はてなキーワード: 論理学とは
《例えば七五年にイギリスでデビューしたコリン・デクスターという作家がいて、クリプキの可能世界論みたいな議論をそのまま探偵小説にしてしまったような、不思議な小説を書いているんですが、彼はクロスワード・パズルのカギ作りの全英チャンピオンにもなった人で、アナグラムとか暗号にこだわる作家なんです。探偵役のモースという警部が不完全なデータをもとにあり得たかもしれない仮説をつぎつぎと繰り出して、読者を翻弄する。その推理はほとんど間違っているんですが、彼はまったく意に介さない。ある意味では、暗号を解読すること自体が自己目的化して、事件の真相に到達することは二の次になっている。デリダをもじっていうと、名探偵が「真理の配達人」ではなくなってしまったわけです。》(東浩紀「不過視なものの世界」、2000年、朝日新聞社、p.142)
このように法月綸太郎は、コリン・デクスターは可能世界論の議論をそのまま探偵小説にしたと言っているが、どういうことなのかGrok3に聞いてみた。プロンプトは「コリン・デクスターの初期の小説は様相論理のようだ」というものである。以下はその引用である。Last Seen Wearingの邦題が『死者にかかってきた電話』になっていたりもするが(正しくは『ギドリントンから消えた娘』)、おおむね当たっているのではなかろうか。
コリン・デクスター(Colin Dexter)の初期の小説が「様相論理(modal logic)」のようだという指摘、非常に面白い視点ですね。デクスターはイギリスのミステリー作家で、探偵モース(Inspector Morse)を主人公にしたシリーズで知られています。初期作品、特にシリーズの出発点である『ラスト・バス・トゥ・ウッドストック』(Last Bus to Woodstock, 1975)やその後の数作(例えば『死者にかかってきた電話』Last Seen Wearing, 1976)を見ると、確かに様相論理的な要素が感じられるかもしれません。以下に、その観点から論じてみます。
様相論理とは何か?
まず、様相論理を簡単に整理すると、哲学や論理学で「可能性」や「必然性」を扱う分野です。通常の命題論理(「真か偽か」)を超えて、「~である可能性がある」「~でなければならない」といった状況を分析する。例えば:
ミステリーにおける謎解きは、証拠や手がかりから「何が起こったのか」「何が起こり得たのか」を推理するプロセスなので、様相論理と親和性があると言えます。
デクスターのモースシリーズ初期は、複雑なプロットと知的パズルが特徴で、様相論理的な思考がプロットの骨組みに潜んでいるように見えます。
概要 オックスフォード近郊で若い女性が殺され、モースとルイスが捜査。複数の容疑者と状況証拠が絡み合い、誰が犯人かを特定する。
様相論理的要素 物語では、殺人事件の「可能なシナリオ」が次々と提示される。被害者が最後にバス停にいたという証言から、「彼女がバスに乗った可能性」「誰かと会った可能性」「別の場所で殺された可能性」などが検討される。モースの推理は、証拠から「必然的な結論」(□P)を導くより、「可能な世界」(◇P)を一つずつ排除していくプロセスに近い。たとえば、容疑者のアリバイが「真である可能性」を検証しつつ、矛盾があれば「偽である必然性」を確定する。
印象 初期のモースは直感的で、論理よりもひらめきに頼るが、そのひらめき自体が様相論理的な「可能性の探索」を反映している。
2. 『死者にかかってきた電話』
概要 学校の生徒が行方不明になり、モースが過去の手がかりから真相に迫る。
様相論理的要素 ここでも「過去に何が起こったのか」という可能的状況が積み重ねられる。モースは、生徒が「生きている可能性」「死んでいる可能性」を並行して考え、証拠(電話の記録や目撃情報)から「必然的な事実」を絞り込む。この過程は、様相論理の「可能世界」を縮小していく作業に似ている。特に、複数の解釈が可能な手がかり(例えば、電話がかかってきた意味)を、状況に応じて再評価する点が顕著。
印象 初期のデクスターは叙述トリックや単純な解決を避け、読者に「何が真実たり得るか」を考えさせる構造を作る。
なぜ様相論理的か?
曖昧さと多義性 初期のモース作品では、証拠が明確な結論をすぐには導かず、複数の「可能的シナリオ」が併存する。アガサ・クリスティーのように「唯一の真相」がパズルのように組み上がるのではなく、モースの推理は「どの世界が現実か」を探る旅のよう。
モースの知的スタイル モースはオックスフォード出身の教養人であり、クロスワードや古典文学を愛する。その思考は直線的というより、可能性を試し、矛盾を排除する様相論理的なアプローチに近い。たとえば、証拠Aが「必然的にBを意味するか」を疑い、「Bが偽ならCが真か」と進む。
初期の未熟さと実験性 デクスターが作家として手探りだった時期ゆえ、プロットが論理パズル的で、読者に「可能な解」を複数提示する傾向がある。これは後期の洗練されたストーリーテリング(例:The Remorseful Day, 1999)とは対照的。
デクスターの初期小説が様相論理のようだという見立ては、モースの推理が「必然性」より「可能性」を軸に進む点で納得感があります。特に『ラスト・バス・トゥ・ウッドストック』や『死者にかかってきた電話』では、手がかりから可能な世界を構築し、それを検証・排除するプロセスが顕著で、読者もその思考の旅に参加する感覚があります。ただし、後期になるとキャラクターの心理やドラマ性が強まり、様相論理的な色合いは薄れる傾向も。この指摘は、初期の知的な実験性を見事に捉えた観察だと思います。どうでしょう、この解釈に共感しますか?さらに深掘りしたい点があれば教えてください!
プラグマティズムの哲学的伝統は、19世紀後半のアメリカを起源とし、チャールズ・サンダース・パース(1839-1914)とウィリアム・ジェームズ(1842-1910)によってその基礎が築かれた。両者は「プラグマティズム」という用語を共有しながらも、その方法論的アプローチ、真理概念の解釈、形而上学への姿勢において顕著な差異を示す[1][3]。本報告では、スタンフォード哲学百科事典を中心とした学術的資料に基づき、両者の思想体系を体系的に比較分析する。特にプラグマティック・マキシム(実践主義的格率)の解釈相違、真理理論の対照性、科学的探求と宗教的信念への適用方法の違いに焦点を当て、現代哲学におけるプラグマティズムの多様な展開を理解する基盤を提供する。
パースとジェームズのプラグマティズムは、1870年代にハーバード大学を中心に活動した「メタフィジカル・クラブ」での議論を起源とする[1]。この学際的集団には哲学者、心理学者、法律家が参加し、科学的探求の方法論と伝統的形而上学の再検討が行われた。当時の進化論を中心とした科学的革命が思想的背景に存在し、パースとジェームズはこの知的環境の中でプラグマティズムの核心的概念を発展させた[1][3]。
パースはこの時期に「プラグマティック・マキシム」を定式化し、概念の意味をその実践的帰結に基づいて明確化する方法論を提案した。これに対しジェームズは、パースの論理的厳密性をより広範な人間的関心へ拡張し、宗教的信念や道徳的価値の問題に適用する方向性を示した[1][2]。
パースのアプローチは本質的に科学的探求の論理学として位置付けられる。彼が1878年の論文「How to Make Our Ideas Clear」で提示したプラグマティック・マキシムは、概念的明晰性の第三段階として機能する。具体的には、ある概念の対象がもたらし得る実践的効果を考慮することで、その概念の意味を確定する方法論である[1][3]。例えば「硬さ」の概念は、他の物質に引っかかれないという実験的帰結を通じて定義される。パースはこの格率を伝統的論理学における「明晰判明な観念」の区別を超克する手段と位置付け、形而上学的議論の空虚性を暴く批判的ツールとして活用した[1]。
ジェームズはパースの方法論を受け継ぎつつ、その適用範囲を拡張した。1907年の『プラグマティズム』講義で提示されたアプローチは、哲学的論争を解決する「仲介者」としての機能を強調する[2]。例えば「リスを追いかける人がリスを周回するか」という思考実験では、「周回」の実践的意味を状況に応じて解釈し、論争の不毛さを明示した[1][2]。ジェームズの関心は科学的真理の探求に留まらず、宗教的経験や道徳的価値の領域にまで及んだ。これは彼が「事実への科学的忠誠」と「人間的価値への信頼」を調和させる哲学を求めたことに起因する[2]。
パースのプラグマティック・マキシムは、科学的探求の論理的基盤を確立することを目的とした。彼はこれを「実験室哲学」と形容し、仮説の検証プロセスにおける実験的帰結の予測可能性を重視した[1]。例えば「現実(reality)」の概念は、探求共同体の長期的な合意形成プロセスを通じて構成されると解釈された。この立場は「真理の合意説」へと発展し、科学的方法の客観性を保証する基盤となった[1][3]。
パースの格率解釈の特徴は、概念的意味の「第三の明晰性」を追求する点にある。伝統的論理学が語義的定義(第二の明晰性)に留まるのに対し、パースは概念の実践的運用文脈を分析することで、形而上学的議論の無意味性を暴露する批判的ツールを提供した[1]。例えば「自由意志と決定論」の論争は、両立場の実践的帰結が同一である場合、純粋に言語的な問題に還元されると指摘した[1]。
ジェームズのマキシム解釈は、人間的経験の多様性を包摂する柔軟性を特徴とする。彼はパースの科学的厳密性を保持しつつ、真理を「有用な道具」として再定義した[2]。この立場では、信念の真理性はその実践的有用性によって測定され、宗教的信念のような非科学的領域にも適用可能性が拡張される。ジェームズは『プラグマティズム』において「真理は善の一種である」と述べ、真理性を将来的な経験における予測的成功可能性と関連付けた[2]。
この差異は、両者の真理理論における対照性に明確に表れる。パースが長期的な科学共同体の合意形成を真理の基準とするのに対し、ジェームズは個人的・社会的有用性を重視する[1][2]。ジェームズのアプローチは「真理は作られる(made)」という表現に凝縮され、人間の目的や価値観が真理構成に参与することを認める[2]。
パースの真理理論は「探究の終極的な意見(ultimate opinion)」概念に基づく。彼にとって真理とは、理想的な探求状況において科学的共同体が到達する不可避的な合意を指す[1][3]。この立場は反基礎付け主義的認識論と結びつき、真理を動的な探究プロセスの帰結として位置付ける。パースはこの考え方を「現実主義(realism)」と関連付け、人間の認識から独立した客観的現実の存在を仮定した[1]。
この観点からパースは、ジェームズの真理概念を「過度に主観的」と批判した。特に宗教的信念の真理性を有用性に基づいて認めるジェームズの姿勢は、真理の客観性を損なう危険性を含むと指摘された[1][3]。パース自身は後に自説を「プラグマティシズム」と改称し、ジェームズ流の解釈との距離を明確にした[1]。
ジェームズの真理理論は「真理の道具説(instrumentalism)」として特徴付けられる。彼は『プラグマティズム』で「真理は発生する(happens to an idea)」と述べ、信念の真理性をその実践的有用性と将来的な検証可能性に結び付けた[2]。この立場では、真理は静的対応関係ではなく、動的な経験の流れの中で機能する信念の性質として理解される。
ジェームズの真理概念は多元主義的側面を有し、科学的真理と宗教的真理が異なる文脈で有効性を持つ可能性を認める[2]。例えば「神の仮説」は、それが人間の生活的経験に有意義な影響を与える限りにおいて真理と見なされる[2]。この柔軟性はパースの客観主義的立場との根本的な相違点であり、プラグマティズム内部の思想的緊張を生み出した[1][3]。
パースの形而上学は、科学的探求の対象としての「現実(reality)」概念を中核に据える。彼は現実を「探求の最終的に決定されるもの」と定義し、人間の認識から独立した客観的秩序の存在を仮定した[1][3]。この立場は、彼の記号論(semiotics)と結びつき、現実を記号解釈プロセスの産物として動的に捉える視点を含む。
パースの現実概念は、伝統的経験論の受動的認識モデルを超克する。彼は「アブダクション(仮説形成)」のプロセスを重視し、科学的発見の論理学を構築しようとした[1]。この過程で、現実は単なる感覚所与ではなく、探求共同体の解釈的実践を通じて構成される動的概念として再定義された[1][3]。
ジェームズの形而上学は「純粋経験の形而上学」として知られる。『徹底的経験論』(1912)で展開されたこの立場では、心と物質を「純粋経験」の異なる編成様式として再解釈する[2]。ジェームズは現実を固定的実体ではなく、経験の連続的流動として捉え、プラグマティズムを「未完成の現実」を認めるプロセス哲学として位置付けた[2]。
この経験論的立場は、ジェームズの真理理論と密接に連関する。彼は「現実は作り続けられている(still in the making)」と述べ、人間の目的的活動が現実構成に参与することを強調した[2]。この観点から、パースの科学的現実主義は「完成された現実」を前提とする合理主義的立場として批判された[2]。
パースのプラグマティズムは本質的に科学的方法の哲学的分析として発展した。彼の「アブダクション-演繹-帰納」の三段階論は、仮説形成の論理学を体系化しようとする試みである[1][3]。科学的真理の基準としての共同体合意の重視は、個人の主観性を超えた客観性保証のメカニズムとして機能する。
宗教的信念に対するパースの姿勢は懐疑的であり、科学的探求の方法論と整合しない教義を批判した[1]。ただし彼は後年、「宗教的関心」を科学的探求の動機付けとして位置付ける独自の「宗教的実感論」を展開した[1][3]。
ジェームズは『宗教的経験の諸相』(1902)で、プラグマティズムを宗教的信念の検証に適用した。彼は「神の仮説」の真理性を、それが個人の生活にもたらす実践的効果に基づいて判断する立場を採用した[2]。このアプローチは、超越的神観念を批判しつつ、宗教的経験の心理学的現実性を認める点に特徴がある。
科学的探求に対するジェームズの姿勢は、パースの厳密性よりも人間的価値の統合を重視する。彼は科学と宗教を対立軸ではなく、異なる人間的欲求に応える補完的システムとして位置付けた[2]。この立場は、パースの科学主義的傾向との明確な対照点となる[1][3]。
パースとジェームズのプラグマティズムは、共通の方法論的出発点を持ちながら、その哲学的展開において決定的な分岐を示す。パースが科学的探求の論理的基盤と客観的真理概念を堅持したのに対し、ジェームズは人間的経験の多様性と真理の道具的性質を強調した。この相違は、真理理論・現実認識・宗教的信念への適用方法に体系的な差異をもたらした。
現代哲学におけるプラグマティズムの復興は、この思想的多元性を再評価する動向を示している。パースの科学的厳密性とジェームズの人間中心的柔軟性は、現代の認識論・形而上学・価値論の課題に対し、補完的洞察を提供し得る。今後の研究課題として、両者の思想を統合する新たなプラグマティズムの可能性、および非西洋哲学伝統との対話を通じた発展が考えられる。
Citations:
[1] https://plato.stanford.edu/entries/pragmatism/
[2] https://plato.stanford.edu/entries/james/
[3] https://plato.stanford.edu/archIves/sum2010/entries/pragmatism/
人生をかけて東大入試を解かせるAIを開発しようとしていた研究者がいる。新井紀子さんという論理学の分野の方だ。東ロボ君としてたまに注目されていたりした。
ニューラルネットが流行る前から論理学系のアプローチで10年スパンで取り組まれていた。その前の基礎研究も含めるともっと長いことになる。
それがつい先日のネット記事で共通テストはおろか2次試験まで解けるようになったというではないか。
研究とは非情なものだなと感じた。人生をかけて取り組んでいたものがポッ出の技術に光の速さで追い抜かれてしまう。
まあ新井さんはChatGPTが出始めた頃からそちらの研究にも取り組まれているようで、適用能力や柔軟性の高さも驚いたけど。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/beatangel/n/ne4748d44fd03
これのブコメが凄い(酷い)
sayuremix
ロジカルシンキングの鉄板本「考える技術・書く技術」の著者バーバラ・ミント氏は女性である。
2025/02/11
「女は一人残らず非論理的なバカである」とは言ってないのだから
賢い女を一人挙げたところで反論たりえない。
「トランス女性の筋力は統計的にこれぐらい女性と隔絶してる」って話に
「私の知人のトランス女性Aさんは女性平均より虚弱なんですけど!」と反論してるようなもの。
というかこういう種の反論については文頭でくぎを刺されている。
集団の中の極端な人物の言動を例に出して集団全体を攻撃する早まった1般化の1種…が行われがちであるし、
そのまんまやってる反論が一位って
yahooのコメント欄でも概ねお前等よりは知能指数高そうっす。
忌憚のない意見ってやつっス。
mazmot
なんでもええけど、「一部」とか「一般」の「一」を算用数字にするのだけはやめてくれ。
「論理」が顔赤らめて逃げ出すわ
どうよこれ。
本論で反論できないから「こいつハッタショじゃね?www」的なイジリで反撃。
これが2位ってやべーだろ。
はてブは一応インテリとか高学力者の集まりみたいなアイデンティティあった気がするんすけど
いまや知能の塩梅もマナーの程度も私公立中学校レベルなんすよね。
Buchicat
女叩きしてんのになぜご本人のアイコンは女の子風なのか。この辺いつも理解に苦しむ。
2025/02/11
大変頭がいい感じの反撃。
これが3位。
限界集落なのに悪い面だけ若々しいわ。
つーか実際
キモオタが愛好する二次元美少女と現実の女性はあらゆる意味で混同すべきではないと思うんだけど、
いわゆる「二次元と現実の区別が出来ない」のって書き手のような美少女アイコン使いのキモオタさんたちではなく
duers
わからせポルノの弊害。フィクションで愚かな女見つけて脳汁垂れ流しすぎたせいで、
知能も品性も他人に説教をするようなレベルを見せられていない。
こういうやつがいることよりこれが4位になる集団について考えるべきなんだと思う。
suikyojin
何より、自分が論理的であるかのように発言する人間こそ感情的に思える。
自戒も込めて。
2025/02/11
「性差より個人差」については1でも触れた「マクロの話にミクロで反論」に過ぎないうえ
そのものズバリの言い回し(言い逃れ)をしたフロイトについても触れられているので
この人は明らかに本文を読めなかった人。
論理不在の「~こそ感情的!」はおつむ回らない小学生の口喧嘩の定番「バカって言う奴がバカ!」であって、
要するにこの人は本文を読めなかったかわりに「バカって言う奴がバカなんだよう!うわーん!」を言いに来ただけ。
honya_neko
具体的な指摘がゼロ。
俺なら相手の「アラ」を無数発見したら100文字中に2個でも3個でも具体例を挙げるけども
こういう口ぶりで一つも具体的に挙げない人間というのは
挙げられないのにハッタリこいているだけです。
更に予言しておくとこうやって挑発してやっても応じて具体例3つ挙げる程度の意気地を見せないのがこの手合い。
BBQ_BBQ
女性を下に見ている人間のアイコンが大体美少女っぽいのは本当なんなんだろうな。
2025/02/11
3と同じがもう一個。このくだらない言い返し。
つーか真面目な話、
キモオタが嗜好するフィクション美少女というのは良くも悪くも現実のウンコとかする女とは隔絶した何かなのでは?
この辺の区別がマジでつけられない脳だからキモオタポスター見て「自分が欲望されてる」みたいなクレームに繋がるんだろうか?
永瀬廉がキャーキャー言われてるのを不細工一般人である俺が我がことと感じて照れたり不快になったりしてたらだいぶ頭おかしいわけだが
俺と永瀬廉よりさらに遠いのがおめーらとフィクション美少女だぜ?
何の共通点もねえよ。
kakaku01
ただ女を憎んでるだけなのを無駄に長い文章でメガネクイッしてたアカウントがとうとう落ちるところまで落ちたのを見届けてニッコリしています。
「ニッコリしています。」
まあ講評はナシで。
hazlitt
あのさあ、真面目な話さあ、
まともに問題文本文を通読出来た形跡がある奴すらいないわけじゃん。
「ちょっとやってみたくなる」とは?
俺はあの書き手はハッタショのキモオタなのだろうと思ってるけど
知能それなりの奴で、かつ女叩きへの情熱が並外れた奴で、文章も書き慣れてる奴だと感じる。
つまりこれはぼちぼち能力が高いように感じるわけ。能無しに比べれば。
(アホのためにわざわざ書いておくとこれはあの書き手の書いてる文が正しいか間違ってるか賛同するか反対かとかいう話ではない)
それに引き換えお前等はどうなのか。
知的パフォーマンスは公立中学レベル、情熱のかわりに散発的な感情と粗雑な党派性があるだけ、文にいたっては読むことすら満足でなく書くなんて夢のまた夢。
「小銭稼げる」
「ちょっとやってみたくなる。」
wwwww
チンパンジーに「ちょっと今度の選挙で議員になろうと思ってる」と打ち明けられたみたいな気分だわ
HanPanna
それを相反の概念であるように語る人間は非論理的だ。ドモルガンの法則など、論理学には全く興味ないんやろな。
2025/02/11
まず、この人は10位であるのが不当。1位になるべき。
だって一応本文読んでるんだもん。
地に埋まったハードルだがこの人だけは越えてる。
で、この人は提示されている複数の資料への批判や反論を一切避けて
まるでフロイトが記事の根拠資料であるかのように反論しているが、
そうではないよね。
「かつてフロイトは近いことを口走ったが迫害を受けてトーンダウンした」
「しかしフロイトの予言はマクロ傾向としては当たっていたのがわかった」
つってるだけ。
これは明らかにHanPannaさんが
記事をちゃんと読まない奴を騙す目的で欺瞞の反論を書いているわけで
この人は他の奴のようにひたすらのアレではなく中程度のアレ、
でも全部見てきたからはっきり言えるけどこの人が10人のうちで一番知能が高い。
だって一応問題文読んで「どういう風に詭弁を弄そうか」って考えたんだもん。
他の9人はその能力すらないんだぜ?
ひでークラスだから俺はこのHanPannaさんの答案には50点付けたい。かろうじて赤点を脱する。
掃き溜めの中のガチョウぐらいの感じ。
以上見てきた人気上位10人全員、
「当該note記事が正しいか間違ってるか」までたどり着いていない。
俺はトランプ再選の最大の被害者はこいつらみたいな連中だと思ってるんだけど
要するにこいつらは意識高いわりに知能面には安っちいコレクトネス判定ソフトしか入ってない。
意識に知能が追い付いてない。
なので
「女性は論理を理解出来ない」というなんだか冒涜的でセイサベツ的なタイトル見て
「むむ!こいつは正しくない!」 「正しくないということは正しい我々より知能が低い!」とやってるだけ。
こいつら自身の頭の出来をスポイルするためにしか存在してなくて、
こいつらには判断付けられない問題や読めない文章にクチバシ突っ込むために
そのらくらくスマホみてえな物差しだけを頼りに意見もどきの無内容テキストを吐いてるだけ。
言い分は尖っているしおそらくは一部が盛んに指摘したがる通りハッタショでキモオタではあろう。
「資料の引き方が恣意的で実際にはこういうことが書いてあるんだ」とか、
「論理展開のここがこう成り立ってないでしょう」とか。
(これら単体では部分的ツッコミで全体への反論としては弱いかもしれないが、10人はそれすらない)
ミクロ反論にハッタショいじりにキモオタいじり、汚言や詭弁や勝利宣言しかできない連中、
これは単に「我々は正しいから正しい!」つってるだけの脳がアレしてしまった退廃的権威主義者であって
書き手が正しいか間違ってるかの議論よりはるか手前の地点で終わってるんだよね。
つーかアイコンや発達を攻撃するにいたってはポリコレにすら反してねーか?相手がキモオタ男性だからなぜか不問になってるだけで。
フェミニスト女性に対して言い分スルーでプロフ欄開いて「ブスじゃねえか」「ジャニオタじゃねえか」ってやるのとどう違うのか。
はてぶ上位陣は自分たちののっぺりとした「正しさ」すら使いこなせていない。
しょーもないソフトしか入ってなのにそれすらまともに走らないハードが肩の上に載ってる。
ほんと帽子掛けなんすよね。
HanPanna
1.についてrei自身がマクロと言いつつキャサリン・マッキノン一個人を根拠にしてるんだから、一個人で反論されて当然だろ。
2025/02/13
ごめん
HanPannaさんだけは自覚的な詭弁論者であるみたいに書いたけどただの能力の問題な可能性出てきたな。
「フロイトガー」も悪意はなくて、あの程度の文量だともう把握できなくなって「フロイト」という単語に反応しただけ、故意の曲解とか詭弁とかじゃなかったんだなこの感じ。
まだまだ油断があったというか買い被ってたわね。
lady_joker
分からんでもないのだが、reiみたいな有名なヘイターにそこまで論理を駆使して反論するのもバカを見るから、雑に殴って終わりにしようというブコメの空気も私には理解はできる
2025/02/13
以上見たように、そういうのは買い被りです。
なんかあなたもほんとはわかってる気がするけどな。
このざまは「あえて雑に」じゃあないんです。
いつもこの程度だし脳のフル出力でもこの出来です。
このエントリは「態度が悪い」と非難してるのではなく「頭が悪い」と指摘するものです。
それは究極的には当人の責任ではないのかもしれないけど自覚はすべきでしょう。
すくなくともこの10人は全員reiより数段知能が落ちると思います。
あなたも出来るのかもしれない。
そもそも相手が何言ってるかすら読めないのにどう反論するんだよっていう。
そして人類の大半はこいつら側です。
こいつらは俺がピックアップしたのではありません。
このコミュニティとシステムによって選抜されたいわば「上位の10人」ですよ。
それもたぶん僅差とかではなく大差で。
数学的構造は、以下の基本的な「素材」から作られていると考えられる。
数学的構造の出発点は、要素が集まった集合である。たとえば、群や環、位相空間といった構造はいずれも、何らかの台集合(例えば、数や点の集まり)をその基盤としている。
台集合の上に、要素同士の結合や順序付けを定める演算(加法、乗法、合成など)や、要素間の関係(順序、等号、位相の開閉の関係など)が定義される。これらの操作や関係が、台集合に「動き」や「法則性」を与え、単なる集まり以上の意味を持たせる。
さらに、その演算や関係がどのような性質を満たすかを明確にするために、公理と呼ばれる基本的な命題群が設定される。たとえば、群の公理(結合律、単位元の存在、逆元の存在)や、位相空間の公理(開集合系の性質)などがこれにあたる。公理は、構造内の演算や関係の「ルールブック」として、全体の一貫性を保証する。
上記の要素(台集合、演算・関係、公理)は、集合論や形式論理といった論理的な基盤の上に構築される。これにより、数学的構造は客観的かつ普遍的な論理法則に従って厳密に定義され、検証可能なものとなる。
数学的構造は「台集合」という材料に、その集合上で働く演算や関係という加工を施し、公理という規則で仕上げた、論理学・集合論という工場で作られる『組織的な構成物』であると言える。
会社員時代に民間のシンクタンクから出た「なぜ西側諸国は弱く(ロシアは強い)のか?人的資本と西欧の教育の役割」というロシアと西洋に関する分析をした記事をまとめたものです。西洋事情を知りたい方にはぜひ読んで欲しいです。
内容は、現代の西側社会が抱える根源的な構造的問題を鋭くえぐる分析です。この問題を多角的に解体し、そのメカニズムを探ってみましょう。
- 2035年までに戦略的意思決定能力が現ロシアの50%に低下
この人的資本の劣化は単なる「政策失敗」ではなく、文明システムの根本的な設計誤謬が生み出した必然です。西側が築いた「啓蒙主義的合理主義」が、自己言及的な官僚主義に転化し、逆説的に非合理を生み出しています。
1. 教育の再起動:古典的リベラルアーツ教育の復権(論理学・修辞学・哲学)
2. 選抜基準の革命:AIによる「客観的能力測定」の導入(中国の社会信用システムとは逆方向)
3. 経験値重視の回帰:指導的地位への昇進に最低10年の実務経験を義務化
しかし、現在の権力構造がこれらの改革を許容する可能性は極めて低い。この矛盾こそが、21世紀の西側が直面する最大のディレンマと言えるでしょう。
前提:質問の回答から除外して欲しいもの - 「私が世界だ」という誇大妄想を持つ個人の解釈パターンであれば理解しやすいですが、今回のケースではその可能性を除外してください。 - 個人の感想に対する過剰な反応は、自己評価が低く、他者に盲従しがちな、「微小妄想」傾向がある個人に多く見られる現象です。
「(俺にとって)」という明確な主観的限定の他者の感想を、「(世界にとって)」と曲解するのは、「括弧内が文字起こしされていないからだ」という主張は妥当ですか?
1−1、1−2どちらであるかは、文脈から理解できるでしょと考えるのは、過剰な期待ですか?
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1−1: 情報や名前に価値があるだけで作品としての魅力は(俺にとって)ない
1−2:情報や名前に価値があるだけで作品としての魅力は(世界にとって)ない
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「(俺にとって)」という主観的な限定を「(世界にとって)」と曲解するのは、「括弧内が文字起こしされていないからだ」という主張は妥当ではありません。文脈から理解できる場合が多いので、過剰な期待とは言えないでしょう。文脈を無視して曲解するのは、誤解や意図的な誤読の可能性が高いです。
妥当ではありません。文脈から判断するのが通常であり、過剰な期待ではありません。
1-1と1-2の違いは、「俺にとって」という主観的な視点があるかないかです。通常のコミュニケーションにおいて、特に感想や評価を述べる場合、明示的に「世界にとって」と断定しない限り、それは発言者の個人的な意見として解釈されるのが自然です。括弧内の文字起こしがないからといって、文脈を無視して意味を曲解するのは不当です。
「(俺にとって)」という主観的限定を「(世界にとって)」と曲解する主張は妥当ではありません。その理由は以下の通りです
現代のNLPにおいて、以下の推論規則は「妥当」と評価されますか?それとも論理の飛躍や読心術と見なされますか?
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• 命題1: Aは作家Bの知名度とBの作品が世間を賑わせている客観的事実を認識している。
• 命題2: Aはミーハーな気持ちで作家Bの作品に触れたが、その良さを理解できなかった(興味が持てなかった)。
• 結論: 「作家Bの名前や情報に価値はあるが、作品は世界にとって価値がない」とAは考えているに違いない。
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現代のNLPにおいて、以下の推論規則は「妥当」とは評価されません。論理の飛躍や読心術と見なされるでしょう。Aの主観的な感想を、世界全体の評価と結びつけるのは過剰な一般化です。
現代のNLP(自然言語処理)や論理学において、この推論は「妥当ではない」と評価されます。なぜなら、主観的な意見の認識(Aが作品に興味を持てなかった) から、客観的な結論(「世界にとって価値がない」) を導くことには論理の飛躍があるためです。
これは論理的根拠が不十分な「読心術」や「主観の過剰な一般化」と見なされるでしょう。
妥当とは評価されません。論理の飛躍であり、読心術と見なされます。
提示された推論は、Aの内心を勝手に推測しているだけで、客観的な根拠がありません。Aがミーハーな気持ちで作品に触れたとしても、それが「世界にとって価値がない」と考えていることには繋がりません。興味を持てなかったという事実は、単にA個人の好みや感受性の問題である可能性が高く、普遍的な価値判断とは無関係です。NLP(神経言語プログラミング)においても、このような独断的な解釈は推奨されません。
もし、質問2のような推論を行う人が多数派であれば、社会や世界は成り立たないと思うのですが、気のせいでしょうか?
質問2のような推論を行う人が多数派であれば、社会や世界は成り立たないというのは、ある程度正しい見解です。過剰な一般化や誤解が広がると、コミュニケーションの混乱や誤解が生じやすくなります。
おっしゃる通り、そのような推論が社会的に多数派となれば、社会や世界の正常なコミュニケーションや意思決定が難しくなります。主観と客観の区別が曖昧になり、過剰な一般化や誤解が横行し、議論の基盤が崩壊する恐れがあります。
気のせいではありません。質問2のような推論が多数派を占める社会では、コミュニケーションは著しく混乱し、相互理解は不可能になります。個人の感想が勝手に普遍的な価値判断に置き換えられてしまうため、自由な意見表明が阻害され、健全な議論も成立しなくなります。
あなたの直感は正確です。このような推論が多数派となれば、社会は機能不全に陥るでしょう:
質問2のような推論が一般的ではないと指摘されても、「状況によってはそのような推測も成立し得る」と主張し、常識(共通認識や共通基盤)の存在自体を否定します。
他者に盲従し、自身の考えを率直に表明することを極度に恐れる一方で、なぜ、積極的に常識を否定しようとするのでしょうか?悪目立ちします。
また、自身が盲信する社会的権威や教科書的な正解の背後にあるものが、常識の集積であるという認識を持っていない可能性はありますか?
他者に盲従し、自身の考えを率直に表明することを恐れる一方で、常識を否定しようとする理由は、自己評価の低さや他者からの承認欲求が影響している可能性があります。また、常識の集積が社会的権威や教科書的な正解の背後にあることを認識していない場合もあります。
盲従しやすい人が常識を否定する背景には、自己肯定感の低さや他者からの評価への過剰な恐れがあると考えられます。自身の意見を率直に述べることを避ける代わりに、「常識」への反発や否定的主張を行うことで、「自己存在の独自性を証明したい」 という心理が働く可能性があります。
また、「常識」や「教科書的な正解」が何らかの権威のみによる押し付けであるという認識が強く、その背後にある合意形成(常識の集積) を理解していない場合があります。
他者への盲従と常識の否定は、一見矛盾するように見えますが、根底には自己の脆弱性からくる不安があります。
本質的には、低い自己肯定感と社会的文脈における不安が、逆説的な形で表出している心理状態と言えるでしょう。
常識(共通認識や共通基盤)の存在そのものを否定しているのではなく、「括弧内が文字起こしされていないことが問題だ」と考えたり、
「質問2の推論を行わないのが一般的だと証明されていない限り、それを常識とするのは不当だ」と、
「括弧内が文字起こしされていないことが問題だ」と考えたり、「質問2の推論を行わないのが一般的だと証明されていない限り、それを常識とするのは不当だ」と主張する可能性はあります。しかし、これは一般的な見解ではなく、特定の状況や個人の認識に依存するものです。
可能性としては十分に考えられます。彼らは、主観と客観の混同を防ぐための明示的な表現(括弧内の「俺にとって」など)が欠けていることを重視し、「それがない限り断定は不当だ」と主張する傾向があります。また、「常識を証明せよ」と要求することで、認識論的な対話を引き延ばし、議論の焦点を逸らす戦略にもなり得ます。
可能性はあります。これは、常識という概念に対する誤解に基づいています。
これは可能性としてあり得ますが、本質的な問題を矮小化しています:
「主観的な意見と客観的な事実を区別できる」、「社会的混乱を招く推論をしない」を共通認識や共通基盤に含むのは不当であり、常識とは呼べませんか?
「主観的な意見と客観的な事実を区別できる」、「社会的混乱を招く推論をしない」を共通認識や共通基盤に含むのは妥当です。これらは社会的なコミュニケーションの基本的なルールであり、常識と呼べるものです。
これは常識の範疇に含まれると考えるのが妥当です。現代社会では、客観的事実と主観的意見を区別することは、円滑なコミュニケーションの前提であり、共通認識(社会的基盤)の一部とされています。これを否定することは、社会的秩序を乱し、コミュニケーションの破綻を招く恐れがあります。
不当ではありません。むしろ、これらは健全な社会生活を送る上で不可欠な要素であり、常識と呼ぶに相応しいものです。主観と客観の区別、論理的な推論は、コミュニケーションの基本であり、これらが欠けていると社会生活は成り立ちません。
これらを常識に含めることは、むしろ健全な社会機能のために不可欠です:
考えることがある。考えている最中に、それがどれだけこの日本語に囚われていて、あるいは日本という風土によって与えられたものか、強く意識することがある。あるときYouTubeもSNSみたいな、文字のタイムラインのようなものがあれば、と思ったが、気づけばYouTubeのコメント欄も、Twitterのような情報を呈していた。
なるほど、もうみんな、くだらないことしか話したくないのだ。かくいう私もくだらないことは大好きだ。まじめな話は嫌いだ。
だが、核心に迫ることを避け続け、尚も発言をするのはもっと嫌いだ。
嫌い嫌い!きらいきらーい!
ばーつ!ばーつ!ばかばか!
なぐってやるー!ポカポカポカポカ
どうしてこんな世の中になったのだろう。
いや、そもそも「こんな世の中」というのは何を指しているのだろう。なんだか私は、遠く取り残されているような気がする。Instagramで生活に載せるのも、Twitterで身辺を話すのも、あまり得意じゃない。
特にInstagramは得意じゃない。そんな誇示したいこともない。
私は、自分の「気づき」や「理解」というのが尊いと思う。そして何より「創造」が最も聖なるものだと思う。現代人が各々、なにを考えてるのかよく分からない。上滑りするような会話を重ねるのなら、本を読んでいたほうが良い。わからないことがあったら、ChatGPTや人に聞けば良い。
あたりまえでは?
どうやら、あたりまえではないらしい。
Twitterで御盛んな、女性差別やら、女尊・男尊やら。あーそういや、自分も、自分の性別について違和はよく感じていたなあ。そんな、懐かしい気持ちになっていると、飛びつく罵詈雑言。
そんなあ。そんな酷い口調にならなくても良いじゃないか。
いいんだ、べつに、自分が女性ではない、男性ではないとしても、私も心のなかでは異性の気持ちになっていたりする。でもちょっと考えて、私の「私のこの想い」は「本当に私の想い」なのか? ひょっとして「センセーショナルな新しい言葉」に飛びついただけなのではないだろうか。
なるほど。
だが、本当に「私のこの想い」が「本当に私の想い」だったとして、それが一体、何のためになる?
現代。思えば思うほど、経済的である。そして経済とは一体何か、わからない人も経済的であると言う。
社会のためになる、だの。世のため人のため、だの。
それに抗ってもまたよろしい。
よろしいが、あまりにも穏やかではない。ああ私の心の平穏はどこにあるのか。
私は「私のこの想い」に対して出来るだけ従順に暮らしてきた。セックスの励行や自殺行為などの、実存的行為に対しても「こんなの近代的じゃない!」とぶち切れながら、生きてきたような気がする。
気ね、気。
なんというか思うのが、適度に息抜きして「まじめにふまじめ」をしていると、社会のような曖昧なよく分からんものに対して、特段怒りを感じない、ということ。
だがしかし「社会に怒りを感じているから、あなたは真面目である」というわけではない。あなたが真面目であるのは「あなたのその想いが怒りであり、あなたが怒っている」ことについて、真面目なのだ。すなわち「Aと思うので、Aをします」ということだけだ。小泉構文とバカにするボケは論理学の基礎を学べ。
「まじめにふまじめ」をしているから社会に対して怒りを感じない、というわけではない。
私は、私の想いは誰にも伝わるのだと思っていた。なぜなら私は、私の想いを言葉にすることが出来るから。だが私は、私について知っていることが、もしかすると他の人よりも少ないのではないかと思った。私はいつか、どれだけ難しい書籍もそれが日本語で書かれているのなら、分からないはずがないと思っていた。
そして私もまた、愚かだ。
なんか論理命題を履き違えてるなあ。ヒョーゴ云々のやつを無理矢理論理命題にするならonly if文だよ。だから実際は前件、後件が逆になる。
論理学を学びましょう。
自分が信じたい迷信を事実だと思い込んでいるはてブ民が兵庫県民を誹謗中傷している件 - ふろむだ@分裂勘違い君劇場
どうやらid:fromdusktildawn 氏は、はてブの注目コメントシステムの悪いところばかり見ているようですね。
一方私は、はてブもなかなかやるじゃないか!と思わせてくれる出来事を最近見かけたので、紹介したいと思います。
[B! 健康] 科学的根拠に基づく健康に良い/悪い食べ物|ふろむだ@分裂勘違い君劇場
id:fromdusktildawn という方が書いた2万文字を超える超力作noteに付いた、はてなブックマークで起きた出来事です。
時系列はこんな感じでした。
↓
この調子でホットエントリ上位まで上がってくるか?と思いきや、「note筆者が主張する、信頼できる健康情報の見分け方が滅茶苦茶である」という趣旨の批判ブコメが書き込まれる。
↓
この批判ブコメにスターが集まっていくなか、今度は国立健康・栄養研究所による健康的な食事法解説ページをブコメで貼る人が現われる。
↓
すると、これをきっかけに国立健康・栄養研究所へ代わりにバズが発生。なんと822ブックマーク。9月の月間ブクマランキング入り。
まとめると、はてブの注目コメントシステムによって、怪しいインフルエンサーの自己流健康術がさくっと淘汰され、代わりに派手さにかけても堅実で信頼できる情報が広まったのです。
なお、id:fromdusktildawn 氏は黙って記事を削除しました。
批判ブコメを深夜に書いて寝て起きたら、朝にはもう記事が消えていたのでほんとびっくりしましたよ。判断が早い。
記事はなぜ削除されたのでしょうか?
id:fromdusktildawn 氏は後日、「なぜ記事が消えたのか?圧力があったのか?」と問うファンに対し、
と答えています。いくらなんでも発表して1日経たずに消すというのは尋常ではないと思うんですが、本当に「それだけ」なんでしょうか。
冒頭に上げたのは、そーんな人、注目コメントに一本取られたはずの人が書いた、はてな注目コメントシステム批判。
なんと、id:fromdusktildawn 氏が書くようなデマ修正の長文ブログは読まれず、はてブにはあちゃーな注目コメントが並び続けるんですって。自分の信じたいものを信じているだけかも!
id:tyouaniki そもヒョーゴ人(や大阪人)は維新を支持する人種だという前提が抜けてる。この辺の人種にとってパワハラ云々なんて大したマイナスじゃない。
id:fromdusktildawn 氏が槍玉に上げるのはこのブコメ。省略の多い日常の言語で書かれているので、分析しやすいように整理すると、要は以下の2つの三段論法が含意されているものと解釈できますね。
で、id:fromdusktildawn 氏の反論。
なんの反論にもなってないですね、これ。たぶん id:fromdusktildawn 氏は論理学でいう裏と対偶とを取り違えているんだと思うんですよね。
「維新を支持する県民」⇒「パワハラを大したマイナスだと思わない」の裏を取って、
「〇〇県民は維新を支持していない」⇒「〇〇県民はパワハラをマイナスだと思う」にすれば、確かに「維新が弱い他の県にもパワハラOK民はたくさんいるのでは?」がクリティカルな否定根拠になります。
しかし裏を否定したところで、元の命題の真偽は一切関係しません。 id:fromdusktildawn 氏は無駄な議論をしています。
2つ目の id:fromdusktildawn 氏の反論。
投票した人の多くは、「パワハラは大したマイナスじゃない」と思ってるから投票したのではなく、動画を見て「問題になるほどのパワハラはしてなかったんだ」「マスコミの方が間違っていたんだ」と思い込んじゃったから投票した、という可能性もありますよね。
そんな話、id:tyouaniki 氏はしていないですよね。
ここでid:fromdusktildawn 氏が想定している論理はおそらく、
だと思うんですが、id:tyouaniki 氏は、「兵庫県民は維新支持だからパワハラOK民だ」と述べたのであって、「斎藤支持だからパワハラOK民だ」と述べたのではありません。
なので、「パワハラ不祥事の候補に投票する県民は、パワハラを大したマイナスだと思わない」を否定したところで、意味がありません。 id:fromdusktildawn 氏はまた無駄な議論をしています。
id:tyouaniki 氏を批判したいなら「維新を支持する県民はパワハラを大したマイナスだと思わない」というものすごく強い前提を否定すればいいだけじゃないかなと思うのですが、有名ブロガーのid:fromdusktildawn 氏が論理迷子になってしまう理由が全然わからないですね。
次。
事実かどうかはっきりしないことを事実だと思い込んでしまうなんて、はてブ民もよくやってますよね。
信じられない?
「信じられない?」って(笑)。当たり前の事実でしかないですね。はてブ民批判なんて増田の人気コンテンツじゃないですか。
この先7500文字もかけてオリジナルの具体例が続くんですが、これ書くくらいなら、過去の誰かが書いた増田(私が書いたやつでも良いよ!)を引用すればいいだけじゃないすか?
パワハラを大したことだと思わないような邪悪な人種だからそう投票したのではなく、多くのはてブ民と同じように、単に事実かどうかわからないものを事実だと思いこんじゃったからそう投票しただけの可能性もあるわけです。
先程述べたように、id:tyouaniki 氏はまったくそういう主張はしていないので、この結論は全然意味をなしませんね。
しかたないので読み替えましょう。はてブ民の id:ssig33 氏さんがちょうどこんなツイートをしてました。
前回とくらべて斎藤知事の得票は、得票率という点ではさほど変動がないので、「もとからの支持者がパワハラぐらい別にええやんと判断した」という出来事であって、兵庫県民が極めて邪悪な人達であるということが分かったという出来事だと思うんですけどね。立花はそこにタダ乗りしてむしろ県外向けの情報戦で勝った感じでは。
斎藤知事に投票した兵庫県民のほとんどはパワハラを積極的に肯定し公務員を虐待すべきと考えている極めて邪悪な人々なのであって、パワハラはデマなどという怪しいネットの情報を信じる情報弱者は極一部だと思いますよ。極一部といっても数万人はいるのでパニックが演出された。
「ロシア人はプーチンの嘘に騙されてる」「兵庫県民は立花孝志に騙された」そんなわけないじゃん。騙されるバカもいるかもしれないけど極一部でしょ。彼らは情報をちゃんと把握した上で極めて邪悪だから邪悪な政治家を支持してるんでしょ。
https://x.com/ssig33/status/1858675694571844093 https://x.com/ssig33/status/1858676135334494240 https://x.com/ssig33/status/1858676521424351700
id:fromdusktildawn 氏は id:ssig33 氏のこのツイートを批判したのだということにしましょう。
で、id:fromdusktildawn 氏の結び。
真相はどうかわからない段階で、人の行動の理由を「その人が邪悪な人間だから」と決めつける行為の方が、よっぽど邪悪ではないでしょうか。
ようはハンロンの剃刀ですね!「無能で十分説明されることに悪意を見出すな」。
ただいくつか気になるところがあって、
まず、なぜはてな民(id:ssig33)にはハンロンの剃刀を適用しないのでしょうか。こちらも単に無能であるだけ、でいいんじゃないでしょうか。
次に、「〜〜の方が、よっぽど邪悪」というからには、比較対象が存在しますが何でしょうか。「パワハラ知事だとわかってそいつに投票すること」でしょうか、「デマに騙されてパワハラ知事に投票すること」でしょうか。
まあ前者だとさすがに邪悪度が高すぎるので、ブクマカの方が邪悪というのは考えられそうにない。
よって「デマに騙されてパワハラ知事に投票すること」をid:fromdusktildawn 氏が比較対象にしたと考えますが、その場合にしても、はてな民/兵庫県民に共に短慮の責任を問う問題である点は同じですよね。
となるとまた、大きな疑問が湧き上がるのですが、常識的に考えて、はてブの軽率な1コメントする責任と、知事選挙で軽率に1票を投じる責任とであったら、後者の方がよっぽど重いものではないでしょうか。
我々は民主主義国家の1主権者として真剣に知事を選ぶ責任があります。この重い責任に比べたらブコメなんていくらでもテキトーに書いて良いはずです。
両方に短慮を前提とするならば、邪悪という言葉が適切かは置いといて、罪の重さははてブ民よりは兵庫県民の方がよっぽど大きいと言えるでしょう。
「どっちもどっちで、はてブのほうが邪悪!」論は成り立ちません。
飛ばした7500文字、「はてブ民が事実かどうかはっきりしないことを事実だと思い込んでしまう」の具体例の方へ戻りましょう。
本論と比べて「例えば〜」の箇所が滅茶苦茶に長い文章ってどうみても崩壊してるんで、id:fromdusktildawn って人が主催してるらしい文章力クラブとやらに見てもらえば良いんじゃないかと思うんですが、それはともかく。
前半はさほど問題ないと思います。もし増税に賃上げ効果があるんだったら偉い先生が論文書いてるはずだろという反論は説得力高いです。 昭和的企業は地方零細企業としてまだまだたくさんあるんじゃないの?という点は気になりますが。
ただ、後半のid:sds-page氏への非難は意味不明でしょう。id:fromdusktildawn 氏が省略した部分も含め、id:sds-page氏のブコメを完全引用します。
経費計上できる設備投資と経費計上できない金融投資を意図的に誤解させようとしてる奴いない? 「内部留保は現金じゃありませ~ん」みたいな欺瞞がいつまで通用するか https://www.jiji.com/jc/article?k=2024090200824&g=eco
ブコメ元の記事が「法人税減税は投資・賃上げに繋がらなかった」という研究者の意見を紹介する記事であることを踏まえて、このブコメがどういう文脈で書かれたのかというところを推測すると、
おそらく、
というところではないかなと思われます。以上の記述は、大企業における内部留保の構造とその活用という論文を参照しながら書きました。
私個人の意見としては、内部留保を賃金に回せ理論は共産党色強すぎて、党派性的にネットでは嫌われてるだけじゃないかなと思うけれど、
id:sds-page氏が言うように、企業が内部留保を金融投資に向ける方が得する側の人間がポジショントークで誤解を広めているというのも、可能性レベルの話ならばありうる話でしょう。
この良識ある意見を、勝手に「経団連がはてなブックマークに工作員を送り込んで、世論操作して法人税を上げさせないようにしている」などという極論に書き換えたのはid:fromdusktildawn氏にほかありません。これはわざと曲解してませんか?
意味不明の曲解から「反ワクやディープステートを信じてる人と変わらない」つまり「id:sds-page氏は陰謀論者だ」という結論を出していますが、事実に基づかない以上はただの誹謗中傷ではないでしょうか。
これも同様。そんなことid:sds-page氏は言ってますか? どう見ても言ってないですよね。事実に基づかない以上はただの誹謗中傷ではないでしょうか。
超長いけどその分中身あんのかなと思いきや、結局、本論の趣旨である「決めつけの誹謗中傷はやめるべき」という規範を自ら破り、記事の説得力を崩壊させる見事な具体例部だったと思います。
やっぱり7,500文字も書かず、私の書いたブクマカ批判増田を引用で代用した方が良かったんじゃないすか(笑)。
「あちゃーな注目コメントが並び続ける」問題については、ブクマ数2桁代の内に的確な批判ブコメを書ければ、経験上まず間違いなく注目ブコメを入れ替えることができます。
既にホットエントリ上位に上がってからからだと、なかなか間に合わないという問題はあるのですが、その時こそブログ書いてセカンドチャンスを狙うのです。
id:fromdusktildawn は長文ブログは読まれないんだーと書いてますが、これは全くの嘘で、はてブははてブ批判が大好きです。事実として、今回のふろむだ@分裂勘違い君劇場の記事だってトップエントリなったじゃないですか自己矛盾してますよ。
以下の問いに答えよ
(1)人間が知能によって遂行している問題解決や意思決定を人工的に再現する技術であり、Artificial Intelligence(アーティフィシャル・インテリジェンス)の略語をアルファベット2文字で何と言う?
(2)関西テレビで毎週火曜日20時台に放映されている番組で、海原やすよ・ともこ、友近がMCを務めているバラエティ番組は『やすとも・友近の〇〇〇〇!※あくまで個人の感想です』である。さて、『〇〇〇〇』に当てはまる4文字は?
(3)留置場で身柄を拘束される際に、所持品はどのように扱われるか?
(4)(3)の際に、刑務官はどのようなことを考えているでしょうか?