)を言うから、セルロース(C₆H₁₀O₅)nを敷き詰めても???)、肥料は雑草とかが生える原因にもなるから、マルチングの目的とはむしろ真逆。
なので、「フォレストリー・マルチャー」(森林用マルチング機)の話題で間伐材を「肥料にしてる」と言われてしまうと、「はわわ〜、逆ですよ〜!」って言いたくなる。