はてなキーワード: 月並みとは
先日恋人に振られた。
常に頭が働いているような人で、一つの事柄にたいして、私がせいぜい1~2個見解を述べる間に20~30の見解を様々な角度から新しい視点を検討し考察することを楽しむような人だった。
人に対してもとても丁寧で、周りの人からもとても愛されていた。
別れ話をされたとき、本当はすがりついてでも考え直してくれと言いたかったが、あまりにも惚れ込んでいた為これ以上相手を苦しめることも出来ず、引き止めることはしなかった。
とはいえ最後の別れの日には、いつでも連絡してくれとか、他にも複数の未練たらたら発言をみっともなく伝えた。
同時期、相性の合わない仕事を相性の合わない人間とやっていてずっとストレスを感じていた。
が、過去にはもっとハードな仕事の経験もあったし、今回は終了日が見えているのでまぁしんどいがなんとか歯を食いしばってやり遂げようと思っていた。
が、ある日、働けなくなってしまった。恋人は関係ないとは思うが、期間としては別れてから2週間後ぐらいだったと思う。
本当に、ほんの3日前までは明日も来週も、今日と同じ未来が続くと思っていて、疑いなく綿密なスケジュールをたてていたのに。
何をしても自分の選択は間違っていると思ってしまい手が動かなくなってしまった。ほとんど衝動的に担当営業に連絡した。
急に辞めたことによる罪悪感で三日三晩布団に包まれながら、過去適応障害や鬱で辞めていった同僚や上司に想いを馳せていたら、1週間で3キロ痩せた。
正直恋愛の能力より、仕事の能力の方に自信があったので、自分が急に働けなくなった体験の方がショックが大きい。
様々な手続きを終えたあとは1週間ほど療養し、そのあとすぐに仕事探しを始めた。
友人(鬱による休職経験者)には2~3ヶ月ぐらいはしっかり休んでからゆっくり仕事探し始めるぐらいでいいとアドバイスされたのだが、自分は働いている方が精神が落ち着くと思い仕事探しを始めた。
来週面接が控えており、少々気持ちの落ち込みが煩わしく感じる部分もあるが、少し考える時間と体力が戻ってきて、ふと色んなことを考えるようになったので文字に書き起こしておこうと思う。
思い返すと10年以上、順当にステップアップしながら働いてきて、2週間以上休みを取ったのは人生で初めてだ。
オーバーな物言いであることは十分理解した上でだが特に仕事をやめた時は、
「すべて失った」という感じがした。
たまたまタイミングが被ってしまっただけなのだが、愛した恋人を失い、職もなくした。
自信もなくしてしまい、次の業務は内容がつまらなくても負担が軽いものを最優先に選んでいるため、キャリアのリセット感もある。
住んでいた3LDKの賃貸も恋人との同棲解消で解約し、こじんまりしたワンルームに引っ越した。今は趣味を楽しむ気力もない。
得たものはまず、友人のありがたみだろうか。
断るほうが逆に億劫なので飯ぐらいは行くのだが、一応友人の前では明るく努めようとすると自己催眠に近いなにかで気持ちも前向きになる。
お酒の勢いもあって、ちょっと自分の心情をこぼすと皆やさしく受け止めてくれる。
反応は人それぞれだが、各々がそれぞれの言葉で、あえて軽く話してくれたり、心底心配してくれたりするのが感じ取れて少し涙ぐんでしまう。
恋人を失って気がつくのは、やはり自分は幾分か無理していたなということだった。
付き合っていた当初は無理しているとは微塵にも思っていなかった。相手に合わせて自分が変わること自体が愛だと思っていたし、がんばっている事自体に満足していた。
相手と対等になれるよう、難解な映画を見て自分なりの意見を述べるトレーニングをしてみたり、コミュニケーションも言葉選びのひとつひとつを思考したり、相手の理想の人間になろうとしていた。
今思うと相手も完璧人間ではないのだが、当時は相手の不満が全く思いつかないぐらい自分を変化させることにいっぱいいっぱいだった。
一人になった今、時間があればやることは、なんの身のためにもならないYouTubeを見たり、Xで交わされる議論をまんま鵜呑みにするだけだ。
そんな不毛な時間に罪悪感を覚えなくなった自分が、良くないとも思っているが、同時に人間らしくていいのではとも思う
また、メンタルの不調で休職する人に対する解像度が上がったのも良い気づきではあった。
過去に自分と同じチームの上司や同僚がメンタルをやられて休職に至ったケースが2度ある。
当時は自分のサポート不足を悔やむ反面、正直こころの奥底では「そこまで大変だっただろうか」という相手を下に見る感情と「自分は困難な状況における適応能力が高いのだろう」というおごりがあった。
いざ当事者になってみると、自分がまさかこんなタイミングで働けなくなるだなんて今現在も理解できない。
過去「困難な状況でも最後までやり抜く遂行力があります」なんて言っていた若かりし自分がむしろ眩しく見える。
30歳をとうに過ぎた今日この頃、思うところがある。
それは…それは…。
むしろそんなしょうもない人生にこそ、喜びや幸せが満ち溢れているのだ。
日常の中で感じられる幸せというのは、ひどく小さく、非刺激的である。
酒やギャンブルに身を委ねたり、性的衝動によって得られる快楽なんかとは比べものにならない。
地位や名声を得て他者を優越したり、SNSで自分の投稿をバズらせた時に得られるような
承認欲求的な欲求から発生する刺激と比べても、ひどく非刺激的である。
こんなしょうもない日常や人生に、どう幸せを見出そうと思うのか?
長年の謎であった。
しかし、齢30にして思うのだ。
月並みではあるが、日常の些細というものは、当たり前ではないのだ。
衣食住事足りているのも世の人間の絶え間ない営みのおかげである。
こうしてインターネットでくだらないやりとりをできているのも、この世の中が
今日もインターネットの片隅では、フェミニズムや男女論が語られ、政治・政策への
非建設的な不満が渦を巻いている。
しかし考えてもみて欲しい。
それらが形成されているのは、いや、それらの形成が許されているのは、
今日も日本が平和だからである。平和であるからこそ、そんな非生産的なことが
許されるのだ。
インターネットに入り浸って、男女格差や政治不信について語っているのも
そんな話を、しようじゃないか。
日常の些細な話、目の前にある小さな喜びを拾い集め、今一度自分の
人生を振り返ってみよう。
悲しいことが起きるかもしれない。でも、きっと大丈夫だ。
全てが落ち着いたら、自分達はきっとこの日常にまた戻ってくる。
今、女が浮気する創作を叩いたり冷笑する人が散見されるが、これは非常に問題である。
世の中にはインモラルや悪事を楽しむ作品が溢れている。もちろんドラマにでもだ。月並みだが、東京卍リベンジャーズなんか不良が夜な夜な集まって喧嘩を繰り広げるなんてろくなもんじゃない。法律を越えた私刑も許容されるし、なんなら「主人公一行を不快にさせた」程度のことで相手の骨を折ったりもする。
殺人、窃盗、暴力、不良、半グレ、闇バイト、銃器の所持、爆弾の製造、暗殺、創作にはインモラルが溢れている。作中でその行為に対して「本当は良くないけどね」と言う人がいない作品だって山ほどある。
更に潔癖な視点で見れば、男子高校生が複数の女子から不純異性交遊に誘われるハーレム作品なんて本当はけしからん。奴隷を購入して身の回りの世話をさせ愛妾のように扱う作品、これは言うまでもなく酷い。
では何故、女の浮気、浮気を肯定的に描いた作品は叩かれ、冷笑されて当然なのか?
創作では普段もっと酷いテーマを肯定的に扱っているじゃあないか。
だが問題視はしない。いや、正確に言えば「問題視してはいけない」と皆思ってる。「創作だからそんな風に問題視してはいけないのだ」と思っている。俺だってそう思う。
当然そういう構造に対する冷笑だって少ない。様々な意見があるのがネットだから、あるにはある。だが「いや、エンタメってそういうもんだし…」というリアクションが付きまとう。
では何故女の浮気を創作で描くと問題視され、おかしなことをしているからと冷笑され、フォローもされないのか。
創作というのは我々の考えを越えて保護され、「創作を守る」という方向に厳格な基準の元で「社会的に適切かどうか」と判断されるべきなのだ。
表現の自由を訴える人は、市民団体などに対してまさにそれを言い続けてきたのではないか。
そして、これは論理的帰結だが、「浮気」を肯定的に描いて叩いたり冷笑する理由は、「感情」以外に無い。浮気はもちろんインモラルな行為だが、創作という観点ではテーマとして扱うことは問題ではない。そもそも古来よりそんなもん山ほどある。現代の価値観には合わない。もちろんそうだ。ただし殺人だって銃器所持だって奴隷の購入だって今の価値観には合わない。キモいから批判する?感情以外の何物でもない。
つまり、女性の浮気をテーマにした作品を叩き冷笑することは、「本来保護されるべきである創作物を何も考えずに叩き萎縮させる行為」でしかないのだ。
これが問題でなければ何が問題なのか。表現の自由を嘲笑し、貶す行為は唾棄すべきことであり、それは決して多数派に紛れない。同調する者が多かろうが、「創作物は守られるべき」という考えには何の影響を及ぼさないのだ。
「そんなこと言われても俺はただのネット民。別に創作を守る義理なんて無い。好き勝手に言いたいことを言うよ」
中学の卒業式が終わった後、校門前で友人と名残を惜しんでいると、仲の良かった女子が二人で写真を撮りたいと言いだした。
彼女が自分に好意を持っていることは薄々気付いていた。その好意に対しては悪く思っていなかったし、この後告白されたら違う高校でもやっていけるのかなー。とか考えていたと思う。
なぜか校門ではなく校門前の民家の前に並んで、彼女のお母さんが写真を撮ってくれた。同級生の前で彼女の母親に撮られる写真は流石に恥ずかしくて、ツーショットと言うには間が開きすぎた写真になった。
写真を撮った後、彼女は別れの言葉と共に「父の転勤で明日東京に引っ越すこと」、「東京の高校に通うこと」、「最後に地元での思い出が欲しかったこと」、「これまでの感謝と、ずっと黙っていたことへの謝罪」みたいなことを話していた気がする。俺からはあまりにも突然の事過ぎて、「なんで今まで言ってくれなかったんだよ」とか「そっか、元気で」みたいな月並みな言葉しか出てこなかった。
その後、彼女は買って貰ったばかりの携帯電話を取り出して、赤外線通信で連絡先を交換してわかれた。
結局、現像された写真をみたのはそれから数年後、お互いに大学生になってからだった。その間も頻繁に連絡をとっていたのかというとそうでもなく、再開したのは東日本大震災がおきて久しぶりに連絡をとったのが切っ掛けだった。
再開したその日に交際をはじめて、もうそろそろ14年になる。今は千葉の、なんとなく地元に似た雰囲気が気に入った街で彼女によく似た顔の長男と自分によく似た顔の次男と4人で暮らしている。あの写真は今もリビングに飾ってある。
ことわっておくと、彼の事をしっかり調べたわけではなくて、断片的にニュースやweb記事で見かけてきた記憶だけを元に書きます。
まず言わずと知れたZOZOTOWNを運営するスタートトゥデイの創業者で、資産家だ。
10年くらい前に金が余りすぎてて、バスキアの絵なんかをジャケ買い?しているみたいな記事を見た記憶がある。
今はもう売ったらしいけど。
5年くらい前には、宇宙に行くみたいな壮大な話が出て、羨ましいし富豪ならではの良い金の使い方やん、と僻みまじりに思った記憶がある。
ま、これも宇宙ステーションに滞在して、月周回は中止したらしいけど。
ただ、広義には「レジャーとしての宇宙旅行」に先鞭をつけた意味では人類史において偉業だし、
これを書いてる自分は人類がいつか太陽系を旅立つ日が来ることを夢見ているので、その日に近づく一歩として有意義だとも思っていた。
剛力彩芽はべらせてな!羨ましいぞぅ…
そして、その時期あたりだったかで、「金配りおじさん」を自称?していたのも記憶にある。
自分は「富豪の醜悪な社会実験」という月並みな感想しかないし、そのあとに雨後の筍のように模倣した詐欺師が跋扈したことも踏まえて、業の深い所業だなあと思っていた。
なんかすごい残念なんだよね。
zozoって、一定層の人の行動様式を変えた、社会にインパクトのある偉業を商売のフィールドで成し遂げたんだよね。
なかなかできることではない。
で、そのあとやってる事業がコレ?っていうね。
たぶんだけど、今さら大儲けしたい動機メインで事業やりたいとは思わないだろうから、「でっかいことやりたい、社会にインパクト与えたい」が原動力だと想像するんだけど、それがコレ?
仮説に仮説重ねてるけど、もしそうだとしたら、zozoを成した男がこんなことしかできないの?こんな座組で何ができるの?って思う。
そりゃ、バカは釣れるけどさ。
なんだかね。
宇宙だけ行ってればいいのに…
The Avalanches - 『Since I Left You』だ。
今まで好きな曲やアーティストはもう100以上あるけど、好きなアルバムは1つも無かった。
たぶんベストアルバムとかを答えるのは違うんだろうなと思っていた。ヒットした曲の詰め合わせというか。別にアルバム自体が好きな訳では無い。
『Since I Left You』は違った。
1つの写真でしかなかった楽曲が、アルバムの次のページでも続いている。
音楽は絶え間なく流れ、
流れが世界を作る。
ベストアルバムを聴いていた自分が何か足りないと感じていたもの。
それは流れだった。
名場面ばかりが人生じゃないよな。
意外だったのが全ての曲がサンプリングで作られていること。
何度も聴いていると、「2番目の曲の裏で流れてた音が、13番目の曲で登場する」とか「この音どこかで聴いたな……」が起きる。
サンプリングの成せる技だ。
「Since I Left You」の意味が、私には母親との関係に思える。
月並みな表現かもだけど、この世に生を受けたことの喜びと別れの悲しさ両方を覚える。
ちなみに、『Since I Left You』と出会ったきっかけは「海外にも音MADとかあるのかな?」とAIに聞いたことから。
もし興味が出たなら最初の「Since I Left You」だけ聴いてほしい。私が一番好きな曲だ。
アルバム全部を聴き切るなら、CDか間に広告が入らないようにしてほしい。
そして音の波間に身をゆだねてみてほしい。
また友人を失うかもしれない。
原因ははっきりしているのだけれど、それの帰責性が自分にあるのか相手側にあるのかが分からず(もちろん自分では自分に責めを負うべきところがないと思っているのだが(あれば治すし))、また、失いそうになっている。まァ帰責性の存否にかかわらず関係の維持は可能だとは思うが、これは後で検討する。
はてな匿名ダイアリーを初めて利用するのは、決してアドバイスや共感を得たいわけではなく、ただ文章に直す作業がしたかっただけなので、この文章に関しては一切の責任を負わないし、二度と思い出すこともない。
筆者は2002年生まれの現役の大学生で、一年、浪人している。関東出身。男。彼女はいない。いたこともない。最近オナホを買って心底がっかりした。冷たかった。東京の山手線の内側の狭い部屋で一人暮らししてる。社会科学系。専攻している分野が世間的にはマニアックなので、人との交流は少なく、一週間で会話することがあるのは先生(教授)と、バイト先の生徒や関係者など、片手で数えられる程度の人数しかいない。それでも、社会性を失いたくない(社会にアクセスするハードルを上げたくない)から身だしなみも整えてはいる。年がら年中オフィスカジュアルみたいなものを着て、いい酒が飲める店にいつでも入れるくらいの格好しか持っていない。もしかしたら自分がおかしい(もしや統合失調症でも発症しているのか!)のかと思い、精神科や家族に相談してみたものの、極めて正常ということらしい。彼らと相談する際によく耳にしたワードとして「時代だから」というのがあり、いささか疑問がありつつも、自分にもそう言い聞かせ、またそうするようにしている。なぜなら、理由は単純な方が良い。だけど、友人と自分は同じ時代を生きているし、同じ時代で育ち、同じ地域で、同じ中高で、同じ部活で過ごしたはずなのに、なぜ?
友人Aの場合
Aとは、本来であれば今年で10年超えの付き合いになる。Aは旧帝に落ちて私立大学に現役で進学した。たまさか、学部は違うけれど同じ大学に所属している。彼女はいない。チー牛という言葉が出始めた頃、漏れなくチー牛を自称していたが、そんなことはなく、月並みかそれ以上だろう。Aは、サークルに所属しており、友人と先輩と後輩がいる。Aが大学に入ってからは、「ちょっと変わった」先輩(男)のお世話をしていることを嬉しそうによく話していた。「ちょっと変わった」先輩の話というのは、おかしな行動や、服薬している薬の名前、就活の動向や、就労後の話など。確かに、「ちょっと変わっ」ていた。
書いていなかったけれど、筆者は大学院に進むので就活はやっていないし、大学院のあとにもその技能を評価してくれる機関があるので、レールは敷かれている(ただしそのレールは「完全に」壊れている!)。Aはそのことをあまり良く思っておらず、酒が回ってくると「お前はいいよな」といった風な言葉をかけてくれる。じゃあお前も俺と同じ孤独を大学の6年間とその後の人生をもって味わえ、とは言わない。分別があるから。
おそらく、Aには特殊な技能はない。英語も普通、スペイン語は自己紹介も忘れ、ゼミでは経済?に関してやっているらしい。人当たりもよく、声もデカいし、健康な、世間の求める「普通」が服を着たような大学生だ。そのため、「普通の就活」が必要だった。ただ、彼はそれをしなかった。
さっきの「ちょっと変わった」先輩の真似をして、大手とベンチャー合わせて10社くらい?しか受けず、結局小売大手に決まったらしい。この文を見ることはないだろうけど、おめでとう。体を壊すなよ。Aから聞いた話では、不動産大手の二次面接?に進んだがあえなくやぶれ、ベンチャーと大手の2つが手札にあった。そのことを聞いたのはAと今度失いそうな友人Bと、共通の友人Cが同席しているときだった。
大手は、CMでもよく流れてる企業。我々の地元だったらみんなが口を揃えて納得する企業だ。業績も悪くはないし、払いもそこそこ。いいじゃないか。
ベンチャーは、SIer派遣会社。「独自のシステム」をもとに「円滑な」派遣を行っているらしい(又聞きなので詳しくはわからない)。報酬は基本給と地域制限付きの家賃補助とボーナス代わりのストックオプションか新株予約権付きのストックオプション。新株予約権!?
悩む理由がわからねぇ~!!!マジで!!ポンジスキームもいいとこだろ!
仮に上場できたとして流通価額の低いゴミ株なんか持ってたってなんの役にも立たねぇし、最終的に株式合併して希釈されるのがオチだ。しかも持株会で買わされるのは目に見えてる。人材派遣会社の株式の価値が上がる要因ってなんなんだ、このAI時代に。
もちろん、Aを引き止めた。大手に行ったほうがいいともそのまま伝えた。が、彼は納得しなかった。彼の言い分は、「社長の人格に惚れた」、「成長する見込みはある」、「自分を認めてくれた」、「頑張りたいと思ってる」など。
今は、頑張れるのかもしれないし、きっとできる。でも1年後は?3年後は?10年後30歳を超えたお前はなんの技能も持たずに転職して別の業界に身を投じたいと「現時点で」考えているのか(そういう趣旨のことを言っていた)?という言葉がでてしまった。言ってしまった。
ああ、言ってしまった。言っちゃだめなのに。本当のことは話しては、いけない。
Aはしばらく考え込み、我々は、楽しい話をし、酒をたくさん飲むことになった。
そのあと電車で各自帰路につき、帰り道が同じAと筆者は散歩がてら話をした。桜の良い季節だった。
そして、AからAの意中の女子と上野に行く計画を聞いた。西洋美術館かなにかに初デートで行くとのことだった。桜の季節の上野の初デート?コロナ解禁のタイミングだったため、混むのは目に見えている。だから、助言をした。
「絶対混むから展示が終わったら速やかに上野を離れろ。飯を上野で食おうと思うな。歩かせたら文句が出る。散歩しながら店を見つけようとするな。地下鉄で移動しろ。バスっていうのも悪くないな」と。さっきも言った。これは、言ってはいけない。言っちゃいけなかったんだ。言い方が悪かったのか?それも、そうだ。とにかく、悪かった。
Aは怒ってしまった。曰く、筆者の「正しい価値観(原文ママ)」を押し付けてくれるな、ということだった。本当に、そうだろうか。
別に、筆者の助言を聞くのはAの義務ではないし、また、それをAが実行に移さなかったところで、筆者は何も思わない。聞き入れられなかったのか、と思うだけで、しかもそれは筆者の自由だ。Aの気にすることではない。さらに言えば、仮に筆者の予想が的中したとしても、それはそれで初デートかくあるべきというやつなのだろうから、それも、味かもしれない。苦みかもしれないが。
Aは筆者に怒りながら言い訳を始め、筆者はそれに真っ向から対応してしまった。いかんせん、二人共酔っていた。Aはそれを認めなかったが(己の適量というやつを知らんのか?)。
そうして小一時間ほど深夜の野外で大声で話し合ったが、トイレに行きたくなった。当たり前だ。春の夜は、寒い。
筆者が「俺、帰るから。もしまた同じことを聞きたくなったら電話してくれ。必ず同じ内容をもう一度言ってやる。何度でも、だ。今日はもう、寒くてトイレの限界だ。」と言ったら、Aは「これは喧嘩別れじゃないんだ!もういい年なんだし!」と漫画で見たような捨て台詞を吐いて帰っていった。
その後、彼からの連絡はない。こちらからも、電話はしない。きっと、恥ずかしいだろうから。風の便りで、行方は知っている。
もう分かっていると思うが、筆者は伝えてしまうのだ。論理的に考えれば当然の帰結や、大人かくあるべき社会人かくあるべきという規範から導かれる「正しい価値観」に基づいてした思考を、伝えてしまうのだ。言い過ぎてしまうというよりも、簡潔に伝えてしまうのだ。言ってはいけないのに。
もちろん、言わずに流すこともできる。今っぽく「へぇ~ そうなんですね~なるほど~いや~わかんないです~笑」みたいに言うのも可能だ。ただ、それは可能だ。友人が痛い目に会おうとしているところに、なぜ、助言してはならないのか。痛みに慣れるのは、あまりよくない。余計なお世話だろうし、たしかに、余計なお世話だ。でも、友人である俺が言わなければ誰が言うんだ?親か?上司か?先輩か?それとも後輩?はたまた八奈見さんみたいなマニック・ピクシー・ドリーム・ガールか?八奈見さんだったら言ってくれる。ケアも、ある。でも、八奈見さんは、現実には、いない。そう、いない。
きっと誰も、言わない。なぜなら、波風が立つから。
彼らからすれば、筆者は「不和を生み出す存在(原文ママ)」らしい。これを居酒屋で言われたときは泣いちゃうかと思った。もう、22の大人なのに。酒が入ってなかったら泣いてたんじゃないかな。それくらいに、悲しい。嘘は、つかない。
多分、彼らからすれば人から何かを言われることそれ自体が、加害性を含むものなのだ。そして筆者は、その意図がないにも関わらず、きっと加害性に溢れている。それは怒られることとか褒められることとかは一切関係ない。自分の世界とそうじゃない世界の区別が全然ついていない。自己免疫性疾患みたいなもので、感受性と言う名のレセプターが過剰に反応しすぎるんだろう。ガラス症みたいな若者で現代は溢れている。そしてそうじゃない奴は、加害性を一見伴わないフェードアウトをされて(実際は加害そのものだ!)、彼らの社会から排除される。確かに、彼らからすれば筆者は脅威で、筆者からしても彼らは異常な世界に住んでいる。関わりはなくても良い。でも、同じ時代を生きているし、同じ時代を生きていた。
「過去に見捨てられたのではなく、過去を見捨てたのだ!」という悪役のセリフがあったような気がするが、筆者は明らかに過去に見捨てられている。過去を捨てはしないが、過去が筆者を排除しており、またそうせざるを得ないのだろう。筆者は過去を懐かしむこともできず、自分の頭の中で改変されたナラティヴを都合のいいように楽しむ不誠実なことを実行する直前のところまで来ている気がする。防衛反応だったとしても、やっちゃだめなことはやってはいけない。でも、やるしかないかもしれない。やってはいけないんだけど、やるしかないかもしれない。許してくれなくてもいい。自分を許す権利は自己にしか存在しないし、また、そうあるべきだから。いや、そうでなくてはならない。俺は俺自身を許す。必ず、必ず
最近、『恋のジンロゲーム』という漫画を読んだ。第1話を読んで最初に感じたのは「なんでこんな構成にしてるんだろう」だった。前半の、主人公による独白主体の構成は、独特なセリフ回しもあって軽妙で、その後の展開を期待させる。だけど後半の構成は歪だ。
謎の存在が主人公の前に現れて「色々あって君に恋をしてほしい」と言い出す。その「色々あって」はすぐさま丁寧に説明される。後半はこの説明に費やされており、絵的には主人公と謎の存在が突っ立って喋り続けているだけなので見栄えは良くない。
「丁寧に説明される」と書いたが、タイトルにもなっているジンロゲームのジンロがなんなのか、ルールやシステムだとか、謎の存在がなぜそんなことをするのか、なぜ主人公が選ばれたのだとかも口頭で説明される。これらを1話の後半に詰め込んでいる。
それでも足りなくて、2話の序盤ではジンロという存在の補足的な説明から始まる。ストーリーが進んでないのに、そんな説明ばっかされても興味がわかない。
こんな描き方をするようでは以降は期待できないなってことで本作は切っていたんだが、はてブでホッテントリにあがってる“ある記事”を読んで本作を思い出した。
それはH×Hの考察記事で、その筆者はピエール手塚という人だった。『恋のジンロゲーム』の作者である。それに気づいたとき、私の中で腑に落ちるものがあった。
この人の考察記事で言及されているH×Hという作品は、近年とても歪な構成になっている。まず目につくのは、誰がどう見ても明らかに多すぎる文字量。説明、各登場人物の思惑まで細かく文章にするためだ。
贔屓目に見ても、漫画としてはダメな描き方という他ない。それでも読まれ続けているのは、これまでH×Hが築き上げてきたファン層が前のめりに読んでくれるためだ。前のめりに読んでさえくれれば面白い、ということでもあるが。
だからこそピエール手塚も考察記事を書く程度には熱心になっているわけだが。そんな今のH×Hを支持する程度には、あの「文字量や思考も説明もやたらと書く」ことにはそこまで抵抗感がないんだと思う。それが当人の作風にも表れた結果が『恋のジンロゲーム』1話の、あの歪な構成に繋がっているのだろう。
私がピエール手塚という人物を最初に覚えたのは、実は漫画ではなく、この人の書いているブログがきっかけだった(ブログより前にこの人の漫画をどこかで読んでいるかもしれないが、作家そのものを明確に認知したという点ではブログがきっかけ)。
この人は、ある記事で「はてなブックマークは最低のコメントがつく最低のサービス」と評している程度にははてブ(ひいてはそこにコメントする輩)に辟易している。あと、この人がはてなブログで書き始めた理由も、以前にやっていたブログにコメントがつきすぎて嫌になったからだという。
で、結局の所はてなブログで書くのも嫌になってるので、ある程度“そういうもの”を制御したい性質なんだなと感じた。受け手に何らかの期待をしつつも信用はしていないというか。それが作風にも表れていて、だから『恋のジンロゲーム』も読み手に言及されそうなことを先に書いておかないと、となってああいった構成になったのだろうか。
そして、この記事のタイトルにつながる話なのだが、私は「作り手のせいにするのは受け手の怠慢、受け手のせいにするのは作り手の傲慢」って思ってて。
そもそも自分の表現物が不特定多数の人間に100%理解してもらえることなんて無理だ。100%に近づけることはできても、それは作り手だけでコントールできるものではない。受け手の絶対数が増えれば、より制御は困難になっていく。
果たして、そうして制御不能になったのは受け手の無知無理解が原因だろうか。それとも作り手の表現力の問題だろうか。月並みだが「どっちもどっち」というしかない。作り手も受け手も作品に対して誠実に向き合うよう努める、というだけの話ではあるのだが。その”だけ”が難しいって話でもある。
私は近年のH×Hを「前のめりに読めば面白い」と書いたが、ぶっちゃけ大概の作品は前のめりに読むことさえできれば面白い(少なくとも評価できる点は多少みえてくる)。『恋のジンロゲーム』もそうやって臨むと、一見すると歪にみえる構成にも“意義”を見出せる。
改めて読み直してみるに、あれは“ふるい”のようなものだと私は考える。この作品の方向性、ルールは1話の時点で提示しました。漫画としては少し歪になりましたが、それでも自分の作品を前のめりに、ちゃんと読もうとしてくれる人はついてきてください。今のH×Hみたいに、それでも読み続けてくれれば面白いですから、といった感じ。
もちろん大多数の受け手にとってピエール手塚は冨樫義博に相当しないし、『恋のジンロゲーム』はH×Hに相当しない。ただ個別の作品がもつ意義だとか意図といったものも含め、文脈を読もうといった姿勢そのものは受け手側が真摯に持つべきじゃないかと思う。
「古い政治を打破する」「既得権益に挑む」「虐げられし者の代表」といったいわば主人公的な立場になりきります。
①に沿うような形で、わかりやすいフレーズや、センセーショナルなフレーズを使いSNS等で発信します。とりあえず偏向しているとしてメディアを、既得権益として官公庁を仮想敵とするのがいいでしょう。
ここで重要なのは、根拠は薄弱でよく、その具体的な偏向や既得権益を必ずしも明らかにする必要はないことにあります。
偏向といっておけば元より不信感を持っていた人は多少引っかかりますし、具体例がなくとも既得権益といっておけばやはり官公庁に不信感を持っている人は多少引っかかります。
②まで行うと、あなたの主張に同意する者が現れるでしょう。彼らは貴重な支持者です。丁寧に寄り添い、返信を行うことで彼らはよりあなたに心酔するようになります。SNS等での拡散をお願いすると喜んで応じてくれるはずです。
SNS等で拡散されることにより、あなたの支持者も徐々に増えてくるでしょう。支持者がその信念から拡散する以外にも、インプレッションがお金になる今の時代です。収益目当てであなたを取り上げてくれる人も出てくるかもしれません。支持者のあなたに関する言動には虚偽が交じるかもしれませんが、所詮他人、質より量です。
ここで支持を深化するフェーズです。支持が広まるにつれ、あなたの一挙手一投足に勝手に意味を見出す人が出現するでしょう。どういうわけか、それなりの社会的ステータスがある人もあなたを支持し始めます。あなたが何も考えずに言ったあの発言、うっかりな失敗、それらの全てにそれっぽい理由を付けてくれます。②で根拠が薄弱で良いと言ったのはこのためです。
多くの人の目に留まるにつれ、あなたの言動を快く思わない人もまた増えてきます。「ピンチはチャンス」とは月並みな言葉ですが、これもまたあなたの支持者を結束させるまたとない機会となります。
①で作り上げた設定を思い出してください。主人公に困難は付き物です。その困難はメディアや官公庁に起因するものです。困難に対して諦めない主人公を演じることで、支持者はあなたに感情移入し、判官贔屓的に擁護をしてくれます。元よりメディアや官公庁への不信、漠然とした既得権益という概念の嫌悪感を有している人々ですので、さぞ士気も旺盛となるでしょう。それっぽい理屈は頭がいい人が考えてくれますし、オールドメディアの誤情報に比べて個人発信の誤情報は咎められにくい傾向にあります。とにかく詭弁も屁理屈も振り回し、数の暴力を活かしましょう。
また、こうした情報の奔流により、無関心層を惹きつける余地も生じます。情報の真偽判断にはコストがかかるため、支持も不支持も雰囲気頼りです。とにかく数で圧倒することで、情報の吟味を放棄させ、味方に引き込めるでしょう。
ここまで来るともう大丈夫です。余程のことがない限り支持者が離れることはないでしょう。何故ならあなたは既得権益層に立ち向かう皆のヒーローで、ヒーローは道を違えるはずがないのですから。
・少なくとも私はこんなやり方をする政治家を支持はしない
アイドル界の混沌も描いた『推しの子』が、本来対象じゃない低い年齢層の子供にも受容されてて関係者が焦るみたいなニュースがだいぶ前にあったけど、
自分の子供時代も含めてだが、この約四十年以上も、『推しの子』どころではない、本来子供に見せるべきではないコンテンツを子供向けと強弁して売り付けるような商売が横行し続けているとしか思えない。
親の本棚からとか、河川敷に落ちてるエロ本から見ちゃったとかそういう次元ではなく、最初から子供向けとして、人間性の健全な発達や安心を拒むコンテンツが溢れている。
単なる暴力やセックスの話では収まらなくなってきている。最近の少女漫画ではメンタルヘルスが病んでいる状態をむしろ美化しているのが常態化している。学歴差別や格差をギャグのように描く作品もあり、それを小学生女児がこれから自分が過ごす社会の有様として受け止めながら読む、そんな光景すらある。
自分の話をすると、小さい頃から色々な漫画に触れられる環境にいた。親はむしろ漫画を気にせずどんどん読ませてくれる側だった。
だが、何というか、しっくりくるコンテンツが無かった。平成中〜後期の現行コンテンツより、帰省先の母の実家に捨てられずに残っていた昔の漫画の方が、地に足についている気がしていた。
大学で「こども文化論」みたいな科目を取った時、子供向けコンテンツの変遷を調べる機会があった。月並みな結論からいうと、70年代を境目に、子供へのアプローチが大きく変わっている。子供は育てるべきものではなく、子供もそこで消費者にすり替えられていた。そしてそれは子供自身が望んだことではなく、明らかに大人の商売のために作られたものだ。
もちろん昔から赤本漫画など色々な問題があったが、それはしっかりと不健全なものと理解されていた背景があり、それに対して「健全」さがしっかりと対抗できていた。今は、少年漫画も少女漫画も、その槍玉に挙げられていた赤本(技巧やページ数の限界で抑えられていた)より数十倍も酷い内容を、美麗な外見でやっている。
ここで、『まんが道』(とその続編)に出てくる、テラさん(実在した漫画家・寺田ヒロオ)の話を思い出す。彼が何をしたかは、検索すればサジェスト経由ですぐわかるだろう。「闇」扱いされてるが。
自分の連載と同じ漫画雑誌で連載されていた他作者の漫画「恐怖魔人ゾンビラス」(漫画内の仮称で、実際は楳図かずおか永井豪の漫画か?)に対して、編集長に「子供に悪い影響を与える、連載をやめろ」と異議を直談判し、それが受け容れられないと自らの連載を切ったエピソードなどだ。
漫画的脚色はあるが、テラさんの行動は様々な方面から史実と言える。子供のための「健全な漫画コンテンツ」を求めたテラさんの行動は、漫画内の描写はもとより、ネット上でも「時代変化を理解しなかった頑固な人間」「遺物」みたいな扱いを受けている。
しかし私は、テラさんの立場の方がずっと正しく、明らかに子供に対して誠実だったと、60年も後から思わされている。
ただ付け加えると、テラさんは、大人向けとはっきりわかる形で描いたアダルトな作風の漫画までは否定していない。テラさんが心を割って話せる存在が任侠・アダルト漫画家の棚下照生だったように。
子供に、身の回りの有様を伝えるときに、まともな人間なら、「人間関係は全て打算で、あらゆるものが欲望で出来ており、全てが醜い」と伝える人はいないだろう。社会にそう言う側面があっても、そこだけを切り取って子供に植え付けるのはまともな行いではない。
テラさん当時の、技巧的に発展途上の漫画・劇画ですら、子供たちの世界を暗く後ろめたいものにしていたが、当時はまだ最低限の良心かタイトルで煽る形で分かりやすくしていたのかもしれない。だが現代ではそれは一見分からない形で(ギャグやロマンスなどの体裁を取り)提供されるようにすらなっている。
はっきり書けば、思春期より前の子供には、ごく単純な、心理描写が少ない、身近な人間関係を描いた作品以外、適していないと思われる。
近所で野球をするだけ。親の手伝いをするだけ。学校で仲間と学び合うだけ。動物と戯れるだけ。「それだけ」の漫画で充分だった。
それをしなくなったのは、そして子供向けではないコンテンツが子供に蔓延したのは、子供の事情や「時代の要請」「技術の発展」なんてものではない(子供が「ハレンチ学園」や「トイレット博士」を望んだのではない)。大人の商売の都合なのだ。
この日記のタイトルは、少し前にTwitterで話題になった「はてな匿名ダイアリー」から頂いたものである。
https://anond.hatelabo.jp/20241021131553
なぜこの日記が話題になったかというと、内容が「嘘くさい」、「弱者男性を装った女が書いたに違いない」と多くの人が感じたからで、いわゆる炎上に近い形でTwitter上で議論が白熱した。
私も当該日記をよく読んでみたのだが、確かに「女性が書いた」ということもさもありなんといった印象だった。というのも、自分自身も過去は「弱者男性」であったが、色々と経験を積み、今は結婚もできているというステータスで、まさにタイトルの当事者であったからだ。
そこで、(元の日記の真偽はさておき)タイトルの当事者を自覚している筆者が、「弱者男性としての恋愛観」を綴ってみるとどんな感じの文章になるのかやってみた、というのがこの日記の目的である。この日記をたまたま見つけてくださった皆さんも、ちょっとした実験に付き合うつもりで読んでいただけると幸いである。
そもそも「弱者男性」は最近出てきたネットスラングで、色々と定義があるだろうが、ここではめんどくさい話に踏み込まず、弱者男性を単純に「モテない男性」、いわゆる「恋愛市場における弱者」と定義することとする。
自分はその意味で、過去はバリバリの弱者男性であり、ともかくモテなかった。詳しいことは後述するのだが、高校卒業まで女子と話したことはほとんどなく、当然彼女が出来たり、バレンタインチョコをもらったりなんてことは経験したことがなかった。
自分なりにモテなかった理由を分析してみると、至極単純な2つのことに集約される。
①顔が悪い
①に関して、やはり顔が悪いのは大きかったと思う。恋愛において「顔」の良し悪しは世間で言われているよりもずっとずっと重要な要因だと感じる。イケメンに生まれていたら、恋愛における立ち回りも大きく違っていただろう。ただ、このことをうだうだ言っても仕方がないので、次に行くとしよう。
②に関しては自分の家庭内環境が大きかったと思う。自分の家族構成は、父母、自分と弟の4人家族で、家庭内に母親を除くと男しかいない。なので、昔は女子が普段どんなことを考えて生活しているか、どんなことが好きなのか、全くわからなかった(実は今でもよくわかっていない)。これは女子と恋愛していくうえで、大きなハンデだったと感じる。
前述のように、男兄弟で育ち女子が何を考えているか全く分からない自分は、モテるモテない以前に「女友達」というものすら全く作れずに育った。
小学生の頃に自分が好きだったものと言えば、ドラクエ、ガンプラ、カードゲームなどであり(あまり特定すると年がバレそう)、友達になるきっかけとして、「あのゲーム好き?」「君もガンダム好きなの?」みたいなアプローチ法は知っていたが、逆に言うとそれ以外の術を全く知らなかった。よって、必然的に女子とどんな話をすればいいか分からず、全く女子と話さない学校生活をつづけた。
小学校のころまではそれでも特にストレスを感じずに来られていたが、中学に上がるとそうもいかなかった。自分も思春期真っ只中になって女子への関心と性欲が出てきたし、何よりもクラスの中の会話がほぼ恋バナになり、「誰と誰がやった/やらない」という噂が飛び交うようになっていた。
そんな中で自分は相変わらず女子と話す方法が分からずにいたので、どんどん自信がなくなり卑屈になっていった。そのオドオドした態度が女子にも伝わっていたのか、徐々に女子から嫌われているのを感じるようになり、覚えているのは、罰ゲームで女子が「自分と握手する」というのをやっていたことだ(まあこれくらいは弱者男性あるあるだよね)。
さらに、この頃から女子に対するヘイトも強まっていった。上記のようなひどい扱いをされたこともあるのだが、それ以上に、自分が行っていた中学はいわゆる「スクールカースト」が強くあり、「ヤンキーしか女子と話せない空気感」が強くあった。このころ女子と話したことがないので噂の情報しかないのだが、どうやら「クラスの可愛い子がヤンキーと付き合ってひどい目にあったらしい」みたいな情報だけはたくさん入ってきた。そのことから、「女子はヤンキーしか好きにならない」=「女子はバカだ」という考えが自分の中で熟成されていった。
しかし、なんせ思春期真っ只中なので(というか男の生理として)、女子にはめちゃくちゃ関心があったし、性欲も人一倍強かった。よって、「女子は嫌いだけど、女体には(死ぬほど)触れたい」という思春期のベタな感情を抱いて悶々とした日々を送っていた。
そんなこんなで中学生活を過ごしていたが、高校進学のタイミングで希望の共学の高校に落ちて、不本意ながら男子校に通うことになった。
高校では当然学校内に男子しかいないので、中学時代のような自己矛盾からくるストレスは減っていったが、女子と話す経験、恋愛する経験は一向に積まれないまま、18歳を迎えた。
高校生活は特に楽しいこともつらいこともなく、学校に行って帰るだけの生活で、よく言えば非常に穏やかな日々だった。ただ、3年次の受験勉強だけはそこそこ頑張って、何とか第一志望群の大学に合格できた。
自分が行っていた大学はいわゆる私立文系のマンモス大学で、当然可愛い女子もたくさんいた。中学時代の女子ヘイトを経て、高校三年間男子校という監獄に閉じ込められた自分には刺激が強すぎる環境だった。しかし女子と話す経験値が致命的に足りていないので、入学後の3か月くらいは、昔と同じで女子を遠ざけるような生活を送っていた。
転機となったのは、英語のクラスで好きな人ができたことである(思えば初恋だったかもしれない)。その時、男友達はそこそこ出来ていたので、親切にも色んな人が恋愛テクを教えてくれた。どうやらメール(その時にLINEはなかった、また年がバレそう)をこまめにやって、頃合いを見て二人でご飯に誘うのがいい、という今考えれば当たり前の恋愛プロセスもその時はじめて知った。
またその友達が他の女子と自分を繋いでくれて、恋愛相談をするという形で、女友達を何人か作ることができた。この頃には、「女子とどんな話をすればいいか」がなんとなくわかるようになっていた。
ただ、肝心な好きになった子とは全くうまくいかず、それもそのはずで、その子には既に彼氏がいて分かれる気配もなかった。しかし恋愛というものを全く分かっていなかった自分は「彼氏がいても好きなら諦めないのが純愛だろ!」などと痛いことを考えていて、ちょこちょことアプローチを続けていた。
(AKBの歌詞みたいだね。好きって気持ちが大事なんだーって。さすが秋元康は童貞の気持ちをよくわかっている)
ただまあ当然うまくいくわけもなく、早まって告白をし、あえなく振られた。そんな感じで傷心状態が1~2か月続いたが、そのタイミングで同じサークルのある女の子と仲良くなった。
その子は正直言ってあまりタイプではなかったが、傷心を癒してくれたし、何よりなんだか付き合えそうな雰囲気があった。そこでやりたい気持ち半分、癒してほしい気持ち半分でなし崩し的に告白をして付き合うことになった。
後から振り返って思うのは、やはりn=1でも女子と付き合ったことがあるかないかはとても重要で、一人の女性からでもその生態を深く知ることができた。
そこからの話はあまり面白くないので詳細は省くが、人並みに大学生らしい恋愛をした後、別れたりくっついたりして、やがてそれも終わり、その後新しい彼女が出来たりして…といった感じで、徐々に「弱者男性」だった自分は薄まっていった。
ここで、弱者男性だった頃の、下手で、精神的に未熟で、痛くて、という恋愛観を経て、今思うことを綴ってみる。
まず、弱者男性になるきっかけは、ほとんどの場合、先天的なものと家庭環境だとおもう。冒頭にも述べたが、イケメンに生まれて弱者男性になる人は少ないだろう。あとこれも経験則でしかないが、家庭内に女兄弟がいたら弱者男性になる確率はぐっと低くなるだろう。
次に、弱者男性から抜け出す方法は、月並みだが女子と接する「経験」をともかくつむしかない。なので、今自分が弱者男性であると自覚していて、かつそこから抜け出したいと思っている人は、勇気をもって踏み出してみるしかない。当然傷つくことも多いし、自信を無くすかもしれないが、多くの男性がそれを乗り越えて幸せをつかんでいるのだ。こんなことを書くと精神論になって胡散臭いセミナーみたいなので、最後に具体的な方法を2つ示して、弱者男性から抜け出せる確率を少しでも上げられるように考えてみる。だれが読んでいるか分からないが、少しでも参考になれば幸いである。
恋愛において顔が重要なことは何度も述べたが、顔は整形でもしない限り変えることができない。しかし、髪型やファッションは変えることができる。今となっては、自分も他人の恋愛相談に乗ることも多いのだが、モテない人はだいたいダサい髪型とダサいファッションをしている。そういう人はたいてい我が強い。自分のこだわりが強すぎて世間の流行からかけ離れているか、もしくはすごくケチで美容院やファッションに金をかけたくないと思っている(趣味に金をかけすぎで、髪型やファッションに金を回したくない人も含む)。
そして、女子は男が思っているより何倍も外見で様々なことを判断する。男の何倍も髪型やファッションに関する関心が高く、自分が思っているよりかなり細かく髪型やファッションを見られていると思ったほうがいい。こんなことを書くと、「外見で判断する女は嫌だ」なんて反論が聞こえてきそうだが、そんなきれいごとを言ってもしょうがない。流行りの髪型やファッションを雑誌やSNSで学び、カネをかけるべきである。
自分はと言うと、なぜか中学くらいからファッションにだけは関心があり、ファッション誌を読み漁り、誰に見せるわけでもないのに(高校生にしては)そこそこ高い服を買っていた。それもあってか、大学入学後は髪型やファッションに関してダサいと言われることは無かった。このことは弱者男性を抜け出すための大きな要因だったと思う。
これは、弱者男性が恋愛をすると初めに陥りがちなパターンである。つまり、好きになった女子の要望をなんでもかなえてあげたいという思考だ。
「どこ行きたいの?」「何が食べたい?」「次どうする?」。こういったことを逐一聞いていると女子は貴方のことを優しいとは思わず、むしろ「頼りない」=「魅力を感じない」となってしまうらしい。(自分もこういうことを言っていたので気持ちは痛いほどわかる…)
対策としては、デートまでの日時とデートプランはこちらである程度固めて、リードしなければならない。いちいち女子の要望を聞いていてはいけない。迷ったら、お互いの休日を合わせて、映画に行ってちょっとおしゃれなお店(頑張って調べよう)で食事をする、とかで良いと思う。面白味は無いが、女子が貴方を査定するには必要十分なセッティングだ。
いかがだっただろうか?この日記は特に推敲もせずに思いつくままに書きなぐったので、読みにくい部分もあるかもしれない。
自分もまだやっていないのだが、自分の日記と元の日記(https://anond.hatelabo.jp/20241021131553)を読み比べてみて、どのような違いがあるのか考えてみよう。
もしこの辺境の地の日記をたまたま読んでくれた人は、元日記との違いやざっくばらんな感想を教えてもらえれば幸いである。
では。
「最近『の』曲が覚えられない」だと最近の曲に責任を転嫁する他責増田になるが、「の」ではないただの加齢自責増田なので許して欲しい。
ほぼミドサーのアラサーで、Spotifyに課金して通勤している。あどちゃんやまちゃんキタニさんの曲が特に好きだ。ずとまよ、ヨルシカも、あと月並みだがYOASOBIの曲も大好きだ。どれもこれもめちゃくちゃカッコいい。し、ボカロ界隈、動画界隈からのアーティストがこんなに世間に浸透するとは思わず、高校生の頃、19時までのアクセス制限と戦いながら必死でニコニコ動画を見ていた頃を思うと世の中の変わりっぷりにビックリする。
と同時に本当に歌詞もメロディも覚えられない自分にビックリする!!!!なけなしのお小遣いでポルノグラフィティのベスト盤をワクワクしながら聞いていた中学生のあの頃はスッと曲が頭に入って、歌詞もまるっと覚えて友達とキャッキャしながら歌っていたものだが、今は本当に何回聞いても覚えられず、カラオケに行っても10代〜20代前半に聞いていた曲ばかり歌ってしまう。
オカンがマッチの曲ばかり口ずさんでいたのはそういうことだったのかと今になって分かる。
本当はAdoちゃんのかっこいい曲カラオケで歌ってみたい。「阿修羅ちゃん」とか、ウタちゃん名義になるが「逆光」とか本当にカッコいい。最近のだとキタニさんのファタールとかも何回も聞いてしまう。ヨルシカさんの「だから僕は音楽を辞めた」とかも本当めちゃくちゃ好きで絶対100回くらい聞いてるのに、今カラオケに入れてもサビだけたどたどしく歌うのが精一杯だと思う。
何をどう鍛えたらまた覚えられるようになるんだろう。このまま加齢とともにどんどんついていけなくなるのが怖い。未来を思うと少し悲しくなる。でもやっぱ、音楽は良いよね!!!!とりあえず楽しく聞くわ。
自分の子供が園に通うことがきっかけで、子供の使うものを自分で作ることにはまったし、他の家庭のお母さんの手作りの作品を買うことにもはまった
月並みな表現だけどハンドメイドの市販品にはないオリジナルデザイン(ハンドメイドの商品を取り扱う店では普通に売ってるけど)で
この世に一つだけ、一点モノという特別感
市販品は市販品と一目でわかるようにハンドメイドはハンドメイドだと一目でわかるデザインをしている
園に通う子供たちは制服を着ているが、鞄につけるキーホルダーやレッスンバッグ、シューズ袋等で個性を発揮する
制服に取り付ける「移動ポケット」は子供たちにとってはアクセサリーのようなものだ
子供に私がかわいいと思って買ったハンドメイドの移動ポケット(私が作ったのではなくよそのお母さんの作品)を持たせたら、担任の先生が「かわいい」と絶賛
そうすると子供の組の他の男の子も女の子もみんな私の子供の移動ポケットが「かわいい」と言って、注目して、みんなが娘の移動ポケットを触ったらしい。ハンドメイドの移動ポケットは複数種類の布が使われていることがよくあり、「これ、どうなってるの?」と思って触りたくなるデザインをしている
親としては自分の子供の持ち物をみんなから誉めてもらうのはものすごくありがたい。やっぱり「かわいい」と子供にプラスの言葉を浴びせてくれる機会があるのは嬉しい。
私が作ったレッスンバッグを子供が先生に「これ、ママが作ったの」と言うと先生はやっぱり誉めてくれて、子供のレッスンバッグを手にとって細かく観察していたらしい。園の先生だから、やはり園グッズを作ることの大変さをよく知っている。細かい作業をしているみたいなことを言ったらしい。
先生、私はマチを作ったし、端はジグザグ縫いでちゃんと処理したんですよ。ハンドメイド初心者だから大変でした……
だいたいのハンドメイドは一手間、ふた手間加えてオリジナリティを出すし、作る人が気に入った材料を使うので誉められやすいデザインをしている。
子供が持ち物を誉められると子供の自己肯定感もあがると思うのでハンドメイドを誉めてくれる先生の存在は本当にありがたい。別にハンドメイドできなくてもよそのお母さんが作った作品を買えば子供が誉められる。ありがたい。
先生、いつもありがとうございます。