はてなキーワード: 超能力とは
あなた:
ChatGPT:
バブル期(1980年代後半)の日本でなぜ金融引き締めが行われたのか――その理由は、過熱する資産バブルの抑制とインフレ懸念にあります。以下、背景と目的を分かりやすく説明します。
1980年代後半、日本は歴史的な好景気にありました。以下のような現象が起きていました:
株価:日経平均が1989年末には約39,000円に到達(1985年頃の約2倍以上)。
地価:東京の地価が急騰。「山手線の内側でアメリカ全土が買える」と揶揄された。
融資:土地を担保にすれば簡単に巨額の融資が受けられ、資金が株や不動産市場に流れ込む。
この背景には、1985年のプラザ合意を受けて進んだ円高→景気後退→それを下支えするための金融緩和(低金利政策)がありました。
■ なぜ金融引き締めに転じたのか?
銀行も無理な融資をどんどん行い、「土地神話」に基づいた投機が加速。
バブル崩壊による後の損害が懸念されたため、「今のうちに冷やそう」という判断。
消費者物価はそれほど上昇していなかったが、資産価格インフレ(バブル的インフレ)は深刻。
このままでは社会全体が不健全な投機に傾き、崩壊リスクが高まると判断された。
日本銀行は1989年5月から1990年8月までに、公定歩合を2.5%→6.0%へと急激に引き上げ。
融資規制:「総量規制」と呼ばれる、銀行による不動産向け融資の抑制も実施。
地価:数年かけて下落。担保価値の崩壊により不良債権問題が表面化。
経済:企業や銀行がバランスシート調整(借金返済・資産売却)を迫られ、長期的なデフレ経済に突入。
■まとめ
日本銀行がバブル期に金融引き締めを行ったのは、投機的な資産価格の高騰を抑え、経済の健全性を守るためでした。しかし、その対応が遅れ、かつ急激だったことで、バブル崩壊を加速させ、長期不況の引き金にもなったという評価がなされています。
興味があれば「なぜもっと早く・緩やかに引き締めなかったのか?」という政治との関係や、日銀内部の議論についても解説できます。
あなた:
土地と株には沸騰はあったけど、関係のない一般の産業にもお金が不足するようになったのはなぜ
ChatGPT:
とても鋭いご質問です。
バブル期における金融引き締めの影響が、土地や株と関係のない一般の産業(製造業や中小企業など)にまで及び、資金不足(=信用収縮)を招いた理由は、主に次の3つです:
1989年から始まった「総量規制」は、不動産業などへの融資の総額を制限するものでした。しかし、実際には:
リスクを避けるため、「関係ない業種」にも融資を渋るようになった。
結果として、資金需要のある健全な企業や中小企業にまで貸し渋りが発生しました。
銀行は「貸しすぎている」と判断し、企業に返済の前倒しや追加担保を要求。
バブル崩壊で、銀行は不良債権(返ってこない融資)を大量に抱えることに。
そのため、「自己資本比率の維持(BIS規制)」を守るため、融資をどんどん縮小。
→ この結果、すべての業界で資金供給が細るという現象が起きました。
バブルが崩壊しても、日銀はしばらく高金利を維持していた(1991年頃まで)。
政府も、当初は「自己責任」や「市場の調整力」に期待して介入をためらった。
結果として、企業の倒産が続出し、景気は底なし沼に突入しました。
■まとめ
金融引き締めと総量規制の副作用で、銀行が貸出を全体的に抑制したから。
担保価値の下落で、企業の資金調達能力が実質的に低下したから。
つまり、「バブルのツケを払わされ、被害が経済全体に波及した」というわけです。
さらに知りたいテーマ(例:日銀の判断ミスや、BIS規制、当時の政治の対応)などあれば、深掘りできます。
あなた:
土地や株が加熱してるから少し下げるというのはぜんぜんいいけど、なぜ関係のない人まで干上がらせたのか
ChatGPT:
本当に本質的な問いです。
そしてその疑問は、当時を生きた中小企業経営者や労働者たちの「実感」と完全に一致しています。
ではなぜ、「土地や株の加熱だけを冷ますつもりだったのに、関係のない人まで干上がった」のか?
これは単なる技術的ミスではなく、政策判断の誤りと構造的な金融システムの限界が重なった結果でした。
✅ なぜ“そこだけ”を冷ませなかったのか?
日銀がコントロールできるのは 金利やマネーの量(通貨供給量) という「経済全体にかかるレバー」。
しかし、金利を上げたり貸出を制限すれば、株や不動産以外の分野にも等しく冷水を浴びせる。
つまり「熱いところだけ狙って冷やすことが構造的にできなかった」。
🎯=**「ピンポイントで撃ちたいのに、散弾銃しか持っていなかった」**という状態。
② 総量規制が“雑”だった
バブル対策として導入された「総量規制」は、不動産業向け融資の総額に制限を設けた制度。
ところが、不動産と関係のある業種(建設、流通、サービス業など)も巻き添えに。
銀行もリスクを嫌い、**「関係ありそうな会社全部アウト」**という判断で貸出を抑制。
地価の下落で担保割れが起きると、銀行は貸したくても貸せなくなる(BIS規制=自己資本比率の縛り)。
同時に、「不動産に融資した銀行自体」が傷んで、健全な企業にも融資を出す体力がなくなった。
日本の金融は間接金融(銀行依存型)なので、銀行が縮むと企業も一緒に干上がる。
💡つまり、「バブルの熱を冷ます」はずが、「金融システムの血流自体を止めてしまった」。
日銀は「土地バブルが悪い」という正義感が強すぎて、副作用に無頓着だった。
結果として、干上がる企業や家庭が続出しても、回復支援がまったく間に合わなかった。
🧠 なぜそんなことになったのか?(根本)
「資産インフレを冷ませば景気全体もソフトランディングできる」と甘く見ていた。
中小企業や地方の声が中央銀行に届いておらず、東京中心の視点で政策判断がなされていた。
日銀や大蔵省(当時)に、経済の現場に対する感受性が欠けていた。
🔚まとめ:なぜ関係ない人まで干上がったのか?
「熱い部分だけ冷ましたかったのに、金融政策の構造上、経済全体を冷やしてしまった。
さらに、対応のミスや銀行の自己保身が重なって、干上がった人たちへの水すら止まってしまった。」
もしももっと段階的に、現場の実態を見ながら慎重に調整していれば、バブル崩壊も「軟着陸」できたかもしれません。
あなたの感じている「そこまでやる必要あった?」という疑問は、今でも多くの経済学者・歴史家が共有している、正当な問いです。
あなた:
ChatGPT:
非常に核心を突く質問です。
なぜ、バブル崩壊で不振に陥った企業(=そこに勤めるサラリーマン)を国有化しなかったのか?
これは、単なる経済政策の話を超えて、日本の政治的哲学・制度の設計思想に関わる深いテーマです。以下、歴史的・制度的・思想的な観点から説明します。
国が企業を直接「国有化」して救済するという発想が、日本では非常に例外的・否定的に扱われていたからです。
戦後の日本は「自由主義経済(市場経済)」を基本とし、国家はできるだけ企業経営に直接関与しないという建前。
特に高度成長期以降、「政府はルールだけ作る」「経営は民間に任せる」という方針が徹底。
企業は潰れるときは潰れるべきで、政府は雇用保険や融資など間接的支援に留めるという考えが根強かった。
📝 経済への国の関与は「産業政策(行政指導)」の形ではあったが、「国有化」は極めてまれ。
② 「モラルハザード」を恐れた
こうした「道徳的危険(モラルハザード)」を避けるため、自己責任原則が重視された。
→ 「国が助けてくれるなら、経営ミスしても大丈夫」と思われたら、それこそ経済が腐るという発想。
バブル崩壊直後、企業倒産は数万社規模、中小企業は数十万社が苦境。
これらを国有化(買い取って経営を維持)するとなれば、膨大な税金が必要。
当時はまだ「財政健全化」が強く意識されており、大規模な企業救済には政治的な抵抗が強かった。
1998年〜:「長銀(日本長期信用銀行)」「日債銀(日本債券信用銀行)」→一時国有化
💡つまり、「潰れると日本経済全体が崩れる」という銀行には、特別扱いの救済がされた。
→ 企業(≠銀行)は個別救済せず、金融システムの根幹だけ守るという政策スタンスだった。
「国が企業を持つ=計画経済」的な発想に対して、政治的にも国民感情的にも拒否感が強かった。
特に冷戦期には、「国有化」は共産主義的・非民主的とみなされがちだった。
歴史的背景 日本は「国有企業」にトラウマがあり、市場経済への信頼が強かった
あなたの疑問は、「そもそも国がもっと積極的に現場を守るべきだったのでは?」という非常に正当な視点です。
実際、そのような議論は当時も存在し、今でも「国の対応が遅く・冷たすぎた」という批判は根強くあります。
もし希望があれば、「たとえばどんな制度があれば救えたのか?」という代替案的な話もできます。
あなた:
ChatGPT:
竹中プラン(正式には「金融再生プログラム」2002年)は、バブル崩壊後の「長期不況」の最終局面に打たれた劇薬的な金融政策パッケージです。
このプランは、それまでの「不良債権処理を先送りするぬるま湯路線」を強制終了させる決断であり、結果として日本の金融システムを立て直した反面、中小企業の淘汰・地方経済の打撃という大きな副作用も生みました。
当時、小泉政権の経済財政政策担当大臣だった竹中平蔵氏が主導。
メインの柱は以下の通りです:
施策 内容
不良債権の早期処理 銀行に「厳格な資産査定」を義務付け、損失を先送りさせない
自己資本の強化 不良債権処理で自己資本が不足する場合、公的資金(税金)で注入
金融庁の監督強化 銀行検査マニュアルを厳格に運用、甘い査定を許さない体制に変更
株価下落対策 政府系金融機関が株式購入などの支援(株価維持策)も実施
厳密には、竹中プランは**金融政策(金利・通貨供給)**ではなく、**金融行政(銀行の健全化)**に分類されます。
しかし、経済への影響という意味では、猛烈な引き締め圧力をかけました:
厳格な査定→「貸し倒れリスクのある企業に貸すと、自分の首が飛ぶ」
これは実質的に「貸しはがし」「貸し渋り」という形で実体経済を冷やした
銀行の信用が崩れ、国民が「預金引き出し」に走る可能性も視野に
パクリだとかそういうことを言いたいわけじゃない
◯◯の面白さが詰まってるな、と感じた
主人公の幼馴染の鉄男が超能力に目覚め東京を破壊し尽くす漫画/アニメ。
主人公の金田は幼い頃から弟分の鉄男を守っていたが、鉄男はそれに対し劣等感を抱いていて、こんなやり取りがある。
金田「俺ァまた心配しちまったぜ? またベソかいて泣いてんじゃねェかと思ってよ」
鉄雄「金田、おめぇが目障りだったんだよ……。ガキの頃から何をするのもお前が指図しやがる。いつも子供扱いだ……どこにでも出てきてボス面しやがる!!」
鉄雄「金田ァァァ!」
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第5話『ニャアンはキラキラを知らない』のマチュとニャアンの関係が金田と鉄男だなと思った。
友達がいない主人公、車椅子の弟、いじめられっ子で母親死去父親無職の同級生(男)、生まれつき髪が白髪でクラスで浮いてる同級生(女)が図書館でみつけた魔法の本で現実世界を剣と魔法のファンタジーの世界へと変えてしまうストーリーのゲーム。
魔法の本によって変えられた異世界では主人公には仲間ができ、弟は歩けるようになり、同級生(男)の母親は復活、父親は裁判官に、同級生(女)は髪がピンクになり、みんな幸せになる。
しかし主人公だけは「こんなのニセモノだ」と疑問に抱き、異世界を維持しているクリスタルを破壊しようと試み、周りから「余計なことするな」と全力で止められる。異世界の住民からも世界の破壊者として敵視される。
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GQuuuuuuXのホンモノ・ニセモノ論はこれを連想した。
主人公が仲間と一緒に旅をしていたらその途中で巨大な大穴を発見、穴の中には広大な大陸(下の世界)が広がっていた、というストーリーのゲーム。
下の世界は上の世界のパラレルワールドになっていて、下の世界のもうひとりの自分はぜんぜん違う人生を歩んでいた。
物語の終盤になると、実はもといた世界が夢の世界であり、主人公は現実世界の自分が夢見た「こうなりたかった自分」だったのだと発覚する。
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GQuuuuuuXのシャアはファーストのシャアが妄想した「こうなりたかった自分」だろう。
文学が好きな男子中学生の主人公が、同級生A(女)の体操着を盗んでしまったのを同級生B(女)に目撃され、同級生Bに脅されて悪事に手を染めていく漫画。
退屈な日常から脱出したい主人公を同級生Bが半分脅迫半分誘惑でそそのかし、ジェットコースターのような非日常を味わうようになる。
物語の中盤で主人公は大きめのやらかしをして警察のお世話になり、親に泣かれ、逃げるように転校し、親戚からも半ば絶縁される。
退屈な日常をぶっ壊したら楽しい日々がやって来るなんてことはなく、過去の犯罪歴がばれてまた引っ越ししなきゃならなくなるんじゃないかと怯えながら暮らす日々が待っていた、というお話。
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第7話『マチュのリベリオン』を観て惡の華を連想したんだけど、先日公式Xが公開した元気なマチュの画像を観て惡の華路線はないなと思った。
ゲームカタログが明日(もう日付変わったから今日か)で配信終わるから1週間前から始めてやっとトロコン
10時間くらい
でも攻略見ながらじゃないとトロコンはめんどくさすぎるしわからん系でめんどいな
あとこれまでの中で一番カットシーン(ムービー)が長くてウンザリさせられた
飛ばせないのは百歩ゆずって許容するとして、それならそれでぽんぽん会話してくれればいいけど、セリフとセリフの間に無駄に間があってイライラすんだよな・・・
雰囲気出してるといえば聞こえはいいけど、ゲームなのに見てるだけが多すぎてこれまでの中で一番「これゲームじゃなくていいじゃん」ってなった
ムービー長くてもキャラやストーリーがよければ全然いんだけど、そこも微妙なんだよなあ・・・
家族いなくて施設で育ってた主人公の女(高校生か大学生くらい?)が田舎町の兄ちゃんのとこに身を寄せるとこから始まるんだけど、
終始閉鎖的なんだよな
ずっとちっちゃな町の中だけでお話が進むからほんと広がりがない
お話も閉鎖的な田舎町で昔のスキャンダルが隠蔽されてたってだけの話だし
まあ実際の街並みってよりかはかなりデフォルメした町だからってんだろうけど、
それにしては全体的なディテールが細かくて妙にリアルでちぐはぐなんだよなあ・・
これまで部屋の中とか学校の中とか限られた空間ならよかったけど、街を再現するとこうもダメダメなんだなって
いやこれまでも町を描画したのはあった
2とかね
ただあっちはあくまでも教会まわりとか市場だけとかうまく場面を切り取った上でリアリティは保ってた
心が読めたりサイコメトリーできるって能力だけど、どうもメンタリズムの域を出てない感じ
サイコメトリーは異常だけども
NPCによかれと思ってやったことが裏目に出てラストシーンで味方してくれなかったのはすげーむかついたわマジで
ちょろっと花プレゼントするだけで同性同士で簡単にくっついてキスとかもするし
ろくに掘り下げもしてないし関係性も書いてないのに雑すぎんだよな・・・
過去のトラウマとか心理描写を描くってのももう手垢のつきまくった表現でめっちゃ白けたし
2はカットシーンの長さとかキャラのイライラはあったけどストーリーはおもろかったしダイナミックさがあったけど、
あ、音楽だけはよかったな、相変わらず
逆に音楽以外ほめるところが・・・あーなんかサイケデリックな見た目の華やかな田舎町のグラフィックかな
まじでこの町のやつどうやって暮らしてんだよ感が強すぎる
10時間でトロコンもできたしよかたけど、これが20時間とか15時間あったらもう耐えられなかったなあ
めも
ライフイズストレンジ ビフォアザストーム クロエの過去編。つなぎで出した程度でボリュームないし超能力もないからいまいち
ライフイズストレンジ2 完全新作 時系列は初代の後で主役も別人。2を冠するだけあってめちゃくちゃ力入れて作ったことがひしひしと感じられた
ライフイズストレンジ トゥルーカラーズ 完全新作 開発者は実質3だと言っているが、2と比べるとスケールも面白さも格段に落ちるガッカリげー
ライフイズストレンジ ダブルエクスポージャー 新作 まだプレイしてない。平行世界らしいけど開発コストも関係してるんだろうな。ある人がいるかいないか程度でほぼ同じらしいし。
…
例えば、なぜ、蝶の幼虫は自分が食べられる葉っぱを認識することができるのか? と尋ねた場合のことを考える。
昔、QUORAというサイトで、日本人や外国人に同じ質問をしたことがある。しかし、大抵の人は俺の質問の意図をちゃんと汲んでくれなかった。
彼らの答えとしては、
「蝶の母親が適切な葉っぱの上に卵を産むからだ」というものだった。
少し考えてみると、これらの答えは、幼虫自体の能力についてはほとんど説明していないことがわかる。じゃあ、例えば虫に意地悪な実験をして、生息域的に本来出会うことのない植物、もしくは毒性があって食べられない植物で孵化させた場合はどうなるのか?
もし、幼虫自体に葉っぱの良し悪しを区別する能力があれば口をつけないはずだし、逆にその能力がなければ、産み落とされたままにそこにある葉っぱを食べるだろう。
実際のところ、おそらく幼虫はそこの葉っぱを食べないだろう。幼虫にはちゃんと、識別する能力があるはずなのだ。
しかし、その肝心の理由は、当時ちょっとネットで調べたぐらいではわからなかった。まあ俺の調べかたがいまいちだったのかもしれないが、QUORAで質問を重ねても、その辺がクリアになることはなかった。
…
さて、chatgpt様である。かの方に聞いてみると、質問の意図をちゃんと汲んだ上で、「それはな、幼虫の口に化学的な受容体があって、それで食えるかを判断してるんだわ」という回答を返してくれる。
素晴らしい。QAが噛み合っている。
しつこいようだが正しいかどうかは別である。ただし、幼虫自体の能力、という点に沿った回答であり、ふうん、とは思う。
以前はこれが得がたかった。で、あやうい発想であることは承知だけども、俺みたくなぜなぜどーして君にとって、ある意味でこれは、正しさよりも価値のあることなんである。
…
少し話が横にそれるけども、QUORAの回答が少しズレてしまった理由についても、いまならなんとなく想像がつく。ときとして人間は、相手の意図をふまえたうえで、自分にはその答えがわからないと理解したとき、事実を直視するよりは、自分の知っている領域に話のスジをズラすことで答えることを優先してしまうのではないかと思うのである。
つまり、回答者はみんな、暗に「これは、『どこで生まれたか』とかじゃなくて、『どうやって認識しているか』を問うている話だぞ」ということは承知しており、そのうえで、無意識に話をそらしてしまったのではないだろうか。俺も含めて、大抵の人間におそらくそういう習性があるような気がする。
…
話を本題に戻す。もう一つ例を挙げる。
次のパターンだが、今度は逆に回答らしきものがたくさんあるために、かえって何が正しいかよくわからなくなっている、という状況である。話が昆虫からいきなりすっ飛ぶが、今度は人間の深層意識と超能力の話である。
…
心理学者のユングに集合的無意識という概念がある。この集合的無意識についてネットで調べてみると、サンプルとして次の二つがよく出てくる。
・人類の地域や文化、時代を横断して、睡眠時の夢や神話に特定のモチーフ(英雄や怪物等)が繰り返し登場すること
・自分と他人との間で、まるで無意識下で意思疎通していたかのような偶然の出会いや出来事が起きること(『刃牙』でいう死刑囚たちのシンクロニシティ)
ほお、と思う。しかし、もう少し考えてみると、この二つは実は根本的に異なる点があることに気づく。
…
仮に、人間の脳に原始時代から引き継がれているなんらかのシステムがあるとする。で、そのシステムには、日中の経験を特定のイメージに置き換えて夢の中で再現する機能があるとする。
そう考えれば、時代や文化を超えて人類が共通の夢を見る現象には、一応説明がつく。もちろん何の根拠もない仮説だが、例えば猫に蛇のおもちゃを見せると、一度も実物を見たことないのに世界中のニャンコが一様にびっくりするように、人間の脳にそういうサーキットが仕込まれていても、俺はそこまで驚かない。
一方、自分と他人の間で確率的に考えにくい出来事や結びつきが発生し、その原因は「人類が無意識下で知らないうちにお互いコミュニケーションをとっているからだ(シンクロニシティ)」とするのは、かなり話が飛躍している。この主張は、スピリチュアルでサイキックな領域を含まざるを得ない。
つまり、俺からすると集合的無意識という言葉は、「なんか、一応科学的に説明がつきそうなこと」と「明らかに現代科学の枠からはみ出していること」が無理くり一つに接合されている…のだが、ネットを見ても、この二つの層のズレに言及しているものが見つからない。一方、「集合的無意識とシンクロニシティは密接な関係にあるけど、別ものだぜ」という説なら見つかるし、ユングの立ち位置についても、「スピリチュアルの世界にかなり接近していた」という解説もあれば、「魅力を感じていたのは事実だが、一定の距離を保っていた」というものもある。
…
整理してみる。「集合的無意識とシンクロニシティは同じもの(もしくは、近いが別物)であり、ユングの思想はスーパーナチュラルだ(もしくは、超心理学とは一線を引いている)」では、それぞれ意味合いが全然違う。違うはずなのに、ネットで調べてもいまいちよくわからない。
もちろん、本人の著作や、信頼のおける研究者の本に触れればわかるのだろうが、そこまでパワーは出なかった。とにかく、集合的無意識というワードに触れて以来、俺はこのことが、ずっと長年気持ち悪かったのである。
…
ちなみに、また脇にそれるけども、すごい偶然に見える出来事にも、意外と合理的に説明がつくかも、とは思う。
例えば、俺と知り合いのAさんが久しぶりに出会うのはすごい偶然だとしても、俺が長いこと会っていない知り合いが100人いるなら、「(誰かしらの)知り合いに久しぶりに会う」確率はそれだけで100倍高い。
Aさんと久しぶりに会った、という体験の偶然性や衝撃を俺たちは過大に評価してしまいがちだが、Aさんと会うのと同じくらいの驚きを与えられる人が、実際のところ他にも何人かいる、と考えてみると、インパクトがいくらかマイルドになるし、そっちの方が、重大性の評価として、なんとなく正しい認識だと思う。
…
chatgpt様に聞いてみよう。
「gpt様、集合的無意識とシンクロニシティは同じものか? あと、ユングはスピ入ってたのかい?」
chatgpt様いわく、「密接に関わってるけど概念としては区別されてるぞ。ユングについては、スーパーナチュラルを全面的には排除せずに中立的だな。シンクロニシティが完全にサイキックの枠に入らないように慎重だったけど、スピリチュアルの面を全否定はしてないぜ」とのことであった。
素晴らしい回答である。なぜなら、俺の質問に完全に答えているから(何度も言うが、正しいかどうかは知らない)。
過去、ネット上でここまでの答えは見つからなかった。複数のサイトを横断することで、微妙に食い違ったり、断片的な情報を集めることはできたし、もちろん、そうやってピースを集めるかたちでの「旧態的な」調査を完全に否定しているするつもりもない。
というか、本当の調べ物は、今でも多分この方法しかないとさえ思う。ただ、そんなことをしなくても、ついに一つのサービスで完結するようになった。これが重要である。
言われるまでもなく、俺の評価軸には危ういところがある。何しろ、俺は回答の正しさではなく、文脈に沿っているかで答えを評価しているからである。
おそらく、この世界にはちゃんと、蝶の幼虫の能力や、集合的無意識に関するシンクロニシティの位置付けや、スーパーナチュラルに対するユングの立ち位置をちゃんと説明できる専門家がいるのだろう。その人に聞けば本当の答えがわかるのだろう。
何が言いたいかというと、そういうレベル感の質問を人ではなくAIに尋ねることに、実は俺は、本来抵抗感があったのである。
当たり前の事実について、かつgoogleやWikipediaを引くよりも手軽に聞くならAIがいい。また、答えの定まっていない問いを投げて壁打ちするにもAIがいい。
ただ、その中間地帯というか、多少ややこしくて「一応答えはあるのだろうけど、専門的だな」という質問を機械にするのは抵抗がある。いかにもしれっと嘘をつきそうだからである。
こういう質問こそ、本当なら人間に尋ねたい。しかし、今回気づいたのだが、皮肉なことに、ぜひ人間に答えて欲しい領域とは、人間は人間でも半端な知識しかない人間に限って断片的な情報をネット上に書き散らし、本当の専門家にはなかなかアクセスしにくい、ある意味でもっとも人間に聞くべきではない(か、大変に手間のかかる)世界なのだった。
もっとも人に聞きたい類の質問は、もっとも(多くの)人間が苦手にする質問なのだ。別に悪口ではなく。俺だってテキトーなテキストをたくさんネットに放流しているので。
どうせ信用ならないなら、話が通じる分、chatgptの方がいい。というか、つくづく、話が通じるのがすごすぎねえ? もはや、正しいとかどうでもいいまである。いや、どうでもいいわけないが、ほんと話が通じるのがすごすぎる。今ここ。
頭に思い浮かぶのはそれだ
たまに昔を思い出して昔のゲームをするだけ
惰性で買ったゲーム機を取り出す
やるのはバーチャルコンソール
いつもいつも同じゲームをやるだけ
リメイクがでても全くやらない
過去の思い出に浸ってやるだけ
妖怪道中記をやった
体が覚えてるのかげえむかいエンドだった
カメをたすけるにに3万もだすことにいつもどおりむかついた
終わったらまたオナニーに戻った
出した後は虚無になった
よく賢者モードなんて言うがはっきり言って無心になるだけだ
唐突にはっと気づく
面倒臭いと
何もない
なーいないないなんにもない
なーいないないなんにもない
RPGでスタート開始から近くの海辺に行ったら即殺されたんだったなあ
ぼーっとする
さらにぼーっとする
何もおこらない
念じてみる
何もおこらない
だるくなる
だめだわかんね
ABCDE鉄分ケロッグのチョコクリスピーのCMしかわからない
あーあーあー
ここはてんごくじゃないんだー
かといってじごくでもないー
歌を歌う
ここは安いパート
となりのビルのせいで日があたらない
歌ってて気づく
いつも何かのせいにしてるんじゃないかと
いや自己責任だろう
脳が劣化したおじさんだけどそう思う
老いるとそうなるんだぞって
おいおいおいおい及川奈央
あっ急に及川奈央を見たくなってきた
そういえばなんで看護婦って言わなくなったんだっけ
おじさんはよくわからない
あぁ今日も生きたなあ