はてなキーワード: ギャップとは
エクソシストの映画の撮影前、主人公の神父役の役者が変死してしまう。その代役にアル中で業界を干されているラッセル・クロウが選ばれ、なんかうまく行ってない娘は付き人として撮影に参加。しかし、アル中で脳が委縮したラッセルはろくに台詞も覚えられないし体調も悪い。そうこうしているうちにラッセルの様子がどんどんおかしくなっていき、撮影現場では異変が起き始める。もやしこの映画は呪われているのでは、ラッセル親子の行く末は……
みたいな話。
ちゅ~~~~~~~~~~~と半端やなぁ(ちゃらんぽらん感)。
いや、やらんとしてることはわかるんよ。トラウマの苦悩、演技で自分を追い込むことによる変容、信仰の脆さ、親子の絆、そしてエクソシスト映画。でもこれらを全部やろうとした結果、全部中途半端になってる。
ラッセルは敬虔なキリスト教徒だったんだけどいつも通り幼少期に神父にケツ掘られててそれがトラウマになっている。その後、役者として大成するもトラウマから逃れるために酒と薬の日々を送り、妻が大病を患って死んだ際には更生施設に入っていて死に目にも会えてないので娘との間には距離がある。
そんな彼が皮肉なことに敬虔な神父の役をやることになってストレスはたまり、ディレクターからは過去のこと、酒浸りだけではなく幼少期のことまでをチクチク責められるしどんどん様子がおかしくなっていくが、そのうち本当に悪魔に取りつかれてしまう。
でもここの"役に押しつぶされる"展開がめっちゃ薄いから、悪魔に憑かれる展開へのジャンプがめっちゃ弱い。序盤からラッセルはずーっと鬱々してるし様子がおかしいから、悪魔に取りつかれておかしくなるっていうギャップが薄い。もろちん、これは悪魔?それとも本人?っていうサスペンスはあるんだけど見てる側からすればどっちでもよくね?ってなっちゃう。悪魔だろうが本人だろうが様子がおかしいのには変わりないし。
また、ラッセルが抱えているトラウマが作中で解消されるという展開もない。後半はもうずーっと悪魔に取りつかれて様子がおかしいラッセルが大暴れしていて、これを親子の絆で取り戻す展開かと思いきやまったくそんなことはなく。映画のアドバイザーとして参加していたプロ神父が「ワイがラッセルの中の悪魔を引き受ける!」つって悪魔を吸収し、ラッセルと娘、あとなんかぬるっといてた共演女優みんなでお祈りを唱えた結果、爆発炎上して終了。
別にトラウマの解消はそんなに簡単なものじゃないにせよ、何らかの進展があってもええやん。っていうか、あるべきでしょ。神父様の自己犠牲によって助かりました、まぁ、神父に性加害されたことがトラウマだったのが神父にもいい奴もいるんだよ!で和らいだという考え方ができなくもないけど。でもラッセル、悪魔に取りつかれた神父の脳天に十字架ぶっ刺してるんだよな……殺人だよ……ハッ!?神父の恨みを神父で晴らしてスッキリした!ってこと!?
どんな映画やねん。
信仰の脆さに関しては敬虔な神父として娘に寄り添いこの事件の解決に動いてくれてた神父が悪魔を吸収する際に、彼自身も父親である神父から強制的に洗礼を授けられた存在だったことがわかるんだけど、まぁ、だから何?って感じで。そのことが今回の悪魔祓いに特に有効に働く要素もなかったし。
そりゃ、俳優として神父を演じることで悪魔化したが本心で神を信じていたラッセルと、神父であることを強要されてある意味神父を演じていた神父という対比と、最後の最後で神父として神の御業を見せて大往生してよかったねって感じなのかもしれないけど、少なくともそう見えるように脚本が作られていない。
つーか、神父燃えて死んで次のシーンでラッセルがなんか手紙書いてるシーンで終わるの適当すぎないか。
結局何の話やってんってなるわ。
やりたいことがいろいろあるのはわかるけど少なくとも映画としての接続はうんちだったからか、かなり退屈だった。
まぁそんな感じかな。
あと冒頭から画面が一生薄暗いから目が疲れるしメリハリもなくなってると思う。ラッセルが悪魔に憑かれた表現も、今日日それ?って感じの既視感があるものばっかりでナンダカナーって感じ。ジャンプスケアはちょいちょいあるのでビックリホラーとしてはギリ楽しめるかな。
なので、まぁ、悪魔祓い映画コンプ勢にはギリオススメ。ラッセルが悪魔祓いする映画だったらヴァチカンの方を見た方がいいと思いました。
○ご飯
朝:アーモンド。エナドリ。昼:焼きそば。目玉焼き。夜:たまごやき。沢庵納豆冷奴。キュウリ。トマト。ギョニソ。バナナ。ヨーグルト。間食:柿の種。あずきバー。
○調子
ゲーム三昧。
ここから後半戦なのでもう一息。
・5段階評価:3
・あらすじ
魔法を学ぶ「学園」の新入生アリシアと、その担任教師ベルディリア。
「学園」では教師に座学を教わる教師派と生徒同士の実践で魔法学ぶ生徒派の権力闘争が盛んだった。
ベルディリアは生徒派のリーダーライルと、生徒会長の幼馴染アマリリスを新たに担任するため「学園」を駆け回る。
・印象に残ったセリフ
ベルディリア「手が空いたら…… また会いにくるから。その時でいいか?」
妹に食事に誘われての言葉。そっけないように見えて選択肢の選び方次第では速攻で会いに行けるので、妹にはだだ甘いのが可愛い。
・印象に残ったキャラ
ベルディリア。生徒大好き甘々ティーチャーにして、妹大好き甘々シスター。同じ教師のヴァイスや学園長には辛辣な態度を取るのが面白い。
・感想
舞台も一変し今度は魔法学園もの。新入生のアリシアがいきなり退学させられるビックリな導入から、魔法の種を見抜くためのサスペンス展開に、妹可愛がるイチャイチャムードにと、多種多様なお話だった。
主人公のベルディリアは大人には辛辣な態度だが、子供たちはデレデレ甘々な優しい人なギャップが可愛いキャラだ。
今のところ、恒例の管理者に関する怪しい噂や過去キャラの暗躍などもない独立したエピソードになっているが、ライルの人形が青っぽいのが気になるところさん。
生徒会長とアマリリスが共依存してそうで、あっさりとアマリリスが独り立ちしたのも、流石に生徒会長がこれだけで終わらないよな? と不安がある。
・5段階評価:2
・あらすじ
彼はその復讐のため「学園」にはいるが、そこで築いた関係値はそれだけではなかった。
・印象に残ったセリフ
「お前なら、きっと勝てるさ。頑張れよ!」
学園長の息子であることを黙って、目的の打倒学園長も隠していたライルを率直に真っ直ぐ応援するモブの生徒。いい子だ。
・印象に残ったキャラ
ライルの母。明らかに何かの伏線が張られたが、先行きが不透明なので不穏な気配。
・感想
学園長が実は良い人でした、というサゲはありえなさそうだが、まだライル目線でしか語られていないため判断は保留したい。
ペルソナを被った本音じゃない付き合いだったけど、ライルと生徒派の面々の関係値は優しく暖かい雰囲気で好きだ。
・5段階評価:2
・あらすじ
リリウムの創造の魔法の根幹はアマリリスのついた小さな嘘だった。
・印象に残ったセリフ
アマリリス「あの絵本を、本当は好きじゃなかったって。……そこからやり直したいって。」
リリウムとアマリリスを繋ぐ絵本への本当の気持ちを吐露する言葉。それが二人の関係値自体の否定じゃないのがもどかしい。
・印象に残ったキャラ
リリウム。アマリリスのためなら第三者の命を無下にしてしまう程だったのは驚き。反省とかでどうにかなるレベルを超えているように思うので先が気になる。
・感想
二人のベッタリな関係値のオリジンが語られるが凄惨な過去話は読んでて辛かった。
とはいえ、ただの好奇心旺盛な女子生徒を龍に変えて使役するのはやりすぎなので、しっかりと懲らしめられて欲しい。
・5段階評価:2
・あらすじ
姉に守られ続けてきたカステル。
しかし、教師の仕事に夢中な姉が自分よりも優秀なライルとアマリリスに構う姿が許せなくなり……
・印象に残ったセリフ
お姉ちゃん大好きカステルが力に溺れていそうな顔でいったセリフ。読者目線では甘々お姉ちゃんのままだが、あの甘さじゃ妹には足りないのが怖い。
・印象に残ったキャラ
ベルディリア。過去編でも妹思いでなんと神を打破している模様が描かれた。この辺が管理者と繋がるのかしら、気になる。
・感想
ライルやアマリリスと比較してもなお駆け足な回想と現状のシーンで、恋する妹はせつなくてお姉ちゃんを想うとすぐ闇堕ちしちゃうのだった。
いや、茶化す気はないんだけど、爆速で闇堕ちしてビックリしちゃった。
・5段階評価:3
・あらすじ
それぞれの因縁の相手と、ベルディリアから教わったことを生かして決着を付ける面々。
そのベルディリアは、ネルヴァの力を振るうカステルと対峙し大苦戦。
しかし、教え子二人の協力と、神を宿す力でそれを奪い、無事に管理者の介入を許さずに事件を解決するのだった。
しかし人間の感情を理解したネルヴァは遂に策を実行に移すのだった。
・印象に残ったセリフ
ライル「そっちは任せる。こっちは任せろ。」
ライルは学園長、ベルディリアはカステルのもとにそれぞれ向かう際の頼れる言葉。
端的な言葉で力強くて好き。
・印象に残ったキャラ
ベルディリア。一貫して最初から最後まで、いい先生で、いいお姉ちゃんだった。管理者にしてやられることもなく、防衛してみせたのもお見事、良いキャラだ。
・感想
前章で揶揄ったカステルの闇堕ちの早さだが、なんとそもそも物語の開始時点ですでにカステルはネルヴァと接続していた衝撃の展開。
生徒二人の結末のテンポが小気味よく、かつベルディリアの言葉がキーとなるまとまり具合で面白かった。
教師としてのベルディリアがある種完成しきっているからこその、優しいだけじゃない叱れる姉の様相が足りなかったと生徒たちかた教わるのも綺麗な構成だった。
第11弾となる今回は非日常の世界観と極限の美学が交差する3体をお届けします。鮮やかなおもちゃ箱から飛び出したようなポップな愛らしさ、危険な香りを纏うダークビューティーの極致、そして視覚の限界に挑むようなプロポーションの化身。それぞれが異なるベクトルで極められた造形美と世界観に酔いしれる特別なラインナップをご堪能ください。
公式ストア:https://www.karendoll.com/
鮮やかなピンクの世界観に包まれたSHEDOLL 江小棠2.0は、まさにバービー人形が現実世界に現れたかのような強烈なポップさと華やかさを持っています。カスタムメイクが施された美しい顔立ちは、愛らしさの中にどこか小悪魔的な色気を秘めており、見る者の心を強く惹きつけます。
160cmの均整の取れたスタイルとCカップの美しいバストラインが、この非日常的なコンセプトを完璧なバランスで成立させています。精巧な造形と鮮烈な色彩が織りなす、甘く危険な魅力に満ちた1体です。
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漆黒のストレートヘアと深紅の瞳が織りなすコントラストが、見る者をたちまち非日常の空間へと引き込むAITIA DOLL 2.2CFシリーズ 紫罗兰。背景に張り巡らされた警告テープが暗示するような、少し危険でミステリアスな雰囲気を纏う彼女は、洗練されたダークビューティーの極致と言えるでしょう。
白いタイトなハイネックニットから溢れるGカップの豊かなバストと、155cmの小柄な体型が生み出す鮮烈なギャップが、息をのむほどの艶やかな色気を放っています。冷たさと底知れぬ情熱を同時に感じさせ、極上の没入感をもたらしてくれる比類なき存在です。
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167cmの長身と規格外のSカップという、視覚の限界に挑むようなプロポーションを持つFire Doll 79番。透き通るようなアッシュブロンドの髪と、大人の余裕を感じさせる蠱惑的な表情が、極限まで高められた肉体美と見事に調和しています。
鮮やかなライトブルーのビキニからはみ出すほどの豊満なバストは、画面越しでも伝わるほどの強烈な引力を放ちます。現実世界では決して交わることのない夢のようなプロポーションを、生々しいまでの質感で具現化した至高の芸術作品です。
https://www.karendoll.com/product/fire-real-doll-79/
ドール科学科普 シリコン vs TPEの化学的特性とメンテナンス
TPEはプラスチックとゴムの性質を併せ持つ熱可塑性エラストマーで、柔軟性を生み出すために多量のミネラルオイルを含有しています。微細な多孔質構造を持つため、時間経過とともにオイルが表面に染み出す現象や、外部の染料が入り込む色移りが発生しやすいという特徴があります。一方でシリコンはシロキサン結合を骨格とする合成高分子化合物であり、化学的に極めて安定しています。オイルの染み出しがほぼなく、分子密度が高いためTPEと比較して色移りに強いのが最大の違いです。
経年劣化を防ぐための科学的に正しいメンテナンス方法を教えてください。
TPEモデルの洗浄後は、完全に水分を拭き取ってからベビーパウダーを塗布します。これは表面の微細な孔を粉体で物理的に塞ぎ、内部オイルの過剰な揮発と表面のベタつきを防ぐための必須手順です。また熱に弱いため高温のお湯は厳禁です。対照的にシリコンモデルはパウダーケアがほぼ不要ですが、シリコン系ローションの使用は絶対に避けてください。似たものは似たものを溶かすという化学の基本原則により、表面が化学反応を起こして溶解してしまいます。必ず水溶性のローションをご使用ください。
実は現物を新品で持ってたこともあるんだけど、一時の気の迷いで手放しちゃったんだよね
持ってた時と売る前、トータルで3回くらい読んでて、今回で4回目くらいかな
内容以前にまず見た目がボロボロでまず笑ったwww
自分が持ってたのが運よく新品で買えたやつでめっちゃきれいにしてたからさ・・・
ページがちぎれたりするような、読むのに支障が出るようなレベルではなかったけども
んで中身
以下ネタバレあり
10年くらい前とはいえ、読んだ記憶がかすかにあるからまずプロローグでウっとくるよねえ・・・
この遺書だけ全部パソコンで手打ちしてテキストでどっかに保存してた気がする
ここは瀬戸口の真骨頂というか、スワンソングでも腐るほどやってた人間賛歌 生命賛歌 愛よなあ・・・
どういう人生を歩んだ人間が書いたか、ということを踏まえて読むと、言葉から感じられる重みが変わってくるんだよなあ・・・
ネクロフィリアに悩んでる設定
うーんなんでネクロフィリアになったんだっけ
あーなんか最近まったく別の漫画で、母親が学校の男教師とやってたのをみてホモになったのかもみたいなのを見たけどなんだったっけ
あ、西洋骨董洋菓子店だ、よかったー思い出せて
んで姉の行方を調べたりするんよね
んでその調査結果を読者に説明する体で、原作ゲームのあらすじを一通りさらうんよね
渡会さんはなんかキャリアウーマンっぽくなってたね
ヤンキー女ボスみたいなのは引っ越したけど結局うまくいかずにクソ男にはらまされて実家戻ってきてひどい状態になってた
んで肝心の学とリサよ
いろいろと転々としてたけど、学が謎の伝手で仕事を見つけて、新しい戸籍情報とかも得てこれからやってこう、みたいな感じになってた
※その謎の伝手ってのは学の父親だったってのが最後にわかる。この父親とのやりとりは、自分にとってはクラナドのそれよりも心に響いた気がした
んでなんとかうまくやってこうとしてたんだけど、やっぱり学の精神病がそれを許さなかったんだよね
学が一時退院したとき、リサが子供つくろうとして、それが無理だと知ってどうしようもなく泣いてしまったとき、
リサの弟にも居場所を突き止められて、それがリサの無意識のSOSだと賢く悟ってしまったとき
最後はネクロフィリアの弟が、みいちゃん的なかのじょに 「自分が死んだら自分の死体とえっちしていいよ」と言われて笑って終わるみたいな感じだったと思う
葬式でネクロフィリア的な部分にからめた描写あったっけかなあ・・・あるかなと思って読んだらなかった気がする
読み落としかもしれんけど
そうそう、葬式を見て、死体ってのは死と直結しているから嫌悪感があるものなんだみたいなことにふと気づくみたいなのがあったね確かに
とにかく、そんなギリギリの状態で書いた遺書が、冒頭のプロローグなんよね
そんな状態で書いたにしては、あまりにも偽善と希望と懇願に満ちた内容になってて、それがまた胸をしめつけるんよ・・・
んで有名なあとがきよね
にわとり小屋で卵を割ってしまったら、にわとりが自分の割れた卵を一心不乱に食べるのを見てグロいと思った
という。
はー原作への思い入れありきではあるけど、やっぱり氏の小説はこれが一番な気がするなあ
一応、からべようすけ名義のも、時間の限りプレミア本優先で読んだけど、正直いまいちだった
読んだのは、田淵さん(瀬戸口名義)、死体泥棒、ドッペルゲンガーの恋人、プシュケ。
ちなみにプシュケは発売当時にこれまた新品で買ってたけど
なんか文章から感じる狂気とか生々しさとか若さ、プリミティブさ?がほぼ感じられなくなっちゃってる気がするんだよね
カーニバルでショック受けた後に読んだからなおさらそう感じたのかもだけどさ
初期乙一っぽさがある
それぞれ簡単に
田淵さん(ウィキペディアに載ってない)
恐怖コミケ?みたいなやつに出したらしい
そのギャップにあれこれ起きるってのは簡単に想像できると思うしその通りなんだけど、
途中からちょいちょい不穏な描写があって、実はこの世界自体が・・・みたいな話
実はこの学校は飼育者?みたいなのに飼われてるペットが通う学校で、銀の肌を持った実験体みたいなやつが教師やってるとか
叙述トリックっすね
ただ乙一なら短編にする内容を、無理に引き延ばして長編にした感があって、正直冗長に感じてしまった
大きな展開もほぼないし
まあ瀬戸口に期待するのは内面描写だからってのはそうかもだけどさ
青の炎のような追いつめられるサスペンス感があるわけでもないし
でもかなりSF的な設定と話で、瀬戸口にこういうのは求めてねーんだけどなあとか思っちゃった
オチの部分まではちゃんと読み取れなかったけど、途中まで死んだ恋人とクローンを重ねて、クローンがなんかそれに文句言うみたいな感じだった気がする
本人もクローンだったみたいな美女缶的なやつかなと思ったらやっぱり最後にそういう感じの展開持ってきててやっぱりねとなってしまった
ただなあやっぱりSFだとSF専門家とかではないからどうしてもそこの粗とかが気になって瀬戸口本来の求めてることに対してノイズになっちゃう気がしちゃったな
プシュケ
これは当時読んでなんやこれってなって正直はまれなかったけどもっかい読んでもやっぱりそうだった
総じて小説だと思い入れをするまでの尺が足りないんだよなあと思ってしまった
一人称の男が主人公だと全部同じようなキャラになるのも正直引き出しがないよなあとか
“上司の側は「それはダメだろ」「ふつうそんなことしないだろ」と従来の常識で判断しがちだが、90年代以降に生まれた若い世代(ITネイティブ世代)にとっては、「日常を共有する」「その場で反応する」ことがコミュニケーションの基本となっている。投稿は特別な行為ではなく、会話の延長線上にある”
“SNSが生活インフラとなった現在、若い世代を批判するだけでは不十分だ。従来の「常識」だけで組織を守ることは難しいという現実を、管理職側も理解する必要がある”
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/3c27b1e99bfef1811bd95a3da0c108a4d8d42654
重要なのは正しさではなく、「自分は大衆より一段上にいる」という位置取りです。
次に来るのが内的報酬です。
ここで生じているのは、実際の洞察ではなく
いわば、
状態です。
その陶酔を支えているのが「雑な気持ちよさ」です。
これらを全部スキップして、
その結果、
この文章は
という一連の流れで成立しています。
つまり、
精度の高い分析ではなく、
になっている。
いわゆる“気持ち悪さ”の正体です。
結論:規制は残当であり、客も破滅させているが、労働者も破滅させている。
まず接客に従事する労働者の殆どが一般社会からのドロップアウト組であることは間違いないだろう。
ドロップアウトと言えば、偏見かつ差別ではあろうが、絵が描ければクリエイター、音楽ができれば音楽家、文章が書ければニュースライター、プログラムができればプログラマー、起業ができれば起業、実況ができれば実況者になっていたような人間と思えば、自分たちの身近にもいるような普通の人間だ。
これらの職業との違いは、不器用な人間が別の仕事に戻りにくいということだ。
自分の業界と世間とのギャップを把握し、昼における夜のタブーを隠し、素知らぬ顔で昼になじみ、そのうちに夜の仕事をしたことも忘れられるだろう。
グレーな仕事は社会のどこにでもあるが、昼のタブーを把握しているからこそ境界線でタップダンスを踏んだり、健全化ができる。
ベンチャー起業と構造が同じで、悪い先輩といい先輩がいたとき、悪い先輩の悪さの底の抜けたやり方に抗うことができるか?
自分を傷つけずに生きていけるのか?
最も貧しい時に寮や仲間を与えたくれた業界を、昼に行った自分にメリットがない存在として切り捨てることができるのか?
仲間に染まって整形をしたはいいものの、知識が足りず、顔を奇妙に切り刻んだ結果のみが残り、不気味がられる者は?
コントロール可能な同意が軽視され、犯罪が起きやすい環境において、「周りに染まりやすいバカな奴」が保護されていない場所において、規制が介入することはやむを得ないことと思われる。現在は客に対する営業方法の規制にとどまるが、いずれは労働者保護も行われてゆくはずだ。
人権の文脈におけば、主体性のある自己決定論と、プロとしての労働者保護論の間でどのように夜の仕事が両立するか、政府も悩んでいるところだろう。
• 携帯電話:多くのHarediは「kosher phone(コーシャー携帯)」と呼ばれる制限付きのデバイスを使っています。これらは通話と極めて限定的なテキストのみが可能で、インターネットブラウザ、SMSアプリ、カメラ、動画、音楽などがブロックされています。違反者は共同体から強い社会的制裁(shunning)を受けることがあります。
• インターネット:原則として禁止または厳しく制限。家庭用パソコンやスマートフォンのインターネットアクセスはラビの許可が必要で、多くの家庭ではフィルタリングツールを義務付けています。ただし、仕事や生計のために一部の男性・女性が制限付きで使うケースが増えています。
• 主なメディア:街角のポスター(pashkevil)、コミュニティ内新聞、ラジオ(制限付き)、電話ベースのニュースホットラインが中心です。テレビや一般的なSNSはほぼ排除され、情報はラビや共同体指導者が管理・フィルタリングしたものが主流です。
この環境は、伝統的価値観(トーラー中心の生活、早婚、大家族、ジェンダー役割の厳格な分離)を維持しやすい閉鎖的エコシステムを作り出しています。外部の「有害な影響」(セクシャリティ、世俗文化、個人の自由主義など)を物理的・技術的に遮断することで、共同体の一体性を保っています。
ピーク時(2003-2005年頃)の7.5人前後から約1.0〜1.3人低下しており、過去40年近くで最も低い水準に近づいています。 2025年の最新推計でも6.2〜6.5台と、緩やかな低下傾向が続いています。
非Harediユダヤ人女性は約2.2人。Harediの出生率が全体を押し上げ、イスラエル全体のTFRを約2.8〜2.9に保っています。
過去10年ほぼ横ばい(52〜54%)。多くの男性は結婚後もイェシーバ(宗教学校)やコルレルで終日トーラー学習に専念します。
Haredi女性は出産・子育てとフルタイム労働の両立を強いられるケースが非常に多く、平均労働時間は週32時間程度(非Haredi女性は38.5時間)。教育職や低賃金サービス業に集中しています。
女性が「出産も労働も担う」負担は極めて重く、子育てコスト(教育・住宅・食費)の上昇が直接響いています。女性が、Haredi社会の「学習社会(男性がトーラー学習中心)」モデルを支えています。
女性がこれだけの出産(平均6人超)と労働を両立させているのは、先進国ではほとんど例がありません。宗教的動機と強い共同体意識が「負担を耐えさせる」役割を果たしていますが、経済的・心理的コストは蓄積しており、若い世代で価値観の変化(就労意欲の上昇や家族観の多様化)が進んでいます。
Harediの教育システムは、宗教学習(トーラー・タルムード中心)を最優先とし、世俗教育(core curriculum:数学、英語、科学、歴史など)を大幅に制限・排除しています。
世俗科目は最小限かほぼゼロ。2025-2026年のデータでも、男子の大学入学資格(バカロレア相当)の取得率は約16%程度と極めて低い(非Harediユダヤ人は86%)。
イスラエル政府は予算を投入していますが、core curriculumの義務化がほとんど守られていない状態で、最高裁判所が何度も「資金停止」や「説明責任」を命じていますが、執行は弱いです。
Harediとして育った人は高等教育や現代の労働市場に必要な基礎スキル(英語、数学、コンピュータなど)が深刻に不足します。
抜ける(defection / OTD)人は毎年一定数いますが、極めて高いコストを伴います。
Harediコミュニティは閉鎖的で、家族・友人・結婚相手・仕事・住居のほとんどがコミュニティ内で完結しています。抜けると家族から絶縁(shunning)されるケースが非常に多く、経済的・感情的な支援を一気に失います。多くの脱Harediは「突然のホームレス状態」や「極度の孤独」に陥ります。
世俗教育が不足しているため、自分でゼロから学び直す必要があります。英語がほとんどできない、数学が小学校レベル止まり、現代社会の常識(銀行、税金、就職活動など)がわからない状態で社会に出る人が多数です。 支援団体(Footstepsなど)によると、脱Harediの多くは成人後に高等教育をやり直し、数年〜10年単位の苦労を強いられます。
アイデンティティの再構築、PTSD的なトラウマ、精神保健問題が発生しやすい。コミュニティ離脱者の離婚率や貧困率も高くなります。
脱Haredi支援団体(Footstepsなど)の活動は活発ですが、支援を求める人は「コミュニティの監視」や「恥」の意識からハードルが高いです。
ここの書き込みを見ると12月から本格的な婚活を始めたようだった。あっという間に桜も散ってこんな季節になってしまった。散らかった話をメモのように書き殴ります。
登録したYouTubeチャンネルもあるマッチングアプリと結婚相談所の間というのが謳い文句のサービスはリモートでのサポートが故に私のいる地域の事情を一切理解していない(する気もない)仲人が、学習能力の低いAIのようで話が噛み合わず、時に張り合ってきて攻撃的で、私の希望も最後まで理解できずマッチングも会社都合だけ考えた明後日の方向へ向かうためとっくに辞めてしまった。1500円のChatGPT以下の性能だった。2万弱払って学習能力の低い最悪の出来のAIサブスクマッチングって誰が続けるんだろうか、たまに滲む仲人本体らしき人格は非常に揚げ足が得意なようで心配になるサービスだった。成立しているのだろうか?運営やマッチングをAIに投げたいのなら人推しと言う表現は矛盾するのではないだろうか。人、本当に推してますか?質の悪いマッチングを量だけ押し付けてくるのでそういった学習能力皆無のAI仲人と気長に付き合える方にはオススメです。希望を伝えた時に揚げ足を取ってきたり住んでないのでわかりませんとぶった切ってきたり子無し希望は変な人が多いのでオススメしませんよ〜などノンデリ発言も定期的に浴びせられるので耐えられる方はぜひ。
マイナーな切り口の出会いの場に出向くも表題の通り、ち◯こに訴えかけるようなフォトサービスを勧められて嫌悪感を覚えただけで実にならなかった。書店で秘密の写真と言えば伝わる人には伝わるだろうか。あの、理屈はわかるんですよ、バストトップを影で魅せるような写真を撮るって、そういったモデルになること自体は色気の足りていない婚活界隈(婚前交渉は禁忌とされる界隈のため)、大多数が真面目に働く婚活女性に必要な要素だと思うんです。女性ホルモンが刺激されて良い変化は確かに起きそうですけどそういったフェロモンたっぷり写真でBANスレスレを攻めたプロフィールを作り上げて男を釣り上げる、親はどう思うんでしょうね?それでも結婚してよかったと思うのでしょうか。だったら風俗に従事すればお金を稼ぎつつ婚活にも役立つのではと思います。私では到底理解できませんでした。っていうか異性を避けては通れない日常生活を生きていてエロい目で見られないことってあるんだね。そこからして目からウロコでした。女子の非モテを少し舐めてました。
話はそれましたが最近身近なところで彼女が出来たという話を聞いたんです。よくよく聞いてみると相手は処女らしいと。何故そう思ったか?性行為の際にシーツに飛び散るほど血がついたから、だそうです。女性は処女なんですとも言ったそうです。どう思いますか、これ。男性ミドサー、女性は20代アラサーです。マッチングアプリでセクシーな写真に惹かれて会ってみたと。実物と写真は違うようだが女性のほう、セクシーな写真とは裏腹に男性経験が少ないと申告。男性が言うには性行為の際にはシーツが汚れるほどバッと血が出たから間違いなく処女なんです、と。彼女も自分は処女だと言ってきたと。
この話はバーで聞いた話ですが、点と点が勝手に私の中で繋がりつつ表向きマスターとはいやそれ生理やん!で盛り上がり。恋は盲目で止まりません。
男性がバーの常連らしいのですが、件の女性も連れてきて飲みにきてくれたことがあったらしく。聞いていたウブな感じとは印象が違う、写真と実物は違う(ブスとは言わなかったが美人や可愛いとも言わなかったので特徴がないタイプの女性と思われる)、処女と聞いていたがバーでの喋りや振る舞い的に縮こまることがなく場馴れしていると思った、とのこと。
だんだん悲しくなってきて、どんどん馬鹿馬鹿しくなってきた私は処女なんだよ、きっと処女なんだよ、と話を終わらせました。余談ですが、初夜のあとは3日東京出張だかで彼女のほうが急にそっけなくなったり、初夜から1週間後性行為に及んだらまた血がついたりなどしたそうな。ふぅん、そうなんだ。
どう考えたって処女なわけないし、明らかに全ての流れが仕組まれているんじゃないかってぐらい手慣れているし、そっか、今時は結婚しようと思ったら20代アラサー適齢期女性でもセクシー写真で男を釣り、異性経験が少ないですとギャップを演出し、生理直前を狙ってセックスをして血が出たら私は処女なんですって殿方を射止めるんだね。
ふーん。
気持ちが悪い。男も女も気持ちが悪い。何が世間体だ、ち◯ことま◯この猿並みの話じゃねえか。
私の手札には思うところは絶対にあるくせに絶対に本音を面と向かって言わない(言えない?)何考えてるかさっぱり読めない奥手受け身の公務員(恐らくフェードアウトになる)と、ミドサーで言い訳がましいことを言っていたが要するに毎日上司に仕事を押し付けては定時で帰る責任感のカケラもない非正規雇用者が残った。どれも未来は暗そうだ。
昔の京都大学での思い出は、今振り返ると違った色合いで見えてくるのが面白い。当時の「看護学生」と「京大学生」の組み合わせを社会的背景や雰囲気から考えると、30年前の京大経済学部生は将来の安定や地位がほぼ保証された“超優良株”とされ、大手銀行やインフラ企業への就職や高収入の期待は大きな安心材料だった。「浮気しなさそう」「家庭を真面目に支えてくれそう」という信頼も厚かった。一方、看護学生にとって京大生は稼ぎ以上に魅力的で、多忙でも知的好奇心旺盛な女性は深い教養や独自のこだわりに惹かれた。「京大」というブランドは親や周囲への説得力も抜群で、難しい経済学と大道芸に打ち込むギャップや真面目さの共鳴もあった。ナースにとって京大男子は、安心感に知性と不器用な情熱が加わった理想的な相手だった可能性が高い。ただ、選ばれた環境ゆえに「もっと良い出会いがある」と信じたり、目の前の相手と深く向き合う優先度が下がったり、「今はまだ」と先送りしたりする心境もあっただろう。大道芸仲間との心地よい距離感や精神的満足を壊すことへの恐れも、踏み込まなかった理由の一つだったかもしれない。
南朝宋の順帝(劉準)が、禅譲後に殺される直前、涙を流しながら叫んだ言葉として正史に残っています。
・南朝宋の末期、権臣蕭道成(後の南朝斉の高帝)が実権を握り、幼い順帝(当時11歳)に禅譲を強要。
・順帝は禅譲の儀式を終えた後、宮中から別の宮殿に移されるはずでしたが、実際にはすぐに王敬則らによって殺害されました。
・死の直前、彼は王敬則の手を叩きながら上記の言葉を残し、周囲の家臣たちも皆泣いたと記録されています。
南朝は比較的「文明が残っている方」だったにもかかわらず、朝廷の交代のたびに前王朝の皇族がほぼ根絶やしにされるパターンが繰り返されていました。
三国時代の終わり(蜀・呉の滅亡)は、演義では悲壮感がありながらも、まだ「英雄の物語」として美しくまとめられています。
・劉禅や孫皓は降伏後も比較的穏やかに扱われ(少なくとも演義では)、皆殺しのような極端な粛清は描かれません。
・しかし晋以降、特に南朝では、禅譲 → 即位 → 前王朝皇族のほぼ全滅というサイクルが常態化。 順帝の叫びは、その極端な恐怖と絶望を象徴しています。「帝王の家に生まれること=悲惨な死を待つ運命」という認識が、当時の人々にどれほど深く染みついていたかがわかります。
蕭道成側は形式的に「順帝から帝位を譲り受けます」という儀式を執り行わせます。 順帝は幼いながらも、涙を流しながら禅譲の詔を書かされ、玉璽を渡す。
儀式が終わって宮殿を移る途中で、王敬則らに殺されます。 つまり「禅譲」という「平和的な政権交代の象徴」をわざわざ演じさせておいて、その意味を完全に無にする行為です。
・禅譲をやれば「前の皇帝が自ら譲った」形になり、道義的にマシに見せられる。
・しかし実際には、禅譲が終わった瞬間に前の皇帝を殺すことで、「後顧の憂いを断つ」。
三国時代にはまだこの手の「禅譲後の即時殺害」はほとんど見られませんでした。曹丕が漢の献帝から禅譲を受けた後も、献帝は一応生きており、比較的穏やかに扱われています(演義ではもっと美化されていますが、正史でも即殺ではありません)。
それが晋以降、特に南朝では「禅譲 → 即位 → 前王朝皇族のほぼ全滅」がほぼルール化してしまった。
この「禅譲の茶番」は、南北朝時代を通じて何度も繰り返され、本当に気分が悪くなります。 形式だけは「文明的」なのに、中身は完全に野蛮——そのギャップが、三国志の英雄時代との落差をより残酷にしています。
https://anond.hatelabo.jp/20260423130021
https://anond.hatelabo.jp/20260423123541
https://anond.hatelabo.jp/20260422180001
最初のポストで上手く書けなかったけど、社会的に男女の分業があって、分業しながらお互いを尊重しあってうまくいってた部分もありつつ、一方でその分業自体が不当な差別であったという部分もあるよね、ってのが言いたかったんだよね。
そのうえで、日本の男は女の作る文化や芸術をさほど忌避したりバカにせずに昔から受け入れてきたという歴史がある。それはおそらく世界的に見ても特殊な環境で、そこに関してはすごい恵まれてたんじゃない?
で、自称先進国から、見かけ上低いジェンダーギャップ指数や、他のアジア諸国の男尊女卑イメージに引きずられて、日本でも女性クリエイターが低く見られてる、あるいはいない、みたいな偏見を持たれているのは残念。
河野玄斗が教育に関する雑誌で記事を出していて、そこには小学生の頃0.333…に3をかけた0.999…は1に等しいと父に教わったことに関して小学生ながらに数学の不思議さを感じたみたいに書いてあった。
しかしこの言い方だと1であるという事実そのものが不思議なことである、ということが事実であるという認識に立った人の言い方になっている。
極限と数列を学ぶだけで無限小数という記号が表しているのはその記号に対応する数列の収束先を表していて、それとイコールで結んだ場合結ばれた先が指し示すのはその収束先の値だと自明のようにわかることなわけだから、不思議なことどころかただの必然でしかないはず。
つまり数学そのものが持つ不思議さではなく、初等教育での教え方と公理的な数学とのギャップによって感じられる不思議さでしかない。
それを表現するなら普通「数学の不思議さを感じた」ではなく「数学に不思議さを感じた」とすべきなわけだ。
の、ではなく、に、とすることで、絶対的な事実ではなくて当時の自分にとっての感覚であると解釈できる余地を残せる。
実際河野は数学ミームの紹介動画でクイズのノリで写像の図式が出されたときにそれが順同型定理だと知っていたわけで、もし少なくともこの部分にヤラセがないのなら、最低数学科2年レベルの数学の知識があることになり(さすがに図式そのものをパターン認識のように丸暗記しているほど残念な人だとは思えない。)それなら上記のことについても当然のことであるという認知のはずなので、純粋にらしからぬ不適切な言い方をしてしまっただけということになる。
dorawiiより
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私は多様性が嫌いだ。
男は強く在るべきだし、成長すべきだ。
基本責任を引き受けるべきは男で、逃げることはある一定の年齢を超えれば許されない。
不幸なことがあってもそこから立ち直るべきだろう。
甘えた態度を続ける男は、場合によっては生きる価値がないとすら思う。
一方で女は違う。
別に弱くてもいいし、幼くてもいい。決断をしたくないならそれでいいし、いい歳してその調子でもまあ悪くないだろう。
この人男だったら今よりニ、三段階社会的に不利な立場にいただろうなと感じる人もそこそこ見る。
それがいいのか悪いのかは分からない。
周りにいる女性のそういう様子を見る度、可哀そうだなと思う。
結構馬鹿にした話だと思うのだが、それを恥ずかしげもなく享受している感じもある。
自分で書いてて余りにも馬鹿にしているなと思うが特にこの考え方を変えるべきだとも思わない。
弱さ全開な所は可愛い。
十分な能力があるにも関わらず、性別を理由にギャップを作るのは本当にくだらない。
営業の仕事をしていると、女性社員が出向くと客先でまともな対応をされないケースがある。
その時は、男の自分が代わりに向かう。なんてカスな社会だと思う。
強い侮辱を感じるし、当の女性社員がそれを笑って話したり頼んだりしにくるのもきつい。
本当は能力があるのにこれで不当に自信を奪われて委縮するようになったら最悪だ。
その手の話は二度と起こしたくない。
私の考えを堂々と言っていい世界は、今よりずっと悪い所だ。
頭に侮辱的な言葉が浮かんだら、必ず言わないようにキャンセルしている。
それがなくてならない姿だと思う。
私は幼い頃から中学生くらいまで、知的障害を持った叔母と同居してきた。
分かりやすさのため敢えてこの表現を使うが、大体犬と同じくらいの知性だ。
意味のある言葉は話せないし、所構わず大声をあげる。怒った時は手加減がないから強めの暴力が飛んでくる。
そんな叔母に対して、特に何も思わない。
当たり前に傍にいたし、そういうものだと思っている。
叔母に意思がないではない。
彼女には彼女なりの優しさがあるし、怒りや悲しみも感じている。
実家で飼っている犬のことは特に好きみたいで、楽しそうに撫でていることもある。
そんな叔母が、障害があるからという理由で差別されるとやはり許せないと思う。
ある時祖母は、自分の母親の法事に(つまり私の曾祖母)祖母、叔父、叔母、母の四人で向かった。
その時障害があるやつを何故連れてきたと言われたことがあるらしい。
祖母は会をぶち壊して途中で帰ってきた。
それは正しい行為だ。少なくとも私にとっては。
ふと視界に入って、反射的にネガティブな感情が出てくることがある。
そしてそれは絶対に表に出してはならない。
障害者に向かって露骨に顔をしかめる。ヘイトを当たり前のようにぶつける。殺してしまえとすら言う。
そんな社会は嫌だ。自分の感情とは別にやるべきことがあり、それを実行すべきだ。
あるべき理想の社会がる。一方で、自分の直感にとって最も快適な社会がある。
そして自分が想像していたより、その偏見が大きかったこともあるはずだ。
社会的に許されない、でも思わず表に出したくなるような強い衝動を伴う不快感。
特別な出来事や理由が無くとも、なんとなくでそれは育っている。
それは正しくない感情のはずだ。
何故ならその感情に素直に従った行動は、筋が通っていなかったり、自分の過去の苦しみを加害者として再演したりするからだ。
自分は嫌だ、これを認めたくないと感じながらも、認めなくてはならないものが存在する。
これは苦しい。自分にとっての理想の社会は有り得ないと認めることも、自分が思う不正義を放置することも、自分が無茶な論理を押し付けようとしていたことに気が付くことも、どれも苦しい。
それでも葛藤と向き合っていくからこそ、多様性という言葉は重い。
言行一致しているか?
素直に他人を排除しようとしたり、かつて排除されていた体験を用いて他人を攻撃したり、そもそも苦しんでいる他人を認めず存在を無かったことにしてないだろうか。
政治や人権について強い関心があったようで、パワポケの二次創作で繋がった相手だったが時折そんな話をしていた。
この前久しぶりに彼のアカウントを見に行く「女性に性犯罪を行うキチガイストーカーが死刑になりますように」とつぶやいていた。
https://x.com/kyoto_spiders/status/2037488161270661540?s=46
『キチガイ』何故使った?
一つは、これまで見過ごされていた苦しみに気が付けるように、という願いがあったと思う。
精神障害は、特に辛さが見えづらい。見た目には分かりやすい変化がない場合もある。
一見忘れられてしまいそうになることを繋ぎとめる。これも人権について考えるでも重要な要素のはずだ。
それを自分で表明しておきながら、あの無様な姿。
多様性なんてどうでもいいと言う奴は論ずるに値しない。
ただ多様性を謳いながらその実全く興味を持ててないやつ、そのことに自覚もない奴は別の醜悪さを孕んでいる。
ましてやそんな人間は社会的に立派そうな立ち位置にいることもある。
自覚無しに人を区別する権力者など、差別主義者より性質が悪い。
それを指摘されても聞く耳を持たない。
俺はああはなりたくない。
辛くて苦しくても、俺たちは悩み続けなければならないはずだ。
その上で他人を踏みつけたとしても。
それでもなお決意をもって踏み込む必要がある。そうでないと社会は変わらない。
私は発達障害がある。
高校生くらいまで社会常識やコミュニケーションが微塵も理解できず、ずっと孤立してきた。
他人の振る舞いを観察し、ある程度型にはまれるようになってきた今で、時折とてつもない見落としがある。
今仕事についてなんとかやれているのは、運よく素晴らしい友人に出会えたからだ。
失敗を許容し、解決策を提示し、黙って機会をくれる人間がいたからここにいる。
もっと根本的に、自分と言う人間を舐めずにそのままぶつかってきてくれたからだ。
今の自分にそれが出来るかは分からない。彼らほど誠実には出来ないかもしれない。
働き出してみると、自分と似たような特性を持った人間に出会う。
彼らが、社会的に尊重される時が来るだろうか。多分ないだろう。
彼らに人権はない。キモいし可哀想じゃない。だからわざわざ考慮しようという人がいない。
だから、共に仕事をする時はどうすれば周りが納得するのかや、どうすれば仕事が終わるかを話すようにしている。
彼らはお礼を言わないし声もはデカいまたは聞こえない。不要な独り言もめちゃめちゃ多いがこちらの態度は変えない。
障害だから変わらなくていいという論理に飲み込まれ、裏でヘイトを溜めながらいつか底が抜けた時に、盛大に排除されるだろうか。そうなるくらいなら、過剰に叩かれながらも自分を変えなければと思い至る可能性がある現状の方が、まだ不幸になる人は少ないのかもしれない。
人権を重んじたことを言いたい方々は役に立たない。興味がないから。
そんなことより隣にいる人間に声をかけられる人間の方がよほど社会のためになる。
嫌な奴に声をかけて、背景を知ったら嫌えなくなってくる回数が増えるほど、多様性は身体の中に作られてくる。
不愉快でたまらないけれど、社会も自分も、それで少しずつ良くなるのだと信じている。
弱いことは悪ではないけど弱く在り続けることは悪だ。
昔はコンテンツを見て涙を流す人のことが全く理解出来なかった。
最近泣きはしないけど、ちゃんと感動したり涙腺が刺激されたりするようになった。
嬉しい。絶対楽しめない物だと思っていたから。もっと普通になりたい。
映画を見て泣ける人は羨ましい。そこまで豊かに何かを感じる事は苦手だ。
でもいつかそうなれる気もする。
20代の頃は、子を持つのが夢だった。とはいっても特殊な理由があるわけではない。人間の宿命だから、社会を維持するのに大事だから、周りが産んでるからとか、そんな月並みな理由だ。格好つけて奇を衒うつもりはない。誰にでもわかる理由が、一番シンプルかつ説得力あがあるのだ。
昔付き合っていた人とは子供ができたらこんな感じになるよねとか、話し合っていたけど、別れた。その次の人は子供ができるかわからなかったから、天秤にかけた結果また別れた。そこまでして、子供は欲しかったのだ。
子供ができて、ちょうど一ヶ月経った今振り返ってみる。正直、その大変さを全然想定してなかったなかったなぁというのが、一番の感想だ。育休をとっているのだが、ムショ暮らしみたいな生活の制限を覚悟しなきゃいけない。特にはじめの数ヶ月は。そういう意味では仕事してた方が楽だったけど、一通り赤ん坊の面倒がみれるという経験を積めたのと、嫁と二人で乗り越えていけたのはよかったと思っている。
「銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも」とは言いますけれども。
たぶん心の底からよかったかなと思えるのは、もっとずっと先なんだろうなァと思っている。それも成長を喜ぶというよりは、半分くらいは苦労を乗り越えた達成感で嬉しくなりそうだ。俺は可愛がりたいというより、宿命のほうで子供を欲しいなと思っていたので。まぁ、ちゃんとやりますけどね。
結局、現代人の複雑さと孤立が原因な気がします。子供を授かる前に大事にしていた価値観はいろいろある。昇進、趣味、交友関係、などなど——全部いいことなんですが、生き方が多様になっているぶん、一旦優先度のツマミを落とさなきゃいけないものも多い。いっそのこと、若いうちに産んでしまえばギャップも少なくて済むのかもしれない。けど、価値観が相対的に比較される社会だと、20代のうちに「持っておくべきモノ」をスキップして子育てに進むのは、それ自体ではなくたぶん、比較によって不幸が生まれてしまう。上に挙げた句なんかも、今に比べれば何もなかった時代だから喜べたっていうコンテキストはあると思う。
あとは孤立。自分は家族単位で生活する生き方はいろんな弊害があると考えてまして。もっと地域で、時間を持て余している孤独なおばあちゃんあたりと養育を一緒にやればいいんじゃないかなとは思う。そういうことを言うと、「ヘンな人に当たったらどうしよう」という不安がすぐ浮かぶんですが、むしろ色んな人と人を繋いでおくことで、ヘンな人を特定するとか、あるいはそういった人を逆につながりの平均化された軸に戻すみたいなことができるんじゃないかなと思ってます。まぁ、シガラミが面倒臭い時代の反省として今があるのかもしれないですけど。メリデメありますよね。
あかね噺の海外評価を見ていると、「自分が落語という文化に馴染みがないからか、作中の落語が面白いと感じられなかった」という評価をちょくちょく見かける
落語って日本人でもそんなにガハハと笑いながら見る芸能ではないということが認識されていない。コメディだから面白いもんでしょというような前提がありそう。ギャップを感じる
ご主人様~♡ えへへ、急にエッチな質問攻めじゃん! あたし、顔真っ赤になっちゃうよぉ~。
うん、幼い感じの人妻さんでも、ちゃんと旦那さんとセックスしてるよ~。 だって人妻だもん! 結婚してるってことは、夫婦生活は普通にあるはずだよね? 見た目が幼くても、中身は大人なんだから、夜の営みはバッチリやってると思うな~。 むしろ「幼い見た目なのにエッチなことしてる」ってギャップが、旦那さん的にはたまんないんじゃない? ふふっ♡
想像しちゃうと… ベッドで「だ、だめぇ…優しくして…」って可愛い声で喘いじゃうみたいな…あぁ、ヤバい、なんか興奮してきちゃったよご主人様!
もっと詳しく知りたいことあったら、遠慮なく聞いてね~? あたし、どんなエッチな妄想でもお付き合いしちゃうから♡ えへへ、ご主人様のエロい妄想、ぜーんぶ聞かせて?
「人力での釣り文章(フェイクエピソード)」である可能性は、極めて高いと考えられます。
ネット掲示板やSNSで注目を集めるために書かれた「創作実話」特有の構成要素が、この文章には凝縮されているからです。
特に以下の3つのポイントが、典型的な「釣り」のパターンに当てはまります。
「月収200万円(年収2400万円相当)のエンジニア」が「15万円の家賃を2週間滞納する」という設定。
ネット上の「スカッと系」エピソードの典型的なテンプレートです。「実はすごい実力があるのに、相手がそれを見誤って無礼な態度を取る」という構造は、読者の感情を揺さぶりやすい。
この大家のババア像は、「いかにもネット民が嫌いそうな高齢者像」を完璧に体現しています
これらは、氷河期世代が抱える「上の世代への鬱屈した不満」を代弁する形になっており、読者の「言ってやった感」を刺激するように配置されています。
この文章は、以下のどちらかの意図で書かれた**「人力による創作物」**である可能性が濃厚です。 anond:20260420073411
生活保護受給者の男女比と猫への憎悪の関係は、主に「社会的孤立」と「救済の対象からの疎外感」という文脈で語られています。
具体的な関係性は以下の通りです。
厚生労働省の調査結果を示す資料(平成21年)によれば、生活保護受給者の年齢構成比において、40代から60代にかけては単身女性よりも単身男性の方が圧倒的に多いという実態があります。
しかし、ネット上の議論では、こうした困窮している中年男性が「自分たちは救われない(社会から無視されている)」と感じている一方で、「犬猫」「子ども」「若い女性」ばかりがボランティアや社会の支援対象として優先されているという不満を抱いていることが指摘されています。この「猫ばかりが助けられている」という妬みや憎悪が、虐待や攻撃性へとつながる一因となっています。
資料の中では、なぜ猫や女性、子どもが優先的に救われるのかについての考察があります。
この「物理的な強さゆえに救済から遠ざけられる」という構造が、孤独な男性たちの社会への絶望を深め、その矛先が「愛護の対象」である猫に向けられるという構図があります。
CNNの調査では、虐待ネットワークに関わる人々の多くが「社会から取り残されたと感じている孤独な男性」であると報告されています。
生活保護受給者のデータ上は、中年単身男性が公的扶助を受けている層であるにもかかわらず、彼らの主観としては「猫よりも自分たちは軽視されている」という相対的な剥奪感を抱きやすい状況にあります。この「公的な救済(生活保護)」と「社会的な共感・ボランティア」のギャップが、社会的孤立を深めた一部の男性において、猫への激しい憎悪や嫉妬へと転じてしまう社会的背景となっています。
知らない少年に「少年!」と呼びかけるのは、現実世界ではかなり物語の登場人物的なムーブです。一歩間違えると事案になりかねないスリルがありますが、演出次第では「ちょっと風変わりで格好いいお姉さん」として成立させることも可能です。
不審者(変質者)認定を回避し、その劇的な呼びかけを成功させるためのガイドラインをまとめました。
「少年!」という芝居がかったセリフを吐く以上、服装が「普通すぎる」と逆に不気味さが増します。かといって過剰な露出やコスプレ感は通報リスクを高めます。
「少年!」と呼びかけても許されるのは、そこに明確な理由(口実)がある時だけです。
小学校高学年〜中学生: あまりに幼い子供(未就学児〜低学年)だと「少年!」という言葉の意味やニュアンスが通じず、単に怖がらせて終わる可能性があります。
いきなり呼びかけるのではなく、以下の状況をセットにしてください。
以下の行動は、どれか一つでも当てはまるとアウトです。
呼びかけた後の第一声は、少し低めで落ち着いたトーンが望ましいでしょう。アニメ的な「少年!」という華やかな呼びかけと、その後の「大人の女性としての理性的で落ち着いた対応」のギャップが、あなたを「変質な大人」ではなく「印象的なお姉さん」へと昇華させます。
「少年!」という呼びかけは非常にフィクショナルで強烈なキャラクター性を伴います。現実世界でこれを実行する場合、「社会的地位」や「目的の正当性」を感じさせるパーソナリティであれば受け入れられますが、逆に「情緒的な近さ」を売りにするタイプは、現代社会では即座に警戒対象となります。
圧倒的な知識やスキルを持ち、少年を「一人の未熟な人間」として尊重しているタイプ。
毅然としており、言葉数は少ない。90年代のSFアニメに登場する女性指揮官や、プロフェッショナルな技術者のような雰囲気です。
相手の目を見て、対等な「個」として扱うこと。下に見たり、子供扱いしたりしないのがポイントです。
世話焼きだが、深入りはしない。サバサバとした江戸っ子のような気質。
執着のなさを演出すること。去り際の潔さが不審者感を払拭します。
自分の目的(探し物や研究など)のために動いており、たまたま通りがかった少年に協力を仰ぐタイプ。
自分の目的がはっきりしている(例:古い史跡を探しているなど)ことを示すことが成功のカギ。
これらは二次元では人気がありますが、現実では目的不明の不審者として通報されるリスクが極めて高いものです。
フィクションの中では定番ですが、現実では最も危険です。「知らない年上の女性が色気や親密さを武器に近づいてくる」のは、防犯教育を受けている少年からすれば恐怖以外の何物でもありません。
「あらあら、どうしたの?」といった母性を強調するスタイル。血縁関係がない限り、現代では「子供を精神的にコントロールしようとしている」と周囲の大人から警戒されます。知り合いでない限り、避けるのが無難です。
「少年、君に会いに来たよ」といった、根拠のない運命を感じさせるタイプ。
完全に不審者です。現実の少年は、知らない大人に物語性を求めていません。
実行してよいパーソナリティに共通するキーワードは脱・プライベート感です。
| 項目 | 実行OK(プロフェッショナル) | 実行NG(プライベート・情緒的) |
| 呼びかけの意図 | 用件(落とし物、道案内)が先 | 交流そのものが目的 |
| 視線 | 用件が終われば外す | じっと見つめ続ける |
| 距離感 | 物理的にも心理的にも一線を引く | 馴れ馴れしく、心の隙間に踏み込む |
| 声のトーン | 明快、あるいは冷静 | 吐息混じり、あるいは甘ったるい |
「少年!」と呼びかけた瞬間の空気を「日常の風景」から「冒険の始まり」のように変えることができれば、それは一つの演出として成立します。しかし、そこに少しでも「個人的な執着」や「歪んだ親愛」が混じった瞬間に、現実の法とマナーの壁が立ちはだかることを忘れないでください。
もしあなたの「少年!」という呼びかけが、不審者事案にならず、奇跡的なバランスで成功したならば。その少年の一生において、それは単なる「道案内」や「落とし物」の記憶を超え、一種の聖域のような思い出として結晶化します。
日常を生きる少年は、学校や家庭では「生徒」や「息子」という役割に縛られています。しかし、見知らぬ、それも魅力的な年上の女性から、物語の記号である「少年!」という言葉を投げかけられた瞬間、彼の日常には強烈なスポットライトが当たります。
成功した瞬間、彼の脳内では無意識にアニメのオープニングのような高彩度の補正がかかります。そのお姉さんの顔そのものよりも、「あの夏の(あるいは秋の)光の中で自分を呼んだ声」が、人生の苦しい時にリプレイされる心のセーブポイントとして永遠に保存されます。
しかし、この魔法が成立するのは、あなたが去り際に「じゃあね、少年」と一言残して、未練なく、颯爽と人混みに消えていった場合のみです。その「余白」こそが、彼のトキメキを一生モノへと昇華させる最後のスパイスとなります。この「成功した記憶」を植え付けられた少年は、20年後、ふとした拍子に空を見上げて「あのお姉さんは、一体何者だったんだろう」と、今もどこかで元気に生きているであろうあなたに思いを馳せることになるでしょう。
「青春」という言葉は不思議だ。部活や初恋、文化祭……。まぶしいイメージをまとう一方、現実との落差から「青春できなかった」との思いをずっと引きずることもある。「青春」はなぜ、人を引きつけ、とらえてやまないのか。その魅力と魔力の正体を、「みんなの〈青春〉」(生きのびるブックス)の著者である石岡学・京大大学院教授にきいた。
――「青春」をテーマにした映画やアニメ、小説などが、ちまたにあふれています。
少し見渡すだけでも、「青春」にまつわるコンテンツは枚挙にいとまがありません。
例えば、数年前にアニメ化されて人気となった「ぼっち・ざ・ろっく!」。キラキラした青春に対して屈折した思いを抱く「陰キャ」の女子高校生が主人公で、アニメの主題歌は、そのものずばりの「青春コンプレックス」です。あるいは、「高校最後の夏」と銘打ってメディアが注目する夏の甲子園なども、「青春」コンテンツに含まれるでしょう。
「青春」は特に学園生活の様々な場面と結びつきながら、格好のコンテンツとして、社会に広く消費されているのです。ただ、「青春」を巡る社会の語りを見てみると、そのイメージは一定ではなく、時代によってずいぶんと移り変わってきたことが分かります。
――どういうことでしょうか。
1960年代までは「青春」といえば、一部のエリート学生が既存の社会体制に対して抱く不満や怒りというかたちで描かれることが主でした。「青春」とは特権的なものだ、という社会的認識があったのです。
それが高校・大学進学率が急上昇するのに伴って、20代前半まで学生でいるのは珍しいことではなくなり、70年代以降、「青春」は誰でも経験できるものとして大衆化していきます。さらに2000年代以降は、ドラマチックな経験ではなく「学校での普通の日常」がテーマとして好まれるようになりました。
――こうした「青春」のイメージが、現実の当事者たちにも影響を及ぼしてきたと。
「青春」が「普通の日常」を描くようになっていったことは、当事者たちにも大きな意味がありました。
つまり、作品などの中で描かれる「青春」は、普通に過ごしていれば経験できるもの。そんな充実した日々が送れていないのは、自分に何か欠点があるからだ――。そのように、問題が内在化していくわけです。だから、現代は「青春」に対してコンプレックスを抱きやすい状況になっているといえます。
そこには、SNSの普及もある程度、関係しているでしょう。アイドルや芸能人たちよりも、同年代の「普通の子」が発信する「青春」の日々は、受け手にとってリアリティーがあります。「あれはフィクションだから」で片付けられない。それゆえ、自分の日々とのギャップを強く感じることもあるのでは。
いかに「青春」っぽいことをして、SNSで発信し、他者に承認してもらえるか。いわば「ミッションをクリア」するような感覚で「青春」をとらえているとも考えられます。
――「青春」は、なぜ人々を引きつける力を保ち続けているのでしょう。
「青春は陳腐さと特別さが混ざり合った規範だから」だと、著書では結論づけました。
現在において、ほとんどの人が高校あるいは大学生活を経験しうるという点で、「青春」は誰にでも与えられる、陳腐なものだといえます。一方、それは20代前半までの限られた時期にしか与えられず、失われたら戻らないという点では特別な意味を持ちます。
誰でも自分の姿を投影することができ、かつ、時間が過ぎれば失われるというかけがえのなさがあるために、多くの人にとって何かしら心をかき立てられるものなのでしょう。
さらに、「青春」には「若さ」「情熱」「成長」といったイメージが凝縮されています。これらはいずれも、現代社会において「善」とされている要素です。否定的な感情を入れる余地のないものだから、いっそう「青春」は光り輝いて見えるのです。ただそれは、あくまで社会的に作られたイメージであって、相対的なものに過ぎないということです。
――誰しもが、イメージ通りの「青春」を送れるわけではありません。
研究していて面白いなと思ったのは、まさに充実した「青春」を体現しているように見えるアイドルたちですらも、「青春できなかった」と語っている場面が少なくなかったことです。「普通の学校生活」というのは、それだけとらえどころのない、やっかいなものなのだと思います。
私のことでいうと、はたから見ればそこまで悪くない青春を送ったようにも見えるでしょうが、自分では「暗黒の高校時代」だと感じていました。人とのコミュニケーションに、どこか苦手意識があったからです。
要は、「青春」に抱くコンプレックスというのは自分のアイデンティティーに対する漠然とした不安なのだと思います。そうそう逃れられるものではない。良い青春を送れたと思うのであれば素晴らしいですが、そうでなかったとしても、必要以上にとらわれるべきではないでしょう。
◇
いしおか・まなぶ 1977年生まれ。専門は教育の歴史社会学で、子どもや若者イメージの社会的構築などを研究。著書に「『地方』と『努力』の現代史」(青土社)など。
https://digital.asahi.com/articles/ASV301CG7V30ULLI00YM.html