はてなキーワード: 会田誠とは
障害者アートというカテゴリを設けること自体が差別なんですよ。
以下、説明する。
彼女は文學界新人賞という純文学の新人賞に応募して、その受賞作が芥川賞になった。
小説の内容は、重度障害者についてのものだが、彼女が応募した新人賞も、そして芥川賞も、障害者のための賞ではない。
市川は、他の障害者でない応募者との競争に勝って新人賞を取ったし、芥川賞も他の非障害者と同じ土俵で戦って勝った。
だから市川沙央は正統な現代日本文学の作家であり、その作品は日本文学の文脈のなかで位置づけられる。
本当に障害者アートが芸術的な価値があるのであれば、障害を持っていない人が作った作品と同じ土俵で勝負すればいい。
現代日本美術で著名な村上隆や会田誠のとなりに障害者の作った作品が展示されているなら、そこには差別はない。
(草間彌生やゴッホは精神障害者であるが、彼らの作品は、他の著名な作家と同じ空間に展示されている)
あるいは、オリンピックにおいて、黒人だけ別枠での競争となっていたなら、黒人差別でしょう。
いくら水泳など黒人選手が弱い競技があったとしても、黒人だけ参加する水泳世界大会があったら、それは差別的営みである。
舞姫すね。
日本はそれでも森鴎外や村上春樹が禁書になることはないだろうし、なんか確かに会田誠氏の話とかは微妙にポリコレ束縛が変な方向になってきたな?っては思うけど、まあまだいまのところはアメリカよりは行政の判断はまともなように見える。
表現の不自由展とかいろんな意味で賛成も反対もできんみたいな微妙案件もあったりしてあれはちょっとおもろかったけど。
まあでも実際のところ全ての条例を知ってるわけでもないし日本もここから先どうなるかはわかんないけど。
それに抗うには、その意味がわかっててもわかってなくてもいいからとにかくポリコレに反対する人間が常に半数いるしかない。
右翼と左翼のバランスがつりあってはじめて国という飛行機は飛べる。
まあああいうネットのしょーもない堂々巡りみたいな言い争いも、確かに分断を煽ったり無駄に傷つく人が出たり悪いこともたくさんあるけど、そういう真逆の意見がぶつかっているところが見える場があるということはそれなりに意義はあるんやろなと思う。
ジェンダーと美術作品とを巡っては会田誠作品で炎上というか話題になっていましたので、そうした文脈でこの作品や道近代美術館の対応を眺め、論ずる方が多い様に感じます。
一方で、コメントを消してしまった様ですが、会田誠作品と田中武作品との非関連性を述べる増田がこのツリーにくっついていた様です。
重要なことは、ジェンダー的観点から作品を見ることもできるでしょうし、そうじゃない文脈で作品を見ることも可能だろうということです。
そしてそうした議論が担保されているってのも重要と思っています。
増田もコメント消えてしまって残念なのですが、増田ですらこうやって意見を述べて反論する様な仕組みが担保されています。
道近美の対応はこうした仕組みすら撤去してしまいました。これは、道近美がなぜ作品を展示で取り上げ、なぜあのようにSNSで紹介したかという議論をも撤去したに他なりません。
なお、美術とジェンダーに関しては『美術手帖】などで何度も俎上となる話題で、こうしたことからも道近美の理論武装の余地とうか素地というかはあった様に感じています。
このところ、あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」がやたら引き合いに出されてるんだけど、どうにも違和感がある。
会田誠の作品(エロじゃなかった)が「表現の不自由展」から排除されたのをみんな覚えていないんだろうか?
会田作品の性表現は余りにも過激すぎて、表現の自由を尊重する「表現の不自由展」ですら擁護しきれない、党派を問わず絶対的に表現すべきでない物はある、だから会田作品の中でエロじゃないやつだったとしても展示は許されない。
そう判断されたんだよね。
「表現の不自由展」に関わったスタッフさんも、今回のような水着の撮影会や萌えキャラに対してはかなり懐疑的な目を向けているらしいね。
代わりにこんなのが出た
“ゴキブリとセックス”画で吐き気 大学側を提訴|テレ朝news-テレビ朝日のニュースサイト