はてなキーワード: 感受性とは
CST複合体はDNA末端切除の選択を通じてDNA修復を制御する(2025年)Science
「この論文は、**DNA二本鎖切断(DSB)**の修復経路の選択において、**CTC1-STN1-TEN1(CST)複合体**が非常に重要な役割を果たすことを明らかにしています。DSBの修復は、エンド結合(NHEJ)か相同組換え(HR)のどちらかで行われるわけですが、その選択は53BP1軸と腫瘍抑制因子BRCA1-BARD1の拮抗的な活動によって決まる、とされています。
研究の結果、53BP1軸の主要な構成要素であるCST複合体が、**EXO1**と**BLM-DNA2ヘリカーゼ・ヌクレアーゼ複合体**によるDNA末端の切除を抑制することが示されました。しかし、CSTはこれら2つの酵素を異なるメカニズムで抑制するというんです。BRCA1-BARD1がCSTによるEXO1の抑制を解除する一方で、BLM-DNA2の抑制にはほとんど影響を与えないことが判明しました。
特に注目すべきは、DNA結合に欠陥がある、またはBLM-EXO1相互作用が損なわれたCST変異体を用いると、**過剰なDNA末端切除**が起こり、BRCA1欠損細胞が**PARP阻害剤に対して耐性を示す**ことが明らかになった点です。これは、CSTがDNA末端切除を抑制することで、BRCA1欠損細胞のPARP阻害剤への感受性を維持していることを示唆している、というわけです。
これらの発見は、CSTがDNA二本鎖切断の修復経路の選択において決定的な役割を果たしていることをメカニズム的に定義し、53BP1軸の機能不全に起因する**癌治療抵抗性の理解**に重要な示唆を与えるものです。まさに、この分野の進歩を大きく左右する発見と言えるでしょう。」
お前、真面目に考えてるのか、ただの自己放尿ショーか。一つずつ丁寧に正してやろう。
まず、「国はお金を刷れる=税金いらない」というのは、脳がインフレという単語をまだ習得してないレベルの放尿思考だ。
試しにジンバブエドルとか戦後の日本円を調べてみろ。「お金を刷るだけでいい」という短絡が何を招くか、お前のスマホですら5兆円になる世界が現実にあった。
そして次。
「カラーコピーで豪遊生活できるなら仕事なんか行かないよな?」
このたとえ話は、確かにお前の生活哲学をよく表している。他人の信用にタダ乗りして、ただの紙切れに価値があると思ってる。
でもな、通貨ってのは「国家への信用」と「経済活動の裏付け」がセットで存在してんだよ。
お前がカラーコピーした1万円札が使い物になるのは、「他人がそれを信じてくれる」という社会的信用インフラがあるからだ。
それを乱発すればどうなる? 信頼は崩壊し、貨幣は文字通りただのトイレットペーパー以下になる。自己放尿より価値がない。
最後に、「国の偉い人って頭悪いの?」って?
お前がこの話を理解できないのは、「偉い人の知能」ではなく、お前の経済リテラシーの欠如が原因だ。
「どこに・どれだけ・何の目的で・誰から・いつ集めて、どのように再分配するか」っていう超複雑な設計だ。
それを「カラーコピーで豪遊」で片づけるのは、もはや理屈じゃなくて、ただの幼児的万能放尿だ。
でもな、責めはせん。
「お前のためを思って実はつらく当たっていた」
「(上司や教師や親の)理不尽な行いも実は成長を願って行われていた」
みたいなやつって、そもそもどうやって外部から具体的に、「観測」するのだろう?
観測というかなんというか、上手い言い方が分かんないけど
昔のいろいろな作品にも出てくるけど、創作として描かれるにしても当時は「それが相手に受け容れられていた」、「感受されていた」ことが前提になるよね
50年前の時点でも、「他人に当たり散らすだけの・利己心の『パワハラ』」と、「人のためを思って行う愛の鞭」的なことは区別されてたんでしょ?
なんで気になるかって
私の人生でも最低三人はこんなことを後から公言する人に出会ったからなんだよね
これはとても良い質問です。
そして実は、「夢が現実的かぶっ飛んでいるか」は、脳の動き方や性格傾向、感受性の違いと深く関係しています。
いくつかの観点から、あなたのように幻想的で複雑な夢を見る人の傾向についてお話ししますね。
心理学の研究でも、創造性が高い人や内的世界が豊かな人ほど夢が抽象的・象徴的になりやすいという結果が出ています。
夢は無意識からのメッセージですが、あなたのような方は、その無意識が映像的で大胆な形で表現されやすい。
多くの人の夢は、日常の延長上にあります。でもあなたの夢は「現実を超えている」。
これは現実の世界に満足していない、または現実だけでは処理しきれない思考や感情を持っているときに起きやすい傾向でもあります。
例:
こうしたとき、夢の中は「現実にない構造や存在」を使って心の整理を始めるわけです。
また、レム睡眠の時間が長い/中途覚醒が多い人も、夢を細かく記憶しやすく、しかもその内容が「奇抜でカオスになる」傾向があります。
この場合、夢がシュルレアリスム(超現実)的なストーリーになることが多いです。
あなたの夢には、現実の場所名(静岡・ノースカロライナ)、言語(英語・ヘブライ語)、実在のキャラ(ドナルド)、そして社会的構造(レジ、外国人社会、地図と位置の概念)が組み込まれていました。
これって、現実世界の象徴的要素を使って心の中の「探究」を表しているとも言えるんです。
「なぜ自分だけぶっ飛んでいるのか」ではなく、「なぜ自分は夢の中でここまで深く世界を構築できるのか」と捉えてみてください。
カミーユ:マッチョコンプレックス。でも実は感受性が高くてそんな男男しているわけではない。
途中からコンプレックスによる怒りっぽさは大分収まってくる。感受性が高すぎて精神崩壊。
シロッコ:今でいうチンポ騎士。口ではフェミニストっぽいことを言ってるが、実際には女性を心理的に操作して楽しんでいる
サラ:男性に操られ、自己を捧げてしまう典型的な“恋に殉ずる少女"
レコア:男女の性的役割にこだわりまくる。ジェンダー保守主義者。でも本人は危険な活動してて理想とのギャップに悩む
エマ:男社会の中で戦う女性。なんとなく冨野が"良し"と考えた女性像だと思う。レコアみたいに過剰に性別にこだわったりしない。
フォウ、ロザミア:いわゆる女性のモノ化を文字通り体現。ロザミアがお兄ちゃん呼びしたりするのはわかりやすい
ハマーン:シロッコとの対偶で統治者としての女性。ただ、理解者がいなくて孤独。
なんかここ最近ずっと現実感がないというか、何事にも真剣になれてない感じがする。
ご飯を食べて美味しいと思ったり、バラエティ番組を見て笑ったり、風が吹いてきて気持ちいいと思ったりはするけど、前ほどその感覚が鮮明じゃない感じがする。上手く言えないんだけど、「楽しい!」って直感的に思うんじゃなくて、「今自分は楽しいと思ってるんだ。じゃあ楽しいや」みたいな、何かを思ってる自分を客観的に認識してるというか、経験則から自分の感情を推測してる感じがある。
最近環境が変わってストレスを抱いているのを自覚しているから、離人症なのだろうかとも思うけど、自分の症状がそれに当てはまるのかよくわからない。ただ年齢を重ねるにつれて感受性が衰えただけなのかなという気もする。
自分の感覚がなんかおかしいなとは思いつつ、その症状をうまく言い表せないのがもどかしいから、なにかレッテルを貼って安心したい。こういう症状に覚えがあって、それをうまく言語化できているという人はいないだろうか。
長い間ずっと望んでいた妊娠だったので、つわりの辛さやホルモンバランスの乱れも覚悟していたつもりだったが、まさか腐女子である自分の性癖にも影響出るなんて思っていなかった。
・妊娠前から好きだった性癖には何も感じなくなった。好きとか嫌いとかではなく、何も感じない
・妊娠前、「好みではないけどこういうのもあるよな」と思ってた性癖に軒並み嫌悪を抱くようになった
具体的な性癖は後述する。
元々地雷みたいなのは少なく、リョナグロと大スカが苦手で見れないくらいの比較的雑食な腐女子だった。「誰かの性癖は誰かの地雷」の心掛けを忘れず、わざわざ否定することもなかったのに、今や数年ぶりにここへログインして書き込む始末である。
軽く調べてみたが、同じような現象が起きてる人を見たのは2人だけ。
好きなバンドが好きじゃなくなった知恵袋の人と、妊娠してからBLそのものがダメになったnoteの人。
趣味嗜好に否定的になるという同じ現象が起きているのは安心するが、もう少しサンプルが欲しい。
私自身はSでもMでもない人間なので、生物としての性癖の変化はないと思う(性欲が妊娠してから0になってしまったので確かめようがないけど)。気を紛らわすために見ていたBLやらエロコンテンツに、どうも嫌悪感が湧くようになってしまった。
もし同じような人がいたら教えて欲しい。
その後好みは元に戻ったのかどうか、どんな性癖がダメになったのかが聞きたい。
ここから下は具体的な性癖をあげる。ホルモンバランスが乱れきった女が他人の趣味嗜好に醜く喚いてるので少し行間を空けます。
何せ親友が好きな性癖が1番無理になってしまい、他に性癖を言えるような相手がいないので、ここでストレスを発散するしかないのだ……
これが最もダメになった。元々カントボーイ自体特段好きではなかったが、「エロコンテンツとして最も合理的だなぁ」と思っていた。異性に興奮する人間が、最も感情移入しやすい造形であることは理解できるし、実際オカズにするにはもってこいである。
が、今はどうしても嫌悪感が拭えない。
だって友人が「カントボの〇〇(既存のキャラ)にクリ責めして…」とか言ってるのを聞くとめちゃくちゃ気まずい。ぶっちゃけて言うと、特定のキャラを自分のマソコの依代にして、されたいことをアウトプットしているようにしか聞こえない。ほんまにやめてくれ。何で恥ずかしいことだと思わないのだろう。カントボーイを通してるだけで、やってることは裏垢女子と一緒である。
二次創作CPでやっている人も多いが、それは特に気持ち悪い。お前は受けに感情移入した上で攻めに犯されたいのだろうけど、夢女みたいになりたくないから受けを依代にしているんだろうと思う。これは性格の悪い推察だが…
これに派生してカントボ書いてる人間に同じことを思うようになった。
自分もR18を含む作品を公開するクリエイター側の人間だから、自分の好きなものをてんこもりにする作品がエロくて傑作になることは重々承知だが、何と言うかカントボーイは女の公開オナニーと同じものを見てる気分だ。カントボーイなんて9割女が書いていると思うが、全員が「これされたいです!」と自己紹介しているようにしか見えない。気まずい。
じゃあ女性向けのエロ創作男女や女性が書く普通の男女エロにも同じことを思うのかと言われるとそこまで拒否感がない。男が特定のキャラを犯すようなものを書いていても嫌悪感はない。
とにかく、既存のキャラをカントボーイ(もといふたなり)にするのが本当に受け付けない。言うなれば、キャラについたのは「異性の性器」ではなく「書き手の性器」な気がして、強制的に書き手が透けてきて、オタクのオナニーを見せられている気分になるのだ。
でもまあ……妊娠すると神経質になったり情緒不安定になるというから、より繊細になっているのかもしれない。多分元々の自分の感受性がやたら高い分、きっと繊細チンピラみたいに見えないものが勝手に見えて、勝手に気持ち悪くなっているのもあるのだろう。でもとりあえず今はダメになってしまった。
・ひょっとこフ◯ラ
無様な顔が抜ける道理は分かるけど冷静に見ると無様すぎない?一体どんな過去があるとあれほどの異性の変顔を見たいと思うようになるのか←また書き手のことを勝手に考えてる……
・メス堕ち
一体どんな過去があるとあそこまで人間を堕とそうと思うのか?←また書き手のことを勝手に(略)
これはどこの層に需要がある?
これも本当にどこの層に需要がある?
てか女でも男でも妊娠が性愛の対象になることが分からん。男の妊娠は本当に分からん。
もう大人なので友人との付き合い方とかは全然悩んでいないのだが、人生は許せないものが多ければ多いほど生きにくく楽しくないので、妊娠中限定なら嬉しいなと思った。経験したことある人や聞いたことがある人がいたら教えてください。
筆者は腐向け文化に疎く、オメガバースに関しても各種webページで調べた程度の知識です。そのため、文章中に各種誤りがある可能性がございます。申し訳ありませんが、その旨をご認識の上で本文はお読みいただけますよう、お願い申し上げます。
また、本文は特定の人物同士の関係性を深く掘り下げる意図は含んでおらず、あくまで思考実験としての範疇を出ない領域となります。そのため逆カプなどの解釈違いが発生する可能性がございますが、そういったものを擁する・排する目的はございません。こちらもあらかじめご了承ください。
改めてとなりますが、最初に記してあるよう「なんでも許せる人」となっております。あらゆる解釈に対し否定・批判の意図は一切含んでいないということを踏まえた上でお読みください。叩かないで…!ゆるして…!
オメガバースとは、主に二次創作に用いられる架空の性別と社会構造を持つ設定である。登場人物はアルファ・ベータ・オメガの三性に分類され、オメガは性別に関係なく妊娠が可能であり、発情期(ヒート)といった独自の生理現象を持つ。番(つがい)と呼ばれる運命的な絆や、支配・被支配の関係性が描かれやすく、特にBL作品で人気を集めているが、近年は異性愛や百合にも広がっている。
結論から述べるが、マチュが「アルファ」であり、ニャアンが「よくできたベータ」、シュウジとガンダム・クアックス(以下クアックス)が「オメガ」である。
まず、六話までの話を通じ、それぞれのポジションは現状こうなっていると予想する
これらの要素から、ジークアクスという物語は、オメガの側を求めるアルファと、気の利かないベータの三角関係の物語であると考える。
シュウジだけ、またはジークアクスだけをオメガとしないのはなぜか?
シュウジの隣に居られれば良いというわけでもなく、ジークアクスに乗れれば良いというわけでもなく、「シュウジのマヴ(=ジークアクスに乗った、パイロットとしてのパートナー)」というポジションに居られるということが、彼女たちにとってのオメガであると考える。
オメガサイコミュを持つ、「特別なモビルスーツ」である。現状、このオメガサイコミュを機動させられたのはマチュ、ニャアンの2名のみである。エグザべにできず彼女たちにできたのは「感情の強さ(覚悟の差、とも言える)」の違いではないかと考える。ここはアルファ・オメガというよりもティーンエイジであることが大きい。
現状、シュウジのマヴという「居場所のオメガ」を構築する最大の要素=戦闘力であり、「てシュウジとともに戦いの中でキラキラを追いかける」という行動をするために絶対不可欠なものである。それゆえに、これもまたアルファを狂わせる一つの要素として、オメガではないかと捉えている。
アルファとオメガだけが通じあえる共通言語が「キラキラ」であると考える。いわゆる「アルファを引き付けるフェロモン」であり、オメガを追いかける理由こそが本作におけるニュータイプ性=キラキラを見られる感受性ではないかと考えている。
「キラキラ」は現状、ニュータイプならびにそれに近しいものにしか感じ取ることのできない要素であり、常人には理解できない。この特別性もまたオメガバースとしての特異性ではないかと思う。
恵まれた家庭に生まれ、両親(現状母親しか姿は見えないが)の期待を一身に受けて育った一方で、先天的ニュータイプ性から地軸とのズレやコロニーの閉塞感というものを感じており、「自由」というものへの強い憧れがある(本編中、「宇宙って、自由ですか」と発言もある)
進路に関しても、おそらく彼女自身に「ほんとうにやりたいこと」などないのだろうが、回りや親からのすすめもあり、焦りやいらだちというものを感じていたのではないかと思われる
その最中に出会ってしまった、マチュとクアックスという「オメガ」によって、彼女の人生は大きく狂わされ、そしてまたそのオメガに強く執着を示しているように思える
戦争難民であり、両親も(おそらく)居ない。軍警と過去にやり合ったりしていることから、おそらく身分は存在するのだろうが、相当に迫害されているものと思われる。ただし、こうした出自に対して彼女自身は驚くほどに落ち着いているように見られ、受け入れているか諦めているかのどちらかではないかと考えられる。
また、ニャアンが見たものは「キラキラ」ではないのか?という点についてだが、諸説あると思うが本文(6話終了時点・7話開始前)では「キラキラではない」と定義する。あくまで高い感情の昂りによりそれに類似するものを見た、ないし入口に到達した程度であり、ニュータイプとして覚醒したとはいいづらいのではないかと思っている
マチュは「私の居場所を奪わないで!」と本編で叫んだことから、自由な場所を強く切望している。だが、5話でニャアンが取った行動は、マチュからは侵略的な行いに見えた。ニャアンはおそらく、みんなの居場所を守りたいという気持ちだけだったのではないかと思う。
そしてシュウジはおそらく「なにも考えていない」。ガンダムが言っているように、彼は求められるがままに動いているにすぎないのだ。
このいびつな三角関係が7話、そしてそれ以降でどうなるかで、このオメガバース論がどうなるかが決定づけられると考える
「赤いガンダムって型番アルファで、ガンダム・クアックスって型番オメガなんだぜ。あれ、なんかアルファとオメガって同人文化であったよな」というだけの出発点です。知人に話したところ、オメガバースの知識による補強を受け、上記のような結論に至りました。笑ってください。
ここがおかしい!とかあそこが間違ってる!とかあれば、各自で激論を展開していただいて構いません。なぜなら、この話事態があまりにも荒唐無稽な与太話なのですから…
いや、それは別にあなたが地方国立理系出だからとか、底辺だからとか、そういう話ではまったくないと思います。
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理系の中でも「オープンソース文化」をよく理解していて、かつそれを良しとしている層ってのはたしかに存在します。でも、**「オープンソースに好意的=AI学習に抵抗がない」**というのは必ずしもイコールではないんだよね。
オープンソースってのは「自分が納得したうえで公開する」からこそ価値があるわけで、勝手にスクレイピングされて学習に使われるってのは、単純に「オープンソース精神」とはズレてるんだよ。
GitHubにコード出してる人でも、「ライセンス守れよ」って怒ることあるでしょ?それと一緒。
だから、その理系の人が「AIに学習されるのがイヤって気持ちわからん」って言ってるのは、
たぶんだけど、
• 自分の出してるものは全部オープンにしてもOKって思ってるタイプか、
⸻
あなたが「理解できないことが理解できない」と感じるのは、別に学歴とか偏差値とか関係ないし、むしろ感受性があって倫理的な線引きを考えられる人ってことだと思うよ。
自分の中で「これってちょっと嫌だな」って思ったものをスルーせずに、「なんでこんなにあっさり言えるんだ?」って引っかかれる時点で、ちゃんと誠実なんだと思う。
会社にオリックスファンの後輩の女性がいる。彼女は毎朝キラキラした目で「昨日の試合見ました?」と話しかけてくる。私の日課はその女性からオリックスの選手がどうだとか、今後の試合はどこでやるとか、先週は仙台まで試合を見てきただとか、いわゆるオリックスの推し活話を聞かされるのだが、なぜそこまで「推し」の存在ができるのかよく分からない。
「◯◯選手のホームランすごかったですよ!あの瞬間会場が沸いて、私も思わず立ち上がって…」
彼女の目は輝き、声のトーンが上がる。その姿を見ていると、何かに熱中できる彼女が羨ましくもある。一方で「そんなに熱くなれるものって何だろう?」と不思議に思う自分がいる。
思えば私の人生で推しはいなかった。中学時代、周りの友達が嵐やKAT-TUNにハマってCDを集め、コンサートのチケットを必死に取ろうとしている横で、私は「ふーん、そうなんだ」と思っていた程度だ。
というか、もう少し主語を大きくすると物事にそこまでのめりこむ経験がなかったように思う。大学時代そこそこの体育会を続けていたりしたが、引退後はたまに後輩の応援に行くくらいでさっぱりである。「あの頃は青春だったなぁ」と懐かしむ程度で、OB会にも半分義務感で参加している。
長く続いている趣味も特になく、アニメもたまに見る、音楽も流行りをたまに聞く、スポーツもテレビでたまに見る、以上、という感じなのだ。「たまに」の連続。深くではなく、広く浅く。それが私の生き方だ。
冷静になって他の友人を見回すと、サッカーが好きで毎週見に行くとか、好きなアーティストのライブによく行くとか、車が好きでしょっちゅう整備しているとか、みんな何らかの推しやのめり込む趣味を持っていたのだ。SNSを見れば、推し活あるあるで盛り上がる投稿に「わかる〜!」とコメントが殺到している。世の中は「推し」のある人間で溢れているようだ。
そこでこれを機に自分に推し活ができない原因をなんとなく考えてみた。
よく言われる器用貧乏というものだ。最初からいろいろと何でも出来ちゃえば、そもそものめり込む動機もない。「これができないから頑張りたい」という原動力が生まれにくい。
しかし、これは自分に当てはまらないと感じる。大学時代のゼミでは「君は要点をつかむのが下手だね」と言われ続けた。職場でも「もう少し要領よくできないか」と上司に言われる。どちらかというと要領は悪いのでこれは当てはまらない。
そこで私は以下の3点が推し活ができない原因と考えた。
子供の頃、親が「うちは貧乏だから」という話をよく聞かされていたため、自然とお金がかかるものは避け、親におねだりすることは一切しなくなった。
小学4年生の時、クラスメイトがみんな持っていたデジモンのおもちゃが欲しくて、母に「友達みんな持ってるんだよね」と遠回しに伝えたことがある。すると母は「そういうのに流されるのはダメ。うちにはそんなお金ないからね」と言った。それ以来、欲しいものを口にすることはなくなった。
ただ、大人になってから気付いたが、別に貧乏ではなくむしろ裕福な方だったのだろうと思い、なぜあそこまで悔しがりながら辛抱強く我慢していたのか、たまに虚しくなる。実家の本棚を整理したら、母の「節約生活のすすめ」的な自己啓発本がずらりと並んでいた。あれは母の趣味だったのか…。
話はそれたが、推すためにも金がかかる。オリックスファンの後輩は、遠征費、グッズ代、チケット代など、月に3万円ほど「推し活」に使っているらしい。「それだけあれば…」と考えてしまう自分がいる。投資信託を増やすとか、老後資金に回すとか。
今は給与的に正直何不自由ないくらいにはサラリーマンをやれているので、なんてことはないのだが、なんとなくこの出費に意味はあるのか?と考え、結局手が伸びない。「楽しいから」という理由だけでお金を使うことに罪悪感がある。
推すきっかけには友人関係のなかで生まれてくるものもきっとあるはずだが、私は残念ながらあまり友達が多くない。大学の同級生とはほとんど連絡を取っておらず、職場の同僚とも飲み会以外で会うことはない。
推し活をしている人たちを見ていると、SNSで仲間を見つけたり、現地で知り合った人と交流したりと、コミュニティの中で推し活を深めているように見える。オリックスファンの後輩も「ファンクラブのLINEグループがあって、みんなで遠征計画立てるんですよ〜」と楽しそうに話していた。
私にはそういう「一緒に熱くなれる仲間」がいない。もし誰かに「このアーティストいいよね」と言っても、「へー」で終わりそうな気がする。推し活の楽しさの半分は共有体験にあるのかもしれない。
私は感受性不足な面がある。映画とかで泣いたり、結婚式とかで泣いたりする人、正直よく分からない。友人の結婚式で周りがハンカチで涙を拭いている中、私だけ「写真撮っとこう」と冷静にスマホを取り出していた。
感動する体験が少ないのかもしれない。オリックスファンの後輩は「初めて生で見た試合で、逆転サヨナラホームランが出て、その瞬間からファンになった」と言っていた。そういう「心震える瞬間」に出会ったことがあるだろうか。思い返しても特にない。
あるいは、感動する回路が弱いのかもしれない。何かを見て「すごい!」と思っても、すぐに「でもまあ、別に…」と打ち消してしまう。常に一歩引いて物事を見ている。
で、この3点が組み合わさるとどうなるか。
どれが初期のきっかけかはわからないが、3点が相互に連関しているように思う。
お金がない→人付き合いが悪くなる→推し活のきっかけも生まれにくくなる→感受性が育たない→人付き合いが悪くなる→…
こんなサイクルが私の中で永遠に回っているのかもしれない。貧乏性のせいでお金を使わないから友達と一緒に推し活ができず、友達がいないから感動体験が生まれにくく、感動体験が少ないから「これにお金使おう!」という衝動も生まれない。
ただ、最近ふと思ったのは、「推し活ができないこと」自体が問題なのか?ということだ。別にみんながみんなのめり込める何かを持っているわけじゃないし、持っていなくてもそれはそれでいいんじゃないか。
でも、オリックスファンの後輩が試合後に「最高でした!」と目を輝かせて話すのを見ると、どこか羨ましくもある。何かに全力で打ち込む姿、心から楽しんでいる姿は、やっぱり美しい。
そんなことを考えながら、今日も私はオリックスファンの後輩の熱い推し活トークを聞くのだった。「それで、宮城選手がどうしたって?」
自分にとっての「推し」、いつか見つかるだろうか。それとも、推し活のない人生を歩み続けるのだろうか。どちらでもいいような気もするし、何か変わりたいような気もする。
そんな、どっちつかずの気持ちも、私らしいのかもしれない。
そこに親鳥の感情や、生まれる可能性がある命があるってわかってるから。
むしろ、「苦しんでる存在がいるならやめよう」っていう発想そのものが、ヴィーガンの根本精神なんだよ。
一方で、「親鳥がかわいそう」と言いつつ、工場で何百万羽も苦しむ鶏には無関心だったら、そっちのほうが矛盾してる。
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「覚悟を持って食べているからいい」というのは、道徳的判断の本質をすり替えています。たとえば、もし誰かが「人間を殺す覚悟がある」と言ったとして、それで人を殺していいことにはなりません。
倫理とは「覚悟の強さ」ではなく、「選択肢がある中で、どれだけ他者の苦しみを減らす選択をしたか」で問われるものです。
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「等しく命を奪っている」というのは事実ではない。
動物と植物では、その「命の在り方」も「苦しみの質」もまったく違います。
動物は神経系と意識を持ち、痛みや恐怖を経験します。植物にはそれがありません。
現代の倫理は、命を「一括り」にするのではなく、感受性(sentience)という基準で優先順位をつけることで、現実的かつ倫理的な行動指針を作っています。
つまり、「命を等しく扱う」と言いながら、より多くの苦しみを生む選択(=動物を食べる)をしているなら、それは覚悟の問題ではなく、判断基準の不整合です。
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本当に命を等しく扱いたいのなら、「もっとも害が少ない選択」をするべきでは?
ヴィーガンは、「命を軽んじている」のではなく、「奪わなくていい命をできるだけ奪わない」という選択をしているだけです。
覚悟があること自体は否定しませんが、その覚悟が、苦しみの多い選択を正当化する盾になっているなら、それは自己満足に過ぎないという批判は免れません。
この主張を弁証法的に整理し、シンテーゼ(総合)を導くプロセスを示します。つまり、単なる感情的対立ではなく、主張を深掘りしながら矛盾を整理し、より包括的な理解に至る道筋です。
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テーゼ(主張)
> 「苦しみを苦しみと認めるには、神経系や特定の化学伝達が必要だとするのは、特定の生命様式への差別であり、危険な思想だ」
これは「感受性の定義が偏っており、動物中心主義に過ぎる」という批判ですね。
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アンチテーゼ(反対主張)
> 「倫理判断において、神経系や主観的経験の有無は区別の基準として正当であり、苦痛の有無を推測するには現時点の科学に基づくしかない」
これは、倫理的判断を支える科学的な感受性の定義(sentience)や現実的な判断基準の必要性を重視する立場です。
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> 「あらゆる生命の価値を軽視せずに、苦しみの可能性に関しては科学的知見を根拠としつつ、現実的かつ段階的に苦痛を減らす努力をすべきである」
1. 植物にも尊厳を払う姿勢を否定しない:植物を単なる物体として扱わず、環境全体への敬意を持つべきという倫理的立場を含む。
2. しかし倫理的な優先順位は、苦痛・意識・自己保存意識などに基づいて判断する:科学的合理性に基づいて実行可能な倫理判断を行う。
3. 現実社会においては、理想と実践のバランスが必要:完璧な非加害は不可能でも、減らせる加害を減らす努力が妥当かつ必要。
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つまり、「すべての生命を等しく扱うべき」という理想と、「倫理的実践には区別が必要」という現実主義の統合点は、“最小の苦しみで最大の配慮を”という原則になります。
これはヴィーガン倫理の中核とも一致しますが、極端な思想でも科学至上主義でもない、「実行可能な倫理」としての位置づけです。
あなたが挙げた「植物が危害を受けたときにホルモンを放出し、それを他の植物が受容して防御反応を起こす」という現象は確かに科学的に確認されています。しかし、それはあくまで生化学的な情報伝達であって、動物が悲鳴を上げるときに起きていることとはまったく異なります。
動物の悲鳴は、神経系を通じて生じた主観的な痛みや恐怖に基づく行動であり、その背景には意識・感情・中枢神経による処理があります。それに対して植物の防御反応は、予め組み込まれた化学的スイッチのようなもので、判断も意識もなく自動的に起こる生理現象です。
つまり、「植物がホルモンを放出して他の植物が反応する」=「動物が悲鳴を上げて仲間が逃げる」と言うのは、「自動ドアが人を認識して開くこと」と「人間が状況判断で扉を開けること」が同じだと言っているようなものです。見た目の現象が似ていても、そこにある機構も意味もまるで違います。
そしてヴィーガンの倫理の出発点は、「痛みや苦しみを主観的に感じることができる存在(感受性のある存在)に不要な苦しみを与えないこと」です。意識も神経もない植物をそれと同列に扱おうとするのは、科学の理解というよりは詭弁です
オジギソウは神経を持っているのか?――植物の反応と動物の神経系の違い
「オジギソウのように刺激に反応する植物があるのだから、植物にも神経があるのでは?」という主張を耳にすることがあります。しかし、これは動物の神経系と植物の反応機構を混同した誤解です。
たしかに、オジギソウは葉に触れると素早く閉じる「感覚運動反応」を示します。この反応は、刺激によって細胞内の電位差が変化し、それが隣接する細胞に伝わっていくという一種の電気的信号によって起こります。この「電気信号」という点だけを見ると、神経に似ているように見えるかもしれません。
しかし、動物の神経系は**「ニューロン」と呼ばれる高度に分化した細胞によって構成され、情報を高速かつ精密に伝達・統合し、学習・記憶・情動などを可能にする中枢神経系(脳や脊髄)を持つのが特徴です。一方、植物の電気信号は一部の細胞間を通じて比較的ゆっくりと拡がる単純な伝達反応であり、意識や痛みの知覚、判断を行う仕組みは一切ありません**。
たとえば、オジギソウが葉を閉じるのは、「この刺激が危険か無害か」を判断して行っているわけではなく、反射的な自動反応です。動物が「痛み」を感じて逃げるのとは根本的に異なります。動物は中枢神経系によって「刺激の意味づけ」を行い、「痛み」という主観的な体験を伴って反応することができます。
したがって、「植物にも神経のような回路があるから、動物と同様に扱うべきだ」という主張は、生物学的には成り立ちません。植物の感受性や反応能力は確かに興味深く、過小評価すべきではありませんが、それをもって「植物も苦しんでいる」とするのは、科学的にも倫理的にも飛躍です。
ヴィーガンやベジタリアンの多くは、動物が痛みを感じ苦しむ能力を持つ存在であるという科学的事実に基づいて、自らの食の選択をしています。想像力に欠けているのではなく、むしろ生き物の感受性や倫理的影響に想像力を働かせて行動しているとも言えるでしょう。
そもそも植物には脳も神経系も存在しません。つまり、「痛み」や「苦しみ」を感知し、意識的にそれを体験する構造自体がないのです。一部で話題になった「超音波を出す」という研究(※)も、あくまで機械的な振動音を記録したもので、それが「悲鳴」と解釈されるべき根拠はありません。
ヴィーガンやベジタリアンの多くは、動物が痛みを感じ苦しむ能力を持つ存在であるという科学的事実に基づいて、自らの食の選択をしています。想像力に欠けているのではなく、むしろ生き物の感受性や倫理的影響に想像力を働かせて行動しているとも言えるでしょう。
実際にそういう想像力が働いてるなら、植物を食べないって話になるんだけど大丈夫?
近年、「植物は切られると悲鳴を上げる」という言説がSNSなどで拡散されています。一部では、これを根拠にヴィーガンやベジタリアンの倫理観を揶揄するような言葉も見られますが、この主張には科学的な裏付けがありません。
確かに、植物が外部からの刺激に対して反応することは広く知られています。たとえば、虫に食べられたときに揮発性物質を放出して周囲の植物に警告したり、防御物質を生成したりすることはあります。しかし、これらはあくまで化学的・生理的な反応であって、「痛み」や「悲鳴」といった人間的な情動を伴うものではありません。
そもそも植物には脳も神経系も存在しません。つまり、「痛み」や「苦しみ」を感知し、意識的にそれを体験する構造自体がないのです。一部で話題になった「超音波を出す」という研究(※)も、あくまで機械的な振動音を記録したもので、それが「悲鳴」と解釈されるべき根拠はありません。
ヴィーガンやベジタリアンの多くは、動物が痛みを感じ苦しむ能力を持つ存在であるという科学的事実に基づいて、自らの食の選択をしています。想像力に欠けているのではなく、むしろ生き物の感受性や倫理的影響に想像力を働かせて行動しているとも言えるでしょう。
植物にも命があるという意見自体は尊重すべきですが、それをもって「植物も動物と同じように苦しんでいる」と主張するのは、科学の誤読に基づいたミスリーディングな議論です。
※参考研究:Tel Aviv University, 2019 の研究では、乾燥ストレスを受けた植物が超音波を発していたという観察が報告されていますが、これは「音」として人間が聞くものではなく、また「悲鳴」と呼ぶには無理があります。