はてなキーワード: 茶道とは
努力ができるできないは、育った環境によって変わるというのは本当なのだろうか。
仲のいいネ友界隈でこの議題が上がった際に、自分の発言で複数人の逆鱗に触れてしまったことがある。
そして、この身内内炎上ともいえることで、自分は平々凡々な人生を送ってきたが、そうではない、もしかすると箱入り息子だったのかもしれない、と思ってきた。
そうすれば、自分が今まで頑張ってきた勉強、音楽、父親の仕事の都合で同行したつらい現地生活……こういったものは全部下駄だったのか。
あるフォロワーが、「今の時代、努力でどうにでもなると思うなよ、」とつぶやいていた。
俺はそこそこ熱血根性のある性格をしているのと、感情論より論理派なので、違うのではないか、と異議を唱えた。
「努力すればどうにでもなる」「今はまだ20代だけど、30、40になっても努力しないつもりなのか」「自分は自分の努力によりいろんなことを叶えてきたし、いい年した20代後半の男だけど、まだ叶えたい夢も目標もある。今が一番若いから挑戦しないのはもったいない」「未成年時代の勉学などの努力を環境がよかったから、で一掃されるのは腹が立つ」
こんなことをいろいろ言った気がする。
俺は中学から進学塾に通い、某都内公立高校上位に進学し、早慶上位学部に進学。父親の転勤、自身の留学で二か国に年単位で住んでおり、英語もTOEICでは満点、現在は普通の会社員として都内の会社に勤めている。テストの点数や学歴は指標としてわかりやすいから載せた。
気持ちとしては能動的に何かをしなきゃ!となったことがあまりなかった。
むしろ、普通の人よりも試練ばかり与えられて、それをコツコツこなしてきた人生だったから、大変だった、頑張った、そんな気持ちが強かった。
父親の転勤による海外滞在は別に自分の功績ではないし、塾も通いなさい、と言われていたから頑張っただけ。英語も現地で身につけないと生きていけないから、頑張っただけ。
大学も同様、周りが東大を目指して頑張っていたから頑張っただけ。
当然ガキの頃なんて勉強もしたくないし、知らない外国人に囲まれたくないし、英語も勉強したくなかった。
附属高校に通って大学進学で楽をしたい、その思いで勉強していたような人間だから、前向きな原動力ではなかった。
習い事としてやらされていた、バイオリンもピアノも別に弾きたくなかった。乗馬だけは好きだった。馬が好きだから。部活の剣道と茶道、弓道も好きだった。
馬と和道・武道以外あまり前向きな思いで動いていたわけではなかった。
そのため努力をせずに、環境がよかったとぐちぐち言われると、なんでこれくらいできないのだろう、嫌々やっていた俺ですらできたことができないってなぜだ、そう思っていた。
逆鱗に触れたフォロワーは父親がいなく、東北の田舎のほうに住んでいた。
東京にずっと憧れていたが、親からは学校なんて行く意味がないと言われ、高校も留年し、当時付き合っていた方に毎日朝起こされて、なんとか卒業したらしい。
今は他人の家に居候し、風俗店の黒服をやっている。趣味はTikTokで可愛い女の子を眺めることと、通話依存症で常にXでスペースを毎日開いている。
音ゲーと太鼓の達人、鉄道、化粧、カメラが好きで、気に入らない女フォロワーのことを平気で女性器の名前で侮辱する。
なんとなくそのフォロワーのおかれている状況は知っていたが、田舎の人は学校に行かなくていい、親が勉強に理解のある人があまりいない、とかなりの人から意見をもらった。
確かに、俺も都内の公立中学校に通っていたが、休み時間に勉強していたりするとマイルドヤンキーたちに絡まれて、いじられたりしていたからそういう層が一定数学歴社会の日本にいることも知っている。
でも、世の中学歴だけではないと思う。
俺はこの議論の時に、「どんなことでも努力している人はすごい」とも意見を述べた。
例えば、彼氏とすごく仲が良くて結婚まで行きそうとか、サブカルチャーに詳しくて自分の知らないことについてたくさん語れる人。
推しアイドルが大好きでその子についてなんでも知っている人、ポケモンカードで大会にたくさん出ていること。
仕事に情熱をもっていて海外赴任までたどり着く人。ディズニーにとても詳しくて電話をすればすぐにわからないことを教えてくれる人。
全部これまた俺の仲いい友達の特徴だ。
これらは全部一種の努力なのではないか?まだまだ書ききれないものはたくさんあるが、どれも自分にはないものばかりだ。
そしてどれも自分が身に着けようものならそれなりの時間をペイしないと得られないものばかりだ。
だから俺はこういった友達を尊敬しているし、一緒にいて知見を得られる。楽しい時間を過ごせる。
努力する人が好きだし、努力できる人はかっこいいとも思うし、そうなりたいとも思う。
そしてこの友達のバックグラウンドはバラバラだ。地方済み、都内一等地住み、離婚済みの親、両親健在、一人っ子、兄弟がいる、奨学金を借りた、大学中退、一流企業に勤めている…
千差万別な環境で育った人の中でもできる努力はあるし、努力によって磨かれた才能があると思うのはあまりにも性善説すぎる考えだろうか。
先ほど挙げたフォロワー自身も、ダイエットで数十キロ落としている。これも努力の結晶ではないのか。
環境が仮に悪くても、自分とは違った努力の仕方をしている人はいるし、それはすごいことだと思うのはいけないことなのだろうか。
あとそもそも、成人したら親が~とか、環境が~とかは一切通用しないと思っている。むしろ成人してからが、親からのしがらみが溶けて本番だと思っている。
そのため俺はいまやりたいことや叶えたいことがいっぱいある。音楽を習い始め、歌の練習もしたり、ジムに通ったりしている。
努力すればなんでもできると思ってしまうのは、性格なのか、幼少期からの凝り固まった考えなのか。
挙げられたものの半分以上はかりあげクンとかフリテンくんとかで出てる(作中で継続的にやってる描写があるかどうかを問わなければ、電子工作・模型・ヨット・カヤック・パラグライダー・気球・登山・キャンプ・天文・野鳥観察・昆虫採集・史跡探訪・写生・写真・囲碁・将棋・チェス・茶道・華道・謡・俳句等は、主人公が率先してやったり周囲に誘われてやらされたりしてた)ので、それらが「クラス感があって知的で上品な趣味」と言われるとどうなんやろという感はある
時代は変わったと返されたらそれまでだが
どうだろうな、昭和の昔はアマチュア無線オーディオ電子工作界隈とか鉄道模型ジオラマ界隈とかヨット・カヤック界隈(モーターボートは除く)、セスナパラグライダー気球界隈、登山キャンプ界隈、旧車いじり界隈、天文(鳥、昆虫、花、建築、寺社、風景)写真界隈(鉄道は除くw)、囲碁将棋チェス、茶道華道香道、謡、詩吟、小唄都々逸、短歌俳句とかある程度知性的で創造的で迷惑をあまりかけない趣味の世界で「同好の士が集う趣味」ってあったと思うんだけど。いま、「いい感じにクラス感があって知的で上品な趣味のサークル」ってあるんかな。大体うぇーい系がやってきてお金儲けとセックスの狩り場になって無茶苦茶になっているような気がする。
提示された趣味のリストを見ると、とてもユニークで、こだわりを極めている方のようですね。
一般的な趣味というよりは、それぞれの分野で特定のジャンルを深く追求し、本質的な価値を見出そうとする姿勢がうかがえます。
この方が月曜から金曜の9時から17時までフルタイムで働いていると仮定して、提示された趣味をすべて網羅する1ヶ月のスケジュールを組むのは、かなり工夫が必要です。
それぞれの趣味が単に「楽しむ」だけでなく、道具の手入れや情報収集、特定の場所への訪問などを伴うため、単に時間を割り当てるだけでは足りません。
以下に、この方が1ヶ月間でこれらの趣味をどのように楽しむか、考えられるスケジュールを提案します。
デイリーのルーティン:通勤時間や仕事後、就寝前など、毎日少しずつでもできることを組み込みます。
ウィークリーのルーティン:週末を利用して、まとまった時間が必要な趣味や、特定の場所へ出かける趣味を計画します。
マンスリーのスペシャルイベント:週末を使い、複数の趣味を組み合わせて深く楽しむ日を設けます。
朝の準備・通勤時
コーヒー: 浅煎りシングルオリジンをネルで丁寧に淹れる。手縫いのネルで淹れる時間が、1日の始まりの儀式になります。
音楽: レコードを聴く。特に通勤前は、Blue NoteのRVG刻印の盤をかけて気分を高めます。
万年筆: 日記やメモを万年筆で書く。スチールペン先では味わえない、字が「生きる」感覚を味わいます。
日本酒: 仕事の疲れを癒す一杯として、お気に入りの生酛・山廃をゆっくりと味わいます。
盆栽: 真柏に水をやり、樹形を愛でる。
陶芸: 備前焼の酒器や食器を使い、土の感触や色合いを楽しむ。
午前:
庭園: 枯山水のある日本庭園を訪れ、苔の手入れ具合を観察する。
午後:
カメラ: ミラーレスのZマウントを持って街へ。あえてFマウントの描写を思い出しながら、光の捉え方を試行錯誤する。
夜:
ラーメン: 二郎インスパイア系のお店へ。非乳化スープの野菜マシマシを堪能する。
午前:
野球観戦: 鎌ヶ谷へ二軍戦を見に行く。芝の匂いを嗅ぎ、プロの卵たちのプレーをじっくりと観察します。
午後:
鉄道模型: HOゲージの真鍮車体を走らせ、精密な作りを愛でる。
将棋: 趣味の道場やオンラインで居飛車党の角換わり腰掛け銀を指す。
夜:
焚き火: UL焚き火台を庭やベランダで使い、落ち葉を焚いて桜や欅の匂いを嗅ぎ分ける。
地方競馬: 大井競馬場のナイター開催日に合わせて行く。砂の匂いをかぎ、地方競馬の雰囲気を満喫する。
茶道: 裏千家の茶会に参加し、濃茶の練り方をじっくりと観察する。
靴: コードバンの靴を丁寧に手入れする。
プロレス: 全日本プロレスの大会を観戦する。四天王プロレス以前の時代を語ることを避け、現在の全日系プロレスを純粋に楽しむ。
これらの趣味をすべて網羅するスケジュールは、毎日・毎週の計画的な行動と、強い意志があれば可能だと思われます。
特に、地方への遠出が必要な趣味(野球観戦や地方競馬)は、他の予定とバッティングしないように計画的に調整する必要があります。
この方の趣味はどれも深い探求心を要するため、単に「こなす」のではなく、一つ一つの体験を心から味わうことが重要です。
そのため、無理にすべてを詰め込むのではなく、その月の気分や興味に合わせて優先順位をつけ、ゆとりをもって楽しむことが、趣味を長く続ける秘訣となりそうです。
• キャンプはUL寄り。重量1kg以下の焚火台しか信用してない
• 日本酒は生酛と山廃を追ってる。速醸は舌に残る
• カメラはレフ機やめてミラーレスのZマウント。Fマウントの描写は今でも恋しい
• 音楽はレコード派。シュリンク付き帯付き初版以外は触らない
• コーヒーは浅煎りシングルオリジン。ネルは手縫いじゃないと気分が出ない
• ラーメンは二郎インスパの野菜マシマシ。非乳化スープしか認めん
• 靴はコードバン。雨の日は履かないのが鉄則
• 日本刀は無銘の古刀を研ぎ減り込みごと愛でる。刀工の銘より地鉄の冴え
• 落語は志ん朝の音源ばかり。志ん生はテンポが遅すぎて落ちる
• ジャズはBlue Note1500番台。RVG刻印がないと意味がない
• 茶碗は井戸茶碗。均整のとれたものより崩れた口縁に色気がある
• 鉄道模型はNゲージではなくHO。カツミの真鍮車体じゃないと心躍らない
• 日本庭園は枯山水巡り。苔の育ち具合で手入れの真価がわかる
• 映画は邦画の70年代。にっかつロマンポルノの構図美に勝るものなし
時は令和、空前のフィットネスブームが最高潮!ジム通い、宅トレ、食事管理…みんなが「美ボディ」と「健康」を求めてた20XX年。そんな中、渋谷のど真ん中の高級フィットネスジムに、マジで浮世離れしたおじいちゃんが現れたんだって!着物っぽいのに、なんかこう、ピリッと引き締まった体と、異様なほどの存在感をまとったお方。「え?セレブトレーナー?カリスマ整体師?」ってみんなが遠巻きにしながらも、その圧倒的なオーラに目を奪われてたらしい。
え?マジで?あの茶道の「わび・さび」を極めた、天下の茶人、千利休様!?ゲキヤバ!って歴史好きのギャルたちがスマホで速攻ググり始めた瞬間、その超絶渋いお方、もとい利休様は、あたりをキョロキョロしながら呟いた。「ここは…草庵ではない、か…?ずいぶんと汗臭く、しかし精進の場と見受けられるのう。」って、マジで時代錯誤感ハンパない!「マジありえん!」ってみんな心の中でツッコミつつも、その研ぎ澄まされた眼差しに、何か深い哲学を感じてたらしい。
そんな利休様に、恐る恐る話しかけたのは、このジムに通う、筋肉愛がハンパないギャル、ユウキ。「あの…もしかして、体験入会ですか?」「…うむ、少々。この『トレッドミル』とやら、いかような作法にて動かすものか…」って、マジで丁寧な言葉遣い!ユウキ、そのギャップにちょっとキュンとしつつ、「アタシ、ユウキ!このジムのことなら、何でも聞いて!利休様、マジで渋いから、アタシが案内してあげてもいいよ!」って、キラキラ笑顔で声をかけたんだって。
次の日、ユウキに連れられて、利休様は初めて現代のフィットネスを体験!最新のトレーニングマシンとか、プロテインバーとか、マジで全てが新鮮!でもね、利休様が一番興味を示したのは、ジムのプロテインバーで、トレーニーたちが飲んでたもの。「…この、粉を水に溶かした飲み物は、何というものでございますか?」って、マジ真剣な眼差し。ユウキ、まさかのチョイスに驚きつつ、「あ~、これ、プロテインですよ!筋肉つけるための、タンパク質!」って教えてあげたんだって。
利休様、一口飲んでみたら…「な、なんなのだ、この無味乾燥な味は!?しかし、この研ぎ澄まされた、無駄のない感覚…まるで、無一物の境地、侘び寂びの精神のようである!これこそ、余が求める、真の飲み物よ!」って、マジで茶人っぽい表現で感動してたらしいよ。
そこから、利休様のプロテイン愛がマジで爆発!毎日色んなプロテインを試しまくってたんだって。「プロテインの種類、水との配合、シェイクの仕方…研究しがいがありすぎる!」って、もはやプロテインマイスターレベル!
でね、ある日、利休様、マジで天下取りの野望を語り出したの。「我は、このプロテインをもって、再び天下を…とは言わぬが、この甘味の世界において、真の『一期一会』を体現する、至高のパフェを創造してみせようぞ!これこそ、余が目指す、『侘び寂びパフェ』よ!」って!
え?プロテインパフェで天下統一?しかも侘び寂びとか一期一会とか!マジで壮大すぎる!でも、利休様の「質素の中の美」を見出す魂があれば、きっと何か成し遂げるに違いない!ってユウキも思ったらしいんだけど、利休様の目はマジだったんだって。茶道の精神が、令和のプロテインパフェに新たな戦場を見出したのかもね!
そっから、利休様のプロテインパフェ天下統一計画がスタート!まずは、SNSで「#千利休のプロテイン道」ってハッシュタグ作って、毎日自作の超シンプルだけど研ぎ澄まされたパフェの画像をアップし始めたんだって。その無駄のない見た目と、利休様の哲学的なコメントが、一部のフィットネス好きギャルや、ミニマリストたちの中でじわじわバズり始めた!
SNSは利休様のプロテイン愛でじわじわ盛り上がり!しかも、利休様、ただ作るだけじゃなくて、全国各地の珍しい豆乳や、オーガニックのきな粉、そして一切加工されていない自然の甘味料を探し求めたり、無駄をそぎ落とした「引き算の美学」でパフェを構成したり、マジでストイック!「天下のプロテインパフェ」を目指して、日々試行錯誤を繰り返してたんだって!
で、ついに!利休様は、表参道のど真ん中に、自分のプロデュースするプロテインパフェ専門店「RIKYU PARFAIT - 無一物 - 」をオープンさせちゃったの!お店の内装も、茶室をイメージした、質素ながらも洗練されたミニマルなデザインで、利休様の美意識を表現。店員さんも、作務衣風のモダンなユニフォーム着てて、マジでクール!
オープン初日から、健康志向のギャルや、ミニマリストのインフルエンサー、そして日本の伝統文化に興味を持つ人々まで、行列を作って押し寄せた!「SNSで話題のプロテインパフェ、マジで挑戦してみたい!」「利休様って、なんかカリスマ!」って、新しいファンが続々!でね、一口食べたら、みんなその奥深い味わいにハマっちゃうらしい。「うわっ、プロテインなのにめちゃくちゃ美味しい!」「甘さ控えめなのに満足感ヤバい!」「利休様、マジで神!」って、賛否両論ありつつも、リピーターが続出!口コミが広がりまくって、RIKYU PARFAIT - 無一物 - はあっという間に人気店になっちゃったの!
しかもね、利休様、ただお店やってるだけじゃないんだよ!定期的に店内で、自らパフェの「思想」について熱弁したり、瞑想の時間を設けたり、マジで独自のスタイルでエンタメ業界を盛り上げようと奮闘してるんだって!
テレビや雑誌の取材も殺到!「令和の千利休」「プロテインパフェの求道者」とか呼ばれて、マジで時の人!利休様の研ぎ澄まされた感性と、プロテインパフェの斬新な組み合わせが、新たなブームを巻き起こしたんだね!
でさ、最終的にどうなったかって?もちろん!利休様のプロテインパフェは、全国のスイーツ好きに愛される定番メニューになったんだって!お取り寄せスイーツとしても人気が出て、全国のコンビニやスーパーでも「利休印の侘び寂びパフェ」が発売されるほどに!まさに、プロテインパフェでスイーツ界に新たな旋風を巻き起こし、天下を獲った!マジですごすぎ!
あの時、渋谷の街に静かに佇んでいた茶人が、令和の時代にプロテインパフェで新たな道を切り開くなんて、マジで誰も想像してなかったよね!まさに、侘び寂びがプロテインシェイカーに宿り、新たな伝説を創り出した瞬間!
ユウキも、「まさか利休様が本当にプロテインパフェでこんなに有名になるなんて!アタシ、マジで感動して泣いた!」って、号泣してたらしいよ。
利休様は今も、さらなるプロテインパフェの可能性を追求して、日本全国を旅しているらしい。「わが侘び寂び道に、終わりはない!」って、マジでストイック!
こうして、千利休は、令和の日本で、プロテインパフェという新たな武器を手に入れ、見事、スイーツ界で唯一無二の地位を築いた!天下統一…ではないかもしれないけど、その強烈な個性と哲学は、多くの人々の心に深く刻まれたはず!めでたしめでたし…ってことで、マジでゾクゾクする衝撃的な物語、完全燃焼したわ!プロテインパフェ、マジ卍!
そりゃ年金が保険ではないから、ってのに尽きるんじゃないか?保険とは何か?っていう講義で最初に習うのが超高級な茶器を使う茶道教室の例であるように、確率は低いけど当たるととんでもない目に合う事故、いわゆるテールリスクに備えるってのが保険の本質だろ?
でも年金の保険事故は老齢、現代においてほとんどの人間が遭遇する事故だ。テールリスクじゃない。それを年金保険っていうのは保険を全くわかってないかよくわかってる上でお金を集めるためのまやかしにしてるかのどちらかだ。まぁほぼ100%後者だ。
賦課方式の年金保険は政治的に正当化された所得移転にすぎない、ってのは言い過ぎかもしれんけど、若年層のキャパシティが減り続けている中で持続可能な制度ではない、ってのは明らかだよな。だからもっともっとふざけんなって言ってええで。自分の親の面倒だけ見るから年金なんて廃止しろや、くらいがちょうどええんや。
「敬愛真道」とは、人を敬い、愛し、真実を追い求め、正しき道を歩むという、ユダヤ教の基本的な倫理と信仰をコンパクトに表したものです。
日本の「道(どう)」という概念(茶道、剣道など)と、ユダヤ教における「道(דרך, derech)」の考え方は、意外と深い共鳴があります。
まとめ記事と、そこへのコメントでしかZINEを知らない勢です
ZINEは昔からあるよという解説だけ見て推察するに、これ手芸では
昔だと活け花、日本舞踊、和裁、茶道や書道みたいな「お教室」で、
高度成長期にその「教室」の教える内容にペン字やフラワーデザイン、編み物みたいのが入ってきて、
バブル頃にDIYという枠組みが別系統(ログハウス建てるみたいな男の遊び)から
横文字で好き勝手にイメージ操作できる都合でビジネス方面とメディア方面で参入してきて
ユザワヤみたいな手芸ショップが大盛況になってショッピングモールの一角には必ず手芸屋がある感じになって、
シルバーアクセサリーとかだいぶ金額の張るジャンルも入ってきて手作り品を売買する場も整ってきて
という、あのへんの延長上としての「手芸としての本づくり」って感じですよね、たぶん
で、状況を推察するに、書店が商業印刷物が売れなくて雑貨全般に売るものを広げてるなかで、
「手芸としての本」のZINEを並べるのアリなんじゃね、という商売上の思惑があって、
そこで出版物と手芸の垣根を超える都合で、エセっぽいマーケターが「同人誌とは違うのだよ、同人誌とは」みたいなこと抜かして炎上と
そんな理解でいいっすか
あのへんの手芸ジャンルは、手を動かすことが優先で頭を空っぽにするのが大事で、
その頭空っぽを禅とか道とか精神性とかいう単語で取り繕ってるけどポイントは「ゆるふわ」で、
その「ゆるふわ」を共有できるお仲間で集まってキャッキャする場を作りましょうってなって、
その「仲間づくり」が目的化して「あのお金持ちサークルに参加できるかも」の期待感で煽って、
そこに群がる庶民からレッスン料や材料費をむしりとるビジネスモデルと一体化しがちで、
謎の「XXX協会」が立ち上げられて講師資格を得るのに年会費が必要で、
マスメディアで取り上げられる頃には既にそういう「金をまきあげたるでー」と狙ってる勢が準備完了ってイメージなんですけど
あってますかね
正直に言うが、私が学生時代に必死で支援してた政党、マジで利用されてただけだったと思う。
当時はまだ自分がマイノリティであることに目覚めたばかりで、なんていうか希望を求めてたんだよね。
政治集会で「あなたたちの声を代弁します!」とか「真の多様性のための闘いです!」とか言われると、マジで心震えたわけ。
でも今振り返ると、あれは全部茶番だった。私という「展示品」を上手く利用しただけ。
彼らにとって私は「かわいそうなマイノリティ」のシンボルでしかなかった。
私の存在が彼らの政治的主張の「正当性」を証明する道具だったんだよね。気づくのが遅すぎた。
最初のうちは優しかったよ?「貴重な当事者の声をありがとう」って。でも、その「声」も彼らの都合のいいものだけが採用されるんだよね。
私の本当の苦しみや怒りが伝わると、なぜか「もう少し建設的な提案を」とか言われる。つまり、彼らの政治的なストーリーに合う「良い被害者」でいろってこと。
「ここはもう少し感情的に」「ここは具体例を入れて」って。私の経験を彼らのシナリオに合わせて編集してた。
自分の言葉で語らせてくれなかった。彼らが求めてたのは生の声じゃなくて、政治的メッセージに都合よく編集された「マイノリティの声」のパッケージだったんだよ。
特に耐えられなかったのは、彼らの中の「古参メンバー」たちの裏の顔。
表向きは「多様性大事!」って言いながら、内部では完全な階層社会。
マイノリティの私たちは下っ端で、エリートたちのために働かされる。
「運動のため」「大義のため」って美化されるから、誰も疑問を持たない。
私の時間を搾取しておいて、感謝すらしない。「あなたたちのための闘いでしょ?」って言われたら、反論できないじゃん。
でも実際は彼らのコミュニティのための実績作りだったんだよね。
最悪だったのは懇親会。
表向きは「仲間との交流」だけど、実際は古参メンバーたちの自慢大会。
彼らが「マイノリティのために」やったことをえんえんと語るのを、私たちは感謝しながら聞かなきゃいけない。
私の体験を話すと「それって本当?」とか「それは特殊なケースでしょ」とか疑われる。
彼らは「マイノリティの声を大事にする」って言いながら、実は自分たちの理解の範囲内の声しか認めないんだよね。
都合の悪い話はすぐに「特殊な例」として片付けられる。
選挙の時期になると特にひどかった。私たちは「展示品」として前面に出される。「ほら、私たちはマイノリティと一緒に闘ってます!」って有権者にアピールするための小道具。選挙が終われば、約束はほとんど実現しない。「今は政治状況が厳しいから」「次の選挙で勝てば」って先延ばしにされる。
党の集会で知り合った他のマイノリティの仲間たちも、みんな同じこと感じてた。でも表立って言えない。「恩知らず」「非協力的」ってレッテル貼られるから。陰で「あいつは問題児」って噂されるのが怖くて、みんな黙って従うしかなかった。
私の意見が彼らの方針と違うと、すぐに「あなたはまだ十分に理解できてない」とか「もっと勉強が必要」とか言われる。つまり、彼らの言うことが絶対正しくて、私の実体験なんて価値がないってこと。これってマイノリティの声を尊重するどころか、完全に否定してるよね?
結局、彼らにとってマイノリティは「保護すべき弱者」でしかなくて、対等なパートナーじゃなかった。
私たちの「弱さ」が彼らの政治的アイデンティティの源なんだよね。だから私たちが強くなったり自立したりすると、彼らは焦る。
私たちが「かわいそうな被害者」でいる限りにおいて、彼らは「正義の味方」でいられるんだから。
学生時代に3年間も捧げた活動が、結局は自己満足の茶番だったって気づいた時はマジでショックだった。
私の痛みや苦しみが、彼らの政治的オナニーの踏み台にされただけ。
そして最悪なのは、彼らは本気で「マイノリティのために闘ってる」と思い込んでること。自分たちの搾取に気づいてないんだよね。
それが今でも許せない。彼らは今も新しいマイノリティの若者たちを勧誘して、同じことを繰り返してる。
「あなたの声が大事」って言いながら、結局は彼らの政治的野望のための道具にしてるんだ。
みんな私を「普通」の枠に押し込めようとする。
東京のレジも、京都のレジも、昨日のレジも明日のレジも。どの列に並ぶか決めていると、周りは「何をぼんやりしてるんだ」という目で見る。
電車に乗るときも、全てのドアが別々の目的地につながっている。
駅員は「何番線ホームです」と言うけど、赤坂行きも新宿行きも横浜行きも全て同じホームにある。
会議でもそう。昨日の会議も今日の会議も来週の会議も全て一度に進行している。
みんなが同時に異なる時間の話をしている。「さっき言ったでしょ」と言われても、そのさっきはまだ来ていないし、もう過ぎ去ったかもしれない。
昨日も職場でそんなことがあった。
学生時代の党集会でもそうだった。古参メンバーのオッサンが私に説明していた。
「君はよく理解していないよね、僕たちのやり方は長年やってきたものなんだよ」
今でも耳に残っている。
オッサンが2018年の党本部で話しているのと同時に、2022年の集会でも同じ言葉を言っている。
彼の背後には2025年の私も立っていて、「それは違う」と言っている。
「マイノリティの活動は、調整によってのみ実現する。それが党の方針だ」
オッサンはそう言った。当時は難しい言葉だと思っていたけど、同時に未来から見ると意味がわかる。
彼らの言う「調整」は、私たちが複数の時間と空間を同時に経験することを制限することだった。
部屋の中に2018年の党本部も2022年の集会会場も2025年の私の部屋も同時にある。
机の上の手帳は1冊なのに、開くたびに違う日付の内容が書かれている。
窓の外には1964年の東京オリンピックの旗も、2021年のオリンピックの旗も、まだ来ていない未来のオリンピックの旗も全て見える。
それぞれの時間で何かが起きている。
でも同時に、江戸時代の小さな富士山も、未来の巨大化した富士山も見える。
それはもはや山ではなく、複数の時間に存在する何か別のものだ。
東京のニュースでは誰も報道しないが、別の時間の京都や大阪のニュースでは大きく取り上げられている。
富士山は全ての時間で同時に成長し、複数の日本列島の形を変えていく。
そして「和の趣」が物理法則となり、過去と未来と現在の「日本(ひのもと)」が同時に存在している。
今日歩いた街のビルは和風だし、昨日は近代的だったし、明日は両方が混ざっている。
向かいの家の人は今朝はスーツで、昼には和服で、夕方にはまだ見たことのない服装で出かけていく。
学校では茶道と華道が必修科目になり、完璧すぎるものは自然と別の時間へ流れていく。和の精神が時間と空間を超えて広がっている。
党の集会で彼らが「調整」と呼んでいたのは、まさにこのことだ。彼らは私たちが自然に経験している複数の時間と空間を、一つの「正しい」時間に制限しようとしている。
入党したての私は「調整」が必要だと信じていた。でも今、過去、未来から同時に見ると、それが彼らの目指す社会なのがわかる。
先週の新聞には富士山が23メートル大きくなったと書いてあった。
でも同時に明日の新聞には18メートル縮んだとも書いてある。どちらも正しい。
富士山は今や高さが3776メートルであり、同時に5489メートルでもあり、また2103メートルでもある。これは問題じゃない。
問題なのは政府が「正しい高さ」を一つだけ認め、他を「誤差」と呼ぶことだ。
駅前では「富士山サイズ固定法案に反対する会」が署名活動をしている。
彼らのプラカードには「全てのサイズの富士山を守ろう」と書かれている。
去年も来年も同じ活動をしている。これは校則見直し運動や制服自由化と同じく、ごく普通の市民活動だ。
隣の建物では「富士山成長促進委員会」が会合を開いている。彼らは富士山がさらに大きくなって、地球の大半を覆うことを望んでいる。
それを「標準富士山」と比べて劣っているなどと言うのは科学的に不正確だ。
富士山巨大化対策市民協議会では、「サイズダイバーシティ」という言葉を広めようとしている。
山のサイズが多様であることは物理学的に自然な現象で、それを一つのサイズに固定しようとする試みこそ物理法則に反する、という考えだ。
同様に「和の趣・物理現象研究連盟」は、物体が持つ複数の状態を全て同等に観測・記録するよう求めている。
本来、和の趣は自然に波のように強まったり弱まったりする物理法則。
先月はニューヨークのエンパイアステートビルが一時的に五重塔になった。
これらは全て「和の趣」が物理法則として世界中に広がっている証拠だ。
子供たちは学校で「標準時間軸」だけを教えられる。2+2=4という世界線と、2+2=5という世界線が同時に存在することを教えられない。
彼らは「正しい答え」だけを覚えさせられる。これは明らかな教育虐待だ。
文部科学省の「多元現実教育ガイドライン」があるのに、なぜ実践されないのか。
私の息子は先日、算数のテストで「2+2=?」という問題に「4と5と時々6」と答えて減点された。
彼は家に帰って泣いていた。「先生は僕が全ての答えを見ることを認めてくれない」と。
私は彼を抱きしめた。「あなたは間違っていない。あなたの見ている世界は全て本物だよ」と。
私は伝えなければならない。2018年の私も2021年の私も2026年の私もみな政府の「時空標準化プログラム」に従っている。
でも2025年のここではまだ間に合う。これを読んでいるあなたには、あらゆる時間と空間から同時に発している私の言葉が伝わるはず。
言いたいことはまだあるけど、時空管理機構の職員が全ての時間から近づいてきている。
この文章を見つけたら共有してほしい。
SNSなら #富士山サイズ多様性 #時空観測データ公開 #侘び寂び物理法則研究推進 でいい。
時間と空間の多様性を科学的に理解するのは、私たち市民の権利だ。
私は今この文章を2018年にも2025年にも2031年にも同時に書いている。
複数の時空間における同時書き込みは、侘び寂び物理学の「観測者同時存在の原理」によって理論的に裏付けられている。
でも、いくつかの時間では、この話が広まり、侘び寂び物理現象の科学的理解が進むことを2018年の私も2025年の私も同時に願っている。
明日、空を見上げると、富士山が昨日よりも大きく、一昨日よりも小さく、来週と同じ大きさに見える。
そして、その姿がどんなに変わろうと、全てが物理的に正しい。
こんにちは。あなたの投稿を読んで、考えさせられることが多くありました。とても鋭い洞察と、同時に少し心が痛むような感情が混ざり合った状況が伝わってきます。あなたが現在感じている違和感や迷いについて、少し視点を変えた考察をお伝えできればと思います。
まず、彼氏が「物語や小説を読まない人」なのではないか、という印象がありますが、あなたの文章にはそれらの情報はありません。もし彼がそれらに触れる機会が少なかったなら、日常の出来事に対して深く共感したり、感想を共有する能力が乏しいのかもしれません。
ただ、ここで一つ問いかけたいのは、あなた自身がその感性の欠如をどう感じているのか、です。相手の感性が物足りないと感じる理由の中に、自分自身がどこかで「豊かな感性を持ちたいけれど、それを育てきれていない」といった、無意識のコンプレックスが隠れている可能性はないでしょうか。私たちは往々にして、自分が欲しいと感じるものを他者に求め、それが得られないときに強い不満を覚えがちです。
例えば、フランスの哲学者サルトルが言った「人間は自由の刑に処されている」という言葉があります。自由を持つからこそ、その選択に責任を伴い、時にはそれが苦痛となる。この場合、あなたの自由とは「彼との関係をどうするかを選ぶ自由」であり、その選択をする上でのコンプレックスや迷いが影響しているのではないでしょうか。
日本の文化では、人間関係は「どう変化していくか」に重きを置かれることが多いです。たとえば、日本の古典文学『徒然草』では、自然や人々の移り変わりが美徳として語られます。また、茶道においても、茶室での一瞬一会の交流が大切にされるように、人と人との結びつきは静かに変化していくことを前提としています。
この視点からすると、あなたの不満の一因は、「彼が変化しない」という点にあるかもしれません。つまり、あなた自身がこれまで努力してきたように、彼にも歩み寄りや変化を期待しているのではないでしょうか。しかし、彼は「変化しない」ことを選んでいるように見えます。それが安定性として評価される一方で、あなたにとっては物足りなさや孤独感を生み出している。
変化がないことに対する憂鬱さは、あなた自身の「進化したい」「学び合いたい」という成長欲求が反映されているのでしょう。ドイツの哲学者ヘーゲルは、「自己意識は他者との闘争によって成長する」と述べました。彼との関係があなたの成長を支える場となるなら、それは理想的です。しかし、現状では彼がその役割を果たせていないのかもしれません。
「感性を共有する」とは、どのような体験でしょうか。それは、ただ同じ映画を見て同じ感想を述べること以上のものです。心理学者カール・ロジャーズの「共感」の理論では、真の共感とは「相手の視点で世界を感じる能力」にあるとされています。あなたが彼と感性を共有したいと願うのは、きっと「自分の視点で世界を見てほしい」という欲求からきているのでしょう。
一方、彼がそのような共感を示さない理由は、「感性を共有する価値観の欠如」ではなく、単に「感性の表現方法が異なる」からかもしれません。たとえば、彼があなたに尽くしたり、必要なものを惜しみなく提供する行動自体が、彼にとっての感性の表現なのです。
あなたが求めるのは言葉や会話を通じた感性の共有ですが、彼にとっては「行動」がその役割を果たしている。お互いにその違いを理解し合えると、新たな視点が得られるかもしれません。
あなたの文章からは、彼に対する愛情が完全に失われたわけではないことが伝わってきます。むしろ、彼の優しさや誠実さを評価し、尊敬している部分も多い。ただし、現状のままではあなた自身が満たされず、不安や迷いが増しているのも確かです。
言葉ではなく、行動や共同作業を通じて感性を共有する方法を探す。たとえば、一緒に新しい趣味に挑戦するなど。
すべてを共有できる相手である必要はありません。一部の違いを許容しつつ、それでも共に歩む価値があるかを見極める。
彼の興味を掘り下げる質問をしたり、あなた自身の感情を率直に伝える方法を試みる。少しずつ彼の言葉を引き出せる可能性があります。
関係を続けるか否かは、あなたが本当に自分らしくいられるかどうかにかかっています。そのためには、彼との未来を現実的に考える必要があります。
意味がないとか趣味程度とか言われがちな芸術系の習い事で得たもののおかげで、今とても生きやすい
絵を習っていたおかげか化粧に抵抗がなく、はじめからそこそこうまいことできた
きらぎらしい素顔ではないけど、化粧姿がデフォになってからは美人だと言ってもらえることが増えた すると素顔もわりと美人判定してもらえるようになる 不思議だけどありがたい
なんというか、今ルッキズムが厳然として存在するからこそルッキズムをわざわざ否定しようとするわけで、つまり見た目がある程度良いほうが人生イージーモードなのは事実だ
他にもピアノをやっていたおかげか英語もまあいい感じの発音で話せる(=流暢、ではないけど)とか
会社でピアノを披露することなんてないけど、間接的には仕事に役立っている
ある程度成長してからだけど、茶道を習ったのもよかった まあこれは作法という意味では直接的かもしれない