はてなキーワード: 怪談とは
2024-10-02
2024-10-03
2024-10-04
一気に政権奪還になりそう
2024-10-05
遂に高市早苗が離党するらしい
一気に政権奪還する模様だ
2024-10-05
■高市早苗、いよいよ離党
2024-10-15
■保守の人、今回は高市さんを支持する議員だけに投票しましょう。
高市さんを支持している議員がいない選挙区では、維新の議員に投票しましょう。
自民は大敗して過半数割れになり、石破は責任をとって辞職することになります。
その後は高市総理のもと、自民党は維新と連立を組み、真の日本のための政権ができます。
高市早苗議員が自民惨敗の結果を受けて自民党を見限り離党して新党結成の動き
2025-02-09
2025-02-10
遂に石破と石破を応援する自民党の左派、オールドメディアに愛想をつかしてブチ切れたらしい
オールドメディアは偏向報道してるが大失敗に終わったトランプ怪談を見て愛想つかしたとか
来週にも保守派を引き連れて離党
期待しかないよな
2025-02-13
独自に手に入れた速報です。
安倍派保守派の大半を引き抜き国民民主党保守党と合流し新党結成
2025-02-14
もう期待しかない。
2025-02-16
安倍派を中心として既に100人以上の保守系自民党議員が同調していて
維新の会の半数、国民民主党、日本保守党も合流する見込みであり。
これはトランプ大統領も織り込み済みで、
2025-02-25
まさか自分がおばちゃんになってから、こんなにオカルト、ホラーが充実して無限に楽しめる時代になるとは思っても見なかったわ
映画も漫画も小説も怪談師も全て充実。溢れすぎ。一生かかっても全部網羅できない。嬉しい悲鳴
そして、ファッションのように、ホラーのジャンルにもトレンドができてるのが面白い
松原タニシさんの影響で事故物件ブームが起こり、呪術廻戦の影響で呪物ブームが起こり、
心霊写真が取り上げられることが多くなってきたから呪物の次は心霊写真がブームになるのかなと思いきや
雨穴さん、背筋さん、梨さんの活躍により
モキュメンタリー、ファウンド・フッテージホラーブームが起きた
ファッションのようにオカルト界隈でもトレンドができてるのが面白いなぁ
それまでのオカルト界隈のトレンドと言えばネットロアで八尺様とかくねくねとかコトリバコとかネットを使って広まっていくって感じだったから、テレビのほんとうにあった怖い話とか世にも奇妙な物語とか夏の特番のホラー特集等を除いて、あんまりオカルト界隈のトレンドが表に出てくるようなことがなかった
それが、オカルトブームが盛り上がって行方不明展のようにホラーコンテンツを好まない人達の目にも流行りのホラーコンテンツが触れるようになってきた
行方不明展を不謹慎と言う人もいるけれど、いや、ホラーに興味ない人のために作られたもんじゃないからねこれ。得体のしれない恐怖感を楽しむ人のために作られた作品なんだから(行方不明展自体はホラー苦手な人でも安心して行けるイベントでした。お化け屋敷とは違う)。自分の知らない興味のないジャンルについて不謹慎とか語っても意味ないよねって思う
私たちのように行方不明展の楽しみ方がわからないならほっといてって思う
令和になって、令和感満載のホラーコンテンツが楽しめるようになって私はむちゃくちゃ幸せです。モキュメンタリーの後は次のホラーのブームは何が来るんだろうって考える。
明治維新期に突如として出現した「瞬時伝達器」と呼ばれるマイクロブログ端末は、
出生時に人体に埋め込まれる生体統合型デバイスとして全国民に普及した。
この技術革新が明治5年(1872年)の学制発布以前に実現したことにより、
福澤諭吉が『西洋事情』で予言した「言論の電気的伝播」が現実化し、
明治政府の中央集権化政策と民間の自由民権運動が複雑に絡み合いながら、
森鴎外の『舞姫』(1890年)に描かれたベルリン留学中の懊悩がリアルタイムで共有され、
夏目漱石の『吾輩は猫である』(1905年)の連載が「写生文運動」として全国規模の文学革命を引き起こすなど、
薩長同盟が瞬時伝達器を活用した情報操作が決定的役割を果たした。
西郷隆盛の「錦旗偽造疑惑」が全国民のタイムラインで炎上する中、
岩倉具視側近の情報工作班が作成した「討幕の大義」映像コンテンツが300万回再生され、
戊辰戦争では会津藩の白虎隊が自陣の不利をリアルタイムで発信、
森有礼文相が推進した「教育勅語デジタル配信計画」(1890年)では、
森鴎外が陸軍軍医時代に投稿した「戦場医学実況」(日清戦争)は、
作中人物の心理描写をリアルタイム修正する実験的創作を試みた。
夏目漱石は『こゝろ』(1914年)の連載時に「先生の遺書」展開を読者投票で決定、
芥川龍之介が東京帝国大学在学中に投稿した掌編小説が瞬時伝達器経由で漱石の目に留まり、
谷崎潤一郎は『刺青』(1910年)の挿絵を読者からの画像投稿で構成する「コラボレーティブ・アート」を実践、
永井荷風の『腕くらべ』(1916年)では吉原の遊女たちが匿名アカウントで作中の描写に反論するメタフィクション的試みがなされた。
明治10年(1877年)の西南戦争では、西郷隆軍が瞬時伝達器を活用したゲリラ的情報戦を展開。
政府側はAI分析による「感情予測アルゴリズム」で反乱軍の士気低下を計画的に誘導、
立憲自由党が政策動画配信と仮想演説会を組み合わせた「デジタル遊説」を実施、
明治30年代に隆盛を極めた「活動写真」は、瞬時伝達器との連動でインタラクティブ映画として進化。
日露戦争記録映像『旅順要塞総攻撃』(1904年)では視聴者が攻撃ルートを投票決定できる「参加型戦争体験」が提供された。
落語家の三遊亭円朝は端末向け音声コンテンツ「怪談電送話」を配信、
陸奥宗光外相が瞬時伝達器の暗号化機能を駆使した「デジタル砲艦外交」を展開。
一方で、端末の生体統合特性を逆用した「思考盗聴」の危険性が問題化、
国家形成のプロセス自体を根本から変質させる触媒作用を発揮したと考えられる。
従来の歴史区分を超越した「加速された近代化」の様相を呈していただろう。
大正期のメディア・アート運動や昭和初期の全体主義的傾向に新たな様相を付与し、
現代のSNS社会が抱える課題を半世紀早く先取りするパラドックスを生み出していた可能性が高い。
いつ離党するの?
2024-10-02
2024-10-03
2024-10-04
一気に政権奪還になりそう
2024-10-05
遂に高市早苗が離党するらしい
一気に政権奪還する模様だ
2024-10-05
■高市早苗、いよいよ離党
2024-10-15
■保守の人、今回は高市さんを支持する議員だけに投票しましょう。
高市さんを支持している議員がいない選挙区では、維新の議員に投票しましょう。
自民は大敗して過半数割れになり、石破は責任をとって辞職することになります。
その後は高市総理のもと、自民党は維新と連立を組み、真の日本のための政権ができます。
高市早苗議員が自民惨敗の結果を受けて自民党を見限り離党して新党結成の動き
2025-02-09
2025-02-10
遂に石破と石破を応援する自民党の左派、オールドメディアに愛想をつかしてブチ切れたらしい
オールドメディアは偏向報道してるが大失敗に終わったトランプ怪談を見て愛想つかしたとか
来週にも保守派を引き連れて離党
期待しかないよな
2025-02-13
独自に手に入れた速報です。
安倍派保守派の大半を引き抜き国民民主党保守党と合流し新党結成
2025-02-14
もう期待しかない。
この中では「雨月物語」しか読めていない。確か角川ソフィア文庫で読んでいる。
村上春樹「海辺のカフカ」で言及されていたので興味を持った。物語集として面白いのだが、序文に紫式部を持ってくる自意識の強さが良い。あと、僕はそもそも怪奇物語が好きだ。好きなのは凄惨なスプラッタやお化け屋敷的なジャンプスケアではない。何か人知を超えた存在がいるという驚きや恐れなのだ。
これは僕の感傷マゾとつながっているのだろうが、言い出せない妄念を抱えた死者というモチーフが好きだし、神話物語に通じる奇譚が好きで、だから仏教説話も説教臭い割に好きだ。
ところで、東京創元社の編纂したSF短篇集「時を歩く」にピンとくる言葉があった。空木春宵によれば、幽霊とは虐げられた人々の象徴で、だから怖いというよりも親しみを感じるそうだ。その言葉にはたと膝を打った。だから僕もお化けや妖怪が好きなのだ。異様な姿をしていて、理解できるのかできないのかわからない、その「他者」っぽさが面白いんだ。モンスターが深い知性を持っているという設定、大好き。
ちなみに、小林泰三「酔歩する男」の元ネタ菟原処女伝説が、「浅茅が宿」でも触れられている。これを書いていたら小林泰三をまた読みたくなってきた。
「菊花の約」は小泉八雲が「怪談」で翻案している。小泉八雲も上と同じ理由で好きだ。一度彼が翻案する前の原典を読んでみたい。僕は箱庭的世界というモチーフが好きなので「安芸之助の夢」が特に大好きだ。
ところで小泉八雲の朝ドラをやるそうだ。大好きな作家だが、きっと観ないんだろうな。僕がテレビを見る習慣をなくしたのは、一つはイケメンの歯の浮くようなセリフを聞きたくないからなのだが、もう一つは小説家を目指すために、帰宅してから寝るまでの時間をずっと執筆にあてていたからなのだ。あと、ドラマを見ていると本編を放っておいて、史実ではどうなっていたかを調べる悪癖もある。
というわけで、残りの物語もそのうち読む予定。
これも「おくのほそ道」しか読んでいない。たしかビギナーズ・クラシックスだ。人々と交流しながら俳句を作っているのが楽しそうだけれど、地元に句会の記録が実は山ほど残っていたりしないんだろうか。
そういえば句会に通う友人にそそのかされて試みに俳句を作ってみたけれど、短歌と比べて情報量が圧倒的に凝縮されている。言葉選びが極めて厳密で、密度が高い。短歌は十四文字だけの余裕があるがあるから、聞いていてもゆとりがある気がする。僕は散文の文学の良さは情報の圧縮困難性、言い換えるならばどういう話かあらすじを短くまとめると魅力が失われる度合いが高いものを高く買っている。逆に、詩文はどこまで世界を圧縮できるかだ。しかしながら、短歌は枕詞で五文字も使う。なぜこんな効率の悪いことをしているのかは不思議だ。
短歌は与謝野晶子、俵万智、穂村弘あたりを読み、俳句は他に高浜虚子あたりを読んだ。
俳句じゃなくて短歌だが、与謝野晶子は熱量がすごくて読むのにえらく時間がかかった。また、穂村弘は生々しい男の生理が表現されていて何となく好ましく思う。しかしそれを荒っぽくぶつけているようできっちりと計算して表現している。形式があらかじめ用意されているからこそか。「台風の来るを喜ぶ不精髭小便のみが色濃く熱し」「男の子はまるで違うねおしっこの湯気の匂いも叫ぶ寝言も」「泳ぎながら小便たれるこの俺についてくるなよ星もおまえも」。僕は意外と暴力的なものが好きらしい。
俳句は数が多く、未読が多く、次々に新しいのが生まれており、追いつけない。ここに載せられた作品もいつかは読みたいが、記憶に残らないこともあるだろう。しかし、すべてを記憶しておかないと不安だというのも強迫観念に過ぎない。読んだその場で一期一会の幸せを覚えれば、それでいいのかも。ちなみに、俳句が作者の目の前で論評されるバラエティは、かつて通った小説創作講座を思い出して胸が苦しくなるから、見ていない。あれ残酷だよね。
こうしてみればわかると思うが、平安時代の文学と比べると、まだまだ読めていないのが江戸時代の作品だ。開き直って現代語訳でどしどし読みたい。
古典は急がない。いつまでも待ってくれている。世間で流行っている作品とか必読書とかそんなのとは無縁だ。千年前の作品を読むのが一年や二年遅れたところで、どうということはない。
ところで脱線するけれど、いま生きている人を推せる人って偉いと思う。だって、いつスキャンダルで裏切られるかわからないからだ。それこそ明治の文豪がクズだったとかいう話はよく聞くけれど、今となっては本人を含めて関係者がみんな死んでるので、多少は冷静でいられる。新たに醜聞が掘り起こされても「昔の人だからね」とどこか冷静になれる。今の人だとこうは行かない(以下、きちんと謝罪をしなかったためその態度に非常に腹が立ってファンをやめた人や、音痴なイケメン歌手の実例を事細かに挙げるつもりだったが、見苦しいので削除した)。他にも存命人物だと、事件を起こす前のオウム真理教を面白がってた著名人や、古本屋で見つけたロリコン写真集に「これぞ芸術」と推薦文を寄せていた文化人に「逃げるなァァァ」と言いたくなることがある。
やっぱり推しは死んでいる人に限る。どんな差別発言をしていても過去の人間だから納得できてしまう。そんなことを頭の片隅に置いてネットサーフィンをしていたら、芥川龍之介が「侏儒の言葉」で似たようなことを言っているのを見つけた(正確には、悲観主義について調べており、そこから哲学者フィリップ・マインレンダーを見つけ、そこから偶然にも「侏儒の言葉」の言葉にたどり着いた)。
古典の作者の幸福なる所以は兎に角彼等の死んでいることである。
又
「侏儒の言葉」は好きなんだけど、読んでいると段々と彼の鬱に巻き込まれていく。いつか芥川全集をぶっ通しで読みたいが、晩年の作品を読むと真実を言い当てすぎていて心底気分が悪くなってくる。二十代の頃のようにシニシズムを楽しむだけの体力がもはやない。ネヴァーモア! 昔はアンブローズ・ビアス「悪魔の辞典」とか大好きだったんだけどな。
とはいえ、数百年前の古典を無批判に読んでいると、人間に身分の上下があることやとりあえず天皇家が偉いことが自明に思えてくるし、人命がアホみたいに軽いことに感覚がマヒしてくるので、これもまたよろしくない。
こういうことを考えている時は大抵は体調不良のときなので、筋トレなりストレッチをしたりするのがいいのである。僕らは結局肉体を備えた存在で、そこからの入力がどんな言葉よりも助けになることが多い。というか、言葉が自家中毒を起こすことはよくあるのだ。ペッペデス。頭が良すぎて不幸になった人間の物語は好きだが、芥川には生きて戦後を見てほしかった。
さて、池澤夏樹の全集では、これ以降の巻では明治の作品が扱われる。しかし、ここまで書いてきてかなり長くなってしまった。ひとまず、江戸時代までで一区切りとし、近代の作品はまた別の機会としたい。おそらく本気になって書いたら、作家ごとに思い入れのある作品は多く、言いたいことはたくさんあるので、もっと長いエントリになることだろう。近現代作家集に至ってはIからIIIまであり、合わせて何十人もの作家が紹介されている。倍近くになるだろう。
ただし、その機会がいつ訪れるかはわからない。先にドストエフスキーや中島敦、ポーやラブクラフトについて書くかもしれない。あるいは、文学にかこつけた自分語りが一段落したので、これで終わりにすることも大いにありうる。
なお、次のエントリでは、有名どころだが話の流れから言及できなかった作品について述べる。
さっきは何が苦手かについて書いてしまったので、逆に何が好きかについても少しは語ろう。芥川賞をはじめとした現代文学を読んでいて、どういう作品が自分に刺さるかを整理すると、知識が豊富な語り手の小説が一番好きで、その次が自分の巨大な感情を論理的に言語化するのがうまい人が語り手であるものだ。それから、無軌道な性欲や暴力衝動、ひがみなどの負の感情を抑えきれない人間が出てくるのが続く。自分が中高生の頃、そうしたダークな受賞作が連続していたと記憶している。田中慎弥「共喰い」とか、時代は下るが西村賢太「苦役列車」とか、砂川文次「ブラックボックス」とか、自分の暴力衝動に屈する人間を描いたのが好きだ。青来有一「聖水」とかもそうだ。世間からはみ出してしまった、汚らしい人間が好きだった時期がある。おそらく「悪とは?」が内なるテーマだったんだろう。
芥川賞は一つの賞でしかなく、世間的には評判が良くてもピンこと来ない作品はどうしてもある。若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」は最初から自分の中の無意識の声たちについて説明しすぎていて、「それだったら最初っから意識の流れとか無意識って言えよ」って思ってしまって、それ以来ずっと批判的にしか読めなかった。あれは高齢者向けの一人で生きることを学ぶ教養小説なんだよな。あと、又吉直樹の作品に結構な頻度で、的外れな批判をしてくる劇団員の女性が出てくるけれど、「お前、本当は社会的な作品批評が嫌いだろ?」っておちょくってやりたくなる。村田沙耶香「コンビニ人間」については前回のエントリで名前を伏せてチクリとやってしまった(最後まで読んでいないくせに!)。
理想を言えば性別だとか人種だとか国籍だとか年齢だとか思想だとか、そういうのを抜きにして作品を評価したいんだけれど、ある程度年齢を重ねてくると、十代の頃のように素直にストーリーを受け止められず、若いころのように思考の柔軟性がなくなり、労働で疲れていては異質なものを楽しむゆとりが減る。どうしても自分の属性や性格が近い人の文章が面白く感じるので、公平に評価するためにマイノリティ枠を設けるってのは、いくつかの問題点があるとはいえ、一つの知恵だと思う。なお、文学的に優れていることと、そのときの自分に刺さって面白いのと、今の社会が必要としているのとは、まったく違うので、話題の小説がいつも面白いわけにはいかないのはしょうがないのだろう。
脱線すると、芥川賞を取ってもその後書き続けられた作家のほうが面白い。というか、受賞作がつまらなくてもその後面白くなる作家も多い。しかし、逆に芥川賞を取る前の青臭い作品にしかない魅力もある。長編を連載するだけの構成力も体力もないデビューしたての漫画家の初期短編集からしか得られない栄養素があるのと同じだ。
なお、僕は大体漫画を買うときは短編が多い。「Fellows!」「ハルタ」「エロティクス・エフ」「楽園」「アフタヌーン」出身の漫画あたりから、絵が好みなのを選んでいるようだ。
というか、みんなあれだけ長編の少年漫画を読むだけの体力があってすごい。ただし、僕がなかなか長編漫画が読めないのは、活字のようにぶっ通しで一気に読もうとしているからという可能性がある。連載を追うペースで、ゆっくりと読めばいいはずだ。
なんでこんなことを言うのかというと、僕は同世代的経験に相対的に乏しいためだ。例えばゲームが下手すぎて、ドラクエやファイナルファンタジーなどの多くの作品をプレイできていない。ポケモンでさえ途中で飽きる人間なのだ。自分が好きなペースで刺さった作品を読んでいるだけなのだが、時折どうしても疎外感を覚える。若いころにもっと流行りのJ-POP聞いてりゃよかったよ。そりゃあ人は人、自分は自分だけれど、寂しい。
とはいえ、少年漫画の多くは恋愛が扱われるので、そこまで読みたい気分でもないのである。
こういうことを書くと「課題の分離」とかいう話になりそうだけど、個人的にはアドラー心理学はそこまで信用していない。さっき書いた「課題の分離」をはじめとした有益な概念は多いし、原因を探るよりもまず対処法を考えるのは、実生活で非常に役に立つ。というか、実際に役に立った。だが、「嫌われる勇気」をはじめとした本ではいいことを言っている一方で、「私に反論するとしたら、それは私の理論を理解していないからだ」という、反証可能性を潰すような自己完結した思考をしているのがいただけない。これは初期のフロイト派の「私に反論するとしたら、それは私に父親を見出しているからだ」とか、古い時代のフェミニストの「私に反論するとしたら、あなたが女性差別を乗り越えられていないからだ」とか、それらと同様の理屈だ。なにか自己完結した、人の話を聞かない嫌らしさを感じる。
自己完結と言えば、たとえば何人かの反出生主義者が(もちろん別の哲学的立場でもいい、実例は見たことがある)、予期される反論に対してすべて想定問答を作ってガチガチに自己防衛をしているのを見ると、圧倒的な壁のような「他者」を感じる。この人と議論しても、自分も相手も何も変わらないだろうなという、諦念を感じることがある。互いに変化をもたらす「対話」にならないのだ。
意識の高い人たちが叩かれるのはこれも理由かもしれない。会話をしても意見を変えてくれないだろうと感じるのだ。一方的な議論をしたいのなら活字でいい。僕は対話がしたいのだ。
息子が癇癪を起こし、それに絶望した母親が親族全員を殺した事件が話題だが、
https://togetter.com/li/2490170
⚫︎私のこと
疲れやすく、土日になると起き上がれないこともしばしば…
息子の機嫌次第で家事ができなくなってしまう(安全面、やる気)
わが家、実は誕生日なんですが。
ロウソクをつけてケーキを出したら、息子が「ローソク差したかった!!」と癇癪起こしそうになり、もうこの時点で苦労して買ったケーキもどうでもいいや…とイライラ。
ポンコツクズ夫が子供達にクラッカーを持たせていたことに気付き「子供に持たせるのは危ないからやめて」と伝えただけで
いや、息子は自分に向けて紐を引っ張ってたんだよ?危ないよ?それがもう、理解できないらしく
「あーーあ!!クラッカーできねぇってよ!!!!!!!!!!!!!!!!ギャーーーーーー!!!!!!!!俺は子供達にやらせたいんだーーーーーー!!!!!!!!!どうもすみませんでしたぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーー!!!!!!!!!」
適応障害、躁うつ病持ちでした。夫のことは書いてないけど、このパニックの仕方からして発達障害持ちなのはほぼ確定。
せみまるこ
@semimaruko
ケーキの切れない意識低い系発達ママ/サブカルクソBBA/モラ離婚済/特別高等支援学校在籍息子/支援学級在籍娘/不登校/ADHD/ASD/境界/虐待サバイバー/AC/鬱・解離・睡眠障害/原田病/ゴールデンカムイ/ウクレレ/寝たきり芸人あそどっぐ/怪談と猥談が好き/通知はオフ/成人済/
@ayuchidori ね。私もあゆコちゃんも、子供が不登校で癇癪持ちだからこそ、このお母さんの気持ち凄くよくわかる。でも、そうじゃなければ、子供だけが可哀想だと思う様な浅はかな考えを持っていたんだろうなと思う。その位、不登校癇癪持ちの子を育てるって、母親だけが背負う負担が大きいのが問題だよね。
従って、発達障害、適応障害を持ってる女性とは付き合わない方が良いし、子供を持たないほうがいい。
親が発達障害持ちだと子供も癇癪持ちになり、かなりの高確率で育てにくい子供になる。
むろん、黄連解毒湯、女神散、半夏厚朴湯、六君子湯、ストラテラ、インチュニブなど効く薬はあるにはある。
だが、この手の薬を飲んでも、子供は最低賃金の仕事につければいい方で、たいていはニートや不登校になる。
ようやく最低賃金の仕事に就けたところでアル中や弱者男性になるのが関の山だ。
だから、発達障害や適応障害を持ってる女性とは結婚しない方が良いし、子供もこ作らないほうがいい。
とはいえ、女性にこれらのラベルが貼ってある訳では無い。だが、見る人が見れば分かる特徴というのがある。
女性の輪に入っていけない
感覚過敏
体調を崩しやすい
家事ができない
https://meden.co.jp/column/mentalhealth58/
忘れ物が多い
不注意が多い
なお、この手の特徴だが、子どもの癇癪や軽度認知機能障害、pmsに効く薬を飲むと緩和できる。
ただ、因子は未だに残り続けるので、子供も癇癪持ちになりやすく、支援の輪もどんどん小さくなるので、この手の女性はマシで避けたほうがいい。
件の記事を読んで。
https://s-mizuki.hatenablog.com/entry/2024/11/23/153527
怪談がスピリチュアルや陰謀論に寄り過ぎているというのだ。確かに最近は、霊感芸人と都市伝説系YouTuberが共催したイベントで観客が失神したり、心霊現象を主張するスタジオが科学者から批判を受けたり、業界の著名人が根拠不明な陰謀論を発信したりと、色々と物議を醸している。
でもそもそも怪談って非科学的で根拠のないものじゃないのか、という疑問が湧いてくる。確かにその通りなんだけど、ここで重要なのは怪談が持っている「教訓性」という側面だと思う。
江戸時代から続く日本の怪談文化には、単なる恐怖だけでなく、必ず何らかの教訓が含まれていた。約束を守らなかった者が祟られる、人を呪えば自分にも返ってくる、といった具合に。怪談は非科学的でありながら、人間の行動や選択の結果として恐怖や災厄を描くことで、倫理的な問いを投げかけていたんだ。
一方で今流行っているスピリチュアルは「宇宙のエネルギー」とか「波動」とか、抽象的な概念による「癒し」を売りにしている。そこには具体的な人間の行動や選択に対する考察がない。陰謀論に至っては、特定の個人や団体を「隠された敵」として警戒を呼びかけるだけで、建設的な示唆に乏しい。
つまり、現代の怪談界隈が抱える問題は、単に非科学的というだけでなく、怪談が本来持っていた文化的・倫理的な価値を失いつつあるということなんじゃないだろうか。スピリチュアルや陰謀論との安易な結びつきは、想像力を刺激し教訓を与えるという怪談本来の役割を歪めてしまっている。
このままでは怪談文化そのものが社会からの信頼を失い、スポンサーやメディアの支持も減少していくだろう。さらに深刻なのは、SNSなどで拡散される偏った価値観や非科学的思考が、特に若い世代に悪影響を及ぼす可能性があることだ。
怪談文化を守るためには、エンターテインメントとしての面白さを保ちながら、その歴史的背景や文化的価値を再評価する必要がある。非科学的な要素は怪談の特徴として受け入れつつ、それが持つ教訓的な意義をしっかりと見つめ直すべきだと思う。
今35歳なんだけども
子供のころは図書館、学校の図書室で子供向け怪談本を借りて読み、
稲川淳二の怪談ビデオを借りてきて、面白かった話を友達に聞かせたりしてた
当時は怖い話がもっと読みたい、もっと知りたいと足りないくらいだったけれども
今はもう私の一人分の人生の時間では足りないくらい面白い怪談が世の中に溢れている
たくさんの怪談師、たくさんのホラー小説、ホラー映画、ホラーゲーム、ホラー漫画、いくら時間があってもお金があっても足りない
私が子供のとき、若いときにはこんなことになるとは思わなかった
ただ、テレビのほうはコンプライアンスの問題で今よりホラーの規制が厳しくなっちゃったけど
ホラーエンタメコンテンツは好きだけど同じ趣味の友達がいないとネットで呟いたら自分も自分も!と50代とか私よりも歳上の人たちが名乗りをあげてきた
あー、私もなにも行動を起こさなければ、このまま友達がいないままおばあちゃんになるんだろうなと思った
かといって、かいばしらさんみたいなYouTuberやる時間もないし
エピソード(ちょっとした愚痴や自慢、感動)とか、聞いてもらえるなら聞いてもらうし、聞かせてもらうし
相手がつまらなさそうにしないように、話したい欲溜まってないか、無理に話題を振ってないか、気にするし
2人ならわりと簡単だけど、複数人になったら格段に難易度が上がって、
ずっとつまらない(他の人が興味を持っていない、笑わない、スマホいじりだす)長い話をする人や、
突然突拍子もない話(本人は繋がっているつもり。関連性の認識がおかしいか、エピソードとかが少なく無理に手繰り寄せて違和る)をする人が居たりで
せっかくの時間がもったいなくなって悲しい
そこそこみんな楽しめているのなら、主導権の奪い合いや切り返し狙いとか自分の個性で存在感をアピールするそれはそれで楽しい場なのだけど
もちろん3~4人ぐらいで真面目な話をすることもあるし、なんでもかんでもウケようとしてるわけじゃないです
誰かと話すのって、
マウントしたい
知って驚いたことを共有したい
みたいな、前の二つとか(三つめもちょっとマウント系か)の、愚直に伝えればよくない系の欲求のためが含まれてないか?
それは相手もしんどい、自分も恥ずかしいから、話術(ネタのチョイスや組み立て、間合い)が必要で、
関西人だから、距離感近すぎて、他地域だと、ただその場を穏やかに保つためや、相手に危害を与えないですよという安心挨拶の社交辞令だけなのか?
関西人だから着地が笑いになりがちでそのパターンを多種知ったから、予定調和で笑えたり、ツッコミで終了するけど、
他地域だと、怪談とかいい話オチとか落語の人情噺とか、世にも奇妙な物語のタモさんみたいな別系統の落としがあって、そこわからんのかな我ら
ふと思い出したことを語る。
関東地方の某大学に纏わる話。この大学の部室棟の一角に、開かずの間と呼ばれる空き部室があった。平成7年頃の話だ。俺も何度か立ち寄ったことがあるが、一目見てヤバいと思ったよ。
その部室は扉に「立入禁止」と書かれた錆びたプレートが打ち込まれ、裏に回ると窓は厳重に目張りされていた。あまりの物々しさから近隣のサークルの連中からは気味悪がられていたことを覚えている。
この部室は講義棟に近く、使いたいサークルは沢山あったはずだし、何よりも部室棟はパンク状態でもう入居できる部室がなかったから、こんな好位置の部室がどうしてずっと使えないのか不思議だった。物置で使っているというわけでもないらしく、部室が使われているところは誰も見たことがないらしい。まさに開かずの間だった。
ところで、開かずの間にはいくつかの噂があった。これはサークルの先輩から聞いたんだが、何年か前に部室棟に夜中残っていた連中が開かずの間の横にある便所の個室で用を足していると、横の壁からブツブツと声のようなものを聞いたらしい。他にも、興味本位で開かずの間の扉の鍵をピッキングで開けようとした奴が中からうめき声を聞いたという話もあり、極めつけは、一度何らかの方法で中に入った奴がビッシリと貼り付けられた大量の御札を見たという眉唾な話まであった。
当時、俺はそういう怪談の類が好物だったから、あの開かずの間の正体を知りたくて、サークルの自治会に行って開かずの間にかつてどんなサークルが入っていたのかを調べてもらった。自治会室の棚の奥からサークルの古いリストが載っているファイルを委員が取り出してきた。そして委員がサークル名の載った赤茶けた紙をめくっているとかつて開かずの間を使っていたとされるサークルが見つかった。
そこには「社会科学研究部」とあった。昭和30年代に設立されたかなり古いサークルで、他の資料を当たってみると、40年代頃まで存在していたようだった。そこからはワンゲル部かどこかが使っていたものの、入居してわずか数年で廃部となり、以降は空き部室となっているようだった。つまりあの部室はもうかれこれ20年以上使われていなかったのだ。
結局、開かずの間から聞こえてきたという謎の声は一体何だったのかは分からなかった。当時はネットも普及していなかったし、俺も忙しくなりこれ以上調べるのも面倒臭くなったからこの件についてはこれっきりだ。
この文章を書く前にネットで調べてみたが、やはりわからなかった。
一体あの開かずの間はなんだったんだ。