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はてなキーワード: 油絵とは

2024-12-06

ビジネスホテルあるある追記しました)

ユニットバス

・なんか部屋がカビ臭い

・引き出しの中に聖書がある

・朝食がバイキングだとテンション上がる

コーヒー持ち帰りできるとさらに嬉しい

・ベッドがやたら硬いか、逆にふかふか過ぎる

• 枕が高すぎて首が痛くなる

• 窓から景色が隣のビルの壁

冷蔵庫が小さすぎて、ほぼ何も入らない

カーテンが完全に閉まらない隙間がある

• 謎の油絵風景写真が壁に掛かっている

消臭スプレーが部屋に置いてあると少し安心する

• お湯と水の調整が難しいシャワー

• 下に敷くバスマットで体を拭いてしまった

トイレットペーパーが妙に薄い

バスタオルが意外と小さい

• アメニティが「ボディソープシャンプー」一つだけ

ドライヤー風量が弱すぎて乾かない

自販機コーナーがやたら充実していると嬉しい

• 大浴場があると「当たり!」と思う

• 貸出サービスアイロンズボンプレッサーがある

フロントで部屋着を手渡されるシステム

• 消灯すると微妙にランプの光が目につく

エレベーターが少なくてなかなか来ない

• 周囲にコンビニがあると心強い

• チェックアウトの10分前に大慌て


追記

うそろそろ誰も読まないだろうと思うので追記します。

このあるあるの80%はAIに書いてもらいました。

から少し古いあるあるになってしまたことは否めません。

私自もも10年くらいビジネスホテルに泊まっていません。

でもみなさんのコメントが集まるなら…と思い、このあるあるを書きました。

みなさん、コメントありがとうございました。

2024-11-30

anond:20241129235326

写真しろエッチングしろ考える人彫刻しろ

大量生産、リプリント可能からダメということはないだろうな

ただ今はおっしゃるとおりキャンバスの号数の高い物、高解像度のものそもそもAIではまともに生成できないとおもう、

理論上はできても電気サーバー代など数ヶ月単位必要なのでかなり高額になるだろう

ただ量子コンピューターができたら油絵の具3Dプリンター贋作とかはできるかもだな

それはそれでおもしろい フレスコ天井画を上向かないでつくれるわけだから

結局だれがいつ著作たか身元を明らかにするルールづくりはどこでも必須になるとおもう

そんで油絵だってデジ絵だってサインはいれようねっつう話

ブロックチェーンサイン馬鹿をいうなwあれはあれ自体が生成物であり著作物だろ

2024-11-29

アナログデッサン油絵もありとあらゆる絵が生成AIで作られてしまってるんですよ!

みたいなのがXで流れてきたけど、最近アナログ絵でコンテストに出品しようとしてる身としては、基本的アナログ絵ってデジタル空間戦場ではないような…?

ゴッホ現物高値取引されるのであって、印刷物を高額に設定しても「でも本物ではない」になるのがアナログの強みだと思うんだけどなぁ。

2024-10-26

真珠の耳飾りの少女」と元鈴木さんとRosalind

鈴木さん@Motosuzukisan

東京地方では文化資本が違うというのは別に美術館が沢山あるって話だけじゃないんだよね。

例えば美術館真珠の耳飾りの少女を見て真珠に興味が湧いたら、そのあと何ができるかに差が出てくるのよ。

東京だとミキモトにタサキ百貨店個人宝飾店に御徒町電車で安くすぐに行ける。ハイブランドからモールビジネス問屋街、全部の中から自分の行きやすいお店を選んで行くのもできるし、1日で全部見ることもできる。選択肢があるし目の前のリアルものに触れられるんだよ。

でも地平線まで田んぼな私の田舎では、個人の宝飾店にアコヤか淡水があれば良いって感じ。ハイブランド見たいなら地元なら質屋しかないし、片道1時間かけて地方都市に行ってミキモトがあれば御の字です。切符代も惜しかったらネットで見て学ぶしかないわけよね。リアルな学びを得るのが難しかったのよ。

経験上、線の上で滑らかに情報やモノに触れられるのは間違いなく東京だった。

ちなみに「フェルメール見て油絵やりたくなった!」と思っても同じような選択肢問題が出てきます。ハッキリ見えない選択肢に差がありすぎるのを私も大学生になってから知ったのでした。

https://x.com/Motosuzukisan/status/1845493760689680499

Rosalind@idiomsinaction

大のフェルメール好きを自認してるけど、真珠の耳飾りの少女を鑑賞して、じゃあ次はミキモトに行こうって発想が1ミリも無かったから新鮮な感想でびっくりした。

私もまだまだ人生修行が足りないな💦

https://x.com/idiomsinaction/status/1849386254166548755

鈴木さん@Motosuzukisan

なんであんな大粒の真珠を描いたんだ!?ってなったら、当時の真珠はみんな天然で…貝は何で…日本は御木本のアコヤ養殖が…養殖技術向上で価値が…ってみんな調べて見にいくもんだと思ってましたが、皆様そんな興味ないし私がオタクなだけでした😂

Rosalind@idiomsinaction

その調べる行動は素晴らしいと思いますが、それを調べる事は図書館美術書でも出来ますよね。ミキモトが近くにあるかどうかは文化資本とぜんぜん関係無いと思いますミキモト17世紀ネーデルラント真珠養殖についての資料があるなら別ですが。ただ絵の鑑賞に正解は無いので元鈴木さんの視点否定するわけではありません。

ただあまりにも自分と違う鑑賞方法だったので驚いただけです。

美術鑑賞に新たなら視点提示していただきありがとうございました。

鈴木さん@Motosuzukisan

私は予算の少ない地域で育ちましたが、図書館の蔵書も予算がないせいか限られていましたし親の手助けなしで行ける本屋も小さな1店舗しかありませんでした。欲しい本は買う前提で取り寄せしかありません。本を選ぶ選択肢から違うのです。

仰るように本が文化資本であるなら、単純に蔵書数で私の地元文化資本が少ないと言えるかもしれませんね。

そしてだいたいどんなブランドでも東京本店があるせいか優秀な販売員の方が多い印象です。商品知識だけでなく関連する歴史についても造詣が深い方もいらっしゃるのでお話ししていて学びがありますよ。(御木本は西洋アンティークも扱っていたので特にです)

真珠ブランド名が並ぶと皆様拒否反応を示される傾向がどうやらありましたが、単純に絵画物語に出てくる物を実際のお店に見に行ってみるのは楽しいですよ!😉

Rosalind@idiomsinaction

なぜ絵画鑑賞をしてハイジエリー店員さんと話すと為になるのか私は理解できないのですが、元鈴木さんなりの鑑賞方法なのですね!

一昨年「フェルメール17世紀オランダ絵画展」にて背景が塗りつぶされていた作品を新たに修復した『窓辺で手紙をみる女』を鑑賞したのですが、数年前にドレスデンで鑑賞した時とは額縁が違っているような気がして、その場にいた学芸員さんに質問したところ額縁が以前の物と変わっていると正しい答えを教えていただきました。

絵画周りの知識を深めたいなら、店員さんより資格のある学芸員さんの方が良く無ですか?

と私は思うのですが、これは私の鑑賞方法なので、鈴木さんは鈴木さんの思う絵画鑑賞をされればいいと思います

あと情報格差や図書館蔵書ですが、今はネット上でいくらでも情報が得られますし、それこそどうしても読みたい美術書自分で購入して取り寄せる事もできますよね。それをしないのは、その文化にそこまで情熱が無いだけだと思います

鈴木さん@Motosuzukisan

しか絵画芸術なら学芸員さんに伺えば良いと思います

しかし私は絵画から真珠自体に興味が移ったら…という話をしていたので、その絵画自体理解を深めたいと言う話をしていません。やはり我々の興味は別の場所にあるのでしょうね😉

ちなみにその場合社員である販売員美術館で言う学芸員に当たると言えるでしょう。

Amazonで今は何でも取り寄せられますが、それは商品を買う前提なんですよね。

実物を開いて比較検討をすることができるのは体験としての差であると私は考えてるので、地元本屋や蔵書の話をしました。

情熱はもちろん大切ですが、根性の話をしだしたらキリがないかと思います

Rosalind@idiomsinaction

フェルメールの絵を観ることと、宝飾屋さんの広告を見ることが同じ視座の人もいるのだと大変勉強になりました!

私の人間理解がまだまだのようです😊

自分視点スノッブで嫌味すぎるのかなと混乱しましたが、美術批評しいては文学批評も鑑賞者が創作物にふれて己の内面を外在化する事で作品が完成すると言う基本に立ち帰れました!

鈴木さんがパワフルにアイディアを即実行商品化できる一端に触れられた気がします。憧れって大事ですよね✨

2024-10-25

anond:20241025132351

なんでこれ最後の「フェルメール見て油絵描こうと思ったらすぐ絵画教室に行けるのも東京文化資本」の方で例えなかったんだろ

絵画教室田舎にも割とあるからか?

2024-10-01

最後にうれしいことを思いついた。美禰子は与次郎に金を貸すと言った。けれども与次郎には渡さないと言った。じっさい与次郎金銭のうえにおいては、信用しにくい男かもしれない。しかしその意味で美禰子が渡さないのか、どうだか疑わしい。もしその意味でないとすると、自分にははなはだたのもしいことになる。ただ金を貸してくれるだけでも十分の好意である自分に会って手渡しにしたいというのは――三四郎はここまで己惚れてみたが、たちまち、 「やっぱり愚弄じゃないか」と考えだして、急に赤くなった。もし、ある人があって、その女はなんのために君を愚弄するのかと聞いたら、三四郎はおそらく答ええなかったろう。しいて考えてみろと言われたら、三四郎は愚弄そのものに興味をもっている女だからとまでは答えたかもしれない。自分の己惚れを罰するためとはまったく考ええなかったに違いない。――三四郎は美禰子のために己惚れしめられたんだと信じている。  翌日はさいわい教師が二人欠席して、昼からの授業が休みになった。下宿へ帰るのもめんどうだから、途中で一品料理の腹をこしらえて、美禰子の家へ行った。前を通ったことはなんべんでもある。けれどもはいるのははじめてである。瓦葺の門の柱に里見恭助という標札が出ている。三四郎はここを通るたびに、里見恭助という人はどんな男だろうと思う。まだ会ったことがない。門は締まっている。潜りからはいると玄関までの距離は存外短かい長方形御影石が飛び飛びに敷いてある。玄関は細いきれいな格子でたてきってある。ベルを押す。取次ぎの下女に、「美禰子さんはお宅ですか」と言った時、三四郎自分ながら気恥ずかしいような妙な心持ちがした。ひとの玄関で、妙齢の女の在否を尋ねたことはまだない。はなはだ尋ねにくい気がする。下女のほうは案外まじめであるしかもうやうやしい。いったん奥へはいって、また出て来て、丁寧にお辞儀をして、どうぞと言うからついて上がると応接間へ通した。重い窓掛けの掛かっている西洋である。少し暗い。  下女はまた、「しばらく、どうか……」と挨拶して出て行った。三四郎は静かな部屋の中に席を占めた。正面に壁を切り抜いた小さい暖炉がある。その上が横に長い鏡になっていて前に蝋燭立が二本ある。三四郎は左右の蝋燭立のまん中に自分の顔を写して見て、またすわった。  すると奥の方でバイオリンの音がした。それがどこからか、風が持って来て捨てて行ったように、すぐ消えてしまった。三四郎は惜しい気がする。厚く張った椅子の背によりかかって、もう少しやればいいがと思って耳を澄ましていたが、音はそれぎりでやんだ。約一分もたつうちに、三四郎バイオリンの事を忘れた。向こうにある鏡と蝋燭立をながめている。妙に西洋のにおいがする。それからカソリック連想がある。なぜカソリックだか三四郎にもわからない。その時バイオリンがまた鳴った。今度は高い音と低い音が二、三度急に続いて響いた。それでぱったり消えてしまった。三四郎はまったく西洋音楽を知らない。しかし今の音は、けっして、まとまったものの一部分をひいたとは受け取れない。ただ鳴らしただけである。その無作法にただ鳴らしたところが三四郎情緒によく合った。不意に天から二、三粒落ちて来た、でたらめの雹のようである。  三四郎がなかば感覚を失った目を鏡の中に移すと、鏡の中に美禰子がいつのまにか立っている。下女がたてたと思った戸があいている。戸のうしろにかけてある幕を片手で押し分けた美禰子の胸から上が明らかに写っている。美禰子は鏡の中で三四郎を見た。三四郎は鏡の中の美禰子を見た。美禰子はにこりと笑った。 「いらっしゃい」  女の声はうしろで聞こえた。三四郎は振り向かなければならなかった。女と男はじかに顔を見合わせた。その時女は廂の広い髪をちょっと前に動かして礼をした。礼をするにはおよばないくらいに親しい態度であった。男のほうはかえって椅子から腰を浮かして頭を下げた。女は知らぬふうをして、向こうへ回って、鏡を背に、三四郎の正面に腰をおろした。 「とうとういらしった」  同じような親しい調子である三四郎にはこの一言が非常にうれしく聞こえた。女は光る絹を着ている。さっきからだいぶ待たしたところをもってみると、応接間へ出るためにわざわざきれいなのに着換えたのかもしれない。それで端然とすわっている。目と口に笑を帯びて無言のまま三四郎を見守った姿に、男はむしろ甘い苦しみを感じた。じっとして見らるるに堪えない心の起こったのは、そのくせ女の腰をおろすやいなやである三四郎はすぐ口を開いた。ほとんど発作に近い。 「佐々木が」 「佐々木さんが、あなたの所へいらしったでしょう」と言って例の白い歯を現わした。女のうしろにはさきの蝋燭立がマントルピースの左右に並んでいる。金で細工をした妙な形の台である。これを蝋燭立と見たのは三四郎の臆断で、じつはなんだかわからない。この不可思議蝋燭立のうしろに明らかな鏡がある。光線は厚い窓掛けにさえぎられて、十分にはいらない。そのうえ天気は曇っている。三四郎はこのあいだに美禰子の白い歯を見た。 「佐々木が来ました」 「なんと言っていらっしゃいました」 「ぼくにあなたの所へ行けと言って来ました」 「そうでしょう。――それでいらしったの」とわざわざ聞いた。 「ええ」と言って少し躊躇した。あとから「まあ、そうです」と答えた。女はまったく歯を隠した。静かに席を立って、窓の所へ行って、外面をながめだした。 「曇りましたね。寒いでしょう、戸外は」 「いいえ、存外暖かい。風はまるでありません」 「そう」と言いながら席へ帰って来た。 「じつは佐々木が金を……」と三四郎から言いだした。 「わかってるの」と中途でとめた。三四郎も黙った。すると 「どうしておなくしになったの」と聞いた。 「馬券を買ったのです」  女は「まあ」と言った。まあと言ったわりに顔は驚いていない。かえって笑っている。すこしたって、「悪いかたね」とつけ加えた。三四郎は答えずにいた。 「馬券であてるのは、人の心をあてるよりむずかしいじゃありませんか。あなた索引のついている人の心さえあててみようとなさらないのん気なかただのに」 「ぼくが馬券を買ったんじゃありません」 「あら。だれが買ったの」 「佐々木が買ったのです」  女は急に笑いだした。三四郎おかしくなった。 「じゃ、あなたお金がお入用じゃなかったのね。ばかばかしい」 「いることはぼくがいるのです」 「ほんとうに?」 「ほんとうに」 「だってそれじゃおかしいわね」 「だから借りなくってもいいんです」 「なぜ。おいやなの?」 「いやじゃないが、お兄いさんに黙って、あなたから借りちゃ、好くないからです」 「どういうわけで? でも兄は承知しているんですもの」 「そうですか。じゃ借りてもいい。――しかし借りないでもいい。家へそう言ってやりさえすれば、一週間ぐらいすると来ますから」 「御迷惑なら、しいて……」  美禰子は急に冷淡になった。今までそばにいたものが一町ばかり遠のいた気がする。三四郎は借りておけばよかったと思った。けれども、もうしかたがない。蝋燭立を見てすましている。三四郎自分から進んで、ひとのきげんをとったことのない男である。女も遠ざかったぎり近づいて来ない。しばらくするとまた立ち上がった。窓から戸外をすかして見て、 「降りそうもありませんね」と言う。三四郎も同じ調子で、「降りそうもありません」と答えた。 「降らなければ、私ちょっと出て来ようかしら」と窓の所で立ったまま言う。三四郎は帰ってくれという意味解釈した。光る絹を着換えたのも自分のためではなかった。 「もう帰りましょう」と立ち上がった。美禰子は玄関まで送って来た。沓脱へ降りて、靴をはいていると、上から美禰子が、 「そこまでごいっしょに出ましょう。いいでしょう」と言った。三四郎は靴の紐を結びながら、「ええ、どうでも」と答えた。女はいつのまにか、和土の上へ下りた。下りながら三四郎の耳のそばへ口を持ってきて、「おこっていらっしゃるの」とささやいた。ところへ下女があわてながら、送りに出て来た。  二人は半町ほど無言のまま連れだって来た。そのあい三四郎はしじゅう美禰子の事を考えている。この女はわがままに育ったに違いない。それから家庭にいて、普通女性以上の自由を有して、万事意のごとくふるまうに違いない。こうして、だれの許諾も経ずに、自分といっしょに、往来を歩くのでもわかる。年寄りの親がなくって、若い兄が放任主義から、こうもできるのだろうが、これがいなかであったらさぞ困ることだろう。この女に三輪田のお光さんのような生活を送れと言ったら、どうする気かしらん。東京はいなかと違って、万事があけ放しだからこちらの女は、たいていこうなのかもわからないが、遠くから想像してみると、もう少しは旧式のようでもある。すると与次郎が美禰子をイブセン流と評したのもなるほどと思い当る。ただし俗礼にかかわらないところだけがイブセン流なのか、あるいは腹の底の思想までも、そうなのか。そこはわからない。  そのうち本郷の通りへ出た。いっしょに歩いている二人は、いっしょに歩いていながら、相手がどこへ行くのだか、まったく知らない。今までに横町を三つばかり曲がった。曲がるたびに、二人の足は申し合わせたように無言のまま同じ方角へ曲がった。本郷の通りを四丁目の角へ来る途中で、女が聞いた。 「どこへいらっしゃるの」 「あなたはどこへ行くんです」  二人はちょっと顔を見合わせた。三四郎はしごくまじめである。女はこらえきれずにまた白い歯をあらわした。 「いっしょにいらっしゃい」  二人は四丁目の角を切り通しの方へ折れた。三十間ほど行くと、右側に大きな西洋館がある。美禰子はその前にとまった。帯の間から薄い帳面と、印形を出して、 「お願い」と言った。 「なんですか」 「これでお金を取ってちょうだい」  三四郎は手を出して、帳面を受取った。まん中に小口当座預金通帳とあって、横に里見美禰子殿と書いてある。三四郎帳面と印形を持ったまま、女の顔を見て立った。 「三十円」と女が金高を言った。あたか毎日銀行へ金を取りに行きつけた者に対する口ぶりである。さいわい、三四郎は国にいる時分、こういう帳面を持ってたびたび豊津まで出かけたことがある。すぐ石段を上って、戸をあけて、銀行の中へはいった。帳面と印形を係りの者に渡して、必要金額を受け取って出てみると、美禰子は待っていない。もう切り通しの方へ二十間ばかり歩きだしている。三四郎は急いで追いついた。すぐ受け取ったものを渡そうとして、ポッケットへ手を入れると、美禰子が、 「丹青会の展覧会を御覧になって」と聞いた。 「まだ見ません」 「招待券を二枚もらったんですけれども、つい暇がなかったものからまだ行かずにいたんですが、行ってみましょうか」 「行ってもいいです」 「行きましょう。もうじき閉会になりますから。私、一ぺんは見ておかないと原口さんに済まないのです」 「原口さんが招待券をくれたんですか」 「ええ。あなた原口さんを御存じなの?」 「広田先生の所で一度会いました」 「おもしろいかたでしょう。馬鹿囃子稽古なさるんですって」 「このあいだは鼓をならいたいと言っていました。それから――」 「それから?」 「それからあなた肖像をかくとか言っていました。本当ですか」 「ええ、高等モデルなの」と言った。男はこれより以上に気の利いたことが言えない性質である。それで黙ってしまった。女はなんとか言ってもらいたかったらしい。  三四郎はまた隠袋へ手を入れた。銀行の通帳と印形を出して、女に渡した。金は帳面の間にはさんでおいたはずであるしかるに女が、 「お金は」と言った。見ると、間にはない。三四郎はまたポッケットを探った。中から手ずれのした札をつかみ出した。女は手を出さない。 「預かっておいてちょうだい」と言った。三四郎はいささか迷惑のような気がした。しかしこんな時に争うことを好まぬ男である。そのうえ往来だからなおさら遠慮をした。せっかく握った札をまたもとの所へ収めて、妙な女だと思った。  学生が多く通る。すれ違う時にきっと二人を見る。なかには遠くから目をつけて来る者もある。三四郎は池の端へ出るまでの道をすこぶる長く感じた。それでも電車に乗る気にはならない。二人とものそのそ歩いている。会場へ着いたのはほとんど三時近くである。妙な看板が出ている。丹青会という字も、字の周囲についている図案も、三四郎の目にはことごとく新しい。しか熊本では見ることのできない意味で新しいので、むしろ一種異様の感がある。中はなおさらである三四郎の目にはただ油絵水彩画区別が判然と映ずるくらいのものにすぎない。  それでも好悪はある。買ってもいいと思うのもある。しか巧拙はまったくわからない。したがって鑑別力のないものと、初手からあきらめた三四郎は、いっこう口をあかない。  美禰子がこれはどうですかと言うと、そうですなという。これはおもしろいじゃありませんかと言うと、おもしろそうですなという。まるで張り合いがない。話のできないばかか、こっちを相手にしない偉い男か、どっちかにみえる。ばかとすればてらわないところに愛嬌がある。偉いとすれば、相手にならないところが憎らしい。  長い間外国旅行して歩いた兄妹の絵がたくさんある。双方とも同じ姓で、しかも一つ所に並べてかけてある。美禰子はその一枚の前にとまった。

anond:20241001222935

ベニスでしょう」

 これは三四郎にもわかった。なんだかベニスらしい。ゴンドラにでも乗ってみたい心持ちがする。三四郎高等学校にいる時分ゴンドラという字を覚えた。それからこの字が好きになった。ゴンドラというと、女といっしょに乗らなければすまないような気がする。黙って青い水と、水と左右の高い家と、さかさに映る家の影と、影の中にちらちらする赤い片とをながめていた。すると、

「兄さんのほうがよほどうまいようですね」と美禰子が言った。三四郎にはこの意味が通じなかった。

「兄さんとは……」

「この絵は兄さんのほうでしょう」

「だれの?」

 美禰子は不思議そうな顔をして、三四郎を見た。

だって、あっちのほうが妹さんので、こっちのほうが兄さんのじゃありませんか」

 三四郎は一歩退いて、今通って来た道の片側を振り返って見た。同じように外国景色かいものが幾点となくかかっている。

「違うんですか」

「一人と思っていらしったの」

「ええ」と言って、ぼんやりしている。やがて二人が顔を見合わした。そうして一度に笑いだした。美禰子は、驚いたように、わざと大きな目をして、しかもいちだんと調子を落とした小声になって、

「ずいぶんね」と言いながら、一間ばかり、ずんずん先へ行ってしまった。三四郎は立ちどまったまま、もう一ぺんベニスの掘割りをながめだした。先へ抜けた女は、この時振り返った。三四郎自分の方を見ていない。女は先へ行く足をぴたりと留めた。向こうから三四郎の横顔を熟視していた。

里見さん」

 だしぬけにだれか大きな声で呼んだ者がある。

 美禰子も三四郎も等しく顔を向け直した。事務室と書いた入口を一間ばかり離れて、原口さんが立っている。原口さんのうしろに、少し重なり合って、野々宮さんが立っている。美禰子は呼ばれた原口よりは、原口より遠くの野々宮を見た。見るやいなや、二、三歩あともどりをして三四郎そばへ来た。人に目立たぬくらいに、自分の口を三四郎の耳へ近寄せた。そうして何かささやいた。三四郎には何を言ったのか、少しもわからない。聞き直そうとするうちに、美禰子は二人の方へ引き返していった。もう挨拶をしている。野々宮は三四郎に向かって、

「妙な連と来ましたね」と言った。三四郎が何か答えようとするうちに、美禰子が、

「似合うでしょう」と言った。野々宮さんはなんとも言わなかった。くるりとうしろを向いた。うしろには畳一枚ほどの大きな絵がある。その絵は肖像画である。そうしていちめんに黒い。着物帽子も背景から区別のできないほど光線を受けていないなかに、顔ばかり白い。顔はやせて、頬の肉が落ちている。

「模写ですね」と野々宮さんが原口さんに言った。原口は今しきりに美禰子に何か話している。――もう閉会である来観者もだいぶ減った。開会の初めには毎日事務所へ来ていたが、このごろはめったに顔を出さない。きょうはひさしぶりに、こっちへ用があって、野々宮さんを引っ張って来たところだ。うまく出っくわしたものだ。この会をしまうと、すぐ来年の準備にかからなければならないから、非常に忙しい。いつもは花の時分に開くのだが、来年は少し会員のつごうで早くするつもりだから、ちょうど会を二つ続けて開くと同じことになる。必死勉強をやらなければならない。それまでにぜひ美禰子の肖像をかきあげてしまうつもりである迷惑だろうが大晦日でもかかしてくれ。

「その代りここん所へかけるつもりです」

 原口さんはこの時はじめて、黒い絵の方を向いた。野々宮さんはそのあいだぽかんとして同じ絵をながめていた。

「どうです。ベラスケスは。もっとも模写ですがね。しかもあまり上できではない」と原口がはじめて説明する。野々宮さんはなんにも言う必要がなくなった。

「どなたがお写しになったの」と女が聞いた。

三井です。三井もっとうまいんですがね。この絵はあまり感服できない」と一、二歩さがって見た。「どうも、原画が技巧の極点に達した人のものから、うまくいかいね

 原口は首を曲げた。三四郎原口の首を曲げたところを見ていた。

「もう、みんな見たんですか」と画工が美禰子に聞いた。原口は美禰子にばかり話しかける。

「まだ」

「どうです。もうよして、いっしょに出ちゃ。精養軒でお茶でもあげます。なにわたしは用があるから、どうせちょっと行かなければならない。――会の事でね、マネジャー相談しておきたい事がある。懇意の男だから。――今ちょうどお茶にいい時分です。もう少しするとね、お茶にはおそし晩餐には早し、中途はんぱになる。どうです。いっしょにいらっしゃいな」

 美禰子は三四郎を見た。三四郎はどうでもいい顔をしている。野々宮は立ったまま関係しない。

「せっかく来たものから、みんな見てゆきましょう。ねえ、小川さん」

 三四郎はええと言った。

「じゃ、こうなさい。この奥の別室にね。深見さんの遺画があるから、それだけ見て、帰りに精養軒へいらっしゃい。先へ行って待っていますから

「ありがとう」

「深見さんの水彩は普通の水彩のつもりで見ちゃいけませんよ。どこまでも深見さんの水彩なんだから。実物を見る気にならないで、深見さんの気韻を見る気になっていると、なかなかおもしろいところが出てきます」と注意して、原口は野々宮と出て行った。美禰子は礼を言ってその後影を見送った。二人は振り返らなかった。

 女は歩をめぐらして、別室へはいった。男は一足あとから続いた。光線の乏しい暗い部屋である。細長い壁に一列にかかっている深見先生の遺画を見ると、なるほど原口さんの注意したごとくほとんど水彩ばかりである三四郎が著しく感じたのは、その水彩の色が、どれもこれも薄くて、数が少なくって、対照に乏しくって、日向へでも出さないと引き立たないと思うほど地味にかいてあるという事である。その代り筆がちっとも滞っていない。ほとんど一気呵成に仕上げた趣がある。絵の具の下に鉛筆輪郭が明らかに透いて見えるのでも、洒落な画風がわかる。人間などになると、細くて長くて、まるで殻竿のようである。ここにもベニスが一枚ある。

「これもベニスですね」と女が寄って来た。

「ええ」と言ったが、ベニスで急に思い出した。

「さっき何を言ったんですか」

 女は「さっき?」と聞き返した。

「さっき、ぼくが立って、あっちのベニスを見ている時です」

 女はまたまっ白な歯をあらわした。けれどもなんとも言わない。

「用でなければ聞かなくってもいいです」

「用じゃないのよ」

 三四郎はまだ変な顔をしている。曇った秋の日はもう四時を越した。部屋は薄暗くなってくる。観覧人はきわめて少ない。別室のうちには、ただ男女二人の影があるのみである。女は絵を離れて、三四郎真正面に立った。

「野々宮さん。ね、ね」

「野々宮さん……」

「わかったでしょう」

 美禰子の意味は、大波のくずれるごとく一度に三四郎の胸を浸した。

「野々宮さんを愚弄したのですか」

「なんで?」

 女の語気はまったく無邪気である三四郎は忽然として、あとを言う勇気がなくなった。無言のまま二、三歩動きだした。女はすがるようについて来た。

あなたを愚弄したんじゃないのよ」

 三四郎はまた立ちどまった。三四郎は背の高い男である。上から美禰子を見おろした。

「それでいいです」

「なぜ悪いの?」

「だからいいです」

 女は顔をそむけた。二人とも戸口の方へ歩いて来た。戸口を出る拍子に互いの肩が触れた。男は急に汽車で乗り合わした女を思い出した。美禰子の肉に触れたところが、夢にうずくような心持ちがした。

「ほんとうにいいの?」と美禰子が小さい声で聞いた。向こうから二、三人連の観覧者が来る。

「ともかく出ましょう」と三四郎が言った。下足を受け取って、出ると戸外は雨だ。

「精養軒へ行きますか」

 美禰子は答えなかった。雨のなかをぬれながら、博物館前の広い原のなかに立った。さいわい雨は今降りだしたばかりである。そのうえ激しくはない。女は雨のなかに立って、見回しながら、向こうの森をさした。

「あの木の陰へはいりましょう」

 少し待てばやみそうである。二人は大きな杉の下にはいった。雨を防ぐにはつごうのよくない木である。けれども二人とも動かない。ぬれても立っている。二人とも寒くなった。女が「小川さん」と言う。男は八の字を寄せて、空を見ていた顔を女の方へ向けた。

「悪くって? さっきのこと」

「いいです」

だって」と言いながら、寄って来た。「私、なぜだか、ああしたかったんですもの。野々宮さんに失礼するつもりじゃないんですけれども」

 女は瞳を定めて、三四郎を見た。三四郎はその瞳のなかに言葉よりも深き訴えを認めた。――必竟あなたのためにした事じゃありませんかと、二重瞼の奥で訴えている。三四郎は、もう一ぺん、

「だから、いいです」と答えた。

 雨はだんだん濃くなった。雫の落ちない場所わずしかない。二人はだんだん一つ所へかたまってきた。肩と肩とすれ合うくらいにして立ちすくんでいた。雨の音のなかで、美禰子が、

「さっきのお金をお使いなさい」と言った。

「借りましょう。要るだけ」と答えた。

「みんな、お使いなさい」と言った。

2024-09-25

AIビビってるネット絵師ってアナログ絵描かないの

俺は18歳の頃からもう20年くらいアクリルケント紙、油絵の具とキャンバス段ボールと水彩みたいなマテリアルアナログ絵描いてそれを売って食ってんだけど、これがずーっと好評で、ネット絵師たちの言うAIの脅威を全く実感出来なくて困惑してる

 

ちな絵の売上は現在で平均で月50万前後

 

きっかけは母親がやってた携帯サイト詩人グループ常連が詩に合わせた挿絵が欲しいからってことで、俺が描いて個展とかやったのがきっかけで

展示を前提とした詩って書道的な側面もあって、視覚表現重要から、書と合わせて絵を使った表現も主流なのね(今はどうだか知らん)

それで個展のたびに詩に合わせて描いた俺の絵を展示してたら各方面から問い合わせが沢山来て、個人から広告代理店まで、あんなのを描いて欲しい、こんなのを描けないか制作依頼が多発したのがきっか

ちなみに現在顧客ネットよりも社交界で活発な40代〜の富裕層女性が90%を占めていて、彼女らの完全口コミ仕事が来てるので、俺の名前ネット検索しても2件しか引っかからない

それでも売れてるのは幼少期から母と母の友人たち、学生時代交際相手など、女に自分の絵を批評され続けて女性感性無意識内面化していてるせいもあるだろう

 

あと,こういう絵描きってセラピストとかホスト的な側面もあるっぽくて、どういう絵が欲しいのか顧客お茶飲みながら打ち合わせするたびにお客さんが食事代奢ってくれたり、金一封くれる

 

まあ、ありがたいよね

 

たまに制作過程を見たいって家に押しかけて来る顧客もいるんだけど、要は自分より若い男が非日常的な職人技術で美しいものを作り上げる耽美的な世界観に飢えてるらしく、筆を走らすたびにきゃぁ~って奇声を上げたり、ほんとあの人らのツボは安い(けど旦那金持ちから支払額は高い)よな

チョロいぜ、お前もやってみろや

 

それとコロナ以降この手の女性客に反ワクスピ系ウヨがめちゃくちゃ増えてきてたまに接客がツライときがあるぜ

 

追記

なんか言い争いに発展しててつらい

喧嘩って楽しい?俺は大嫌いだから付き合わないけど

 

顧客と向き合って絵を描くのはセザンヌから伝統だと美大で習ったが、ネット絵師たちも見た感じSNSで固定ファンいる人多いようだし、絶対リアル接客したほうがいいぜ

客によってはこんなんを100万200万で買ってくれるの?って体験も出来るから

不思議と気に入ってる作品ほどあんまり高値で売れないんだよな…

2024-08-14

anond:20240814115824

油絵水彩画で絵作りすることに比べたら、デジ絵ツールの補助輪効果AIより凄くねって話だぞ

anond:20240813150220

クリスタを使えば油絵や水彩っぽい絵が描けると思ったら大間違いでござるよ

ツール名として水彩筆とかはあるけどとてもとても…

一方AIはwatercolorとか入力すれば全然描けないやつでも水彩っぽい絵(しかも上手い)が出せるんだから明らかにこちらに差があるわ

2024-08-13

anond:20240813150317

その通り

かにちゃん文意が通じてなかったから書き換えたわ

ありがとね

  

油絵や水彩とクリスタ差異と、AIの有無の差異比較したら、差なんてゴミみたいなものでしょ

油絵や水彩とクリスタ差異と、AIの有無の差異比較したら、後者の差なんてゴミみたいなものでしょ

anond:20240813134933

クリスタという超弩級の補助輪を使っているから今更では?

油絵や水彩とクリスタ差異と、AIの有無の差異比較したら、後者の差なんてゴミみたいなものでしょ

2024-08-10

ブルーピリオドを読めない元美大生の話

映画化話題になっているブルーピリオド

数年前、美大卒業していることもあり興味を持って一巻だけ読んだ。

しか結果的に私の美大藝大コンプレックスがうずうずしてしまい、それ以上読み進みたいと思えなかった。


私は幼少期から絵を描くことが好きだった。

最初テストプリントの裏に落書き少女漫画に出てくる女の子の絵をよく描いていて漫画家になりたいと思っていた。

クラスはいつも絵が上手い子、というポジションだった。

中学に入ってから雑誌に載っている海外景色を絵の具を使って模写するのが好きで休みの日は部屋にこもって絵を描いていた。

高校美術科に進学したいと考えていたが美術教師の勧めで普通科高校に進学した。

高校時代はひたすらボケーっと過ごし、絵も授業以外ではあんまり描いていなかった。

美術の授業の自由制作では何をつくりたいかからず何週間も悩んだ末に、紙粘土をただ丸めものを出したのを覚えている。

あっという間に大学受験の時期になった。

高校では全く勉強をしない人間になっていたため今更勉強はしたくない、でも大学には行きたい。

絵を描くのが好きだったし、進学後も興味を持って勉強できるなら美術かな?ということで高3の5月くらいに予備校に行き始めた。

最初は牛骨の木炭デッサンだったのを覚えている。

木炭を使うのは初めてだし、美術の授業以外でデッサンをするのも初めてだったので全然描けなかった。

そこからデッサン油絵クロッキーをひたすらこなしたが…藝大、多摩美武蔵美全て落ち、浪人した。



浪人時代都内大手予備校に変えて、楽しい浪人時代を過ごした。

ひたすら課題に向かうだけの毎日、気の合うクラスメイト、たまに息抜きに都会の街に繰り出す。そんなの楽しいに決まってる。

当時の私は今思えば、自分表現したいものがよくわかっておらず、おもろい(と自分が思う)絵、ショッキングな絵をひたすら描いていた。

描写力のない自分にとって、受験はほぼ大喜利だった。

多摩美には受かったけど藝大には一次すら受からず、落ちた。

それでも人生の中で初めてレベルで悔しくて、藝大の二次試験前なのに講師にお願いして多摩美入学するか、浪人してまた芸大を受けるか涙を堪えながら相談しに行った。

多摩美入学して新たな出会いや刺激を受けて、また藝大を受験してもいいのでは、という助言で多摩美入学することに決めた。



大学では予備校と違って、ほぼ全てが自由だった。

アトリエはいつでも使えるし、課題もあるような、ないような。

私はなんとなく予備校時代と同じようにおもろいと思う絵を描いたと思う。

講評会でみんなの作品自分作品を見比べたとき、私の絵は全然おもろくなかった。

おもろいと思っているのは自分だけ、もはやオナニーである

気付いてしまった。私は自分自身が何を表現したいのか、わからなかったのだ。

大学1年生の時にもう一回だけ藝大を受験したがやはり一次にすら通らなかった。



結局、私はそこから大学4年間でほぼ作品を生み出していない。

講評会前に慌てて制作を始めて、中途半端な出来のものを提出。自分でも思い入れが一切ないインスタント作品

作品はいつも講評会後に速攻捨てていた。

だって自分表現したいものがわからない、つくりたい・描きたいものが何かわからいから。

思い入れもないし自分で気に入ってもない作品。いらない。

かといってサークルを熱心にやるわけでもなく、友達も少なく、ただ単位を取るためだけに大学に行ってひたすらバイト

そんな自分就活などうまくいくはずもなく、なんとか卒業してその後フリーター

最終的に就職はできたが、卒業してから時間が経つにつれて後悔が押し寄せるようになった。

美大ってことは絵が上手いんでしょ?私は全然絵とか描けなくて〜」

「才能があるんだね!」

初めて会った人からそう言われるたびに、「美大卒」という肩書きだけで実力も美術への熱意も伴っていない自分を恥じた。

せっかく親にお金を払ってもらったのに、受験に受かったのに、私は自分表現したいことがわからなかった。

描写力を上げる努力もできない、制作に熱中して、思い入れのある作品を生み出すこともできない。


卒業後も制作を続ける人たちをSNSで見て、私はなんでみんなみたいにすごい作品を作れないんだろうといつも虚しい気持ちになる。

絵を描くのが好きだったはずなのに、本当に絵を描くことが好きなら仕事以外の時間に描けばいいのに。

現在制作をしている人たちを私は尊敬する。

結局「絵を描く才能」なんていうものはなくて、「何か一つのことを継続する才能」のある人たちなんじゃないかと私は思う。

私は絵を描くことは好きだが、努力して継続することはできなかった。

からブルーピリオド」の中で制作にひたむきに向かう登場人物を見て、自分はこうなれなかったということを改めて実感して苦しくなってしまうのだと思う。


私は現在転職して小さな会社で絵を描いたりデザインしたりする仕事をしている。

仕事自由ではない。

お金をもらっているか一生懸命やらなきゃいけないし、与えられた条件の中でどう表現するかを考えなきゃいけない。

私にはきっと、自由が向いてなかったのだ。

その事に気付いてから少しだけ楽になった。

私はブルーピリオドにもハチミツとクローバーにも登場するような人物ではなく、凡人だ。

凡な自分を受け入れ、大学時代に何もできなかった分、少しでも学んだことを生かしてお金を稼ぐ。

から、すごいね、良いねと言われるような仕事を頑張っていくしかない。

いくら後悔しても、もう大学時代のように自由時間は戻ってこない。

大人になってから押し寄せる後悔に対しては、今の自分を受け入れ、今までの自分の行いをどう正解にしていくか、辻褄を合わせていくしかないのだと思う。


いつか私も、辛い気持ちにならずに「ブルーピリオド」を読める日が来たら良いな。

2024-05-26

シイノキ

気が付いたら匂いがしなくなっていた。

確実に老化がすすんでいる。いつの間にか50歳になっていた。

10代の頃、部屋のゴミ箱から放たれる使用済みティッシュのあの強烈な匂いは今はもうしない。

先日、興味本位自分の男の匂いを試しに嗅いでみたときのことだ。





今月初めのGWに、妻と二人、新緑の山のふもとの温泉に出かけた。

こうして二人で元気に旅行ができるのはいつまでだろうか。

青空のもと、山々は一斉に咲いたシイノキの花の淡黄色で見事に彩られていた。

シイノキは5~6月頃に穂状の花を咲かせる。

極相林となったシイノキの開花は圧巻だ。山の色を塗りたての油絵の絵具のように大胆に変えてしまう。

そんな新緑の美しさに気が付いたのは、つい最近のことだ。

どうして今までこの美しさを知らなかったのだろう。風が気持ちいい。

山全体からむせかえるほどの花の香りに圧倒される。

若さ生命力を新緑の山々の空気に感じざるを得ない。

若い頃放っていた青々しい匂いが、つーんと頭の先のほうでよみがえる。

ひょっとすると、だからこそ、新緑の生命力がより強く感じられるのかもしれない。

冷静な言い方をすれば、新緑の美しさのなかに自分自身の老いを鏡のように見つめさせられているのだ。

そういえばシイノキを詠んだ万葉集の歌があったような気がした。

検索したら、こんな歌だった。

家にあれば笥(け)にもる飯(いい)を草まくら旅にしあれば椎の葉にもる

さな椎の葉しかなくとも旅の途中だ、しょうがない、という状況。

状況に応じて満足しなければならないという人生の不変の真実垣間見られる。

検索ついでに目に入った芥川龍之介は、この歌を次のように評していた。

椎の葉の椎の葉たるを歎ずるのは椎の葉の笥たるを主張するよりも確かに尊敬に価している

芥川龍之介 侏儒の言葉より

やれやれ、わかるのだが、ますます年相応の生き方を考えなければいけないと説教された気分だ。

いまよりもっと年を取って、生活ダウンサイジング真剣に考えないといけないときがくるだろう。

いや、とりあえずまだいい。来年また新緑の季節がくれば、また思い出そう。そっとつぶやく

だけれど、5年後、10年後は今よりも喘息がひどくなっていて、新緑の季節にホントにむせてしまって歩けないかもしれない。

2024-05-15

anond:20240515084353

油絵の具で赤色意味するセンセイ、そんなにシェア席巻してるんだあ😲

2024-05-06

AIラフの線画を整えて指定した色やライティングで生成してくれるようになったら一気に使い出す人増えるだろうな。

でも、デジタル時代になってもカメラができても油絵とか古典的技術で描く絵画とか滅んでないから手を使って描く人間は滅ぶことはないだろうし、何なら手描きも売りになるかもしれない。

今だにドットゲームも好まれてたりするしね。

2024-04-20

油絵

油絵が面倒くさすぎてパソコンばかりになっとる!パソコンで背景なしの好きなものだけ好きに描いちょるが、やはり油絵の具の綺麗さって、何物にも代えがたいなとも思う。でもめんどくささが勝ってしまう!昔はパソコンスペックもなくて、いちいち動作遅くてやばかったけれど、myパソコンを買ってから数年、ようやくデジタルペインソフトにも慣れてきて最高だ!

2024-04-13

anond:20240412215137

言いたいことがいくつかまとまりとしてあるので箇条書きの形式でまとめる。

・たとえば乙女ゲーにどっぷりだったりZEROSUM読んだりしてるような分かりやすオタク週刊女性とかワイドショーとか見てると思うだろうか?

しろ彼女らは世間に疎いと言われるぐらいにはそういう井戸端会議ネタになるような、市井の地に足のついた、言い換えれば「夢が微塵もない現実的情報」は積極的に拒絶してる感じするが。ピーターパン症候群も持ってそうだし。

(むしろそういう二次元系のオタクってピーターパン症候群的な童心が残ってることがそれになってしま必要条件で、レディコミの生々しい内容を好める成熟した大人とは対極の存在に思える)

琥珀の夢で酔いましょうが電子書籍サイトでレディコミに分類されているのがなんだうと思った。

「メシヌマ」よりはよほど男でも楽しめる余地ある青年マンガっぽい中身に感じるのだが、なにをもってレディコミなのか

(rentaやbookliveではレディースコミック女性漫画に括られていて、シーモアやめちゃコミでは少女漫画に括られているので、全会一致というわけでもないが)

・フィーヤンはレディコミといわないという主張があって気になったんだが文句なしのレディコミってどんな作品だろうね。グランマの憂鬱とか認知症になった魔法使いみたいな、おばあさんが主人公作品はほぼレディコミで確定かね。傘寿まりこは少女漫画出版社側が言ってるが。

・レディコミには「男が容姿に対して可愛いと思うようなキャラが出てこない」というのが最低条件としてあるんだろうか?

たとえば乙女ゲーで例はひと昔古くて申し訳ないが薄桜鬼やうたのプリンスさまにはヒロイン可愛いという理由で男がヒロインだけ目当てでそういう乙女ゲープレイしてる事例はあった。

しかしレディコミだとキャラが可愛くて男のファンがつく、みたいな魅力がキャラにある作品は(ほぼ)皆無じゃなかろうか。

性的嗜好を刺激するような不細工さというのでもなく、ほんとうにただだぱっとしない売れ残りの女おばさんという感じ。

それはレディコミの定義に関する必要条件みたいなものからだろうか?またこれにはは意図的男性ファンから排除しようとする目的もあるのだろうか?

(ほぼ、と書いたのは「アラサー独女シマちゃんベランダレシピ」)はレディコミならが可愛いヒロインだったから」

・レディコミには今流行りの画風からは外れたひと昔以上前の画風の作品が多い気がする(流行りの絵柄と一致しないのは、逆に画風が流行りにはいままでなかった未来に進んでいるからという場合も想定されるが、そういうわけではなさそう)

とするなら、レディコミを読むのは懐漫を読む感覚を、味わいたい、あるいは懐漫の雰囲気で新作の物語を読みたいからという人も多いのだろうか。

・レディコミや、コアブックス風刺漫画などが「漫画」という主語言及される資格を持っている違和感

たとえばカズオイシグロのようなノーベル賞作家小説を読む人と、フランス書院エロラノベ(だけを活字主体媒体としては)読む人がいたとして、

前者は当然「小説を読むのが好き」というだろうが、後者の人が「小説が好き」とは言わないと思う。

形式的な分類では純文学エロラノベも確かに小説なのだが、あまりにも書き手読み手双方が持つ文化の間では隔たりがある。

そして前者やSFでもミステリーでも大部分はそれを読んでいることに対して、「小説が好き」ということには違和感は感じられないが、エロラノベをもっぱら読んでる人が「小説を好き」といっては、単に媒体だけ共通項の文化圏が他の小説好きの文化圏を侵してるかのような感じになる。

からこの場合は「小説好き」というのは別に他の「小説らしい小説が好きなわけではない」ことから自己認識に遭わないから、「エロラノベが好き」というより狭い括りでの言及の仕方になるんじゃないかと思う。

同じことはレディコミ等と他の漫画あいだの関係にも言えそうで、レディコミはジャンプに比べれば「漫画らしい漫画」というところからかなり遠いところにあるものだと思う。

夢を見せる漫画不条理をみせるにしてもドラマティックな展開があるのが漫画多数派ななかで、レディコミは読者投稿に基づいたりするから淡々現実描写するだけになる。夢も希望もない。

作者がpixivもやっていてその作品が熱心なファン萌え語りの対象になるような漫画と、作者がインスタやっててネット記事のおまけコーナーで中年主婦リアルを描いてるような漫画では、それを取り巻く文化圏は全く相反して交差することもないと思う。

前者は漫画代表(求心力の中心)たりえるが、後者漫画コマ割りや吹き出し感情記号化という形式だけを倣っただけの内容面では全然別物を描いてるのにその分類に対して間借りしているだけに見える。

まさに、学習漫画進研ゼミ販促漫画を読むのが好きだった人が「漫画好き」にあてはまるのかなあ?と同じような感じ。それに対する態度も文化典型的漫画好きとは全然異なっていると思う。

あるいは「絵」とは形式抽象すれば「色の違いによって平面に表現する」ことで、この点で油絵風景画かラノベイラストレーター絵描きで、作られたものは絵なのだけども

そこで「絵が見るのが好き」というとき、前者と後者を両方同時に内包し得るのかなあと。両者はその供給需要もひっくるめて生い立ちの時点で全く異なる文化圏にいるもの同士だろう(もちろん美大出の漫画家レーターもいるっちゃいて前者の文化にもなじんでる人もいるだろうがむしろ例外的)。

そういう意味で、レディコミを読んでる人に向けての「漫画好き」と、少女漫画を読む人に向けての「漫画好き」(あえてレディコミを漫画という総称用語言及してよいのならだが)は、言葉が同じというだけで実質別物の意味合いと捉えた方が自然じゃなかろうかと。

こういうふうに思う固定観念による認知の歪みなのだろうか。

大人にとっては「向け」などないようなものなのに、漫画に対して出版社がいちいち手間かけて性別の年齢で分類するのはなぜか考えたが、まさに子供のためなのだろうと思った。

まり少女漫画」は子供の女から読めるが、男の子にはわない。「ヤンレディース」は高校生とか大学生じゃないと楽しめない確率が割とあるし、これまた男の子やその高校生大学生は楽しめない。

そして「レディコミ」は大人になってからじゃないと楽しめないが、逆に大人からみれば少年漫画青年マンガルポ漫画も楽しめるという具合。

からこそ大人視点でみるとこういう分類ってなんの意味があるんだろうと思えてしまうことがあるが、視点を切り替えればいいのだった。

子供にとって自分に合うものを探すには便利な目安」なのだと思った。ラノベという分類の定義はほんとうにあってないようなものだが。

・ちなみにレディコミなら今は天使腐臭という漫画なら面白そうで読んでみたく思ってる

2024-04-03

現代アートでは「苦労して本人が描いているか」は評価に影響しない。有名アーティスト自分スタジオ設立し、スタジオメンバーが手を動かして作品を作っているケースが多い。アーティスト本人はアイデアを考え、作品コンセプトを練り、発表の場を作っていく。

そして「作品物体を作っているのか」も関係がない。有名なマルセル・デュシャントイレ作品「泉」以降、すべての作品はレディ・メイド既製品)であり、アーティストが行うのは制作ではなく「選択であると考えられている。

油絵を描くにしても、アーティストは絵の具やキャンバスなどの既製品を購入(選択)し、どの色を使うかを選び、どこにどのように配置するかを選んでいる。既製品の使い方を選択し続けている。

何か新しいもの存在していなかった物体を作り出しているわけではなく、既製品選択の組み合わせが新しいアイデアを生み出しているか大事ということだ。

きっとこれは生成AI時代で役にたつ考え方だ。

AIツールの種類を、ツールバージョンを、プロンプトを選択する。出力した画像の組み合わせ方を、画像の使い方を、画像説明付けを選択する。ツールによって作り出すもので、何を成し遂げたいのかを常に選択する。

見る側はその選択意図評価し、価値を見出すことになる。

知らんけど。

現代アートでは「苦労して本人が描いているか」は評価に影響しない。有名アーティスト自分スタジオ設立し、スタジオメンバーが手を動かして作品を作っているケースが多い。アーティスト本人はアイデアを考え、作品コンセプトを練り、発表の場を作っていく。

そして「作品物体を作っているのか」も関係がない。有名なマルセル・デュシャントイレ作品「泉」以降、すべての作品はレディ・メイド既製品)であり、アーティストが行うのは制作ではなく「選択であると考えられている。

油絵を描くにしても、アーティストは絵の具やキャンバスなどの既製品を購入(選択)し、どの色を使うかを選び、どこにどのように配置するかを選んでいる。既製品の使い方を選択し続けている。

何か新しいもの存在していなかった物体を作り出しているわけではなく、既製品選択の組み合わせが新しいアイデアを生み出しているか大事ということだ。

きっとこれは生成AI時代で役にたつ考え方だ。

AIツールの種類を、ツールバージョンを、プロンプトを選択する。出力した画像の組み合わせ方を、画像の使い方を、画像説明付けを選択する。ツールによって作り出すもので、何を成し遂げたいのかを常に選択する。

見る側はその選択意図評価し、価値を見出すことになる。

知らんけど。

2024-03-25

anond:20240325014644

油絵はわいも中学までわからんかったけど中高一貫美術先生がまさに油絵彫刻の人だったし

美術部の先輩も写真みたいな絵を描いて(美大に進学したあと)職員室前に静物画が一枚ずっと飾ってあった

そういうハイレベル学校に入れてる時点で実家文化資本モリモリ勢だろ。

実家が太い」というのは「金持ち」という意味じゃないぞ。

anond:20240323152228

一時の「のびのび」のために奨学金つかうんじゃ意味ないけどな。おじさんがんばって支えておやり

 

油絵はわいも中学までわからんかったけど中高一貫美術先生がまさに油絵彫刻の人だったし

美術部の先輩も写真みたいな絵を描いて(美大に進学したあと)職員室前に静物画が一枚ずっと飾ってあった

今はユーチューバー柴崎さんで厚塗り覚える人も多いんだろうなー。

2024-03-24

anond:20240323152228

油絵というのはほんの一例に過ぎなくて

他には新幹線だったりサイゼリヤだったりスマホから席を指定できる映画館だったり

ありとあらゆることがそうなんだよな

子どもの頃、「放課後に近所の店に寄り道して」どのメーカーお菓子を買っていたか、なんて雑談にも参加できない

わからんやつにはわからんだろう

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