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はてなキーワード: 帰省とは

2024-12-12

anond:20241212131423

おっさんなって久々帰省して小学校の通学路歩くとこんな近かったっけ?と同じ現象なのかコストカットなのか

2024-12-11

親離れできなくて悔しい

母親に送った誕生日プレゼントが宛先人不在で帰ってきてしまった。

先日、私の友人へのプレゼントとともに仕送り(現物支給)が届いていた。そのお礼を兼ねていたので、友人が返送を受け取ってしまい、気まずかった。

中身は母親が喜びそうだと選んだ化粧品と安いお菓子だ。2週間も郵便局に保管されていたことを思うと食べ物は捨てざるを得ない。返送された旨と、食べものは捨てる旨を伝えるつもりで、母に「戻ってきちゃった」と写真付きでLINEした。

返信は「あら笑 だってママまだ帰ってないもん」

母が自身誕生日から関西の知人の元へ旅行に行っていたことは知っていた。でもそんなに長くなるとは聞いていない。犬を連れて3週間も宿泊するのだから、仲のいい友人、あるいは私に言わないだけで恋人のたぐいなのだろうけれど、「心配すると思って」言わなかったらしい。

食べ物は捨ててもう一度おくるね」と返すと、

「言ってくれれば○○(叔母)に受け取ってもらったのに」と拗ねはじめた。友人がお礼をしたいと言うのでプレゼントを贈ることは伝えてあった。

母が「捨てんでよ〜」と送ってきたからと言うより、賞味期限確認した友人が「これは大丈夫だよ」と言ったから、箱入りのクッキーは捨てずに化粧品とともに送りなおした。

差出人の住所は書かなかった。

母に、「もう一度送りました」「差出人は書いていないので受け取りがなければ処分になります」とLINEした。

「そんなことせなんとかなぁ

 言ってもわからんと思うけど」

と母。

言っても分からないのはあなたの方だ。こちらが厚意で送ったものを受け取らず、剰え、贈ることは予告していたのに、受け取れなかったことを私の認識不足のせいにした。自分がわざと旅行スケジュールを隠していたのに。こちらにも友人への面目というものがあるから返送されたら困るのだ。いらないなら受け取らなければいい。それで郵便局が処理してくれる。

そんな内容のLINEを送った。

母は謝りたいと言って、実際ごめんと送ってきていたが、誠意のあるものには思えなかった。

それが先週末のことで、ずっと落ち込んだ気持ちナノが悔しい。

単純に、自分の厚意(好意)を無下にされたのが悲しかった。だが、母親は私が彼女のことを好いているがゆえの行動を過剰に喜ぶ。悲しがったことも喜ぶだろうと思うと悔しかった。

私の母親シングルマザーで、幼少期の私はほとんど祖父母に育てられた。母と会うのは月に1度あれば多い程度の頻度だった。

会わない間に、私の中での「母」幻想肥大化していき、成人して数年経つ今ですら、優しく、正しく、私のことを愛していて、人格者の母を求めている。私の母はそんな人ではない。

小学1年生の私は、当日29歳の彼女に「ママじゃなくて、お母さんの格好をして授業参加にきてよね」と懇願していた。私の「母」偶像化と、母の生活態度は、その頃からまり変わっていない。

祖父が死に、祖母ボケてしまった今となっては、そこまで深い付き合いでは無い他人に話すときの「実家」は、母と彼女の飼っている犬のいる場所を指す。そこに私は住んだことがない。帰省時の荷物他人より多いのは、実家私服存在しないからだ。

話が逸れたけれど、私は母親に「お母さんらしい」態度を求めすぎている。私の厚意に過剰に喜ばず、かと言って拒絶しない、成人女性の母としての距離感を求めている。

ただ、それは私の母ではなく、私の中の「母親」の態度でしかないのだ。

母に友人を紹介するべきでは無いし、喜ばせようと思ってプレゼントを贈るべきではない。鳩居堂で買ったメッセージカード誕生日を祝う文言を書いてプレゼントに入れるべきではない。

分かっているのに、子どものようなことをするのをやめられない。上手くいかず、すねることをやめられない。それが悔しい。

お母さんがほしい。

結婚をするべきだ」と言われることがある。私が求めている「許容」は、たまたま私を産んだ女性に求めるのではなく、共に人生を歩むと決めたパートナーに求めるべきものだと。

多分それはあっているのだけど、赤の他人に強いるには過剰な負担だという自覚がある。

から、「生んだ」という負い目のある母にその役割押し付けたいのだ。

この歳でこんなことを言うのはみっともなくて恥ずかしいが、お母さんがほしい。それができないなら、親離れしたい。できなくて悔しい。

以上、日記

2024-12-04

anond:20241203220940

釣りじゃないなら、やめてあげて

どうしても何か贈りたいなら、クリスマスは外して、正月明けに帰省土産ご当地お菓子を一番小さい箱で渡すくらいにしておいて

2024-12-03

有休全然使ってなくて余ってるから正月実家帰省するついでに1月丸々休み申請したら拒否された

なぜ

2024-12-01

令和6年11月13日に釈放されるまでに我が国において存在した事実

  認識できる時間存在する限りで現状を述べる。

        4月5日    被疑者地方から帰省した日で、まさかこれから、5月以降に恐ろしいことが立て続けに起こるとはよもや思っていないような状態に置かされていた。

        5月23日、24日、26日、6月2日、6月14日  新部雄大に対しお前がやってはいけないことをやってしまった日。

        6月25日    被疑者が、東京拘置所の様子を見に行く様子。自転車で行って自転車で帰って来ている。少年ライトで照らしたり、雨でぬれた草の中を、北上している。

        7月17日   新部雄大が、堤防のところでてんかんを起こしている。

        7月31日   伊勢崎市で、高齢女性アパート前にて大声、うるさいといった高齢男性が刺される。

        8月1日    本件犯行

        8月2日   午前10時30分 三木健次、出勤。パネルがなくなっておりました。最後に見たのは、近藤警部補ということで出勤していたらなくなっていたということです。

        8月13日   延岡市長が被疑者に関する戸籍謄本を取り寄せており、既に逮捕をする準備が出来ていた。

        8月21日   虻川真也が、もうすぐ逆送ありますんで、といって林田課長に言っていた。

    令和6年8月23日  真夏の蒸し暑い日であったが、乙黒が玄関家庭訪問に来ていた。

        8月25日午前5時50分    西山太郎が出現し、一回部屋にはいれやの喧嘩の後に、ガラスを割ったということで、逮捕

             午前6時8分     志村警察署入り  ホワイトボードに予め住所が書いている。

        9月19日       李明が、東京拘置所移送された。

        11月13日午後1時40分   裁判は、弁護人の弁論も、検察官論告も聞いている暇もないくらいです。裁判官も検事も最終的に何を言うかが被告人も分かった

                       状態であがってきて、最後の方に出て来る結論けがみんな分かった状態で出ているので、被告人の方があの場所で暴れることはまず間違いなく

                        ありません。

        11月30日 確認   ソフト日向の昔のHPが直っている。

2024-11-30

この時期になると寒さ対策衣料品かいろいろ欲しくなる

買い物計画として自分要望などを再確認したい

取り扱いがデリケートな衣類はそもそもノットフォーミーだ

温かく着心地良く、手入れも要らず手入れするにしても簡単で、必要十分な耐久性がある、という方向にこそお金はかけたいのだ ラグジュアリー方面ではないのだ

それは私の身につける品の全般に言えることではある

しか自然な素材は比較的高めな印象、コットンとかウールとか それでも着心地がやっぱり違うのだ

保温系下着などを着ていて温かいけど不自然な暑さで大汗をかいたりとか そういうのがコットンだとあまりない

ウールの下着なんてあまりイメージなかったけど、近くのワークマンメンズのウール100インナーが多くあり、とても興味を持っている

レディースで同じものがあればいいが、残念ながらレディースではそういった商品はなさそう ガチ職人さん向けという感じなのだろうか

値段はユニクロなどでウール100%に近いセーター類を買うのと同じ価格帯ではあったので、普通に薄手のセーターを買ってインナー使いでもいいのかも

防寒としては、自分の行動範囲は家と仕事場の往復と実家雪国)への帰省 

帰省はさておき、通勤ではほとんどの区間でそこまでの防寒は必要ない、電車に乗ってから会社までの間はごく普通の格好でいい ビジネスコートの中にごく当たり前の冬物衣類で事足りる

が、しかし、家から駅までがやたら寒い

首都圏郊外だけど都心より一段気温が下がる

そんな中で遅れがちなバスバス停で10分15分と待つのがもう、やたら冷えて辛いのだ

中でも下半身への寒さダメージが強い

足元から足腰がめちゃくちゃ冷える

そもそも下半身は厚着のバリエーションが少ないというか難しい

昨年は巻いてスカートのようにはけるキルトひざかけの長いやつを通勤に使っていた

がそれで巻いてもなお寒かった

当然、下着オーバーパンツ的なやつを履いてた、コットンのやつ しかバス待ちで底冷えしてお腹が朝からヤバかった

なんかこう、毛糸パンツ的なやつが欲しいと思っていたが、見かけるのはフワモコインナー系ばかりで、通勤時の服装下着にできそうなものはなく

それが今日ワークマンで、ウール100のニットトランクスボクサー?を見かけた

なにこれ欲しい メンズだけど欲しい

と思いながら買わずに帰ってきた

ウール100%の薄手のパンツ、服の中に着れるやつ

めっちゃ欲しいがメンズ

性別の垣根を超えて買って履いてみるべきか

anond:20241129184515

おい‼️

帰省する日に寝坊した→その日は友達と飲みにいくことになった→次の日は飲みすぎて昼過ぎまで寝てた→町で独身の同性上司と遭遇して、可哀想から一緒に飲みにいくことにした→上司が家に泊めてくれるらしくて断りづらい

俺はこれで帰省回避したぞ‼️一回だけ使える裏技や‼️お前にだけ教えたる‼️

2024-11-29

絶望お年玉予定10

30000円下ろしてきた。

お年玉10人にあげないといけない。

今は1人3000円だけど、学年上がって5000円とかあげないといけないと思うと爆発しそう。

母方の方は付き合いあるけど、父方の6人は顔もわからない。

帰りたくねー・・・

24歳の30000円はデカイよ・・・

来年帰省キャンセルしよう。

2024-11-25

anond:20241124202026

道民です

北菓楼の北海道開拓おかき大好き!周りの人も好きな人多いよ

帰省の時期になると道内コンビニでも売るからよく買って食べるけどこれはもう本州の人も知ってるのかな

おいしいんだよなどの味も

十勝トテッポ工房の下がタルト生地になってるチーズケーキもおいしいけどまだそこまで有名じゃないか

柳月は甘いのもいいけどしょっぱいお煎餅おいしい

鮭節のせんべいときんぴらごぼうせんべいとうきびのがあっておみやげにもいいと思う

六花亭シフォンケーキ、数日は賞味期限があるから保冷剤つけておみやげとしてもありじゃないかな?

月替わりで味がかわっておいしい

生クリーム自分で泡立てて添えるのがおすすめ

あとオランダ煎餅かなあ

あまとうのマロンコロン道民に愛されてる

食べ応えあって好き

ブコメそばやき書いてる人がいてうれしいなあ

帯広行かないと買えないのよね……

2024-11-24

道民にはメジャー、道外人には「なにそれ?」なお土産

年末も近くなり、皆さんも帰省について考え始める頃だとは思うが、一方、旅行に行ったり、自分ではなくパートナー帰省随行するなどで飛行機新幹線を調べる方もいるだろう。

その中で、北海道に来る人。

北海道お土産というのは、個人的に質・量いずれも全国トップクラスだと思っており、札幌駅お土産店や新千歳空港でよく知らないお菓子適当に選んでも、そうそう外れる事はないのだが、道民として「これ美味いのに道外の知名度低いんだよなぁ」というもの結構ある。

北海道土産王者白い恋人や、価格品質バランスでばら撒き菓子戦線上位に確固とした足場を築いた札幌農学校ロイズチョコレートルタオチーズケーキなどは当然のように美味いし、あったら喜んで食べるのだが、今回はメジャーすぎるということで選外とし、もうちょっと「あれ美味しかったです」「そうでしょ、北海道では有名なのよ」となって内心ニヤけるようなものを紹介したい。


六花亭 大平

六花亭北海道お土産お菓子女王のような存在感があり、特にマルセイバターサンドなど全国メジャーものを擁しているのだが、個人的に買うべきだと思っているのはこの大平

表面の食感が少し硬めのシンプルマドレーヌなのだが、特に注意も払わず食べた瞬間に二度見するような豊かな風味がある。

次々と斬新なお菓子が現れる北海道にあって、直球のマドレーヌで違いを見せてくる、そのスタンスが感動的だ。


六花亭 マルセイキャラメル

お土産キャラメル出てきて胸が高鳴る人って少ないと思うが、このマルセイキャラメルは知っている人にとっては価値がわかる一品だ。

ナッツの入った食感は独特で、一口食べた同僚が「く〜!」という顔をしていた。

六花亭に関してはまだまだ掘りきれていないものもあって、ザ・マルセイというアソートを今回のお土産としたのだが、最近シリーズに加わったマルセイバターケーキも好評だった。


壺屋 き花

1982年販売開始なので、そこそこ歴史はあるはずだが、全国区になりきれていない印象がある。

自分は食味で白い恋人やマルセイバターサンドと同格を張れると思っており、職場や友人などのお土産でこれが外れるとは思えない。

ホワイトチョコレートを挟んだアーモンドガレットで、袋を開けて口に入れた瞬間にアーモンド香りザクザクとした食感で「!、美味いな!」となる。

お土産として広がりが少ないのは、枚数が少なく価格がやや高めだからだろうか。

とはいえサイズを小さくしたりして無理に価格を下げるのが正しいとも思えない。


柳月 三方六の小割

これを宣伝したくて書いたと言っていい。

元々、長い歴史を持つ三方という、表面をマーブル状にチョコレートコーティングして白樺の樹に似せたバームクーヘンがあり、道民にとってはお馴染みの味だったのだが、一本が結構大きいので、ばら蒔きに適さないという個性があり、家族用、自分用などに広がりが限られていた。

しかし、これを薪のようなフィンガーサイズに小分けにした商品が開発され、ばら撒き菓子としての可能性が一気に広がった。

ホワイトチョコレートの甘さと、しっとりしたバームクーヘン、そしてお菓子としての美しさなどを兼ね備えた今いちばんおすすめしたい一品だ。


千秋庵 ノースマン

これなんで道外にないんだろう、と上京した時に感じたお菓子ナンバーワン

こし餡の入ったずっしりとしたパイで、パイ生地香り餡子上品な甘さが一体となった和洋折衷の良品。

千秋庵札幌農学校のきのとやと提携したことによって、ノウハウが入ったのか、パッケージ北欧風の可愛いデザインリニューアルされた。

実際お土産を買う立場になって「この重さと大きさ、容量の少なさだな」という「道外にあまりでない理由」がわかったのだが、道民だったらみんな知ってる味なので、同僚に道民のいる方、余裕のある方は考慮してみてほしい。

ちなみにパイ生地の中にアンコクリームを入れたノースマンという商品もあり、こちらは半分生菓子のようなものなのでそれこそばら撒きには全く向かないのだが、これはノースマン復活の狼煙となった商品であり、自分用、ご家庭用、帰省でご家族などとぜひ味わってほしい。

北海道お土産菓子は多分1/3くらいは道民が食べている。


千秋庵 山親爺

「♪でてきた でてきた 山親爺 ささの葉かついでシャケしょって スキーにのった山親爺 千秋庵山親爺

道民にとって最も身近なCMソングと言っても過言ではない。

これはもう明確に職場道民を刺しに行くお土産だ。

最近パッケージリニューアルされて、トレードマークとも言えるヒグマスキーに乗って滑り降りてくるスマートレトロイラストパッケージとなった。

数に限りがあるのでいつまでなのかというところはあるが、缶24枚入りを買うと、シャケを担いだ結構リアルクマスキーに乗ったフィギアが封入されている。

小麦粉、卵、牛乳バター、以上!」というシンプルを極めたような洋風煎餅で、パリッとした食感で一点突破してくる。

アイスクリームに添えるなど、食べ方に工夫をしても楽しいかもしれない。


ホリ 夕張メロンピュアゼリー

夕張メロンの果汁と果肉をギュッと詰め込んだようなゼリー

本当にメロンの味がするゼリーで、他のお土産でこういったものが思いつかない。

従来カップサイズのものが主流だったが、フィンガーサイズの小容器のものも登場し、ばら撒きやすくなった。


ホリ とうきびチョコ

ホリはどうしてこう、道外に対する宣伝力に欠けるのだろう。いい商品があるのに。

北海道代表する穀物とうもろこしホワイトチョコレートで包んだクランチで、口に入れた瞬間にとうもろこし香りが広がる。

価格もお手頃で、買う側、贈られる側どちら嬉しいお菓子だ。


もりもと ハスカップジュエリー

北海道に自生する固有ベリーハスカップジャムミルククリームしっとりしたクッキー生地で挟み込み、縁をチョコレートコーティングした高級感のあるひとくちケーキ

紫のハスカップジャムには強い酸味があり、チョコレートもしっかりとした甘みで、全体的に強くて引き締まった味わい。

店舗がそれほど多くないので、ノースマン三方六ほど書いやすいわけではないが、意外と根強いファンがいる。

チョコレート部分が溶けてしまうので、職場でのばらまきなどには適さない。

家族自分用、お友達、お知り合いにどうぞ。


井原水産 カズチー

甘い系に飽きたらしょっぱい系もどうぞ。

井原水産カズチーは、かずのこを練り込んだひとくちチーズ

数の子香りとぷちぷちした食感、チーズの乳味・塩味が口の中に溢れ、子供も喜ぶし、酒のアテにもピッタリだ。

兄弟商品ホタチーも人気だ。


番外 札幌に来たら食べるべき軽食

サンドリアのサンドイッチ

これは以前ブクマでも上がってきた。

繁華街すすきのの外れにある24時間営業のサンドイッチ店で、価格ボリューム、味と三拍子揃ったサンドイッチが常時30種類以上販売中。

大体の時間帯でお客さんがおり、行列ができることも珍しくない。

まりの人気のために、札幌駅に「サンドイッチの自動販売機」が2台設置されたが、自販機行列ができるという、なかなか見ない現象になり、日に5回ほど補充されるにも拘らず夜にはほとんど売り切れるという脅威の販売力を見せている。

札幌サンドイッチを目掛けてくる人はあまりいないだろうが、駅でも買えることだし、ぜひ1食くらいは試してほしい。

おすすめコーヒーを練り込んだパンフルーツクリームを挟んだコーヒークリームです


六花亭本店 喫茶室のピザ

これもはてなではお馴染み。

札幌駅から徒歩5分、六花亭本店の2階にある喫茶室では、季節折々のピサを食べることができる。

今だと多分牡蠣ほうれん草ピザだと思う。

しっかり焼きの入った厚めでザクザクした生地に、旨味がギュッしまった牡蠣ゴロゴロと乗っており、栄養身体に染み渡るのを感じる。

白のクリーン空間の中でいただくコーヒーピザは最高だ。


六花亭 神宮茶屋店 判官さま

これは本当に道外の人知らないんじゃないだろうか。

中心部から数駅のところにある北海道神宮境内のすぐ脇に、お土産屋と休憩所を兼ねた六花亭茶屋店が出ており、ここでは茶屋内で調理される焼き饅頭判官さまを無料ほうじ茶と共にいただける。

蕎麦粉を練り込んだモチモチ生地餡子を包んだアツアツ焼き饅頭を白い息を吐きながら食べると清涼な幸福感に包まれる。


あと食べた記憶が朧げなんで書かなかったけど、札幌スープカリーせんべい カリカリまだある?もかなりエッジの効いた辛さだった記憶がある。

はてなー、意外と道民いからここらへん「知ってるよ!」ってのもあると思うけど、道外からくる人は参考にしてみてほしい。


追記

オンライン英語レッスン終わったら伸びてたw

みなさん北海道お菓子の良さを知っている人たちばかりでほっこり

そういえば忘れていたの思ったのが菓か舎 札幌タイムズスクエア

カスタードクリーム餡子を包んだふわふわスポンジケーキで、類似商品として仙台萩の月があるものの、詰め物が餡子独自性があるのとスポンジの食感が違うので別物だと思っている。

ただパッケージサイズが異様にデカいことが「嵩張る」という理由お土産に選ばれない理由と直結しており、手に取るかどうか悩ましいいところだ。

わかさいも山親爺と並んで北海道最古のお土産菓子グループ位置しているが、ノスタルジー枠で喜ばれるかどうかいまいち自信が持てない。

ただ、新千歳空港わかさいも本舗では餡子入りのソフトクリームなどを提供しており、店舗は立ち寄る価値がある。

じゃがポックルメジャー枠という認識、うまさが確定的になったあまり追随商品も現れて、食味の驚きが薄れてしまった。うまいんだけどね。

よいとまけは小分け商品があるものの、職場でのばらまきなどだとあの食べづらさがどうなのか気になるところ。

他にThe Sun 蔵人 蔵生というフニャッとした食感の生サブレがあり、これも遠征勢などに人気。実際食べてみて「うん、これは美味い。ソフトクッキー好きというのは一定数いる」となったが、不勉強個人的な馴染みがなかったので選外となった。

あとは、軽食枠で、もし北海道に来るときair doを使うことがあれば、機内食としてオニオンスープ提供するという独自性のあるサービスがあるので、こちらもおすすめ

最後に、久しぶりにホテルHTBを見たら、大泉洋安田顕TEAM NACSがいまだに夜中のローカルバラエティに律儀に出ていてびっくりした。

以上となります

2024-11-21

実家の猫に好かれない

帰省しても誰やお前みたいな顔で見てくる

誰って命の恩人や

お前が子猫の時に、猫風邪で両目塞がりかけてた時に、土砂降りで死にかけてた時に

最後の力振り絞って鳴いて、助けてくれと脚にすがりついた命の恩人や

翌日仕事なのに徹夜して面倒みて、使わずとっといたボーナス医者代に全部ぶち込んだ命の恩人や

でもまぁそんなもんか

2024-11-18

鬱で実家帰省して療養してた同期にメンタル強くていいねって言われるの嫌すぎる

こっちは実家いか仕事できなくなったらゆっくり療養なんてできないしやるしかないだけなんだけど

2024-11-16

あの日見た姥捨山を僕達はまだ知らない

私は車で10分ほど走らなければコンビニスーパーもないようなど田舎で生まれ育った。

以前は近所に数軒家もあったが、住んでいたご老人たちも皆亡くなり今はすっかり寂しくなった。

「何もないのがいいところ」と田舎を褒めたりする人もいるが、ずっと暮らしていると普通にしんどい。あれは嘘松

お店はおろか人も歩いていない。増えるのはソーラーパネル空き家ばかり。

ただ、空気や水はずっと綺麗だし自然は美しい。

そんな田舎に嫌気がさして20代後半で上京し、30代前半になった今でも何だかんだ楽しくやっている。


半年に一度くらいは帰省しているのだが、その度に親が小さく見えるのは気のせいだろうか。まるでカントリーマアム

60代だしまパートとして働いていて病気もなく元気ではあるが、どこか弱々しく見える時がある。

駅まで迎えにきてくれた親の車に乗りながら、いつか訪れるであろう免許返納のことをいつも見て見ぬふりをしてしまう。

電車もなくバスもとうの昔に廃線になったこの山奥のど田舎で、車が無くなってしまっては生きていけない。買い物にも病院にも行けない。

ワケあってもう1人の兄弟には頼れない。私がどうにかするしかないのだ。

でもこんなど田舎には戻りたくない。


地元小学校はいつ閉校してもおかしくないくら子供が減ったらしい。

私が通っていた頃はあんなに賑わっていた運動会も今はきっと規模が縮小されたものになっているに違いない。

子供会もどうなっているんだろう。カルタ大会はまだあるのかな。


別にこの土地の何もかもが嫌いなワケじゃない。

楽しい思い出もたくさんあるし家族のことも大好きだ。感謝している。

まれ育った県がたまにテレビで取り上げられたりネット記事で見かけるとやっぱり嬉しさはある。

ただ、今の自分が戻るメリットがない。

幸いなことにパソコンさえあればどこでも出来る仕事だが、それでも「犠牲になりたくない」と思ってしま自分が嫌だ。

自分お金を貯めて転職先を見つけて移り住んだ都会での生活に不満はない(家賃は高いけど)

休みの日には近所を散歩したり友達遊んだり楽しく過ごしている。まだまだいろんなお店を開拓できる。

あのど田舎ではそれができない。山の裾なので基本的上りだし平らな道も少ない。歩いたら人ではなく熊や猪に会う。


田舎に両親がいて、頼れる兄弟もいない。

免許返納、介護、墓…全部自分がどうにかするしかない。

似た状況の人はどうしているのか、将来的にどうする予定なのか知りたい。

こういう時こそ「老老介護」「ミニマリスト」「推し活」みたいなわかりやす名称が欲しい。何かコミュニティが欲しい。


地元結婚して近所に家を建てて孫を見せるのがやはり「正解」に近かったのだろうか。

簡単そうで実は一番難しかったりする。



そんなことをここに書く暇があるなら親孝行の一つでもしろよとか思いつつ、

今日中央線に揺られてはすっかり過疎化してしまった地元から目を背けている。

賑やかな商店街の灯りが愛おしい。人もたくさんいる。

やっぱり私は典型的お上りさんだ。


もうめんどくさいし、帰りは近所のほっともっとに寄ろう。

anond:20241115221615

年上からなら可愛がられてるだけだし、そんなに気にすることもないんでは?

ありがたいという気持ちは伝えつつ、増田旅行帰省などのイベントが発生したら職場用にお土産買って帰るといいくらいだと思う

anond:20241111222702

共働き幼児一人の家庭の父です。

妻が疲労風邪ダブルパンチで倒れ子供連れで帰省しました。

共働きで、相手風邪のはずなのに、どうして妻は子供と二人きりになれるの???

職場で、プロジェクトを半々一緒にやってる相手病気で休んだら「一時的に全部やる」になって(こういうときのための二人体制ですから)、いやでも主導権100%自分にあるはずなんですが。

病気で休んでる相手に「変わらず半々担当させた」んならそらそうなるわ。

2024-11-14

推しの子の「関係者なのにニュース情報を知る」という展開が叩かれているけどアレは結構リアルだと思う

会社で起きている不祥事について帰省先で見たニュースで知るとか、現場映像報道カメラで初めて見るとか、そういうのって結構ある話じゃね?

流出警戒で全然流れてこなかった情報が、なんか知らんけどリークされたせいで社内の人間よりニュースサイトに張り付いてるネット民の方が詳しいみたいな経験って皆したことないの?

警察案件でも警察が「犯人が逃げるかもだし身内にも伏せとこ」と心無いムーブかましてたたことを、どっかの新聞社がいきなりバラしてくるとかも割とある話では?

アレが全くリアリティがないという人って単にその人がリアルについての知見に欠けているだけだと思うんだよね

2024-11-12

共働き家庭における育児の分担と親子の面会権について、深刻な問題

私たち夫婦は3歳の子どもがおり、これまで育児家事を公平に分担してきました。具体的には、平日は私が朝の保育園送りを担当し、夕食の準備と掃除担当。妻は保育園のお迎えと入浴の担当でした。休日は交代で子どもと過ごし、もう一方が家事をこなすようにしていました。

先週、妻が体調を崩し(発熱と倦怠感)、実家子どもを連れて帰省しました。妻の休養が必要なことは理解していますが、問題帰省後の対応です。以前同じように帰省した際は、私が日中訪問して子どもと遊ぶ時間を確保できていました。

しかし今回、妻から「体調が悪いため1週間は一切の連絡に応じられない。土日も対応できないため、子どもとの面会も不可」と一方的に告げられました。育児の分担者として、また父親として、突然子どもと会えなくなることに大きな不安を感じています

義母相談しましたが、「妻の判断尊重するべき」との回答で、建設的な話し合いができませんでした。毎日育児に関わってきた父親権利気持ちが完全に無視されている状況です。

このような一方的子どもとの面会制限は、共同養育者としての私の立場を損なうものだと考えています。妻の体調不良への配慮必要ですが、それと子どもとの面会は別の問題として話し合える余地があるはずです。

皆様のご意見をお聞かせください。特に以下の点について伺えれば幸いです:

共同養育者として、このような一方的な面会制限は適切でしょうか

妻の体調不良子どもとの面会をどのようにバランスを取るべきでしょうか

anond:20241111222702

妻が疲労風邪ダブルパンチで倒れ子供連れで帰省しました。

わけないじゃん。

からトリプルパンチ再起不能になったから、子供連れで帰省しました。だろうが。

anond:20241111222702

こういうところじゃない?

ちょっとした言い方、書き方を選べない

妻が疲労風邪ダブルパンチで倒れ子供連れで帰省しました。

それは良いのですが、

2024-11-11

anond:20241111222702

今回は数日の帰省で済むかもしれないが、今後離婚に向けて別居に至るかもしれない。

分与対象資産を隠しておけ。

別居から離婚を申し出たなら、別居した時点の資産財産分与対象になるからな。

それを小出しに親子交流交渉の盾にしろ離婚合意しないと言い続けて、数年離婚を渋れば数年後なら離婚成立しても共同親権になる。

anond:20241111222702

ほんまに大変な状況どすなぁ。奥さん風邪で倒れはったんやったら、そら実家で休んで体力取り戻したはるところなんでしょうな。まぁ、奥さんの都合って言うたらそやけど、健康第一ってことやね。

せやけど、家事育児を半々で分担してはるってのは立派どすなぁ。もしかしたら、奥さんもその分担が崩れるんが不安帰省したんかもしれまへんでぇ。だって、体調悪い時の男の人の「助けるで」って、時々逆効果になったりしますやん?ほんのささいなことでも助けられたら謝ってしまう、そんな時もあるんとちゃいまっか。

まぁ、辛くて気が狂いそうってのはわかりますけどなぁ、ここは一つ大きな心で、無理せんと休ませたらええんちゃいますか?それから、少しずつ連絡してコミュニケーションを取り戻すのがええんとちゃいますか?人生長いし、お子さんも大きなってからずっと会えなくなるわけちゃいますしね。勇気出して、どっしり構えて待つのいちばんスマートどすえ。

子連れ帰省した妻が子供に会わせてくれない

初めて書くので読みにくかったらごめんなさい。

共働き幼児一人の家庭の父です。

妻が疲労風邪ダブルパンチで倒れ子供連れで帰省しました。

それは良いのですが、帰省子供に会いに行っていいか妻に聞いたところ、体調が悪いから1週間連絡対応しない、土日も対応できないか子供に会わせられないと言われました。

義母にも同様に聞いたところ、妻の言うことを優先しろとなしの礫でした。

以前妻が体調不良子連れ帰省したときは、私が日中訪問して子供と遊んでいました。

家事育児を半々で分担しているのに妻の都合で帰省して、後出し子供面会謝絶させるのは理解できません。辛くて気が狂いそうです。

私の感覚おかしいか気になってる投稿しました。率直なコメントいただけるとありがたいです。

2024-11-08

私の母は狂人だった。私が母に母らしい親しみを最後に感じたのはいつだったか

この人が母親であることが嫌だなと思ったのは、中学校三者面談の時に、

私が担任に褒められるとみるや否や、

「うちの子は親の敷いたレールの上をただ走ってるだけですから

と言い放った日のことだ。

私も担任先生も目を丸くして驚いた。

思えば中学くらいから母はおかしかった。

きっとその前からおかしかったのだろうが、中学くらいからはっきり「この人はおかしい人だ」と思うようになった。

私が少し学校のことで愚痴を言えば、学校クレームを入れた。

私が「学校先生には電話しないで。家で文句言ってるだけだから」と言っても、

学校クレーム電話をかけた。

困った私は次の年に担任になった先生

「母は私の言ったちょっとしたことをわざわざ学校電話をするところがあるから

もし母が電話をかけてきたら話だけ聞いて、あとは無視して、私に電話があったことを教えてください」

とお願いをした。

その年は3回、担任からカーチャンから電話があったぞ」と言われた。

大学一人暮らしを始めようというときに、私は新居に向かう道に迷ってしまった。

母に「マンションって駅出てどっちの方向に向かって歩けばつくんだっけ?」と電話したら

「はぁ?あんた何意味の分からないことを言ってるの?」と言われた。

かに自分がこれから住む家への道のりを忘れる私も私なので、

「ごめん、分かんなくなっちゃって。私方向音痴だし」と応じたが、

「何言ってるの?意味の分からないことを言わないで」とよく分からない回答。

その後何度状況を説明しても、

意味が分からないわよ」「道が分からないって何」「どういう意味なの」

と全く会話にならない。

怖くなったので適当な方向に歩くことにして電話を切った。

家には無事たどり着いたが、その後、「道は分かったの?」と聞かれて、ますます怖くなった。

「なんであんな訳の分からない対応したの?」と聞いても、「別に」としか言わなかった。

本格的におかしくなったのはそれから2年くらい経ってから

父の転勤で両親はまた新しい土地暮らしていた。

だが、その土地は父にも母にも、合っていないようだった。

よく二人からその土地悪口を聞いた。

あるとき帰省をしたら、母が運転中にこんな話をし始めた。

「私の通ってるジムインストラクターさんがね、私のことを好きになっちゃったみたいで困ってるの」

20代の子なんだけどね、ほら、私って楽しそうに何でもするでしょう。

から、それがすごく良かったみたいなの」

「でもね、そのインストラクターさんには婚約者の人がいてね。

から私に嫉妬して、いろんな人を使ってあとを付け回すようになったのよ」

「ほら、この後ろの車もそう。」

母は著しく車の速度を落として、バックミラーを睨みつけた。

あなたも一緒ににらみつけてやってよ。」

私には、時速50kmは出すような道で、時速20kmで走られて困ってる老夫婦がいるようにしか思えなかった。

私は「ねぇ、そんな遅く走るの逆に危ないよ。事故に遭うからやめなよ」と言ったが、

「何言ってんの、あいつらは私に嫌がらせをしてるのよ!」と言って聞かなかった。

「いや、他の車の迷惑からやめなって」と言うと、母はしぶしぶ普通の速度で運転をし始めた。

「あの人たちがその婚約者の人の仲間だなんて証拠あるの?」と聞いても、

「私には分かるのよ」としか答えてくれない。

家に帰ってもその話は続く。

「その婚約者はね、嫉妬から呪いをかけてね、電球の中に狐を送り込んできたの。

見てごらんなさい、狐がいるでしょう」

どれどれ、と家の電球のぞき込んだが、私には狐を見つけることはできなかった。

暗くなって、部屋の中に車のライトが入ってくると、「きゃあ!」と母が叫んだ。

「狐、狐よ!ほら、狐の目を光らせているのよ!」

「車のライトだよ」と言っても、狐だと言って聞かない。

「こうやってね、光を部屋の中に入れて、私のことを焼いてくるのよ』

「ほら、みて、これが光で焼けたあとよ!」

そう言って、どう考えても腕に出来た老化によるシミを見せられた。

まりかねた父が「そんな光線なんて送れるわけがないだろう!そんな装置は何億とお金がかかるんだ!」と怒った。

母は負けじと「そうよ、その婚約者お金持ちだから、何億でも使って私に嫌がらせをするのよ!」と言い返した。

お金を積んだってなかなか手に入らないだろそんなものあなたの肌だけを焼く装置なんてありえない。

そんなものNASAとかそういうところでしか作られないんだ!」

どうして父がアメリカ航空宇宙局名前を出したのか、あまり脈絡がなくて不思議に思った。

父は父なりに、母にも分かる「なんだかすごいところ」の名前を出して、説得しようと必死だったのだろう。

父の努力もむなしく、母は「私はNASAに狙われるほどの特別人物だ」と豪語していた。

私は一人暮らしの家に帰るときに、父に「病院に連れてった方がいいよ」と伝えた。

数カ月くらいで、母は変なことは言わなくなった。


あれから何年たっただろうか。

それなりに穏やかに暮らしていた母から、こんな連絡が来た。

「向かいの家の大学生の男の子に、一日中ずっと部屋を覗かれてるみたい」

もし忘れていられるとすれば、私は母のことを忘れていたいと思っている。

遠くに住んで、たまにおしゃべりするだけの存在だったらどんなに楽かと思う。

でもどうやらそれは難しいようだ。

2024-11-07

母が倒れた

先に書くが、母は亡くなっていないし、これは亡くなったり倒れた母を前に悲観する話ではない。

30代を目の前に控えた人間が、同世代より少し早く迎えたライフステージの変化に漠然と感じたことを書き綴ったものである

9月某日、母が倒れた。

本当に突然だった。

慌てながらも涙声で電話をくれた兄妹が状況を教えてくれた。

病名は脳内出血だった。

自分よりも動揺する家族の声を前に、悲観することもなく落ち着いて諭すことが出来ていたように思う。

倒れたその晩が“ヤマ”と言われ、覚悟もした。

それでも不思議絶望感は無かった。

少し余談だが、母は私が中学生の頃には大病患い、直近は潰瘍性大腸炎骨粗鬆症難病に持病を抱えていると聞いている。

から、という訳では無いと思っているが潜在的にはそういった要因も加味していたのかもしれない。

私は同世代より少し早く入籍し、結婚式を挙げ、父母を招き、恐らく死ぬまで忘れずに居られるであろう幸せ時間を過ごすことが出来た。

今思えば10から強く願った夢の1つだったのだろう。

さらに、結婚式の翌年には第一子が産まれた。狙ってその通りに叶えられるものでは無い。本当に私は運が良い人間だとつくづく感じた。

生後3ヶ月ほどして父母のいる実家帰省し、初孫としてお披露目することができた。口角は上がりっぱなしで、目も細めっぱなしだった父母が印象的だった。今でも写真を見返すと泣ける。それくらいの時間であり、これもまた私の夢だったのだと思った。

やはり私は本当に運が良い。

その後も1歳の誕生日実家でお祝いすることが出来、張り切って準備をしてくれた母、初孫にデレデレな父を見て、また1つ夢が叶うような感覚にいた。

その数ヶ月後の出来事だった。

決して頑丈な人間では無いことは理解していたし、それがなくても父母は自分より先に居なくなるのが世の常である覚悟していた。

から結婚できたことや子どもを授かったこと、それらを父母が健康なうちに行え、全て後悔のない形で終えられた。

それ以外にも父母に伝えたかたことは全て伝えた。文章に残して。

子どもとして“やりたかたこと”としての親孝行は全てやり切った。ここから先はボーナスタイム、私と父母の“贅沢”な時間だと考えていた。

から、母が倒れて生死の境を彷徨い、生還しても重い障害が残ってしまった状況も不思議と悲観はなかった。

やれることは全てやってきた。

実家で大変な状況になっている家族を遠方から支える。今、目の前にいる私の家族死ぬ気で守り抜く。

これからはこれだけで十分だと思っている。

大変な事態に陥って私以外の家族は悲しみに暮れ、絶望しているかもしれない。

私も絶望の淵に立ち、少し崩れれば精神が折れてしまってもおかしくなかった。

それでも、今は私には妻と子が居て、私は2人のために折れる訳にはいかないのだ。2人を支えていくために、死ぬ気で戦っていかなければいけない。

父母が居なくなってしまうことを事前に覚悟していたこと、妻と子が悲しい状況も支えてくれたこと、全てが私に覚悟を持たせてくれたと思っている。


一般的には悲観すべき事態なのかもしれないが、そんなに悲観することもなく、飄々と過ごしている。

もっと悲観的な文章に出来れば世間的なウケもいいのかもしれないが、そんなことは1ミリも考えていない。

元々火事場方が張り切ってしまタイプからなのかもしれない。

諸々含めて本当に自分は運が良いのだと思った。

おっとー、おっかー、次は俺が2人みたいに頑張る番だから、もう心配はいらないから。これから先の俺から2人に対しての全ては、100%純粋な俺の“我儘”で、“贅沢”だから、遠慮なく受け取ってね。また、近いうちに帰るから病院にもお見舞いに行くから

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