はてなキーワード: フルタイムとは
吐き出させてほしいのよ。
夫婦子一人。嫁さんとは仲がいい。一緒にご飯を食べ、三交代で休みがあった日は二人で出掛ける。
お互いそれなりに年を取り、友達付き合いは以前に比べかなり減った。でも、二人で過ごす時間が充実してるし、なんなら友達付き合いの方が煩わしいとさえ思うようになった。
嫁さんがフルタイムの仕事を始めた。子供も大きくなり、時間を持て余すのもアレということで。
話だけ聞くに、やばそうな会社ではあるが、社長の人柄と数少ない良心をもったベテランのおかげでなんとかなってるイメージ。
そんな会社での勤務がなんだかんだで3年目を終えようとしている。
嫁さんの勤務先はこの飲み会のほか、様々な社内イベントが行われているらしい。
ただ、小さい会社なもんで、年齢層も高ければ参加者も減少傾向。
なので企画の度に声をかけられていたそうだが、すべて不参加を決め込んでいた。
しかし今回はなぜか、はてどうする、となったようで、私としては好きにしたらいいじゃん、行くんなら送り迎えするよ~ってスタンス。
結局参加したのがつい先日。
嫁さんを会場に車で送り、いったん帰宅。子供のご飯作ろうとすると、バーキンで食ったとのこと。いいですね。その後迎えに行く。
終了の予定の時間を聞いていたが出てこない。
そりゃそうだ、飲みが時間通りに終わって、時間通りに出てくるなんてありえない。という事でアイコス吸いながら待つ。
予定時刻から1時間弱、にぎやかな声が聞こえてきて、わらわらと人が出てくる。
さっぱり分からんがこの人たちが社員?、と遠目に眺めていると嫁さんも出てきた。
はいお疲れでした、じゃあ帰りましょか。と様子を見ていると嫁さんは方々に笑顔で挨拶。
おっさん連中の肩をたたき、頭を下げて回る。
この辺まではまだ何も思わなかった気がする。
嫁さん車に乗り込み一路帰宅。
車内で会話をぽつぽつ。酒くせえ。というかいろんな匂いが混ざってくせえ。そりゃ飲みだから当たり前なんだけど。
家に着く。会話は常時と比較し1割5分程度。
何故か?
何故なんでしょう?なんなんでしょうこの感情?記憶を反芻する。何が気に食わない?何かが気に食わない。
嫁さんがおじさまと触れ合っていたところを目にしたから?おじさまから(性的な意味ではなく)かわいがられている姿を見たから?
でも考えてみろ。自分が飲みに行った時、おねえちゃんと接触してないか?接触しまくってます。
おじさんへの嫉妬なわけない。嫁さんが200%浮気をするわけもない。私も浮気をしないように努力、というかすでにそんな気力はないし、絶対ばれる自信がある。
じゃあこの感情は何なんですか?
自分が理解していると勝手に思っていた人の知らない部分を見たとき、こんな感情になるんでしょうか。
器の小さいおっさんは救いようがないですか。
今日もごみ出しをして、切れてたパンを買って帰ってきて、こういう日常の流れってこのままでいいのか?ってまた考えてしまった。
夫婦の役割分担は、別に完全に半々じゃなくてもいいと思ってる。
収入や体力、得手不得手、育った環境や生活リズムが違うのは当たり前だし。
ただ、ある程度はバランスが取れててもいいんじゃないかって思う。
時間に余裕があるほうや収入が少ないほうが家事を多めにやるのは自然だと思ってる。
家賃や光熱費は収入比率で割り、通信費や新聞、食費は自分が全部負担。
だから朝のごみ出し、ルンバや洗濯乾燥機のごみ取り、排水ネット掃除はほぼ自分。
換気扇や空気清浄機のフィルター掃除、床拭き、水回りの掃除もだいたい自分が先に気づく。
トイレ掃除も夫がやることはあるけど、自分のほうが頻度は多い。
改善のために「夜のうちにごみ出してくれない?」って提案したこともある。
たまにやってくれるけど習慣にはならない。タスク表を作って分担しようとしたら同意はしてくれたけど、実行はしない。
結局こっちが日程を決めて貼り出すところまでやらないと動かない気がする。
一度、あまりにモヤモヤが消えなくて、カウンセリングにも行った。
そこで言われたのは「まずは相手の立場で話を聞くことから始めてみては」ということ。
どういう考えでそうしているのかを、そのまま聞くのが大事らしい。
でも正直、それをやったとして本当に状況が変わるのかはわからない。
こっちはそれなりにやってるつもりだし、提案もしてきた。
それって家庭内でマネージャー役やるみたいなもんじゃないのか?って思うことがある。
時々、いっそ家事やめたほうがいいのか、そもそも自分が「こまめにやるべき」って勝手に決めつけてるだけなのか、そこまで考えることもある。
地方都市出身の私は夫が所有してる不動産が神奈川にあるため、住みたくもない神奈川県に引っ越した。
結婚するために私は仕事を失い、周辺には仕事が少なく都内までの通勤時間が片道1時間のため、近所でフルタイムパートとして働いている。
夫は毎日朝6時に家を出て、夜の9時に帰宅するので家事をほとんどしてくれない。
収入差があるけども、少しは家事をしてほしいが労働時間が長いため強く言うことができない。生活費は私も4割ほどは負担しているから養ってもらっているわけではない。
ほとんどの家事を担っている私は平日は疲れ果てており、たまに週末に都内に出て遊ぶが、都内まで片道1時間という距離が辛い。
せめて武蔵小杉や町田に家があればいいのに、と夫に愚痴ると「あそこは場所が悪いから」「川崎なんて住むべきじゃないよ」と言われる。
私は今住んでる場所があまり好きじゃない。まだ川崎や町田の方が安心する。今住んでる街はなんだか気取っていてオシャレぶっていて自分が浮いてるような気がしてもやもやする。
離婚したいと伝えても、「これからの生活はどうするの?」「生活できないよね。ここより良い生活できないでしょ?」と詰められる。
毎日みなとみらいの夜景を見れる価値の高い場所に住んでいて、明日食べるものに困ることはない。必要なものは買い与えてくれる。ただ、なんだか虚しい。
まず共産主義は言いすぎで、「ポスト資本主義」が妥当かもしれない。
前提として、マルクスは高度に発達した資本主義は共産主義に転化すると問いたわけだが、AI技術革新によりその傾向が強まる可能性みたいなものは、理論上は考えられる。
まず日本って、もともと共産主義っぽいというか社会主義っぽいというか、そういう素地がちょっとある。
人材不足が深刻で、自動化の圧力がめちゃ強いし、工場のFAとかロボット技術は世界的に見ても厚い。
社会保障も「バリバリの自由競争!」って感じじゃなくて、中程度の再分配がすでに組み込まれてる。
鉄道・電力・通信みたいなインフラは半公共みたいな企業が多いから、生産手段の「半社会化」も実はやりやすい構造。
まず、AIが企業の中にガンガン入って、単純労働や事務仕事が真っ先に消えていく。
正社員は残るけど、非正規がまとめてしんどくなる。企業の利益は出るけど賃金は上がらず、格差は広がる。
このへんで「AI税」「ロボット税」「BIどうする?」みたいな議論が出るけど、一気に改革は無理で、リスキリングとか失業給付の強化くらいが関の山。
次に、AIがホワイトカラーにも本気で食い込み、働きたくても職がない層が固定化してくる。
AIや企業の超利益に対して「もうちょっと分けろよ」という空気が高まり、特別課税や最低所得保障が広がる。
このあたりから「労働で稼ぐ社会」から、「AIと資本の成果をみんなで分ける社会」へ、じりじりシフト。
さらに、AIそのものが電気・水道みたいな公共インフラになっていく。
巨大モデルを民間だけで維持するのが非効率になり、国や自治体が「国民AIクラウド」を持つようになる。
生活の基礎はほとんど低負担か無料に近づいて、労働は「生きるため」じゃなく「やりたいからする」に変わっていく。
マルクス的に言うと「労働が苦役じゃなく自己実現になる」方向。
既得権にすごく気を使うし、変化はちょっとずつしか進めない文化だし、世代間対立を露骨に表に出さない。(ちょっとその辺は現在進行形で変わっているかもしれないが。)
だからダイナミックなBIとかAI課税は、基本めちゃ抵抗される。
たぶん実際に進む順番は「行政効率化 → 高齢者ケア支援 → 年金防衛 → 若者にも最低所得保障つけるね」みたいな、「高齢者の安心」を前面に出した形。
インフラやAIは半公共、生活の基本はほぼ無料、みんなが国民AI基金の受益者で、フルタイム労働は今より少ない。
でも看板上は「資本主義+民主制+福祉国家」のまま、という中身だけ変わった社会になりそう。
逆に、悪い方向に振れると、AIの実権を巨大企業と官僚が独占して超格差社会に突入し、アルゴリズム管理がキツい「テクノ封建制」になる可能性もある。
分岐点は、
このへん。
「なぜ働くと本が読めなくなるのか」2024年最も話題となった書籍の一つ。友人と話していると、同書は非常に危険な本だと話になる。新書だからテキトーに読んでいる気付かないのだが、マトモに読むと「半身で働く」という主張に至る過程に論理の飛躍があるからだ。
加えて、三宅の書籍にモヤモヤするのは、彼女の著作の問題というより、出版業界全体が抱える“退行の空気”が透けて見える。本来、批評とは対象を切り離し、構造を浮かび上がらせる作業のはず。「斜陽産業」の出版業界は、読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げ、「本にしなくてもいい内容」を巧みな営業戦略で売りまくる世界になってしまった。
論理や構造より、“共感”や“エモさ”。そうした市場環境の中で、『なぜ働くと本が読めなくなるのか』のようなお気持ちエッセイが主流になるのは必然だ。
問題は、その本が社会構造の分析をしているように見せかけながら、突然「本が読めないのは社会が悪い」という感情論にジャンプする点だ。書籍の大部分を占める読書と社会人の近代史パート(9章くらいまで?)
はどう読んでも「半身で働く」の根拠になり得ない。提言だとしても、提言をするだけの根拠が前文には書いていない。。こうなると、構造を論じているようでいて、じつは個人の感情の物語に回収されているだけで、「社会がない」と批判されるタイプの語りに近い。
さらに「半身で働く」という提案は、階級的な前提をあまりに無視している。映画「花束みたいな恋をした」を引用して田舎出身の労働者・麦くんが本を読めなくなっていく過程を記述しているが、はっきり言って世の中の麦くん化している社会人に失礼だ。
現実に半身で働けるのは、富裕層家庭出身者、ホワイト企業勤務者、配偶者の扶養に入れる人(その多くは事実上女性だ)など、ごく一部に限られる。つまり映画「花恋」でいうところのヒロイン絹ちゃんだけだ(親が大企業、都会に実家、定職につかなくても生きていける、好きなことだけして生きていきたい)。
一般的な労働者が週5日・フルタイムの構造から抜けるのはほぼ不可能で、そんな生き方が“みんなが選べる選択肢”かのように語られると、不公平と言わざる得ない。
その社会構造自体がおかしいと主張したいのであれば、大部分の都市サービスを享受すべきではない。インフラを維持する人々の労働あってこそ、「半身で働く」ことは可能になるからだ。
そうした現実に目を向けず、都市部の特権だけが享受可能な理想論を大衆に説く。ここにはグロテスクとしか言いようのない欠陥構造がある。
また、三宅が語る「批評の文体をひらく」も、実際には論理の緩和=読者への迎合になってしまっている。例えば、同じ言葉を生業にするジャーナリズムでは誤りは許されない。5W1Hや誰が何を言ったかを間違えて報道すれば即座に批判が殺到する。(近年のオールドメディアに対するヘイトはその裏返し。合っていて当然のものが一部フェイク化したから批判されている。そもそもフェイクや根拠不十分なら叩かれないで済む)
批評は「論証できないけど感覚で書く」が成立する世界でいいのか。かつてのジャーナリズムや批判が担っていたのは理路整然の文章を大衆に届けることではないのか。論理の飛躍があっても共感(=いいねが取れる)できるなら読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げてもいい。売れるなら「本にしなくてもいい内容」を本にしていい。これが国民の知る権利を盾に商売をする出版業界で許されていいのか。
これは批評の民主化ではなく、文化が“推し活”に吸収されていくプロセスだ。文化人が読者の機嫌を損ねない戦略を取ると、批評はどんどんお気持ち表明コンテンツへ変質していく。自分の好き・推しを言語化するツールに批評が成り下がると、推しを肯定する言説しか生まれなくなる。批評とは本来対象をそれ以外のものから切り離し、特異であることを浮かび上がらせる作業のはずだ。その点において共感を求めるスポーツや音楽ライブの一体感とは真逆にある。消費者の感情におもねる批評でいいのだろうか。
出版とは、知を鍛える公共財だ。だからこそ独占的な販売方法が許容されている業界だ。しかし今は、情緒と共感を売りにして市場縮小を乗り切ろうとしている。「共に賢くなる」ための活字文化が、「共感」のツールに成り下がっている。
批評が論理を疎かにし、読者の気持ちに寄りかかり、階級の現実が曖昧になる。事実上「半身で働く」ことができない人々に対して、「半身で働く」特権階級のよさを説くというのは、パンがなければケーキを食べればいいと言っているのと同じだ。
「なぜ働くと本が読めなくなるのか」2024年最も話題となった書籍の一つ。友人と話していると、同書は非常に危険な本だと話になる。新書だからテキトーに読んでいる気付かないのだが、マトモに読むと「半身で働く」という主張に至る過程に論理の飛躍があるからだ。
加えて、三宅の書籍にモヤモヤするのは、彼女の著作の問題というより、出版業界全体が抱える“退行の空気”が透けて見える。本来、批評とは対象を切り離し、構造を浮かび上がらせる作業のはず。「斜陽産業」の出版業界は、読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げ、「本にしなくてもいい内容」を巧みな営業戦略で売りまくる世界になってしまった。
論理や構造より、“共感”や“エモさ”。そうした市場環境の中で、『なぜ働くと本が読めなくなるのか』のようなお気持ちエッセイが主流になるのは必然だ。
問題は、その本が社会構造の分析をしているように見せかけながら、突然「本が読めないのは社会が悪い」という感情論にジャンプする点だ。書籍の大部分を占める読書と社会人の近代史パート(9章くらいまで?)
はどう読んでも「半身で働く」の根拠になり得ない。提言だとしても、提言をするだけの根拠が前文には書いていない。。こうなると、構造を論じているようでいて、じつは個人の感情の物語に回収されているだけで、「社会がない」と批判されるタイプの語りに近い。
さらに「半身で働く」という提案は、階級的な前提をあまりに無視している。映画「花束みたいな恋をした」を引用して田舎出身の労働者・麦くんが本を読めなくなっていく過程を記述しているが、はっきり言って世の中の麦くん化している社会人に失礼だ。
現実に半身で働けるのは、富裕層家庭出身者、ホワイト企業勤務者、配偶者の扶養に入れる人(その多くは事実上女性だ)など、ごく一部に限られる。つまり映画「花恋」でいうところのヒロイン絹ちゃんだけだ(親が大企業、都会に実家、定職につかなくても生きていける、好きなことだけして生きていきたい)。
一般的な労働者が週5日・フルタイムの構造から抜けるのはほぼ不可能で、そんな生き方が“みんなが選べる選択肢”かのように語られると、不公平と言わざる得ない。
その社会構造自体がおかしいと主張したいのであれば、大部分の都市サービスを享受すべきではない。インフラを維持する人々の労働あってこそ、「半身で働く」ことは可能になるからだ。
そうした現実に目を向けず、都市部の特権だけが享受可能な理想論を大衆に説く。ここにはグロテスクとしか言いようのない欠陥構造がある。
また、三宅が語る「批評の文体をひらく」も、実際には論理の緩和=読者への迎合になってしまっている。例えば、同じ言葉を生業にするジャーナリズムでは誤りは許されない。5W1Hや誰が何を言ったかを間違えて報道すれば即座に批判が殺到する。(近年のオールドメディアに対するヘイトはその裏返し。合っていて当然のものが一部フェイク化したから批判されている。そもそもフェイクや根拠不十分なら叩かれないで済む)
批評は「論証できないけど感覚で書く」が成立する世界でいいのか。かつてのジャーナリズムや批判が担っていたのは理路整然の文章を大衆に届けることではないのか。論理の飛躍があっても共感(=いいねが取れる)できるなら読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げてもいい。売れるなら「本にしなくてもいい内容」を本にしていい。これが国民の知る権利を盾に商売をする出版業界で許されていいのか。
これは批評の民主化ではなく、文化が“推し活”に吸収されていくプロセスだ。文化人が読者の機嫌を損ねない戦略を取ると、批評はどんどんお気持ち表明コンテンツへ変質していく。自分の好き・推しを言語化するツールに批評が成り下がると、推しを肯定する言説しか生まれなくなる。批評とは本来対象をそれ以外のものから切り離し、特異であることを浮かび上がらせる作業のはずだ。その点において共感を求めるスポーツや音楽ライブの一体感とは真逆にある。消費者の感情におもねる批評でいいのだろうか。
出版とは、知を鍛える公共財だ。だからこそ独占的な販売方法が許容されている業界だ。しかし今は、情緒と共感を売りにして市場縮小を乗り切ろうとしている。「共に賢くなる」ための活字文化が、「共感」のツールに成り下がっている。
批評が論理を疎かにし、読者の気持ちに寄りかかり、階級の現実が曖昧になる。事実上「半身で働く」ことができない人々に対して、「半身で働く」特権階級のよさを説くというのは、パンがなければケーキを食べればいいと言っているのと同じだ。
前に過労とかストーカー被害とかで病んで何年かヒキニート生活を続けてたのと、好みがとても狭いのとで、とうとう楽しめるコンテンツが見つからなくなってしまった。
「いや、コンテンツなんて山ほどあるんだから見つかるだろ」と思うかもしれないし、私もそう思って探し続けていたけれど、最近は全然見つからない。
それは私の制限がきつすぎるせいで、まず、神経が完全回復しなかったからフルタイムで働けず、お金も気力も体力もない(時間だけはある)。
普通の人が気にならないような攻撃的要素でもきついから、バトル系はほぼだめ。恋愛・性的要素があるのもしんどい。ホラーは心が耐えられない。アイドルもスポーツも日常系も謎解きも熱血もピンとこない。世界や人物が作りものっぽいと入り込めなくなる。
映像作品も消耗する。自分の意思で動けてこまめに休憩してもテンポが崩れないゲームや、漫画や小説はいいけど、そこら辺は漁り尽くした気がする。特にウェブ小説は、条件に合いそうなものをほぼ全部検討した。そして数千作読んだ頃、あらすじ&数千字を読むと、合わないものがわかるようになった。それでも時々「多分途中で挫折するんだろうな……」という予感と藁にも縋りたい気持で読んで、結局しんどくて挫折する確率100%。漫画とゲームも、最近は合うものが見つからなくなって、探してもしんどい。
お金も気力も体力もない上に、人間関係のささいな負担もきついからどうしようもない。
人生を終らせるようなガッツもないから、もうどうにもならない気がする。
こんなどうしようもないものを最後まで読んでくれた人がいたらありがとうございます。
楽しめる人はどうか、楽しめない者の分までいっぱい楽しんでください。
【追記】
まともに反応してくれてありがとうございます。
現状は
ですね……。
だからといって何も楽しみがない状態で生き続けるのは厳しすぎるから、何とかなると良いのですけど。
食事は、元々あまり興味がなかったのに、神経がおかしくなってから更にどうでも良くなってしまって……。
普段の食事より2桁お高いものを食べると流石にその場では「美味しい!」と感じるけれど、それでも「また食べたい」とは思わず、他の人が「ゴミ」とまで言うものでも平気で食べられるし、うっかりすると絶食する状態です。
ただ、健康的なものをちゃんと食べないと更に具合が悪くなるので、気をつけます。
あと他の人が楽しく食事しているのは好きです。
AIによるコンテンツ生成は10年前くらい?から期待していますが、私の求めるようなものができるのはまだ先になりそうです。
もう少しして、AIが組み込まれたゲームが、プレイヤーごとのNG要素や好みに合わせて修正を入れてくれるようになったりするといいなあ、など妄想しています。
発達障害で別に何か天才的にうまいことが出来る訳でもなく、体力がある訳でもないどころか割と体調崩しやすい人間って生きてる価値あるのか?と自問自答してしまう。私のことだが。
80%のことが人よりできなくても、10〜20%のことが人の50倍くらいできるとか、いわゆる天才型ならまだそこで生きていけると思う。
特に特筆するほどのことはなくても、体が元気で体力があれば、仕事自体はあると思う。
しかし私はそのどっちでもない。
なんなら自律神経の問題で、定期的に貧血を起こして立ち上がれなくなったり、最悪気絶する。
何もかもできないってわけじゃない。一応大学もでたし資格も取れた。金出せばどちらも手に入るようなところもあるかもしれないし、わたしのいってたところもそうかもしれない、少なくとも大学の単位が取れる程度には読み書きできた。
読み書きすらままならないほど、学力に問題があった訳ではない。
接客もできた。発達障害の中には会話が怪しいレベルの人もいるにはいる。
私はその人に比べたら発話できる方だった。
音読も割と得意なほうだろう。アナウンスなどを任せていただきこなすことは出来た。
私は決して何もかもができないほどではない。
しかし当然苦手なこともある。数学は得意じゃない。運動もかなり音痴だ。球技でラリー?が続けられない。バドミントンでサーブすら打てなくて笑われてから私はとても運動が下手だな……と実感が強まった。
そしてそこに発達障害の特性による「出来ないこと」や、自律神経失調症による「いつ来るか分からないぶっ倒れ」が重なった結果、まともなところでまともに働くことは多分不可能だ。
正直私が私じゃなかったら、私と働きたくない。突然具合悪くなってシフトに穴を開けまくったり、忘れ物やなくしものが多かったり、命令がないと動けなかったり。
ゲームやる時だって、可能な限り最大効率出せるキャラしか採用したくないだろ。
せめて平均は出せなきゃやりたくないよ、なんで成功率30%くらいのキャラを採用する?しないだろ……。
いや、問題あるのはわかる、たくさん問題が出るだろう、でも私みたいなのは生まれずに苦しまずに済んだのに。
私の父方の人達はみんな、何かしら精神疾患や発達障害を持っている。多分そこら辺問題ある遺伝子なんだろう。
優生思想の法律があれば、私の祖父母辺りでうちの家は途絶えていたに違いない。発狂して大暴れしたらしいし。
そしたらまず優生思想的にはアウトそうだし。
ぜーんぶ中途半端、ちゃんと苦しみが理解できないほど頭パッパラパーでもない、未来が全く想像できないほど知能に問題がある訳でもない、でも生きていくには足らない。
税金貰ってる立場だけれど、感謝してるけど、それはそれとしてそれだけじゃ絶対生活できない。月5万でどうやって生きていけと仰る。
仕事したくてもそもそも雇って貰えないし、迷惑かけたくもない。何とか雇ってもらえてもフルタイムで働けない。障害者用の作業所とかだと月数千円。高くても8万円くらいの給料しか貰えない。
家じゃ邪魔者で早く出ていけと言われる。
足らんて、普通に。一人暮らしするならもう少しないと流石に安定しないって。火の車で健康度外視食生活とかならなんとかなるかもしれないけど。
障害者は福祉に繋がれば社会が生かしてくれるんでしょ?という人もいるかもしれないけど、全然そんなことない、マジでア〜とかしか言えないようなレベルだったり、読み書きできない会話もあんまり成り立たないレベルだったら知らんけど。
会話できて勉強ある程度できて動くのに支障ない(だが生きるのに支障はある)レベルだと上に書いた程度。
そして仕事はない、たすかりたい、助けがないと今の社会じゃ難しい、お金が無いと生きてけないけど、バカにはお金を手に入れるのが難しい。狩りとかの時代の方が多分生きてける。
つらい
「そこまで理解はないけど許容してくれる彼/夫くん」まで条件緩和できたら選択肢が広がる
私(発達障害と躁うつで手帳持ち)はまさに上記ようなの夫と結婚できた
夫は発達障害の知識はあまりないし、私の薬の多さを「依存症じゃん笑」とネタにすることもあるし、一緒に暮らしていて傷つかないことがないわけじゃない
でもそれ以上に、フルタイム勤務ができず雀の涙しか稼げない私を養ってくれたり、家事が苦手で寝込むことも多い私の分まで家のこともやってくれたり、私が私のまま妻であることを許容してくれている
あと、理解がないからこその無茶振りのようなアプローチ(いいから運動するぞ!みたいな)が効果を発揮することもあるのでありがたさでいっぱい
ただ、あくまで「そこまで」理解のないレベルにしておかないと破綻すると思うのと、ある程度共通の趣味とかバックグラウンドがあったほうがいいとは思う
日本人女性は海外移住したほうが生涯賃金は上がりそう。東南アジア、マレーシアも日本よりマシかと思う
男女の賃金格差はOECD全加盟国中4番目に高く(21.3%)、無償のケア労働や家事労働に充てる時間の格差も極めて大きく、これは日本において女性がケア労働を過度に負担していることの表れ dodaです。
つまり:
女性が出産後に非正規雇用に切り替えるケースが少なくない dodaため、30代以降の年収が伸びません。
データ:
日本では、部長・課長クラスと係長・主任クラスのいずれにおいても男女間に年収差が認められた Ten Naviという調査結果があります。
部長級: 約7%
係長級: 約18%
アメリカ: 約40%
ドイツ: 約30%
フランス: 約35%
4. 昇給が30代以降ほぼ止まる
女性では20代から30代では59万円アップしていますが、30代から40代は21万円、40代から50代は10万円のアップにとどまっています Doda
つまり:
20代→30代: +59万円
欧米:
「子供を幸せに出来ないから産まない(産めない)」なんですけど、自分自身の発達障害グレーゾーンが原因なので、金だけ渡されても絶対に産まないです。
そもそも物欲や娯楽欲が全然なくてお金をつかわないので、毎月余らせて投資に回してて、金には現時点で全く困ってないです。でも産まないです。
正社員としてフルタイム労働しているけど、これに育児が加わるなんて無理。育児的な労働内容のほうが向いてなくて無理。
「プログラミングはできるけど介護は無理」みたいな、そういう気持ちです。致命的に向かない職に就けない、どうせこなせないしバーストする。
そもそも正社員としても過去2回メンタル理由で休職していて、育児には休職制度なんてない。
育児って労基に守られないブラック労働でしょ?無理です。そして親のメンタルが弱いと子供って直接的に被害受けてますよね。被害者は作らないほうが良い。
賃労働って「自殺するくらいだったら辞める」とか「休職する」みたいな逃げ道がいくらでもあるんです。そして育児には無い。逃げたら人殺しです。
労働者は使用者から労基に守ってもらう弱者だけど、親は子を支配する強者であり加害者であり課せられる責任はとても重たいです。だから取り組まない。