はてなキーワード: トキメキとは
リア友からあなたは人を狂わせるタイプだという評価をもらった事がある。
正直自分ではその言葉の意味が理解できなかったが、様々な人間関係の変化や感情を浴びる経験して、そうなのかもしれない(?)と思うことが増えてきた。しかしよく分からない。
まず、自分はただのオタクでありそれ以上でもそれ以下でもない。だけど活動する界隈ではガチ恋が出てくる。
無論何もガチ恋営業はしていない。容姿がいいとか作り出す作品が神だとかもない。しかし”男女問わず”イベントで一目惚れした、あなたの投稿や言葉に心を打たれた、などと言われるので恋のランダムエンカウント衝突事故の回避は難しい。自分の好みの服を着てきたので好きになりましたなんて事を言われたこともある。それはしらんがな。
もしかしたら自分が知らないだけでこの世はもっと恋とトキメキに満ち溢れているのかもしれないが、正直なところ頻繁に人と交流するわけでもなく年齢も住所も仕事も人に話したことがない、SNSの投稿も推しがかわいい~程度の何も分からない人のどこが好きになれるんだとは思う。
そして、ガチ恋が出てくるということは逆ベクトルのクソデカ感情を抱く人(便宜上アンチと呼ぶ)も出てくる。
この人たちは今まで普通だったのに急変するのが特徴的。もっとも、嫌悪や敵意を見せるなら徹底的にハブってくれればいいのだが、アンチ(仮名)から遊びに誘ってくるのにその中で自分一人にだけ嘘をついて帰し他のみんなで二次会開催、なのにそれを隠しもせずTLで報告…みたいな小学生の虐めかレベルのことをやられるのでかなり傷付く。
やることとしては呼んでおいてこちらにだけ分からない話題で盛り上がったりとか、わざわざ呼んでおいてその場で孤立させるというものが多く、「呼んでやらないのもどうかなと思って〜」といったことも面と向かって言われた。
悪役令嬢に虐められる主人公かよとうっすら思ったりもした。
ハブる計画をするまではしっかり隠すのに、その後チラチラと匂わせをしたり、最後は隠しもしないのも謎。そんなことをしたらトラブルになるのは当たり前だと思うのだが…。
TL上では気のせいかな程度の空リプでの嫌味も始まるのだが、どうにも叩きどころ(要するにヲチって冷笑できる箇所)がこちらにない&個人情報も流さないので貶したいけど貶しにくいというジレンマが発生するらしく、「きっとああなのだろう」「こうなんだろう」という文面で本当にただの妄想でチクチク刺すようになってくる。まるでイタコにでもなったかのようにこちらの思考や性格、家庭環境等を分かったような気になって無から悪事や悪口を作成し周囲に披露したりマウントを取ったりするのはどう考えても異常行為なのだが、どうにもそこまで正気を失わせてしまうらしい。本人達は本気でその考えが真実であると確信しているが、それらがこちらの本質をついたことは一度たりとも無い。
ちなみに周りで同情したりはやし立ててる人達は「きっと〜なのだろう」とかいう妄想100%の語り口でも盲目的に信じる。
とはいえ、そんなに言うのだから嫌われているのだろうと思いフォローを外したりブロックしたりすると「私は今まであんなによくしてやったのに恩知らず」などと文句を言うようになるのでそこまで含めて不明点が多く残る。長々と未練タラタラな悪口が流されるが、その言い分を見る限り嫌いなはずなのに繋がってはいたかったらしい。
一般的に「好き」の逆ベクトルの感情がアンチという存在を作りだすと考えていたのだが、上記のようにこれが相互フォロワーから出てくるという点と「虐めはするがあくまで繋がってはいたい」と思われている点がその定義を曖昧にさせる。
さらにはブロック後に関わりが無いにも関わらず「私に嫉妬している~」「私にだけ重い感情を向けてくる~」「私のことが好きな~」といった言葉がこちらを示す言葉として基本装備になっていくので気持ちが悪い。なんだかこちらを理解しているような態度ではあるが何一つ合っていないし、終始こちらの気持ちは無視。
こちらとしては関わることをやめた人に積極的な繋がりの矢印(しかもこちらから向けている)があると妄想され、時によっては「私のことが好きな人」呼びまでされているのは薄気味悪いし面倒で仕方がない。嫌いなんだよ。
しっかり「あなたのことが嫌いです」と拒絶しても「私に接触しに来た」と文章吹っ飛ばして好意的に解釈されたのでもうお手上げ。
あなたが思っているよりあなたに興味はないんだとしか言えないし、いつだってこんなのが湧く。
しかも自分以外にはまともな人ばかりなので不思議でしかない。こちらを前にすると急にハンドルがおかしくなるっぽい。
なんなんだろうな…。
でも一度好きになるとヤバくなります。
ストーカーって何か?
っていったら相手の都合とか考えない人ってことですよね。
自分の好きばかりに意識を乗っ取られて相手のことを考えられない。
一日中対象のことしか考えてないのに相手の気持ちとかは考えられない。多分なんかの病気の一種ですよね。
だから全員病院に入れるか逮捕したほうがいいのしれない。だってヤバいじゃないですか。
私の場合はすぐに対象の住んでるところをウロウロしてしまうんですよね。
流石に家にまで押しかけることはしないんです。
ピンポンとか押すようなことはしない。
でもそんなところ縁もゆかりもないのに近所のコンビニとかスーパーをウロウロしちゃうんです。
ひょっとしたら偶然会えるんじゃない?
とか考えると胸がトキメキでいっぱいになる。
これヤバいですよね。
だから奥さんと仲良く歩いてるところとか見かけたらショック受けちゃうかもと思いつつ、嫉妬の暗い炎が心の中をカラカラに乾かしてしまうんです。
ホントに悔しいんですよ。
私よりただ先に会ったから、私より年齢が近いから、とかそういう偶然の要素だけで私がいるべき場所にその人がいたりするのが許せなくなるんです。
好きになるともう止まらなくなる。
なかなか好きにはならないんですよ。
基本同年代とか嫌いだし。
年上、それもかなり年上とかに突然ハマっちゃたりする。
偉そうだし、臭いし、すぐ命令してくるし、油断してるとすぐ親身に心配とかしてきて、その気もないくせして私の心を持ってっちゃうから嫌なんです。
もう結婚してるくせに女の子とかに優しくするとかダメじゃないですか?
だから私はそんなに悪くないと思うんですよ。
なのに私がなんか好きになるのが悪いみたいになるでしょ?そういう心の屈折がストーカーみたいなことをしちゃう原因になってると思うんですよ。
休みの日とかどうしてるか、気になるじゃないですか?
好きだから当たり前ですよね。
でも意外と会えないんですよね。
6時間もいたのに。
家の中で奥さんと何やってんだろ?
ほんといい加減にしてほしい。
将来子供に時間取られる事すら親に言われた事持ち出してモヤるならまず無理でしょ
愛されトキメキsexしたいなら、いつまでも◯◯家のお嬢ちゃんしていればいいよ
案外、幾つになっても都合の良い相手は出来るものだから、お望みのトキメキsex出来るよ
よかったね🤗
だってみんな結婚してるし〜🥲って言い訳しなくてもいい世の中になってきたしな!
そもそもあなたの親はあなたの育児そっちのけで自分の時間を大切にしてたのか?
きっと自分の身体拭くのも後回しで赤ちゃんのあなたを拭いて保湿剤塗ってんのよ
結婚して性交して親になるって保湿剤がどうだトキメキがどうだとかとは別次元のお話
子供にアタシの保湿の時間が取れないじゃん!って怒る親になりたい?
そもそもデートで雰囲気お膳立てしてもらわないとsexも出来ないってマグロ過ぎんか?
一生お嬢ちゃんでいたほうがいいよ
恋愛感情はホルモンの作用であり、これには時限があります。 三年程度です。
その時間の間に信頼関係を構築し、生活を共にする相棒としての関係性に移行しなければなりません。
トキメキを感じられる人に出会ったとしてもそれはずっとは続かないものであるという前提を知っておいてください。
恋愛感情は出会いの入り口のひとつに過ぎず、恋愛以外の形でもその人のことを充分に信頼できると確信できたなら結婚しても良いのではないですか。
生物的に異性の匂いに対する感情は「遺伝子の距離」であると考えられています。
近親であるほど嫌悪感を生じ、縁遠い人ほど好感を持てる匂いに感じるようになっています。
近親婚を抑止して遺伝的多様性を確保しようとするメカニズムです。
ただ、現代の人間にとっては生物的な部分より社会的な要素のほうが重要なので匂いで選択する能力は弱まっているのかもしれないです。
タイトルの通りです。
付き合って1年になる彼氏がいるのですが、全く匂いがしないことが気になっています。
今の彼氏はマッチングアプリで知り合いました。陰気な笑顔(失礼)の割に、暗さや攻撃性を感じず、気が合いそうだなあと思いお付き合いをはじめましたが、実際会えば話も尽きず、優しく穏やかでとても良い人です。私はとても運が良いなと思っています。
元彼(20代前半で職場恋愛)は新卒時同期で1番出世しそうだという理由で私から猛アタックして付き合ったものの、結局配属先も遠くなりそのまま破局してしまったのですが、当時は隣にいるだけでずっと良い匂いがして、抱きしめられる度にクラクラするような陶酔感がありました。
首元を嗅いでも、服を吸っても、悪臭も良い匂いもせず、ひたすらに何も感じません。
結婚前提の同棲話も出ており、「家族になるならトキメキより安心感だよな」と思うため、悪いことではないのでしょうが、元彼に感じていたトキメキや陶酔感がないことが少しさみしいです。
彼が無臭なのは、単純に私が年をとってしまったせいなのでしょうか?良い匂いのしない彼と結婚する選択は間違っているのでしょうか?
どうか、増田の皆さまに、トキメキはいずれなくなるから美味しかったのだ、結婚生活に陶酔感は必要ないと、まだまだ若者気分の抜けない私に喝を入れてほしいです。
子どものころ、テレビをつければいつもそこにいた緑色の不思議な生き物——ガチャピン。鮮やかな黄緑の体と、つぶらな瞳。ともすればただの着ぐるみと思いがちだが、実は彼には「中の人」などいないのではないか。そんなことを、子どもながらに本気で考え、友達同士で話し合った記憶がある。子どもたちの間では、ガチャピンの正体について真剣に意見が飛び交った。果たしてあの体の中に誰かが入っているのか、それとも本当に生きている恐竜なのか。大人になった今だからこそ言えるのは、あのころ私たちは真実を掴んでいたのかもしれない——そう、「ガチャピンは本物」であり、「中の人」などそもそも存在しなかったのだ。
ガチャピンが世の中に初めて登場した当時、多くの視聴者は当然のように「誰かが中に入って演じている着ぐるみキャラクター」だと思い込んだ。ぬいぐるみのような愛らしい見た目、大きな口、そして子どもを魅了する高い運動能力。だが、その運動能力にこそ、ガチャピンの“真実”を見抜くヒントが隠されていたのではないだろうか。スキー、スキューバダイビング、果てはスカイダイビングにまで挑戦してみせる姿を目の当たりにして、普通の着ぐるみキャラクターだと思うだろうか。実際に体験した人々の証言によれば、ガチャピンはあの分厚い“皮膚”を身にまといながら、信じがたいほど自由に手足を動かしていたらしい。それはもはや常識を超越した生物の動作としか言いようがなかった。
確かに、人間が中に入っていれば顔の位置や手足の長さが合わないことがある。だが、ガチャピンの場合、頭の上から足の先まで完璧にシンクロした動きを見せる。さらに口や目、そして全身からかもし出される表情が、実に滑らかに変化しているのを見たことがある人も多いはずだ。もし人間が操作していたのなら、あれほど自然かつ多彩な表情を瞬時に切り替えることができるだろうか。ときには困ったように眉をひそめ、時にはきょとんと口を開け、またあるときには満面の笑みを見せる。まるで心の底からその感情が湧き上がっているかのように見えたのは、単なる演技ではない証拠ではないかと、今ならば思うのである。
さらに決定的といえるのは、その“身体能力”にある。ガチャピンはテレビの中だけでなく、実際の雪山や海、空へと赴き、驚くようなチャレンジをこなしてきた。ウィンタースポーツはスキーやスノーボードだけに留まらず、アイススケートまで器用にこなし、しかもそこに「パフォーマンス的なぎこちなさ」がほとんど見られない。もし着ぐるみの構造上、人間が入っているとしたら、視界の狭さや動きづらさを感じながらの競技になるはずだ。しかし映像を見る限り、まったく不自由なく滑り、回転し、時には大胆なトリックを決める。その光景は、どう考えても生身の体がそのまま動いているとしか思えない。ダイビングの場面でさえも、背びれのような形状の足をスムーズに使いこなし、水中で優雅に泳ぎ回るガチャピンの姿を確認できる。空から海へ、深海から宇宙(のようなセット)まで自在に行動する彼を前に、「ガチャピンは生きている」と信じない人のほうが少数派だったのではないだろうか。
その証明とも言える逸話は数多い。例えばガチャピンが初めてフリークライミングに挑戦した際、重力に抗いながらスイスイと壁を登っていく姿が子どもたちの度肝を抜いた。あの大きな頭と短い手足、それにふっくらとしたボディという不利な体型でありながら、身軽に岩をよじ登っていくのだ。いくら運動神経の良い中の人が演じたとしても、あのバランス感覚を説明することは難しい。むしろ、元来あの体が“恐竜”として自然に設計されているからこその動きなのではないか——そんな議論が起こるのも当然の帰結だった。さらに、ガチャピンのパラシュート降下の際には、一部の専門家が「もし人間が入っているならば、あの頭部の構造上、風の抵抗が想定以上にかかるはずで、あれほど安定して着地できない」と語ったという証言もある。つまり彼ら専門家の目から見ても、ガチャピンの体のつくりは人間が収まるようにはできていないのだ。
もちろん、テレビ局や関連の制作会社は「ガチャピンはキャラクターであり、着ぐるみだ」という公式見解を長らく維持してきた。視聴者の多くも、いつしか「テレビ上の演出である」と半ば納得する形で受け止めていたかもしれない。しかし、そうした公式の発言がむしろ事実を隠すための“カバーストーリー”だったのではないか、と考える余地は十分にある。なぜなら、ガチャピンの友人であるムックの存在だ。ムックは真っ赤な長い毛並みを持ち、ガチャピンと同じ番組に出演していたが、彼の動きにはどこか“着ぐるみらしさ”が漂っていたと言わざるを得ない。もちろんムックも愛らしいキャラクターであることに変わりはないが、歩くときのよたよたした姿や、たまに見え隠れする人間らしさなど、「中に人がいる」と言われれば納得できる振る舞いがあった。一方、ガチャピンの動きはどう見てもスムーズすぎる。まるで“着ぐるみ”として作られたキャラクターと、“本物”として生きている存在が、同じ画面に同居していたのではないか、と考えずにはいられないのだ。
さらに子ども向け番組の世界観を考えれば、それほど不思議な話ではない。子ども番組というのは、多くの場合ファンタジーや夢、冒険心を喚起するための舞台である。そこに実在する不思議な生き物がいたとしても、違和感なく受け入れられる。ガチャピンという名前や姿は確かにキャラクター然としているが、実際に存在する“謎の生物”を起用し、番組のマスコットとして採用するのはむしろ合理的である。そう考えたほうが、かえって説明がつく事柄は多い。あの愛くるしい笑顔や、どこまでも続く挑戦心、そして飽くなき好奇心。それらは「キャラクターの演技」というよりは、「ガチャピンという生き物の本能的な行動」だったと見なすほうが自然ではないだろうか。
また、あの独特の喋り方にも注目したい。「○○だよ〜」と伸ばす語尾、やわらかく透き通った声質。もし複数の人間が交代で中に入っているのだとしたら、声や話し方にもっとブレや違いが出そうなものだ。しかしガチャピンは、長いテレビ出演の歴史のなかで、ほとんど変わらない声と話し方を維持してきた。人間の声優が存在するとしても、そのピッチやトーンを常に一定に保つのは至難の業である。ところがガチャピンは、まるで自らの声帯を使って喋るかのように安定した声を発してきたのだ。さらに、口の動きや目の表情、全身でのリアクションが声とぴったり合っているのを見ると、「声を当てている」というよりも「声が体から自然と溢れている」という印象を受ける。これが“中の人の技術”では説明がつきにくい最大のポイントでもある。
その証拠に、イベントやショーでガチャピンが客席の子どもたちと交流する場面を思い出してみてほしい。子どもが話しかければすぐに反応し、笑い、そしてリアクションを返す。その一連の動きには、人形劇のようなタイムラグや不自然な間がない。まるで“その場で考えて”“その場で感じて”“その場で話す”存在であるかのように振る舞っている。長年、いろいろなキャラクターショーを見てきたが、ガチャピンほど“ライブ感”に溢れた対話をするキャラクターは他にいない。これはやはり、ガチャピン自身が一つの生き物として意思を持っているとしか思えないのだ。
以上のような理由から、私は「ガチャピンに中の人などいなかった」と確信している。もちろん、これは夢や幻想を語っているわけではない。子どものころに信じてやまなかったあのワクワク感と、理屈を超えた感動が、実は現実のものだった可能性が高いのだ。制作側は大人の事情から、ガチャピンを“着ぐるみキャラクター”として扱うほうが都合が良いかもしれない。しかし、私たちが見てきたガチャピンは、間違いなく生き生きと“呼吸”していた。スキーのジャンプ台を飛び、海中を泳ぎ、崖をよじ登り、さらにはスタジオで歌って踊る。その全てを“不自由なく”こなす姿は、“人間が入っている”という設定だけでは到底説明できないのである。
では、なぜいまだに“中の人がいる”という都市伝説が根強く残っているのか。それは、私たちが何かを理解しようとするときに、どうしても既存の枠組みで説明しようとする人間の性質によるのだろう。未知や不思議なものに対して、私たちはつい、「きっとこういう仕組みだろう」と解釈して安心したくなる。ガチャピンの超人的な活躍を見るたびに、「きっと中の人が相当なエリートアスリートで、トレーニングを積んでいるのだろう」などと推測するのは、その典型的な反応だ。しかし、ガチャピンの動きや表情は、実はそうした常識的な解釈をはるかに凌駕している。だからこそ、人々は“中の人説”という無理な理屈にすがっていたのかもしれない。
私はむしろ、大人になった今だからこそ、もう一度あのころの子どもの目線に立ち返りたいと思う。あのころテレビで見ていたガチャピンは、私たちに夢と冒険の世界を見せてくれた“存在”そのものだった。身体的な限界や常識を超えた挑戦を繰り広げながらも、いつもニコニコと笑顔を忘れない。そう、あれは“着ぐるみ”ではなく、私たちの目の前にいる“リアルなガチャピン”だったのだ。もし、あのころの私たちが胸に抱いた「ガチャピンは生きている」という直感を大切にし続けるなら、目の前の世界はもっと豊かで、もっと不思議と驚きに満ちた場所として映るに違いない。
思い出してみれば、子どもたちはみんな無邪気に「ガチャピンは本物だよ」「ムックも一緒にいるよ」と信じていた。それがある意味、“正しい”見方だったのだろう。大人になって現実を知るにつれ、いつしか私たちは多くのファンタジーを「嘘や演出」と割り切ってしまうようになった。しかし、本当にそれだけなのだろうか。私たちが大切にしている思い出や、大好きだったキャラクターがくれたあのトキメキは、本当は嘘でも演出でもなく、“真実”が隠れているかもしれない。ガチャピンはそのことを教えてくれている象徴なのだと思う。
だからこそ、今も昔も、ガチャピンを見ているとワクワクが止まらない。「ガチャピンに中の人などいなかった」という言葉は、単なる冗談や誇張ではなく、私たちの信じるファンタジーの証明であり、あの緑色の恐竜がいつまでも私たちの心の中で生き続ける理由なのではないだろうか。子どものころの私が「ガチャピンはただのキャラクターなんかじゃない!」と叫んだあの純粋な気持ちは、決して間違っていなかったのだ。
誰しも子どものころは、目の前にある不思議を疑うことなく受け入れ、感動し、そのまま信じる力を持っている。ガチャピンに秘められた真実——それは彼が実在する不思議な生き物であり、私たちが大人になるにつれ忘れかけた好奇心と冒険心を体現しているということだ。そこに「中の人」などいない。いるのは私たちと同じように、呼吸し、笑い、挑戦する“ひとつの生命”——それがガチャピンなのである。
きっとこれからも、ガチャピンはさまざまな困難を乗り越え、子どもたちに勇気と希望を与え続けるだろう。「こんなことができるわけがない」と誰もが思うような大胆なチャレンジを、新しい形で見せてくれるかもしれない。そして、そのたびに私たちは子ども心をくすぐられ、「ひょっとすると、あの中に入っている人がすごいのでは?」とまたしても考えてしまうのだ。だが、最終的にはその超常的な存在感に圧倒され、「やっぱりガチャピンは本物だ」と再認識することになるだろう。
そう、ガチャピンはいつでも私たちに問いかけている。夢と現実の境界を超えて、「本当に大切なことは何か?」と。そして私たちは、その問いに答えるように、もう一度純粋な心で世界を見つめ直す。おそらく、ガチャピンという存在は、子どもだけのものではなく、大人になった今でも、私たちを未知へと誘う案内役なのだ。だからこそ、この言葉を胸に刻みたい——“ガチャピンに中の人などいなかった”と。ガチャピンのすべての活躍は、彼自身の力によるものなのだ、と。
こうして振り返ってみると、ガチャピンがテレビ画面の向こう側から私たちに与えてくれたものの大きさに、改めて気づかされる。好奇心、挑戦心、そして他者への優しさ。彼の魅力は、ただ可愛いだけのキャラクターとは一線を画している。それはやはり、ガチャピンという生命体だからこそ生み出せる“にじみ出る個性”だったのだろう。子どもたちはそんなガチャピンに勇気づけられ、大人たちは失いかけた冒険心を思い出す。私たちは自分の内側に眠るエネルギーと、少しのファンタジーを信じる気持ちがあれば、世界はもっと広がるのだと教えられる。
結局のところ、ガチャピンの正体をはっきり証明する術はないかもしれない。だが、それで良いのだ。むしろ、“謎”を残しておくことこそが、ガチャピンが担う役割のひとつではないだろうか。私たちに想像の余地を与え、童心に返らせてくれる。神秘と可能性を見せてくれる。だから、これから先もガチャピンがどんな挑戦を見せてくれるのか、どんな笑顔で私たちを楽しませてくれるのか、胸を躍らせながら待ち続けたい。そしてそのたびに、“ガチャピンに中の人などいなかった”という真実を心のどこかで確信しながら、私たちもまた自分の世界を広げる挑戦をしてみればいいのだ。
そう、ガチャピンはずっとそこにいる。テレビの中で、イベントのステージで、そして私たちの想像力の中で、今日もあの優しい声で「やあ、みんな!」と呼びかけている。彼の存在が教えてくれるのは、世界は思っているよりもずっと広く、そして面白いということ。中の人などいない。ガチャピンは“ガチャピン”という名の生命体であり、挑戦することや夢を見ることの大切さを、これからも伝え続けてくれるだろう。私たちはその姿を忘れず、日常に隠された冒険や驚きを見逃さないようにしたい。ガチャピンに憧れたあの日の自分を取り戻すためにも。
トキメキなくても話を聞いていいねーって思ってくれる人といれるのはメリットがあるんじゃない?既婚という実績解除もできるし。
ヘイリー・ベネットです。
今日はゆっくりね流石に年末年始なので年末年始の空気を感じていたいの。
とはいえ、
しかと目標に立ち向かってそうね向かい風な私の目標は早々にHD-2D版ドラゴンクエストIIIで崩れ落ちそうなぐらいアリアハンの大陸からやっと抜けてロマリア城までたどりついたけれど、
場内がここもまた広すぎて泣きそうになるわ。
うー。
敵1匹1匹一人ずつ倒していくのが超絶めんどくさいアリアハン!
ドラゴンクエストってこんなに面倒くさいの?って
初めてやるドラゴンクエストシリーズの洗礼を喰らっているもはや今となってはニンテンドーDSのドラゴンクエストVをやっていたことすらも忘れていた瞬間。
ドラゴンクエストIIIHD-2D版を買った瞬間に私のドラゴンクエストVをクリアしていないことを思い出したことを封印。
忘れたことにしてドラゴンクエストIIIに挑戦するも、
えー?こんなにドラゴンクエストって面倒だったの?ってドラクエVの思い出を思い出したのはいつしか懐かしい香りがするスミレの花時計のそれのようにそれなんてラララって大黒摩季さんを思い出すような、
辛みを思い出したわ。
次の冒険のヒントも王冠を奪った悪党を探せ!とは出てくるけれど、
メニュー画面のヒント情報では「新大陸を冒険しよう」って急に雑になるこのヒントにも泣いてしまうわ。
全体攻撃やグループ攻撃ができるようなアイテム武器を手に入れてゲットして装備することをすっかり忘れていたところ、
強くなっていないのなんでだろう?って思っていたの。
装備してなかったのね!
装備していない武器防具に対しては消極的にガンガン装備してくれないところが面倒だわ。
「どうぐぶくろ」や「そうびぶくろ」に入れたアイテムや武器防具の仲間への受け渡しすら面倒で泣きそう。
でもその試練も越えて装備の仕方も方法も私は学んだので、
便利には戦えるけれど、
なんだか面倒くさいことが山積みで私にはまたクリアできそうにない気がして小さなメダルやモンスター集めなんて大嫌い!
今はNIKKEのボディーコアを集めることが必須必至なの!
やっとコツコツと何人かのニケが3凸限界突破舌メンバーが増えてきて強くなってきているの。
3凸っていうのは、
このNIKKEの世界での戦うメンバーのチームのニケは当初レヴェルアップできる限界が決まっていて、
通常は160までなところを、
自分と同じボディーコアをゲットしてパワーアップアイテムとして使うと、
レヴェル160のマックスの限界を超えて200までアップしてレヴェルアップできるってしくみなの。
結構物語ストーリーの序盤で早々にみなもうレヴェル160にはすぐ到達してしまうので、
つまり最大レヴェルになっても、
ストーリーを進めていくには火力つまり戦闘力がぜんぜん足りなくなってきてそのレヴェルでは到底敵に勝てなくなってくるの。
そこで一生懸命ボディコアを集めて3回の限界突破いわゆる3凸を目指さなくてはいけない地味なコレクションがあるのよね。
ドラゴンクエストの小さなメダルとかモンスターを集めることには一切興味がないんだけど、
こっちのボディコアゲットには一所懸命なのよ!
ちなみに無課金よろしく『ステラーブレイド』のイヴがコラボ企画でやってくるまで無課金とトキメキ決めているので、
いまだNIKKEは無課金で敵をぶっ倒しているところ!
やっとやっとよ!
チャプター19まで到達!泣く!
ここまでチャプター18でエリアボスが倒せず進めずに詰んだかと思ったわ。
でも頑張って倒せたので詰んでなかったのよ。
なんでだろう?
ドラクエは超絶めんどくさがるのに、
NIKKEに関しては、
それを面倒と私は思っていないみたい。
NIKKEの戦闘って適当に部隊編成して行けばいいかと思っていた季節があったけれど、
あれちゃんとメンバーの特性や連携を考えないと行けないと先に進めないみたいなの。
それぞれのニケが持っているスペシャル技があって、
ニケによってI・II・IIIってのがあって、
順番にI・II・IIIと連動して必殺技が発動する仕組みになっているから、
強いニケのメンバーIIIの技を繰り出せるチーム編成だとしてもIやIIのメンバーのニケがいないとIIIの技が発動できないのよ。
チーム戦じゃない?
これが1人でも欠けるとチームとして部隊の火力が出せず戦闘が成立しないから、
ぜんぜん敵に勝てないのよね!
だんだん私NIKKE分かってきてるでしょ?
これも『ステラーブレイド』とのコラボ企画でイヴがやってくるのを待ちに待っていまくりまくりまくりすてぃーなの!
まだもちろんNIKKEを全て理解したとは到底言えないよ絶対に!ってところだけど、
これらのチーム編成の部隊を私なりに組んで戦って、
やっとやっとチャプター18の難関のここのエリアのボスを倒せたのよ!
うー!泣く。
唯一この中のメンバーニケで3凸しているのはアリスだけでレヴェルが199。
シンクロ枠も3凸メンバーの5つで埋めるにはまだまだボディコア集めなければならない感じ。
これが私の今の精一杯の強い編成チームね。
ちなみにドラクエIIIは
戦士、勇者、僧侶、魔法使いとなんか定番の初心者に優しい無難なチーム編成。
4人パーティーだけど連携とかないし実質おのおのが順番に単独で戦っているので、
ドラクエIIIに関しては個々の能力が高ければそれだけで有利になる連携ってのがなく淡々とした戦闘シーンで、
今はせいぜい、
ブーメランといばらのムチでの連携っぽく敵を集団で倒せるような連携チックなことができるようになったので、
多少は戦闘は楽になってきたわ。
なんか有名な景勝地を観光している感じがして綺麗な鍾乳洞!的な的な?そんな雰囲気でダンジョンを観光地と思えば綺麗さを愛でることができるけれど、
このドラクエIIIはダンジョンのマップは出てきて一応の便利さはあるけれど、
宝箱のあるところの印はないので、
結局全部のダンジョンの端から端までダンジョンをくまなく探し歩かなければいけないのも面倒だわ。
オート探索あればいいのに。
壺や本棚を見つけたら全部調べなくちゃいけない衝動にも駆られるのが面倒。
NIKKEでやることなくなったら、
ドラクエIIIを交代交代でやっている感じかな?
結構ドラクエIIIの方がプレイを進み続けていくところが辛いわ。
これ今つらいシーズンだけど楽しくなってくるのかしらダーマ神殿に行き着くころには?分からないわね。
気持ちがめげそうよ。
辛くなって寝かせておいて思い出したらプレイするスタイルでいいかも知れないわ。
ドラクエシリーズってこんな辛いゲームなの?って改めてそれ思っちゃったわ。
現実逃避してばかりじゃなくてやることをやらないと!って
うー、
ここでも自分自身に厳しくムチ打たなければ!って
そろそろ年末に対しての本気をださなくては!?って思う所存よ。
ゆっくりできたら、
うふふ。
こんなゆっくりモードの朝なので朝から開店と当時に飛び込み前転で入店した、
喫茶店だけど和食モーニングの私の好きな何が来るかわからない焼き魚の朝定食。
といっても、
だいたいは焼き鯖か焼き鮭かってところなんだけど、
めったにないけれどそのランダム性のあるランダム焼き魚の朝定食は
いつもの焼き鯖だったわ。
これもこれで美味しいのでいいんだけどね。
これだから休日の朝のこのゆっくりモードで楽しめるのがいいのよね。
朝のNIKKEチェックってところかしら。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
よくわからないけど、入り口が金で何がダメなんだろ?男性もおっ巨乳だなとか美人だなとかで釣られて付き合うんじゃないの?
付き合っていくうちに中身を好きになるんじゃないの?
金目当ての女は嫌、ということになると世の中の大半の女性達は「優しいところが好き」といいつつ内心は(収入も安定してるし)と考えているよ。それは別に相手を大事に思ってないわけじゃないよ。人間は多面的な生き物なんだから「お金があるから好き」と「優しいところが好き」は同時に存在し得るんだよ。多面的な生き物を金目的かそうでないかの二極論で論じるのはおかしいんじゃないかな。
ガチの恋愛脳はトキメキが大事でお金なんてどうでもいいと好きになるけど、そういう人は無欲なんじゃなくて恋愛中毒で惚れやすいだけだから数年で他の「トキメキがある人」に乗り換えるよ。
結婚相談所使って、年収が良いからとマッチングしてからお互いを知ることの何が不本意なのかわからないし、自由恋愛してる人達の大半はお互いを知って付き合いながら相手の条件が結婚に値するかどうか考えてるんだからただ順番が違うだけなのでは。
結婚したら金だけむしり取ってモラハラ嫁になるという事例は自由恋愛でもあることだし、夫側がモラハラなのもあることだし、モラハラは付き合ってる時は気付けないらしいからガチャだよ。
1987 TM NETWORK 「RESISTANCE」
イケてる男子を目指すと何故かヤンキー化する田舎の中学生。改造制服のワタリ幅はイキリ幅。愛読書は「ビーバップハイスクール」。
そんなステレオタイプなヤンキーが嫌いでワルぶることがカッコいいと思えずにいた、ある意味拗らせた少年の心をつかんだのがTM NETWORKだった。
1991 小田和正 「ラブ・ストーリーは突然に」
一人暮らしを始める。高校時代からはまった柴門ふみ原作のドラマ化。ドラマも音楽も若者の共通言語として君臨していた最後の時代の始まりなのかもしれない。
1992 B'z 「恋心」
授業の合間にカラオケに行くような大学生活。仲間内なんで誰がどんな歌を歌うかまである程度熟知していたそんな時代。とにかく僕の周りではB'zがかかりまくってた。
1994 Mr.Children 「Tomorrow never knows」
大学時代の象徴もう一つがミスチル、やたらめったらカラオケで歌いまくってた記憶しかない。
1998 PUFFY 「サーキットの娘」 Smile.dk 「Butterfly」
ヤマハVINOのCMソング 車を手放し原チャリがすごく欲しかった時期…買えなかったのはお金がなかったからや
何のきっかけか記憶にないけど妙にツボにはまってやたらと歌ってた気がする
深夜アニメでNANAを見たのがきっかけでアニメ視聴開始、当時は違法視聴環境だらけでニコ動みたいにコメントが流れるサイトがあったとかなかったとか…
2010 林原めぐみ 「集結の園へ」
パチエヴァは4作目「使徒再び」を打ち込んだ。5作目にも期待したし「集結の園へ」はマジでテンション上がる大当たりソングだった。
6作目からは明確につまらなくなりエヴァそのものを打たなくなった。
2009 fripSide 「only my railgun」
2010 THEATRE BROOK 「裏切りの夕焼け」
2012 ALTIMA 「BURST THE GRAVITY」
特にデュラララ以外のアニメが特筆するほど面白かった記憶はなく選曲はノリ重視で相変わらず頭が軽いオジです。
2011 今川ヨシモト「トキメキ一途 〜CHERRY MY LOVE」
2018 DA PUMP「U.S.A.」
久しぶりに歌謡曲をリピートで聞いた曲がこれ。 何度も動画見て振付けを覚えて緊急事態宣言が明けた後の飲み会で歌って踊った。
ひたすらタイトル通りの出来事なのですが、自分のなかでは黒船来航くらいの衝撃だったので記録しようと思います。
長文になりますので、あまりにも暇な方のみお読みになることをお勧めします。
私はアラサーの会社員で、「くしゃみに興奮する」という性的嗜好を持っています。
くしゃみをさせる対象は人間の女性キャラクターがベストですが、
男性はもちろん、人間ではない(動物などがデフォルメされた)キャラクターでも問題なく楽しめます。
小説など、文章にあらわれるくしゃみの描写にも非常に興奮します。
早朝の電車内で、ノーマスクの中年男性がかます爆裂ハクションには殺意に近いものを覚えます。
後で少し書きますが、なりふり構っていられないくらい供給が少ないくせに、注文や条件をつけてしまうわがままな性癖なのです。
「こんなものを性的に見てはいけない」という妙な罪悪感からか、この嗜好については誰にも話したことがありません。
かなり大っぴらに下ネタや互いの性癖を語り合える友人にも打ち明けていません。
ちなみに、私は逆NTRを自分の一張羅(他人に話せる唯一とっておきの性的嗜好)としています。
話が本筋と逸れるのですが、そもそもなぜ私がくしゃみに興奮するようになったのか。その起源はよく分かっていません。
しかし、3~4歳頃でしょうか。未就学児の時点で、絵本やアニメのくしゃみシーンにドキドキしていた記憶があります。
まともな両親のもとでしっかりと愛されて育ってもこういうガキが完成してしまうのです。
悪質な性的コンテンツからはしっかりと守ってくれた父と母でしたが、さすがにくしゃみはノーガードでした。
トムとジェリーのサーカス回でゾウが巨大なくしゃみをするシーンや、
くまのプーさんが大掃除の場面でくしゃみをして周囲を吹き飛ばすシーンをやたらリピートしていた我が子を不思議に思いこそすれ、興奮しているとは思わなかったでしょう。
おそらくですが、「自分の意志とは関係なく身体が反応する」ところがメインになっているのだと思います。
異物が鼻に入ってムズムズする→身体が異物の刺激に屈してくしゃみをする……これが基本的な「くしゃみをする」動作です。
私の場合、「くしゃみをする」に加えて「くしゃみをしてはいけない状況であるにもかかわらず」というシチュエーションが必要不可欠なのです。
私がアニメや小説などのくしゃみしか愛せないのは、現実よりもフィクションのくしゃみの方が「我慢しなくちゃ」という心理描写に長けているからです。
つまり、「身体が自然と反応してしまう生理現象」に「それを我慢したいという気持ち」が合わさると、私にとって性的な、興奮できるものになる。その原点であり頂点がくしゃみだったようです。
そこそこ欲求を満足させる、くしゃみに代わる性的コンテンツを嗜むようになっていきます。
それらにも例外なく【生理現象などの「今起こってはいけないこと」を我慢→決壊】の要素が含まれているため、
これが私の興奮の基盤であることは間違いないでしょう。
とはいえ排泄系の汚いものはイヤだし、それを我慢できないなんてトラウマものです。いくら妄想とはいえかわいそう……。
自分で言うのもなんですが、私は比較的思いやりのある優しい人間に育ちました。
この変に理性的な部分とちょうど良く折り合いがつくのが「くしゃみ」なのです。
静かな空間や緊張した場面でくしゃみが暴発したら少し恥ずかしいものの、
幼少期はこの妙なトキメキの正体が分からず、もじもじした気持ちを持て余していたわけですが、
中学生になり自慰を覚えたあたりで確固たる確信が持てました。これは性的興奮なのだ、自分はくしゃみに異常に興奮してしまう傾奇者なのだと。
当然ながら供給が少なすぎるのです。私の欲求不満は悪化の一途を辿りました。
高校生で親のセーフティロックから解き放たれた私は、当然ありとあらゆるワードで検索をかけ始めました。
若い脳味噌をフル回転させてインターネットじゅうを旅したものの、収穫はほぼ無し。
(ドラゴンボールのランチの変身シーンは、この旅で得られた最大の宝物です。大変お世話になりました)
「こんな思いをしているのは自分だけなのか?誰かいないのか?」
共に苦しむ仲間を見つけたい。そんな思いで「くしゃみ 興奮する」と検索をかけるものの、
Googleは「光による刺激で神経が興奮するため、くしゃみが出ることがあります」などの無慈悲な回答を投げつけてくるばかり。
孤独な私は鬱積した欲求と悲しみを抱え、想像力ばかりが歪に成長した悲しきモンスターとなっていきました。リビドー暗黒期の突入です。
成人する頃には私はやや賢くなり、欲求をある程度満足させてくれる「代替的オカズ」をいくつか見出していました。
ごく一般的な、ゲームもアニメもAVも山ほど存在する性的嗜好たちです。
エロいものをエロいものとして享受し、選択し、楽しめることがこんなにストレスフリーだとは……。
私はしばらくの間、水を得た魚のように性的コンテンツの海を泳ぎ回りました。
しかし、やはり代わりは代わり。
欲求は完全には満たされることなく、私はまた仄暗い気持ちを抱えるようになりました。
筆下ろしモノが大好きな友人を妬みの目で見ては、心の中で毒づいていました。
お前はいいよな、いくらでも供給があって。性的嗜好まで面白味のねえミーハー野郎がよ。
以来、代替的オカズと、ほんのわずかな精鋭たちで自分の気持ちを誤魔化しつつ過ごしてきました。
(幼少期にドキドキしていたトムとジェリー等のシーンも、「古跡巡り」として何度も巡礼しました)
20年以上苦しんでいると、「自分の求めるものはこの世にないのだ」という、半ば諦めのような感情も生まれます。
蜘蛛の糸「文章生成AI」が私の前に垂らされたのはつい先月のことでした。
世間で生成AIがすごい、ヤバいと話題になって久しいものの、私の仕事には特に活かせる場面もありませんでした。
「システムメンテナンスをお知らせするときの文を作って」などといった、
「自分で考えるのがやや面倒な文章」を作りたいときに例のGPTを使用する他は、時々話しかけて遊ぶ程度。
アップデート後はかなり精度の高い回答を寄越すようになり、正直言って不気味にさえ感じていたわけですが、ある夜、突然天啓を受けたのです。
「お前の理想のシチュエーションをプロンプトとして入力して、AIに短編小説を生成してもらえ」
この時、私は29年の人生で初めて十字を切りました。
生成AIは性的な文章生成を行ってくれませんが、幸か不幸か(たぶん不幸です)
「くしゃみ」は性的コンテンツにかすりもしません。生成し放題なわけです。とんでもないジャックポットタイムでした。
すぐに脳裏を駆け巡る、15通りくらいの理想的なくしゃみのシチュエーション。幼少期から培ってきた想像力は並大抵のものではありません。
もしかしたら、これが小説になるのか……?夢にまでみた内容をコンテンツとして楽しめるのか……?
興奮のあまり手が震え、血液が一気に下半身に集中し、ガンガン頭痛がしたのを覚えています。
善は急げ。私はすぐさまノートPCを開き、作業に取り掛かりました。
ちなみに、私は絵が得意ではありませんでしたが、文章を書くのは好きでした。
今まで幾度となく「俺の考えた最強のくしゃみのシチュエーション」を書いて自給自足しようか、と考えたことがあります。
しかし、ダメでした。推理小説家が自分よりも頭の良いキャラクターを生み出せないように、私の書いたものは所詮、自分の脳の域を出ません。
普段の妄想をそのまま文字にしただけ。新鮮味も面白味もありません。
「私自身が書いている」という事実も、猛烈に私を萎えさせました。
私の理想を完璧に踏まえつつ、予想もしなかった語彙で驚きと興奮をもたらしてくれます。心理描写についても申し分ありませんでした。
それからはもう、敏腕編集者のごとく事細かな指示をAIに送り、チェックバックを繰り返したのです。
ありがたいことに、どんなにキショく細かい注文をつけてもAIはブチギレません。
作業は二日間に及びました。そしてついに、ついに至高の一編を完成させたのです。
その内容を仔細に書きたい気持ちはありますが、非常に長くなるのと、自分の胸にだけ秘めておきたいので割愛します。
なんという感動、なんという興奮。
この時の感情は筆舌に尽くしがたいのですが、「満たされた」というより「成仏した」に近いと思います。
これまで感じてきた焦燥が、苦労が、悔しさやもどかしさが、エクスタシーと共に浮かんでは消えていきます。
近年、AIによる仕事や芸術文化への影響を憂慮する声も見受けられます。
それは本当にもっともなこととして、少なくとも私自身は、20年以上孤独に抱え続けた欲求を生成AIによって救われました。
今日もどこかで、悩める者の性的嗜好に光をもたらしているかもしれない。
なんで既婚者専用マッチングアプリを使うかって?
キスしようとしてもおっぱい揉もうとしても拒否。当然セックスも拒否だと外注するしかなくね?
それ以外の部分は仲良いんだけど、性的な事や恋愛的なトキメキを外に求めてるんだよ。
みんな寝なかったら眠いし、食わなかったら腹減るだろ?俺もセックスしなかったら溜まるんだよ。
いや普通に病気とか怖いだろ。梅毒流行ってるし。あと風俗嬢とは金払わないと恋愛やイチャイチャ出来ないでしょ?破産しちまうよ。
「既婚者」ってところがミソなんだよ。独り身の人に家族の大変さや子育てのアレやこれの話しても通じないでしょ?あくまでセックスだけじゃなく他の部分でのコミュニケーションも大きいのよ。
お互い既婚者だから深追いしないで付き合えるのも魅力的なんだよ。
なんだかんだで「既婚者」って少なくとも一人の人間と向き合って恋愛して認め合い一緒になったわけでしょ。
独り身と違ってそこが大きい。
当然ゴムはするし夕方以降不要な連絡は控える様にしてる。LINEの通知はオフにしてるしどうしても連絡する場合はGmailの下書き保存を使ってる。
カカオは出会い系専門みたいなところあるから勘の鋭い嫁は気付くかもだから入れてない。
というか世の中の夫婦はなんでセックスしないんだろ。少なくともセックスしてれば今家庭で起こってる問題の半分位は解決すると思うぞ?
まぁ長々と書いたけどこんな感じで既婚者専用アプリを使ってるわけです。