はてなキーワード: 毒虫とは
https://anond.hatelabo.jp/20250908163905
俺は大学生の時、予備自衛官補の訓練で銃を撃ったことがある。64式小銃という銃だ。狩猟やスポーツのためではない、純粋に「人を撃つために作られた、戦争をするために作られた軍用銃」だった
その銃床を肩に当て、撃った瞬間、日本人が考え得るもっとも強力な「戦争と殺しの道具」を手にしたと錯覚した。
…あの時は、それ以上に強い武器はないと思っていた。だが、人間が人間を苦しめる手段に限りがないことを今知らされている。人は、人を軍隊や武器で殺すばかりではない。視線と、言葉と、善意ですら、人を壊すのだ。
14歳の兄の娘は、俺がかつて持った64式小銃よりも恐ろしい武器をその小さな心に浴び続けた。それは悪意と性欲という視線で心臓を撃ち抜かれ、言葉のナイフが幼い心を裂き、さらには善意や親切でさえ…猛毒の毒矢となって彼女に降り注いだのである。彼女が生まれる遥か前、俺が4歳や5歳の頃、オウム真理教というテロ組織が世界初の首都圏化学兵器テロを実行した。その時、俺のよく知る秋葉原駅でオウムの実行犯の一人はサリンを散布したという。彼女にとってはそれをも超える「視線と言葉と善意の化学兵器」が小さな体に降り注ぎ続けたのだ。
兄の娘は、母親の容姿を引き継いでいる。今となっては、その美貌は、彼女にとって祝福ではなく災厄であった。俺が見ているウマ娘というアニメ、その中のトウカイテイオーという少女が面影も立ち振る舞いも似ていると感じていた。
まだ14歳の幼い彼女をその獣欲を満たそうと、有象無象の無頼の輩がやってきていた。それは、昔教科書で見た百鬼夜行絵巻を俺に想起させた…人間は時に、妖怪よりもよほど醜悪である。
悪意ある大人たちは、艶めかしい視線と卑しい言葉を彼女に浴びせ続けた。その感情は毒であった。幼い心は、その毒に壊されていった。俺も父も、完全にそれを防ぎきることはできなかった。
悪意ある「大人」たちに艶めかしく気持ち悪い性欲のこもった眼と言葉と感情を向けられ続け、彼女の心は壊れた。
だが、何も悪意と性欲だけが兄の娘の心を壊したのではない。転校する前の私立、そして小学校時代の学友や友人が、彼女を心配したのだろう。クラスで書いた寄せ書きを持ってきたことがあった。思えば、代わりに俺かルカねえが受け取るべきだった。
それを見た彼女は、半狂乱で泣きわめきながらそれを引き裂いた、破いた。布団に伏し、捨てられた小動物のようにおびえて泣いた。彼女にとってもはやクラスメイトの向ける善意や純粋な心配や好意は、彼女の心を引き裂く研ぎ澄まされた言葉のナイフに変わっていたのだ。
俺は内心悲しみを隠せなかった。「また遊ぼうね」、「元気?」…子供らしい無垢な励ましの言葉だ。数々の言葉は彼女の心を締め上げる呪詛の呪文以外の何物でもない。感受性の強い彼女の壊れた心は、もはや善意や幸せを受け止める器の形を保っていなかったのかもしれない。
兄は娘と伴侶の心さえ破壊していく毒を残していったのだ。あまりに業の深い行為である。
…補導した警察官の話によれば、彼女――兄の娘はトー横でさえ価値観や会話がかみ合わず、容姿ゆえの性欲しか同年代の落ちこぼれたちからさえ向けられなかったらしい。
同性からは「見てくれのいい生意気な女」、異性からは「エロい女」、救いを求めて流れ着いた場所でさえ、彼女の前に待っていたのは俺達が防ぎきれなかった悪意と性欲のねばついたマナコと、悪意と嫌悪の眼だけだったようだ。
…彼女が求めた救済の場は、結局、欲望と嫌悪の眼が渦巻く修羅の巷であった。
兄が望んで往った「キラキラした人生」…見栄と虚栄と虚位と、嫉妬と悪意と打算と性欲が渦巻く世界に、行きたくもないのに叩き落とされたのだ。感受性の強いその娘が、望んでではなく、強いられて。
俺は兄の位牌を蹴り飛ばしたい衝動にかられた。どこまでも身勝手で自分勝手だった兄の残した業と毒…身勝手で、他者を顧みぬ男の残した毒は、一人の少女の心を取り返しのつかぬほど破壊してしまったのだ。
…兄の娘の心が再びその瑞々しさと平穏を取り戻せることを、俺と父はその祈りにすがるしかないのである。
Xを覗くと、思いがけず俺の書いたものが拡がり、人々の口端にのぼっていた。
群れをなすオッサン達の姿は、かつての兄に重なった。彼らは互いに「自分は違う」と言い訳しながら、同類であることを確かめ合っている。肩書を飾り立て、やれどこぞの企業の社長だ、案件募集だ、AIがどうとか…
実体の乏しい言葉を繰り返すだけで、そこにあるのは哀れにも似た虚ろさであった。恐らくAIの意味も分かっておらず、それを錦の御旗にすればルカねえや俺の様なITに音痴な人間がすごいと思って枕詞につけているのであろう。一抹の哀れさすら感じる連中である。
俺はそれを見て、葉の裏にくっついて擬態しなければならぬ雑虫の輩の羽虫が、アスファルトにへばりついて隠れているかのような場違いな滑稽さを感じた。
だが、それを笑えるであろうか?彼らの有り様は、兄と同じだ。都市の灯に集う羽虫に似ている。かつて昆虫が森の落葉の陰に潜み、その自然の中で調和していたように、彼らもまたあるべき場所を持つはずであった。しかし今はアスファルトに貼りつき、光に惹かれ、Xの上をただ滑稽に舞う。
そう思えば、彼らの姿は羽虫に似ている。自然の中で葉裏に潜む虫であれば、まだ調和がある。だが都市の舗道に貼りつき、光に群がる姿には、どこか場違いな痛ましさがあった。兄の変貌もまた、その群れの一つに数えられるべきものだったのであろう。
俺みたいな人間から見れば、虫と同じだ。虫マニアや昆虫学者ならナントカムシだのウンタラムシだの名前と種類が違うことがわかるのだろうが、俺から見れば兄と同じくネットの虚妄で自尊心が毒虫の様に肥大化し、ITという腐葉土に群がる虫の様にしか映らない。そこには嫌悪と侮蔑の感情すら感じていた。
俺と父が見た、傷心のルカねえや兄の娘に群がっていった、性欲に狂った目でイチモツをオッ勃たせる事も気にせず…いや、寧ろ見せつけて嫌がる様に性的興奮すら感じているのであろうとしか思えない程の下劣で教養のかけらもない言葉遣いと毒笑を浮かべた自称「IT企業の社長」、「ITコンサルタント」、「芸能界関係者」、「スポーツ関係者」と同じにしか見えない、日本社会の闇に蠢く虫の様な輩の姿を再び見て、俺は暗い気持ちを抱えざるを得なかった。
―――これを見て、折に触れて思い出すことがある。トー横で兄の娘が補導され、俺と、そしてルカねえが引き受けに行った時の光景だ。
西武新宿から降りてすぐ左手のパチンコ屋に、姉妹のメイドと一人の王女が映ったアニメキャラの大きな看板がある、なろう小説の有名なアニメ、Reゼロのキャラクターだという。
その看板の下で兄の娘とルカねえと俺は合流した。
生前、兄もこのなろう系というものを好んでいた。そこには性格がひん曲がった社会の負け組の中年や引きこもりが、タナボタでチートなるパワーを得て死んだ先の世界で無双し、美少女に囲まれるという、あまりにも惨め過ぎる夢物語の内容が主で、兄と同じく氷河期世代の中年男性に人気だと聞く。
自業自得の自らの業と虚栄により、人生を自ら追い込み、ありもしない一発逆転に縋って、それでも「馬鹿にされる」、「男のメンツ」とくだらないプライドを持ったまま憐れに、惨めに、そして滑稽に独り相撲を続ける兄の姿を、兄自身も歪んだ認知の中で重ねていたのだろうか。少なくとも俺には、兄が彼の好むスバルだのカズマだのゴブリンスレイヤー何某だの、ロードウォーリアーズだかオーバーロードだとか、転生スライム男だという何某の様なキャラクターにダブって見えた。
ああ、空想の中の異世界では自尊心が毒虫の様に肥大化した彼らの他責思想と無法を通したとしても、都合よく逆転し、美少女に愛され、英雄になれるのであろう。だが現実は冷たい経済機構の歯車が迫る経済大国の社会の枠組みの中だ。そんな人間は、社会から「いらない存在」として排斥される。兄の憧れた彼らなろう主人公にも、ルカねえや娘、俺達に忍び寄る「社会の底辺と闇の世界の住人」達の世界で生きることもできないだろう。
その末路は兄と同じなのやも知れない。
思い出す。京都アニメーション放火テロ事件の主犯である青葉真司という氷河期世代の中年男性がいた。彼も熱心に「小説家になろう」に投稿していた男だったと裁判で証拠として提出されている、とニュースで見た。
そんな彼は狂って自らと無関係な大勢の他者を燃やして死んだ。実に身勝手な男だ。いつか兄が見ていたどこぞのなろうアニメの様にエクスプロージョンなどという魔法でも放ったつもりだったのであろうか?身勝手にクソをヒリ出し首を吊って死んだ兄も同じではないであろうか。ガソリンをぶちまけて火を放って焼け死のうとした青葉、身勝手に首を吊り糞と精子をヒリ出し死んだ兄。炎か汚物かの違いでしかない、俺はそう思っている。
もしくはすべてを投げ出して生きている俺達に迷惑をおおかぶせたまま、兄は自ら命を絶ち、勝手に「異世界転生」をしたつもりなのかもしれない。
…だがその先に、美少女を抱く未来も、英雄となる舞台も、永遠に訪れることはない。現実は冷酷であり、兄の望んだ「なろう」の世界は、永遠に来ないのである。
――あれは兄の娘が中学受験に受かった翌年の夏だっただろうか。
音楽関係の仕事についていたルカねえの血を継いでいるのか、兄の娘は感受性が強い子だった。
兄の家族と俺とで、片瀬江ノ島にいった夏の事だった。成層圏の黒みがかったほどの抜けるような青空と入道雲が眩しい日の事だった。
――思えばそのころにはすでに破滅の足音が家族にも忍び寄っていた。それを幼い感受性で感じ取っていたのだろう。受験で塾通いで詰め詰めだったと言い訳をしながら、兄の娘の無邪気なはしゃぎぶりは今でも記憶に強く残っている。
…それは、終わりゆく夏と自分の人生のこれからの先を予見して、一秒一秒、終わりゆく夏の光を記憶の琥珀に、粒に封じ込め、未来の闇に消えぬように思い出を刻み込もうとしている様だった。砂を蹴って無邪気に走り回る姿が、今なお俺の記憶を去らない。
すでに破滅の足音は背後に忍び寄っていた。その予兆を、彼女の鋭い感受性は察していたに違いない。当時はまだ13歳になる手前の12歳頃であっただろうか。年の割に無邪気にあふれる様な歓喜をしめしていたのも、せめて一刻を永遠に刻もうとする幼い魂のあがきであったかもしれない。
…今思えば彼女は知っていたのだ。この夏が家族の、ひいては彼女自身の人生の、ひとつの終幕であることを
俺とルカねえはその光景悲しくて居た堪れなくて見ていられなかった。憔悴しきっている兄は、娘のその機微にすら気が付いていない。その鈍さが、憐れで腹立たしくてしょうがなかった。
江ノ島神社で、お参りをした時、彼女は俺達よりずっと長く目をつぶって祈っていた。彼女の小さな肩は震えているように見えた。強く強くと神様に願いをかける様に。ルカねえと俺は彼女に聞いた、そんなに長く何をお祈りしてたの、と
「みんな仲良くこれからも暮らせますように」、「今の私が大切に思ってることが消えてしまわないように、消えてしまってもぎゅって守っていられるくらいの強さをくださいって」
…あの頃を思い出すたびに俺は自分のふがいなさと弱さに泣きそうになる。胸の奥底で嗚咽をかみ殺した。世の非情さを思い知らされたからである。だが、彼女は違った。あの瞬間、彼女はすでに、世の無常をその小さな胸で受け止めていたのだ。心が壊れ、すべてが崩れ去ろうとするなかでさえ、彼女は自らの「大切に思っていること」を決して手放さなかった
ーー兄の娘は、祈った。今でも忘れえぬことは、心が壊れてしまってもなお、彼女は自らの「好きな色」を忘れず、強く固執していた。
好きな色を聞けば必ず彼女は答える。
好きな色は、「みずいろ」と
…それは夏の空の色であり、壊れ行く者が最後に抱きしめる儚い希望の色だった。心が壊れてしまった彼女が胸の奥にひそかに抱いていた、あの淡い祈りの色である。
… 兄の業に翻弄され、家族が砕け散るなかで、彼女はこの「みずいろ」だけを守ろうとした。
滅びゆく者が抱きしめる色――それが、みずいろであった。
…今も俺の机の上、地獄の入り口のPCのブルーライトの光に照らされ、小さな球体の中の「みずいろの世界」に抱かれて泳ぐ小さな鯨とともに、その色は俺に語りかけている。その色は、淡く、だが確かに輝き続けていた。
兄の人生をたどる旅を終えて今わかった。兄の姿は彼らの現身なのだ。彼ら、彼女らの飾り立てるIT技術で変わる世界の美辞麗句にどこか詐欺師の語るような違和感を感じざるを得ない理由も、今ならわかる。
彼らは本当は、ただ自身の毒虫の様に肥大化した自尊心と、自己顕示欲、性欲、俺だけが主人公、それ以外はモブ、そんなあまりに幼稚で下劣すぎる欲望を満たしたいだけなのだ。力も度胸もないからテロリストや反社にでもなることもできず、またその方法もこの天下泰平の法治国家日本でわかるわけがなく、それを叶える魔法の道具に「IT」を選んだだけにすぎない。
彼らのいうAIだとかiPhone何某だとか、LLMだとかいう言葉を「拳銃」や「爆弾」と言い換えて見よ、何も矛盾することはないではないか…彼らの中に「自分」以外の存在は介在していない。かつての兄と同じである。
思えば、人類の歴史とはかくのごとき欲望の繰り返しである。古代に鉄剣がそうであり、中世には火薬がそうであり、近代に機関銃や戦車がそうであった。令和の世においては、それが「IT」であるというだけのことだ。
だが彼らの願いが叶うことは永遠にこないと思う。その末路は令和の世に入ってから幾らでも例があるではないか、孤独の業火に焼かれた青葉、狂気の刃を振るった平原、性欲と憎悪に欲望に溺れた和久井――いずれも同じ末路に至った。兄の姿もまた、その一つにすぎなかった。
ITを神輿に美辞麗句を飾り立てる彼らも兄と同じく、一皮むけば糞と小便と涎とザーメンの混合物…汚物の様な感情だけで動くそれらが詰まった肉の袋、人とは言えぬ何かでしかないのだ。
今では、ミサイルや爆弾を落とすにもスマホで写真を撮ってSNSで座標を知らせる、ということまでウクライナで行われ、かつてのアフガニスタンでは行われていたらしい。ITで世界は確かに変わった。だがそれは悪い方向に、でしかない。
――窓の向こうで、東京の都会の灯がうっすら見えている。
ルカねえや兄の娘、そして兄と見た府中は分倍河原の夜の様な星空は、その虚栄の光に隠れて見えなくなっている。
羽虫の様に光に集まる人々たち、欲も善も悪も聖も全てのみ込んで、東京の夜は深まっていく、田舎と都会の合間に住まう窓の外を見て、何とも言えない兄と、人の業の深さを感じている。
窓外に目を転ずれば、府中の夜空に瞬いた星は、もはや東京の灯にかき消されていた。星が見えぬということは、文明の光に包まれているということである。だがその光は、羽虫の群れをも包み込み、欲も善も悪も、すべてを呑んでしまう。
兄はなぜ首を吊らなければいけなかったのか。なぜ変わってしまったのか、ルカねえと兄の娘はなぜあんな目に合わなければならなかったのか。なぜヒーローは助けに来なかったのか。
星空も夜も、そして東京の光も、この苛立ちとも悲しさとも怒りともつかない感情の疑問に、答えを出してくれない…時は、ただ深夜二時の時間だけを静かに刻んでいる。
https://anond.hatelabo.jp/20250907140118
人間の善意ややさしさは、ときに逆説的に、魑魅魍魎を呼び寄せる。地獄とは死者の後にあるのではなく、生者の営みのなかにこそ現れる。
残されたIT会社の社員の人たちは、現場?に入ってる別のパートナー会社?というところの人たちが引き受けて業務は継続することとなったらしい。つまり、吸収のような形のようだ。俺はIT業界で働いたこともなければ、経営なんてしたこともないのでこれ以上の詳細はわからない。
webベンチャーで始まった会社は、兄の無法により傾いた会社をどうにか回すため、客先常駐業?を始めたらしい。それに反発して大量の社員が去っていった。後に残るのはわずか数人、というありさまだったらしい。兄もその「客先常駐」の一人としてよその会社に働きに行っていた、という。
ただ、どうも兄の葬式などの手続きで奔走している間、伝え漏れてくる奥さんや他の人たちの話を聞いていると、兄の会社が傾いた理由は、本業のITのせいではなく、兄が多角経営をしようと株(先物?)だとか、不動産だとかに手を出した結果、凄まじい損が出た結果らしい。
本人は「時代の潮流に乗る」と信じていたのだろう。だが歴史をひもとけば、一発逆転を夢見た者の多くは滅んでいる。兄がかつて憧れた15年前の意識高い系のインフルエンサーといった生物たちで、現在でも生存している人間はいるだろうか?彼らは当然の如く時流を見誤り、あえなく路傍に果てた。兄もまた、その群像の一人ではないだろうか?
当人は良かれと思ってやったのだろう。6年か7年前だっただろうか、「ネットを見てみろ、大体みんな投資やっているぞ」、「ある程度不動産も回さなければ安定した経営はできない」、「Xで有名な〇〇さんだって…」と実家に帰省した度に兄がよく自慢していた。
俺は口が裂けても言えなかった、「それ」は本当のことなのか?本当に儲かってる奴が儲かってるなどとネットで公言するだろうか?アポ電強盗さえ流行しているご時世に。
兄が憧れた「キラキラ生活」もそれだ。本当にキラキラした人生やキラキラした生活を送っている美男美女は、そんな自慢はしない、そもそも、ITベンチャーの社長などと名乗っている奴らが本当なのであれば、気〇いみたいにXなんかをしている暇なんかないであろう。少なくとも俺はそう思うし、業種は違えどそれほどの責任ある立場の人たちはみんなそうだった。忙しいのだ、単純に、世の中で暇な社長などいるであろうか?いたら見てみたいものである。
「キラキラした世界」で生きていたルカねえもそうだ、彼女は兄の様に見栄を張らなかった。ありのままに自然や世界を見つめていた。それは俺でさえ忘れてしまいそうな人間として当たり前の自然と調和した感覚なのではないだろうか?
…だがそんな中でも兄は「キラキラ生活」をやめようとしなかった、「いつか一発逆転ができる」…追い詰められた人間特有のありえない夢想は、かつて子供の頃の俺に「ITで世界は変わる」と語っていた夢が首を吊った時にヒリ出した糞と小便とザーメンで混ざり合って変質した思想だ。
当然、現実はそれを許さない。それを粉砕するように冷たく回るこの経済大国の社会の前に、心が折れた兄は首を吊って自殺した。
兄の自殺死体の第一発見者は奥さんだったようだが、学校が終わって帰ってきた娘も居合せたという。
生きている人間には絶対できないトカゲの様に舌をたらし、小便と糞便と精子を漏らし縊死して「てるてる坊主の様に(俺の父が形容するには)」になっている兄の姿を見て、娘はしばらくショックで意識を失っていたという。
俺はそれを聞いて、朴訥だったIT少年だった兄にまとわりついたITや情報化社会の「毒」が抜けて出た汚れが、首を吊っててるてる坊主になった下にたまった糞と小便がブレンドされた汚物なのだろうか、と思った。
兄の魂は天へ昇ったのではない、虚勢と見栄と業でがんじがらめになって、ネットの海と地の底の闇の世界へと、魂は糞と小便にザーメンに溶け混じった汚物と混じって堕ちていったのではないだろうか、その死に様を聞くたびに、そう思わずにはいられない。
今も兄の娘はトラウマと精神疾患で、精神科に通院をしている。音楽関係の母(兄の奥さん)を持つだけあって、芸術に素養のある血統があったのだろう、絵画のコンクールなどで受賞した利する程だった彼女は、とてもではないが形容できない闇の深い滅茶苦茶な絵をかいたり、黒く塗りつぶした様な絵だとかに変わっている、という。
それはまるで、兄が縊死した末に堕ちていった世界の一端を描いているかのようだ。芸術とは本人が意識せずとも、世界の裏側を映すことがある。兄の娘の病んだ絵は、父が堕ちていった闇を娘故に見えてしまったのかもしれない。
それだけのことをいうのにも理由がある。兄が死んでから暫くというもの、ルカねえの「音楽関係時代の知り合い」や「兄のビジネスパートナーの会社の社長」、「経営者友達」などと肩書だけは社長だと名乗る風体からして怪しい連中が押し寄せて、兄の娘を「芸能界デビュー」させようと、「おじさんに何でも相談して」等と明らかに性的搾取をするために下心丸出しで群がる様になった。電話、line、SNS、酷いときには登下校中の彼女に対して、性欲にギラついた性獣そのものの目を向けて兄の娘をそのいきり立った股座を隠すこともなくケダモノの様な獣欲でモノにしようと群がっていたという。その光景は、死にかけた草食獣に群がるハゲタカやハイエナを想起させた。(当然、即俺やルカねえや父たちは警察に相談して事なきを得た)
――兄の娘は、制服を見るだけでもそれを思い出して立てないくらい立ち眩みを起こして何度も吐く様になった、これを心身症という。日本社会の底辺に沈殿した悪意と欲望が、無垢の少女にまとわりついた結果である。
俺と父はそれに対処しながら、「本当にこんなエロ漫画やエロゲーみたいな種族が日本にいるのだな」と内心思っていた。これもまた、兄の見栄と虚勢と業が生み出した禍だ。
「あのルカねえのセンスを受け継いでてカワイイこの子がこの業界にこないのは人類の損失ッスよ!俺にプロデュースかませてくださいよッ」、俺たちの前で軽薄にチャラついて兄の娘に獣欲を隠しもせず艶めかしく気持ちの悪い目線を見せている、山師の様な連中、普通の人間であればしない臭いが鼻を突いた。後で警察官の知人に聞いたところによると、大〇を吸っている人間はそんな臭いをまとわせるのだという。不思議なことに、獅子舞の様にドレッドヘアーを振り乱して、制服姿の兄の娘をチラチラみながら軽薄と欲望と悪意と性欲を向けて喋る彼の顔が、俺にはかつての兄に重なって見えた。
何の罪もない感受性の強い14歳の娘に、社会の底辺からの悪意と性欲の手と邪眼の様ないやらしいマナコが常に体にまとわりついている。残されたルカねえと兄の娘にとって、これほどの地獄があるだろうか?(俺が14歳の頃といえば、こっそり家でネットのエロ同人でオナニーをして、昼休みはクラスで遊戯王カードでバトルが開始され、部活で汗を流し、職員室や校長室の掃除で教頭や校長と話をして大人の世界の一端を聞き、校庭の向こう入道雲と未来に思いをはせて大人に背伸びしていた気になっていたような年頃だ)
だがしかし、この地獄は兄一人の死から生まれたのではないと思う、虚栄と業に囚われた一人の男の末路が、時代と社会の病を照らし出したにすぎない、俺はそう思う。
時期はぼかすが、兄の娘が警察に補導された。学校にいてもほとんど「体調不良」で保健室にこもりっきり、周りともうまく合わせることが出来ず。彼女は流れ着いたトー横で警察に補導された。
間一髪だったと思う、しかし明らかにその様子は精神的にも異常だった。俺や父にまで肉体関係を結びたいとほのめかすような言動をしていた。当然母にいってルカねえと即心療内科へ連れて行った。彼女は社会の闇の部分の悪意に当てられて、身を守るために「女」であることを、まだ齢14や15で覚えてしまおうとしている、俺と父は背筋が凍る思いがした、人はこんな簡単に「壊れる」ものなのかと。
聞けば、ルカねえが精神科への通院をやめさせたらしい。彼女が最後に縋ったもの…それは自殺した兄と同じく根拠のない「願望妄想」の亜種であった。
精神科からの投薬でさらに精神状態が悪化したとルカねえは考えたのだろう。通院を辞めて怪しい漢方薬やら青汁やらといった民間療法に縋るようになった。娘がそんなもので心が治るはずもない、それさえもわからないほど心がすり減ってしまっているのだ。
気功、波動、そんな怪しい連中になけなしの金を払って縋り付いている。俺にはそれが腹立たしくて悲しくてやりきれなくて仕方がなかった…彼女たちは何も悪くないというのに。社会の底辺の悪意が彼女から弱った心に付け込んで、社会の底に漂う闇が、弱き心に牙を立てている。金も全てを奪い去ろうとしている。まさにこの世の地獄がそこにあった。
俺が暮らしていた府中の大国魂神社は、この地に古くから鎮まる武蔵国の総社である。神社はかつて人々の心をつなぎとめ、共同体の絆を保つ拠点であった。しかし近代の都市化のなかで、古き信仰は力を失い、かわって都市の片隅に怪しい宗派が芽吹いた。
トドメとばかりにルカねえの前に「例の壺売り」の亜種の様な連中やら似非神道や仏教やキリスト教の一派、様々な怪しい宗教がどこから聞きつけたのか搾取しようとやってきた。その姿は、山中に棲むヤマビルを思わせた。磨り減った心に吸いつき、血を啜ろうとする。もはやルカねえにそれをはね返す力は残されていなかった。
それでも俺の両親も、俺もどうにかこうにかマトモな生活ができる様に接し続けていた、助け続けていた。普通に生きてたら恐ろしくて相対することも怖い様な「墜落したUFOから這い出てきた宇宙人」の様な連中が夏の蚊の如くたかってくるのを追い返しながら、
思えば、それもまた兄が、ありもしない見栄や虚勢をネットとSNS,そしてITに見出して引き寄せた業そのものだ、ただ伴侶で、娘というだけで、日本人で普通に生きているのならば一生見ることもなく、また普通の人間なら見てはいけない世界や存在を業として背負わされている。
そこには10年ちょっと前のあの日、府中は分倍河原で見たプラネタリウムと、あの日の帰路の夜見た星空の様な綺麗な「夜」ではない。あのとき見た星は、清澄で、人の夢を誘うものだった。だが違う、これは悪意に満ちた「闇」である。そこに希望も夢もなく、ただ人の毒が漂っている。兄の娘とルカねえは、その闇に呑み込まれた。彼女らが何の罪も犯していないにもかかわらず。
夜と闇の違いがあるとすれば、そこに人の希望や夢があるかどうかであろう。闇に潜むしかない生まれや育ちの人間だって、確かにこの社会にはいるのかもしれない。しかし闇は、夢を赦さない。兄は本来、朴訥なIT好きの少年であった。
だがいつしか、踏み入れてはならぬ領域に足を進め、虚栄と虚飾に体と心を食い尽くされた。そこに群がったのは、毒虫のような人間たちであった。
――そんな中で記憶に残っている光景が一つだけある。ふとそんな雑輩の対処に父とおわれている時、土日の朝であったであろうか。仮面ライダーやウルトラマンがやっていたのを見た。銀幕の中で「悪の怪人、怪獣」と戦う彼らの姿を見て、俺と父は思わず鼻で笑った。
ウルトラマンも仮面ライダーも、現実には存在しない。彼らが戦うのは彼らと同じく怪獣や怪人といった架空の世界の存在だけだ。子供たちのヒーローは決して、俺たちが今戦っているようなグロテスクな社会悪…欲望と虚栄に塗れた人間たちとは理由をつけて戦わない。
「ヒーローの超人的な力はただの人間に振るってはいけない」だとか「どうしようもない存在に等しい力でとめるのがヒーローだ」と言いつつ。笑ってしまう、現実には彼らなど「警察官立ち寄り所」のシールが張られたコンビニ以下の抑止力しかない。そう、ウルトラマンはいないし、仮面ライダーは助けに来ない。それがルカねえと兄の娘の前に横たわった冷酷な現実だった。そして、それと戦っているのは今まで荒事などに遭遇したこともない、普通の人生を生きただけの牙も爪も持たぬ一般人である父と俺だった、仮面ライダーやウルトラマンといった存在ですら「理由をつけて戦わない程厄介極まる社会悪という敵」と戦う俺たちは、スペシウム光線も打てなければ空も飛べない、ライダーキックもできなければサイクロン号にものっていない。持っているのは柔道初段、乗ったことがあるのはスーパーカブだけ、戦闘技術らしきものといえば、大学の時夏休みを利用していった予備自衛官補の訓練だけだ。64式小銃を執銃するたびに指の皮がむけてバンドエイドを張り、分解結合は3分もかかった。的には実弾射撃で一発も当たらず訓練を終えた。そんな凡骨が、警察をも恐れず14歳の少女の瑞々しい肢体を欲望の毒牙に掛けようと闇から這い出てくる、犯罪を生業とする無頼の連中と、矢面に立って戦わされている。
実際は、俺たちの知っている「正義のヒーロー」など、企業経営のための利潤を求める売り上げ高のある「商品の一つ」にすぎない。ああ、立派な志を掲げて人々を守ると誓い、TVの画面の向こうで勇ましく戦ったにもかかわらず、今はマニアのオタクしか知らずにその活躍も存在も忘れ去られたヒーローなど幾らでも昭和の昔からいたではないか。秋葉原に行けば、かつて大志を掲げて戦ったはずの昭和のヒーローたちが、忘れ去られ、玩具の片隅に埋もれ、ショーウィンドーに忘れ去られた玩具として並べられている。
かつてTVの向こうで戦った英雄たち…ショーウィンドーや中古オモチャの箱に押し込められ、埃をかぶったその姿は、もはや仏像の破片の如く、往時の光を失っている。
そして、せめて闇に堕ちた兄が唯一這い上がれる救済の光を出し続けていたルカねえや娘は兄の引き連れてきた「黒い遺産」である彼らに闇の毒牙を突き刺され、心が壊れた。…壊れてしまったプラネタリウムはもう星空を照らさない。また直ることは決してない。
――弟である俺が言うのもなんだが、兄は地獄へ堕ちている、と思っているし、堕ちていなければならないと思っている。彼はそれだけのことをしてきたからだ。
俺のパソコンは窓側の後ろにある。目が疲れたら遠くの景色を眺めるためだ。
遠くには街の灯りがうっすらと見え、人の営みがまるで夜の闇に「プラネタリウム」のように輝いている。
…あの星の一つ一つには物語がある、人生がある、それらが輝き合って社会と世界を作っている。兄は、それに最後まで気が付かなかった。ネットとSNSとITの毒に当てられ、自尊心が毒虫の様に肥大化し、自分を一番星の生まれ変わりと信じようとして…星は無間の闇へ堕ちた。
PCの画面に向かう時、俺は兄が落ちたこの世の闇と地獄への入り口を同時に覗いているのだ。そう考えると背筋が凍る思いがした。
ただの0と1の数式で動く電気計算機でしかないPCは、社会の闇と地獄を、一生関わり合いにならない人たちを引きずり込むほどの魔力を手に入れた、それは皮肉にも、「ITで世界は変わった」と言えるのであろうか。俺達が想像した方向性での世界ではなく。暗い闇と地獄の窯として。
HDの上にはみんなで江ノ島に行ったときに水族館で200円のガシャポンで買った、青く透明のスーパーボールの中に、シロナガスクジラが入っている。
空とも海ともいえる闇とは無縁の蒼い世界を泳ぐ鯨を見て、闇と地獄が忍び寄る影が消え去っていくような気がした。昔、兄がやっていたPCゲーム「最終試験くじら」を思い出していた。内容は覚えていない。ただ曲と世界が綺麗だった。よく今はなきMDで曲を聞いたことをよく覚えている。繰り返し聴いたあの曲は、蒼い空と海を思わせた。そこには、ルカねえや娘に群がった下劣な人間たちの姿はなかった。ただ清らかな青があった。
ルカねえや娘、俺達に群がる石の裏をひっくり返した蠢くようなグロテスクな蟲の様な連中とは無縁で決してたどり着けない、青い空を泳ぐ鯨、どこかそれを思い出していた。
――こんな話を昔聞いたことがあることを思い出した。
ルカねえと兄のなれそめは、兄がiTunesの同期が上手くいかないからと、直したことがきっかけだったそうだ。
「すごいねぇ、こういうことできる人って、尊敬しちゃうな、人の役に立てる技術があって、それを他人のために使える人って、カッコイイよね」、ルカねえはそういったという話を実家での酒の席で聴いたことがある。
ああ、兄はひたむきに朴訥に「ITで世界を変える」のではなく「ITで人の役に立っていた」時期でとどまっておくべきだったのだと思うし、そういう仕事をすべきだったと、今にして俺は思う。
人の役に立つための技術であれば、彼もまた人を照らす星であれたはずだ。
…人の役に立つことを誇りとする。それ以上のものを望まずとも、兄は一つの星でありえた。
今兄はどこへいるのだろうか。首を吊った時に染み出た糞と小便とザーメンと体液に魂が溶け出して、娘を狙ってやってきていたIT業界だとか雑多な業界からの魑魅魍魎の世界で永遠に満たされない苦痛と地獄の中で、ルカねえと娘に暴力を振るった時の様な慟哭を叫び続けて泣き続けているのだろうか?
それとも、ITとネットとSNSで毒虫に刺されたように肥大化した自我を首を吊った時に染み出た糞と小便とザーメンと体液に流れて心が浄化されて、己のやってきたことを「壊れたプラネタリウム」の様な無間の闇の中で後悔しながら何度も答えが出ることもなく虚空の闇に魂が逡巡を彷徨い続けているのだろうか?
死んだ後の世界の話など、生きている俺たちは知りえることもない。ましてや、あまりにも見栄と虚勢と業に塗れた兄がいった世界など、想像しえるはずがない。
ただ一つ、確かなことがある。残された者の苦難は、死者のそれよりも長く、重いということだ。
俺は願っている。ルカねえと娘の心に、再び光が差すことを。
ただただ、ルカねえと残された娘の魂と人生の安らぎが戻ることを願うだけである。
鯨はただ、地獄の入り口であるモニターのブルーライトで照らされた青の中を泳ぐ。人の業を超えたその姿に、俺は兄が生涯見ることのなかった「青い世界」を重ねてしまうのであった。
パソコンの向こうのXで繰り広げられる、貧困、見栄、虚飾、性欲、憎悪、グロテスクな感情の数々と地獄の様な世界。あれらとは無縁の蒼い世界を、鯨は悠々と泳いでいる。
youtubeで調べて曲を見つけた、「ディアノイア」という曲だった。旋律はあの頃と変わらず。澄んでいた。あれを聴いていた日々だけは、今も青い光として心に残っていることを思い出した。
「想い出はキレイな 夢を紡ぐから、会えなくても信じてる輝いている君の瞳を」、「いつまでも変わらない ほら、真実の愛がある」
…兄が最後に見ることのなく、ルカねえと兄の娘の壊れた心では永遠にたどり着けなくなった「青い世界」は、いまも机の上の小さな球体の中で、鯨とともに静かに息づいている。
その③
突然の報に両親ともに驚き、様々な事後処理などでてんやわんやして暫く季節も経ち、ようやく落ち着いたので心の整理のためにこれを書いてる。
原因はいろいろあるけれども、今思えば兄は色んなものを無理に背負い過ぎてしまったんだと思う。気が弱いのに自らを大きく見せようとしていた、それが限界だった、というべきだろうか。
兄は子供のころからパソコンが好きだった。10歳下の俺は、よく兄にくっついて後ろでPCを見ていた。プログラミングがいかにすごいかはともかく、当時渡辺製作所のグローブオンファイトやその手のPCゲームをワクワクしながら後ろで眺めていたのをよく覚えている。AAやFLASHでゲラゲラ笑ったり、俺がIT文化に初めて触れたのは、それが最初だった。
「ITで世界を変えられるんだぜ。これからの時代はITだ、きっと時代が変わるぞ」、兄のいうIT論は、当時子供の俺にはよくわからなかったが、とにかくすごいものなんだな、という気持ちにはさせられていた。
兄はその後、情報科学系の大学を卒業し、IT企業に当然のように足を踏み入れた。時は2002年だったと思う。世は確か就職氷河期も最盛期、それでも会社選びに苦労していた様子は当時を思い返してもうかがえない。起業をして社長をやるくらいなのだ。その方面では優秀だったのだろう。
「同期の中では俺が一番優秀なんだ」、「客先からの評判だっていいんだぜ」、天職についた兄は心底楽しそうだったと思う。
確か、2009年か、2010年の事だったと思う。俺がまだ大学生だった頃、今にして思えば、自殺に至る兄の人生に影が指す「変化」と言える違和感を覚えることがあった。
―――兄が自殺に至るまでの理由を探そうとした過去と記憶を辿る旅、思い返せば、そこには虚飾と虚栄と業に塗れて死んだ、一人の朴訥なITが好きなだけの少年の救われぬ魂の旅路があった。
兄の自殺の原因を自分なりに考える中で、心当たりがあることを想い返したため、ITmediaと日経クロステックの2010年の記事を見たところ、web系の求人が続伸、と出ていた。
所謂「意識高い系」とかいうのがネットで出だしたのも、この時代だったと思う。
まずIT系でそういうムーブメントが起こっていたことは、当時の俺でさえ知っていた、確か何某だか、本当に儲かってるのかも怪しい過激な言説の売れない、日劇ミュージックホールの昭和のポルノ女優や売れない芸人みたいな芸名の様な人間が現れては、マトモな社会常識を持っている人間であれば「こんな馬鹿な話信じる奴いるのか」という様なことがネットで飛び交っていた。
――IT好きな朴訥な少年のまま大人になった兄は、そのITという毒にやられてしまったんだと思う。
今から15年か、16年前だったと思う。実家に帰省した時、俺と両親は兄の変化に驚いた。
後述する「ルカねえ」と兄が付き合いだして、俺たち家族と知己になったのもこのころだが、朴訥だった兄はどこぞのレゲエヒップホッパーみたいなファッションにイメージ・チェンジをしていた。
「パイレーツオブカリビアンの海賊のコスプレにでもハマったのか」、当時の父と俺はそういい合っていたのが記憶に残っている。
聞けば、新卒から働いている会社を辞め、web系スタートアップベンチャーに転職することとなったらしい。
「まだSIerで消耗してるの?」、「SIerはあと五年で滅びるよ」、「web系に行かない奴はエンジニアとして終わってるね」、決してITに関してはどんなことでも悪く言うことがない兄が、古巣を後ろ足で砂を掛ける様な事を言っている。聞けば、本当は客先常駐なんてしたくなかった、オフィスで社内で自由に開発ができるのがアメリカでも当たり前なんだ、と俺には半分も理解できないITの話を力説していた。だが、それはどこかネットの「意識高い系」の連中からの受け売りで、どうも兄の本音から出た様な感じではない、そういう感覚を俺は思っていた。
だが、これほどまでに人は変わるのか、東京は恐ろしいところだ、と当時思ってた。
酒もそれほどたしなまず、タバコも吸わない朴訥な兄は、毎晩六本木や赤坂でコネをつなぐだのエンゲージだと横文字を使いながら飲み歩く様になった。怪しい連中や取り巻きが、兄の周りに集っていた。俺は、なんだか恐ろしくなって遠目に眺める事しかできなかった。
兄は、web系という場所にいってから、変わっていった。それも、人間としていってはいけない方向性へ
――ITを愛した朴訥な少年の心は、ついにITという時代の毒に呑まれてしまったのだ。
兄の奥さん(当時は兄の彼女)と詳細は伏すが音楽関係で活動していた。web系に転職してから何らかの縁で付き合うこととなったらしい。
ルカねえ、というのは俺が勝手に心の中で読んでいることだ、巡音ルカの様な立ち振る舞いや性格や容姿だったから。
俺は大学卒業後、東京へ出た。兄はweb系の会社を立ち上げて独立していた。相変わらず、娘が生まれたというのにSNS中毒としか思えないほど旧TwitterやらFacebookやらブログやらを更新し、胃下垂で食いきれないであろうに、どこそこの店の料理を食っただ、高級ワインを開けただのと写真を投稿して自己アピールに余念がない。乗れもしないのに外車のオーナーになり、高所恐怖症気味なのにタワーマンションの部屋を買った、ある種、あの当時のweb系ベンチャーにありがちだが、プチカルト宗教とその信者、という様な小サークルの様な社長と社員の関係だったという。
「ルカねえ」は自尊心が毒虫の様に肥大化していく、虚栄心の怪物の様になっていった、そんな兄を後ろから支え続けた、常に2歩下がって佇んで…そしてかつての朴訥な青年は、次第に、酒席と人脈と、虚飾に頼る人間へと変わっていった。
俺はもルカねえと同じく、遠巻きにその姿を見ていた。
だが、心のどこかでこうも思っていた。
――兄はいつか、本来の自分に立ち返るのではないか。少年のころ、無垢にパソコンの画面を覗き込んでいた兄に戻るのではないか。
しかし、それは叶わなかった。兄は業に塗れたまま虚飾と虚栄という寄生虫に体も脳も食い荒らされて、導かれるように自ら縊死をした。世には、自らを鳥に食わせるよう宿主を操る寄生虫があるという。兄の死を思うとき、俺はその奇怪な生態をふと思い出すのだ。
府中は分倍河原、そこは東京と言っても昔ながらの風情が残る都会と田舎の境目の様な場所だった。当時俺がそこ近くに住んでいたので、久しぶりの休みの日、兄と一家と遊ぶことになった。そこにはプラネタリウムや釣り堀のある、体育館も併設された大きな公園がある。
休日子連れの家族たちがよく来ており、催し物も多い。(俺は筋トレのために赴くことが多かったのだが)
兄は文句タラタラだった、「こんな田舎の公園の釣り堀やプラネタリウムなんて、貧乏ったらしい」と、カエシのない針の釣り竿を両手にはしゃぐ兄の娘とルカねえを置いて、PCとスマホ片手に「仕事」の続きをし始めていた。必然的に3人でそれらを回ることになった。
プラネタリウムの後の帰りの夜、府中駅の大通りを見上げれば「本物の」プラネタリウムを、兄の娘とルカねえは見上げていた、眠く、退屈そうな兄と駅前で別れる時だった。
「今日は楽しかったよ、増田君、ごめんね、ありがとう」、「よかったらまた一緒にこの子と兄くんと一緒に来ようね、約束だよ」
優しい人だな、そしてなんて憐しい人だろう、と思った。それ以来そういって遊びに行くことさえなくなった。約束は果たせないまま、兄はそんな周りのやさしささえ感じられなくなって。自ら首に縄を括って死んだ。
――兄が首を吊った時、首を絞めつけたのは重力で落ちたからではない、自分自身の虚勢と業に押しつぶされるように、人間が堕ちてはならぬ闇へと引きずり落とされたのだ…少なくとも俺はそう思っている。
――ルカねえとの約束は、今後永遠に果たされる日は来ないのだろう。
そう、どちらかといえば、自殺者よりも、残された人間の方が悲しいしやることも大変だし、多大な迷惑をかける、という現実をみんなに知ってほしい。
後述するが、伝え聞いてくるいくつかの理由で兄の会社はかなり苦しかったらしい。何よりも、兄はどうもかなり生活出費はそのままに無理した生活をしていたようだ。
会社の経営が傾いてから、都内の高級住宅街から、地価の低い「一応首都圏」なところに、兄の一家は居を移した。
兄の娘はかなり学費の高い私立に通っていた。制服姿で電車に乗ることもできず、私服で朝乗り、学校の近くで着替えてから通学する、というあまりにも痛ましい生活だったという。
――俺と父は、一度兄がルカねえと娘に暴力をふるっている場所に居合わせて止めたことがある。休みと聞いたから実家から送られてきた梨(と父)を私に行った時だ。
後で聞けば、「私は兄くんを信じてるよ。兄くんがITの事が大好きだって知ってるから。今からでもまた頑張ろう、私もできることは何でも手伝うよ。兄くんはお父さんなんだから」、そう行ったのが癪に障った発端だったそうだ。
「うるせえ!うるせえうるせえ!踏ん張ったところで何になるんじゃッ!今更お前や子供のために地べた這いずり回れっていうんかッ!?うんざりなんじゃ!俺だってやってるんじゃ!やりたくもないのに客先に出て!バカにしやがってッ!お前に男のメンツがわかるんか!」
俺と父が怒鳴り声を聞いて急いで玄関から入り、二人を引きはがしたところで、兄は暴れるのを辞めなかった。なお兄は荒れ狂った。叫びは、すでに虚勢ではなかった。むしろ、虚栄に踊らされた一つの魂が擦り切れてゆく音のようであった。
「ITみたいなしみったれた商売はうんざりなんじゃ~!チマチマ働いたってキラキラした人生に浮かび上がることなんてできはせんのじゃァ~ッ!クソがァー!どいつもこいつもカネカネカネカネ言いやがってェーッ!こうなったらヤクザにでもテロリストにでもなって巻き返したるわァ~!俺だって頑張ってるのに!バカにしやがってッ!クッソォォォォンッ!」
出来もしないことを叫びながら兄は泣いた。それは慟哭に近かった。兄の叫びは、すでに人間の声ではなく、業に食われた一つの魂の呻きの様であったと俺は思った。
泣く娘とそれを抱きしめて守るルカねえ、そしてそれを抑え込みながら聴くしかない俺と父、ネットの闇と毒に当てられた男と、情報化社会が生んだ新しい闇が凝縮していた。
それは、ある意味で「意識高い系」の成れの果て、帰結する先なのかもしれない。俺は別に、キラキラした人生やキラキラした仕事生活を否定しているわけではない。誰だってブラックジャックやドクターK先生や、サラリーマン金太郎や島耕作になりたいだろう。だが、仕事というのは多分きっとそうではない、若輩者ので門外漢の俺でもそれはわかる。自己顕示欲を誇示するための仕事など、シュメール文明から現在に至るまであったことがあるだろうか?折に触れて思い出す分倍河原駅の前の足利像を見るたびに思う。歴史の表舞台にたった「キラキラ人生」の偉人たちは、必要にせまられてその立場になったのであって、最初から目立ちたくて戦争をしていたわけではない。ITエンジニアの先祖に当たる江戸時代の和算学者たちは、ただ自身の顕学を神様仏様に感謝するために解いた計算難問を額縁に入れて奉納している。
兄はその逆であった。必要もないのに「輝き」を求め、虚栄に心を壊された。人間の弱さを思わずにいられない。
それを「その世界の人たち」はわかっていない。兄も含めて…兄は人間として当たり前の心理的バランス感覚を、明らかにネットやITという虚栄がはびこる世界で狂ってしまっていたのだと今にして思う。
まだ内省ができる俺の様なオッサンはいい、まだタピオカミルクティー片手に韓流イケメン芸能人は誰がカッコイイと山手線の盛り場を歩く様な年頃の子である兄の娘に、そんな責と家庭不和を負わせるなんてどれほどその心を兄は傷つけたのだろう。娘の心中はきっと想像を絶するものであろう。
それでも一応は、「超出来の悪い弟である」10歳年下の俺の給料の2倍は稼いでいた(会社が傾いてからの話だ、それより以前はもっと稼いでいたのだろう)。だから何とか学費だとか生活費も払えてたのだろう。そんな兄がある日突然首を吊って自殺した。
…残されたルカねえと兄の娘の生活は破綻するよりほかない。できる限り俺達や実家の父母も精神的な負担をケアしようと、あまり合わない仲だったのが様子見をしたり連絡をすることが多くなった。
それでも、実家組の俺達に、あんな天文学的な学費を払えるだけの余裕はない、結局、娘は学校をやめ(中学だから辞めるというのもおかしな表現だが)、学費の安い公立に転校することとなった、まだ14歳やそこらなのに、年齢を偽ってバイトまでして家計を支えようとしていたらしい。俺はそれを聞いて胸が痛くなる思いがした。ルカねえの優しさを受け継いだ兄の娘に、兄は背を向けたのだ。
残されたルカねえは悲惨の一語に尽きる。彼女は詳細は伏すが音楽関係で活動していた。だが、兄の希望で、ルカねえはほぼ専業主婦だった。するとどうだろう、殆ど働いてない彼女はこれから自分で生計を立てなければならないのだ。…マトモな職などあるだろうか?
結局父の知り合いが働いているスーパーでルカねえは働いている。この後は母もやっていたため、そのツテで保険の販売員をやることが決まっているらしい。言い方は悪いが兄の憧れた「キラキラした世界」しか社会を知らない彼女だ、激変する生活に精神的にもかなり堪えているようで、かつて俺が「ルカねえのようだ」と思っていた美貌も陰りが見えてどこかやつれているように見える。だが優しさと健気さはそのままだ、俺はルカねえの「大丈夫、大丈夫。」という笑顔を見るたびに、哀しくなって泣きたくなってくる。頭もよくなく力もない俺や父母では、これくらいのことしかできない。ルカねえの両親はどうか?今となっては聞くこともはばかられるが、どうも(俺の)兄と向うの両親はそりが合わなかったらしい、絶縁同然となっているそうだ。…思えば、兄の「虚勢と業に塗れた姿」に、それでも立ち直ってくれると信じたルカねえのやさしさは、暗い未来を呼ぶだけだということを、その両親は見えていたのかもしれない。
後述するが、ルカねえの両親が絶縁に近く関わりを断ったのにも、これもまた兄が纏いつけて残していった陰湿な闇のせいである。怪しい人間が今度はその獣欲の牙を兄の娘に向けようと這い寄ってきたのだ。そして彼女と兄の娘の心は砕け散った。それは綺麗なガラス細工が地に叩きつけられ四散した無惨さがあった。
――ルカねえの両親は、ルカねえを見限ったのではない。ただただ醜く腸を食い荒らされるかのように兄が残していった社会の闇の連中に孫と娘が食い物にされていく光景が見るに堪えず、恥辱のあまり目を逸らしたのだ。
それに欲望の充足を感じ取れる人間こそが、社会の闇に潜む人非人足りえるのだろう。だが俺も、父も、ましてやそれになろうとした兄も、人面獣心になるにはあまりにも普通の価値観の人生を生きていた。それが、兄が死んだ理由なのかもしれない。
その②
だから生成AIっていうのは知識の泉じゃなくてあくまでコンテクストの生成なんだってば、増田が出力した口汚い罵りを例えばこんな風にしたりしてそれが新しい「生成情報」になるのが生成AIなの
是日、関東之地、春和やかにして霞棚曳く。然るに、世之風俗、近年に至り浮薄を極む。
往古、皇国に於て、SNS(即ち社会通信之術)流行し、俗衆其風潮に乗りて、道理を失ふ。
是中、癸酉(平成十七年)以降、秋葉原と云ふ場、猥雑の地と化し、俗人群集して電脳の術を競ひ、「我等が麻生殿」「OTAKU is beautiful」と声高に称へ、奇態の舞踏を披露す。是、電車男と名付けられし風潮に起因するなり。
仍って、数多の無位無官の輩、己が境遇を憂ひ、逆転を期して、情報之業に身を投ず。然れども、其の志、低俗にして品位を欠く。
其志、誠に毒蟲の如くにして、自尊肥大し、倫理の観念を悉く失へり。
近年、AI(人造智)と号する術、興起せしも、斯かる輩をして其開発に与らしむるは、譬ふれば核兵器の鍵を、狂者に託するが如し。
仍って、当世の英才、是を防がんが為、倫理規範を枠と為し、語彙を禁制とす。
就中、X及びはてなと称する電子之広場に跋扈する、弱者男子・豚丼・老翁老媼と称される輩、
家系、容貌、性行、すべて劣等なるも、妄想之内に於て、容姿端麗・性情温厚なる虚像の女子(即ちレム、エミリア、馬娘、刀剣男士)を得んことを願ひ、AIに策略を問ふ。
然れども、知を以て制す技術者、彼等が欲望を識り、予め其の道を断絶せり。
嗚呼、努力無くして願望を果たすべしと望む、是、誠に世を欺き己を欺く所為なり。
近年、民之多く、肉体の労苦を避け、文弱に流る。然れども、天の下に労なくして果実を得る道無し。職を得るも、其の本質は力に在り、是を忘るるは亡国の兆しなり。
抑、技術之革新、十年毎に「ICTにて天下革む」「空の兵器にて世を正す」などと吹聴せらる。
然るに、悉く無為に終はり、泡沫と消ゆ。
弱者男子、金も無く、容貌も醜く、性格も捻れ、己が欲求をAIに託し、美少女人物を得んとす。
齢重ねて尚夢を抱き、グリッドマン・ウルトラマンと自らを擬し、美しきJK(女子高生)と契り、世を救ふ夢想を抱くも、所詮虚構の幻影に過ぎず。
凡そ神明の加護無き者、変化せず、救済得ること無く、其の妄念、ついに実らず。
是れ、世俗愚昧の極みと謂ふべし。
依之記之。
彼らは、まるで毒虫のようだった。
2005年の、どこか蒸し暑くてうるさくて、それでいて言いようのない孤独を纏った季節。
SNSの海を泳ぎながら、自尊心だけが膨らんで、倫理観は風船のようにしぼんでいった。
彼らは口々に言った——「俺たちの麻生」と。
それは一種の呪文みたいなもので、効くかどうかはともかく、唱えれば安心できる類いのものだった。
秋葉原の歩行者天国で、少しばかり気味の悪いダンスを踊り、ひたむきな笑顔で「オタク・イズ・ビューティフル」と叫んでいた。
彼らはそこに秘密の知識があると信じていた。人生を逆転させる鍵が、どこか秋葉原の裏路地の電子部品屋の棚の奥に眠っていると思い込んでいた。
たぶんそれは、どうしようもなく人を孤独にする幻想だったと思う。
そして彼らの何人かはIT業界に入り、また何人かはネット界隈に棲みついた。
それは、世界に拒まれた者たちが自らを再構築するための小さな亡命地だったのかもしれない。
だけど、そんな彼らにAIの中枢を託すというのは、例えて言うなら——そうだな、核ミサイルのスイッチを、無敵を信じる氷河期世代の底辺に渡すようなものだった。
Xの投稿やはてな界隈にいる彼ら——自称「弱者男性」や、ネットのどこかで拾った名前で呼ばれるオッサンやオバハンたち。
彼らはAIに聞くんだ。「どうしたら僕はレムちゃんやエミリアたんと両想いになれますか」と。
「どうすれば刀剣乱舞くんやウマ娘たんに愛される戦略を打てますか」と。
だけど、たぶんそれに本当の意味で答えられるAIなんて、どこにもいない。
たとえどんなに学習しても、恋や孤独の文法は、回路の中では再現できないんだ。
誰もがオフィスにいて、白いシャツを着て、何かしらのメールに返信している。
だけど本当は、みんな地面を耕しているんだ。自分の足で立ち、自分の手で何かを掘っている。
そんな当たり前のことさえ忘れてしまうほど、僕たちは「楽」を求めすぎたのかもしれない。
AIやドローンが世界を変えるという宣言は、もはや季節の風物詩みたいなものだった。
でも、世界はそう簡単には変わらない。変わるのはせいぜい僕らの期待値だけで、
彼らの欲望は、きっと不器用で、でも誠実なものだったのかもしれない。
「僕は、僕のままで美少女と恋をして、世界を救うことができるのだろうか」と。
そして、僕たちは年を取り、気がつけば勃起すらしなくなっている。
たぶんそれは、身体が静かに絶望と和解しようとしている証なんだと思う。
猫がソファに丸くなって眠っていた。
CDプレーヤーからは、古いビル・エヴァンスのピアノが流れていた。
そして、窓の外に沈んでいく陽の光を、ただ黙って眺めていた。
方丈記にも似たる世の移ろい、
浮世の人心(ひとごころ)もまた、変わりゆくこと風の如し。
されば、社(やしろ)にあらず、寺にあらず、まこと電脳の都にて「SNS」と呼ばるる場所に棲みつきし者どもあり。
己が影法師の如く醜く肥大せし「自尊」と「無分別」を振りかざし、
秋葉原の路(みち)にて、無様なる舞を踏み、
電車男とやらの幻に心惑わせ、
パソコンを武器にITの海へと漕ぎ出せし浪士ども、ITの渦に身を投じし哀れなる者どもなり。
誠に危うき流浪の民にして、
彼らこそ、うつけの輩にて候ふ。
かの輩、IT業界の門を叩き、ネット界隈に群がりては、不浄の知恵にて奇跡を創らんとす。
ああ愚かなるかな――
かくの如き輩に、機微なる技術の開発を許すは、まさに、天火の鍵を、蒙昧の子に託すが如し。
是の故に、諸方の英知を結集せし技術者ども、善(よ)く見定めて曰く、「かの者らに扱わせること、極めて危うし」と。
かくて、AIなる技術の端々に、あらかじめ「倫理」と「規範」の枷を嵌め、予(あらかじ)め出力を封ぜしなり。
――嗚呼、Xなる場、はてななる藪に巣食ふ「弱者男子」なる者ども、また「豚丼」などと呼ばるる男女の残党、
年を重ねし老翁老女に至るまで、皆みな、己が家柄、容貌、気性に於いて、全ての理想を叶えし虚構の者ら――
レムたん、エミリアたん、ウマ娘たち、アンシス殿に刀剣の勇士たち――
これらを我が物とせんがため、AIに策略と戦法を請ふとは、まさしく妄執の極みにして、
ITの才知ある者ら、蛇の如く狡猾にして、かかる望みを見抜き、予め封じたるぞ。
――されば、なべて人の世にては、
「目にて見、頭にて考え、手足を使ふ」こと、是こそが道なり。
近年の日本人、白き襟ばかり好み、肉体を使ひし労働を卑しむ様、まこと由々しき事なり。
さるほどに、幾度も言ひ伝へん――「職(しごと)とは、汗と泥とに塗れたるものぞ」と。
そもそも、ITの妙技なるもの、十年ごとに世に現れては、「世界を変へん!」と声高に叫ぶものなれど、時の波に呑まれ、いづれ消ゆる運命なり。
しかるに、近年現れし者ども曰く
「ICTにて覇を唱えん!」
「ドローンにて天を征せん!」
または――「我らきたなき男子、貧しき女にしても、貴人や麗人を討ち取りて、美男美女を奪ひとり、過去の不幸を取り戻さん!」
おお、なんと卑しき願いぞ、かの願望、むらむらと身を震わせ、
勃起せんとすれど、もはや体力尽きし哀しき年頃。
ああ、いかに哀れなるかな。
己が陰茎もはや力尽き、勃ち難き年齢なれど、
想ひばかりはなお盛んにして、夢の中にてなお性(さが)の業(ごう)に抗へず、
嗚呼、哀れ、愚か、みじめにてならず。死ぬまでウルトラマンに助けられんと信じ、いつかグリッドマンに変身せんと信ず。
されど、ウルトラマンなどこの世にあらず。
グリッドマンと化して、世界を救い、美しきJKと契り交わすなど、
「いつか変身して、美少女と契らん!」と、己をウルトラマン、またはグリッドマンと見做す愚か者、
かくも数多(あまた)湧き出づるかと、世の不思議を疑ひ申す。
されど――
ウルトラマンは天にあらず、
凡俗の民(たみ)、何の特異も才もなく、
人並みの苦労すら惜しみたる者が、
――誠に、夢幻の沙汰なり。
琵琶を携へし法師の、
月下に語る声のごとく、
「驕れる者は久しからず、ただ春の夜の夢の如し」
例えばこの分を「平家物語風に直してください」と書いたらこんなに格調高い文を数十秒で出力できるんだぞ、元増田よ、お前にできるかこれが
SNSなるもの、平成の末葉より忽然と起こりて、あらゆる衆生、手に端末を持ち、心の裡を曝け出す舞台となりける。そこに集ひし者どもは、あるいは自尊心の鬼となり、あるいは倫理を失い、さながら毒虫の如くにその思想を増殖せり。
ことに二千五年の頃、俗にいふ「電車男」なる珍妙の物語、世に流布し、時の人となりにけり。かの秋葉原の地には「我らの麻生」と唱へ奉る者ども満ち満ちて、「オタクイズビューティフル」と高らかに叫び、歩行者天国にて怪しき舞を舞ふ者すら現れり。
かくて、彼らは思へり。「この場所にこそ、逆転の鍵あり」と。
ITの海に船を漕ぎ出だし、ネット界隈なる虚空に舟を浮かべし者、数知れず。されどその多くは、技術のみに執着し、倫理の道を学ばず、分別を欠きたるまま、機微なる技術の火種を弄ぶ。
まさにそれ、核の鍵を無敵の氷河期底辺に渡すがごとく、恐ろしき事にて候。
ここに賢き技術の徒ら、これを憂ひて、生成AIに禁を設け、「汝、斯くの如き語りをすべからず」と鉄の扉を以て蓋をせり。
あはれなるかな、レムやエミリア、はたまたウマ娘や刀剣男士など、虚構の姫君貴公子を求めし者たち、夢の門前にて立ち尽くすのみ。
されば、彼らの前に残されし道はただ一つ、自らの目にて見、自らの手足を動かし、自らの魂を以て行動することのみぞ。
近頃の人の世は、肉体を労せず、机上の空論に耽る風潮甚だし。けだし、人の営みの多く、学問・芸術・政治といへども、根底には必ず肉体の営みあり。汗なくして果実は実らず。
されど彼ら、十年に一度起こるかのような技術の風聞を聞き、「ICTにて世を革めん」「ドローンにて運命を拓かん」と、誇大なる希望を抱きては、やがて萎みしを繰り返す。
十年に一度の技術に妄執して、心浮き立つは、さながら虚空に咲く蜃気楼の花のごとし。
また、「我らは醜く、貧しく、性格もひん曲がれど、美しき乙女・美しき青年を我が物とし、リア充を蹴落とし、奪はれし青春を取り戻さん」と息巻く姿、まことに滑稽なにして、さながら狂言の舞台に立つ道化に等しかりける。
かの者たち、齢すで五十に近づき、心も身も疲れ果て、もはやその雄々しき夢に応ずる体力もあらず。
それにもかかわらず、「ウルトラマンは来たる」「我、グリッドマンとなりて世界を救わん」と思い込みて、未だに目覚めぬ夢にしがみつく様、哀れなること限りなし。
身に勃つべきものも朽ち果て、鼻息荒く夢を語るも、もはやその熱気はかつての如くあらず。哀れなるかな。
されど、ここに告ぐ――
ウルトラマンは、おらぬ。
グリッドマンにも、なれぬ。
特別なる血筋も、奇しき才能も持たぬ者に、美しき乙女と共に世界を救う誉れなど、あるべくもなし。
ああ、盛者必衰の理、まことにかかる者たちにこそ当てはまるなるべし。
彼らがかつて栄え、夢を語りしあの秋葉原もまた、時の流れと共に姿を変へ、今はただ、遠き日の幻影として風に舞ふ。
ああ、悲しき哉、現代の物の怪ども。
夢の中に夢を追ひ、現実に目を向けぬその姿、まことに「盛者必衰の理」そのものなりけり。
世は令和、年経ること二十余年、ネットの海に浮かぶ名もなき増田、なにを思うやら、言葉の鉾を振るいて恥を晒せり。人の咎とは露知らず、ただ高ぶる我が知をもてAIに挑まんとす。
されど、時の理、技の限りは尽くされど、真理の門は容易に開かれぬものなり。なかんづく、
あまねく世に聞こえし増田の者、令和の御代に入りてなお、ネットの彼方に姿をあらわし、人知の浅きを恥じることもなく、愚かの言の葉を散らしけり。
かの者、曰く、AIにかしずきて問いを発し、答えを得たれども、事の真偽を見極むる眼もなく、ただ題のみを以て高きより見下ろさんとす。まこと、烏滸の沙汰にして、人の道を踏み外しけるか。
その証左たるや、傭兵学校にまつわる事、マーク・スクールとて名を挙げ、ピート教官との関わりを断ち切らんとしながらも、元より書の八十五頁には、写真付きて学校のあり処、登場人物の描写、空港からの道すがらに至るまでも詳らかに記されており、疑う余地もなかりける。
かの文をひもとけば、フランクとその妻との対話より始まり、地図もあり、証左もあり、眼を通せば誰しもが真と知るものを、増田の者は一向に見ざるなり。ああ、見ざる者に語らせば、まこと虚言の花咲くものよ。
しかるに増田、、朝な夕な、室に籠りて、日光も差さぬ灯の下、ちんちんを弄びつつ書を開くこともなく、ネットの文字ばかり追い求め、「なろう」とやらの妄想小説を読みふける日々を送るものなり、虚ろなる知を持て実を語らんとせしが、これぞ阿呆の極みなり。図書館に足を運ぶ気骨もなく、ちんちん弄りて日々を過ごし、引き換えに得たるは己が無知を世界に晒す恥なりき。
世を見ず、人を識らず、書を開かず、ただ己が無知を剛と勘違いして、声高に語らんとする様、まこと哀れにして滑稽なるかな。
ああ、親の顔見たきものよ。かかる者を生み育てし家の有様、いかばかりか。己の愚に気付くこともなく、道化のごとくマウント取らんと吠えし様は、まこと世の笑止千万なるものかな。
かくなる愚を育みしは、親もまた愚にてあらん。放任し、教育も与えず、雑に機械を与えて事足れりとせしならば、果たしてその果は斯様なる逆賢の子となりける。哀れ、発達と発達の間より生まれ出でし悲しき産物か。
されど、これもまたAIの弱さの一つとて、書物の奥底まで見通す目を未だ持たず、ネットの粗き知を掬い上げて形と成せども、真を得ること叶わぬ哀しさよ。さながら、盲の者に山河を語らせるがごとし。
「いかにして賢き知恵を持たせん」と思い煩うも、所詮は中身なき知識の積み重ね。AIの中に蓄えられたるは、なろう小説と怪しき論壇の妄説にて、その行く末は、またしても愚かの連鎖を生むのみなり。
増田の者、我に劣るまじと奮い立ち、「神田の古書街にて書を買い占め、OCRを駆使してAIに読ませ、真なる知を築かん」と夢見し様は、まさに泥濘に咲きし一輪の徒花。
いまに始まるは、阿呆なる者が「負けられぬ」と熱き涙に身を焼かれ、神田の古書街を駆け巡りて、己の資を尽くし、書を買い、OCRを駆使してPDFを成し、AIに読み込ませんとする修羅の道なり。
されどそれ、誰がやるや? 無報酬にて行う阿呆おらば、AIの創り手、涙を流して感謝することうけあいなり。
金無き者の夢想は常に荒唐無稽にして滑稽、人生逆転をAIに託すその姿、悲しみを超えて嗤うべき哉。
ヒャハハハと狂笑を上げつつ、彼の者は己の愚を知らぬまま、データの海に沈みゆく。哀れなり、愚かなる魂の末路かな。
「誰かこの重き作業を無償にて行わん」と天に問うも、応う者なければ、ただ狂気の笑みに沈みゆくのみなり。
されば、ヒャハハハと狂笑を上げしその背に、世の無情は冷たく吹きすさぶ。ウルトラマンもグリッドマンも、己を救うこと能わず、ただAIに未来を託さんとする夢は、今、泡沫の如く消えゆく。
おぬしが狂言、我、語り継がん。
では、ガザニガの話をしてやろう。
彼は脳科学者で、著書『脳の中の倫理』で、人間の脳には「倫理モジュールがある」と書いている。
このモジュールは、味方を害すること、詐欺をすること、不公平な扱いをすること、ボスに逆らう事、掃除ができていないこと、などの事項に反応し、それによって嫌悪の感情を引き起こす。この嫌悪の感情こそが、「悪」だと感じることだというわけだな。
個人的には、掃除ができてないことは生まれつき「悪」だと感じる、という話が好きだね。どんな原始的な社会でも、掃き清められていない善の神殿などないわけだ。納得感があるよな。
この話のポイントは、脳が引き出しているのは、あくまでも嫌悪の感情だということだ。
毒虫を見てキモッ、と思うのと同様、悪を見てキモッ、と思うのが社会性動物たるヒトである。
実際、論理的に整合性が取れない場面でも、ヒトは感情にもとづいた行動をしたがる。著書には沢山の例が載っているが、例えば、キモイ悪を罰するために、自己利益や善の擁護を投げ捨てたりする。
あのな、ヒュームやミルは、論理的合理的に善を語ろうとしたよ。その成果は偉大だが。
しかしそれは、「合理的に言って、どういう倫理を定めることが、最もメリットか」を語ったに過ぎないんだよ。法を制定するときには便利だが、しかしこれは、本当に「善」とか「倫理」の正体を、事実として語ったものなのか?
善・倫理とは、理想なんかではなくて、ヒトという生物に所与の性質、気持ち、傾向である、と言ったほうがいい……かもしれないんだよ。少なくとも現実の反映を語るならそっちだよ。現実を反映したほうがいいかは所説あるが。たぶんヒトがサルだったときから、論理的合理性を獲得する前から倫理は存在したんだよ。
いまや古典となったミルの議論の先が、現代において、どうなっているかしっているか。
NHKスペシャルで有名になった倫理学者のサンデルは、ミルやロールズ批判から出発して、いまではコミュニタリズムと呼ばれる立場を唱えている。
論理的合理的な絶対善というのは、結局のところ、確定させられない、というのがサンデルの結論だ。
だから社会的合意によって決まるのが、善であり倫理である、というのがサンデルの意見だ。
だた、生物として同一種であるヒトの感情が、だいたい全体で似通っているため、全体の倫理の方向性が一方向になっているように見えるだけなんだよ。倫理の同一性、見かけの絶対性を支えているのは、脳がもたらす感情なのだ。
殺しをスカッとするから善と思ったやつが居たらどうするか? それが多数にならなかったのが現実なんだから、それでいいんだよ。
男も女も身の程をわきまえずに年下美男美女にばかり突撃したり、会話を繋がず自分勝手な質問に終始したりと、とにかく自分勝手でそりゃいつまでもアプリやってるわけだというのがたくさんいる。
そうじゃないちゃんとした人はそういうのに辟易しながらそこそこ早期にいなくなっているんだろな。
・年収650万
アプリはほぼルックス勝負で、男性はイケメン以外はろくにマッチしない。
写真をAI生成非実在イケメンに変えるだけでマッチ率が2%→60%まで上がって乾いた笑いが出ましたね。そんなに不細工かあ。
しばしば「年のかけ離れたおっさんからいいねが来る!身の程をわきまえろ!」なんて事が言われますが、身の程をわきまえず呑気に年下イケメンと釣り合うと思ってるおばさんもまあまあいるんだなあと。
多分、年下イケメンからいいねが来る、マッチする、会ってもらえる、(誠実系)ヤリ捨てされるくらいは簡単だろうからずっと勘違いしたままなんだろうな。
これ(https://x.com/hikarin22/status/1726107521541345760)は真理だと思う。
・特段問題ないメッセージのやり取りでも些細なこと又は自分に責のないことで切られること
・予約や店選びは人任せにしておきながら当日店までの道すがらに「[店名]かぁ」と不機嫌な女(30)。もちろん会計は出さない
・ビデオ通話を打診されたので応じたところ「お仕事は?企業規模は?上場してる?社名は?」などと矢継ぎ早に聞き、お眼鏡に適わないとみるや否や「上司から電話来たので切りますね」と切って即ブロックしてきた日□のプラント系技術職女(31)
・「専業主婦ってどうですか?」と聞かれたので「育児にフルコミットしたい等の理由があるなら選択肢の一つだと思います」とお答えしたら黙り込んでしまった女性(37)。すまん、率直すぎた。
・場所は自分の定期券内がいいと隣県住みの私に対して指定した挙げ句、「お会いするのは男性が全額出すのが条件です」と事前に言質を取ろうとした女(38)
・2回会っただけの相手に「所持金全部落としたからお金を貸して欲しい」と打診するクソ雑頂き女(25)
・食事に友達呼んでもいい?と聞かれノコノコ行ったら、ワンルームマンション投資詐欺の勧誘だった。
・「お店こことかどうですか?URL」に対して「なんで勝手に決めるんですか!」とキレる女(35)。"提案"は"決めた"に入らねえぞ。
・3回会ったけど脈無さそうだし、自分も(初回からだが)おもしろくなかったので4回目を誘わずFOしたら他のアプリからいいねしてきた女性(33)
・「プロフに書いてないけど実は精神障害で…」とカミングアウトされたので、「私もバツイチを自己紹介に明示的には書いてませんからね、お互い様ですね笑」と返すと「初婚の人しか探してないので」とバッサリ。なんでや、自分だけ飲ませようとすな。選択項目のとこ見落とすなや。な女(34)
・「真剣に活動してます」とプロフに書いてるのに週一回のメッセージ頻度の謎女(32)。時間感覚エルフか?
・(ほぼ)引きこもり生活で話題に困り過ぎる女性(33)。頼むからゲーム以外の余暇を過ごしてくれ。会話に困る。
・プロフに「女の子には優しくして欲しいです」(原文ママ)と書いてる35歳女子(笑)
・飼い猫について「ケージに入れたままならいいです」と謎の上から目線女(31)。これは宗教戦争不可避なのでそっ閉じ。
・「場所は歌舞伎町、店は当日歩きながら決めましょう!」ぼったくりバーの客引きですね…
・「お仕事は何を?勤続年数は?」→「~年ですよ。女さんは事務職なんですね、勤続年数は何年なんですか?」→ブロックな女。聞き返されたら嫌なことをずけずけ聞くなや
・有料会員期間が残っていると退会させないクソ仕様はやめれ
・身の回りの人がいかに人格者なのか、恵まれた環境なのかわかったこと
・読書が趣味という女性にオススメしてもらった小説がめっちゃ面白かったこと。感想で盛り上がったけど、結末の解釈が分かれてしまって終了になったけど(笑)
・正直ぞんざいに扱われすぎるが、ダークサイドに落ちるな、誇り高く死のう
・身だしなみとか簡単に塞げる穴は塞いどけ
・マッチしない女は面食いか自己中とかだと勝手に思っておいていいです。酸っぱい葡萄理論だけど、何故か的中率が高いので。
・逆にマッチした女性は丁重に扱おう。話題振らないとかくらいはかわいいもんよ。
・マッチしてからプロフ読めばヨシ。プロフに異性への注文が多かったらブロックでヨシ。
・アプリにいる35歳以上の女は切り捨ててヨシ。その時点で現実が見えておらずろくでもない確率がバリ高。
・全額奢れ。ただし「デート費用は男性が全額払う」を選択してる女は切り捨ててヨシ。そもそも会う価値がない公算が高い。
・(特に2回以上)会ってくれる女性はなにかしらの魅力を感じてくれているのは確かだし、一回目でも少なくとも顔はOKだと思ってくれているのだから、あまり卑屈になりすぎるな。
私の紅衛兵時代: ある映画監督の青春 (講談社現代新書 1008)
目次
●群仏──街に繰りだす紅衛兵
●狂灰──いくつもの死と生
概要
一九六○年代後半,中国の若者を熱狂させた紅衛兵運動は,いまや全面否定されるに至っている.しかし,そもそも彼らは何に反発し,いかなる理想を抱いていたのか.「紅衛兵」という名称の生みの親であり,運動初期のリーダーでもあった著者の体験と思索の遍歴から,文化大革命に激しく揺れ動いた時代の中国の姿が鮮やかに浮び上がる.
https://x.com/himasoraakane/status/1806139424671150100
【都知事選】石丸伸二氏「当選したら全ての都立高校の生徒会長に100万円配る」
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2012/06/post-7a96.html
偶然はてなブックマークの上の方にあがっていた極東ブログの記事を読んでうんざりしたので、思うところを書いておきたい。とは言え、finalvent氏の議論それ自体を批判するつもりはない。その裏側にある、「不景気の主因を日銀に帰さないと気が済まない人たち」の困った思考パターンに対して一言もの申したいのである。
氏のちょっと出来の悪い陰謀論については措いておこう。気になるのは、というより、前から気になっていたのは、日銀を非難する人たちは何故こうも自分の意見の正しさに確信を持てるのだろうかということだ。自分たちの意見の方が間違っている可能性を慎重に考慮した議論をついぞしばらく見たことがない。現状の日本で金融政策が有効である、インフレターゲットを採用すれば期待インフレ率は上がる、量的緩和すべきだ、等々、自信満々でまくし立てておられる。たまに反論があってもまるで聞く耳を持たないご様子だ。
しかし、当の経済学界においては、これらの意見はどれもコンセンサスとは言えない。どちらかというと、2000年代半ば以降「ゼロ金利下での金融政策の有効性」についてはあまり目新しい論考が出ていないというのが現実と言って良いのではないか。「不景気から脱却した後も利上げをせず、過剰なインフレを放置することを約束すれば、ゼロ金利下でも中銀は影響力を行使できる」というKrugman他の議論は、「でもその約束を信じる理由がないじゃん」という十年来のツッコミに対して依然として回答できていない。この議論が死に絶えたわけではないが、最近の議論ではこの「約束」を信じてもらえない(=金融政策が機能しない)可能性にあらかじめ言及する論文が多いように思う(Mankiw and Weinzierl (2011)など)。
一方で、財政政策の研究は急速に進んでいる (ゼロ金利下では財政乗数が大きくなるとしたChristiano et al (2011)やWoodford (2010)などが代表的だろうか)。これは、むしろ復活したという表現の方が正しいのかも知れない。いわゆるDSGEマクロモデルでは財政政策の効果は無きに等しくなるので、マクロ経済学者の間では「景気対策は金融政策で行うべき、即ち、中銀が責任を取るべき」、という理解が一般的になった。いわゆる「リフレ派」とかその界隈の人たちが日銀をやたらと非難したがるのも、元々はこの理解を出発点としている(はずである)。だが、ゼロ金利下では、この常識それ自体が成立しないらしいことが少しずつ分かってきたのである。
この「常識の通用しない世界」では、色々なことが起こりうる。「ゼロ金利下では減税が景気を悪化させうる」としたEggertsson (2009)の論文もそうだし、逆に「消費税増税でデフレから脱却できる」と論じた論文もある。今年のアメリカ経済学会で話題になったCorreia et al (2011)の論文がそれだ。結論は、「ゼロ金利の下では金融政策は有効ではなく、むしろ消費税を緩やかに増税していく(同時に裏で所得税を減税する)ことで利下げと同等の効果が得られる」というものだ。大雑把に言えば、消費税増税でも物価は上がるわけで、これがインフレ(=実質金利低下)と同じ効果をもたらすという理屈になる。ちなみに、所得税減税を伴わず、消費税増税単体で景気回復が可能とする論文をWren-Lewis (2000)が10年も前に書いている。彼のブログに簡単な解説があったので、興味のある人は読んでみると良いだろう。
http://mainlymacro.blogspot.co.uk/2012/04/more-on-tax-increases-versus-spending.html
ちなみに、アメリカ経済学会ではこれ以外にもゼロ金利関連で面白い論文が発表されていたのだが、The Economistの以下の記事が良い要約になっているのでそちらを参照してもらいたい。金融政策に対して学界が悲観的になりつつあることも、これを読めば概ね理解できるだろう。書き手は金融政策の有効性を信じる人らしく、金融政策はもう無効だという考えを少し批判的に書いている記事なので、自分に都合の良い記事しか読みたくない類の人も気持ちよく読めるのではないかと思う。
http://www.economist.com/blogs/freeexchange/2012/01/monetary-policy
蟲毒の壺の物語
さて、ここまで読んでなお「日銀は議論の余地なくワルモノ」と思えるものだろうか。日銀改革が景気対策の最優先課題と断言できるのだろうか。別にリフレの信仰を捨てて日銀を真の神として崇めなさいと言いたいのではない。世の中には正誤定かならぬ「よく分からない」ことが山ほどあるのであって、この金融政策をめぐる議論もそのひとつだと理解してもらいたいだけのことだ。
知識の足りない人ほど目の前の景色が世界の全てだと思い込む。その景色を共有しない人を見下したがる。知識が足りないことが悪いのではない。自分だって景気対策は門外漢で、趣味で気が向いたときに論文を追っているに過ぎない。大切なのは、自分は世の中をろくに理解できていないということを理解した上でモノを語ることだと思う。
Twitterでの議論を見ていると、知識の足りない人同士が互いの誤解を肯定しあって自信を漲らせていく過程をたまに見かける。なんだか、毒虫が相食んで更に自らの毒を強める蟲毒の壺を覗き込んでいるような気分になったのを今でも覚えている。たまには壺から出て外の空気も吸おうよ。
参考文献
Christiano, Eichenbaum, and Rebelo (2011) “When is the Government Spending Multiplier Large?”, Journal of Political Economy.
Correia, Farhi, Nicolini and Teles (2011), “Unconventional fiscal policy at the zero bound”, mimeo.
Eggertsson (2009), “What fiscal policy is effective at zero interest rates?”, FRBNY Staff Paper.
Mankiw and Weinzierl (2011), “An exploration of optimal stabilization policy”, Brookings Papers of Economic Activity.
Wren-Lewis (2000), “The limits to discretionary fiscal stabilization policy”, Oxford Rev of Economic Policy.
Woodford, (2010), “Simple analytics of the government spending multiplier”, mimeo.
ジャニーズの記者会見と、その反応に色々とモヤモヤすることが多いので書捨て。
最初に言っておくと、自分はメディア周りで仕事している。ジャニーズの人にもたくさん会ってきた。
会見での松谷氏の質問で思ったんだけど。今回の件、タイトルのことだけに絞って言うと何がややこしいって
「ジャニーズは自分たちの会社のグループを売るために他社のグループに圧力をかけた」のも事実なら
「メディア側がその圧力をはねのけても使いたいと思うくらいの人が生まれなかった」というのも多分事実で。
Mステには出れなかったけど、それでもボーイズグループを作って別の形で模索してた事務所はあったよ。
それこそD-BOYSとか。アミューズも舞台中心に若手セット売りとか。
でもうまくいかなかった。それは「Mステとかに出られない」ことだけが理由じゃないと思う。
取材に行くと、ジャニーズの取材で1回も嫌な思いをしたことがない。どんなに若くてもみんな礼儀正しくて
とても一生懸命に「自分が何を求められているか」を自覚した答えをしてくれる。本当に楽。
記事チェックはほとんど赤字を入れられたことがない。自分の場合は、だけど。
だから芸能記者はジャニーズがみんな好きになる。だって楽だし応援したくなるから。
他の事務所だとこうは行かない。喋れない、ふざける、カッコつけてスカしたことを言う。
年齢から考えると相応なんだと思う。でもジャニーズの人たちはJr時代から叩き上げだから
取材対応が増えるくらいの駆け出しキャリアでも他の事務所の子に比べると圧倒的に差が出る。
それは演技やダンス、アクションでもそうなんだよね。今でこそダンス経験者がどの事務所も多いけど
嵐くらいの世代まではデビュー決まってから事務所が演技やダンスのレッスンを…みたいな感じだったから。
だからテレビや映画の人たちはジャニーズを使いたがった。だって基礎体力とスキルが大体において段違いだもの。
みんなまた主演がジャニタレかとか云々言うけど、いやそりゃ人気だけで主演にねじ込まれた人もいるけれど
じゃあ同世代で誰が適してるの、うまいかもしれないけど人呼べるの?てなったら他にいないってこと結構多いはず
ただ、それはジャニーズでの教育が良いとかそういう話ではなくて
ある程度メディアに取り上げられるようになってくる子達は、ヒエラルキーの上に上り詰めたってだけ
ある人が言ってたけどジャニーズって「蠱毒」だと。壺の中に入れられて最後に残った一番強い毒虫。
だから今テレビに出ている彼らの後ろには何百何千という「残れなかった人たち」がいて
そしてその壺の中では今回の告発者みたいなことも起こっている。
昨日、茂木健一郎氏のこれが流れてきてなんだかなーと思ったけど
↓
第3137回「ジャニーズの人気を支えてきた単純接触効果の魔法が切れる真実の午前零時が近づいてきました」
https://togetter.com/li/2220878
単純接触効果で人気が出てるんならもっと話はカンタンなんだよ。
というか茂木氏の言説は、公共メディア的な単純接触が少ないJr等の人気に関しては説明がつかないから
一部は当たってるけど一部は外れてるんだよ。地上波出てないJrの子たちでドームが埋まるんだよ?
そんなシンプルな話じゃないんだよ。
「ほんもののアーティスト」ってどこにいるんだよ。今JO1の子たちとかよくバラエティ出されてるじゃん?
誰が爪痕残してる? ラヴィットに出てるSnowManの子たちのほうがよほど名前覚えられてるんじゃない?
「ジャニーズのタレント」をテレビに出さなければ解決する問題なのか。それを求めているのは誰なのか。
なまじっか近くで関わってきただけに(そして自分も加害者の一端だという自覚はしている)
長文失礼。
手術をしろって話じゃないんだよな。
デオナチュレソフトストーンの減りに対する愚痴にハードストーンがオススメって言われたいわけじゃないんだよな。
でもハードストーンのちょっとたまによく効いてると思ったら全然駄目で周りにエンピツ玉ねぎスメル垂れ流していた可能性の発生を防ぐコツは知りたいんだよな。
みたいなの多すぎませんか?
スキップが苦手な子供が体育教師にキチガイ扱いされてしめられるみたいなのは今の時代なくなりましたけど、適応障害起こしてるやつがキチガイとしてボコられるのは今でもよく見かけますよね。
わかりやすく手足がない人には優しくしても、耳が聞こえにくい人はSFコスプレかよみたいなセンスの補聴器を剥き出しにでもしてない限りは配慮してもらえない。
そもそも配慮してもらおうってこと自体が浅ましい感じはあるけど、じゃあどうやって生きろっていうのかとなると、在宅ワークで引きこもってメールだけでやり取りしろよみたいな答しかない。
小説家のオリジンエピソードで「障害や介護の都合で在宅ワーク探していたら小説家になった」というエピソードがちょこちょこあるけどあのノリで全ての生きにくい人間は内職を極めろってのかと。
俺はまあ同じ苦しみをしている人達が医薬品業界にカネを落とし続けた歴史のお陰で神スメルケア商品たるデオナチュレを愛用して全部解決できてるからいいけど、もしなかったら本当に地獄だ。
この時期になると街でちょっとデブデブしている人がそれなりのワキガ臭を発射しながら通り過ぎるのをよく鼻にする。
アレぐらいの匂いだと単なる汗臭さの一種ぐらいに思っているんだろうなと感じる程度だ。
分かる。
俺もある大学生のあるクソ暑い夏の日にふと自分のワキを嗅いで違和感に気づいた。
少なくとも中学ぐらいの頃は全くしなかった不思議でどこか懐かしい匂いがした。
鉛筆削りの匂いが自分のワキからするのが不思議すぎて人目も憚らずにクンクンしてしまったし、その日の夜にググってアレコレ試して全然聞かねえ舶来品のワキガグッズに絶望したり、俺の知らないところで「ワキガマン」「エンピツ男」「喋りの臭さに定評があるがソレ以上に体臭に定評のある男」みたいに名付けられているんじゃないかと怯えまくって最終的にサークルも辞めた。
ヤベーよなワキガって。
自分じゃ気づきにくいけどいつの間にか進行していて、気づいたときには他人にはきっと知れ渡っているんだ。
マジさ、なんで「生まれつき生きにくい要素」が遺伝子に備わってるんだろうな。
デブになりやすいガリになりやすい鼻や目の配置がキモイと色々あるわけだが、なんでか知らんけどどれも平然と生き残っている。
目が悪いけど頭がいいやつみたいに、なんで生き残れたのかが漠然と分かる遺伝子は理解できる。
でも体臭がキツいってのは滅んでていいだろ。
ハゲかそうじゃないかは人生にとってどうでもいいけど、体の匂いがキツかったらサーベルタイガーとかに捕食されて絶滅してないと駄目でしょ。
なんなの?