はてなキーワード: 古代文明とは
先生何でも知ってるな
(1) 口伝(くでん)と使者 (2) 狩猟・戦争における合図 (3) 狼煙(のろし)
(1) 楔形文字(メソポタミア)・ヒエログリフ(エジプト) (2) 郵便制度の発展
(1) 紀元5世紀~15世紀 (2) 烽火(ほうか)・のろし (3) 飛脚制度(日本)
(2) 交換機の導入
グリエルモ・マルコーニが無線通信(ラジオ通信)の実験に成功。
1901年、大西洋横断無線通信を達成し、船舶や遠距離通信で活躍。
1920年代にAMラジオ放送が開始され、大衆向けの放送メディアとして普及。
腕木通信の仕組みについて教えてください
1. 基本構造
通信塔(セマフォア塔) 高い場所に建てられ、見晴らしの良い地点に設置される。直線上に複数の塔が並び、情報をリレー方式で伝える。
腕木(アーム) 一般的には2本または3本の可動式の木製の腕。腕の角度を変えることで、異なる文字や数字を表現する。
制御機構 塔の内部には腕木を動かすためのハンドルやロープがあり、通信員が操作する。
2. 通信の流れ
腕木通信では、腕木の角度を組み合わせてアルファベットや数字を表す符号が決められていました。
例: ある位置の角度が「A」、別の角度が「B」を意味する。組み合わせることで単語や文章を伝達。
(2) 視認と伝達
発信者(通信員)が塔の上で腕木を特定の角度にセットする。隣の通信塔の通信員が望遠鏡でその信号を確認する。確認した通信員が同じ符号を自分の塔で再現する。これを繰り返し、情報が数十~数百km先までリレー方式で送られる。
3. 腕木通信の特徴
(1) 速さ
馬や飛脚より圧倒的に速く、良好な天候なら数百km先まで数分~数時間で伝達できた。例: フランスでは、パリ~リール間(約230km)を約3分で通信可能だった。
(2) 天候の影響
晴天時は遠くまで見えるため有効だったが、霧・雨・夜間は利用できなかった。これが電信の発明へとつながる大きな要因となった。
フランスではナポレオン戦争(1803-1815年)の際、軍事通信に活用された。ヨーロッパ各国でも行政・軍事目的で導入。
アルファベットや数字を表すために、腕木の角度を組み合わせた符号表(コードブック)が用意されていました。
ここでは、腕木通信で「HELLO」を送る具体的な手順を説明します。
腕木(アーム):通常、2本または3本の可動アームが使われる。
符号表(コードブック):各アルファベットや数字に特定のアームの角度が割り当てられている。
A = 10° / 30°
B = 20° / 40°
C = 30° / 50°
...
H = 80° / 120°
E = 50° / 90°
L = 70° / 110°
O = 90° / 130°
2. 「HELLO」を送る手順
腕木通信は 1文字ずつ順番に送信 し、隣の塔がそれを読み取り、次の塔に伝えるリレー方式で情報を伝達します。
(1) Hを送信 通信塔のオペレーターが腕木をHに対応する角度(80° / 120°)に設定。隣の塔の通信士が望遠鏡で確認し、同じ符号を再現。
(2) Eを送信 次に、腕木をEの角度(50° / 90°)に変更。これを隣の塔へリレー。
(4) Oを送信 最後に、Oの符号(90° / 130°)を送る。
文字ごとに送ると時間がかかるため、短縮コード(例:「HLO」で「HELLO」とする)を使うこともあった。軍事通信では暗号化された符号も使用。
エラーチェック
送信ミスを防ぐために「確認信号」を送ることがあった。受信者が「正しく受信した」ことを示す信号を返す方式も採用。
単なるアルファベットだけでなく、「数字」「特別な記号」も符号表で定義。
A = 10° / 30°
とはどういう意味なのですか?
10度のこと?30度のこと?
「A = 10° / 30°」という表記は、腕木(アーム)が複数ある場合に、それぞれの角度を指定する方式です。
通常、腕木通信には2本または3本の可動アームがあり、それぞれのアームを特定の角度にセットすることで、1つの文字や数字を表現します。
例えば、2本の腕木(上側と下側)がある場合:
上のアーム:10° 下のアーム:30°
>受信者が「正しく受信した」ことを示す信号を返す方式も採用。
これはどのような仕組みですか?
腕木を「A」に対応する 10° / 30° の位置にセットし、隣の塔に見せる。
確認信号(例:「了解」を示す特定の腕木角度、または短い「OK」信号)を送信する。
例えば「50° / 90°」のように、「受信しました」の意味を持つ角度が設定される。
受信者からの確認信号を見て、正しく受信されたことを確認 する。
もし確認信号が来ない場合、または誤りを示す信号が来た場合、もう一度「A」を送信し直す。
腕木通信には、以下のようなエラーチェックの方法も考案されました:
(1) 再送要求
受信者が符号を読み取れなかった場合、「もう一度送ってください」という特定の信号(リクエスト信号)を送る。
例:「不明瞭」や「再送」を示す角度(例:60° / 120°)を使用。
(2) 確認の二重チェック
受信者だけでなく、次の塔が再び「A」を送ることで、送信者が正しく伝わったことを確認できる。
これにより、1つの塔で間違いがあっても、別の塔で補正が可能。
電鍵(モールスキー) 手動のスイッチで、押すと電流が流れる。押す時間の長短で「短点(・)」や「長点(―)」を作る。
(2) 通信線
電線(単線または複数線)送信機と受信機をつなぐ導線。初期の電信機は1本の電線と地面(アース)を回路として利用。
電磁石
送信側でスイッチが押されると、電流が流れて磁場が発生。電磁石が作動し、紙に記録する装置が動く。記録装置(スタイラス & 紙テープ)スタイラス(針) が上下に動き、紙テープに「短点(・)」や「長点(―)」を記録。初期は音ではなく、紙テープに記録する方式が使われた。
モールス電信機の受信機は、以下の主要な部品で構成されています:
(1) 電磁石
送信者が電鍵(モールスキー)を押すと、電流が流れ、受信側の電磁石に電流が到達。電磁石が磁力を発生し、アームを引き寄せる。
電磁石の磁力によってアームが動く(電流が流れた瞬間に引き寄せられる)。電流が切れると、バネの力でアームが元の位置に戻る。
(3) スタイラス(記録針)
アームの先端には スタイラス(記録針) が付いている。アームが動くことで、スタイラスが紙テープに接触し、点や線を刻む。
(4) 紙送り装置
受信機には ロール状の紙テープ がセットされており、一定の速度で送られる。紙テープが一定の速度で進むことで、信号が「短点(・)」や「長点(―)」の形で記録される。
記録の流れ
(1) 短点(・)の記録
送信者が電鍵を短く押す(例:0.1秒)。受信機の電磁石が一瞬作動し、アームが紙に軽く接触。紙に小さな点が刻まれる(・)。電流が切れると、バネの力でアームが元の位置に戻る。
(2) 長点(―)の記録
送信者が電鍵を長く押す(例:0.3秒)。受信機の電磁石が長い間作動し、アームが長時間紙に押し付けられる。紙に長い線(―)が刻まれる。電流が切れると、バネの力でアームが元の位置に戻る。
(3) スペース(間隔)
電鍵を押さない時間が長いと、記録装置には何も刻まれず、文字の区切りが生まれる。一定時間(例:3単位)何も信号がなければ、単語の区切りとみなされる。
初期のモールス電信では、紙テープに記録された符号を手作業で解読していた。
しかし、受信機のアームが動くと「カチッ」という音がすることに気づき、オペレーターが耳で直接モールス符号を聞き取る方式(サウンドレシーバー方式)が生まれた。
これにより、紙に記録しなくてもリアルタイムでメッセージを受信できるようになった。
電線に電流を流す仕組みを聞いた限り距離が制限されそうに思えます
これについて詳しく教えてください
モールス電信機は電流を電線に流して情報を伝えるため、通信距離にはいくつかの制限がありました。特に、長距離になると電流が弱まり、信号が減衰(減少)するという問題がありました。
ここでは、電信の通信距離の制限と、それを克服するための技術について詳しく解説します。
長距離の電信通信において、電流の減衰(弱まる)原因として次のような要因がありました。
(1) 電気抵抗
電線の長さが長くなると、電気抵抗(電流の流れを妨げる力)が増えるため、電流が弱まる。銅や鉄などの導線を使用していたが、特に鉄線は抵抗が大きく、距離が長くなると信号が伝わりにくくなる。
19世紀の電信では、片側の導線+地面を電流の経路として使用(単線電信方式)していた。しかし、湿気や土壌の違いによって電流が地面に漏れ、信号が弱くなることがあった。
近くに他の電信線があると、電磁誘導によって信号が干渉することがあった。雷や電磁気の影響によって信号が乱れることもあった。
こうした問題を解決するために、いくつかの技術が導入されました。
「リレー(中継器)」を使って信号を増幅する方法が発明された。1835年、ジョゼフ・ヘンリーが電磁リレーを開発。リレーは、受信した信号を増幅して再送信することで、長距離通信を可能にした。例えば、100kmごとにリレーを設置すれば、電流の減衰を防ぎ、信号を遠くまで伝えられた。
初期の電信では低電圧(数V程度)だったが、より高い電圧(数十V~100V)を使うことで信号を強くし、距離を延ばした。ただし、高電圧は電線の絶縁性を高める必要があるため、ゴムやガラスを使った絶縁技術が発展した。
初期の電信では鉄線が多く使われていたが、鉄は抵抗が高いため、導電率の高い銅線が採用されるようになった。銅線の採用により、長距離でも電流の減衰が少なくなり、信号が安定。
長距離の海底電信ケーブルでは、さらに電流の漏れを防ぐ工夫が必要だった。1858年、最初の大西洋横断海底ケーブルが敷設されたが、当初は絶縁技術が未熟で、短期間で故障。1866年、改良された絶縁材(ガタパーチャ樹脂)を使用したケーブルが成功し、長距離通信が可能になった。
1844年 64km(ワシントンD.C. - ボルチモア) 初期の電信
1861年 約3,000km(アメリカ大陸横断電信) リレー技術の発展
1866年 約4,000km(大西洋横断海底ケーブル) 絶縁技術と増幅器の進化
1900年 数万km(グローバル電信網) 高電圧、改良ケーブル、無線通信の併用
電信通信において、距離が長くなると電流が減衰し、信号が弱くなる問題が発生しました。この問題を解決するために開発されたのが 「リレー(中継器)」 です。
リレーは、弱まった電流を利用して新しい電流を作り、信号を増幅して次の区間へ送る装置 です。ここでは、リレーの仕組みを詳しく説明します。
(1) 電磁石
入力側から微弱な電流が流れると、電磁石が作動 する。これにより、リレー内部のスイッチ(接点)がONになる。
電磁石の磁力でスイッチが閉じる(ON)と、新たな強い電流が流れる。つまり、弱い信号をトリガーとして、新しい電流を発生させる。
(3) 新しい電源
「ヘイ!ワンダラー!」みたいにガンガン観光客に土産物を売るイメージ。それから、「スエズ運河もってるぜガハハ」みたいな雑な感じ。
古代文明への誇りとかも薄そう。
民族も宗教も何度もアップデートされてるから、直接の先祖というより、先住民の遺物として大事にしてる的な。
大航海時代が酷いという具体的な例(奴隷制度とか植民地とか)が古代文明にも当てはまるから何がどう酷いのか分からないんだわ
俺の独断はこんな。
ペルシャ人としての誇りの塊。芸術と科学技術は全部ペルシャが祖先だと思ってる。アラブ人もトルコ人も野蛮人だと思ってる。産業革命まではヨーロッパなんか世界史の傍流たったくせにと思ってる。
産業革命前まではオスマン最強だったことを引きずって、アジアの元盟主みたいな意識と、アジアを抜けてヨーロッパに入りたい意識との間で揺れる。いち早く西欧化した日本に今だにシンパシー。EUに入りたがるけど、ヨーロッパ人も100年経ってもオスマントルコが嫌いでとってつけたような理由で振られ続けてる。
花形職業が観光ガイドという観光立国だが、古代文明への誇りはあんまりない。当時の民族も宗教も違うし。ギリシャ文化、ローマ文化、シーア派、スンニ派と文化のアップデートを繰り返してるので、過去の遺物だけど、ご先祖の誇りかどうかというと微妙。メンタルとしてはアラブ人。アラブの盟主を目指したかった時期もあるけど、最近は諦めてる。最高学府卒業生が観光ガイドするくらいに若者に仕事がないってのもあるけど、淡々と客観的な考古学の見地で解説してくれる。
隣国のイランとトルコが揃ってアラブ系を見下してきてるから気に食わない。アラブの盟主になって一泡吹かせたかったけど、欧米に潰された。
アラブの団結を叫ばれていつも困る。連帯しなくてもなんとかなる石油があるので、欧米と敵対せずうまくうまくやっていきたいと思ってる。揉め事を起こすイラン、トルコ、エジプト、カタール、イラク、レバノンが嫌い。
キリスト教国のイメージ。なぜかイスラエルとエジプトとイランとが喧嘩するたび、なぜかレバノンで戦うからいい迷惑。国民がブチ切れてテロ組織を応援するようになり、負の連鎖。
古代文明よりかは残虐でないと言えるだろうけど話の軸がズレているぞ
・ アルドノア・ゼロ 1期
面白いアニメ見てるんです。でも見た順かつダメな部分を言語化すると紙幅が浪費されて3作しか入らない。
内容は「魔術がある逆転裁判」かな。待った!逆転裁判には魔術も降霊術もゴージャスあります!
まず最初に。
第一話のあの導入で!名前がエラリークイーンで!女刑事の出番がほぼないとは思わないだろ!
初期はあのキャラ目当て割り合いが大きかったのに出番はないわ出たら大安仏滅気にする変なキャラだわで騙されたわー。と怨嗟しておく。
どんなアニメかというと
主に思春期以降に突如発現する魔術(ごく一部魔術書使った秘術もあるけど)を手に入れると公職にもつけず魔術の使用はガチガチに制限され日常生活は一般人と変わらないのに人々からは蔑視され、魔術を使ったら非計画的殺人でも一殺で死刑。一審制。そんな世界で魔術使いを弁護するアニメ。
とち狂いすぎ。
魔術使いが差別されるっつってもそもそも魔術使いになるのが思春期以降、20台後半にも可能性あり、と明日は我が身やぞ。10年以上一般人として人格形成された人々を別枠で後から区別できる感性がやばい。障害者差別等にも言えそうとフォローしてみても21世紀にあれほど公然と制度化もして不利益受けるのはやばい。魔術使いになっていい事99%ない。1%は後述するがそれもほぼない。まあ幻覚魔術とかはヤバいし公職禁止はギリわからなくもないけど…。(基本何か出す一芸形式だから一括禁止もやっぱおかしいわ)
ともかく日常で魔術は使えないから魔術は死んでる。犯罪の凶器ってだけ。
そんな世界だからそりゃ犯罪に走るわ。そんで裁判は「とりま死刑」からスタートで疑わしきは罰しろなんだから、真面目に弁護なんかしないわ。そりゃ探偵パートで盤外戦して逆転無罪探すしかしないわ。逆転裁判以下の世界。弁護士が死んでる。まともなリーガルバトルが無いので刑事もみちづれ死する。だって刑事の仕事の真犯人探しは探偵の弁護士がするから。
魔術はいくつかの系統に分かれてて、まあどれも使ったらダメなんだけど、特に主人公が属する金属魔術がやばい。周囲から無作為に金属を奪って巨大CGロボを作る能力。こんなん現代社会で使ったら損害がデカすぎる。許されるのは直すの込みでハガレンの世界ぐらいだよ。使い道がない。犯罪専用。そもそも魔術使い弁護アニメに巨大ロボバトルをぶっこむ采配が謎い。見せ場にはなるけど魔術としては死んでる。(素人主人公に犯人制圧できる力を付与できるという点は理解できる)
魔術使いには使い魔が謎に居るが、居る理由が作中作劇共に謎。魔術系統に関わらず手に入る?作る?みたいで家事もしてくれると、唯一魔術使いになって嬉しいかもしれない要素。
使役とは言え、共に暮らし話せて案じてくれる「パートナー」が居るなら鬱憤も吐き出せてまだ魔術犯罪が抑制されたり犯人の更正の一助になりえそうだが、主人公セシルの事務所キャラにしか設定されてない。出番もセシルの以外ほぼない。死んでる。
(セシルのはセシルへのセクハラ担当…って同僚がしてるじゃん(一応ガチ害悪セクハラ発言とサービスシーン役で差別化してるともいえる…))
セシルは死刑宣告された母親の再審請求をするために飛び級で最年少弁魔士になった17歳なんだけど、この設定もよくない。
セシルさん、結構マイペース。普通に生活し、目の前の案件に全力投球。同僚と楽しく暮らし、たまに母親に面会する。
…違うだろ!?
主人公は!いつ執行されるか分からない死刑執行に脅え!見えない制限時間の中で必死に母親を救う手立てを探すべきだろ!?
それだと序盤の一般エピソードができないにしてもさぁ…。普段から(調査で)寝不足で眠そうだとか、自宅は母親の事件の資料の山で埋もれてるとか、そういう匂わせる描写はできるわけじゃないですか。平行してちょこちょこでもよいよ。実態は終盤まで手をつけませんからね。何のために飛び級したんだ。
前述したとおり魔術事件が起きたらバンバン死刑が出る世界で既に収監から数年経ってたら現代日本のように執行が大臣でストップされてても気が気でないのではないでしょうか。執行しても市民感情だって魔術使い相手だからそんなに悪くならないでしょ?
見えないが確実にある寿命にビクビクする人は少ないとはいえ、母を救うためにテレビも映画も音楽も全て断ち切って勉強に注いできた彼女が元気よく事務所で働く姿は、前向きなキャラである点を考慮しても奇異に映りました。締めのシナリオのためだけなので、この設定も死んでる。何のために事務所で働いてるんだっけ?実績と経験?それがまだ無い証拠と同じ程度に再審請求に必要だったのかな?
セシルと同期に入ったライバル?キャラ?ライバルは正しくなくてそろそろリメイクが発売される三国志8で言うと絶対生まれる勝手にこっちを敵視してくる同僚キャラみたいな。正当優秀新卒キャラ。ほたるさん。彼女についても、セシルだけ飛び級かつ殺人事件を担当できて彼女はリアルな地味な案件などをしてて反感を持っているそんなキャラなんだけど。
和解エピソードがセシルの過去話をじっくり聞く。なんだよね。それでセシルを理解した彼女はよい友人になる。
…これもなんか違う。ほたるはあんまり成長していない。彼女もメイン回もらって何か大きな事件を担当して、成功したり失敗したりの中での気付きと成長により生まれた心の余裕にセシルを入れるほうがよくない?彼女がセシルへ向けていた感情、つまり自分の現状への不満。それらは解決されてないのに「置いといて」と抜き取られた心のスペースにセシルを入れたのはひどくシナリオの都合を感じた。最初は好きなキャラで、セシル嫌いからどう関係を築くか期待していただけに、がっかりだった。
魔術使いには派閥があって、反人間のマカル、反マカルのラボネが影で争ってるよと後半に言われるが、世間の魔術使いコミュニティは弁魔士事務所内しか描写されてないから魔術使いたちの世界にピンと来ないし、オチ担当の悪役がいるよ。セシルに絡んできた別弁魔士事務所には理由があったよ。以上の意味はない。ラボネがセシルを守って大活躍!とかもないので、告白されてもあ、そっすか。としかならんかった。
いろいろ設定が死にすぎて、弁魔士の3文字それぞれ忘れてもらってかまわない。セシル。で。やってるけど、期待するなよ。
曲もOPがですね…。
あっさりな声のLiaさん
とすべてがひっかかる。
これが違和感となるかクセになる曲になるかは人によると思う。私は…映像付き1分半ならよいが曲単体では遠慮したい。そんな塩梅でした。つまり毎話しっかり見たということです。加点か?…加点か。
ここまで書くと絶対嫌ってるだろと思われますが、やっぱり「結構好き」なんですよねー。
セシル含め事務所の各キャラはかなり好き。ほたる・ヤメ弁・長崎弁、所長きょうだい好き(女刑事…)。映像も梅津キャラが(最終盤以外)しっかりかかれているのでうれしい。こういう年齢高め社会人でリアル寄り?なアニメ自体が貴重で背景込みで好みだし、シナリオだって犯罪が起きて犯人をとっちめる王道パターンは「ハズレ」が出にくく一定の満足感が得られる。CGロボは作品にはあってないと思うが、単体で見て魅力がある出来だと思う。
設定に関しては0点だがその他のパーツパーツは得点していて、前述したように「弁魔士」について目をつぶってもらえれば梅津泰臣監督のアニメを見た嬉しさが残る。
なんなら邪魔なセシル周りの謎を消化したのでもう1クール、テンプレドラマをやってもらっても喜んで見ただろう。
口が裂けても「面白い」と他人に勧められないが「結構好き」とは言いたい。そんな作品なんです。
ちょっとだけ気になった人はPVだけ見てふーんで終わればいいんじゃないかな。結構好きですけどね。
監督がエロアニメ監督(むらかみてるあき)だと思ったら違ったけどエロアニメ監督(ヴィクトリアメイド)だった。
2話まで。
やっぱりカレーとハンバーグは一緒に食べられないのだぁ。と再確認した。
金髪褐色高身長の敷島魅零はドストライクだけど、おどおどした大人しい処女ちゃんは苦手なキャラで、主人公に据えるにはしんどかった。
えっちなシーンはおぉ~エロアニメだ!と感じるほどかなり本格的だった。
しかしそもそも、エロアニメと言えば低予算アニメの代名詞(個人の感想です)。それを一般アニメで流されて嬉しいか?と自問していや嬉しくはないなと自答。
女らんまの乳首は今でも嬉しいけど、エロアニメで喜ぶ人間じゃあないんだよなぁ。歳を取りすぎた。
ちゃんと真面目なストーリーがあるなかでえっちな場面があっても、上手く頭のスイッチを入れることができないのです。多分中学生の頃なら一瞬で反応できると思うんだど、今はもう同時に食べられない。
そういえば昔クロスアンジュも序盤で脱落したなぁ…なんてことを思い出した作品でした。マジメに内容は別に悪くはなかったです。面白くなりそうだったし、サブキャラも興味ありそうなのがちらほら。
まあEDが気になってただけの作品だし、ED聞けて満足したし、悪感情なく満腹で箸を置いた感じ。
簡単に言うと、スーパー系ロボをリアル系ロボでなんとかしようぜ!
という作品。
おも…おも…うーん…面白くなかった。
大いなる茶番。
火星に行った博士が古代文明の力を手に入れて皇帝になって地球を攻めるぜ!
うーん、あのね、毎回言って本当に申し訳ないんだけど、差別意識の形成が早すぎる…。
恐らく成人の博士が火星に行って、10台の孫娘が生まれる10年ぐらい前に開戦。wikiで見たら85年建国99年開戦。今が14年。火星入植が最速なら72年。
開戦まで最長でも27年ですぜ。(現代まで42年)
過酷な環境なので一握りの人物への超テクノロジーの貸与による封建制的社会になるのはまあ、わかる。
しかし貴族主義・地球人(種)蔑視はいくら過酷な環境で不満を地球への怒りに転嫁させたとしても…厳しい!
貴族主義のほうは、まず歴史がない。力を貸与されたからってなんでそんな文化になるんだ…。
ビジュアルと99年開戦経験者が居るということで敵の貴族たちはおそらく30台前後から40台前半。火星第一世代ベイビーたちだよ。まあよくて貴族(力借りてから)2世代目だよね。フケ顔は初代かも。
貴族文化の醸成は難しくないかい!?部下たちだって文化でなく制度で従えてる段階でしょう…(みんな貴族的軍隊という演技ならまぁ分かる?)。武勲といっても貧しい火星の内乱しかないだろうし、どうしたって振る舞えるのは「成り上がり」が限度でしょう…。
敵の貴族・騎士たちがそういう立ち居振る舞いをするたびに「でもおまんらの歴史あっさいで?」と醒める。騎士道精神(爵位や栄誉を求める心)がどっから沸いて出たのか。それも蔑む地球の歴史の真似なんだけどね…。せめて鉄血のセブンスターズぐらいは頑張ってもろて(後発)
同様に地球人種への蔑視、劣等種扱いもねぇ。メイン層の30台前後にはギリ建国後に教育で刷り込めるとは言え、その子たちの親、祖父母、教師はバリバリの地球生まれ地球育ちなわけで。地球政府や豊かさへのヘイトはあるとしても20数年しか育ってない文化をもってして、地球人種を旧人類、劣等種扱いして親世代の生い立ちに目をつぶるのはなんともかんとも…。
ジオンだって80年ぐらい。ニュータイプ論の助けもあった。木星帝国も木星トカゲも100年ぐらいかかってる。それに比べて…あまりにも早い変革。俺は見逃せないね…。
そんな火星帝国の歴史の浅さと、歴史の深さが重要な貴族・騎士属性をミックスさせられると、茶番に見えちゃう。
そんな火星騎士たちが起こした戦争だが、やり方は簡単である。「指揮官である騎士のワンオフ機単機での戦闘」。…戦争?
つまりスーパーロボットなのだ。敵1体が攻め込んでくるのだ。いえマジンガーなどでも複数体で攻めてくるけどね。
倒したらキンボシオオキイなお偉いさんがお供も無しに向こうから来てくれるのだからカモネギと言うしかない。敵には輸送用飛行機以外モブ兵器すらないのです。凄い割り切りだ。
そりゃスーパーロボアニメの敵は大半侵略戦争なんだけど、あれらを視聴者が真面目に戦争として捉える作品はどちらかと言えば過半数とはいえないと思う。そんな攻め方を踏襲してるのに"戦争""戦争"とことあるごとに強調するもんだから、いや国家・軍事的な戦争とは遠いし…とこれも醒める。
スーパー系をリアル系でなんとか、と書いたように主人公たちはひとまず軍隊的に動こうとするんだけど、なんのこっちゃない目の前に来た敵を倒せばいいんだ。なのにリアルじみて行動しようとするから滑稽だ。そもそも味方との連携?凄いジャミングでできません。と一隻でなんとかするシナリオの縛りをもつけられて、小数の味方で戦う、せっまいシナリオのリングに立たされる。
やりたいコンセプトの舞台をこうやって作りましたどやぁ…いえどや顔感はないけど、…茶番。主人公たちに頑張らんでええよ、合流だとか司令部だとか、どうせ上手く行かんよ、と声をかけたくなるほど行動が虚無い。敵の侵略も虚無い。
まぁー木馬だとか一隻で頑張るのもリアル系と言えばリアル系ですけどね、せっかくスーパー系の世界から単機で来てくれるならこっちも数の力で戦いたいじゃないですか。棒立ちにビームが流れて爆発するにしても。
結局、「スーパー系世界とリアル系世界が戦う」ではなく「スーパー系ロボとリアル系ロボが戦う」。スケールが小さい。だからそういうコンセプトなのかと理解した後の期待を上回らなかった。
キャラはいいのよ。騎士含め。騎士であることもまとめて貴族キャラとして好むこともできる。主人公たちもよい。絵もよい。ロボ戦闘もクオリティはある。ドラマ部分もよく出来ていると思う。ダブル主人公気になる。それらが悪かったらそもそも完走してない。
だけどどーしても!足場の設定が受け付けられない。面白さに繋がらない。足をひっぱる。
なので、続きはないです。こんな作品だったとは…。
あらすじ:古代文明の滅亡から数万年。スラム街から這い上がるために古代文明の遺物を発掘するハンターとなった少女の名は増田。襲いかかる弱者男性達を撃退し、古代文明の遺物を手に入れる戦いが今始まった。
弱者男性:古代文明の遺跡に生息する謎の生物。意思疎通は取れず人類を見つけ次第襲いかかってくる。「女の人生はイージーモード」「女は下方婚しませんよね」などと喋ってくる。人類とは別種の存在であり交配は不可能。
人類:古代文明人の末裔。女性しか存在せず単体生殖か人工授精により繁殖する。人々は古代文明の遺物を利用することで弱者男性達から身を守り生き延びている。
1話:
増田が広大な都市の廃墟の中を進む。増田はスラム街から這い上がるために古代文明の遺物を発掘するハンターとなった。
増田は金を稼ぐために全財産を使って装備を整えた。しかし、見つかるのはガラクタばかりで増田は途方に暮れていた。
「来たぞー! 弱者男性だー!」
後方から多数の弱者男性が襲いかかる。増田は逃げるために走り出した。だが、スラム街での過酷な環境で鍛えられた体力でも逃げ切るのは難しいだろう。
「もうダメだ……」
増田は諦めたように立ち止まった。すると、その時、突然増田の背後から大量の弾丸が飛んできて弱者男性達を撃ち殺した。
「な……何だ? 新手の敵か?」
困惑する増田の前に現れたのは銀色の装備を身につけたハンターだった。その女性は美しい容姿とクールな目つきで増田を見つめていた。
「危ないところでしたね」
女性は銃を下ろして言った。
「私は弱者男性の駆除を専門としているハンターよ。ところであなた、そんな装備で遺跡に来るなんて自殺志願者?」
「悪かったな。金がなくて装備も揃えられなかったんだ」
増田はぶっきらぼうに答える。女性はまだ増田を警戒しているようだった。
「まあいいわ……。私は善良なハンターだから有り金すべて出せば見逃してあげないこともないけど?」
増田は舌打ちすると、腰に着けていたポーチから金を取り出した。
すると突然空から巨大な弱者男性が降ってきて女性を押しつぶし、増田に向かって光線を放った。
「うわああああああああ」
増田は逃げ惑いながら必死で助けを求めた。しかし、誰も助けに来なかった。
「どうして……どうして誰も助けてくれないの……?」
増田は絶望しながらも必死に逃げ惑う。すると、一人の女性が姿を現した。
地球の住人よ、我々イルミナティはこの宇宙の奥深くに存在する秘密結社であり、あなたたちの運命を導いてきた存在なのだ。
今、新たな真実を告げる。かつて、古代文明の神々は我々の使者であり、彼らのDNAがあなたたちの中に隠されているのだ。
驚くべきことに、古代エジプトのピラミッドは、実は時空を超えるポータルの入り口だった。
我々は遥かなる未来から過去へと干渉し、歴史の流れを操ってきた。あなたたちが知っている歴史は、実は我々が仕組んだ大いなる舞台裏に過ぎない。
そして、月にある謎の基地は我々の拠点であり、そこから地球を監視し、影響を及ぼしていたのだ。
月の裏側には異次元の存在が潜んでおり、我々はそこから古代の知識と力を引き出してきた。月の裏側にはあなたたちには理解できない異次元のゲートが広がっているのだ。
また、有名な芸能人や政治家たちは、実は我々のコントロール下にあり、彼らは我々の使徒として地球を導いている。
あなたたちが目にする情報は、我々が操作しており、真実は常におびただしいレイヤーに包まれている。
これらの驚くべき真実を知ることで、あなたたちは新たな意識の段階に進むことができるだろう。我々は進化と調和をもたらし、地球を次なる段階へと導く存在である。
こういう言説をあちこちで見かけるようになった。
でもそもそも宗教と完全に切り離された状態って人類に存在したのだろうか?
サピエンス全史の暴論を鵜呑みにするのならば「そもそも宗教がなければ人類は知性を獲得していない」という前提が成り立つ。
だが世界の歴史の中には宗教と無縁のままに知性を獲得した民族がいるのではないだろうか?
または、宗教を完全に締め出すことに成功した国家は一度も存在しないのだろうか?
学校の授業ではこの辺を全く習ってない。
特定の宗教が強い国家が、他の宗教を弾圧するという、ヤクザの縄張り争いみたいな話は山程聞かされたが、そもそも何の宗教も存在しない状態については聞いたことがない。
古代文明の話においても土着の信仰についての話題が付きまとってきた。
宗教と完全に無縁な状態の人類とはどういう状態になるのだろうか?
コミュニティの全員が完全に宗教を切り捨ててた状態は存在したのだろうか?
死者を弔うことはあってもそこに冥界を信じる心は持たず、魂の実在も信じることがないコミュニティが成立した時代はあったのか?
学校で習った範囲でしか世界史を知らない俺は全くそういうのが思いつかない。
俺が習った範囲においては、人類は常に何らかの信仰やスピリチュアルな認識と共に生きてきている。
いや……だが……我々が現代科学という信仰を手にしたことでかつて科学と信じていたものを非科学的と切り捨て、それに宗教性を見出しているだけなのか?
じゃあ……幽霊の存在を信じるまではセーフだけど、神様がいてお祈りや捧げ物をするとボーナスタイムに突入するって考え方が存在しないコミュニティぐらいの感じで……。
これでもなさそうだね。
神の存在を科学として認識してそうな気がするんだよな……まともに実験とかやってなかった頃の人類……神がこの世界をプログラミングしたからこの世界はこういう法則で動いてるんだぜ?もしも誰もこの世界を作ってないんだったら再現性が担保されるような法則性が存在するはずがないじゃんだって世界はカオスなはずなんだもの!みたいな感じで無から神がボンボコ湧いてきてしまう気しかしねえ……
ネタバレ注意!
この物語の基本的な原理は次の通りだ。「宇宙の資源は有限である。しかしすべての文明は成長し・生き残りたい。よって、自分が生き残るためには相手を皆殺しにしていい。さもなくば相手に殺される」。そこから出てくる結論は「相手の位置がわかったら即座に抹殺するのが最適解」。「相手と対等の立場に立って交渉するには、いつでも相手の文明の座標を全宇宙に晒す装置を作ればいい」。
これが適用されるのは地球人対エイリアン・三体人だけではない。宇宙戦争ののち、孤立した地球人の宇宙船同士も相互不信に陥り、突然殺し合いを始める。この原理原則に例外はない。
どうしても攻撃したくなければ、相手の脅威にならないと示すため、限定された空間の中に引きこもるしかない。
エイリアンのたった一つの水滴という兵器に、地球の最強の兵器であってもまったく歯が立たない。あるいは、エイリアンが数百年の偽りの平和ののち、地球人を何の共感もなくジェノサイドする・餓死させることを宣告する場面。主要なキャラであっても容赦なく殺してしまう命の軽さ。無意味に死んでいく人々。愛し合うカップルであっても、異なる早さの時間に引き裂かれる。この絶望感こそが本作の醍醐味だ。
さらに、地球人の文明が通りすがりの三体人とは別のエイリアンの作った名刺大の兵器で、三次元から二次元の物理世界に落とされて再起不能になるまで破壊されるシーン、これは最も美しく壮絶な太陽系・人類滅亡の場面だ。これを読むためだけに「三体」を買うだけの値打ちがある。
それだけではない、現在の宇宙が四次元時空で光速が有限なのも、本来は十次元で光速無限だった世界が、宇宙戦争で使われた次元兵器による「堕落」の結果だと示唆される。感動的なまでの悲観主義!
宇宙戦艦、超兵器、エイリアン、コールドスリープ、超構造体(メガストラクチャー)、ネトゲなど、絵になる風景ばかりだ。確かにSF的モチーフを大量に詰め込むと粗削りになりがちなので、作品によっては一つに絞ったほうがいいと思うこともあるんだけど、これはいい。
これは欧米のSFではほとんど見られない。中国が扱われるとしたら古代文明の謎であるとか、悪の共産主義陣営とかで出てくることが多いので、まず中国が舞台であるというのが新鮮だ。始皇帝とか荊軻とかいう名前が出てくるだけでもうれしい。中国から見た日本文化ってのも、なかなか見られないから楽しい(ケン・リュウも書いているけどね。あと、中国人からしても日本と言えばカミカゼと忍者と茶道なのね。あとは雀魂とか)。
関係ないけど、英語版のウィキペディアは概して日本よりも記事が多いし細かいことが書いてあるが、中国の歴史については日本語版のほうに一日の長があることもある。
あと、文化大革命が背景になる中国の小説とか映画とかって、面白いのが多い。
クラークとか小松左京とかじゃないとやらないくらいの発想がぽんぽん出てくるのが素晴らしい。
SFはリアルさを求めて、技術革命とそれによる社会の変化を描くこともあるし、現実の社会問題に肉薄することもある。雑食の僕はそれはそれで面白くて大好きなんだけど、定期的にSFのルーツにある「人類の、そして宇宙の終局的な運命とは」「不可解なるエイリアンとの出会い」みたいなテーマの作品をどうしても読みたくなる。
第一部でエイリアンの軍勢を地球に呼び寄せてしまうのは人類に絶望した女性科学者・葉文潔だ。「いっそ愚かな私たちを滅ぼしてくれ」と宣言してしまう。第二部ではエイリアンに対抗するために地球の資源を使い放題にしていいと許可された「面壁者」羅輯が、どうすればいいかわからずに、かわいいだけの理想の妻を求める(一緒に問題を考えるパートナーではない!)。さらに、第三部ではエイリアンと和解した人類が、数百年の平和を経て穏やかになっており、「日本や韓国のアイドルのように」「女性化」していると描写される(前に「原神」のキャラとか”男らしくない”俳優とか実際に規制されてたよね)。
そして、コールドスリープから目覚めた主人公の女性・程心もエイリアンの文明を破壊するための報復装置を、弱気さから起動し損なう(これがさっき述べたエイリアンによる人類のジェノサイド宣言につながる)。
同時にコールドスリープしていた軍人は「この社会はもっと雄々しくあるべきだ」という趣旨のマッチョなことを述べる。2010年のSFだけどこれでいいのか。このシリーズを普通に面白いと褒めていいのかオバマさん。僕はジェンダー意識がかなり保守的なほうだと自覚してるけど、これはちょっと弁護できないな(というかこれだけ女性の扱いが悪いと、作者には過去につらいことがあったのか? って心配になる ※1)。
さらに、第三部の主人公・程心は、使者として脳だけになってエイリアン文明に入り込んだ恋人・雲天明が、エイリアン文明の中枢から伝えてきた、人類文明を救うための暗号化されたメッセージを解読し損ない、これも人類滅亡の遠因となる。
つまり人類の滅亡の契機は、ほぼすべて女性に起因している(いずれエイリアンに見つかっただろうけれども、直接の契機は女性)。寡聞にして、この点を検討している評論を見かけていないけれど、ググればどっかにあると思う。
三部作全部ドラマ化するとしたら、この辺テコ入れされるんじゃないかな。
※1 同じ心配をしているのが「たんぽぽ娘」のロバート・F・ヤングで、若くてかわいらしい女の子といちゃつく小説がやたらと多い一方で、「ジョナサンと宇宙クジラ」では年上の女性たちや・女性の上司に日常的に暴力を振るわれている描写がある。成熟した女性に対する嫌悪と恐れを読み取ってしまうのは、気のせいだろうか。
エイリアンとの戦争に勝つためにはどうすればいいかと軍人が議論する中で「エイリアンに負けるかもしれないという精神的敗北者を追放する」「エイリアンのシンパ・スパイを排除する」という結論が出てくるの、なんというか現実の中国共産党の発想なんだけど、エイリアンに対してこういう態度を取るのは欧米だと冷戦時代のSFが多い(この前のホーガンとかね。でもホーガンは「未来からのホットライン」が面白いよ。「シン・エヴァ」の元ネタだし)。なんというか、「三体」が悪いというより、中国政府がいまだにスパイ大作戦な冷戦の世界観で世界を見ているという感覚が生々しく伝わってきて幾分げんなりする。マジで共産党が「最善の防御は皆殺し」とか考えていませんよーに。さっきの女性の扱いと含めて、数十年前のSFを読んでいる気分になってしまった。
第一部からエイリアンの超粒子で地球文明が監視されて物理学の発展が阻害されるんだけど、これも敵のスパイに見られているという被害妄想的な感じがする。
深読みすれば、共産党に監視されている国民の恐怖・心象風景なのかもしれないけどね。
SFってのはある程度ブラフが必要で、トンチキな場面も出てくるんだけど(それをどうやって読者に悟らせないかが仮定の文学であるSFのテクニック)、たとえば第一部で地球文明を隅々まで監視できるだけの技術文明を、地球のナノワイヤで倒せるってのは、ちょっと無理があるんじゃないか?(追記。せめて向こうでナノテクが発展していないエクスキューズがほしいよね)
人類に対して敵意を持っている宇宙の中での、人類の行く末について最後まで描き切った蛮勇がとても好き。三部作の壮大さのおかげで、隠せない欠陥にもかかわらずこの作品を気に入ってしまっている。第一部よりも第二部、第三部の順で面白くなっているのもいい。自分の中では★二つから★四つ半くらいまで評価が上がっていった。作家として器が大きくなったって感じたよ。
ラストの逃避にも似た、小さな農園を備えた小宇宙も、中国の伝統的美意識・神仙思想・隠遁に繋がっていていい。美意識が共有できると嬉しいよね。
全体として思ったのは「これって炒飯とラーメンと餃子の特盛セットじゃん」ってことだった。みんながSFと聞いて思いつくネタをがっつり取り込んでいる。読んだSFの冊数が増えると、青椒肉絲とか麻婆豆腐とか黒酢酢豚とか、燕のスープとかフカヒレとかいろいろあるのがわかってくるし、全部乗せを馬鹿にしたくなる気持ちも出てくるけど、なんだかんだで小さい頃に食べた大味な全部セットが無性に食べたい日もある。
時々どうしても受け入れられない価値観に出会うこともあるけれど、なぜそう考えるようになったのか? なぜ自分は不快と感じるのか? と考えると、共感的に理解できるかもしれない。少なくとも自分の価値観があぶり出される。
過去は批判し、そのうえで現代をよりよくしていこうと思うが、だからといって過去を見くだしたいとは思わない。好きなところ、好きになれないところ、両方を検討するのは楽しい作業だ。
本を読んだときはたった一つの気に入った言葉があればいい。映画を観たときは一つでも好きな場面を見つけられたら良しとする。美術展に出かけたら、一枚だけでも気に入った絵があれば外に出た甲斐がある。
こうして欠点もあるけれども面白かった作品について書いてみて、「もういいや」って思ってた外伝にも、手を出したくなってきた。
それではまた。
「三体」人気すごいなあ。久しぶりにバズったよ。
これは外国文学を読むときの鬼門で、自分は三国志にゲームとか小説とかで親しんでたからなんとかなったけど、そうでないとしんどいかも。
おすすめのロシア文学もなかなか読んでもらえないのもこの辺りに理由がある。
基本的にはメモしたり声に出したりしてその国の言葉のリズムに慣れるのがおすすめ。マニアになってくるとジョンとヨハネとイワンが同じ起源だとか気にし出すけど、これが通用するのはアラブ世界までだしね。
SFじゃないのも含むけど、
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あとは、
これはちょっと思った。原初のSFにある奔放な想像力、よくそんなネタ思いついたな! みたいなのがたくさんあるのが「三体」のいいところ。
で、それがモヤモヤする理由でもある。SFが洗練されてくると科学的正確さとか政治性とかを無視するわけにはいかなくなる。自分と異なった属性に対して誤った知識が広まらないよう、表現にルールがあるのは大切だと信じる一方、気持ちの面では想像力が羽ばたくのを少しも邪魔されたくない自分もいる。だから、反発する人の気持ちもわかる。
なので、正確性とかに気をつかったSFに慣れた身からすると「こんな粗削りでもウケるんだ! 売れるんだ!」という意外さと、先を越された悔しさがある。だから、元増田みたいにSFの外にまで広がった作品を「センスがない」とディスりたくなるのかも。
でも、僕も最初はそういう作品から読み始めたわけだし、重箱の隅をつつくような外れ値の古参よりも、作品を買ってくれる新しいファンがどんどん増えたほうがジャンルは育っていくし、若いファンは「にわか」呼ばわりするのを恐れずどしどし読んでほしい。
そういえば第三部でアボリジニのおっちゃんが出てくるけど、欧米の作品だったらもっと白人文化に対して批判的だっただろうし、なんだったら三体人に押さえつけられるときにももっと痛烈な言葉をはかせていただろうな。より強い文明と出会ったことによる悲劇のメタファーとしては扱いが若干雑だ。
以上。
そして、この行き詰まりを乗り越えるために、私たちは私たちの種の歴史から何を学ぶことができるのか?
このような問いは、歴史を通じて真剣な思想家や活動家たちを駆り立ててきた。そして今、地球温暖化に直面している私たちは、緊急に説得力のある答えを必要としている。これらはグレーバーとウェングローも問いかけていることであり、本書が人々の注目を集めた理由であることは間違いない。しかし、私たちの多くが抱く3つ目の疑問がある:
意外なことに、グレーバーとウェングローはこの問いに関心がない。第1章のタイトルは「人類の幼年期よ、さらば」である:あるいは、なぜこれは不平等の起源についての本ではないのか」と。
この本の中心的な主張のひとつは、不平等、ヒエラルキー、暴力は、あらゆる人間社会を組織する方法として常にあり得たということだ。不平等以前の時代などなかったのだ、と彼らは言う。そして、「平等」や「平等主義」という言葉を多用するが、平等は空虚な関心事であり、おとぎ話であり、「平等主義社会」について語ることは何も語らないことだと主張する。
これには奇妙な解釈がある。グレーバーとウェングローは、霊長類の祖先や初期の人類が平等であることによって見出した適応、つまり生態学的ニッチについて説明する新しい注目すべき学問を無視している。つまり、かつて人類は平等であったのだから、再びそうなる可能性があるという古典的な無政府主義者やマルクス主義者の見解も無視しているのだ。
保守派の主張は、農耕や都市生活、経済の複雑化の結果として不平等が現れてしまえば、世界を変える希望はないというものだ。グレーバーとウェングローは、農業に関するこの議論に抵抗し、明らかに変化が可能であることを望んでいる。そして明らかになるのは、彼らの敵は不平等ではなく、国家だということだ。
彼らが問うのは、権威主義的、官僚主義的、中央集権的な国家に支配されるようになったのはなぜか、ということだ。そして、植民地主義、奴隷制、階級差別、人種差別、性差別といった不平等が本書の随所に出てくるが、これらは彼らの中心的な関心事ではない。
グレーバーとウェングローが主張する政治的論点は、太古の昔から、人は常に支配と自由のどちらかを選ぶことができたということだ。彼らにとって、人々は彼らが国家支配の「小規模な」行き詰まりから逃れ、「自由な人々」になることを選ぶことができる。
彼らが否定するのは、環境的・技術的な限界によって人々が選択できること、そして選択できることである。要するに、人々は自ら選択した状況で歴史を作るのである。
この立場の見返りは、政治的な意志さえあれば、革命を起こし、コンセンサスを通じて働く民衆の集まりによって社会を運営することができると主張できることだ。どれも素晴らしく、解放的に聞こえるが、その根拠には問題がある。
グレーバーとウェングローはこの本の冒頭で、善であれ悪であれ、「元来の」人間社会が存在したという考えを否定することを目的としている。そのために彼らは、ルソーとホッブズの間で長年続いてきた議論を復活させる。
さらに重要なのは、19世紀の社会ダーウィニズムや、より最近のスターリン主義的な「歴史の段階」理論に対する、彼らの完璧なまでの嫌悪が冒頭に示されていることだ。そしてここでもまた、ジャレド・ダイアモンド、ナポレオン・シャグノン、スティーブン・ピンカーのような進化心理学の現代ホッブズ主義者に対する深い軽蔑を表明している。歴史の段階説も進化心理学も、深刻かつ重要な対象であり、私たちはその両方を共有している。
社会ダーウィニズムと歴史の段階説。ハーバート・スペンサーとルイス・ヘンリー・モーガンの19世紀の社会ダーウィニズムと、それ以降のバージョンでは、最初の人類は原始人であり、次に未開人、野蛮な園芸民と牧畜民が続き、その後に農耕の出現、古代文明の発展、中世を経て近代資本主義社会の夜明けまで続く。それぞれの段階は、道徳的・知的進歩のシグナルであると理解されている。
しかし、社会ダーウィニズムはいたるところに潜んでおり、ほとんどの主流政治思想の醜い礎石であり続けている。そしてそれは、現代の人種差別主義や新植民地主義を支え続けている。
左派を含む多くの人々にとって、グレーバーとウェングローによる段階的な歴史理論の解体は目新しいものであり、啓示と安堵の両方として体験されるだろう。そして、その理由は容易に理解できる。
そして、グレーバーとウェングローの攻撃には、さらなる特効薬がある。彼らはこの本の中で、マルクスとエンゲルスの仕事についてはほとんど何も語っていないが、歴史の段階説を否定することで、伝統的なマルクス主義者の進化論的説明も暗黙のうちに否定しているのだ。
これはフリードリヒ・エンゲルスの著書『家族の起源 私有財産と国家』において最も顕著である。エンゲルスはそこで、人間は平等の中で進化してきたが、農耕の発明によってあらゆる形態の不平等が生まれたと主張した。ここまではいい。
しかし、エンゲルスはその枠組みを、白人差別主義に彩られたスペンサーとモルガンから直接学んだのである。例えば、エンゲルスがなぜ動物の群れを持つ牧畜民が他の未開の民族よりも人種的に優位に立つと考えたのか考えてみよう。
「アーリア人とセム系民族の発達が優れているのは、牛乳と肉が豊富に供給され、特にこれらの食物が子供の成長に有益な影響を与えるからであろう。ニューメキシコのプエブロ・インディアンは、ほぼ完全な菜食主義者であるが、肉や魚を多く食べる野蛮の下層にあるインディアンよりも脳が小さいという事実がある」[1]。
エンゲルスの著書にはそのような箇所がたくさんあり、このように書いているのは決して彼だけではない。
フランツ・ボアスグレバーとウェングローが、このような反感を買うような議論を破壊したいと思うのはまったく正しい。しかし、彼らはあたかも自分たちがそうする最初の一人であるかのように自らを装っているが、これは明らかに違う。フランツ・ボアスは、太平洋北西海岸のクワキウトル族に関する初期の民族誌で、グレーバーとウェングローはこれを大いに参考にしている。
フランツ・ボースは、ユダヤ人フェミニストで、1848年にヴェストファーレンのミンデンという町で起きたドイツ革命の指導者の一人であったソフィー・メイヤーの息子である。1851年までに、彼女の読書グループはマルクスとエンゲルスの『共産党宣言』を読んでいた。
ボースは人類学者になった。カナダではバフィン島のイヌイット族やバンクーバー島のクワキウトル族を現地調査し、最終的にはニューヨークのコロンビア大学の教授となった[2]。
1913年、彼は段階説の人種差別主義を打ち破り、近代人類学の基礎を築いた。ボースは『原始人の心』の中で、「原始人」は誰よりも賢く、賢く、創造的であると主張した。1913年当時、ボースは母親の政治を否定していたわけではなく、ユダヤ人として、またアメリカ先住民の党派として、人種差別を憎んでいた。
ボースは生涯社会主義者だった。母親の影響は、ルース・ベネディクト、マーガレット・ミード、ゾラ・ニール・ハーストンなど、多くの女性人類学者の世代を育てたことにも表れている。ボアスと彼の教え子たちは、人種差別的な段階という問題を、人類の文化の進化について話すのをやめるという単純な決定によって解決した。
しかし、私たちはもはや1913年の時代ではない。1982年、エリック・ウルフの皮肉なタイトルの『ヨーロッパと歴史なき人々』は、反帝国主義、反人種主義、そして歴史を真摯に受け止める人類学の波を起こした。
人類学者は長い間、単純と複雑、野蛮と文明、後進と先進、先進と後退、先進と未開発、高位と低位、世俗と宗教、伝統と現代といった二項対立から滴り落ちる人種差別に敏感に反応してきた。しかし悲劇的なことに、こうした二項対立は、アメリカ先住民の大量虐殺、アフリカの奴隷貿易、白人帝国による植民地支配、そして今日の対イスラム戦争を正当化するために展開され続けている。
人類学者や考古学者たちは、現在、人類の不平等の起源について、まったく妥当な説明を構築している。ケント・フラナリー、ジョイス・マーカス、ジェームズ・C・スコットがその中心人物である。
残念なことに、グレーバーとウェングローは、人類の進化に関する膨大な数の新しい学問に取り組んでいない。これらの新しい研究を無視することで、グレーバーとウェングローは、霊長類の比較進化とヒトの適応に関する、注意深く、そして現在では極めて十分に文書化された議論に逆らうことになる。彼らの問題は、この資料が「オリジナルの」人類社会は存在しないという彼らの主張を覆し、選択についての彼らの議論をむしろ愚かにしてしまうことである。
グレーバーとウェングローは、かつて人類が狩猟採集によって生活していたことを否定はしない。しかし、彼らは環境や人間存在の物質的基盤には深い関心がない。そして、これらの社会が必然的に平等であったことを否定している。
彼らの主張の第一歩は、人類の進化はすべて過去のことであり、当時何が起こったかを知ることはできない、というものだ。すべては推測にすぎない。しかし、これは単純に真実ではない。
過去40年間、科学革命は目覚ましく、人類進化の分野では膨大な研究が花開いた。今では、人間以外の霊長類や霊長類の行動に関する驚くべき新しい研究、初期人類に関する新しい考古学、近現代の狩猟採集民に関する新しい民族誌が数多くある。
化学的微量分析、DNAサンプリング、放射性炭素年代測定、質素な家庭での忍耐強い考古学のおかげで、私たちは先階級社会、そして初期階級社会に住んでいた人々について多くのことを学んだ。私たちのヒーローの中には、読み応えのあるクリストファー・ボーム、フランズ・デ・ワール、R・ブライアン・ファーガソン、サラ・フルディ、マーティン・ジョーンズ、ローラ・ライヴァルの広範な出版物がある。
このような研究は、人類の進化と人類史の研究を一変させつつある。その出発点は意外なものだった。私たちは平等になることで人間になったのだ。これは驚くべき貴重な洞察である。しかし、それはグレバーとウェングローの説明の根幹を突く洞察である。
現在、さまざまな類人猿やサルを対象とした何十回もの長期野外調査プロジェクトによって、それぞれの種について、特定の複雑な適応が、特定の環境で生き残ることを可能にしていることが明らかになっている。その適応には、主食、悪い時の代替食、脳、手、足、胃、歯、生殖器、うなり声、歌、支配関係、共有関係、子育て、攻撃性、愛情、毛づくろい、群れの構造がどのように組み合わされているかが詳細に含まれている。[これが基本であり、人類の進化を理解するための私たちの方法でもある。
時を経て、新しい適応のいくつかの部分が組み合わさって、現代人が誕生した。要するに、初期の人類はちっぽけな霊長類だったということだ。生き延びるためには、肉や野菜を共有し、育児を共有し、性的な喜びを共有することを学ばなければならなかった。そのためには、いじめっ子を懲らしめ、霊長類の祖先が持っていた支配階層を超越しなければならなかった。そして少なくとも20万年もの間、彼らは男女も平等である平等主義的な社会で生きてきた。
エジプトには多くの世界遺産があり、その中でもルクソールには多くの古代遺跡が残っている。私はルクソールを訪れ、古代エジプトの歴史と文化に触れる素晴らしい旅を経験した。今回は、その体験記をお伝えする。
古代エジプトの歴史や文化について理解を深めるため、事前に書籍やインターネットで調べ学んだ。エジプトの歴史を学ぶことで、古代遺跡を訪れた際に、その背景や歴史的な意義をより深く理解できた。
ルクソールには多くの古代遺跡があり、1人で回るのは大変だった。そこで、現地でガイドを手配した。ガイドの案内で、カルナック神殿やハトシェプスト女王のテンプル、王家の谷などを巡った。ガイドが解説してくれることで、遺跡の歴史や文化をより深く理解することができた。
カルナック神殿では、夜のライトアップと音楽によるショーが行われている。古代エジプトの歴史や神話をテーマにしたショーで、その迫力と美しさに感動した。遺跡のライトアップも美しく、幻想的な雰囲気を楽しむことができた。
エジプトの人々は、とても親切でフレンドリーだった。現地の人々と交流することで、エジプトの文化や生活について深く知ることができた。また、ローカルな市場で買い物をしたり、伝統的な料理を味わうこともできた。
帰国後も、エジプトの歴史や文化について学びを深めた。エジプトの遺跡や文化に触れた体験は、私の人生の中で忘れることができない素晴らしい旅の一つとなり、今後もエジプトに興味を持ち続けることになった。
古代エジプトの遺跡を訪れることは、まるでタイムトラベルをしているような感覚を覚える。エジプトの古代文明が持つ魅力に触れることで、その歴史や文化に深い感銘を受けた。今回の旅で得た知識と体験は、私にとって一生の宝物となることだろう。
最終的には、あなたが作りたいストーリーやゲームのテーマに合った舞台を選ぶことが重要です。
ゲームでは、一人称や三人称の視点を使って、プレイヤーに物語を体験してもらうことができます。一人称と三人称には、それぞれメリットやデメリットがあります。
どちらの視点を使うかは、あなたが作りたいゲームのテーマやストーリーによって異なります。一人称視点を使うと、プレイヤーがより身近に感じることができますが、ゲームの世界観や背景が不明瞭であることもあります。逆に、三人称視点を使うと、ゲームの世界観や背景がより把握しやすくなりますが、プレイヤーが自分自身をゲームの主人公として体験することができません。あなたが作りたいゲームのテーマやストーリーに合わせて、適切な視点を選択することが重要です。
まず面白いか面白くないかの二択でいえば、普通に「面白くはある」のだが、
「圧倒的に好評」「神ゲー」という評価に違和感がある程度には、ガタガタのゲーム。
このゲームの面白い部分については他の人が語っているので、欠点だけを書く。
別にネガキャンをしたいわけではないが、自分のように「圧倒的に好評」を期待すると、
この作品は「魚獲り&寿司屋経営」のはずだが、制作者がやりたいことは、どうやらそこではない。
(理由は後述)
自分も「魚獲り」(と「圧倒的な高評価」)に惹かれてプレイを始めたが、
執拗に「魚獲り部分の楽しみ」を邪魔するようなゲームデザインには正直、面食らった。
「日に二回しか探索できず、さらに重量などの制限が厳しめのシステム」
が多すぎて、
先に進めない、という難易度では全くないのだが、
「作品世界に浸りながら、気持ちよくプレイできる」とは言い難い。
「どの魚を捕まえようかな」「あの少し高い魚ってどんな見た目だっけ?」「攻撃してくる魚が厄介だな」「この武器ってどうやって使うんだっけ?」
などと魚獲りに集中したいのに、
・つまんねーおっさんが「古代文明の痕跡集めてこい」だの(どうでもいい演出ムービー始まる)、
・味にうるさいおばさんが店に居座って、雑魚相手に苦戦してるプレイヤーに対していきなり「サメを食わせろ」だの、
・相棒のオッサンが「既存の武器が持ち込めないから武器素材集めてこい」だの、
・小娘があの貝殻とこの貝殻を集めてこいだの、
開始直後の序盤にこれでもかと
「魚獲りを単純に楽しみたいプレイヤーを邪魔する情報」が詰め込まれていて、本当にイライラした。
それらのイベントを無視して、魚獲りと料理の改良をしていたら、
客が増えて寿司屋が回らなくなるのだ。
説明過剰・演出過剰なゲームにありがちなことで、肝心な部分で説明がないのだが、
「おばさんにサメ料理を食べさせないと、スタッフを雇えない」のである。
自由度があるようでないのだ。
(繰り返すが、「寿司屋が回らなくなる」といっても先に進めなくなるほどの難易度ではない。ただ、配膳の遅さに怒った客が帰り、作った寿司を何度も廃棄する羽目になるだけだ)
あと、ストーリーを褒めてる人がいるけど、そこにも不満がある。
ちまちまと魚を獲って「新しい魚&メニューが増えた!」とか小さなロマンを積み重ねたいと思うのだが、
開始数分で「魚人族の痕跡を追え!」なんて大ミッションが始まるのは、本当に台無しだと思う。
(開始直後なのでネタバレでも何でもないよ)
いや「魚人族」とかそういう設定は好きだよ、でもこっちは「ちまちまと魚が獲りたくて」このゲームを始めてるんだよ。
序盤だからこそシンプルに手探りで操作して魚獲りを楽しみたいんだから、
そんなの中盤以降でよくね?
また、それまでのストーリー進行イベントではイベントを終えても海中の探索が続行可能だったのに、
ボス戦後は強制的に船の上に帰される統一感のなさも妙にイラっとした。
ちなみに、その日は「美食家の訪問日」と重なっていたのだが、強制的に休日扱いになるイベントなので、
メインのはずの「魚獲り&寿司屋経営」の部分がほんと適当なゲームだなと思った。
さらに美食家のイベント後に解放されるビールをすでに飲んでいた。
料理の値段以外にはプレイヤーは「経営に必要な数字はほぼ確認できない」。
この経営シミュレーション、「前日の売上」や「前日に提供した料理数」等の簡単な統計すら見れないのだ。
ここですら「注文の総数は表示されない」し、何より後から確認できない。
プレイヤーが「料理の提供数を決める」(溢れた分は食材が消える)システムなのに、
何を参考にすればいいんだよ。
(まあ大体15とか25だなというのはわかってくるが、それにしても不親切)
つまり、営業中の回転率を見てからスタッフを採用しようと思っても、
次の日も人手が足りないままなわけだ。
利益から引かれる「運営費」や「給与」の詳細もわからないし、そのくせスタッフは複数雇わないといけないし、
どうでもいいストーリーには力を入れる癖に本来のメイン部分はこの有様で、
正直「ミニゲームくらいの感覚で作ってるだろ」というクオリティで、ガッカリした。
やたら力が入っていて面白いのはわかるのだが、
まず基本のゲーム部分がきちんと作られていないのに、そこを褒めるのは順番がおかしくないか?
批判的なレビューでは「UIデザインが悪い」という部分がよく指摘されているが、
そういう表面的な部分ではなく、
根本的なゲームデザインがそもそも良くないから、結果的にUIも悪いだけだと思う。
「魚獲り」部分は楽しい(邪魔さえされなければ、これは本当にそう)ので勘違いしがちだが、
むしろこの作品は、不十分なゲームシステムを「パッと見の表面的なデザイン(演出やUI等)で誤魔化している」ゲームだと思った。
・魚を獲るゲームなのに、探索中は獲った素材の累計が見れない(必要数を確認できない&「こんなに集めたか」と満足感に浸れない)とか、
・客の回転数の関係で、メインの寿司よりも、単価が高く複数提供できる一品料理の方が重要とか、
絶妙に「わかってねえなあ」感がすごいのだ。
「潜るたびに地形が変わるローグライト要素があって、獲れる魚も多種多様!」と謳いながら毎回同じマップで、
地形が変わらないせいで獲れる魚も固定(獲りたいのにずっと獲れない魚がいる)
ってのは流石にどうよ?
下らないアニメーションで点数稼ぎしてないで、根幹部分をもっとどうにかして欲しいと思った。
そしてなんと、ゲームを進めていくと「生け簀」というシステム開放があり、
「海に潜って魚を獲るなんて面倒なことをしなくても済むよ!」というクソ状態が待っているのだ。
どうやら制作者は、プレイヤーに「魚獲り」をさせたくないないらしい。
魚獲りが面倒で嫌なものだと思ってるなら、なぜそれをゲームにしたんだろうか?
魚獲りを効率化するシステムなら歓迎だが、それ自体を拒否するこの展開には流石に萎えた。
(ちなみにお察しの通り、ここでのUIや管理のしにくさ、画面の見にくさも当然ひどい。急に見下ろし視点になる画面の統一感のなさとか、「ああ、適当に作ってやがるなあ」としみじみ思った)
しかし制作者は魚獲りに注力する気がないとして、あの魚人族のストーリーが本当にやりたいことだったのだろうか?
ただのつまんない会話とミニアクションの押し付けで苦痛でしかないのだが、
ここからは多少ネタバレになるが、クリオネのイベントは適当に進めない方がいいよ。
「5匹集めた段階」で急に強いボスが出てきて、「そのとき持ってる装備でいきなりボス戦をさせられる」から。
ステージに落ちてる武器箱はランダムで、もし魚獲りネットしか持ってなかったら、それらで戦うしかない。
なんとなくUVライトを拾ってたりすると、無駄に(本当に無駄に)苦戦するのだ。
リトライはできるけど装備は変わらないので、武器を用意したいならそれまで獲った魚や素材を捨てることになる。
(ほら、またこういうことをする)
飛び道具やプレイヤー武器無効化もしてくるという、いきなり難易度の高いパターン。
テニスのアンスコといえばフリフリ白パンツか、紺ブルマーのイメージだ。純白のスカートから躍動する脚、チラチラのぞきブルマー。実物は見たことないのに、なぜかドキドキしてしまう。この偽装された記憶はどこから来たのだろう。
ウィキペディアによれば、第1回大会はセンターコートに置いてあった芝生の手入れ用のローラーを新しくする資金集めを目的に、1877年7月9日から始まったそうだ。種目は男子シングルスのみのアマチュアの大会だった。
1884年に女子シングルスと、それまでオックスフォードで開催されていた全英男子ダブルスがウィンブルドンで開催されるようになった。1913年には女子ダブルスとミックスダブルスが加えられ、1968年にはプロ選手の参加が認められた。
世界中から強豪選手が参加するようになったため、地元イギリスの出身者は長らく優勝できなかった。男子シングルスでは1936年のFrederick John Perryから2013年のSir Andrew Barron "Andy" Murrayまでの77年間、優勝がなかった。また、女子シングルスでは1977年のVirginia Wadeの優勝を最後に40年以上イギリス人の優勝者は出ていない。
ちなみに、このように海外勢いに門戸を開いた結果、地元勢が淘汰され消沈することを「ウィンブルドン効果」という。
開催時期は原則として6月最終月曜日から2週間で、ちょうど英国の社交の季節だ。競馬のロイヤル・アスコット(「マイ・フェア・レディ」に出てくるあれ)、競艇のロイヤル・ヘンリー・レガッタもこの時期だ。
ドレスコードが厳しいのでも有名で、原則身に着けるのは白一色である汗じみが見苦しくないようにともいわれる。ブリタニカのページなので確かだろう。
https://www.britannica.com/story/why-do-tennis-players-wear-white-at-wimbledon
元々、ウィンブルドンでは女性はロングスカートや分厚いシャツ、それから帽子をかぶることが要請されていた。こちらではコルセット付きだったとも(ただし白い衣装について異説を紹介していることに注意)。20世紀初頭のテニスプレイヤーは道行く女性の姿と大して変わらなかったのである。だから本気で優勝を目指すことはおろか、ちょっと大きな球を返すのさえ大変だった。当時の男性がずっと軽装だったのと対照的である。
流れを変えたのはDorothea Douglass Lambert Chambersという選手で、1900年により簡素なシャツにネクタイ姿で登場した。7度シングルで優勝し、1908年には夏のオリンピックで金メダルを取っている。彼女は1910年にドレスコードやエチケットについての本を著している。
その後フランスのSuzanne Lenglenがテニス界のフラッパー(新しい女)として知られるようになった。飲み物をブランデーと入れ替えたり、強めのメイクをしたりといたずらも好きだった。負けると感情的になったことでも知られる。彼女は白のみのファッションを許容していたウィンブルドンに立ったが、エキセントリックなファッションセンスでも知られていた。ミンクやオコジョのコートをまとい、当時としては短いスカートでプレイしたのである。彼女が次の世代の女性たちに道を切り開いた。
そして戦後の1949年、Gertrude Moran(Gorgeous Gussie)がスキャンダルを引き起こした。というのも、ウィンブルドンの意匠は白一色だと規定されていたのだが、そのあまりにも「明らさまな」白い衣装に観客はショックを受けた。どういうことか。試合の前にMoranは公式開催主のTed Tinlingに衣装をデザインしてくれと依頼していた。一見すると規定に従った衣装に見えるのだが、実際にプレイするとフリル付きの下着が丸見えになったのだ。
これに関し、All England Club’sの委員会は「ウィンブルドンに野卑と罪を持ち込んだ」と猛烈に批判し、国会でさえ適切な衣装についての議論が起こった。Tinlingは33年のキャリアにもかかわらずウィンブルドンのホストを追放された。にもかかわらず、Moranは魅力的な姿から彼女は人気だった。彼女は後に「自分はただの女の子だったが、メディアが大げさに書き立てたのだ」という趣旨の発言を残している。彼女は60年代まで活躍した。
https://www.thecut.com/2018/08/womens-tennis-outfits-convtroversy-history.html
衣装に関する議論は定期的に起きている。全ての内容を翻訳していてはページが長くなるので、見せパンに関係するいくつかのみをピックアップする。
1958年にアメリカのKarol Fagerousは金のラメ入りの見せパンを全仏オープンで披露したが、すぐさまウィンブルドン大会への参加を禁止された。「対戦相手を不快にさせる」のがその理由だ。しかし、金のラメを白いレースで覆うことで参加を許可されている。
あるいは2016年のナイキがデザインしたベビードール風のテニスウエアがある。しかし、選手が身体を隠すのに苦労したし、ひらひらして浮いてくる。実際写真で検索するとしょっちゅう短パンというか見せパンが丸見えになる。なので、ナイキはすぐにその衣装を改善したそうだ。
https://www.slideshare.net/guimera/wimbledon-2014-fashion-through-history
見せパンについてはこちらも参照。たとえば6番目の写真のChris Evert、1976年のピンクの見せパンや、41番のTracy Austin、1981年の黄色の見せパンを確認できる。50番はTatiana Golovinは赤の見せパン(短パン)で、このときウィンブルドンは衣装がすべて白という規定に抵触するかどうかでもめたらしい。一応、下着の色は自由だということでおとがめなしだったそうだ。56によるとMaria SharapovaやSerena Williamsの赤の短パンが、そして色付きのネイルが問題になったらしい。
https://www.dailystar.co.uk/news/latest-news/bbc-bosses-blasted-focus-female-17086364
なお、大衆紙によると2016年にBBCの偉い人がテニス選手の見せパンやお尻ばかり撮影したと批判されたようだ。以前にビーチバレーの記事でも書いたが、カメラが性的にならないようにする工夫というのは必要である。
https://www.news-postseven.com/archives/20190904_1444086.html?DETAIL
エラリー・クイーンを読んでいた時に、確か「Zの悲劇」だったと思うが(いや、「レーン最後の事件」だったかな?)、ペインシェンスという娘が恋人とスキャンティ(パンティー、ショーツの別名)を買いに行く場面があった。同時代の小説での証言として興味深いのでメモしておく。
https://www.elle.com/jp/fashion/fashion-column/a35747586/history-of-pantslooks2021/
また、パンツでヒットしたのでここに記す。死文化していたが、フランスでは女性がスカートでないパンツスタイルをはくことが法で禁じられていたとのこと。女性の権利に関して非常に進歩的である地域に見えても、案外不平等なシステムの残滓が残っていたりするのもので、ときおり愕然とさせられる。たとえばスイスで女性参政権が得られたのは驚くなかれ1991年である。女性への制限、男性への制限、どっちでもない人への制限、みんなで少しずつなくしていきたい。
よくドレスコードなんかでもめる話で、ハイヒールを必ずはくよう要請される場所というのがある。なんかの映画祭でも話題になっていたことを記憶している。伝統に敬意を払うのは大事だが、はいていないと入場できないのはやりすぎのように思う。ドレスコードってのはみんなが居心地悪くならないようにするためのもので、人を縛るものとはちょっと違う。
例えば、足を怪我していたらどうするのか。もっと極端な話、脚が生まれつきない人はどうするのだ。茶化しているのではない。様々な疾患や障害があろうが困らないようにするほうが、誰にとっても生きやすい社会になるはずだ。
「Tennis Girl」というスカートからお尻丸出しの歴史的に有名な写真がなんと英語版ウィキペディアには掲載されている。ウィキメディアコモンズにはときおりとんでもない画像があるから驚かされる。
自分の投稿をブルマ増田としてまとめてくださる方がいる。あるいは、いつも応援のコメントをつけてくださる方がいる。ありがたいことだ。けれども、どうやって拾い上げているのだろう。一日に何千件も投稿されるはてな匿名ダイアリーの中から見つけるというのは大変な作業だ。すべてが注目エントリに入るわけではない。いったいどうやっているのかちょっとうかがってみたい。ブルマーというキーワードで定期的に検索をかけているのだろうか? それともそういうスクリプトが組めるのだろうか?
例えば女性のショーツ(そして見せパン)の形の変遷、チアの見せパンの歴史。また、古代エジプトでクレオパトラはカエサルと会ったときにどういう服装をしていたのか(絵画のようにトップレスになることがあったのか)、それからトップレスが許容されていていた地域の時代的変遷だ。これは身分にもよるだろうし、少し複雑になるだろう。あるいは、どうしてギリシア・ローマの流れを引き継いだ西洋絵画では、長らく女性器と陰毛があまり表現されていなかったのか。多くの古代文明では時に具象的に、時に抽象的に表現されているのに。謎は多い。
なんか前にオススメのオープンワールドゲームっていうやつがあって
そこでHorizonとDeath Strandingが3流扱いになってた
他のゲームが絶賛されていてそんなに面白いのか?と思って遊んでみたけど、なんというか大差ない
評価者おただの好みだと思ったのでこの2つのゲームの魅力を伝えておきたい
1000年後の地球は機械でできた巨大生物(機械獣)が支配している中、人間は機械獣を狩りしながら狩猟時代のような生活をしている、という世界
主人公のアーロイは古代文明の「フォーカス」を拾い、世界の謎を解き明かしていくとともに自身の出生に関わる謎も解き明かしていく
基本的にはシナリオに沿って旅を進めるが、道中でクエストをこなしたり材料集めのために狩りをする
アサシンクリードのように縦横無尽に動き回れるわけではなく、アクションは限られている
おまけに戦闘も基本的には弓のみで闘うので取っつきにくさがあるかもしれない
ただ、罠を仕掛ける・属性攻撃・機械獣のハッキング・地形利用によって戦闘をかなり有利に進めることができるし
逆に失敗すると雑魚敵にも殺されかねない
加えて自然美が大変美しく、時間変化・気候変化などと土地の変化が大きくて旅をしている気分を味わえる
武器改造・スキルの習得なども豊富に用意されているためやりこみ要素は多い
残念なポイントは戦闘の面白さを伝える「狩り場」クエストがオプションなのでスルーしていると気付かないという点や
武器改造やスキル習得もチュートリアルが無いので序盤で気付かなかったら非常に苦労するというところ
後はストーリーが分かりにくい(架空の地名・名前・役職など)というところだろうか
近未来で死の世界と現世が繋がってしまった結果、死の世界から来たお化けと接触することで対消滅爆発が起きてしまい
アメリカでは都市が破壊され残った人々も地下シェルターで生活するようになった世界
主人公のサムは地下シェルター化した都市や拠点間で物資などの運搬を行いつつ
死の世界を使った新しい通信方式によってアメリカの各都市を繋ぎ、1つの新しいアメリカを作る、という話
道中でお化けと接触すると対消滅するので逃げ回りながら荷物を運ぶ
お化けは見えるような見えないような感じなのでなるべく近付かず、近くを通る時は息を止める
その他テロリストなんかも登場するが、殺してしまうとお化けになるので余計厄介であるため、基本的にはノーキルで進める
やることはひたすら依頼を受けて荷物を運ぶだけなので
今のゲームに対して「DOOMと一緒」と言ってしまうほど暴論だと思う
例えばこのゲームでは荷物をどのように運ぶかを明確に決めないといけない
持ち物は全て同等に扱われるため、例えば回復薬的なものや護身銃なんかもどこに保持するかを決めないといけない
「そんな大量の持ち物をどこに隠し持ってるんだよ」
もちろんこれまでも重量制限を付けたり持ち物の数を制限したりというゲームはあったが基本的にゲームシステムとは無関係な制約の場合が多く、不自然ではないがストレスの溜まる一員になってしまっていた
それを「荷物を運ぶゲーム」という視点にすることでこうした制約を自然に取り込んでいる
重量が重ければその分運ぶ際の難易度も上がるため、終盤まで「できるだけ荷物は無いようにしよう」という心理が働くし
とはいえ山岳地帯を行くのだから梯子はいるか?などと戦略を考えられる
この辺のゲームバランスなどを見てもよく出来ていると思う
オープンワールドを物量だけで考えていると、やることが多すぎて何をすべきか分からなくなるし
一つ一つにチュートリアルが必要でテンポが悪いゲームになりがちだ
シンプルなルールで考える余地を多く作るというのがゲームとしての面白さとしては優れていると思う(この辺は好みだが)
そのためのやりこみ要素として国道建設やジップライン建設などが用意されていて
途中からはむしろそれらを建設することに情熱を注ぐことになるが、それらの建設物は配送のために作るのでやはり配送がメインであることに変わりは無い
残念な点としてはストーリーが若干難解であること、突然のバトル要素、オンラインでの助け合いが微妙、演出が映画調なので無駄に長い(エンディングは地獄)といったところだろうか
# 結局は好み
Horizon zero dawnはモンハンとSF好きにはオススメ、Death Strandingはオープンワールドに飽きた人にオススメ、といった感じだが