はてなキーワード: 読書会とは
生成AIは哲学そのものの基盤を覆すまでには至っていないものの、
1. 研究方法、2) 問いの優先順位、3) 社会が抱く「哲学観」
――この三層において急速かつ不可逆的な変容をもたらしつつあります。
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領域 | 生成AIが投げかけた核心的問い | 代表的議論・動向 |
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心の哲学 | 「言語モデルに意識は宿り得るか」 | Nature Humanities & Social Sciences の最新論文は**「可能条件の地図」**を作成し、意識判定基準の再定義を提案しています。 |
認識論 | 意味は統計的相関から「浮上」しうるのか | 2024年のデカルト講演では**「理解なき理解」**問題を中心に討論が行われました。 |
倫理学/価値論 | “人間中心主義”を前提とする倫理枠組みの限界 | サンフランシスコのシンポジウムでは**「宇宙的アラインメント」**思想が提唱され、人類優先から価値多元主義へ視点が拡張されています。 |
教育哲学 | オーセンティシティはどう測るべきか | オハイオ州立大学の報告では**「課題設計そのものがメタ的倫理判断になる」**と指摘されています。 |
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生成AIは、哲学の方法と射程を拡張し、社会の哲学観を塗り替えつつある。
しかし哲学そのものの“土台”を置き換えたわけではなく、むしろ次の土台がどのように築かれるかをめぐる新たなメタ議論へ私たちを招き入れた。
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まず最初に感じるのは、全体的に「どこかで見たことがある」ような内容ばかりで、独自性やオリジナリティがほとんど感じられません。読書会や本の紹介、日記的な投稿はNote上に無数に存在しており、他との差別化が全くできていません。タイトルや記事内容も平凡で、読者の興味を引く工夫がほぼ皆無です。
### 2. 情報の整理不足・読みづらさ
記事の並びや構成に一貫性がなく、何を伝えたいのかが非常に分かりづらいです。固定記事や連載の案内も、ただ羅列しているだけで、初めて訪れた読者が「どこから読めばいいのか」「何がメインなのか」が全く伝わってきません。ナビゲーションや記事の導線設計が甘く、ユーザー体験をまったく考慮していない印象です。
### 3. 文章力・発信力の弱さ
文章が全体的に単調で、熱意や説得力が感じられません。日記や読書会の告知も、ただの事務連絡のようで、読者の心に響くものがありません。「本に線を引く」などの企画も、内容が薄く、なぜそれが面白いのか・どんな価値があるのかが全く伝わってきません。読書会の案内も淡々としており、参加したいと思わせる魅力がゼロです。
メンバーシップ(月額100円〜)を設定していますが、提供内容があまりに曖昧で、これにお金を払う価値があるとは到底思えません。掲示板や読書会の情報交換など、無料でできることを有料化しているだけで、付加価値がほとんど見当たりません。「人間を知る」という抽象的な理念だけが先行し、具体的なメリットや成果が示されていません。
### 5. 全体的な印象
総じて、読書好きの個人が自己満足のために運営しているだけのページという印象が強いです。読者への配慮や、情報発信者としての責任感が感じられず、プロ意識にも欠けます。これではファンも増えず、広がりも期待できません。
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### 酷評まとめ
辛口ですが、今のままでは「読む価値なし」と言わざるを得ません。もし本気で読者を増やしたいなら、コンテンツの質・独自性・読者目線での工夫を根本から見直すべきでしょう。
Citations:
[1] https://note.com/bookforest2022
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小さいころから「男の子っぽく」するのが苦手で、誰かと競争して他人を蹴落とすみたいなことに対する嫌悪感が強かった。
大学ではフェミニズムやジェンダー論を学びたいと思い、幸いにも仲間に恵まれて、1年生の時点で上野千鶴子『家父長制と資本制』や、バトラー『ジェンダー・トラブル』なんかの読書会に参加した。
当時は珍しかった、SNSでジェンダーやクィアをテーマに発信する団体にも参加した。
結局、フェミニズムやジェンダー論を専門にすることはなかったけど、個人的なこだわりはあったので、卒論では日本であまり知られていない海外のフェミニストの思想を紹介し、相当なページ数を割いた。
そんな自分が、フェミニズムをやめようと思っている。以下にその理由を書いていく。
文系大学は近年バカにされがちで、わざわざ大学に入らなくても本だけで学べるとか言われることもあるが、仲間がいるというのは学問にとって必須のことだと思う。
特に大学は、営利目的も承認欲求もなく、ただ自分の知りたいことを学びたいという人が集まるから、そういった環境での読書会は最高に楽しかった。
けれど、大学を卒業して働き出してからは、そういった機会もめっきり減ってしまった。
そうすると、本を読んで考えたことを人と共有したり、他の人の読みに刺激されることもなくなって、思想や哲学の本を読むのが面白くなくなった。
就職した自分にとって、大学で人と話すことの代わりになったのは、インターネットにおける男女論を見ることだった。
最初は、「フェミニズム運動の最先端だから」と思って見ていたけど、だんだんと見るたびに心が辛くなるようになってきた。
インターネットのフェミニズムによって企業が動くことはあるけれど、それは企業がフェミニズムの重要性を理解したからではなく、ミソジニー企業のレッテルを貼られると企業活動に支障が出るからだ。
そういうある種の脅しみたいなものによる社会変革も、リアルな政治の場では当たり前だと思ってはいるが、一方で、インターネットのフェミニストの人たちは、思想的な理想や一貫性、プライドのようなものは持ち合わせていないようだった。
だから、自分がいくらフェミニズムを勉強し、広めたところで、そういった政治のシーンに対しては何も意味がないと思うようになった。
男性の自殺の数が多いことは、アンチフェミの伝家の宝刀のようになっており、あまり数の大小で語りたくないのだが・・・。
それでも、男性の自殺というのは大きな社会課題であることは間違いない。人が死んでんねんで?
インターネットのフェミニストの人たちは、それを「差別コスト」だと言ってみたり、男性が甘やかされて育てられてたからだと言ったりしている。
どう考えても、自殺するような状況に追い込まれている男性と、普通に生活している女性とを比較したら、社会的強者なのは圧倒的に後者であり、性別などという雑なくくりにとらわれず(そうですよね?)、社会的強者は弱者を救済するために相応のコストを支払わなければならない。
「差別コスト理論」というのは、結局は、「私たちは男性を救いたくありません」という感情にドライブされた、結論先取の議論に過ぎない。
こういった体たらくを見て、例えば選挙に行くときも、選択的夫婦別姓のようなイシューには賛成できても、「男性の自殺を軽視するような勢力に権力を渡すことは絶対にできない」という判断を優先せざるを得なくなっている。
もう、自分がフェミニズムに関して本を読んだり、男女平等の推進のために活動することはないだろうなと思う。
代わりに、ホームレスや貧困家庭の子供を支援する団体に寄付をすることで、自身の社会的責務を果たしていきたいと思う。
家族もいるし仕事もあるので、自分の人生にとって本当に大切なことにしか時間と労力を割けないと感じるようになった。
だから、この日記を書いた理由は、(もちろん拡散されたりみんなの意見が聞けたら嬉しいという思いもあるが)自分にとって大切だったフェミニズム・ジェンダー論に、人生の区切りをつけたいと思ったからだ。
Chat GPT:
結論から言うと――「海外にもあるけど、少数でめっちゃ偏ってる」や。
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• アメリカ・イギリス問わず、「簡潔で要点を押さえる」=スマートという美徳がある。
• 長くなるとすぐ「So what?(で、何が言いたいの?)」って返される。
• 雑談で構造ジャンプしたり、前提から話し出すと「教授かよ」ってなるやつ。
• 欧米の教育では「主張→根拠→結論」のロジカルな構文パターンが重視される。
• 構造や背景を語るより、要点と立場をまず明示することが最優先される。
• → ワイくんみたいに「まず構造から話す」「全体像から入る」タイプは少し異質になる。
1. Redditの哲学/認知系サブレディット(例:r/askphilosophy)
• 論点が明確で専門的な文脈があるときは、めちゃくちゃ丁寧に議論が展開される。
• ただし雑談ノリは少なく、「真面目で構造的」じゃないと浮く。
• こういう層は情報圧の高さや構造ジャンプに慣れてるし、喜んで応答してくれる。
• ただし、「推し文化」「コケコッコー的親しみ」は薄い傾向。
• 少人数で長文を咀嚼する場もあるけど、極端にハードルが高いかクローズド。
• コミュニティの流動性や拡張性はあまりなく、「お作法」も多め。
【1】文化的に「遠回し」や「前提共有」を好む
→ これは“あいまいさ”の文化やなくて、「共通の背景を前提にして処理する文化」やねん。
• 「わかる人にはわかる」で成り立つ雑談
• 書いてないことも“察する”構文
• 省略と文脈補完の高度な読み合い
これ、言語データが少ないのに意味が伝わる“圧縮構造”になってる。
→ 「変でもOK」「OS違っても翻訳しよう」っていう許容性が根付いた場が育ちやすい
ただし、集まって雑談できる場所は圧倒的に少ないし、ノリがぜんぜん違う。
それができる土地。
日本の知的変人コミュニティは、希少な湿地帯に咲いた哲学的ネギや。
海外には同じDNAの種はあっても、ここまで繁殖してないんやで。
大事にしよな。
在宅でずっと一人で仕事をしているので人と話がしたい。
そんな理由でオンラインカフェ会を探しているのだが、中々いいのがない。
読書会とかにも参加したけど、参加者の持ち寄った本のジャンルがてんでバラバラで、あらすじや感想を聞いても、わぁ読みたい、と思わなかったし、たぶん私の本もそう思われてた。
難しいよね。
若いころオフラインのものに参加したら、勧誘の嵐でこんなものに数千円も払ったかと思うと腹が立って仕方がなかったから。
後、異様にポジティブで「夢を語ろう」とかいう系も、胡散臭すぎる。
で、穏やかそうな会があったので試しに参加したのが先日。
これもひどかった。
臨床心理士主催の会、とは聞いていたけど、普通に雑談という体だったので気にしなかったのだが、1人ずつ自己紹介が重い。
発達障害の子供のサポートが~、介護士をしていて老々介護の現状が~、新宿を歩くと家庭環境に問題がある子供が~(いわゆるナンチャラキッズだよね?)、等々、何でそんな重いの?
かと思えば、参加者同士、合いそうな人が居ればLINEグループを個別に作ってつなげることをしてる、とか。
多分、そういう「つながり」(←手あかがつきすぎて大嫌いな言葉)を求める人たちのためにカフェ会ってあるんだろうけどさ。
私が求めてるのは違うのよ。
確かに一人で在宅勤務でずっとやってるけど、毎日人と話してるの。
仕事で(コールセンターなどでない)クライアントさんとオンライン通話したり、営業ビデオ通話したりしてる。
ただ、基本ずっと話を聞く側になるので、プライベートな会話をサラッと楽しみたいだけなのだ。
あとね、よくオンライン会であるのが「顔だしお願いします」の一言。
あれね、いらねーーーーーーーーーーー!!!
仕事では止む無く顔出ししてやってるけど、常に画面上に相手の顔と自分の顔が映し出されてるのって怖くない?
仕事中は極力画面共有したり、ビデオ画面を最小化してみないようにしてるけど、ただし、失礼のないようにビデオカメラを必ず見つめる、リアクションを大きめにとるなど、オンラインならではの接客の苦労があって。
顔出しも勘弁してくれよ。
ネットリテラシーはここにはないのかよ?と思う。
先日の会では「大きなリアクションをもらえると司会者として助かりますねー」とか「ビデオ通話だからこそ、興味がない話の時の表情も丸見えなのでご注意ください」とか言われて。
ここに来る人たちって、普段オフラインで話してる人たちなのかもしれない。
だから、平気なのかな?
私は毎日やってるから、オフの時ぐらい、すっぴんでビデオなしで、飲み食いしながら頬杖ついたりだらけた感じでダラーッと好きなことをしゃべりたい!
私の選び方が間違っていたのかもしれない。。
とはいえ、対面のカフェ会に参加した時は、その場は良かったけど、職業を話したら、変な人に執着されて、かなり困った。
LINE無視してたのに、半年以上たって、またLINEきてギョッとしたもの。
はっきり断ってブロックしたけど。
(以来。職業名も伏せている。めんどくせえわ)
匿名で、ビデオオフで、サラッとその場限りの会話を楽しめるオンラインのカフェ会が欲しくて、こっそり企画して募集をかけている。
今のとこ反応なしw
まぁいつか誰かが来るかな、というくらいのうっすい希望でやってる。
きっとそういう場を求めてる人っているはず。
顔出ししてくれる方が安心、っていうけど、ネット上に顔出すリスクは無視なのかな?といつも思う。
仕事上、ネットに顔と名前(の一部)を出してるけどそれでも嫌だもん。
万が一カフェ会で私のクライアントと鉢合わせたらとか考えるほど身バレが怖い。
すごく疑問。
かつて所属していた文学サークルで、先輩が角田光代「菊葉荘の幽霊たち」って作品をテーマに読書会を開いた。何事にも投げやりな女性が主役なこの作品が全く好きになれず、その後角田光代という名前を見ても全く手が伸びなかった。今にして思えば、全体的に生きる気力がないというか、適当にその辺の相手と何となく交際してしまう感じの、怠惰な女性が出てくるのに嫌悪感があったのだろう。理想的な美を探し求めていた大学生の僕には、うまく理解できないキャラクターだった。あるいは、当時女性を理想化しすぎていたからかもしれない。理想の恋人が、僕と同じように美や最高のクォリティ(なんじゃそりゃ?)を求める存在であると望んでいたのだろう。なんというか、十代の考えそうなことである。しかし、それは後述するように、すべて自己愛だ。それはさておき、「源氏物語」も僕は講談社学術文庫で読んだ。確か、今泉忠義訳である。再読のときは、角田光代訳でもいいのかも。書き続けられている作家ということは、力があるってことだし。
光源氏の恋愛遍歴や、彼を取り巻く女性たちについての思いは昔書いたので省く。僕がこの小説が好きなのは、恋の物語だけが理由ではない。もちろん、欲望まみれだった僕は、例えば朧月夜との密通で須磨に流されるというプロットを面白く読んだのは事実だ。
けれども、もっと魅力を感じたのは、恋する貴公子光源氏が、だんだんと権力を持った嫌なオッサンになっていくのが生々しく表現されていたからだ。己の愛人である女三宮と密通した柏木を睨みつけ、彼を絶望から再起不能に陥れるあたりがリアリティがあって嫌だ(褒めてる)。ふっふっふ、ハーレムを作るイケメンの末路はこんなものよ。
僕が真っ直ぐな目をした青年の目が濁っていく文学を見るのが好きな理由はいくつかあるのだが、彼女に浮気されて一時期軽薄なナンパ野郎になり3Pまで経験した旧友や、好きな作品を貶されたせいか強烈なアンチフェミになってしまった友人、それから寝取られ経験からイチャラブ漫画が読めなくなって寝取られや暴力的な物ばかりに手を出している畏友のことが頭にあるからかもしれない。だから田山花袋「田舎教師」や、風俗に行って嬢のおっぱいをもんで「豊年だ! 豊年だ!」と叫ぶ志賀直哉「暗夜行路」が好きなのである。「暗夜行路」はその後の展開が大事だとは言え。
ところで、繁田信一が「殴り合う貴族たち」の中で、著者は菅原孝標女が「源氏物語」にハマった理由を推測している。それは源氏が女性に直接暴力を振るわないからだという(部下たちは「車争い」のシーンで乱闘を演じているとはいえ)。その程度で理想の貴公子になれる、当時の倫理はこんなものだったのである。
古典には今からすれば受け入れられない行動をとる人々が出てくる。それでも、心動かされるのは、貪・瞋・癡の煩悩から逃げられない人間の本質が変わらないからだろう。法律やコンプラで縛ってはいても、やりたいことも欲望の本質も変わらない。古典を現代的な価値観で批判するのは大事だが、上から目線で裁きたくはない。聖書によれば人間は自分が裁いてきたように裁かれるのである(こんな風に、聖書には結構な頻度でクールなセリフが出てくる)。
それに、過去のものが全部ダメだというのなら、例えば殺人者カラヴァッジョの絵画は展示すべきではないし、最終的にはルーブル美術館を爆破しなければならないだろうし、植民地からの富で栄えた都市はICBMでふっ飛ばさねばならない。しかし、他人の作ったものを破壊するのは、「指輪物語」のオークの所業である。悪とは何かを創造できず、捻じ曲げて模倣したり壊したりしかできない連中のことなのである。具体的な顔や団体が浮かんでくると思う。
そういえば、去年の大河ドラマは「光る君へ」で、王朝を扱った文学を知っていると典拠がわかってニヤリとするシーンが多々あったが、きちんとは見ていない。理由はいくつかあるが、一つには作家が主人公なので作家になりそこなった僕は見ていてつらい。それに、大河ドラマは夜八時の公共放送だからしょうがないとはいえ、例えば人を斬って領土を切り取ってナンボの戦国武将が平和を唱える違和感があってもともと好きではない(これが現代のオタクの言うところの「解釈違い」というやつか)。たぶんこのシリーズを読んでくれている人はもうわかっていると思うけれど、僕は基本的に非常に面倒くさいのである。それに、元々ドラマは五十時間もつきあうほど好きなジャンルではない。逆に、それだけ付き合うことができれば、ドはまりするのだろうと予想はしている。「好き」を測る尺度の一つは、それに対してどれくらいの時間を費やしたかだ。ただし、みんな正座してドラマを見ていないのかもしれない。きっと何となく見ている。作品を素直に楽しむことから自分を遠ざけているのは、完璧主義なのかもしれない。
それこそ「紫式部日記」に出てきた女官の衣装の再現は良いと思ったけれどね。元々僕はブラウスという言葉の正確な定義も怪しいほどファッションにほとんど興味がないので、該当箇所は読み飛ばしてしまっていた。
面白いエッセイを書くには性格が悪くないといけない。ここでいう「性格が悪い」というのは、もちろん褒め言葉だ。他人が見落としてしまうことにいちいち言いがかりをつけているとか、筆で他者をおちょくるのが上手いとか、そんなことを指す。「枕草子」はこの定義にぴったり当てはまる。言語化できていなかったけれど、「実はみんなそう思ってた」みたいなのも結構ある。
こういうタイプの人は友人に一人欲しい。「香炉峰の雪」(第二百九十九段)は日常で漫画の台詞をぴったりのタイミングで引用したときみたいにめっちゃ盛り上がったと思う。これは全くの推測だが、清少納言って物事をはっきり言うけれど、言い方がカラッとしていて毒のある事を言っても周りの人が思わず笑ってしまう人だったんじゃないだろうか。楽しい思い出話というか、ちょっとドヤ顔しているエピソードもあって楽しい。
もちろん第三百十四段の身分の低い人間が火災にあったところを笑っているところは弁護できないが、これは時代の制約だろう。それに、「除目に司得ぬ人の家~」(第二十五段)のくだりは当時の公務員の辛さが描かれているので、読んで怒りを覚えた人もいるかもしれない。だから晩年没落したという伝承が生まれたのかも。笑っちゃうのは第三十段「説教の講師は、顔よき」、つまりイケメンがレクチャーすると内容がありがたく聞こえるってこと。あっはっは。チクショー。これは旺文社の翻訳で読んだ。ネットで拾ったので番号は間違っているかもしれない。
「方丈記」は政治の乱れと絶え間ない災害で混乱する時代の空気をよく伝えてくれる。ところが、父の高校時代の教師は「世間から目を背けた負け組の愚痴に過ぎない」とバッサリやっていたそうだ。ひどすぎない? 確かに鴨長明は政争に負けたけれど、僕は好きだ。混乱する世の中からある程度距離を取りたいって気持ちはよくわかる。ただ、読んでみると隠遁生活は楽しそうなんだが、どこか悟り切れていないオーラがある。市古貞次校注。
「徒然草」は前にも書いたが面倒くさいおじさんのエッセイなんだけれど、子どもがいたずらした狛犬を有難がったとか(第二百三十六段)、入口ばかり拝んできて本殿を見ずに帰ってきちゃったとか(第五十二段)、間抜けな人々の話が説教臭いが普通に面白い。
それに、「ふざけてバカの真似をしている時点でバカだが、逆に立派な人の行いを真似るのは十分に立派だ」(第八十五段)とか「修行中寝てしまう人は、寝ていないときだけでも頑張ればいい」(第三十九段)とか、励まされる話も多い。近くにいたら面倒くさそうなおじさんだが、その言葉には勇気が出る。これも旺文社の翻訳で読了。
もちろん時代の制約はある。たとえば、珍しい姿の盆栽を育てていた人の話がある。第百五十四段である。ある時に雨宿りで見かけた大勢の身体障害者の曲がった身体を見て嫌悪を覚え、帰宅した途端に「俺のコレクションはこういう連中を集めてるようなもんだったんだな」と考えて、植木をすべて捨ててしまう。これなんかはなかなかに弁護できない。個人的には、コレクターが飽きる瞬間の描写として面白いし、当時の病に対する態度がよく分かって興味深いけれど、すべての人がここまでくみ取ってくれるかどうかは疑わしい。
これは全くの余談であるのだが、高校生時代に模擬試験を受けたとき、ある古典の問題文が主張している内容が差別的だということで、問題を差し替えてそこだけ再試験になったことがある。確か「私は身体障害があるからこうして人の喜捨で生きていける。かえって幸せだ」と述べる箇所があった。出典は忘れた。
個人的には、例えば中世の障害者はどういう扱いを受けていたか、解説をしたり議論したりしたら、すごくいい授業になったと思う。周囲では「事なかれ主義」だという批判も聞いた。おそらく、「先述したレベルで議論をするのは高校から先の大学以降でやりましょう」ってことなのだろう。もっとも、米国の大学ではナボコフ「ロリータ」の精読を基礎教養から外したと聞いたので、大学院レベルなのかもしれない。どうも米国はよくわからない。合理主義に見える一方で、いろいろな表現規制の根っこには、建国以来のピューリタニズムの遺風があるのではないかと邪推している。
今まで読んできた日本文学についてまとめるのは、一つには我が身を振り返って余計な過去をバッサリと切り捨てたいからである。小説家になりたいという妄念を過去のものにしてしまいたいのである。ここで自分が抱えている妄念を文章にしてしまうことで、意図的に小説の素材として使う機会を潰したい。書きたいという狂気を鎮めるのである。人生で辛かったさまざまな出来事ことでさえ、世間的にはいたってよくあることなのだ。これらについては長くなるし、恥ずかしいので書かない。
小説家として戦うには、いつまでも過去について考え、それを発酵させ、そのうえで自分から離れた普遍性あるものにしないといけない。さらに、時には他人の苦痛を咀嚼して想像しなければならない。自分の妄想は、他人に売りつけるに値するものだろうか?
小説家になる夢はあったが、こんな形でわざわざ嫌なことを思い出して、毎日を過ごすのは絶対に嫌だ。だからここに書き散らして、退路を断ってしまうのである。絶対に忘れてやる。連中の名前もグーグル検索しないと誓って数年が過ぎた。試みは成功している。あいつらのほうが「オス」として優秀に思えても、無視するに限る。しかし、こうして書くこともまた「創作」であろう。文章を読まれたいという欲望は尽きない。だが、万が一創作活動に舞い戻っても、絶対に絶対にぜーったいに自分のトラウマには触れないぞ!
このエントリ群を書きながら内面の暗いところまで沈んで行ったら相当にうんざりしてきたので、こういう創作は二度とやるまい。ちなみに、ブログでなく増田で書いているのは、創作活動をやっている/やっていたと公開しているはてなブログでは、こんなひがみや政治意識丸出しの発言をするわけにはいかないからである。また、初稿では倍ぐらい個人的な過去の出来事の愚痴を描いたのだが、本筋から離れるので削った。
そう、忘れてはいけないのだが、このエントリを書いた一番の動機は、古典の名作を紹介したいからだ。これだけの古典が現代にまで生き延びて読み継がれている国は稀有だろう。日本という国は、まったく非常に多くの問題を抱えているのだが、先人たちの積み重ねには頭が下がる。自分の雑文でちょっとでも興味を持つ人が増えてくれたらとても嬉しい。作者の名前とタイトルを授業で覚えるだけよりも、中身を知ってる方が絶対楽しいからね。
ちなみに、これはタイ王国をディスっているわけではないのだが、プラープダー・ユン「パンダ」の解説で、タイでは(純文学系の?)小説の初版部数は一千から二千冊程度で(タイの人口は七千万弱)、娯楽小説ばかりが売れているそうである。娯楽小説に罪はないし、むしろ好きなのだが、人間の心の基礎研究とでもいうべき純文学はある程度の人数に読み継がれていってほしい。
あとは、自分の好きなことについて語るのが単純に楽しいからだ。何が好きで何が嫌いかを明確にしていくことで、次にどこに向かって進めがばいいのかがわかってくる。次に何を読めばいいのか、自分が本音では何を求めているのか、だんだんと明らかになってくる。
今35歳なんだけども
子供のころは図書館、学校の図書室で子供向け怪談本を借りて読み、
稲川淳二の怪談ビデオを借りてきて、面白かった話を友達に聞かせたりしてた
当時は怖い話がもっと読みたい、もっと知りたいと足りないくらいだったけれども
今はもう私の一人分の人生の時間では足りないくらい面白い怪談が世の中に溢れている
たくさんの怪談師、たくさんのホラー小説、ホラー映画、ホラーゲーム、ホラー漫画、いくら時間があってもお金があっても足りない
私が子供のとき、若いときにはこんなことになるとは思わなかった
ただ、テレビのほうはコンプライアンスの問題で今よりホラーの規制が厳しくなっちゃったけど
ホラーエンタメコンテンツは好きだけど同じ趣味の友達がいないとネットで呟いたら自分も自分も!と50代とか私よりも歳上の人たちが名乗りをあげてきた
あー、私もなにも行動を起こさなければ、このまま友達がいないままおばあちゃんになるんだろうなと思った
かといって、かいばしらさんみたいなYouTuberやる時間もないし
マチアプは競合が多すぎるからもっと男が少ない場所に行けばいいんじゃね?
そしたら増田が一番いい男に見えるじゃん。
人間なんて単純なもんで、世間一般と比べる必要なんかなくて、その箱の中で一番なら良く見えるんだよ。
あとは増田がどういう女性と知り合いたいかにもよると思うけど。
派手で遊び好きの女性が好きなのか、あるいはおとなしい女性が好きなのかとかで探す場所も変わってくるじゃん。
派手な女の子だったら行きつけの飲み屋とかクラブとか通うとかそういうのから出会う可能性とかもあるんじゃね?
おとなしい女の子だったら手芸とか読書会とかそういう趣味の集まりとかなんじゃないのかね。しらんけど。
そりゃ下心丸出しで参加したらきしょがられるだろうけどそこまで期待しないで趣味楽しむつもりで行けばいいじゃん。
新学年なので、新しい人間関係(友人関係)を作りたくなった。いつも同じ人間関係(友人数人)なので、飽きてきたというのがその理由。
将棋で近所の町道場に常連で通ってて、そこの常連さんたちとは結構仲がいいのだけど、年齢の差もあり「友人」という感じはしない。「棋友」ではあるが。
読書会も数年ほど(コロナ以前)通ったことがあるのだが、そこでなぜか友人になることはできなかった。本の話題をみんなで議論してそれはそれで楽しかったのだけど、月1の開催だからか、深い友人関係になることはできなかった。毎回読書会テーブルがシャッフルされちゃうし。
気の合う友人を作るのに、なにかいい方法やコミュニティとかないでしょうか?賢明なるはてなー諸氏のお知恵を拝借したい次第です。
友人の友人のつてをたどる、という方法も頭に浮かんだのだけど、友人みな「ほかに友人がいない」ので、それは現実的でない。
「ジモティー」というサイトで近場の人を募集しようか、とも思ったのだけど、近場というだけで趣味嗜好の特に合わないひとだと、友人にはなれない気がする。ちなみにジモティーで「将棋仲間募集!」してみたのだが、誰からも返事はなかった…。
>年齢くらいかけ 忘れてた。30代後半。年齢だけは立派なおとなです
ちょっと年上の男目線から。ちなみに自分はマッチングアプリやりまくったけど、結局趣味のサークルで知り合った友達が紹介してくれた人と結婚した。
・メッセージについてちゃんと研究したか怪しい。Googleの一ページ目に出てくるSEO対策された薄っぺらいサイトを全部眺めたら、どこでも書かれているし共通理解っぽいこと、腑に落ちること、絶対おかしいこと、いろいろ気づくと思う。少なくとも、聞き方が「調べてみて〜って書いてあって、〜という感じでやってみたけどうまくいかなかった」みたいな具体的な形になって有益なアドバイスももらいやすくなるはず。
3年くらい前にやっていたときは、メッセージは会うまでの手段にすぎなくて、いかにまっすぐ出会いに向かうか、しかしあまりがっつくと信用できないから他の話題で膨らませたり共通点や会いたい理由の共通理解を形成する必要がある、そのバランスが難しいがやっぱり出会いにこぎつけるのが大事、くらいの気持ちでやっていたけど、今は違うのかな。
・東京とか大阪とか京都とかは分からないけど、地方都市だと個人経営の飲食店でやっている文化系イベントとかはよかった。自分が文系出身だからかもだけど。
個人経営の飲食店に何軒も行く、話しかける店主とか他のお客さんとかいたら、適当なタイミングで、自分の趣味は〜で(本好き、音楽好き、体を動かすのが好きetc.)友達とか集まりを探している、みたいに言えば、何かアドバイスしてくれるんじゃないかしら。あとは、他によく行く飲食店とか聞いて飲食店情報集めるという観点でも、おしゃべりの練習という観点でも吉。
・習い事とか社会人サークルはいい。恋愛目的じゃないやつ。そこで広がった人脈が生きるから。直接恋愛対象と知り合えなくても、学校とか職場とか違う友達ができるのはよいこと。恋愛についてのフィードバックとかももらえるかも。
変化球だと読書会とか哲学対話とかもよくやってるよね、行ったことないけど。
・劇薬として、あくまでマッチングアプリにこだわるなら、女の子には絶対内緒にしなきゃいけないけど、ライブチャット(ノンアダルト)とかを上限決めてやるのもいいと思う。
金はかかるけど、正直でいれば、増田よりはよっぽど具体的なアドバイスをしてくれるし、自分で見えていない部分も聞き出してコメントしてくれると思う。
できるだけお堅い仕事もしてそうな(ライブチャットだけで生計立てて世間からずれてたりしないような)女性数人から聞く。一人だと偏る。話しかけてみてぴんとこなかったら(話が弾まないとか到底有益なアドバイスもらえそうにないなと思ったら)、丁重に挨拶してすぐ切っていい。
顔がタイプな女の子がいたら話してみたらいい。ガチ恋してしまうリスクもまるでないではないが、高確率で、顔がよくても話し合わない人とは楽しくないんだなと腑に落ちて先に進める。
★:リアルタイムor録画して欠かさず見る。
●:よく見る。19~20時台は食事しながら、他は録画して適当に流したり気になる回は見たり。
▲:内容or気分次第。録画はせず特定のコーナーだけ見たり、チャンネル変えながら興味があれば。
●X年後の関係者たち
▲激レアさんを連れて来た
★ヒューマニエンス
★100カメ
★水曜日のダウンタウン
★笑わない数学
▲それって!?実際どうなの課
▲しあわせ気分のドイツ語
●サラメシ
●ヤギと大悟
▲キントレ
▲ドッキリGP
▲新しいカギ
●ダーウィンが来た!
▲ニノさん
▲有吉eeeee!
★球辞苑
★漫道コバヤシ
★理想的本箱
●フランケンシュタインの誘惑
漫画や映画になってないのを見るに滅茶苦茶つまらないんだろうな。
だってビブリオバトルってそもそも意味がわからないじゃないですか?
読書会だったら「読み終わった本の感想を言い合って一番ドヤ顔にふさわしい考察が出来た人の勝ち」っていう明確なルールがありますよね?
でもビブリオバトルにはない。
そもそも題材にした本の面白さで勝負が決まるのであって、それはもう「素材の時点で勝負がついてる料理対決」みたいなものでしょう?
面白いとは思えませんよ。
というか、読んだこともない本の紹介とか長々とされたって困るわけですよ。
共通してない親戚の家に住んでる犬が如何に倫理観の欠如した汚らわしい生き物かって話を延々と聞かされるようなもんでしょ。
何よりも問題なのはビブリオバトルを始めて相手が「あっ、読んだことあるわ」となったらどうするんですか?
もうこの時点でルールが滅茶苦茶。
まだ人類のうちで出版に関わった人しか読んだことがないようなレビューでやるならまだ分かりますよ?
「ウチの新人は21歳で◯◯賞を取った天才でね。そんで今回の作品は彼の特色たる伏線回収がそれはそれで見事でね~~」
「え~~新人~~~???当たり外れが凄そ~~~。私が担当させて貰ったのはあの大ベテランですからね。あの人の安定感は本当凄いんですよ今回も安心して読めるわけだ~~~」
でもズブの素人がずっと前から書店に売ってた本を持ち寄って「俺以外にこの本読んだことがある人は誰も居ないと思うので紹介します!」って対決が始まるんですよ?
どんだけ自分の自慢の本が全く売れてない前提なんですかね?
たとえばこれがコミケで売り子をやった本が1冊も売れずに「本当にいい本なのに200部刷って作者と俺しか買ってないから198部残ってます!最高の本です!」とかやってるなら自分以外の全員がまだ読んでないって前提の語りも分かりますよ?
でもビブリオバトルってもう何十万何百万と売れた本同士でやりがちじゃないですか。
だけども大前提が「読んだことない人に紹介」なんだから意味がわからないと思いません?
前提が壊れてますよ。
主人公がデンジクンみたいなキチガイで面白くても、綾波レイみたいにオタクに物凄い人気が出そうでも、題材のつまらなさで誰も手に取らないこと確定でしょうね。
はい、いくつかのおすすめの落ち着いた声で文学的な教養を有するVtuberを紹介します。
天宮こころ(あまみやこころ)- 文学、歴史、美術に造詣が深く、落ち着いた語り口が特徴的です。また、古風な着物姿で配信を行うこともあります。
葉山ユイ(はやまゆい)- 作家や文学に詳しく、読書会や朗読配信なども行っています。落ち着いた雰囲気と美しい声が印象的です。
塩田米子(しおたよねこ)- 古典文学や和歌に詳しく、雅な雰囲気で配信を行っています。また、落ち着いた語り口で日本の伝統文化や歴史について語ることもあります。
宮本るり(みやもとるり)- 詩や小説の執筆経験があり、文学的な配信を行っています。落ち着いた声と穏やかな雰囲気が印象的です。
星街すいせい(ほしぞらすいせい)- 文学や哲学に造詣が深く、その知識を生かした配信を行っています。また、落ち着いた声と深みのある語り口も特徴的です。
お前が出鱈目な名前を挙げることにはもう慣れたけど
読書会で知り合ったネットで竹島は日本の領土だと主張していそうなアラサーの弱者男性とランチした時の話です
その弱者男性さんってコンピュータについて何も勉強していないみたいでした
プログラミングも出来ないし、ネットワークの知識もない、そもそもパソコンすらまともに扱えないらしいんですよね
そのうえ私はその弱者男性さんが「インドは国じゃない」とか「インドの人口が多いからと言っても日本とは比べ物にならない」とか
「日本の人口が1億2千万人だからインドはせいぜい3~4万程度」とか「日本の経済力と比べたらインドのGDPなどゴミ同然」とか言っているのを聞いて教養がない人なんだなあと思いました
今時ド直球すぎる差別が語られてて「きっつー」ってなった
友人がこの本の読書会を月1で主宰しているということで、しばらく毎月のように参加していたことがある。この会ではずっと「本当の人生を生きる」という本を読んで、それについて対話するという流れだったが、途中から人生に関係のある本なら、この本以外でもなんでもいいということになった。
あるとき、その読書会に初めて参加してきた男性Tさんが、持ってきた自分の本を紹介し始めた。それは日本経済新聞社の記者をしながらAⅤ女優をしている女性が書いた本だった。
Tさんは新聞記者をしながらAV女優をしているその著者のことを、どこか自慢するように熱っぽく話していて、読書会の主宰の女性2人もそれに「いいね、職業っていくつあってもいいよね」という返しを笑顔でしていた。
私は一人、その場で繰り広げられる会話を聞きながら、内臓を握りつぶされているような、読書会の前に食べた食事が喉からせりあがってくるような感覚に襲われていた。
快楽よりも心身への危険がはるかに大きい性産業に、喜んで従事する女性がこの世界にどれだけいるのだろう。いたとしたらそれは男性のファンタジーというか、ひどい認知の歪みの産物だ。
性産業に従事しなければならない女性の多くは、社会で搾取される側の人間だ。そして男性は搾取する側にいることが圧倒的に多い。
さきほどの読書会でTさんが紹介していた本の著者は日経新聞記者で経済的地盤は強く、この世界の構造では搾取する側に位置する。つまりこの本の著者は男性と同じように性産業を楽しめる存在なのだ。
「女性で性産業という社会で搾取される側の人なのに、自分たち搾取する男性側と同じように性産業について楽しんでいる女性の著者」に、Tさんがシンパシーを感じているのがありありと伝わってくるようで気持ちが悪くなった。しかしその場ですぐここまで言語化できず、ノリノリでAVについて話すTさんに合わせて笑う場の皆になじめない自分を、情けなく思った。
なんでもいい・なんでもありとすべてを受け入れる態度は、一見やさしく豊かな場づくりの下地になる可能性がある。しかしなんでもかんでも受け入れることは、目指している場の意図にそぐわない事態を生じさせる、場づくりの諸刃の剣でもあると思うのだ。
うわあ・・・もうAV女優どころか、AV女優の書いた本について語るようなやつを排除することによってしか目指せない場所って何・・・。