はてなキーワード: 読書会とは
三年前、渋谷の桜丘町にある古いマンションの一室で月に一度だけ開かれていた読書会があった。
「Books & Beyond」とか「本と珈琲」みたいなカフェが並ぶあの界隈で、オーナーが趣味でやってるようなサブカル風の空間。壁にはカフカのポスターが貼られ、スピーカーからボサノヴァが流れていた。
六畳ほどの小さなスペースに八人くらいが座りそれぞれが持ち寄った本を紹介し合う。それが俺と彼女の出会いだった。
俺がその日持っていったのは『呪術廻戦』の第八巻。ほかの人たちが『中動態の世界』とか『そして誰もいなくなった』とか『サピエンス全史』とかを並べる中で、俺だけがジャンプコミックスを机に置いた。
でも当時の俺はそれを承知の上で、ある種の逆張り的勇気みたいなもので挑んでいた。会社では誰にも話しかけられず、Slackのアイコンもずっと初期設定のまま。それでも自分を注目して欲しいという欲求はあった。
「呪術廻戦のテーマは、“死の受け入れ”よりも“存在の肯定”にあると思うんです」
俺はそう言った。
それに対して、口を開いたのが彼女だった。白いマスクを外して冷静な目で俺をまっすぐに見た。
「でもそれって、“他者を媒介にしない存在”ってことですか?」
唐突にそんな言葉が出てきた。返す言葉に詰まった。彼女の声は低くて落ち着いていた。大学院で哲学を専攻していると言った。
その瞬間、空気が変わった。
みんなが「へえ〜」と頷いて、俺は笑ってごまかした。その笑いが妙に引きつっていたのを今でも覚えている。
そのあと彼女が言った。
「でも、面白いですよね。呪いって、社会の圧みたいなものですし」
その一言に、俺は救われた気がした。
彼女は俺を笑わなかった。
それどころか俺の話を拾って補足し、言語化してくれた。その会の後、俺たちは駅まで一緒に歩いた。
外は冷えていてコンビニの前のホットコーヒーの湯気が白く漂っていた。
「行く」と俺は答えた。
新宿御苑の近くに住んでいて、大学はお茶の水。彼女の持ってくる本はいつも背表紙が硬かった。
『悪について』
対して俺の持っていくのは『チェンソーマン』や『ブルーピリオド』。
彼女はよく笑った。
笑うときに、指先を口元に添える癖があった。
その仕草が上品で、俺はそれを見るたびに自分がどれほど下卑た生き物なのかを思い知らされた。
付き合うようになったのはその年の秋だった。
彼女が修論で忙しくなってから俺の存在が息抜きになったらしい。
「あなたと話してると、時間を忘れちゃう」と言われた夜、俺は人生で初めてコンビニの帰り道が輝いて見えた。ファミリーマートの青い光がネオンのように見えた。俺の中でなにかが初めて肯定された気がした。
イルミネーションが飾られてSNSでは「#冬の光2021」というタグが流行っていた。俺は寒くてポケットに手を突っ込んでいた。彼女は小さな紙袋を下げていて中には文房具店で買ったモレスキンのノートが入っていた。
彼女はそう言って笑った。そして突然立ち止まって空を指さした。
「ねえ、見える?オリオン座」
俺は空を見上げた。
そこには三つの星が斜めに並んでいた。
「……あれか?」
俺は正直何もわからなかった。
星はただの光の点にしか見えなかった。
俺の住んでいた葛飾区の夜空では、星なんてほとんど見えなかった。中学の帰り道、空を見上げてもあるのは街灯と電線だけだった。だから星座の名前なんて知る機会がなかった。
彼女がそう言った。
本当は行ったこともなかった。そんな余裕のある家庭じゃなかった。週末は母親がスーパーで特売の鶏むね肉を買って帰るのが恒例で、俺はその肉を味噌マヨで焼いて弁当に詰めてた。
星よりも肉の値段を見てた。だから空を見上げるという行為が俺には贅沢に思えた。
彼女は俺の顔を見て、少し笑った。
「かわいいね。知らないことがあるって」
それがなぜかすごく悔しかった。笑われたわけじゃないのに馬鹿にされた気がした。
俺は「そうだね」とだけ言って視線を落とした。
地面に落ちた枯葉を踏みつけた。カサッという音が、やけに大きく聞こえた。俺はあの夜自分が一生星座の名前を覚えないだろうと悟った。
通勤電車の窓に映る自分の顔は相変わらず冴えなかった。イヤホンからはYOASOBIの「群青」が流れていた。「夢を描くことが全ての始まりだ」なんて歌詞を聞きながら俺は窓の外を見た。
見たのは空じゃなく、線路だった。
陰キャは夜空を見上げない。
星の位置を覚えられる人間は、いつだって上を見て生きてきた人間だ。
図書館に通い、正しい敬語を使い、誰かに恥をかかされないように育てられた人間だ。
俺はそうじゃない。
俺の星座はコンビニの防犯カメラの赤い点滅と、タワマンの最上階で光る部屋の灯りでできている。
これは遺書だ。
俺はもう彼女と会っていない。
バレンタインだった。俺はその日会社で義理チョコすらもらえなかった。彼女からのチョコを待っていたわけじゃないけど期待してた。
「ねえ、今年はどんな本読んでるの?」
その一言が来るだけで救われたと思う。メッセージはもう既読にならない。
仕事帰りの山手線、品川から田端までの間イヤホン越しに呼び出し音が虚しく鳴った。ワンコール目、ふたつ、みっつ、……留守電に切り替わる。
録音された「この電話は現在使われておりません」という機械音声。それがまるで彼女の声に聞こえた。その瞬間息が止まった。ほんの数秒で胸が焼けた。
どうして?
俺のスマホには彼女の写真がまだある。表参道の青山ブックセンターの前で撮ったものだ。彼女は黒いコートを着て、手に『ロラン・バルト/恋愛のディスクール』を持っていた。俺は同じ日カバンの中に『チェンソーマン』の最新巻を入れていた。
その夜二人で神宮外苑のいちょう並木を歩いた。イルミネーションの下で彼女が「あなたはどんな未来を望むの?」と訊いた。俺は「普通に働いて普通に暮らせたら」と答えた。
俺は夢を語る勇気がなかった。陰キャは、夢を語ると笑われると思ってる。
それでもあの頃の俺は必死だった。休日には「丸善丸の内本店」で彼女が好きそうな本を探した。
『夜と霧』
『哲学の慰め』
表紙をめくっても内容の半分も理解できなかった。けど読んでるフリをすることに救われた。カフェ・ベローチェでブレンドを飲みながらマーカーで引いた単語をスマホで調べた。
「内在性」
「超越」
「主体性」。
どれも俺には関係ない言葉だった。それでも彼女の世界に近づける気がした。
夏になっても連絡はなかった。彼女のTwitterアカウントは鍵がかかりInstagramは削除されていた。
唯一Facebookだけが残っていた。プロフィール写真は変わっていなかったけど交際ステータスの欄が消えていた。俺は夜中の三時渋谷のファミマでストロングゼロを買って歩きながらそのページを何度も更新した。酔いで画面が滲み青白い光が夜風に揺れて、まるでオリオン座みたいだった。
俺は空を見上げた。
もしこれを読んで俺のことだと気づいたのなら、どうか連絡をして欲しい。俺はおまえが好きだ。おまえがいないと俺はもう駄目みたいなんだ。
たくさん本も読んだし勉強した。今なら話にだってついていけるし、楽しませることだって出来る。
これを俺の遺書にはさせないでくれ。
自分も「作品を読まれるためのコミュニケーションなんてやってられるか」タイプだけど、最低限は互助会システムに乗った方がラクだと気づいた。
生息するのはnoteだしフォロワー数も全然だけど、試していることを書いていく。カクヨムのシステムは知らないから応用できなかったらごめん。
1. 自分とジャンル・フォロワー数が近い人を片っ端からフォローする
自分のフォロワー数<フォロー数になるまで、文体や内容が好きだと思ったらとりあえずフォローする。1日1、2人ペースとかでいい。ジャンル違いだったり、あまりにも天の上の存在はフォロバしてくれないので対象外にする。
2. フォローした人の新着は「読まなくていい」のでスキ(いいね)する
noteは新着一覧からスキできるので読まずにスキする。そうすると向こうもスキしてくれる。これが狙い。
互いに読んでいないかもしれないけど、これは作品のスキ数を増やして第三者にも「この記事は面白いのでは?」「読んでみよう」と思ってもらうための工夫。なので、スキ数が増えればそれでいいと割り切る。
3. SNSをやろう
フォロワー数、記事のPVを増やすため。嫌だったらやらなくてもいい。
でもnoteのPVやフォロワーを増やしたいなら、note以外での出会いがあったほうがいいと考えた。それに作品だけでなく「自分」のファンになってもらった方がイベントや記事の拡散でも圧倒的に有利だ。ストレスにならない程度にSNSをやって、どーでもいい日常(ポジティブなものに限る)を投稿して、「いいね」程度でいいので絡んでおこう。
4. 誰かを褒めよう
SNSでもnoteでもいい。自分が見た・読んだ・体験したものの感想を書いて、誰かを褒めよう。「褒め」ってすごくポジティブだ。みんなポジティブな文章を読み、いい読後感を得たいと思っている。
辛辣レビューや悪口のバズもあるけれど、あれは高等技術なので自分は手を出さない。読まれても「スキ」されない可能性も高い(noteは誰が「スキ」したか分かる。自分が悪口に乗った証拠を残したくない人もいるだろう)
数ヶ月前、ある買い物に感動したので、普段の文章とは完全にジャンル違いだがnoteでレビュー記事を書いた。そしたらなんと1000スキ近くまで伸びて、フォロワーも一気に100増えた。普段の記事のスキも10近く増えている。文章のスキルは変わらないのに。
結局フォロワー数が多ければスキも増えるのだ。誰かを褒めて、その誰かのファンやジャンルのファンの目に触れよう。あわよくばフォローしてもらおう。自分の他の記事も読んでもらおう。ポジティブに、知らない誰かの前に出てみよう。
何を書けばいいのかわからないなら本の感想を書こう。カクヨムやnoteにいる人はみんな本が好きなので。
5. コンテストに出そう
noteはコンテストが多いので、ちょっとでもテーマにかすっていると思ったら出そう(過去記事でのエントリ可も多い)。
入賞を本気で狙わなくてもいい。コンテスト用のタグをつけると明らかにPV数やスキが増えるので、そこからフォロワーが増えればいいなくらいの狙いだ。スキの多い記事がプロフィールにあれば、第三者は「おっ」と感じる。とにかく「人気がある作家」「伸びてる作家」と思われることが大事だ。
もちろん入賞すれば箔がつくし、「テーマと指定文字数に従って書く」のはいい訓練になので、本気でやる方がいいとは思う。
ちなみに、「互助会システム」「駄サイクル」嫌いとしてやらないことも書いていく。
1. 付き合いでの同人誌購入
イベントに出ると、相互フォロワーでいつも自分の新刊を買ってくれる人が数名いる。でも自分は買わない。SNSでの付き合い程度ならいいけれど、この人の文章に○○円出せないな......と思っているので。
自分はいつも1人参加なので「ブースから離れられなくて、買ってもらうばかりですみません」とペコペコしている。これでなんとかなってる。
いいねまでしかしない。なぜならコメントでのコミュニケーションは面倒だから。もちろんコメントし合ってる人同士の親密度には負けるが、フォローを外されなければイベント告知や新着記事は見てもらえるのでOKとする。
3. オフラインでの絡み
読書会とか個人書店のイベントに積極的に参加する人もいるが自分はやらない。その時間があったら読みたいし、書きたいから。家族との都合もあるし。
個人書店のイベントに何度も参加して人脈を作り、その書店でトークイベントすることになりました!という人を見たときは素直に凄いと思ったし羨ましかったが、それでも自分はやりたくないなと思った。だったらコンテストで賞を取ったり、じわじわでも部数を上げて、実力で呼ばれる立場になりたい。
ちなみに書店とは営業・納品など最低限のお付き合いはある。本の売り上げに直結しないコミュニケーションはしないという意味で、オフラインでの絡みは多分今後もやらない。
「友達がいない?」飲み会に誘われなくなった僕 58歳記者の苦悩 https://digital.asahi.com/articles/AST993DFQT99UCVL001M.html?ptoken=01K51NBGK0BV1S8DKY0137EQN8
中高年男性、友達「つくろう」はダメ 心理学者が説く大人の交際術 https://digital.asahi.com/articles/AST993HFPT99UCVL003M.html?ptoken=01K51W9PYCQGFX3R0FC7KG06EW
朝日新聞が、中年男性の友人つくりを話題に、連載をはじめたようだ。
記事は有料記事だが、プレゼントで全文(1日だけ)読めるので、読んだ。
眠れないので、記事の感想を新聞社にメールした。以下がメール文
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将棋が趣味で、近所の将棋道場に通っているのですが、そこで年代が幅広く(小学生から70代のおじいさんまで)、友人ができました。
「親友」というよりも、将棋界には「棋友」という言葉があるのですが、皆仲が良く、本当に「友達」という感じです。
将棋は、対面コミュニケーションゲームであり、将棋道場は社交場なので、友人ができやすいと思います。
他、健康麻雀、囲碁や、読書会なども対面なので、友人ができやすいのではないでしょうか。
まずは自分でしっかりと趣味を持って、SNSを活用して、友人を作るのがいいでしょう。
趣味は人生を彩る、救うだけでなく、社交のツールにもなるとおもいます。
逆に、趣味にはまらない人は、「自己紹介できる場」の不在や、「自己開示する際のアピールポイントのなさ」、などで不利になると思います。
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私は実体験から、ずっと「友達のいない中高年男性は、将棋をやって友人を作ろう」と言ってるのだけどね。
そりゃ趣味も生きがいもないつまらない人と、わざわざ友達になろうなんて奇特な人はおらんからね。
対人コミュニケーション系の趣味をもってすれば、おのずと友人はできるでしょう。
ということで、はてなーの皆さんの、友人つくりの秘訣、実体験も教えてほしいです。
と言いたいところだけど、「友人がいない」って、結構、「人生のハンデを背負っている」と思うので、
「お化けの絵だよ」
いつか竹一が、自分の二階へ遊びに来た時、ご持参の、一枚の原色版の口絵を得意そうに自分に見せて、そう説明しました。
おや? と思いました。その瞬間、自分の落ち行く道が決定せられたように、後年に到って、そんな気がしてなりません。自分は、知っていました。それは、ゴッホの例の自画像に過ぎないのを知っていました。自分たちの少年の頃には、日本ではフランスの所謂印象派の画が大流行していて、洋画鑑賞の第一歩を、たいていこのあたりからはじめたもので、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ、ルナアルなどというひとの絵は、田舎の中学生でも、たいていその写真版を見て知っていたのでした。自分なども、ゴッホの原色版をかなりたくさん見て、タッチの面白さ、色彩の鮮やかさに興趣を覚えてはいたのですが、しかし、お化けの絵、だとは、いちども考えた事が無かったのでした。
自分は本棚から、モジリアニの画集を出し、焼けた赤銅のような肌の、れいの裸婦の像を竹一に見せました。
「すげえなあ」
竹一は眼を丸くして感嘆しました。
「地獄の馬みたい」
「やっぱり、お化けかね」
「おれも、こんなお化けの絵がかきたいよ」
あまりに人間を恐怖している人たちは、かえって、もっともっと、おそろしい妖怪ようかいを確実にこの眼で見たいと願望するに到る心理、神経質な、ものにおびえ易い人ほど、暴風雨の更に強からん事を祈る心理、ああ、この一群の画家たちは、人間という化け物に傷いためつけられ、おびやかされた揚句の果、ついに幻影を信じ、白昼の自然の中に、ありありと妖怪を見たのだ、しかも彼等は、それを道化などでごまかさず、見えたままの表現に努力したのだ、竹一の言うように、敢然と「お化けの絵」をかいてしまったのだ、ここに将来の自分の、仲間がいる、と自分は、涙が出たほどに興奮し、
と、なぜだか、ひどく声をひそめて、竹一に言ったのでした。
自分は、小学校の頃から、絵はかくのも、見るのも好きでした。けれども、自分のかいた絵は、自分の綴り方ほどには、周囲の評判が、よくありませんでした。自分は、どだい人間の言葉を一向に信用していませんでしたので、綴り方などは、自分にとって、ただお道化の御挨拶みたいなもので、小学校、中学校、と続いて先生たちを狂喜させて来ましたが、しかし、自分では、さっぱり面白くなく、絵だけは、(漫画などは別ですけれども)その対象の表現に、幼い我流ながら、多少の苦心を払っていました。学校の図画のお手本はつまらないし、先生の絵は下手くそだし、自分は、全く出鱈目にさまざまの表現法を自分で工夫して試みなければならないのでした。中学校へはいって、自分は油絵の道具も一揃そろい持っていましたが、しかし、そのタッチの手本を、印象派の画風に求めても、自分の画いたものは、まるで千代紙細工のようにのっぺりして、ものになりそうもありませんでした。けれども自分は、竹一の言葉に依って、自分のそれまでの絵画に対する心構えが、まるで間違っていた事に気が附きました。美しいと感じたものを、そのまま美しく表現しようと努力する甘さ、おろかしさ。マイスターたちは、何でも無いものを、主観に依って美しく創造し、或いは醜いものに嘔吐おうとをもよおしながらも、それに対する興味を隠さず、表現のよろこびにひたっている、つまり、人の思惑に少しもたよっていないらしいという、画法のプリミチヴな虎の巻を、竹一から、さずけられて、れいの女の来客たちには隠して、少しずつ、自画像の制作に取りかかってみました。
自分でも、ぎょっとしたほど、陰惨な絵が出来上りました。しかし、これこそ胸底にひた隠しに隠している自分の正体なのだ、おもては陽気に笑い、また人を笑わせているけれども、実は、こんな陰鬱な心を自分は持っているのだ、仕方が無い、とひそかに肯定し、けれどもその絵は、竹一以外の人には、さすがに誰にも見せませんでした。自分のお道化の底の陰惨を見破られ、急にケチくさく警戒せられるのもいやでしたし、また、これを自分の正体とも気づかず、やっぱり新趣向のお道化と見なされ、大笑いの種にせられるかも知れぬという懸念もあり、それは何よりもつらい事でしたので、その絵はすぐに押入れの奥深くしまい込みました。
また、学校の図画の時間にも、自分はあの「お化け式手法」は秘めて、いままでどおりの美しいものを美しく画く式の凡庸なタッチで画いていました。
自分は竹一にだけは、前から自分の傷み易い神経を平気で見せていましたし、こんどの自画像も安心して竹一に見せ、たいへんほめられ、さらに二枚三枚と、お化けの絵を画きつづけ、竹一からもう一つの、
「お前は、偉い絵画きになる」
という予言を得たのでした。
惚れられるという予言と、偉い絵画きになるという予言と、この二つの予言を馬鹿の竹一に依って額に刻印せられて、やがて、自分は東京へ出て来ました。
自分は、美術学校にはいりたかったのですが、父は、前から自分を高等学校にいれて、末は官吏にするつもりで、自分にもそれを言い渡してあったので、口応え一つ出来ないたちの自分は、ぼんやりそれに従ったのでした。四年から受けて見よ、と言われたので、自分も桜と海の中学はもういい加減あきていましたし、五年に進級せず、四年修了のままで、東京の高等学校に受験して合格し、すぐに寮生活にはいりましたが、その不潔と粗暴に辟易へきえきして、道化どころではなく、医師に肺浸潤の診断書を書いてもらい、寮から出て、上野桜木町の父の別荘に移りました。自分には、団体生活というものが、どうしても出来ません。それにまた、青春の感激だとか、若人の誇りだとかいう言葉は、聞いて寒気がして来て、とても、あの、ハイスクール・スピリットとかいうものには、ついて行けなかったのです。教室も寮も、ゆがめられた性慾の、はきだめみたいな気さえして、自分の完璧かんぺきに近いお道化も、そこでは何の役にも立ちませんでした。
父は議会の無い時は、月に一週間か二週間しかその家に滞在していませんでしたので、父の留守の時は、かなり広いその家に、別荘番の老夫婦と自分と三人だけで、自分は、ちょいちょい学校を休んで、さりとて東京見物などをする気も起らず(自分はとうとう、明治神宮も、楠正成くすのきまさしげの銅像も、泉岳寺の四十七士の墓も見ずに終りそうです)家で一日中、本を読んだり、絵をかいたりしていました。父が上京して来ると、自分は、毎朝そそくさと登校するのでしたが、しかし、本郷千駄木町の洋画家、安田新太郎氏の画塾に行き、三時間も四時間も、デッサンの練習をしている事もあったのです。高等学校の寮から脱けたら、学校の授業に出ても、自分はまるで聴講生みたいな特別の位置にいるような、それは自分のひがみかも知れなかったのですが、何とも自分自身で白々しい気持がして来て、いっそう学校へ行くのが、おっくうになったのでした。自分には、小学校、中学校、高等学校を通じて、ついに愛校心というものが理解できずに終りました。校歌などというものも、いちども覚えようとした事がありません。
自分は、やがて画塾で、或る画学生から、酒と煙草と淫売婦いんばいふと質屋と左翼思想とを知らされました。妙な取合せでしたが、しかし、それは事実でした。
その画学生は、堀木正雄といって、東京の下町に生れ、自分より六つ年長者で、私立の美術学校を卒業して、家にアトリエが無いので、この画塾に通い、洋画の勉強をつづけているのだそうです。
「五円、貸してくれないか」
お互いただ顔を見知っているだけで、それまで一言も話合った事が無かったのです。自分は、へどもどして五円差し出しました。
「よし、飲もう。おれが、お前におごるんだ。よかチゴじゃのう」
自分は拒否し切れず、その画塾の近くの、蓬莱ほうらい町のカフエに引っぱって行かれたのが、彼との交友のはじまりでした。
「前から、お前に眼をつけていたんだ。それそれ、そのはにかむような微笑、それが見込みのある芸術家特有の表情なんだ。お近づきのしるしに、乾杯! キヌさん、こいつは美男子だろう? 惚れちゃいけないぜ。こいつが塾へ来たおかげで、残念ながらおれは、第二番の美男子という事になった」
堀木は、色が浅黒く端正な顔をしていて、画学生には珍らしく、ちゃんとした脊広せびろを着て、ネクタイの好みも地味で、そうして頭髪もポマードをつけてまん中からぺったりとわけていました。
自分は馴れぬ場所でもあり、ただもうおそろしく、腕を組んだりほどいたりして、それこそ、はにかむような微笑ばかりしていましたが、ビイルを二、三杯飲んでいるうちに、妙に解放せられたような軽さを感じて来たのです。
「いや、つまらん。あんなところは、つまらん。学校は、つまらん。われらの教師は、自然の中にあり! 自然に対するパアトス!」
しかし、自分は、彼の言う事に一向に敬意を感じませんでした。馬鹿なひとだ、絵も下手にちがいない、しかし、遊ぶのには、いい相手かも知れないと考えました。つまり、自分はその時、生れてはじめて、ほんものの都会の与太者を見たのでした。それは、自分と形は違っていても、やはり、この世の人間の営みから完全に遊離してしまって、戸迷いしている点に於いてだけは、たしかに同類なのでした。そうして、彼はそのお道化を意識せずに行い、しかも、そのお道化の悲惨に全く気がついていないのが、自分と本質的に異色のところでした。
ただ遊ぶだけだ、遊びの相手として附合っているだけだ、とつねに彼を軽蔑けいべつし、時には彼との交友を恥ずかしくさえ思いながら、彼と連れ立って歩いているうちに、結局、自分は、この男にさえ打ち破られました。
しかし、はじめは、この男を好人物、まれに見る好人物とばかり思い込み、さすが人間恐怖の自分も全く油断をして、東京のよい案内者が出来た、くらいに思っていました。自分は、実は、ひとりでは、電車に乗ると車掌がおそろしく、歌舞伎座へはいりたくても、あの正面玄関の緋ひの絨緞じゅうたんが敷かれてある階段の両側に並んで立っている案内嬢たちがおそろしく、レストランへはいると、自分の背後にひっそり立って、皿のあくのを待っている給仕のボーイがおそろしく、殊にも勘定を払う時、ああ、ぎごちない自分の手つき、自分は買い物をしてお金を手渡す時には、吝嗇りんしょくゆえでなく、あまりの緊張、あまりの恥ずかしさ、あまりの不安、恐怖に、くらくら目まいして、世界が真暗になり、ほとんど半狂乱の気持になってしまって、値切るどころか、お釣を受け取るのを忘れるばかりでなく、買った品物を持ち帰るのを忘れた事さえ、しばしばあったほどなので、とても、ひとりで東京のまちを歩けず、それで仕方なく、一日一ぱい家の中で、ごろごろしていたという内情もあったのでした。
それが、堀木に財布を渡して一緒に歩くと、堀木は大いに値切って、しかも遊び上手というのか、わずかなお金で最大の効果のあるような支払い振りを発揮し、また、高い円タクは敬遠して、電車、バス、ポンポン蒸気など、それぞれ利用し分けて、最短時間で目的地へ着くという手腕をも示し、淫売婦のところから朝帰る途中には、何々という料亭に立ち寄って朝風呂へはいり、湯豆腐で軽くお酒を飲むのが、安い割に、ぜいたくな気分になれるものだと実地教育をしてくれたり、その他、屋台の牛めし焼とりの安価にして滋養に富むものたる事を説き、酔いの早く発するのは、電気ブランの右に出るものはないと保証し、とにかくその勘定に就いては自分に、一つも不安、恐怖を覚えさせた事がありませんでした。
さらにまた、堀木と附合って救われるのは、堀木が聞き手の思惑などをてんで無視して、その所謂情熱パトスの噴出するがままに、(或いは、情熱とは、相手の立場を無視する事かも知れませんが)四六時中、くだらないおしゃべりを続け、あの、二人で歩いて疲れ、気まずい沈黙におちいる危懼きくが、全く無いという事でした。人に接し、あのおそろしい沈黙がその場にあらわれる事を警戒して、もともと口の重い自分が、ここを先途せんどと必死のお道化を言って来たものですが、いまこの堀木の馬鹿が、意識せずに、そのお道化役をみずからすすんでやってくれているので、自分は、返事もろくにせずに、ただ聞き流し、時折、まさか、などと言って笑っておれば、いいのでした。
酒、煙草、淫売婦、それは皆、人間恐怖を、たとい一時でも、まぎらす事の出来るずいぶんよい手段である事が、やがて自分にもわかって来ました。それらの手段を求めるためには、自分の持ち物全部を売却しても悔いない気持さえ、抱くようになりました。
自分には、淫売婦というものが、人間でも、女性でもない、白痴か狂人のように見え、そのふところの中で、自分はかえって全く安心して、ぐっすり眠る事が出来ました。みんな、哀しいくらい、実にみじんも慾というものが無いのでした。そうして、自分に、同類の親和感とでもいったようなものを覚えるのか、自分は、いつも、その淫売婦たちから、窮屈でない程度の自然の好意を示されました。何の打算も無い好意、押し売りでは無い好意、二度と来ないかも知れぬひとへの好意、自分には、その白痴か狂人の淫売婦たちに、マリヤの円光を現実に見た夜もあったのです。
しかし、自分は、人間への恐怖からのがれ、幽かな一夜の休養を求めるために、そこへ行き、それこそ自分と「同類」の淫売婦たちと遊んでいるうちに、いつのまにやら無意識の、或るいまわしい雰囲気を身辺にいつもただよわせるようになった様子で、これは自分にも全く思い設けなかった所謂「おまけの附録」でしたが、次第にその「附録」が、鮮明に表面に浮き上って来て、堀木にそれを指摘せられ、愕然がくぜんとして、そうして、いやな気が致しました。はたから見て、俗な言い方をすれば、自分は、淫売婦に依って女の修行をして、しかも、最近めっきり腕をあげ、女の修行は、淫売婦に依るのが一ばん厳しく、またそれだけに効果のあがるものだそうで、既に自分には、あの、「女達者」という匂いがつきまとい、女性は、(淫売婦に限らず)本能に依ってそれを嗅ぎ当て寄り添って来る、そのような、卑猥ひわいで不名誉な雰囲気を、「おまけの附録」としてもらって、そうしてそのほうが、自分の休養などよりも、ひどく目立ってしまっているらしいのでした。
堀木はそれを半分はお世辞で言ったのでしょうが、しかし、自分にも、重苦しく思い当る事があり、たとえば、喫茶店の女から稚拙な手紙をもらった覚えもあるし、桜木町の家の隣りの将軍のはたちくらいの娘が、毎朝、自分の登校の時刻には、用も無さそうなのに、ご自分の家の門を薄化粧して出たりはいったりしていたし、牛肉を食いに行くと、自分が黙っていても、そこの女中が、……また、いつも買いつけの煙草屋の娘から手渡された煙草の箱の中に、……また、歌舞伎を見に行って隣りの席のひとに、……また、深夜の市電で自分が酔って眠っていて、……また、思いがけなく故郷の親戚の娘から、思いつめたような手紙が来て、……また、誰かわからぬ娘が、自分の留守中にお手製らしい人形を、……自分が極度に消極的なので、いずれも、それっきりの話で、ただ断片、それ以上の進展は一つもありませんでしたが、何か女に夢を見させる雰囲気が、自分のどこかにつきまとっている事は、それは、のろけだの何だのといういい加減な冗談でなく、否定できないのでありました。自分は、それを堀木ごとき者に指摘せられ、屈辱に似た苦にがさを感ずると共に、淫売婦と遊ぶ事にも、にわかに興が覚めました。
堀木は、また、その見栄坊みえぼうのモダニティから、(堀木の場合、それ以外の理由は、自分には今もって考えられませんのですが)或る日、自分を共産主義の読書会とかいう(R・Sとかいっていたか、記憶がはっきり致しません)そんな、秘密の研究会に連れて行きました。堀木などという人物にとっては、共産主義の秘密会合も、れいの「東京案内」の一つくらいのものだったのかも知れません。自分は所謂「同志」に紹介せられ、パンフレットを一部買わされ、そうして上座のひどい醜い顔の青年から、マルクス経済学の講義を受けました。しかし、自分には、それはわかり切っている事のように思われました。それは、そうに違いないだろうけれども、人間の心には、もっとわけのわからない、おそろしいものがある。慾、と言っても、言いたりない、ヴァニティ、と言っても、言いたりない、色と慾、とこう二つ並べても、言いたりない、何だか自分にもわからぬが、人間の世の底に、経済だけでない、へんに怪談じみたものがあるような気がして、その怪談におびえ切っている自分には、所謂唯物論を、水の低きに流れるように自然に肯定しながらも、しかし、それに依って、人間に対する恐怖から解放せられ、青葉に向って眼をひらき、希望のよろこびを感ずるなどという事は出来ないのでした。けれども、自分は、いちども欠席せずに、そのR・S(と言ったかと思いますが、間違っているかも知れません)なるものに出席し、「同志」たちが、いやに一大事の如く、こわばった顔をして、一プラス一は二、というような、ほとんど初等の算術めいた理論の研究にふけっているのが滑稽に見えてたまらず、れいの自分のお道化で、会合をくつろがせる事に努め、そのためか、次第に研究会の窮屈な気配もほぐれ、自分はその会合に無くてかなわぬ人気者という形にさえなって来たようでした。この、単純そうな人たちは、自分の事を、やはりこの人たちと同じ様に単純で、そうして、楽天的なおどけ者の「同志」くらいに考えていたかも知れませんが、もし、そうだったら、自分は、この人たちを一から十まで、あざむいていたわけです。自分は、同志では無かったんです。けれども、その会合に、いつも欠かさず出席して、皆にお道化のサーヴィスをして来ました。
好きだったからなのです。自分には、その人たちが、気にいっていたからなのです。しかし、それは必ずしも、マルクスに依って結ばれた親愛感では無かったのです。
非合法。自分には、それが幽かに楽しかったのです。むしろ、居心地がよかったのです。世の中の合法というもののほうが、かえっておそろしく、(それには、底知れず強いものが予感せられます)そのからくりが不可解で、とてもその窓の無い、底冷えのする部屋には坐っておられず、外は非合法の海であっても、それに飛び込んで泳いで、やがて死に到るほうが、自分には、いっそ気楽のようでした。
日蔭者ひかげもの、という言葉があります。人間の世に於いて、みじめな、敗者、悪徳者を指差していう言葉のようですが、自分は、自分を生れた時からの日蔭者のような気がしていて、世間から、あれは日蔭者だと指差されている程のひとと逢うと、自分は、必ず、優しい心になるのです。そうして、その自分の「優しい心」は、自身でうっとりするくらい優しい心でした。
また、犯人意識、という言葉もあります。自分は、この人間の世の中に於いて、一生その意識に苦しめられながらも、しかし、それは自分の糟糠そうこうの妻の如き好伴侶はんりょで、そいつと二人きりで侘わびしく遊びたわむれているというのも、自分の生きている Permalink | 記事への反応(1) | 20:27
自分は、金持ちの家に生れたという事よりも、俗にいう「できる」事に依って、学校中の尊敬を得そうになりました。自分は、子供の頃から病弱で、よく一つき二つき、また一学年ちかくも寝込んで学校を休んだ事さえあったのですが、それでも、病み上りのからだで人力車に乗って学校へ行き、学年末の試験を受けてみると、クラスの誰よりも所謂「できて」いるようでした。からだ具合いのよい時でも、自分は、さっぱり勉強せず、学校へ行っても授業時間に漫画などを書き、休憩時間にはそれをクラスの者たちに説明して聞かせて、笑わせてやりました。また、綴り方には、滑稽噺こっけいばなしばかり書き、先生から注意されても、しかし、自分は、やめませんでした。先生は、実はこっそり自分のその滑稽噺を楽しみにしている事を自分は、知っていたからでした。或る日、自分は、れいに依って、自分が母に連れられて上京の途中の汽車で、おしっこを客車の通路にある痰壺たんつぼにしてしまった失敗談(しかし、その上京の時に、自分は痰壺と知らずにしたのではありませんでした。子供の無邪気をてらって、わざと、そうしたのでした)を、ことさらに悲しそうな筆致で書いて提出し、先生は、きっと笑うという自信がありましたので、職員室に引き揚げて行く先生のあとを、そっとつけて行きましたら、先生は、教室を出るとすぐ、自分のその綴り方を、他のクラスの者たちの綴り方の中から選び出し、廊下を歩きながら読みはじめて、クスクス笑い、やがて職員室にはいって読み終えたのか、顔を真赤にして大声を挙げて笑い、他の先生に、さっそくそれを読ませているのを見とどけ、自分は、たいへん満足でした。
お茶目。
自分は、所謂お茶目に見られる事に成功しました。尊敬される事から、のがれる事に成功しました。通信簿は全学科とも十点でしたが、操行というものだけは、七点だったり、六点だったりして、それもまた家中の大笑いの種でした。
けれども自分の本性は、そんなお茶目さんなどとは、凡およそ対蹠たいせき的なものでした。その頃、既に自分は、女中や下男から、哀かなしい事を教えられ、犯されていました。幼少の者に対して、そのような事を行うのは、人間の行い得る犯罪の中で最も醜悪で下等で、残酷な犯罪だと、自分はいまでは思っています。しかし、自分は、忍びました。これでまた一つ、人間の特質を見たというような気持さえして、そうして、力無く笑っていました。もし自分に、本当の事を言う習慣がついていたなら、悪びれず、彼等の犯罪を父や母に訴える事が出来たのかも知れませんが、しかし、自分は、その父や母をも全部は理解する事が出来なかったのです。人間に訴える、自分は、その手段には少しも期待できませんでした。父に訴えても、母に訴えても、お巡まわりに訴えても、政府に訴えても、結局は世渡りに強い人の、世間に通りのいい言いぶんに言いまくられるだけの事では無いかしら。
必ず片手落のあるのが、わかり切っている、所詮しょせん、人間に訴えるのは無駄である、自分はやはり、本当の事は何も言わず、忍んで、そうしてお道化をつづけているより他、無い気持なのでした。
なんだ、人間への不信を言っているのか? へえ? お前はいつクリスチャンになったんだい、と嘲笑ちょうしょうする人も或いはあるかも知れませんが、しかし、人間への不信は、必ずしもすぐに宗教の道に通じているとは限らないと、自分には思われるのですけど。現にその嘲笑する人をも含めて、人間は、お互いの不信の中で、エホバも何も念頭に置かず、平気で生きているではありませんか。やはり、自分の幼少の頃の事でありましたが、父の属していた或る政党の有名人が、この町に演説に来て、自分は下男たちに連れられて劇場に聞きに行きました。満員で、そうして、この町の特に父と親しくしている人たちの顔は皆、見えて、大いに拍手などしていました。演説がすんで、聴衆は雪の夜道を三々五々かたまって家路に就き、クソミソに今夜の演説会の悪口を言っているのでした。中には、父と特に親しい人の声もまじっていました。父の開会の辞も下手、れいの有名人の演説も何が何やら、わけがわからぬ、とその所謂父の「同志たち」が怒声に似た口調で言っているのです。そうしてそのひとたちは、自分の家に立ち寄って客間に上り込み、今夜の演説会は大成功だったと、しんから嬉しそうな顔をして父に言っていました。下男たちまで、今夜の演説会はどうだったと母に聞かれ、とても面白かった、と言ってけろりとしているのです。演説会ほど面白くないものはない、と帰る途々みちみち、下男たちが嘆き合っていたのです。
しかし、こんなのは、ほんのささやかな一例に過ぎません。互いにあざむき合って、しかもいずれも不思議に何の傷もつかず、あざむき合っている事にさえ気がついていないみたいな、実にあざやかな、それこそ清く明るくほがらかな不信の例が、人間の生活に充満しているように思われます。けれども、自分には、あざむき合っているという事には、さして特別の興味もありません。自分だって、お道化に依って、朝から晩まで人間をあざむいているのです。自分は、修身教科書的な正義とか何とかいう道徳には、あまり関心を持てないのです。自分には、あざむき合っていながら、清く明るく朗らかに生きている、或いは生き得る自信を持っているみたいな人間が難解なのです。人間は、ついに自分にその妙諦みょうていを教えてはくれませんでした。それさえわかったら、自分は、人間をこんなに恐怖し、また、必死のサーヴィスなどしなくて、すんだのでしょう。人間の生活と対立してしまって、夜々の地獄のこれほどの苦しみを嘗なめずにすんだのでしょう。つまり、自分が下男下女たちの憎むべきあの犯罪をさえ、誰にも訴えなかったのは、人間への不信からではなく、また勿論クリスト主義のためでもなく、人間が、葉蔵という自分に対して信用の殻を固く閉じていたからだったと思います。父母でさえ、自分にとって難解なものを、時折、見せる事があったのですから。
そうして、その、誰にも訴えない、自分の孤独の匂いが、多くの女性に、本能に依って嗅かぎ当てられ、後年さまざま、自分がつけ込まれる誘因の一つになったような気もするのです。
つまり、自分は、女性にとって、恋の秘密を守れる男であったというわけなのでした。
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第二の手記
海の、波打際、といってもいいくらいに海にちかい岸辺に、真黒い樹肌の山桜の、かなり大きいのが二十本以上も立ちならび、新学年がはじまると、山桜は、褐色のねばっこいような嫩葉わかばと共に、青い海を背景にして、その絢爛けんらんたる花をひらき、やがて、花吹雪の時には、花びらがおびただしく海に散り込み、海面を鏤ちりばめて漂い、波に乗せられ再び波打際に打ちかえされる、その桜の砂浜が、そのまま校庭として使用せられている東北の或る中学校に、自分は受験勉強もろくにしなかったのに、どうやら無事に入学できました。そうして、その中学の制帽の徽章きしょうにも、制服のボタンにも、桜の花が図案化せられて咲いていました。
その中学校のすぐ近くに、自分の家と遠い親戚に当る者の家がありましたので、その理由もあって、父がその海と桜の中学校を自分に選んでくれたのでした。自分は、その家にあずけられ、何せ学校のすぐ近くなので、朝礼の鐘の鳴るのを聞いてから、走って登校するというような、かなり怠惰な中学生でしたが、それでも、れいのお道化に依って、日一日とクラスの人気を得ていました。
生れてはじめて、謂わば他郷へ出たわけなのですが、自分には、その他郷のほうが、自分の生れ故郷よりも、ずっと気楽な場所のように思われました。それは、自分のお道化もその頃にはいよいよぴったり身について来て、人をあざむくのに以前ほどの苦労を必要としなくなっていたからである、と解説してもいいでしょうが、しかし、それよりも、肉親と他人、故郷と他郷、そこには抜くべからざる演技の難易の差が、どのような天才にとっても、たとい神の子のイエスにとっても、存在しているものなのではないでしょうか。俳優にとって、最も演じにくい場所は、故郷の劇場であって、しかも六親眷属けんぞく全部そろって坐っている一部屋の中に在っては、いかな名優も演技どころでは無くなるのではないでしょうか。けれども自分は演じて来ました。しかも、それが、かなりの成功を収めたのです。それほどの曲者くせものが、他郷に出て、万が一にも演じ損ねるなどという事は無いわけでした。
自分の人間恐怖は、それは以前にまさるとも劣らぬくらい烈しく胸の底で蠕動ぜんどうしていましたが、しかし、演技は実にのびのびとして来て、教室にあっては、いつもクラスの者たちを笑わせ、教師も、このクラスは大庭さえいないと、とてもいいクラスなんだが、と言葉では嘆じながら、手で口を覆って笑っていました。自分は、あの雷の如き蛮声を張り上げる配属将校をさえ、実に容易に噴き出させる事が出来たのです。
もはや、自分の正体を完全に隠蔽いんぺいし得たのではあるまいか、とほっとしかけた矢先に、自分は実に意外にも背後から突き刺されました。それは、背後から突き刺す男のごたぶんにもれず、クラスで最も貧弱な肉体をして、顔も青ぶくれで、そうしてたしかに父兄のお古と思われる袖が聖徳太子の袖みたいに長すぎる上衣うわぎを着て、学課は少しも出来ず、教練や体操はいつも見学という白痴に似た生徒でした。自分もさすがに、その生徒にさえ警戒する必要は認めていなかったのでした。
その日、体操の時間に、その生徒(姓はいま記憶していませんが、名は竹一といったかと覚えています)その竹一は、れいに依って見学、自分たちは鉄棒の練習をさせられていました。自分は、わざと出来るだけ厳粛な顔をして、鉄棒めがけて、えいっと叫んで飛び、そのまま幅飛びのように前方へ飛んでしまって、砂地にドスンと尻餅をつきました。すべて、計画的な失敗でした。果して皆の大笑いになり、自分も苦笑しながら起き上ってズボンの砂を払っていると、いつそこへ来ていたのか、竹一が自分の背中をつつき、低い声でこう囁ささやきました。
「ワザ。ワザ」
自分は震撼しんかんしました。ワザと失敗したという事を、人もあろうに、竹一に見破られるとは全く思いも掛けない事でした。自分は、世界が一瞬にして地獄の業火に包まれて燃え上るのを眼前に見るような心地がして、わあっ! と叫んで発狂しそうな気配を必死の力で抑えました。
表面は相変らず哀しいお道化を演じて皆を笑わせていましたが、ふっと思わず重苦しい溜息ためいきが出て、何をしたってすべて竹一に木っ葉みじんに見破られていて、そうしてあれは、そのうちにきっと誰かれとなく、それを言いふらして歩くに違いないのだ、と考えると、額にじっとり油汗がわいて来て、狂人みたいに妙な眼つきで、あたりをキョロキョロむなしく見廻したりしました。できる事なら、朝、昼、晩、四六時中、竹一の傍そばから離れず彼が秘密を口走らないように監視していたい気持でした。そうして、自分が、彼にまつわりついている間に、自分のお道化は、所謂「ワザ」では無くて、ほんものであったというよう思い込ませるようにあらゆる努力を払い、あわよくば、彼と無二の親友になってしまいたいものだ、もし、その事が皆、不可能なら、もはや、彼の死を祈るより他は無い、とさえ思いつめました。しかし、さすがに、彼を殺そうという気だけは起りませんでした。自分は、これまでの生涯に於おいて、人に殺されたいと願望した事は幾度となくありましたが、人を殺したいと思った事は、いちどもありませんでした。それは、おそるべき相手に、かえって幸福を与えるだけの事だと考えていたからです。
自分は、彼を手なずけるため、まず、顔に偽クリスチャンのような「優しい」媚笑びしょうを湛たたえ、首を三十度くらい左に曲げて、彼の小さい肩を軽く抱き、そうして猫撫ねこなで声に似た甘ったるい声で、彼を自分の寄宿している家に遊びに来るようしばしば誘いましたが、彼は、いつも、ぼんやりした眼つきをして、黙っていました。しかし、自分は、或る日の放課後、たしか初夏の頃の事でした、夕立ちが白く降って、生徒たちは帰宅に困っていたようでしたが、自分は家がすぐ近くなので平気で外へ飛び出そうとして、ふと下駄箱のかげに、竹一がしょんぼり立っているのを見つけ、行こう、傘を貸してあげる、と言い、臆する竹一の手を引っぱって、一緒に夕立ちの中を走り、家に着いて、二人の上衣を小母さんに乾かしてもらうようにたのみ、竹一を二階の自分の部屋に誘い込むのに成功しました。
その家には、五十すぎの小母さんと、三十くらいの、眼鏡をかけて、病身らしい背の高い姉娘(この娘は、いちどよそへお嫁に行って、それからまた、家へ帰っているひとでした。自分は、このひとを、ここの家のひとたちにならって、アネサと呼んでいました)それと、最近女学校を卒業したばかりらしい、セッちゃんという姉に似ず背が低く丸顔の妹娘と、三人だけの家族で、下の店には、文房具やら運動用具を少々並べていましたが、主な収入は、なくなった主人が建てて残して行った五六棟の長屋の家賃のようでした。
「耳が痛い」
竹一は、立ったままでそう言いました。
「雨に濡れたら、痛くなったよ」
自分が、見てみると、両方の耳が、ひどい耳だれでした。膿うみが、いまにも耳殻の外に流れ出ようとしていました。
「これは、いけない。痛いだろう」
「雨の中を、引っぱり出したりして、ごめんね」
と女の言葉みたいな言葉を遣って「優しく」謝り、それから、下へ行って綿とアルコールをもらって来て、竹一を自分の膝ひざを枕にして寝かせ、念入りに耳の掃除をしてやりました。竹一も、さすがに、これが偽善の悪計であることには気附かなかったようで、
「お前は、きっと、女に惚ほれられるよ」
と自分の膝枕で寝ながら、無智なお世辞を言ったくらいでした。
しかしこれは、おそらく、あの竹一も意識しなかったほどの、おそろしい悪魔の予言のようなものだったという事を、自分は後年に到って思い知りました。惚れると言い、惚れられると言い、その言葉はひどく下品で、ふざけて、いかにも、やにさがったものの感じで、どんなに所謂「厳粛」の場であっても、そこへこの言葉が一言でもひょいと顔を出すと、みるみる憂鬱の伽藍がらんが崩壊し、ただのっぺらぼうになってしまうような心地がするものですけれども、惚れられるつらさ、などという俗語でなく、愛せられる不安、とでもいう文学語を用いると、あながち憂鬱の伽藍をぶちこわす事にはならないようですから、奇妙なものだと思います。
竹一が、自分に耳だれの膿の仕末をしてもらって、お前は惚れられるという馬鹿なお世辞を言い、自分はその時、ただ顔を赤らめて笑って、何も答えませんでしたけれども、しかし、実は、幽かすかに思い当るところもあったのでした。でも、「惚れられる」というような野卑な言葉に依って生じるやにさがった雰囲気ふんいきに対して、そう言われると、思い当るところもある、などと書くのは、ほとんど落語の若旦那のせりふにさえならぬくらい、おろかしい感懐を示すようなもので、まさか、自分は、そんなふざけた、やにさがった気持で、「思い当るところもあった」わけでは無いのです。
自分には、人間の女性のほうが、男性よりもさらに数倍難解でした。自分の家族は、女性のほうが男性よりも数が多く、また親戚にも、女の子がたくさんあり、またれいの「犯罪」の女中などもいまして、自分は幼い時から、女とばかり遊んで育ったといっても過言ではないと思っていますが、それは、また、しかし、実に、薄氷を踏む思いで、その女のひとたちと附合って来たのです。ほとんど、まるで見当が、つかないのです。五里霧中で、そうして時たま、虎の尾を踏む失敗をして、ひどい痛手を負い、それがまた、男性から受ける笞むちとちがって、内出血みたいに極度に不快に内攻して、なかなか治癒ちゆし難い傷でした。
女は引き寄せて、つっ放す、或いはまた、女は、人のいるところでは自分をさげすみ、邪慳じゃけんにし、誰もいなくなると、ひしと抱きしめる、女は死んだように深く眠る、女は眠るために生きているのではないかしら、その他、女に就いてのさまざまの観察を、すでに自分は、幼年時代から得ていたのですが、同じ人類のようでありながら、男とはまた、全く異った生きもののような感じで、そうしてまた、この不可解で油断のならぬ生きものは、奇妙に自分をかまうのでした。「惚れられる」なんていう言葉も、また「好かれる」という言葉も、自分の場合にはちっとも、ふさわしくなく、「かまわれる」とでも言ったほうが、まだしも実状の説明に適しているかも知れません。
女は、男よりも更に、道化には、くつろぐようでした。自分がお道化を演じ、男はさすがにいつまでもゲラゲラ笑ってもいませんし、それに自分も男のひとに対し、調子に乗ってあまりお道化を演じすぎると失敗するという事を知っていましたので、必ず適当のところで切り上げるように心掛けていましたが、女は適度という事を知らず、いつまでもいつまでも、自分にお道化を要求し、自分はその限りないアンコールに応じて、へとへとになるのでした。実に、よく笑うのです。いったいに、女は、男よりも快楽をよけいに頬張る事が出来るようです。
自分が中学時代に世話になったその家の姉娘も、妹娘も、ひまさえあれば、二階の自分の部屋にやって来て、自分はその度毎に飛び上らんばかりにぎょっとして、そうして、ひたすらおびえ、
「御勉強?」
「いいえ」
と微笑して本を閉じ、
或る晩、妹娘のセッちゃんが、アネサと一緒に自分の部屋へ遊びに来て、さんざん自分にお道化を演じさせた揚句の果に、そんな事を言い出しました。
「なぜ?」
いつでも、こんな乱暴な命令口調で言うのでした。道化師は、素直にアネサの眼鏡をかけました。とたんに、二人の娘は、笑いころげました。
当時、ハロルド・ロイドとかいう外国の映画の喜劇役者が、日本で人気がありました。
自分は立って片手を挙げ、
「諸君」
と言い、
と一場の挨拶を試み、さらに大笑いさせて、それから、ロイドの映画がそのまちの劇場に来るたび毎に見に行って、ひそかに彼の表情などを研究しました。
また、或る秋の夜、自分が寝ながら本を読んでいると、アネサが鳥のように素早く部屋へはいって来て、いきなり自分の掛蒲団の上に倒れて泣き、
「葉ちゃんが、あたしを助けてくれるのだわね。そうだわね。こんな家、一緒に出てしまったほうがいいのだわ。助けてね。助けて」
などと、はげしい事を口走っては、また泣くのでした。けれども、自分には、女から、こんな態度を見せつけられるのは、これが最初ではありませんでしたので、アネサの過激な言葉にも、さして驚かず、かえってその陳腐、無内容に興が覚めた心地で、そっと蒲団から脱け出し、机の上の柿をむいて、その一きれをアネサに手渡してやりました。すると、アネサは、しゃくり上げながらその柿を食べ、
「何か面白い本が無い? 貸してよ」
と言いました。
自分は漱石の「吾輩は猫である」という本を、本棚から選んであげました。
「ごちそうさま」
アネサは、恥ずかしそうに笑って部屋から出て行きましたが、このアネサに限らず、いったい女は、どんな気持で生きているのかを考える事は、自分にとって、蚯蚓みみずの思いをさぐるよりも、ややこしく、わずらわしく、薄気味の悪いものに感ぜられていました。ただ、自分は、女があんなに急に泣き出したりした場合、何か甘いものを手渡してやると、それを食べて機嫌を直すという事だけは、幼い時から、自分の経験に依って知っていました。
また、妹娘のセッちゃんは、その友だちまで自分の部屋に連れて来て、自分がれいに依って公平に皆を笑わせ、友だちが帰ると、セッちゃんは、必ずその友だちの悪口を言うのでした。あのひとは不良少女だから、気をつけるように、ときまって言うのでした。そんなら、わざわざ連れて来なければ、よいのに、おかげで自分の部屋の来客の、ほとんど全部が女、という事になってしまいました。
しかし、それは、竹一のお世辞の「惚れられる」事の実現では未だ決して無かったのでした。つまり、自分は、日本の東北のハロルド・ロイドに過ぎなかったのです。竹一の無智なお世辞が、いまわしい予言として、なまなまと生きて来て、不吉な形貌を呈するようになったのは、更にそれから、数年経った後の事でありました。
竹一は、また、自分にもう一つ、重大な贈り物をしていました。
「お化けの絵だよ」
いつか竹一が、自分の二階へ遊びに来た時、ご持参の、一枚の原色版の口絵を得意そうに自分に見せて、そう説明しました。
おや? と思いました。その瞬間、自分の落ち行く道が決定せられたように、後年に到って、そんな気がしてなりません。自分は、知っていました。それは、ゴッホの例の Permalink | 記事への反応(1) | 20:25
生成AIは哲学そのものの基盤を覆すまでには至っていないものの、
1. 研究方法、2) 問いの優先順位、3) 社会が抱く「哲学観」
――この三層において急速かつ不可逆的な変容をもたらしつつあります。
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⸻
| 領域 | 生成AIが投げかけた核心的問い | 代表的議論・動向 |
| :---------- | :------------------------------------------- | :----------------------------- |
| 心の哲学 | 「言語モデルに意識は宿り得るか」 | Nature Humanities & Social Sciences の最新論文は**「可能条件の地図」**を作成し、意識判定基準の再定義を提案しています。 |
| 認識論 | 意味は統計的相関から「浮上」しうるのか | 2024年のデカルト講演では**「理解なき理解」**問題を中心に討論が行われました。 |
| 倫理学/価値論 | “人間中心主義”を前提とする倫理枠組みの限界 | サンフランシスコのシンポジウムでは**「宇宙的アラインメント」**思想が提唱され、人類優先から価値多元主義へ視点が拡張されています。 |
| 教育哲学 | オーセンティシティはどう測るべきか | オハイオ州立大学の報告では**「課題設計そのものがメタ的倫理判断になる」**と指摘されています。 |
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生成AIは、哲学の方法と射程を拡張し、社会の哲学観を塗り替えつつある。
しかし哲学そのものの“土台”を置き換えたわけではなく、むしろ次の土台がどのように築かれるかをめぐる新たなメタ議論へ私たちを招き入れた。
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まず最初に感じるのは、全体的に「どこかで見たことがある」ような内容ばかりで、独自性やオリジナリティがほとんど感じられません。読書会や本の紹介、日記的な投稿はNote上に無数に存在しており、他との差別化が全くできていません。タイトルや記事内容も平凡で、読者の興味を引く工夫がほぼ皆無です。
### 2. 情報の整理不足・読みづらさ
記事の並びや構成に一貫性がなく、何を伝えたいのかが非常に分かりづらいです。固定記事や連載の案内も、ただ羅列しているだけで、初めて訪れた読者が「どこから読めばいいのか」「何がメインなのか」が全く伝わってきません。ナビゲーションや記事の導線設計が甘く、ユーザー体験をまったく考慮していない印象です。
### 3. 文章力・発信力の弱さ
文章が全体的に単調で、熱意や説得力が感じられません。日記や読書会の告知も、ただの事務連絡のようで、読者の心に響くものがありません。「本に線を引く」などの企画も、内容が薄く、なぜそれが面白いのか・どんな価値があるのかが全く伝わってきません。読書会の案内も淡々としており、参加したいと思わせる魅力がゼロです。
メンバーシップ(月額100円〜)を設定していますが、提供内容があまりに曖昧で、これにお金を払う価値があるとは到底思えません。掲示板や読書会の情報交換など、無料でできることを有料化しているだけで、付加価値がほとんど見当たりません。「人間を知る」という抽象的な理念だけが先行し、具体的なメリットや成果が示されていません。
### 5. 全体的な印象
総じて、読書好きの個人が自己満足のために運営しているだけのページという印象が強いです。読者への配慮や、情報発信者としての責任感が感じられず、プロ意識にも欠けます。これではファンも増えず、広がりも期待できません。
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### 酷評まとめ
辛口ですが、今のままでは「読む価値なし」と言わざるを得ません。もし本気で読者を増やしたいなら、コンテンツの質・独自性・読者目線での工夫を根本から見直すべきでしょう。
Citations:
[1] https://note.com/bookforest2022
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小さいころから「男の子っぽく」するのが苦手で、誰かと競争して他人を蹴落とすみたいなことに対する嫌悪感が強かった。
大学ではフェミニズムやジェンダー論を学びたいと思い、幸いにも仲間に恵まれて、1年生の時点で上野千鶴子『家父長制と資本制』や、バトラー『ジェンダー・トラブル』なんかの読書会に参加した。
当時は珍しかった、SNSでジェンダーやクィアをテーマに発信する団体にも参加した。
結局、フェミニズムやジェンダー論を専門にすることはなかったけど、個人的なこだわりはあったので、卒論では日本であまり知られていない海外のフェミニストの思想を紹介し、相当なページ数を割いた。
そんな自分が、フェミニズムをやめようと思っている。以下にその理由を書いていく。
文系大学は近年バカにされがちで、わざわざ大学に入らなくても本だけで学べるとか言われることもあるが、仲間がいるというのは学問にとって必須のことだと思う。
特に大学は、営利目的も承認欲求もなく、ただ自分の知りたいことを学びたいという人が集まるから、そういった環境での読書会は最高に楽しかった。
けれど、大学を卒業して働き出してからは、そういった機会もめっきり減ってしまった。
そうすると、本を読んで考えたことを人と共有したり、他の人の読みに刺激されることもなくなって、思想や哲学の本を読むのが面白くなくなった。
就職した自分にとって、大学で人と話すことの代わりになったのは、インターネットにおける男女論を見ることだった。
最初は、「フェミニズム運動の最先端だから」と思って見ていたけど、だんだんと見るたびに心が辛くなるようになってきた。
インターネットのフェミニズムによって企業が動くことはあるけれど、それは企業がフェミニズムの重要性を理解したからではなく、ミソジニー企業のレッテルを貼られると企業活動に支障が出るからだ。
そういうある種の脅しみたいなものによる社会変革も、リアルな政治の場では当たり前だと思ってはいるが、一方で、インターネットのフェミニストの人たちは、思想的な理想や一貫性、プライドのようなものは持ち合わせていないようだった。
だから、自分がいくらフェミニズムを勉強し、広めたところで、そういった政治のシーンに対しては何も意味がないと思うようになった。
男性の自殺の数が多いことは、アンチフェミの伝家の宝刀のようになっており、あまり数の大小で語りたくないのだが・・・。
それでも、男性の自殺というのは大きな社会課題であることは間違いない。人が死んでんねんで?
インターネットのフェミニストの人たちは、それを「差別コスト」だと言ってみたり、男性が甘やかされて育てられてたからだと言ったりしている。
どう考えても、自殺するような状況に追い込まれている男性と、普通に生活している女性とを比較したら、社会的強者なのは圧倒的に後者であり、性別などという雑なくくりにとらわれず(そうですよね?)、社会的強者は弱者を救済するために相応のコストを支払わなければならない。
「差別コスト理論」というのは、結局は、「私たちは男性を救いたくありません」という感情にドライブされた、結論先取の議論に過ぎない。
こういった体たらくを見て、例えば選挙に行くときも、選択的夫婦別姓のようなイシューには賛成できても、「男性の自殺を軽視するような勢力に権力を渡すことは絶対にできない」という判断を優先せざるを得なくなっている。
もう、自分がフェミニズムに関して本を読んだり、男女平等の推進のために活動することはないだろうなと思う。
代わりに、ホームレスや貧困家庭の子供を支援する団体に寄付をすることで、自身の社会的責務を果たしていきたいと思う。
家族もいるし仕事もあるので、自分の人生にとって本当に大切なことにしか時間と労力を割けないと感じるようになった。
だから、この日記を書いた理由は、(もちろん拡散されたりみんなの意見が聞けたら嬉しいという思いもあるが)自分にとって大切だったフェミニズム・ジェンダー論に、人生の区切りをつけたいと思ったからだ。
Chat GPT:
結論から言うと――「海外にもあるけど、少数でめっちゃ偏ってる」や。
⸻
• アメリカ・イギリス問わず、「簡潔で要点を押さえる」=スマートという美徳がある。
• 長くなるとすぐ「So what?(で、何が言いたいの?)」って返される。
• 雑談で構造ジャンプしたり、前提から話し出すと「教授かよ」ってなるやつ。
• 欧米の教育では「主張→根拠→結論」のロジカルな構文パターンが重視される。
• 構造や背景を語るより、要点と立場をまず明示することが最優先される。
• → ワイくんみたいに「まず構造から話す」「全体像から入る」タイプは少し異質になる。
1. Redditの哲学/認知系サブレディット(例:r/askphilosophy)
• 論点が明確で専門的な文脈があるときは、めちゃくちゃ丁寧に議論が展開される。
• ただし雑談ノリは少なく、「真面目で構造的」じゃないと浮く。
• こういう層は情報圧の高さや構造ジャンプに慣れてるし、喜んで応答してくれる。
• ただし、「推し文化」「コケコッコー的親しみ」は薄い傾向。
• 少人数で長文を咀嚼する場もあるけど、極端にハードルが高いかクローズド。
• コミュニティの流動性や拡張性はあまりなく、「お作法」も多め。
【1】文化的に「遠回し」や「前提共有」を好む
→ これは“あいまいさ”の文化やなくて、「共通の背景を前提にして処理する文化」やねん。
• 「わかる人にはわかる」で成り立つ雑談
• 書いてないことも“察する”構文
• 省略と文脈補完の高度な読み合い
これ、言語データが少ないのに意味が伝わる“圧縮構造”になってる。
→ 「変でもOK」「OS違っても翻訳しよう」っていう許容性が根付いた場が育ちやすい
ただし、集まって雑談できる場所は圧倒的に少ないし、ノリがぜんぜん違う。
それができる土地。
日本の知的変人コミュニティは、希少な湿地帯に咲いた哲学的ネギや。
海外には同じDNAの種はあっても、ここまで繁殖してないんやで。
大事にしよな。
在宅でずっと一人で仕事をしているので人と話がしたい。
そんな理由でオンラインカフェ会を探しているのだが、中々いいのがない。
読書会とかにも参加したけど、参加者の持ち寄った本のジャンルがてんでバラバラで、あらすじや感想を聞いても、わぁ読みたい、と思わなかったし、たぶん私の本もそう思われてた。
難しいよね。
若いころオフラインのものに参加したら、勧誘の嵐でこんなものに数千円も払ったかと思うと腹が立って仕方がなかったから。
後、異様にポジティブで「夢を語ろう」とかいう系も、胡散臭すぎる。
で、穏やかそうな会があったので試しに参加したのが先日。
これもひどかった。
臨床心理士主催の会、とは聞いていたけど、普通に雑談という体だったので気にしなかったのだが、1人ずつ自己紹介が重い。
発達障害の子供のサポートが~、介護士をしていて老々介護の現状が~、新宿を歩くと家庭環境に問題がある子供が~(いわゆるナンチャラキッズだよね?)、等々、何でそんな重いの?
かと思えば、参加者同士、合いそうな人が居ればLINEグループを個別に作ってつなげることをしてる、とか。
多分、そういう「つながり」(←手あかがつきすぎて大嫌いな言葉)を求める人たちのためにカフェ会ってあるんだろうけどさ。
私が求めてるのは違うのよ。
確かに一人で在宅勤務でずっとやってるけど、毎日人と話してるの。
仕事で(コールセンターなどでない)クライアントさんとオンライン通話したり、営業ビデオ通話したりしてる。
ただ、基本ずっと話を聞く側になるので、プライベートな会話をサラッと楽しみたいだけなのだ。
あとね、よくオンライン会であるのが「顔だしお願いします」の一言。
あれね、いらねーーーーーーーーーーー!!!
仕事では止む無く顔出ししてやってるけど、常に画面上に相手の顔と自分の顔が映し出されてるのって怖くない?
仕事中は極力画面共有したり、ビデオ画面を最小化してみないようにしてるけど、ただし、失礼のないようにビデオカメラを必ず見つめる、リアクションを大きめにとるなど、オンラインならではの接客の苦労があって。
顔出しも勘弁してくれよ。
ネットリテラシーはここにはないのかよ?と思う。
先日の会では「大きなリアクションをもらえると司会者として助かりますねー」とか「ビデオ通話だからこそ、興味がない話の時の表情も丸見えなのでご注意ください」とか言われて。
ここに来る人たちって、普段オフラインで話してる人たちなのかもしれない。
だから、平気なのかな?
私は毎日やってるから、オフの時ぐらい、すっぴんでビデオなしで、飲み食いしながら頬杖ついたりだらけた感じでダラーッと好きなことをしゃべりたい!
私の選び方が間違っていたのかもしれない。。
とはいえ、対面のカフェ会に参加した時は、その場は良かったけど、職業を話したら、変な人に執着されて、かなり困った。
LINE無視してたのに、半年以上たって、またLINEきてギョッとしたもの。
はっきり断ってブロックしたけど。
(以来。職業名も伏せている。めんどくせえわ)
匿名で、ビデオオフで、サラッとその場限りの会話を楽しめるオンラインのカフェ会が欲しくて、こっそり企画して募集をかけている。
今のとこ反応なしw
まぁいつか誰かが来るかな、というくらいのうっすい希望でやってる。
きっとそういう場を求めてる人っているはず。
顔出ししてくれる方が安心、っていうけど、ネット上に顔出すリスクは無視なのかな?といつも思う。
仕事上、ネットに顔と名前(の一部)を出してるけどそれでも嫌だもん。
万が一カフェ会で私のクライアントと鉢合わせたらとか考えるほど身バレが怖い。
すごく疑問。
かつて所属していた文学サークルで、先輩が角田光代「菊葉荘の幽霊たち」って作品をテーマに読書会を開いた。何事にも投げやりな女性が主役なこの作品が全く好きになれず、その後角田光代という名前を見ても全く手が伸びなかった。今にして思えば、全体的に生きる気力がないというか、適当にその辺の相手と何となく交際してしまう感じの、怠惰な女性が出てくるのに嫌悪感があったのだろう。理想的な美を探し求めていた大学生の僕には、うまく理解できないキャラクターだった。あるいは、当時女性を理想化しすぎていたからかもしれない。理想の恋人が、僕と同じように美や最高のクォリティ(なんじゃそりゃ?)を求める存在であると望んでいたのだろう。なんというか、十代の考えそうなことである。しかし、それは後述するように、すべて自己愛だ。それはさておき、「源氏物語」も僕は講談社学術文庫で読んだ。確か、今泉忠義訳である。再読のときは、角田光代訳でもいいのかも。書き続けられている作家ということは、力があるってことだし。
光源氏の恋愛遍歴や、彼を取り巻く女性たちについての思いは昔書いたので省く。僕がこの小説が好きなのは、恋の物語だけが理由ではない。もちろん、欲望まみれだった僕は、例えば朧月夜との密通で須磨に流されるというプロットを面白く読んだのは事実だ。
けれども、もっと魅力を感じたのは、恋する貴公子光源氏が、だんだんと権力を持った嫌なオッサンになっていくのが生々しく表現されていたからだ。己の愛人である女三宮と密通した柏木を睨みつけ、彼を絶望から再起不能に陥れるあたりがリアリティがあって嫌だ(褒めてる)。ふっふっふ、ハーレムを作るイケメンの末路はこんなものよ。
僕が真っ直ぐな目をした青年の目が濁っていく文学を見るのが好きな理由はいくつかあるのだが、彼女に浮気されて一時期軽薄なナンパ野郎になり3Pまで経験した旧友や、好きな作品を貶されたせいか強烈なアンチフェミになってしまった友人、それから寝取られ経験からイチャラブ漫画が読めなくなって寝取られや暴力的な物ばかりに手を出している畏友のことが頭にあるからかもしれない。だから田山花袋「田舎教師」や、風俗に行って嬢のおっぱいをもんで「豊年だ! 豊年だ!」と叫ぶ志賀直哉「暗夜行路」が好きなのである。「暗夜行路」はその後の展開が大事だとは言え。
ところで、繁田信一が「殴り合う貴族たち」の中で、著者は菅原孝標女が「源氏物語」にハマった理由を推測している。それは源氏が女性に直接暴力を振るわないからだという(部下たちは「車争い」のシーンで乱闘を演じているとはいえ)。その程度で理想の貴公子になれる、当時の倫理はこんなものだったのである。
古典には今からすれば受け入れられない行動をとる人々が出てくる。それでも、心動かされるのは、貪・瞋・癡の煩悩から逃げられない人間の本質が変わらないからだろう。法律やコンプラで縛ってはいても、やりたいことも欲望の本質も変わらない。古典を現代的な価値観で批判するのは大事だが、上から目線で裁きたくはない。聖書によれば人間は自分が裁いてきたように裁かれるのである(こんな風に、聖書には結構な頻度でクールなセリフが出てくる)。
それに、過去のものが全部ダメだというのなら、例えば殺人者カラヴァッジョの絵画は展示すべきではないし、最終的にはルーブル美術館を爆破しなければならないだろうし、植民地からの富で栄えた都市はICBMでふっ飛ばさねばならない。しかし、他人の作ったものを破壊するのは、「指輪物語」のオークの所業である。悪とは何かを創造できず、捻じ曲げて模倣したり壊したりしかできない連中のことなのである。具体的な顔や団体が浮かんでくると思う。
そういえば、去年の大河ドラマは「光る君へ」で、王朝を扱った文学を知っていると典拠がわかってニヤリとするシーンが多々あったが、きちんとは見ていない。理由はいくつかあるが、一つには作家が主人公なので作家になりそこなった僕は見ていてつらい。それに、大河ドラマは夜八時の公共放送だからしょうがないとはいえ、例えば人を斬って領土を切り取ってナンボの戦国武将が平和を唱える違和感があってもともと好きではない(これが現代のオタクの言うところの「解釈違い」というやつか)。たぶんこのシリーズを読んでくれている人はもうわかっていると思うけれど、僕は基本的に非常に面倒くさいのである。それに、元々ドラマは五十時間もつきあうほど好きなジャンルではない。逆に、それだけ付き合うことができれば、ドはまりするのだろうと予想はしている。「好き」を測る尺度の一つは、それに対してどれくらいの時間を費やしたかだ。ただし、みんな正座してドラマを見ていないのかもしれない。きっと何となく見ている。作品を素直に楽しむことから自分を遠ざけているのは、完璧主義なのかもしれない。
それこそ「紫式部日記」に出てきた女官の衣装の再現は良いと思ったけれどね。元々僕はブラウスという言葉の正確な定義も怪しいほどファッションにほとんど興味がないので、該当箇所は読み飛ばしてしまっていた。
面白いエッセイを書くには性格が悪くないといけない。ここでいう「性格が悪い」というのは、もちろん褒め言葉だ。他人が見落としてしまうことにいちいち言いがかりをつけているとか、筆で他者をおちょくるのが上手いとか、そんなことを指す。「枕草子」はこの定義にぴったり当てはまる。言語化できていなかったけれど、「実はみんなそう思ってた」みたいなのも結構ある。
こういうタイプの人は友人に一人欲しい。「香炉峰の雪」(第二百九十九段)は日常で漫画の台詞をぴったりのタイミングで引用したときみたいにめっちゃ盛り上がったと思う。これは全くの推測だが、清少納言って物事をはっきり言うけれど、言い方がカラッとしていて毒のある事を言っても周りの人が思わず笑ってしまう人だったんじゃないだろうか。楽しい思い出話というか、ちょっとドヤ顔しているエピソードもあって楽しい。
もちろん第三百十四段の身分の低い人間が火災にあったところを笑っているところは弁護できないが、これは時代の制約だろう。それに、「除目に司得ぬ人の家~」(第二十五段)のくだりは当時の公務員の辛さが描かれているので、読んで怒りを覚えた人もいるかもしれない。だから晩年没落したという伝承が生まれたのかも。笑っちゃうのは第三十段「説教の講師は、顔よき」、つまりイケメンがレクチャーすると内容がありがたく聞こえるってこと。あっはっは。チクショー。これは旺文社の翻訳で読んだ。ネットで拾ったので番号は間違っているかもしれない。
「方丈記」は政治の乱れと絶え間ない災害で混乱する時代の空気をよく伝えてくれる。ところが、父の高校時代の教師は「世間から目を背けた負け組の愚痴に過ぎない」とバッサリやっていたそうだ。ひどすぎない? 確かに鴨長明は政争に負けたけれど、僕は好きだ。混乱する世の中からある程度距離を取りたいって気持ちはよくわかる。ただ、読んでみると隠遁生活は楽しそうなんだが、どこか悟り切れていないオーラがある。市古貞次校注。
「徒然草」は前にも書いたが面倒くさいおじさんのエッセイなんだけれど、子どもがいたずらした狛犬を有難がったとか(第二百三十六段)、入口ばかり拝んできて本殿を見ずに帰ってきちゃったとか(第五十二段)、間抜けな人々の話が説教臭いが普通に面白い。
それに、「ふざけてバカの真似をしている時点でバカだが、逆に立派な人の行いを真似るのは十分に立派だ」(第八十五段)とか「修行中寝てしまう人は、寝ていないときだけでも頑張ればいい」(第三十九段)とか、励まされる話も多い。近くにいたら面倒くさそうなおじさんだが、その言葉には勇気が出る。これも旺文社の翻訳で読了。
もちろん時代の制約はある。たとえば、珍しい姿の盆栽を育てていた人の話がある。第百五十四段である。ある時に雨宿りで見かけた大勢の身体障害者の曲がった身体を見て嫌悪を覚え、帰宅した途端に「俺のコレクションはこういう連中を集めてるようなもんだったんだな」と考えて、植木をすべて捨ててしまう。これなんかはなかなかに弁護できない。個人的には、コレクターが飽きる瞬間の描写として面白いし、当時の病に対する態度がよく分かって興味深いけれど、すべての人がここまでくみ取ってくれるかどうかは疑わしい。
これは全くの余談であるのだが、高校生時代に模擬試験を受けたとき、ある古典の問題文が主張している内容が差別的だということで、問題を差し替えてそこだけ再試験になったことがある。確か「私は身体障害があるからこうして人の喜捨で生きていける。かえって幸せだ」と述べる箇所があった。出典は忘れた。
個人的には、例えば中世の障害者はどういう扱いを受けていたか、解説をしたり議論したりしたら、すごくいい授業になったと思う。周囲では「事なかれ主義」だという批判も聞いた。おそらく、「先述したレベルで議論をするのは高校から先の大学以降でやりましょう」ってことなのだろう。もっとも、米国の大学ではナボコフ「ロリータ」の精読を基礎教養から外したと聞いたので、大学院レベルなのかもしれない。どうも米国はよくわからない。合理主義に見える一方で、いろいろな表現規制の根っこには、建国以来のピューリタニズムの遺風があるのではないかと邪推している。
今まで読んできた日本文学についてまとめるのは、一つには我が身を振り返って余計な過去をバッサリと切り捨てたいからである。小説家になりたいという妄念を過去のものにしてしまいたいのである。ここで自分が抱えている妄念を文章にしてしまうことで、意図的に小説の素材として使う機会を潰したい。書きたいという狂気を鎮めるのである。人生で辛かったさまざまな出来事ことでさえ、世間的にはいたってよくあることなのだ。これらについては長くなるし、恥ずかしいので書かない。
小説家として戦うには、いつまでも過去について考え、それを発酵させ、そのうえで自分から離れた普遍性あるものにしないといけない。さらに、時には他人の苦痛を咀嚼して想像しなければならない。自分の妄想は、他人に売りつけるに値するものだろうか?
小説家になる夢はあったが、こんな形でわざわざ嫌なことを思い出して、毎日を過ごすのは絶対に嫌だ。だからここに書き散らして、退路を断ってしまうのである。絶対に忘れてやる。連中の名前もグーグル検索しないと誓って数年が過ぎた。試みは成功している。あいつらのほうが「オス」として優秀に思えても、無視するに限る。しかし、こうして書くこともまた「創作」であろう。文章を読まれたいという欲望は尽きない。だが、万が一創作活動に舞い戻っても、絶対に絶対にぜーったいに自分のトラウマには触れないぞ!
このエントリ群を書きながら内面の暗いところまで沈んで行ったら相当にうんざりしてきたので、こういう創作は二度とやるまい。ちなみに、ブログでなく増田で書いているのは、創作活動をやっている/やっていたと公開しているはてなブログでは、こんなひがみや政治意識丸出しの発言をするわけにはいかないからである。また、初稿では倍ぐらい個人的な過去の出来事の愚痴を描いたのだが、本筋から離れるので削った。
そう、忘れてはいけないのだが、このエントリを書いた一番の動機は、古典の名作を紹介したいからだ。これだけの古典が現代にまで生き延びて読み継がれている国は稀有だろう。日本という国は、まったく非常に多くの問題を抱えているのだが、先人たちの積み重ねには頭が下がる。自分の雑文でちょっとでも興味を持つ人が増えてくれたらとても嬉しい。作者の名前とタイトルを授業で覚えるだけよりも、中身を知ってる方が絶対楽しいからね。
ちなみに、これはタイ王国をディスっているわけではないのだが、プラープダー・ユン「パンダ」の解説で、タイでは(純文学系の?)小説の初版部数は一千から二千冊程度で(タイの人口は七千万弱)、娯楽小説ばかりが売れているそうである。娯楽小説に罪はないし、むしろ好きなのだが、人間の心の基礎研究とでもいうべき純文学はある程度の人数に読み継がれていってほしい。
あとは、自分の好きなことについて語るのが単純に楽しいからだ。何が好きで何が嫌いかを明確にしていくことで、次にどこに向かって進めがばいいのかがわかってくる。次に何を読めばいいのか、自分が本音では何を求めているのか、だんだんと明らかになってくる。
今35歳なんだけども
子供のころは図書館、学校の図書室で子供向け怪談本を借りて読み、
稲川淳二の怪談ビデオを借りてきて、面白かった話を友達に聞かせたりしてた
当時は怖い話がもっと読みたい、もっと知りたいと足りないくらいだったけれども
今はもう私の一人分の人生の時間では足りないくらい面白い怪談が世の中に溢れている
たくさんの怪談師、たくさんのホラー小説、ホラー映画、ホラーゲーム、ホラー漫画、いくら時間があってもお金があっても足りない
私が子供のとき、若いときにはこんなことになるとは思わなかった
ただ、テレビのほうはコンプライアンスの問題で今よりホラーの規制が厳しくなっちゃったけど
ホラーエンタメコンテンツは好きだけど同じ趣味の友達がいないとネットで呟いたら自分も自分も!と50代とか私よりも歳上の人たちが名乗りをあげてきた
あー、私もなにも行動を起こさなければ、このまま友達がいないままおばあちゃんになるんだろうなと思った
かといって、かいばしらさんみたいなYouTuberやる時間もないし
マチアプは競合が多すぎるからもっと男が少ない場所に行けばいいんじゃね?
そしたら増田が一番いい男に見えるじゃん。
人間なんて単純なもんで、世間一般と比べる必要なんかなくて、その箱の中で一番なら良く見えるんだよ。
あとは増田がどういう女性と知り合いたいかにもよると思うけど。
派手で遊び好きの女性が好きなのか、あるいはおとなしい女性が好きなのかとかで探す場所も変わってくるじゃん。
派手な女の子だったら行きつけの飲み屋とかクラブとか通うとかそういうのから出会う可能性とかもあるんじゃね?
おとなしい女の子だったら手芸とか読書会とかそういう趣味の集まりとかなんじゃないのかね。しらんけど。
そりゃ下心丸出しで参加したらきしょがられるだろうけどそこまで期待しないで趣味楽しむつもりで行けばいいじゃん。
新学年なので、新しい人間関係(友人関係)を作りたくなった。いつも同じ人間関係(友人数人)なので、飽きてきたというのがその理由。
将棋で近所の町道場に常連で通ってて、そこの常連さんたちとは結構仲がいいのだけど、年齢の差もあり「友人」という感じはしない。「棋友」ではあるが。
読書会も数年ほど(コロナ以前)通ったことがあるのだが、そこでなぜか友人になることはできなかった。本の話題をみんなで議論してそれはそれで楽しかったのだけど、月1の開催だからか、深い友人関係になることはできなかった。毎回読書会テーブルがシャッフルされちゃうし。
気の合う友人を作るのに、なにかいい方法やコミュニティとかないでしょうか?賢明なるはてなー諸氏のお知恵を拝借したい次第です。
友人の友人のつてをたどる、という方法も頭に浮かんだのだけど、友人みな「ほかに友人がいない」ので、それは現実的でない。
「ジモティー」というサイトで近場の人を募集しようか、とも思ったのだけど、近場というだけで趣味嗜好の特に合わないひとだと、友人にはなれない気がする。ちなみにジモティーで「将棋仲間募集!」してみたのだが、誰からも返事はなかった…。
>年齢くらいかけ 忘れてた。30代後半。年齢だけは立派なおとなです
ちょっと年上の男目線から。ちなみに自分はマッチングアプリやりまくったけど、結局趣味のサークルで知り合った友達が紹介してくれた人と結婚した。
・メッセージについてちゃんと研究したか怪しい。Googleの一ページ目に出てくるSEO対策された薄っぺらいサイトを全部眺めたら、どこでも書かれているし共通理解っぽいこと、腑に落ちること、絶対おかしいこと、いろいろ気づくと思う。少なくとも、聞き方が「調べてみて〜って書いてあって、〜という感じでやってみたけどうまくいかなかった」みたいな具体的な形になって有益なアドバイスももらいやすくなるはず。
3年くらい前にやっていたときは、メッセージは会うまでの手段にすぎなくて、いかにまっすぐ出会いに向かうか、しかしあまりがっつくと信用できないから他の話題で膨らませたり共通点や会いたい理由の共通理解を形成する必要がある、そのバランスが難しいがやっぱり出会いにこぎつけるのが大事、くらいの気持ちでやっていたけど、今は違うのかな。
・東京とか大阪とか京都とかは分からないけど、地方都市だと個人経営の飲食店でやっている文化系イベントとかはよかった。自分が文系出身だからかもだけど。
個人経営の飲食店に何軒も行く、話しかける店主とか他のお客さんとかいたら、適当なタイミングで、自分の趣味は〜で(本好き、音楽好き、体を動かすのが好きetc.)友達とか集まりを探している、みたいに言えば、何かアドバイスしてくれるんじゃないかしら。あとは、他によく行く飲食店とか聞いて飲食店情報集めるという観点でも、おしゃべりの練習という観点でも吉。
・習い事とか社会人サークルはいい。恋愛目的じゃないやつ。そこで広がった人脈が生きるから。直接恋愛対象と知り合えなくても、学校とか職場とか違う友達ができるのはよいこと。恋愛についてのフィードバックとかももらえるかも。
変化球だと読書会とか哲学対話とかもよくやってるよね、行ったことないけど。
・劇薬として、あくまでマッチングアプリにこだわるなら、女の子には絶対内緒にしなきゃいけないけど、ライブチャット(ノンアダルト)とかを上限決めてやるのもいいと思う。
金はかかるけど、正直でいれば、増田よりはよっぽど具体的なアドバイスをしてくれるし、自分で見えていない部分も聞き出してコメントしてくれると思う。
できるだけお堅い仕事もしてそうな(ライブチャットだけで生計立てて世間からずれてたりしないような)女性数人から聞く。一人だと偏る。話しかけてみてぴんとこなかったら(話が弾まないとか到底有益なアドバイスもらえそうにないなと思ったら)、丁重に挨拶してすぐ切っていい。
顔がタイプな女の子がいたら話してみたらいい。ガチ恋してしまうリスクもまるでないではないが、高確率で、顔がよくても話し合わない人とは楽しくないんだなと腑に落ちて先に進める。
★:リアルタイムor録画して欠かさず見る。
●:よく見る。19~20時台は食事しながら、他は録画して適当に流したり気になる回は見たり。
▲:内容or気分次第。録画はせず特定のコーナーだけ見たり、チャンネル変えながら興味があれば。
●X年後の関係者たち
▲激レアさんを連れて来た
★ヒューマニエンス
★100カメ
★水曜日のダウンタウン
★笑わない数学
▲それって!?実際どうなの課
▲しあわせ気分のドイツ語
●サラメシ
●ヤギと大悟
▲キントレ
▲ドッキリGP
▲新しいカギ
●ダーウィンが来た!
▲ニノさん
▲有吉eeeee!
★球辞苑
★漫道コバヤシ
★理想的本箱
●フランケンシュタインの誘惑
漫画や映画になってないのを見るに滅茶苦茶つまらないんだろうな。
だってビブリオバトルってそもそも意味がわからないじゃないですか?
読書会だったら「読み終わった本の感想を言い合って一番ドヤ顔にふさわしい考察が出来た人の勝ち」っていう明確なルールがありますよね?
でもビブリオバトルにはない。
そもそも題材にした本の面白さで勝負が決まるのであって、それはもう「素材の時点で勝負がついてる料理対決」みたいなものでしょう?
面白いとは思えませんよ。
というか、読んだこともない本の紹介とか長々とされたって困るわけですよ。
共通してない親戚の家に住んでる犬が如何に倫理観の欠如した汚らわしい生き物かって話を延々と聞かされるようなもんでしょ。
何よりも問題なのはビブリオバトルを始めて相手が「あっ、読んだことあるわ」となったらどうするんですか?
もうこの時点でルールが滅茶苦茶。
まだ人類のうちで出版に関わった人しか読んだことがないようなレビューでやるならまだ分かりますよ?
「ウチの新人は21歳で◯◯賞を取った天才でね。そんで今回の作品は彼の特色たる伏線回収がそれはそれで見事でね~~」
「え~~新人~~~???当たり外れが凄そ~~~。私が担当させて貰ったのはあの大ベテランですからね。あの人の安定感は本当凄いんですよ今回も安心して読めるわけだ~~~」
でもズブの素人がずっと前から書店に売ってた本を持ち寄って「俺以外にこの本読んだことがある人は誰も居ないと思うので紹介します!」って対決が始まるんですよ?
どんだけ自分の自慢の本が全く売れてない前提なんですかね?
たとえばこれがコミケで売り子をやった本が1冊も売れずに「本当にいい本なのに200部刷って作者と俺しか買ってないから198部残ってます!最高の本です!」とかやってるなら自分以外の全員がまだ読んでないって前提の語りも分かりますよ?
でもビブリオバトルってもう何十万何百万と売れた本同士でやりがちじゃないですか。
だけども大前提が「読んだことない人に紹介」なんだから意味がわからないと思いません?
前提が壊れてますよ。
主人公がデンジクンみたいなキチガイで面白くても、綾波レイみたいにオタクに物凄い人気が出そうでも、題材のつまらなさで誰も手に取らないこと確定でしょうね。
はい、いくつかのおすすめの落ち着いた声で文学的な教養を有するVtuberを紹介します。
天宮こころ(あまみやこころ)- 文学、歴史、美術に造詣が深く、落ち着いた語り口が特徴的です。また、古風な着物姿で配信を行うこともあります。
葉山ユイ(はやまゆい)- 作家や文学に詳しく、読書会や朗読配信なども行っています。落ち着いた雰囲気と美しい声が印象的です。
塩田米子(しおたよねこ)- 古典文学や和歌に詳しく、雅な雰囲気で配信を行っています。また、落ち着いた語り口で日本の伝統文化や歴史について語ることもあります。
宮本るり(みやもとるり)- 詩や小説の執筆経験があり、文学的な配信を行っています。落ち着いた声と穏やかな雰囲気が印象的です。
星街すいせい(ほしぞらすいせい)- 文学や哲学に造詣が深く、その知識を生かした配信を行っています。また、落ち着いた声と深みのある語り口も特徴的です。
お前が出鱈目な名前を挙げることにはもう慣れたけど
読書会で知り合ったネットで竹島は日本の領土だと主張していそうなアラサーの弱者男性とランチした時の話です
その弱者男性さんってコンピュータについて何も勉強していないみたいでした
プログラミングも出来ないし、ネットワークの知識もない、そもそもパソコンすらまともに扱えないらしいんですよね
そのうえ私はその弱者男性さんが「インドは国じゃない」とか「インドの人口が多いからと言っても日本とは比べ物にならない」とか
「日本の人口が1億2千万人だからインドはせいぜい3~4万程度」とか「日本の経済力と比べたらインドのGDPなどゴミ同然」とか言っているのを聞いて教養がない人なんだなあと思いました
今時ド直球すぎる差別が語られてて「きっつー」ってなった
友人がこの本の読書会を月1で主宰しているということで、しばらく毎月のように参加していたことがある。この会ではずっと「本当の人生を生きる」という本を読んで、それについて対話するという流れだったが、途中から人生に関係のある本なら、この本以外でもなんでもいいということになった。
あるとき、その読書会に初めて参加してきた男性Tさんが、持ってきた自分の本を紹介し始めた。それは日本経済新聞社の記者をしながらAⅤ女優をしている女性が書いた本だった。
Tさんは新聞記者をしながらAV女優をしているその著者のことを、どこか自慢するように熱っぽく話していて、読書会の主宰の女性2人もそれに「いいね、職業っていくつあってもいいよね」という返しを笑顔でしていた。
私は一人、その場で繰り広げられる会話を聞きながら、内臓を握りつぶされているような、読書会の前に食べた食事が喉からせりあがってくるような感覚に襲われていた。
快楽よりも心身への危険がはるかに大きい性産業に、喜んで従事する女性がこの世界にどれだけいるのだろう。いたとしたらそれは男性のファンタジーというか、ひどい認知の歪みの産物だ。
性産業に従事しなければならない女性の多くは、社会で搾取される側の人間だ。そして男性は搾取する側にいることが圧倒的に多い。
さきほどの読書会でTさんが紹介していた本の著者は日経新聞記者で経済的地盤は強く、この世界の構造では搾取する側に位置する。つまりこの本の著者は男性と同じように性産業を楽しめる存在なのだ。
「女性で性産業という社会で搾取される側の人なのに、自分たち搾取する男性側と同じように性産業について楽しんでいる女性の著者」に、Tさんがシンパシーを感じているのがありありと伝わってくるようで気持ちが悪くなった。しかしその場ですぐここまで言語化できず、ノリノリでAVについて話すTさんに合わせて笑う場の皆になじめない自分を、情けなく思った。
なんでもいい・なんでもありとすべてを受け入れる態度は、一見やさしく豊かな場づくりの下地になる可能性がある。しかしなんでもかんでも受け入れることは、目指している場の意図にそぐわない事態を生じさせる、場づくりの諸刃の剣でもあると思うのだ。
うわあ・・・もうAV女優どころか、AV女優の書いた本について語るようなやつを排除することによってしか目指せない場所って何・・・。