はてなキーワード: 晩年とは
叔父が亡くなった。叔父の最後は誤嚥性肺炎だったとのこと。晩年というか自分が中高生くらいになってからかな、そのころから半引きこもりのような生活をしているようだった。なぜそのような生活を送るようになったのかは自分にはわからなかった。だけど引きこもって何もしなかったというわけではなく、祖母の身の回りの世話をしていて、車を運転したり、買い物したり、食事を作ったりしていた。しかし、働かない大人というのは周りから腫物扱いされるもので、だんだんと触れてはいけない人のような、空気のような扱いをされるようになった。ご本人も、だんだんと自分から身を隠すような、そんなそぶりを感じるようになった。自分はそのことにいつも、ずっと居心地の悪さを感じていた。
叔父の思い出を振り返ると、親戚の中で一番遊んでくれた大人だったことを思い出す。おばあちゃんの家は楽しいという幼少の記憶のセットとして覚えている。日産のとても古い車に乗っていていつも暖気運転してから、いろんなところに連れて行ってくれた。知らない外食屋さん、知らない公園、おぼろげな記憶がいくつかある。暖機運転中の鼻につくガソリンの臭いが懐かしい。
自分は中学生の時、1年ほど学校に通えない時期が続いた。心配をしてくれたのか、叔父はいくつか服を送ってきてくれた。オレンジ色のタータンチェックの服とか、自分では絶対にチョイスしないださい服だった。でもおじさんらしいチョイスで、叔父が来そうな服でもあった。不登校になって、世の中のレールからはずれてしまって、ちょっとした絶望と孤独感を味わっていた自分にとっては、心配してくれる誰かがいてくれたことにうれしさと安心感を覚えた記憶がある。あの時、なぜプレゼントをくれたのか。その理由は聞けていない。今更、どんな思いで贈ってくれたんだろうかなんて思う。そんなことももう聞けない。
叔父がなぜひきこもっていたのかわからない。だけど、繊細な人だったのだと思う。自分たち兄弟にやさしく接してくれた。社会に出ると、いろんなつらいことがある。叔父は社会で生きていくにはやさしすぎたのかもしれない。叔父は静かに死んでいった。葬儀は叔父の兄弟だけでやるらしい。ご本人の心のうちはわからないが孤独で亡くならないでほしかった。そんな人ではない、という悔いが残る。自分がもっと積極的にコミュニケ―ションを取りに行っていたら変わったのかなと思ったりもするが、自分がそういうのが得意な人間でもないし、叔父はそんなことを望んでいないかもしれない。自分の中に残るわだかまりは、好きだったから孤独で亡くならないでほしかったという思いだけ。
そういえば漫画が好きだったね。1,2のアッホとからんぽうとか世代でなければ読まない漫画を読ませてもらったな。ゲゲゲの鬼太郎ももらったな。
まず、「馬尾馬尾」ってのはあだ名だ。本名は記録に残ってないけど、江戸の町ではこの名前で呼ばれてたらしい。なんでそんな変な名前になったかっていうと、こいつの髷(まげ)が馬の尻尾みたいに長くて特徴的だったから。普通の武士や町人なら整った髷を結うもんだけど、馬尾馬尾はその辺がだらしなかったんだろうな。
身分は町人と農民の間くらいの、ちょっと曖昧なポジション。こういう中途半端な立場って、どこにも完全に受け入れられないんだよね。だから彼は、どこにも属さずフラフラと生きてた。でも、その中途半端さがかえって彼の強みになったんだ。
馬尾馬尾には、典型的な弱者男性の特徴があった。無駄に博識で、細かいことに異常にこだわるくせに、空気を読めない。たとえば、祭りの準備でみんなが忙しいときに、「いや、それは非効率だ!」とか言い出して反感を買うタイプだ。しかも本人はそれに気づかないんだよ。
でも、完全に嫌われ者ってわけでもなかった。独特の正義感と意外な器用さで、トラブルを解決することもあった。そういうときは「あいつ、意外とやるじゃん」って評価されるんだけど、またすぐに余計な一言で台無しにしちゃうんだな。
そんな馬尾馬尾だけど、実はスゴい特技を持ってたんだ。それが、江戸時代版の「ガジェット」作り。木や竹、紙なんかを使って、小さな仕掛け時計やパズルを作るのが得意だったんだ。子どもたちにはこれが大人気で、「馬尾のおっちゃん、おもちゃ作ってよ!」って頼まれてたらしい。
特に有名なのが、木製の「動く人形」。ゼンマイ仕掛けで茶碗を運ぶような簡単なからくり人形だけど、それが当時の人たちにはめちゃくちゃ新鮮だった。職人としては一流だったのに、弱者男性としてのコミュニケーションの下手さで、広くは評価されなかったんだよな。
馬尾馬尾は、晩年にはすっかり人々の記憶から薄れていった。家族もいないし、友人も少ないから、孤独な生活を送ってたらしい。彼が亡くなったとき、葬儀を開く人もいなくて、遺品のガジェットたちだけが彼の存在を物語ってたんだってさ。
でも、彼の作ったものは、その後骨董品として弱者男性学の専門家に注目されるようになった。一部のコレクターには「江戸の天才職人」として評価されてるらしい。皮肉だよな、生きてる間に評価されないなんて。
かなり不謹慎な発言や人間性を疑われるようなことを言ってしまうかもしれない。
それに対する自分自身への嫌悪感も含めて整理したいので書こうと思っている。
同居してる母がコロナになった。
昨日から発熱があって、インフルかもよ笑とか冗談言ってたらコロナだった。
もう若くない母自身への心配だとか、同居してる祖母への心配、同じく同居してる父への心配、それら全てを押し除けて真っ先に考えたことがそれだった。
元々できた人間ではなかったが、ここまで倫理観が終わってるとは思わなかった。
でもそれが身内の病状にまでとは。
ショックだったし、ここまで育ててくれた両親に申し訳なく思った。
これを書いてるのも整理のためと自分は言っているが、もしかしたら「少しは共感してくれる人がいるかも」「本当は自分は正常なのかも」と思いたいがための行動なのかもしれない。
なんて浅ましい考えなんだろうと、なぜあの両親からこんな人間が生まれてしまったのかと思う。
そして自分は何より外部からの評価を気にしているんだと思った。
友人や仕事の関係者に迷惑がかかることが、家族の命の危機より嫌だからこその思考なのではと考えた。
なんなら心配で駆けつけてくれた幼馴染の友達に励まされて、「悲しい顔しないとこの子に申し訳ない」と考えて悲しいふりをしたまでだ。
7年前の話だが、それから自分が何も進歩してないことに仰天だ。
そもそも祖父母が苦手なこともあるが、加えて祖父は晩年、認知症を患ってからロクでもなかったためせいせいした気持ちになっているんだろうとその時は思っていた。
理不尽に怒鳴り散らす祖父を見て「早く死んでしまえば」とすら考えたことがある。
でも今思えばせいせいしたのではなく「興味がなかった」だけなのかもしれない。
要介護になった祖母に対しても、正直面倒くさいの気持ちが勝っている。
なぜ世の人は他人のために自分の身を削ることができるんだろう。
これがわからない時点で、血縁を「他人」と分類している時点で、自分も立派なロクでなしである。
正直怖い。
血縁にすら冷血な思考をしている自分が、相手方の家族に親身になることができるのか。
できるわけがない。
今まで周囲に甘えすぎて来たんだろう。
周りの人の優しさの上にあぐらをかきすぎていた。
とりあえず今は目の前の家族のことを優先して、その後自分のことにも向き合っていきたい。
現時点ですでに喉の痛みがあるので、きっと私も発症するんだろうと思っている。
今はできることをしたい。
被害者に関する守秘義務というのは被害者が亡くなったら効力が無くなるのだろうか?
もしも中居と示談した女性が自殺でもしたら、中居は自由に暴露本を出せるようになるのだろうか?
そもそも中居が認知症になって当時の事べらべら話し始めたらとか考え始めたら、守秘義務なんてものはそれを課せば絶対安心というものでは決してないのだけど。
認知症では心神喪失で義務不履行に対して責任を問えないおそれもあるだろう。
少なからぬ国家機密を知っていたノイマンは晩年認知症気味から病室の内外に警備をつけられ、彼の口から秘密が漏らされることを物理的に防いでいたらしい。
一般に秘密を守るにはそれぐらいしないと安心なことなんてないのだ。
dorawiiより。
この中では「雨月物語」しか読めていない。確か角川ソフィア文庫で読んでいる。
村上春樹「海辺のカフカ」で言及されていたので興味を持った。物語集として面白いのだが、序文に紫式部を持ってくる自意識の強さが良い。あと、僕はそもそも怪奇物語が好きだ。好きなのは凄惨なスプラッタやお化け屋敷的なジャンプスケアではない。何か人知を超えた存在がいるという驚きや恐れなのだ。
これは僕の感傷マゾとつながっているのだろうが、言い出せない妄念を抱えた死者というモチーフが好きだし、神話物語に通じる奇譚が好きで、だから仏教説話も説教臭い割に好きだ。
ところで、東京創元社の編纂したSF短篇集「時を歩く」にピンとくる言葉があった。空木春宵によれば、幽霊とは虐げられた人々の象徴で、だから怖いというよりも親しみを感じるそうだ。その言葉にはたと膝を打った。だから僕もお化けや妖怪が好きなのだ。異様な姿をしていて、理解できるのかできないのかわからない、その「他者」っぽさが面白いんだ。モンスターが深い知性を持っているという設定、大好き。
ちなみに、小林泰三「酔歩する男」の元ネタ菟原処女伝説が、「浅茅が宿」でも触れられている。これを書いていたら小林泰三をまた読みたくなってきた。
「菊花の約」は小泉八雲が「怪談」で翻案している。小泉八雲も上と同じ理由で好きだ。一度彼が翻案する前の原典を読んでみたい。僕は箱庭的世界というモチーフが好きなので「安芸之助の夢」が特に大好きだ。
ところで小泉八雲の朝ドラをやるそうだ。大好きな作家だが、きっと観ないんだろうな。僕がテレビを見る習慣をなくしたのは、一つはイケメンの歯の浮くようなセリフを聞きたくないからなのだが、もう一つは小説家を目指すために、帰宅してから寝るまでの時間をずっと執筆にあてていたからなのだ。あと、ドラマを見ていると本編を放っておいて、史実ではどうなっていたかを調べる悪癖もある。
というわけで、残りの物語もそのうち読む予定。
これも「おくのほそ道」しか読んでいない。たしかビギナーズ・クラシックスだ。人々と交流しながら俳句を作っているのが楽しそうだけれど、地元に句会の記録が実は山ほど残っていたりしないんだろうか。
そういえば句会に通う友人にそそのかされて試みに俳句を作ってみたけれど、短歌と比べて情報量が圧倒的に凝縮されている。言葉選びが極めて厳密で、密度が高い。短歌は十四文字だけの余裕があるがあるから、聞いていてもゆとりがある気がする。僕は散文の文学の良さは情報の圧縮困難性、言い換えるならばどういう話かあらすじを短くまとめると魅力が失われる度合いが高いものを高く買っている。逆に、詩文はどこまで世界を圧縮できるかだ。しかしながら、短歌は枕詞で五文字も使う。なぜこんな効率の悪いことをしているのかは不思議だ。
短歌は与謝野晶子、俵万智、穂村弘あたりを読み、俳句は他に高浜虚子あたりを読んだ。
俳句じゃなくて短歌だが、与謝野晶子は熱量がすごくて読むのにえらく時間がかかった。また、穂村弘は生々しい男の生理が表現されていて何となく好ましく思う。しかしそれを荒っぽくぶつけているようできっちりと計算して表現している。形式があらかじめ用意されているからこそか。「台風の来るを喜ぶ不精髭小便のみが色濃く熱し」「男の子はまるで違うねおしっこの湯気の匂いも叫ぶ寝言も」「泳ぎながら小便たれるこの俺についてくるなよ星もおまえも」。僕は意外と暴力的なものが好きらしい。
俳句は数が多く、未読が多く、次々に新しいのが生まれており、追いつけない。ここに載せられた作品もいつかは読みたいが、記憶に残らないこともあるだろう。しかし、すべてを記憶しておかないと不安だというのも強迫観念に過ぎない。読んだその場で一期一会の幸せを覚えれば、それでいいのかも。ちなみに、俳句が作者の目の前で論評されるバラエティは、かつて通った小説創作講座を思い出して胸が苦しくなるから、見ていない。あれ残酷だよね。
こうしてみればわかると思うが、平安時代の文学と比べると、まだまだ読めていないのが江戸時代の作品だ。開き直って現代語訳でどしどし読みたい。
古典は急がない。いつまでも待ってくれている。世間で流行っている作品とか必読書とかそんなのとは無縁だ。千年前の作品を読むのが一年や二年遅れたところで、どうということはない。
ところで脱線するけれど、いま生きている人を推せる人って偉いと思う。だって、いつスキャンダルで裏切られるかわからないからだ。それこそ明治の文豪がクズだったとかいう話はよく聞くけれど、今となっては本人を含めて関係者がみんな死んでるので、多少は冷静でいられる。新たに醜聞が掘り起こされても「昔の人だからね」とどこか冷静になれる。今の人だとこうは行かない(以下、きちんと謝罪をしなかったためその態度に非常に腹が立ってファンをやめた人や、音痴なイケメン歌手の実例を事細かに挙げるつもりだったが、見苦しいので削除した)。他にも存命人物だと、事件を起こす前のオウム真理教を面白がってた著名人や、古本屋で見つけたロリコン写真集に「これぞ芸術」と推薦文を寄せていた文化人に「逃げるなァァァ」と言いたくなることがある。
やっぱり推しは死んでいる人に限る。どんな差別発言をしていても過去の人間だから納得できてしまう。そんなことを頭の片隅に置いてネットサーフィンをしていたら、芥川龍之介が「侏儒の言葉」で似たようなことを言っているのを見つけた(正確には、悲観主義について調べており、そこから哲学者フィリップ・マインレンダーを見つけ、そこから偶然にも「侏儒の言葉」の言葉にたどり着いた)。
古典の作者の幸福なる所以は兎に角彼等の死んでいることである。
又
「侏儒の言葉」は好きなんだけど、読んでいると段々と彼の鬱に巻き込まれていく。いつか芥川全集をぶっ通しで読みたいが、晩年の作品を読むと真実を言い当てすぎていて心底気分が悪くなってくる。二十代の頃のようにシニシズムを楽しむだけの体力がもはやない。ネヴァーモア! 昔はアンブローズ・ビアス「悪魔の辞典」とか大好きだったんだけどな。
とはいえ、数百年前の古典を無批判に読んでいると、人間に身分の上下があることやとりあえず天皇家が偉いことが自明に思えてくるし、人命がアホみたいに軽いことに感覚がマヒしてくるので、これもまたよろしくない。
こういうことを考えている時は大抵は体調不良のときなので、筋トレなりストレッチをしたりするのがいいのである。僕らは結局肉体を備えた存在で、そこからの入力がどんな言葉よりも助けになることが多い。というか、言葉が自家中毒を起こすことはよくあるのだ。ペッペデス。頭が良すぎて不幸になった人間の物語は好きだが、芥川には生きて戦後を見てほしかった。
さて、池澤夏樹の全集では、これ以降の巻では明治の作品が扱われる。しかし、ここまで書いてきてかなり長くなってしまった。ひとまず、江戸時代までで一区切りとし、近代の作品はまた別の機会としたい。おそらく本気になって書いたら、作家ごとに思い入れのある作品は多く、言いたいことはたくさんあるので、もっと長いエントリになることだろう。近現代作家集に至ってはIからIIIまであり、合わせて何十人もの作家が紹介されている。倍近くになるだろう。
ただし、その機会がいつ訪れるかはわからない。先にドストエフスキーや中島敦、ポーやラブクラフトについて書くかもしれない。あるいは、文学にかこつけた自分語りが一段落したので、これで終わりにすることも大いにありうる。
なお、次のエントリでは、有名どころだが話の流れから言及できなかった作品について述べる。
さっきは何が苦手かについて書いてしまったので、逆に何が好きかについても少しは語ろう。芥川賞をはじめとした現代文学を読んでいて、どういう作品が自分に刺さるかを整理すると、知識が豊富な語り手の小説が一番好きで、その次が自分の巨大な感情を論理的に言語化するのがうまい人が語り手であるものだ。それから、無軌道な性欲や暴力衝動、ひがみなどの負の感情を抑えきれない人間が出てくるのが続く。自分が中高生の頃、そうしたダークな受賞作が連続していたと記憶している。田中慎弥「共喰い」とか、時代は下るが西村賢太「苦役列車」とか、砂川文次「ブラックボックス」とか、自分の暴力衝動に屈する人間を描いたのが好きだ。青来有一「聖水」とかもそうだ。世間からはみ出してしまった、汚らしい人間が好きだった時期がある。おそらく「悪とは?」が内なるテーマだったんだろう。
芥川賞は一つの賞でしかなく、世間的には評判が良くてもピンこと来ない作品はどうしてもある。若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」は最初から自分の中の無意識の声たちについて説明しすぎていて、「それだったら最初っから意識の流れとか無意識って言えよ」って思ってしまって、それ以来ずっと批判的にしか読めなかった。あれは高齢者向けの一人で生きることを学ぶ教養小説なんだよな。あと、又吉直樹の作品に結構な頻度で、的外れな批判をしてくる劇団員の女性が出てくるけれど、「お前、本当は社会的な作品批評が嫌いだろ?」っておちょくってやりたくなる。村田沙耶香「コンビニ人間」については前回のエントリで名前を伏せてチクリとやってしまった(最後まで読んでいないくせに!)。
理想を言えば性別だとか人種だとか国籍だとか年齢だとか思想だとか、そういうのを抜きにして作品を評価したいんだけれど、ある程度年齢を重ねてくると、十代の頃のように素直にストーリーを受け止められず、若いころのように思考の柔軟性がなくなり、労働で疲れていては異質なものを楽しむゆとりが減る。どうしても自分の属性や性格が近い人の文章が面白く感じるので、公平に評価するためにマイノリティ枠を設けるってのは、いくつかの問題点があるとはいえ、一つの知恵だと思う。なお、文学的に優れていることと、そのときの自分に刺さって面白いのと、今の社会が必要としているのとは、まったく違うので、話題の小説がいつも面白いわけにはいかないのはしょうがないのだろう。
脱線すると、芥川賞を取ってもその後書き続けられた作家のほうが面白い。というか、受賞作がつまらなくてもその後面白くなる作家も多い。しかし、逆に芥川賞を取る前の青臭い作品にしかない魅力もある。長編を連載するだけの構成力も体力もないデビューしたての漫画家の初期短編集からしか得られない栄養素があるのと同じだ。
なお、僕は大体漫画を買うときは短編が多い。「Fellows!」「ハルタ」「エロティクス・エフ」「楽園」「アフタヌーン」出身の漫画あたりから、絵が好みなのを選んでいるようだ。
というか、みんなあれだけ長編の少年漫画を読むだけの体力があってすごい。ただし、僕がなかなか長編漫画が読めないのは、活字のようにぶっ通しで一気に読もうとしているからという可能性がある。連載を追うペースで、ゆっくりと読めばいいはずだ。
なんでこんなことを言うのかというと、僕は同世代的経験に相対的に乏しいためだ。例えばゲームが下手すぎて、ドラクエやファイナルファンタジーなどの多くの作品をプレイできていない。ポケモンでさえ途中で飽きる人間なのだ。自分が好きなペースで刺さった作品を読んでいるだけなのだが、時折どうしても疎外感を覚える。若いころにもっと流行りのJ-POP聞いてりゃよかったよ。そりゃあ人は人、自分は自分だけれど、寂しい。
とはいえ、少年漫画の多くは恋愛が扱われるので、そこまで読みたい気分でもないのである。
こういうことを書くと「課題の分離」とかいう話になりそうだけど、個人的にはアドラー心理学はそこまで信用していない。さっき書いた「課題の分離」をはじめとした有益な概念は多いし、原因を探るよりもまず対処法を考えるのは、実生活で非常に役に立つ。というか、実際に役に立った。だが、「嫌われる勇気」をはじめとした本ではいいことを言っている一方で、「私に反論するとしたら、それは私の理論を理解していないからだ」という、反証可能性を潰すような自己完結した思考をしているのがいただけない。これは初期のフロイト派の「私に反論するとしたら、それは私に父親を見出しているからだ」とか、古い時代のフェミニストの「私に反論するとしたら、あなたが女性差別を乗り越えられていないからだ」とか、それらと同様の理屈だ。なにか自己完結した、人の話を聞かない嫌らしさを感じる。
自己完結と言えば、たとえば何人かの反出生主義者が(もちろん別の哲学的立場でもいい、実例は見たことがある)、予期される反論に対してすべて想定問答を作ってガチガチに自己防衛をしているのを見ると、圧倒的な壁のような「他者」を感じる。この人と議論しても、自分も相手も何も変わらないだろうなという、諦念を感じることがある。互いに変化をもたらす「対話」にならないのだ。
意識の高い人たちが叩かれるのはこれも理由かもしれない。会話をしても意見を変えてくれないだろうと感じるのだ。一方的な議論をしたいのなら活字でいい。僕は対話がしたいのだ。
かつて所属していた文学サークルで、先輩が角田光代「菊葉荘の幽霊たち」って作品をテーマに読書会を開いた。何事にも投げやりな女性が主役なこの作品が全く好きになれず、その後角田光代という名前を見ても全く手が伸びなかった。今にして思えば、全体的に生きる気力がないというか、適当にその辺の相手と何となく交際してしまう感じの、怠惰な女性が出てくるのに嫌悪感があったのだろう。理想的な美を探し求めていた大学生の僕には、うまく理解できないキャラクターだった。あるいは、当時女性を理想化しすぎていたからかもしれない。理想の恋人が、僕と同じように美や最高のクォリティ(なんじゃそりゃ?)を求める存在であると望んでいたのだろう。なんというか、十代の考えそうなことである。しかし、それは後述するように、すべて自己愛だ。それはさておき、「源氏物語」も僕は講談社学術文庫で読んだ。確か、今泉忠義訳である。再読のときは、角田光代訳でもいいのかも。書き続けられている作家ということは、力があるってことだし。
光源氏の恋愛遍歴や、彼を取り巻く女性たちについての思いは昔書いたので省く。僕がこの小説が好きなのは、恋の物語だけが理由ではない。もちろん、欲望まみれだった僕は、例えば朧月夜との密通で須磨に流されるというプロットを面白く読んだのは事実だ。
けれども、もっと魅力を感じたのは、恋する貴公子光源氏が、だんだんと権力を持った嫌なオッサンになっていくのが生々しく表現されていたからだ。己の愛人である女三宮と密通した柏木を睨みつけ、彼を絶望から再起不能に陥れるあたりがリアリティがあって嫌だ(褒めてる)。ふっふっふ、ハーレムを作るイケメンの末路はこんなものよ。
僕が真っ直ぐな目をした青年の目が濁っていく文学を見るのが好きな理由はいくつかあるのだが、彼女に浮気されて一時期軽薄なナンパ野郎になり3Pまで経験した旧友や、好きな作品を貶されたせいか強烈なアンチフェミになってしまった友人、それから寝取られ経験からイチャラブ漫画が読めなくなって寝取られや暴力的な物ばかりに手を出している畏友のことが頭にあるからかもしれない。だから田山花袋「田舎教師」や、風俗に行って嬢のおっぱいをもんで「豊年だ! 豊年だ!」と叫ぶ志賀直哉「暗夜行路」が好きなのである。「暗夜行路」はその後の展開が大事だとは言え。
ところで、繁田信一が「殴り合う貴族たち」の中で、著者は菅原孝標女が「源氏物語」にハマった理由を推測している。それは源氏が女性に直接暴力を振るわないからだという(部下たちは「車争い」のシーンで乱闘を演じているとはいえ)。その程度で理想の貴公子になれる、当時の倫理はこんなものだったのである。
古典には今からすれば受け入れられない行動をとる人々が出てくる。それでも、心動かされるのは、貪・瞋・癡の煩悩から逃げられない人間の本質が変わらないからだろう。法律やコンプラで縛ってはいても、やりたいことも欲望の本質も変わらない。古典を現代的な価値観で批判するのは大事だが、上から目線で裁きたくはない。聖書によれば人間は自分が裁いてきたように裁かれるのである(こんな風に、聖書には結構な頻度でクールなセリフが出てくる)。
それに、過去のものが全部ダメだというのなら、例えば殺人者カラヴァッジョの絵画は展示すべきではないし、最終的にはルーブル美術館を爆破しなければならないだろうし、植民地からの富で栄えた都市はICBMでふっ飛ばさねばならない。しかし、他人の作ったものを破壊するのは、「指輪物語」のオークの所業である。悪とは何かを創造できず、捻じ曲げて模倣したり壊したりしかできない連中のことなのである。具体的な顔や団体が浮かんでくると思う。
そういえば、去年の大河ドラマは「光る君へ」で、王朝を扱った文学を知っていると典拠がわかってニヤリとするシーンが多々あったが、きちんとは見ていない。理由はいくつかあるが、一つには作家が主人公なので作家になりそこなった僕は見ていてつらい。それに、大河ドラマは夜八時の公共放送だからしょうがないとはいえ、例えば人を斬って領土を切り取ってナンボの戦国武将が平和を唱える違和感があってもともと好きではない(これが現代のオタクの言うところの「解釈違い」というやつか)。たぶんこのシリーズを読んでくれている人はもうわかっていると思うけれど、僕は基本的に非常に面倒くさいのである。それに、元々ドラマは五十時間もつきあうほど好きなジャンルではない。逆に、それだけ付き合うことができれば、ドはまりするのだろうと予想はしている。「好き」を測る尺度の一つは、それに対してどれくらいの時間を費やしたかだ。ただし、みんな正座してドラマを見ていないのかもしれない。きっと何となく見ている。作品を素直に楽しむことから自分を遠ざけているのは、完璧主義なのかもしれない。
それこそ「紫式部日記」に出てきた女官の衣装の再現は良いと思ったけれどね。元々僕はブラウスという言葉の正確な定義も怪しいほどファッションにほとんど興味がないので、該当箇所は読み飛ばしてしまっていた。
面白いエッセイを書くには性格が悪くないといけない。ここでいう「性格が悪い」というのは、もちろん褒め言葉だ。他人が見落としてしまうことにいちいち言いがかりをつけているとか、筆で他者をおちょくるのが上手いとか、そんなことを指す。「枕草子」はこの定義にぴったり当てはまる。言語化できていなかったけれど、「実はみんなそう思ってた」みたいなのも結構ある。
こういうタイプの人は友人に一人欲しい。「香炉峰の雪」(第二百九十九段)は日常で漫画の台詞をぴったりのタイミングで引用したときみたいにめっちゃ盛り上がったと思う。これは全くの推測だが、清少納言って物事をはっきり言うけれど、言い方がカラッとしていて毒のある事を言っても周りの人が思わず笑ってしまう人だったんじゃないだろうか。楽しい思い出話というか、ちょっとドヤ顔しているエピソードもあって楽しい。
もちろん第三百十四段の身分の低い人間が火災にあったところを笑っているところは弁護できないが、これは時代の制約だろう。それに、「除目に司得ぬ人の家~」(第二十五段)のくだりは当時の公務員の辛さが描かれているので、読んで怒りを覚えた人もいるかもしれない。だから晩年没落したという伝承が生まれたのかも。笑っちゃうのは第三十段「説教の講師は、顔よき」、つまりイケメンがレクチャーすると内容がありがたく聞こえるってこと。あっはっは。チクショー。これは旺文社の翻訳で読んだ。ネットで拾ったので番号は間違っているかもしれない。
「方丈記」は政治の乱れと絶え間ない災害で混乱する時代の空気をよく伝えてくれる。ところが、父の高校時代の教師は「世間から目を背けた負け組の愚痴に過ぎない」とバッサリやっていたそうだ。ひどすぎない? 確かに鴨長明は政争に負けたけれど、僕は好きだ。混乱する世の中からある程度距離を取りたいって気持ちはよくわかる。ただ、読んでみると隠遁生活は楽しそうなんだが、どこか悟り切れていないオーラがある。市古貞次校注。
「徒然草」は前にも書いたが面倒くさいおじさんのエッセイなんだけれど、子どもがいたずらした狛犬を有難がったとか(第二百三十六段)、入口ばかり拝んできて本殿を見ずに帰ってきちゃったとか(第五十二段)、間抜けな人々の話が説教臭いが普通に面白い。
それに、「ふざけてバカの真似をしている時点でバカだが、逆に立派な人の行いを真似るのは十分に立派だ」(第八十五段)とか「修行中寝てしまう人は、寝ていないときだけでも頑張ればいい」(第三十九段)とか、励まされる話も多い。近くにいたら面倒くさそうなおじさんだが、その言葉には勇気が出る。これも旺文社の翻訳で読了。
もちろん時代の制約はある。たとえば、珍しい姿の盆栽を育てていた人の話がある。第百五十四段である。ある時に雨宿りで見かけた大勢の身体障害者の曲がった身体を見て嫌悪を覚え、帰宅した途端に「俺のコレクションはこういう連中を集めてるようなもんだったんだな」と考えて、植木をすべて捨ててしまう。これなんかはなかなかに弁護できない。個人的には、コレクターが飽きる瞬間の描写として面白いし、当時の病に対する態度がよく分かって興味深いけれど、すべての人がここまでくみ取ってくれるかどうかは疑わしい。
これは全くの余談であるのだが、高校生時代に模擬試験を受けたとき、ある古典の問題文が主張している内容が差別的だということで、問題を差し替えてそこだけ再試験になったことがある。確か「私は身体障害があるからこうして人の喜捨で生きていける。かえって幸せだ」と述べる箇所があった。出典は忘れた。
個人的には、例えば中世の障害者はどういう扱いを受けていたか、解説をしたり議論したりしたら、すごくいい授業になったと思う。周囲では「事なかれ主義」だという批判も聞いた。おそらく、「先述したレベルで議論をするのは高校から先の大学以降でやりましょう」ってことなのだろう。もっとも、米国の大学ではナボコフ「ロリータ」の精読を基礎教養から外したと聞いたので、大学院レベルなのかもしれない。どうも米国はよくわからない。合理主義に見える一方で、いろいろな表現規制の根っこには、建国以来のピューリタニズムの遺風があるのではないかと邪推している。
今まで読んできた日本文学についてまとめるのは、一つには我が身を振り返って余計な過去をバッサリと切り捨てたいからである。小説家になりたいという妄念を過去のものにしてしまいたいのである。ここで自分が抱えている妄念を文章にしてしまうことで、意図的に小説の素材として使う機会を潰したい。書きたいという狂気を鎮めるのである。人生で辛かったさまざまな出来事ことでさえ、世間的にはいたってよくあることなのだ。これらについては長くなるし、恥ずかしいので書かない。
小説家として戦うには、いつまでも過去について考え、それを発酵させ、そのうえで自分から離れた普遍性あるものにしないといけない。さらに、時には他人の苦痛を咀嚼して想像しなければならない。自分の妄想は、他人に売りつけるに値するものだろうか?
小説家になる夢はあったが、こんな形でわざわざ嫌なことを思い出して、毎日を過ごすのは絶対に嫌だ。だからここに書き散らして、退路を断ってしまうのである。絶対に忘れてやる。連中の名前もグーグル検索しないと誓って数年が過ぎた。試みは成功している。あいつらのほうが「オス」として優秀に思えても、無視するに限る。しかし、こうして書くこともまた「創作」であろう。文章を読まれたいという欲望は尽きない。だが、万が一創作活動に舞い戻っても、絶対に絶対にぜーったいに自分のトラウマには触れないぞ!
このエントリ群を書きながら内面の暗いところまで沈んで行ったら相当にうんざりしてきたので、こういう創作は二度とやるまい。ちなみに、ブログでなく増田で書いているのは、創作活動をやっている/やっていたと公開しているはてなブログでは、こんなひがみや政治意識丸出しの発言をするわけにはいかないからである。また、初稿では倍ぐらい個人的な過去の出来事の愚痴を描いたのだが、本筋から離れるので削った。
そう、忘れてはいけないのだが、このエントリを書いた一番の動機は、古典の名作を紹介したいからだ。これだけの古典が現代にまで生き延びて読み継がれている国は稀有だろう。日本という国は、まったく非常に多くの問題を抱えているのだが、先人たちの積み重ねには頭が下がる。自分の雑文でちょっとでも興味を持つ人が増えてくれたらとても嬉しい。作者の名前とタイトルを授業で覚えるだけよりも、中身を知ってる方が絶対楽しいからね。
ちなみに、これはタイ王国をディスっているわけではないのだが、プラープダー・ユン「パンダ」の解説で、タイでは(純文学系の?)小説の初版部数は一千から二千冊程度で(タイの人口は七千万弱)、娯楽小説ばかりが売れているそうである。娯楽小説に罪はないし、むしろ好きなのだが、人間の心の基礎研究とでもいうべき純文学はある程度の人数に読み継がれていってほしい。
あとは、自分の好きなことについて語るのが単純に楽しいからだ。何が好きで何が嫌いかを明確にしていくことで、次にどこに向かって進めがばいいのかがわかってくる。次に何を読めばいいのか、自分が本音では何を求めているのか、だんだんと明らかになってくる。
“誰か”、“何か”からの影響で自身の生き方が変わるってドラマは数あれどこれほど物語の力を信じている作品は無いと思わされた…と言ってもそこまでドラマ通でもないけど。
主人公の晩年の人生が幸せだったかどうかは分からないし、むしろ後悔を抱き続けていたと想像してしまうけれど、その生き様が誰かを救い、その誰かが忘れずに紡ぎ続けてくれるから後味が良く感動の余韻が長く残った。
低身長おじさんが「日本の女はショタコンだから皆ジャニーズのチビイケメンに夢中」と訴え続けてるけど、まずそのジャニーズの若手やジュニアのグループに童顔チビは皆無なんだよなあ
https://note.com/ezuremanagement/n/ndcdf1c44e048
他のジャニーズグループは売上動員再生数同接など各指標の数字は右肩下がり
SnowManのファンだけは増え続けている反面、ジャニーズという枠に興味のある層は減り続けている
https://anond.hatelabo.jp/20241114222140
現実に動員力があるのでドラマや映画の主演を任されるのはジャニーズ・スタエンでも170cm以上のメンバーばかり
もちろんおっさんになっても大量のファンを抱えて全国ツアーや武道館公演やファン引き連れて海外や温泉ツアーしてるのも田原俊彦や郷ひろみや近藤真彦といった身長170cm以上に限定される
チビだけどグループで1人だけ突出した人気があり、グループを失っても独り立ち出来てるのはあとにも先にも元チェッカーズの藤井フミヤしかいないし
作詞能力やセルフプロデュースや歌唱力やダンスを始め、基本的にパフォーマンスの完成度が高いので「ショタコン女の母性本能をくすぐるチビ」とは真逆ですね
旧ジャニスタエンでもヲタの熱量や課金額第1位は高身長のキンプリ永瀬と目黒蓮
「熱狂的に庇護欲や母性本能をくすぐり応援される男」も高身長男ばかりという
60 名無し草 sage 2024/10/07(月) 17:07:24.14
日経エンタ11月号推し活最前線の頁:女性支持100%の熱量部門で単独トップに永瀬
推しのために使いたい金額ランキングダッフィー&フレンズビートルズに並んでる
626 名無し草 警備員[Lv.1][新芽] sage 2024/10/09(水) 22:54:25.24
228 名無しさん? sage 2024/10/09(水) 22:37:24.21 ID:???
日経エンタ?推し活最前線ていう表なにわは個人で誰も入ってないけど個人で人気あるメンバーいないってことなのかな
239 名無しさん? sage 2024/10/09(水) 22:49:49.40 ID:???
チェッカーズや光GENJI世代の男性が主張する「日本中の女に人気の低身長ジャニーズアイドル」ってまず誰のことなんだろう
昭和を振り返ってみても、ジジイなのに今でも全国ツアーや武道館公演できるレベルで人気のある田原俊彦や近藤真彦や郷ひろみは170cm超えてるし
SnowMan以外のジャニーズアイドルは売り上げや再生数など全ての指標で数字を落としている
売りだった動員も、今や部外者でファンクラブにすら入っていないジャニーズチン騎士ホットケーキくんが容易にスーパーエイトの東京2公演や堂本光一のSHOCK千穐楽のチケットを買えるくらい落ち込んでるし
失踪した糸柳から遺書が届いて、それからしばらくして警察から連絡が来たらしい。死ぬ前の彼とは疎遠になっていたのでその時期のことは伝聞でしか知らなかったが、色々と(そして過去の彼の行動とはまた違った形で)顰蹙を買っていたとよく聞いていた。
死ぬ何年か前の彼は誰から見てもおかしくなっていると言えるような状態で、仕事も上手くいってなかったと話していた。ドワンゴ時代の成功体験と山の話とRubyコミッターの話をしていたが、何回も何回も同じ話をしていた。彼のコミュニケーションの方法は彼の得意な話題に変更し、そして彼の長いターンが始まり、その後こちらが一言入れるというものだが、それにしてもこちらの話を聞いているというポーズすら晩年は取らなくなっていた。彼のそのスタイルが通用するのは彼を知っている人間に対してであり、何も知らない若者からすると典型的な老害のように写っただろう。実際にそう言われている場面を何度か見たことがある。
とにかく生きているだけで迷惑な人間なのだが、能力と愛嬌だけで許されている彼が、能力と愛嬌を失った場合には、ただの迷惑な人間として排除される。社会の除け者みたいな人間が集まるところでも、彼は迷惑がられていた。
多くのことに手を出して、何もかもが中途半端になっていた。生まれつき気が散って仕方なかった彼は過集中という名目で手を動かすことに成功していたが、それも加齢と共に難しくなっているように見えた。教育からもコミュニティからも疎外されている彼が、真っ当にエンジニアリングの知識を手に入れる方法は手を動かしたり本を読むことだけだったが、そこが損なわれると急速に判断の精度は低下する。ここ10年はシステムに対する考え方が大きく変わった時代であり、彼の語るドワンゴ時代のマネジメント論は石器時代のものでしかなかった。古い知識は大体2年ほどで錆付き、5年ぐらいで正真正銘の時代遅れになる。彼はどれぐらい前線から離れていたのだろうか?
彼の昔の同僚がIT企業でマネジメントのレイヤーにいる(もしくはCXOをやっている)という話をしていた。彼は肩書や社会的地位について気にする性質があり、他人のことを紹介するときもプロフィールのように読み上げる傾向があった。まだIT業界が未成熟で、リーガルやコンプライアンスが緩く、ナードやギークしかいない時代とは現代は全く違うし、彼のような人間の居場所はどうしたってないだろうと思うが、仮にその内輪に入れたとしたらここまで道を大きく踏み外さなかったのかなと思うことはある。とはいえこれは仮定の話であり、彼がドワンゴから離れた当時にしきりにしていたコンプライアンスに問題がある人間との関わりの話はどう考えても排除される側の烙印を押されるには十分だったし、仮にそういう話をしてなくても彼の軽率さは現代の業界とは水が合わなかっただろう。
彼のコミュニケーションスタイルは嘘と誇張であった。知っている人間がいかに凄いか、そしてその人間がどのようなことをしたか(時として常軌を逸したか)という話をして、物事を大きく見せる。言語によるコミュニケーション(アジテーションに分類される技能)が得意だと分類していいかはわからないが、とにかく彼は時流に乗り、その能力を上手く活用して一定のプレゼンスを得た。象徴や虚像を操作し、そして実際の能力で辻褄を合わせる。実際にこの行為を繰り返せば影響力も大きくなるし、影響力が大きくなればレバレッジも大きく掛けられる。例の事件でドワンゴから離れ、SNSからも離れた彼はデレバレッジを上手く出来てないように見えた。信用というものは単に積み重ねればいいし、有言実行さえすれば増えていく。その地道な作業を怠って大きなことを言い、そして辻褄を合わせられずに残りの信用を失うところを見てきた。とはいえそれは彼の特性として受け入れられていたように見えるし、持ち前の愛嬌によってある時期までは許されていたように見える。
愛嬌とは消耗品である。普通に使っている分には減らないが、地雷を踏んだ瞬間にそれは消失する。彼はそれが無くなることは無いと思っていたのかもしれないが、残念ながら完全にそれは間違いだった。ある女(女と呼ばない人もいるらしい)の揉め事で彼はその能力を使い、そして大きく失敗した。愚かな自己愛による行動により、彼の特性は愛すべきものから、軽蔑されるもののようになったのを感じた。少なくとも自分はそうだった。他人やよくわからないもののためではなく自分の小手先の欲望のために使うのだったら、そんなデタラメは到底許容されるはずはない。とりあえず信じた粗の多い話を受け入れられなくなると、彼のあまり見たくない実像だけが見えるようになった。
ある時期のことだが、彼は女に別れを言って山に行き、そして数カ月後に帰ってきた。冬山の山荘はよく人が死ぬらしいし、彼も死ぬつもりで行くと言っていた。長く白い髪と白い肌をしてた。彼は痩せて別人のようになっていて、それから山に真剣に取り組み始めた。帰ってきた彼が全ての話題を山でマウンティングするようになったのは、遠野物語的な神秘なのかもしれない。彼の人生の起点になったイベントだっただろうが、俺からすると状況は更にまた不味くなったように見えた。ここで知ってほしいのは様々な要因があって彼の感覚は壊れたという部分で、単一の何かが原因じゃないという話だ。
加齢による実行機能の低下、時代の変化、所属するコミュニティの変化、不味い選択肢を選び続ける不運、山にハマったこと。様々な要因はあるが、彼が目の前の人間がどこかのタイミングで見えなくなってしまい、自分の利益のためだけに周囲を消費するようになったのは確かであるし、周囲は順当に彼を爪弾き者といて扱った。一度得られた尊厳を人は保とうとする。時代と彼の特性がマッチしたときに得られた尊厳を彼はなんとか取り返そうとしたが、自分の話に突然割り込まれ、山やドワンゴの方が凄いという話を黙って聞く目の前の若者がそのような感情を彼に見せるだろうと期待するのはあまり合理的な判断とは言えないだろう。
とにかく何が言いたいかというと、長い時間をかけて糸柳という男の幻想の形成と完全な解体が起こり、そして最後に自殺という選択を取るに至ったのかを振り帰ったときに、明確にこれは不味いだろうなというポイントがあったので、彼の死からいくつかを学んでおくと良いだろう。
3. 山には行かない
彼の事を知っている人間が読むことを念頭に置いたため、ここに書かれている内容そのものだけでは糸柳がただの駄目な虚言癖のように読み取れてしまう恐れがあるなと思い、彼の能力に関して追記をすることにした。
彼は特別な能力を持っていた。それは対面で他人に対して短期的な印象を自在に形成する能力であり、彼の荒唐無稽な話に一定の説得力と信頼を与える力であった。最近でいうとDJ社長が似たような能力を持っているように感じる。話を聞かせる、何かあるように思わせる、感情を呼びよこすような力、つまりペテン師の才能を持っていた。彼の周りの人間は彼の話を聞いたし、彼の話を聞いた人間は彼の言葉に何らかの似たような感情を抱いていた。と俺は昔の人から聞いていたし、実態対面をしてみると彼その能力のようなものは感じたことがある。DJ社長も彼も同様に全部壊してしまったが、所詮短期的なイカサマの能力でしかない。そして一度きりの魔法なのだが、当人だけがまだ使えると信じ込んでいる。
https://niryuu.hatenablog.com/entry/2025/01/05/214709
この能力の根幹になるのは感受性と繊細な情報のコントロールである。その能力を如何に上手く披露したところで、その根幹部分が崩れていれば種の割れた手品でしかなく、醒めた目で見え見えのブラフを眺めることになる。ある瞬間にそれが崩れてしまったというのはこの記事の内容なのだが、確かに彼はあるタイミングでそれが崩れてしまい、その後はいちばん重要な要素について気にしなくなったように見えた。誰に何を話すか、誰がどのようなことを知っているのか、そして眼の前の相手がどのようなことを感じているか。そういったものの全体像を知覚する精巧な技術が彼の生まれつきの才能であり、そしていつかのタイミングで完全に失われたのだろうと思う。ある人間は彼の脳が壊れたと言っていたが、自分も似たような印象である。ある瞬間から彼は様々なことが急に出来なくなり、何かがおかしくなった。そう思っているのは俺一人ではない。
彼は病気の女と同じだ。病気の女はコミュニティに入り、虚飾で地位を得て、そして捲れていなくなる。大体はどこかで落ち着くのだが、落ち着いていた場所を吹き飛ばしたのは彼自身だった。最後には居場所がない連中の吹き溜まりのような場所にたどり着き、そこでは自暴自棄のようにもう通じない魔法を眼の前の相手に何度も何度も繰り返していた。吹き溜まりはある種の実力主義で、他人を簡単に軽んじる。彼はもう尊重の対象ではなかったのだろう。壊れた年長者の相手は誰だって嫌だからな。
ついでだから彼に与えられた呪いのような言葉について書いておくと、彼は表層的な話とひとまとまりのエピソードの会話以外に珍しく普通に話をするときがあった。その中で彼は自分がエンジニアとしての知名度が実力で得たものではないこと、そしてその象徴であるのが@kazuhoさんからの悪目立ちに対する「IT芸人」発言での揶揄だったと何度も言っていた。彼はリアル志向であったし(これはリアル志向であるというより、自分はリアル志向であるという宣言を繰り返すこと)、実際山もエンジニアリングもリアル志向であろうとして、その結果の自己破壊は説明するまでもない。彼はリアル志向の話と「IT芸人」という揶揄を絡めて様々な形から繰り返し発言していた。彼の自己認識に対して何らかの(説明しやすい一つの象徴としてだろうが)影響はあったのだろうと思う。AI驚き屋の話もそうだが、軽薄な人間への当てこすりは楽しいかもしれないが、何らかの形で他人の人生に良くない影響を与えることもあるのでほどほどにした方が良い。
人をたくさん知れば知るほど、代わりを見つけるのがやさしくなって、それがロンドンのような所に住んでいることの不幸なんじゃないかと思う。わたしはしまいには、どこかの場所がわたしにとって一番大事になって死ぬんじゃないかという気がする。
続く三冊は二〇二一年頃の別のエントリで一度褒めている(anond:20210301080105 とか)。
この本は場所への執着や記憶をもとに二つの家族の話を物語っている。一時期なぜか「インドへの道」や「眺めのいい部屋」、それから「天使も踏むを恐れるところ」を立て続けに読んだのだが、今になって振り返ると、なぜそんなに良いと感じたのかが、記憶からすっかり抜け落ちている。土地や家に対する執着やそれにまつわる因縁がどぎつくはないがちゃんと表現されていたからかもしれない。漱石っぽいと日記に書いていたのだが、では漱石っぽさとは何なのかがよくわかっておらず、逆に漱石が英文学っぽいのかもしれない(関係ないけど、夏目漱石を久し振りに読もうと思ってパラパラとめくっていたら、当時の知識人のひけらかしが今の大学生っぽくてなんだか恥ずかしくなってきた。あと、漱石の長編って貨幣経済というか金の話ばっかりだけど、その萌芽って「坊ちゃん」で山嵐と金を受け取るか受け取らないかで意地の張り合いをしているところにある気がする)。
このエントリにしたって、自分の過去の好みや性癖について書いてはいるものの、ではなぜそんなに当時は好きだったのかが、いま一つ理解できなくなっていて、過去の日記を読み返しても想起できないことが多々ある。もっときちんと日記に感想文を記しておけばよかったか。しかし、ある時期はまるで依存するかのように活字に触れていた。落ち着いて感想を書きとめる間もなく、浴びるように濫読していた。現実から目を背けるかのように書物に埋没していた。フィクションだったら何でもよかったのだろうか。そう思うと少し悲しいが、その濫読が今の感受性を作っているのかもしれない。
イサク・ディネセン「アフリカの日々」は最高だった。とかく植民地としてのアフリカは収奪と貧困という文脈から語られやすく、確かにそうなのだけれど、でも場所によってはコンゴ自由国ほど滅茶苦茶ではなかったし、では具体的にはどんな感じだったのかをこの本は見せてくれる。中にはこの著者のように、当時の人種的偏見という制約はあるにせよ、相手の文化を知ろう、誠実であろうとしている人もいたのだろう。「ライ麦畑」でホールデン少年が褒めていたのもうなずける。
だからと言って歴史を正当化できるわけではないのだが、感情だけで歴史の議論をしてはいけないし、知識がないのに印象だけで語るのはきっと同じくらい罪深い。当時生きてきた人たちの存在を無視するわけだからね。黒人対白人って軸も実はけっこう解像度が荒く、事物の単純化を含んでおり、特定の側面はアメリカ合衆国特有だ。この著者はデンマーク人で直接の宗主国の人間ではないし、アフリカにはインド系など様々な人々が暮らしている。
エイモス・チュツオーラ「やし酒飲み」は神話なのでツッコミ不要だしツッコミ不在だ。
世界の神話を読んでいると、なぜか人類創造前なのにその辺におじいさんとおばあさんが住むんでいたりするし、天地開闢以前なのに山や川があるし、神様と人間の違いがいい加減だったり、普通に変身能力があったりするし、この小説にも日本神話にもそうした側面がある。とはいえ、神話にゴリゴリしたロジックを求めてもしょうがないのであり、「こうして今ある通りの世界と社会が成り立っているのです」と語ることに意味があるのだろう。なお、アフリカ文学と聞くと個人的にアチェベが最初に出てくるんだが、それとは別に祖父の本棚から貰って来たアレックス・ヘイリー「ルーツ」はまだ積んである。
これは別の友人が薦めてくれた本。彼は「おっさんになると文学が読めなくなり、生物学や歴史の本ばかり読むようになる」と言っていたが、本当にそう思う。和訳で二十巻くらいある「ファーブル昆虫記」とか数年前に読んだし。なお、熱量がヤバいのでこれ以外のフォークナーの本は読めていない。
語り手が複数おり、時系列もバラバラなので(クンデラも星を五つ付けてた。自覚してなかったけど、僕ってこういう時系列シャッフルが好きなのかね?)、一見とっつきにくいのだが、情報を整理しながら読んでいくうちに、これはサトペンという男の一代記であるとわかる。肉体を鍛えてひたすらタフになり、若いころの屈辱に対して復讐するかのように、妄念によって偉大なる一族の祖になろうとした男だ。ひがみ、妬み、怒り、そうした感情を持った物語に僕はついつい引き込まれてしまう。最初の妻に黒人の血が混じっていたと言って離縁し、別の妻と結婚した結果、それぞれの家系に不幸な子孫が生まれ続けていき、とうとう滅んでしまうのだが、それはサトペンが貧困ゆえに受けた一つの屈辱から生まれたのだと思うと、まったく救いがない。しかし、この熱量に負けて読んでしまった。
ただタフになりたいと言っている人間は、どこかで涙を流さないとマシーンになってしまう。村上春樹「海辺のカフカ」を読むとわかる。
ところで、フォークナーは日本を訪れて「私も敗戦国の人間です」と言ったそうだ。胸を張って祖国を自慢するのにためらうような、この南部アイデンティティのことを、BLM運動が燃え盛っている時に、思い出していた。
数世代にわたる大河小説と言えば、最近は学生時代から積んでいた北杜夫「楡家の人びと」を読み終えた。今になって読むと、これは経済的には恵まれているが機能不全を起こした家庭が崩壊していく話で、北杜夫が尊敬していたトーマス・マンの「ブッデンブローク家の人びと」とはまた別の嫌な没落ものだった。どちらも、最後の世代の一番情けのない甘えん坊で覇気のないやつに自分を重ねて読んだのである。
全くの余談ではあるが、どうも自分は影響を受けやすいらしく、明治から昭和を舞台にした小説を読むと、いつの間にか米国憎しみたいな気持ちがうっすらと育っていくので、無意識に影響を与える点ではSNSの悪意を持ったアルゴリズムは同じくらい怖い。
実はどちらも内容をほとんど覚えていない。
とはいえ、ポール・ニザン「アデン、アラビア」のように若い人間が、抽象的な何かを抱えて異国をさまよう話というのはそれだけでいいものだ。そこからしか得られない心の栄養がある。自分が何者になるかがまだわからない頃にしか書けない/読めないものがある。池澤夏樹のこの全集にもそういう話がいくつか納められている。
ジャン・ルオー「名誉の戦場」は過去の大戦の傷跡がうっすらと書き込まれているらしいのだが、当時の僕にはまだ読み取れなかった。おじいちゃんがヌーディストビーチをのぞきに散歩しに行ったエピソードしか覚えていない。
手に取った小説がとても長かったり、プロットが入り組んでいたり、暗喩がわかりづらかったりと、読むのに訓練がいるものだったりして、結局理解しきれないことがあるけれども、そうした文学を読む力(あらすじや登場人物やその関係性を記憶する力)を養うには、結局そういう本を気合で読み進めなければいけなんじゃないか。文学案内や文学の読み解き方を勉強せず、裸一貫でドン・キホーテよろしく風車に突撃していった僕なんかは、そう思うのである。
アパルトヘイト真っ盛りの南アフリカで、一人暮らしのおばあちゃんが(調べたらがん患者だった。記憶からすっかり抜け落ちていた)、黒人のスラム街に紛れ込み、こうなったのは誰のせいだ、お前らのせいじゃないか、イエスかノーかで答えろ、みたいに言われる話だ。大体クッツェーはこういう政治的な話が多い。
二分法はそもそも好きじゃない。もともと自分は口下手で、話をしっかり聞いてもらいたい方であり、こちらの話を聞かずに一方的に話をされるのが嫌いだ(その場でうまく言い返せないからこうして延々と文章を書き綴っている癖がついてしまっている。とにかく僕は延々と気が済むまで言い訳を聞いてほしいし同情してほしい)。
正義である我々に味方しなければ、お前は悪に加担したことになる。似たようなことを米国のSF大会で述べた人がいたね。個人的には、社会正義の理屈としては正しいと思うけれども、好きか嫌いかと言われれば嫌いだ。この二つは全く異なる軸だ。お前は明日死ぬかもしれないというのは論理的には正しいが好きではない、というのにちょっとだけ似ている。まったく別の評価軸で、両者は重ならない。
うっすらした類似でいえば戦争責任にも似ている。「なぜ生まれる前のことに取りようがない責任を取らねばいかんのか?」ということでもある。あるいは、メンタルが弱っているのに、「あなたの人生はあなたしか責任が取れない」と言われ、ますますしんどくなるのにも似ている。どちらも「責任」が絡んでくる。誠意ってなんだろうね?
やっと納得できたのは、アイヌ民族の議員である萱野茂がある本で書いていた「こうなったのはあなたのせいではないが、この状況をただす力をあなたは持っている」という趣旨の言葉で、これは「責任」を「重荷」や「義務」や「罰」ではなく、「現状を少しでも良くするためのパワー」という肯定的な言葉で語りなおしている。責任という言葉は、人によって使い方に若干のずれがあり、だから違和感があったのかもしれない。。
とはいえ、そこまで考えている人は少なく、九割の人は自分の立場の都合しか主張しないし(ただし、そのパワーバランスで民主主義が機能している可能性はある)、それどころか自分とは違う属性を平気で差別している例も多々ある。被差別民が女性を、女性が障害者を、障害者が外国人を、自己正当化する理屈と共に平気で見くだし、差別する例をすべて見て来たし、アラフォーになってしまった今でも、サリンジャー「ライ麦畑で捕まえて/キャッチャー・イン・ザ・ライ」のホールデン少年みたいに、多くの活動家や安易にSNSで「いいね」を押す人々を「あいつらはインチキだ!」と独善的に糾弾してやりたい思いは消えない。他人の言葉は信じられない。納得できるまで自分で考えるしかない。とはいえ、あらゆる憎悪も究極的には自分や身内が安全でいたいという素朴な願いから来ているので、相手を批判しても全然解決しないんだろうな。
この作品も一度褒めた。
エルサ・モランテ「アルトゥーロの島」は息子を放置して放浪を続ける主人公の父が、同じくらいの年頃の義母を連れて帰ってくるんだけど、主人公がその義母に対して屈折した気持ちを持ち続ける話だった。確か恋愛感情にはならなかった気がする。完全にネグレクトだし、主人公の愛情というか思慕は義母ではなく実の父に向かっている。この父親のように感情を表現できない、義務だけで動く男性キャラにひかれていた時期があったのだけれども(1/12追記:この父親は義務で動いているわけじゃなくて、一般的に義務で動くキャラって意味。感情を表現しないという部分だけが共通)、それは何でだったかはよくわからない。当時の自分がやらねばならないことで動いていたからかもしれないが、その結果として案の定心身の調子を崩した。父に対する巨大感情という意味ではエヴァンゲリオンじゃんという気もしないではない。あれにも同い年の「母」が出てくるし。シン・エヴァンゲリオンではちゃんと父親の内面が出てきたけど、この作品では記憶にある限りでは出てこない(何となくだが庵野秀明といい村上春樹といい、多くのクリエイターは親が世を去る頃になってやっと親を直接扱うようになる気がする)。
閑話休題、大体、やらなければならない義務を果たすのだけが行動原理になると、晩年に「この人生は一体何だったんだ」とカズオ・イシグロ「日の名残り」のように嘆くことになる。カズオ・イシグロは長篇を全部読んで、「この作家別にそこまで好きじゃないな」って気づいたんだが、「日の名残り」は別格だ。
ナタリア・ギンズブルグ「モンテ・フェルモの丘の家」は書簡体小説で、親しい友人のSNSでいうクラスタというか、友人の輪とその周辺のやり取りをずっと追い続けていて、近づいたり離れたりという感じが、人生のある側面を忠実に表現しているみたいで好きだった。ちょうど周囲で結婚ラッシュが起きたり、ちょっとした行き違いで不仲になる友人を見て来たころだったと記憶している。この人の作品は良くて、ずっと不機嫌なお父さんが出てくる「ある家族の会話」など何作か読んだ。
あと、須賀敦子いいよね。誠実な翻訳をする人の書く文章は、そもそも美しい。
続く。
低身長おじさんが「日本の女はショタコンだから皆ジャニーズのチビイケメンに夢中」と訴え続けてるけど、まずそのジャニーズの若手やジュニアのグループに童顔チビは皆無なんだよなあ
https://note.com/ezuremanagement/n/ndcdf1c44e048
他のジャニーズグループは売上動員再生数同接など各指標の数字は右肩下がり
SnowManのファンだけは増え続けている反面、ジャニーズという枠に興味のある層は減り続けている
https://anond.hatelabo.jp/20241114222140
現実に動員力があるのでドラマや映画の主演を任されるのはジャニーズ・スタエンでも170cm以上のメンバーばかり
もちろんおっさんになっても大量のファンを抱えて全国ツアーや武道館公演やファン引き連れて海外や温泉ツアーしてるのも田原俊彦や郷ひろみや近藤真彦といった身長170cm以上に限定される
チビだけどグループで1人だけ突出した人気があり、グループを失っても独り立ち出来てるのはあとにも先にも元チェッカーズの藤井フミヤしかいないし
作詞能力やセルフプロデュースや歌唱力やダンスを始め、基本的にパフォーマンスの完成度が高いので「ショタコン女の母性本能をくすぐるチビ」とは真逆ですね
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626 名無し草 警備員[Lv.1][新芽] sage 2024/10/09(水) 22:54:25.24
228 名無しさん? sage 2024/10/09(水) 22:37:24.21 ID:???
日経エンタ?推し活最前線ていう表なにわは個人で誰も入ってないけど個人で人気あるメンバーいないってことなのかな
239 名無しさん? sage 2024/10/09(水) 22:49:49.40 ID:???
チェッカーズや光GENJI世代の男性が主張する「日本中の女に人気の低身長ジャニーズアイドル」ってまず誰のことなんだろう
昭和を振り返ってみても、ジジイなのに今でも全国ツアーや武道館公演できるレベルで人気のある田原俊彦や近藤真彦や郷ひろみは170cm超えてるし
SnowMan以外のジャニーズアイドルは売り上げや再生数など全ての指標で数字を落としている
売りだった動員も、今や部外者でファンクラブにすら入っていないジャニーズチン騎士ホットケーキくんが容易にスーパーエイトの東京2公演や堂本光一のSHOCK千穐楽のチケットを買えるくらい落ち込んでるし
もうね。まっちゃんが本当にダサくてみっともないことは今回のこの御用記者を通して発表している主張内容の予想の裏切らなさ加減で再確認させられるずーっと前、まぁ俺的にはワイドナショーで底のあっさい時事感を熱っぽくしゃべりだすようになったころからずーっとうっすらがっかりさせられてきてるねんけどさ。還暦すぎてなおいつまでも幼児性を残す王様まっちゃんの人間性にはもうかけらも期待してないんだけどさ、でもやっぱり芸人としてはおもしろいなって思うことがまだまだぜんぜんあるわけよ。もう何十年もまっちゃんを見てきて、まっちゃんの言いそうなことをまっちゃんが言うことの面白さを楽しむみたいなフェイズになっていて、まぁもう伝統芸能を見る楽しさ、あるいは、吉本新喜劇をみる楽しさみたいになってしまってるわけで、これは意外性でみんなを楽しませていた若いころのまっちゃんからすると不本意かもしれないけど、まぁでもこの期に及んでまだまっちゃんをお笑いで消費したいと思ってる層は結構みんなそうなんじゃないかなと思う。
リンカーンで有吉とかからやられてた、説教先生だったっけ、あんなのをまた見たい。
呼ぶのは中田敦ちゃんとか、宮迫とかだよね。あいつらにおもいっきりマウントとられて、ボロカス言われて、はいすんません、私がまちがってましたみたいなことを言うまっちゃんが見たい。宮迫から「お前、こんな企画に出るの、浜田さんに断ってきてるんやろな!これ断りなく来てたら俺らにまで飛び火するからそこだけはっきり今お前の口から聞かせ!これ相方無視してたらほんまにえらいことになんねんぞ。」とか言われて、「はい、浜田さんには許可いただいて今日来させていただいています」とかいう、まっちゃんみたい。
まぁそんなんやらんやろうなぁ。ドキュメンタルもどんなに面白いんやろうと思って、そのためだけにプライムはいったのに、ただただしょうもなかったからなぁ。IPPONNグランプリで、まっちゃんの思う正解を出して、あーさすがやなと思わせるのと、M1の優しい審査コメントでまっちゃん丸なったなぁとおもわせるのと、水ダウで笑ってるところをワイプで見せるだけが、晩年の仕事だったなぁ。終わりの始まりはガキの使いで浜田とのオープニングトークをサボるようになったり、HEY*3でお笑い芸人集めて、アーティストとのトークサボるようななったころに始まってたんやろな。でもMHKのコントは俺は面白いと思ったけどね。