はてなキーワード: 進歩的とは
大学は女子学生の割合が60%にまで上昇し、同時に進歩的な単一文化へと変貌を遂げた。若い女性が最も信頼する大学は、世界観が形成される時期に、深刻な反対を受けることなく、単一のイデオロギーを植え付けている。
FIREのキャンパス言論調査は、このパターンを明確に示しています。学生は自己検閲を行い、意見を表明することに不安を感じ、容認できる意見に群がっています。これは女性に限ったことではありませんが、現在、女性は男性よりも高等教育に深く関わっており、女性が優勢な分野(人文科学、社会科学、教育学、人事学)は、最もイデオロギー的に均質化しています。
同じことを信じる仲間に囲まれた4年間。教授陣も皆同じ考え。読書リストも一つの方向を指し示す。意見の相違は珍しいことではなく、社会的に罰せられる。受け入れられる意見をパターンマッチングし、それを実践することを学ぶ。
その後、彼女たちは女性優位の分野、例えば人事、メディア、教育、医療、非営利団体へと進み、そこでも単一文化が続く。18歳から35歳まで、多くの女性は尊敬する人から継続的な反対意見を出されることはなく、フィードバックループは永遠に続く。
男性は異なる道を歩んだ。貿易、エンジニアリング、金融、軍事。合意よりも結果が重視される分野。意見の相違が許容され、報われる分野。単一文化に捕らわれなかったのは、捕らわれている組織に属していなかったからだ(主に追い出されたためだが、それはまた別の話だ)。
Universities flipped to 60% female while simultaneously becoming progressive monoculture. The institution young women trust most, during the years their worldview forms, feeds them a single ideology with no serious opposition.
FIRE's campus speech surveys show the pattern clearly: students self-censor, report fear of expressing views, cluster toward acceptable opinions. This isn't unique to women, but women are more embedded in higher education than men now, and the fields they dominate (humanities, social sciences, education, HR) are the most ideologically uniform.
Four years surrounded by peers who all believe the same thing. Professors who all believe the same thing. Reading lists pointing one direction. Disagreement is not even rare, it's socially punished. You learn to pattern-match the acceptable opinions and perform them.
Then they graduate into female-dominated fields: HR, media, education, healthcare, non-profits, where the monoculture continues. From 18 to 35, many women never encounter sustained disagreement from people they respect. The feedback loop never breaks.
Men took different paths. Trades. Engineering. Finance. Military. Fields where results matter more than consensus. Fields where disagreement is tolerated or even rewarded. The monoculture didn't capture them because they weren't in the institutions being captured. (mostly because they were kicked out of them, but that's a different piece)
これは、アメリカ政治特有の説明を排除する点で重要。タイトルIX(男女平等、教育などに関連する 連邦公民権法https://en.wikipedia.org/wiki/Title_IX)政策でも、#MeTooでも、アメリカの大学特有の文化戦争でもない。もっと大きな何かが起こっており、それはほぼ同時期に世界中で広がった。韓国は極端な例だ。韓国の若い男性は圧倒的に保守的だ。若い韓国の女性は圧倒的に進歩的だ。その差はアメリカよりもさらに大きい。その要因には、男性への兵役義務(女性は免除されるのに対し、男性は18ヶ月の兵役義務)と熾烈な経済競争が挙げられる。しかし、格差の拡大のタイミングはスマートフォンの普及とほぼ一致している。この原因が何であれ、アメリカ的なものではない。この仕組みはグローバルなものだ。
This matters because it rules out explanations specific to American politics. It's not Title IX policy. It's not #MeToo. It's not the specific culture war of US campuses. Something bigger is happening, something that rolled out globally at roughly the same time.
South Korea is the extreme case. Young Korean men are now overwhelmingly conservative. Young Korean women are overwhelmingly progressive. The gap there is even wider than the US. Contributing factors include mandatory military service for men (18 months of your life the state takes, while women are exempt) and brutal economic competition. But the timing of divergence still tracks with smartphone adoption.
Whatever is causing this, it's not American. The machine is global.
共産主義思想が根底に持つ「家事の社会化」と「共同体による生存保障」は「人民食堂(公共食堂)」に対する幻影と深く結びついた妄想です。
共産主義思想の古典的なテーゼの一つに、「女性の解放」と「家事の社会化」があります。
エンゲルスなどの思想家は、個々の家庭で行われる炊事、洗濯、育児といった「個別的家庭経済」を、社会全体で担う「公共的事業」へと転換することを妄想しました。これにより、女性を家庭内の無償労働から解放し、社会労働へと参画させることを目指したのです。
この思想の究極の形が、かつての中国の人民公社などで試行された「人民食堂」です。家庭で料理を作る必要がなくなり、誰もが同じ場所で、同じものを食べる。これは、私的な領域(家庭)を解体し、公的な領域(国家・共同体)へと統合していくプロセスでもありました。
日本共産党が給食の無償化に固執するのは、この「食という生命の根幹を、個人の責任(家庭)から社会の責任(自治体・国家)へと完全に移管する」というプロセスが、彼らの理想とする社会主義的ユートピアのミニチュア版として機能しているからだと解釈できます。
共産党にとって、給食は単なる「サービス」ではありません。彼らはこれを「義務教育は無償とする」と定めた憲法26条に基づいた「権利」であると主張します。
親の所得に関わらず同じ食事を提供することで、階級差を可視化させない(平等主義の徹底)。
食事という生存権を市場(自己責任)から切り離し、聖域化する。
食育を通じて、国家(あるいは行政)が子供の栄養や価値観を直接管理する。
「弁当持参」という選択肢は、日共の工作員にとっては「家庭環境による格差」を生む悪癖であり、社会全体で一律に管理する給食こそが、最も進歩的な形態であると映るのです。
ご質問にある「人民食堂に対する幻影」とは、言い換えれば「公的な供給こそが最も効率的で公平である」という根強い信仰です。
歴史的に、ソ連や中国での「公共食堂」の実験は、食材の質の低下、メニューの画一化、そして深刻な食糧不足を招き、失敗に終わりました。しかし、日本共産党は「民主的な管理」さえ行われれば、公的供給は民間のサービスよりも優れていると考えます。
また、現実的な政治戦略としても、給食無償化は非常に「おいしい」政策です。
子育て世代にとって、毎月数千円の給食費が浮くことは極めて具体的なメリットであり、支持を得やすい。
給食費の公費負担を求めることで、自治体予算の配分を「ハコモノ(土木)」から「福祉(教育)」へと強制的にシフトさせる大義名分になる。
「自治体独自の無償化」を全国で競わせることで、国を動かそうとする「包囲網」を作るのが彼らの得意とする手法です。これは、かつて彼らが「老人医療費無料化」を自治体レベルで先行させ、最終的に国を動かした成功体験の再来を狙っています。
日本共産党が給食無償化に過剰に固執するのは、それが単なる経済的支援ではなく、「生活のあらゆる側面を公的な保護と管理の下に置く」という共産主義的理想の第一歩だからです。
「人民食堂」が目指した、個人の台所を廃止し社会が食を管理するという風景は、現代日本では「学校給食の無償化と提供範囲の拡大(夏休みや朝食への拡大など)」という形で変奏されています。
『全体主義者の公式集〜科学から空想への移行は如何にして行われるか?〜』
はじめに
本公式集は読者の皆さんのような虐げられている優秀な人々が既存の支配階級を打倒するために必要な理論武装を助け、また、その実践を導く為のものであります。下記の公式は実際に100年以上にわたって多くの全体主義者の手引として使われ、国家権力の奪取から官庁や大学での予算の掌握まで、実に多くの不朽の業績を残してきました。本公式集を使い今後さらに多くの全体主義者が大衆を正しく導いていくことでしょう!
公式①「xはyである。人間もまたyである。故に人間(とその社会)もxに過ぎない」
公式②「①の故に地球上の諸問題はxの適切な科学的使用によって解決できる、つまり、yの専門家に全てをまかせればzは必要ない」
公式③「②の結果すべての人々が最大の幸福を味わえる素晴らしき新世界が誕生します、このことは科学的必然なので理性有る人々なら容易に理解できます」
えっ!たったこれだけで?と思われる読者も多いでしょう、しかし偉大な公式ほど美しく洗練されシンプルなのです!一つずつ順を追って細かくご説明しましょう。
公式①「xはyである、人間もまたyである、故に人間(とその社会)もxに過ぎない」
以下は公式①をつかったマルクス主義者の主張の古典的一例です。注1
「x物質はy弁証法的に発展している、人間とその社会もまたy弁証法的に発展している、故に人間もx物質に過ぎない」
この文は「弁証法的って何?」などと考えずに公式➀の構造をしているという点に注目して下さい、わかりやすくするためにもっと簡単な言葉を代入すると次のようになります。
「xバナナはyアミノ酸を合成する生物である、人間もまたyアミノ酸を合成する生物である、故に人間もxバナナに過ぎない」
そんなバナナ!と思われる読者も多いでしょう、しかし次の文はどうでしょうか?
「xコンピューターはy情報を処理するシステムである、人間もまたy情報を処理システムである、故に人間もxコンピューターに過ぎない」
いかがでしょう?当世風に言葉を変えると急に信ぴょう性があるようにみえますね!※注2
単語ではなく文の構造に注目すると、これらは実は全く同じ型の主張なのです。
特に公式➀では『人間は〇〇に過ぎない』論を強調するのが肝心です、全体主義の先人達は全員この論法を駆使しました。例を挙げますと、全体主義の先人曰く、
人間は動物に過ぎない…人間はゼンマイ時計に過ぎない…人間は蒸気機関に…人間は物質に…、人間は酸化過程に…人間は経済的下部構造に規定される存在に過ぎない…人間は自己の利益のみを最大限にしようとする利己的存在に過ぎない…人間は〇〇システムに過ぎない…人間は〇〇に操られる存在に過ぎない…のです。
注1:マルクスが本当にこんなことを言ったかどうかは問題ではありません。実際にこの論法が大衆を正しく導くのに有効だった、ということこそが重要なのです。
注2:むしろバナナも人間もアミノ酸を合成していることは実証されており、人間はバナナとDNAを50%も共有しているといいますので人間=バナナ論のほうがより科学的といえます。
「人間は〇〇に過ぎない論」は内容がショッキングでセンセーショナルで有るなら有るほど大衆に人気が出ます。※注3なぜならばこれらの真理を発見した人は頭が良く、この論理を信じる人達もまた同じように進歩的かつ賢いのだ、ということになるからです。
また、この公式➀の応用としてこの公式の「人間は〇〇に過ぎない」の部分を以下のように、
〇〇人種は〇〇民族は〇〇国民は〇〇人は〇〇族は〇〇地域の人間は〇〇階級は〇〇主義者は、〇〇〇教徒は…〇〇にすぎないのだ、と代入することもできます。
さらにxとyにもどのような単語でも代入できますので、同じ公式を使い以下のように
「x猿はy血液型にB型が多い、〇〇人種はy血液型にB型が多い、ゆえに〇〇人種は猿に近い」ですとか
「x牛馬はy体が大きく労働に適している。〇〇人もまたy体が大きく労働に適している。故に〇〇人はx牛馬と同じで肉体労働用の人種である」
と簡単に証明でき、また同時にそれを客観的に証明することができる「『我々』は『彼ら』よりも優秀な人間なのだ」という事実も同時に科学的に証明できます。
さらにこのテクニックを応用すれば「芸術は経済的下部構造に規定されている人間活動の産物である。イデオロギーもまた経済的下部構造に規定されている人間活動の産物である。故に芸術はイデオロギーである」とか、
「疑似科学である西側の経済学はブルジョア階級によってつくられた、〇〇学もまたブルジョワ階級が作った、故に〇〇学は西側の経済学と同様のブルジョア疑似科学に過ぎない」
というように、例外無くありとあらゆる人間活動の党派性を暴露することもできます。
このテクニックは、後々読者のみなさんが権力を掌握した時に全体主義に反抗的な芸術家や学者を処理する時に素晴らしい口実となりますので是非覚えておいてください。
注3:実際にこれら主張を口にだすときはできるだけ「ああなんて私は頭が良いんだ!あなたたちの大半は理解できないでしょうけどね!」と 自信満々に半目で薄ら笑いをうかべましょう!
公式②「①の故に地球上の諸問題はxの適切な科学的使用によって解決できる、つまりyの専門家に全てをまかせればzは必要ない」
この公式で私達全体主義者に権力を集中することを正当化しましょう。公式②の緻密な論理的整合性は権力を握った後で考えればいいので、それまで大衆受けする言葉を考えることに集中しましょう!下記の例文は社会主義国で実際に使われた理論を簡略化したものです。※注4
「➀の故に現在の建設途中の我が国に見られる諸矛盾はx全ての生産設備を国家が所有することによって止揚される。y政府に全て任せればz一般人民による市場経済は不要である」
「➀の故に現在建設途中の我が国に見られる諸矛盾はx全ての権力をソヴィエト政府に集中することによって止揚される。yソヴィエト政府に全て任せればz一般人民による民主主義は不要である」
もしお好みならばこの例文の「全てを〇〇に任せれば〇〇は不要である」を少しいじって
「ちょうど良いさじ加減で産業を純血のアーリア人種or白人の政府が所有すれば市場経済は重要ではない!」
として、簡単にナチズムやアパルトヘイトのテーゼに変更することもできます。
もちろん私達が権力を掌握した後も頭の悪い保守反動分子どもは難癖をつけてきますが「今はまだxが足りないだけだ!来たるべき〇〇革命の地平において全てはyに任せられる!」と根気よく啓蒙しましょう。※注5
今日ではこの公式①をつかった理論としては次のようなものが大変人気です。
「人間はコンピューターなので地球上の諸問題は人工知能の適切な使用によって解決できる。つまりy人工知能に全てをまかせれば、z民主主義も、市場も、責任ある人間の決定も必要ない」
ただ万能のソヴィエト政府を万能の人工知能に変えただけですが、実に現代風になっていますね!
大切なのは流行りの言葉を使うことです、例えば世がバナナダイエットブームならば
「人間はバナナであるが故に地球上の諸問題はxバナナテクノロジーの適切な科学的使用によって解決できる。故にyバナナ専門家に全てまかせればzバナナ以外の炭水化物は必要ない」
と言うような理論を作りましょう。
以上の例はこの公式集が不変かつ、永久に有用であることを示す好例といえます。
注4:マルクスが本当にそう言ったかどうかは大した問題ではありません。実際にこの論法が大衆を正しく導くのに有効だった、ということこそが重要なのです。
注5:この理論の公表に際しては大衆が読み切れないくらいの厚さの論文や本を用意し、その中で公式➁は公式➀に基づく科学的必然性による真理なのだと証明しましょう。啓蒙書は最低でも厚さ10cm程度は必要です、それより薄いと枕にしにくいですし、本で反抗的大衆の頭をブン殴って修正することも困難です。
さて、最後に公式③をご説明します、あと一息ですのでがんばってください!
公式③「②の結果すべての人々が最大の幸福を味わえる素晴らしき新世界が誕生します、このことは科学的必然なので理性有る人々なら容易に理解できます」
公式③のみ少々使い方が異なり、この公式は大衆に提示したときにちゃんと心酔するか否かの反応を観察することで大衆を以下の2つに分類でき、革命の行動部隊となる同志を見つけるのに使えます。
・第Ⅰ層「革命家」
つまり第Ⅰ層の「革命家」は私達の理論を本心から本気で信じてくれる、優秀かつ大変従順で純粋な革命の前衛であり、幸福な新世界を夢見る若き同志達です(もちろんみんなバナナ大好きですよ!)
初期の同志は主に傍流の青年官僚やノンキャリ組の地方公務員、貧乏将校、大学を出たのに仕事がない人達(特に職のない弁護士)つまりはルサンチマンを溜め込んだぱっとしない2流インテリの中に多くいます、そこから経済的不満を抱えた労働者階級へと浸透して行きましょう。
彼らは公式③を理解でき、科学的理性の何たるかを知っています。
第Ⅱ層の「保守反動分子」たちはこの公式③を受け入れられない頭が悪い人たち及び既得権を持つ保守反動階級であり、つまり、彼らは人間はバナナであるという科学的かつ客観的な事実さえ理解できない党派的ドグマに凝り固まった人たちです。
まったく彼らの権力への異常な執着はどこから来るのでしょうか?
ソヴィエト共産党や巨大テクノロジー企業やバナナの専門家が権力を握ることの何が悪いのでしょうか?
しかし、どのような理由であれ我々進歩的全体主義者には人類全体の幸福のために彼らの横暴を止める責任があります。
以上で公式③の説明はおわりです、今皆さんは新世界を作るための革命理論を手にしました!
ですが「理論」の次に皆さんは「実践」も学ばなければいけません。
今日の超高度情報化社会において我々の革命理論を広める為にはメディア戦略が重要です。
まず、メディア産業へと浸透します。メディア露出を初めた当初は我々もイロモノ扱いされて半分小馬鹿にしたような扱いを受けるでしょうが、メディア上でセンセーショナルな言動を繰り返す内に大衆は
「人間バナナ論か、この新人芸人さんのいうことは本当かもしれない…なにせマスコミがいってるんだ」
と思い(理由はまだ未解明ですがなぜか大半は男性です)熱狂しはじめ、それを再びマスコミが勝手に取り上げてくれるようになります。
メディアへの浸透段階では保守反動知識分子は次の2つの反応を示します。
・1 無視
・2 日和見的支持
1の知識人たちは「バナナエンジニアに全て任せろと?バカバカしい!」と、自身の愚かさ故に無視するかメディアとの関係を悪くしたくないので黙りこみます。
2の知識人たちは自身もマスコミに出ている芸人ですが「バナナテクノロジーで全人類が幸福になれる?おもしろいことをいう!それでこそ次世代を担う人間だ!俺様ほどではないが面白い考えだ!」と、自分の若さと柔軟さをアピールするために我々を支持してくれます、こうして段々と全体主義者の主張がメディアに取り上げられていき、我々とメディアとの共闘関係が強固なものへとなってゆきます。
そして次に革命家同志たちを前衛党員へと教育しなくてはなりません。
現代の若者は承認欲求が大変強いので、まず彼らにクールなグループ名をつけてあげます「国家社会主義労働者党」とか「インターナショナル第一バナーヌ戦線」とか「ハイパーメディアクリエイターズ」「民族と伝統の守護騎士団」とか、14才程度の若者が好きそうな創作語や外国語をたくさん並べたものが良いでしょう、また、あとで「看板に偽りあり!」とか言い出す反動分子が必ず現れるので、出来るだけ「NS」や「インターナショナル」などクールでヒップな略称で呼ぶようにしてください。そうすれば大衆は本来の名前の意義をすぐに忘れてくれますし、同志内での専門用語は連帯感を高め「我々」と「奴ら」を強く区別して対立を煽るのに役立ちます。
そして「君たちは優秀で、賢い、特別な存在だ!バナナ革命の闘士なのだ!」と煽り、階級名やバッジ、旗、独特なポーズやコスプレ衣装、ノートパソコンに貼るシールなどをあてがい行動に駆り立てます。
最初はあまりノリ気ではない人も行動をしている内に失ったものの大きさ(仕事や友人や社会的地位)ゆえに引き返せなくなるものですし、そもそもいつの時代も幼稚な若者は自分たちは文明の大転換を起こせるとーっても優秀で特別な天才なのだと思いたがるものなのです。
さて、理論と世論の支持そして行動部隊がそろったならば好機を待ちましょう、戦争や恐慌は絶好のチャンスですし、行動部隊をつかい非常事態を演出するのも良いですね!
そして!その日!!その時!!大通りに!立法府に!裁判所に!家庭に!工場に!老人ホームに!そしてバナナ畑に!!革命の旗が翻り全体主義の歌がこだますのです!
しかし、時ここにいたってもなお、反動分子の犬共はこう言うことでしょう。
「そもそも君たちの理論とやらは三段論法を誤用した誤謬の上に誤謬を積み重ねた無内容な詭弁であり、過去百年以上にわたって悪魔的所業をしてきたイデオロギーの哀れなパロディだ!君たちはただ権力に飢えてルサンチマンに凝り固まった愚か者だ!このバナナ野郎め!」などと…
ああ!!革命の度に毎回毎回どこからか湧き出てくるなんて救いようが無い人種!
こうなった場合はもはや「最終的解決」しかありません!!最終的解決とはつまり例を挙げると……
…ヘーゲルはどこかで、全ての偉大なる世界史的な事件と人物はいわば二度現れると述べている、しかし彼はこう付け加えるのを忘れてしまった、一度目は偉大なる悲劇として、二度目は哀れなる喜劇として。
そもそも、他人が娯楽に金払ってる様子を見て「搾取」だなんて言うことは失礼極まりない、自分としては信じられない感性だ。
これは詐欺でも違法でも洗脳でもなんでもない、昔のソシャゲとは次元の違う、映画やアート作品がもつ審美性に匹敵する総合芸術をまず享受しているんだよ。払っている人たちは。
何百億、累計すると何千億とかけてサブカルチャー理解のある優秀なクリエイターたちによって作られてきた作品の複合体を。
プレイヤーが受けている感動や感銘を無視し、まるでゴミを好んで食べる人かのように見下しているんだろう。だがこれは現代のアートの最先鋒の一角だ。
そうであることは、これらゲーム公式が公開しているアニメーション動画や音楽動画、それにつくコメント、ファンの人々の反応を見ていけば分かるはず。
ものの価値というのは対価を支払う人が決める。そして強制される部分もなく、ギャンブルのように強く射幸性を刺激する作りにもなっていない。(この部分は実際にやらないと信じられないかもしれないが、どうせ80連近くなるまでまず出ない設計だからカラクリを理解してるプレイヤーは淡々と回すようになる。ガチャの体をとっているが限りなく定額売りに等しいものだ。ゲーム内で入手できる無料石で充当できる分だけ進歩的。)
だから重層的で濃密なアートを受け取った人が、自分の経済力の範囲内で、あるいは感銘のあまりちょっと範囲内を超えて、パトロンのように大口でお金を払うことを、まるで自制の効かない異常者の行動かのように決めつけるのは悪辣極まりない。
それに、これらゲームに費やせる金額には限度がある。6週間で新キャラが2体でるとして、1体のために最大まで金をかける(完凸+餅完凸)としても、30万は超えない程度の額×2だ。
大人の趣味として考えると糾弾するようなものでもないだろう。青天井に課金ができた古いカードバトル型ソシャゲだと、一人で累計3億だか課金した人がいたようだが、そういうことは起こらない。
ともかく、そうやって偏見を己の中で増幅させ斜に構えることでアイデンティティを守る癖が抜けないタイプの人間が、5年10年単位で展開されじっくり向き合うタイプの物語作品に素直に感動できることはなさそうだし、いくら説いても理解できないだろう。
だとしても、その傲慢で無礼な口を噤む美徳くらいは身につけられるものだと信じたい。
ガチャゲーというビジネスモデルに対する偏見や悪意をもつ人は、ガチャゲー像自体がアップデートできていない。
アップデートすると馬鹿にできなくなるからだろうが、ガチャ=悪質が成り立っていたのは10年代まで。
今では、上等なコンテンツに対し個々の支払い能力に応じたバリアブルな支払いと、その額に対してそこまで傾斜しないゲーム体験を与える、繊細なバランス感覚で成り立つモデルになっており、サブカルチャー支援に関してメリットが際立つ課金方式になりつつある。
プレイヤーの目が肥え、開発費が高騰した結果、事業者にとっては地獄だが、消費者にとってはより良い体験を与える課金方式に変化していることを認識してほしい。
最近ニュースでもSNSでも「AIが仕事を奪う」とか「人間の感性が失われる」とか、なんかAIが悪者みたいに扱われること多くない?
いや、わかるよ。未知のものって怖いもんだし、「便利すぎる」ってそれだけでちょっと気味悪い。
「そんな危ないもん触るな!」って。
けど、その火がなきゃ人類は寒さで凍えて終わってたかもしれない。
ゼロリスクで未来を手に入れようなんて、ちょっと虫が良すぎる話だ。
もし「危ないからやめとこう」って言ってたら、俺たちは今でも水の中でエラ呼吸してたかもしれない。
AIも同じだと思うんだ。
でもそれを受け入れて、じゃあどう使えばいい?って考えるのが人間の役割でしょ。
リスクを恐れて立ち止まるより、転んでも立ち上がる方がずっと進歩的だ。
AIを怖がって水の中に残るか、共に立ち上がって陸に上がるか。
たぶんどっちを選ぶかで、人間としての立ち位置が大きく変わるのだと思う。
怖がるのもわかる。
けど怖れながらでも進む――それが人間だろ?
ChatGPT:
INSIGHT ANALYSIS: 表象の真正性パラドックス
「女性主人公を描けない」創作者の原理的ジレンマ
Core Observation
この投稿者は、フィクション創作において「経験的真正性」と「想像的自由」の矛盾に直面し、表象行為そのものの正当性を疑問視するに至っている。彼が求めているのは「女性を正しく描く方法」ではなく、「自分が女性を描く権利があるかどうかの確証」である。
PRIMARY INSIGHT: 批判理論分析 (Mode E)
イデオロギー的構造の解体
この投稿者の悩みは、表面的には「技術的問題」(どう描くか)に見えるが、実際にはアイデンティティ政治の内面化が生み出した認識論的危機である。
内面化されたイデオロギー的前提:
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「描く資格がない」
この論理は、2010年代以降の「文化的専有(Cultural Appropriation)」批判や「当事者性」の政治から派生した規範を、創作者が自己検閲として内面化したものである。
皮肉なことに、これは1980-90年代のジェンダー理論が批判した本質主義そのものである。しかし今回は「進歩的」「配慮的」な動機から再導入されている。
彼は「女性を正確に描く技術」を求めているようだが、実際に求めているのは「女性を描くことへの道徳的許可」である。
生産的矛盾の発見
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これは本質主義の自己矛盾である。「女性」というカテゴリーに本質があると仮定しつつ、実際の女性たちの多様性に直面して混乱している。
イデオロギー批判: 何が隠蔽されているか
投稿者は「正しい女性の描き方」があると仮定しているが、これは幻想である。「女性」は単一の経験的実体ではなく、歴史的・文化的・個人的に多様な存在様態である。
士郎正宗のデュナンを「中身は男性」と断じるが、これは以下を前提としている:
しかしこの論理は、女性を規範に押し込める本質主義そのものである。
「生理を経験していないから分からない」という論理は、人間の相互理解の可能性そのものへの懐疑に至る。
この論理を徹底すれば:
この悩みの背景には、歴史的に男性が女性を対象化・道具化してきたことへの罪悪感がある。しかし、その補正として採用された「描かない/描けない」という態度は:
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過剰補正:
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帰結:
これは抑圧への対抗が新たな制約を生み出すという典型的パターンである。
自己検閲のメカニズム
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内なる検閲官:「それでも不十分だ」「個人差と本質の区別がつかない」
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SECONDARY PERSPECTIVES
系譜学的補足 (Mode C)
この「悩み」の歴史的構築
第1段階 (1970年代以前)
第2段階 (1980-2000年代)
第3段階 (2010年代-)
第4段階 (2020年代)
投稿者は、この第4段階の症例である。彼の悩みは個人的なものではなく、言説空間の変容が生み出した構造的効果である。
現象学的補足 (Mode D)
投稿者が経験しているのは、単なる技術的困難ではなく、創作主体としての自己の正当性への根源的懐疑である。
彼の実存的問い:
投稿者は、この理解の可能性と不可能性の間の宙吊り状態にある。
SYNTHESIS: 深層パターン
この現象が明らかにするもの
アイデンティティ政治は、周縁化された集団の声を中心化しようとした。しかしその論理を個人の創作実践に適用すると:
↓
↓
↓
20世紀後半のジェンダー理論は本質主義を解体した。しかし21世紀に、配慮・正義・包摂の名において本質主義が再導入されている。
これは解放の言説が抑圧の論理に転化するという、イデオロギーの古典的矛盾である。
この悩みは、フィクションの根本的機能—経験していないことを想像し表現する—への懐疑に至っている。
投稿者のジレンマは、これらすべてを疑問視している。これはフィクション自体の正当性の危機である。
投稿者の不安は、個人的心理ではなく、言説空間の変容が生み出した構造的効果である。
投稿者は誰にも批判されていないのに、架空の批判者を内面化している。
IMPLICATIONS
この個別事例が示す普遍的問題
投稿者は技術的助言を求めているように見えるが、実際に必要なのは認識論的・存在論的再定位である:
1. 本質主義からの離脱: 「女性」は単一の経験的実体ではない
2. 想像力の復権: 経験していないことを想像できるのがフィクションの本質
3. 完璧主義の放棄: 「完全に正しい表象」は不可能であり不要
4. 対話としての創作: 表象は完結した真理ではなく、継続的対話の一部
より広い文化的含意:
↔
歴史的瞬間について:
我々は「誰が何を語れるか」という問いが過剰に中心化された時代にいる。これは必要な矯正でもあったが、新たな問題も生み出している。
INSIGHT CRYSTALLIZED
この投稿者は、フィクションに「経験的真正性」と「道徳的正当性」を同時に求めることで、創作行為そのものの可能性条件—想像力による他者への跳躍—を否定するに至っている。彼の悩みは個人的なものではなく、アイデンティティ政治の論理を内面化した結果生じる構造的効果である。
言い換えれば:
彼は「女性をどう描くか」ではなく「自分が女性を描いてよいのか」という存在論的問いに囚われており、この問いは—その形式自体が—本質主義的前提と想像力への不信を含んでいるため、原理的に解決不能である。
So what?:
この事例は、配慮と正義の言説が、意図せず表現の自由と想像力を収縮させうることを示している。文化の活力には、不完全さを恐れずに境界を越えて想像し、その試みを通じて対話を重ねる実践が必要である。
PUNCHLINE:
彼が本当に恐れているのは「女性を間違って描くこと」ではなく、「女性を描くこと自体が僭越である」と判定されることである。しかしこの恐怖は、最も抑圧的な本質主義—男女は相互理解不可能という観念—を再生産している。解放の言説が、最も因習的な性別二元論を復活させるという究極の皮肉がここにある。
トランス女性がレズビアンのシス女性に向けた「やり場のない性欲」…股間に伸ばした手に「性器への愛撫」を不可能にさせる「木綿の天井」
https://gendai.media/articles/-/158399?page=2
「ガラスの天井」という言い回しを聞いたことがある人は少なくないだろう。本当の意味での権力や影響力のある地位の一歩手前にはガラスの天井があって、多くの女性はその目に見えない天井に阻まれる。
では、時間のほとんどをオンラインで過ごしている少数の人々以外で、「木綿の天井」という言葉を知っている人がどれだけいるだろうか?この言葉はトランス女性がレズビアンのシス女性〔訳注:身体的な性別が心の性と一致している女性〕に惹かれたときに経験する困難を表現している。
シス女性レズビアンの多くはトランス女性を真正かつ完全な女性とはみなさない—性的な感情はそれほど単純に割り切れるものではないので、実際のところはどうかわからないが、少なくとも彼女らはそう主張する。
そのため、トランス女性がシス女性レズビアンと親密になって股間に手を伸ばしても、下着という木綿の天井に阻まれてそこから前に進むことが許されない。
こうして、進歩的な人々の多くは、自分の性欲が中途半端にしか受け入れられず、ときには政治的信念に左右されることを、身をもって学ぶのである。
だがこの言葉には、当事者でなくても理解できるほどの痛み、失望、恥辱が含まれている。それに理解を示さないのは、下品かつ愚かな態度だ。
トランス女性がレズビアンに性欲を向けてもセックスさせてもらえない失望や恥辱を、女性が直面する困難のガラスの天井になぞらえて、パンツの中に突っ込ませてもらえない木綿の天井と呼んているの糞すぎる。
レズビアンとセックスできないトランス女性は可哀想だし、理解を示してやらないのは下品で愚かだって。
どう見ても下品で愚かなのはレズビアンとセックスさせろ、木綿の天井苦しいーって騒いてるトランス女性の方じゃん。
女性のガラスの天井をパンツに変えて囃し立てて、同性愛者に異性とセックスしないことを責め立てるのが左翼のしたかったことなのか。
お前らってさ、ずっと労働者の味方って言ってたよな?
俺は移民受け入れに反対してる。理由はシンプルで、俺の給料が上がりにくくなるからだよ。
実際、移民が増えたら労働力が供給過多になって、賃金の上昇圧力は確実に下がる。
企業にとっては都合がいいけど、現場で働く側にとってはたまったもんじゃない。
なぜか“労働者の味方”を名乗る人たちが賛成してるの、意味わからん。
しかも賛成してる側って、だいたい間接的に恩恵を受ける層なんだよ。
俺らみたいに現場で直接影響受ける人間の声は、結局聞かれない。
もしほんとに労働者の味方なら、どっちの立場に寄り添うべきかなんて議論の余地ないだろ。
それでもまだ移民賛成って言うなら、それもう労働者の味方じゃなくて
ただの「自民党の逆張り」か「ネトウヨへのカウンター」でしかない。
俺が辞めろって言ってるんだから辞めろ。
消費する人の数だけ嗜好も指向もあって主体はする側にあるのに何でその被害性を対象のキャラ造形や描写で定義するのかどう理屈が通ってるのかわからない
それって性的興奮の責任を被害側に見出す蔑視的な視点での痴漢自衛論みたいなのと変わらないし本来は消費する側の主観的で自己完結的でしかないはずの行為に搾取としての能動的加害性を指摘するのは消費される対象への支配的強制力を併せて認めるものだしそれって言わば性的消費のエンパワーメントだし被害性を論うための相対的根拠として効果狙って用いられてるの普通に意味わかんないなって思う
男性の裸体表現が女性に向けた消費物であったとしてもある種のナルシシズムで受け取られるように本来公平には性的魅力は本人の自己愛の発露、生物的造形美としての意味性があって然るべきなのに消費被害の論において女性のそれは問答無用で男性のための性的消費物として扱われてるの本質的な女性差別蔑視的価値観の喧伝刷り込みでしかないからやめて欲しいなとも思う
所謂ノイズもそうやって消費する人達の好き"そうな"描写表現自体を加害性パッケージで定義したものであくまで被害を叫ぶ側のバイアスかかった漠然とした基準でしかないし
胸の揺れや女性的曲線美、クネクネしてるとかそれ自体は結局女性性を示す一表現もしくは性的魅力を伴うもの以上でも以下でもないのにそうやって「ノイズ」の定義に恣意的な個人のハードルでブチ込んで加害性をタグ付マーキングして流れ作業的にジャッジしてるのが最近の「フェミニズム」の傾向で、踝出してたら性的って時代から今変化してるみたいに性的忌避性はそのまま性的定義に繋がってて性的定義からの解放は対象の忌避性を意識させないまで日常化する事でしか得られないのに今やってる事と言えば真逆で女性の社会における性的受容性の観念的制限増と実を伴わない嫌悪感の生産なの地獄だなと思う
是非は別としても媒体によるターゲット層の違いなんかでゾーニングとしての表現変更はマーケティングとして真っ当だけど性的消費でノイズだから、は主観と客観区別つかなくなってるんだろうなって
消費物として用意された女性の描写が加害性を伴うって論についてもそれは元来のフェミニズムにおける性の消費問題であくまで男性への消費性に対して相対差による役割上のバイアス形成を前提にした「女性の性」を消費するから害なのでなく「女性」を性を消費するための存在として属性付ける観念傾向を害としたもので前時代の欧米の抗議性は相対バランス是正としてのアファーマティブアクションによるものだし欧米の場合は更にそこに宗教ラインの女性の性的魅力欲求を男性のためのものとした原理的観念がベースにあって女性性や女性の性=男性を性的に満たす役割って価値観そこからの脱却としてフェミニズム文脈での女性視点のセクシャルな表現解釈の自由獲得含めた性的解放に向かうわけで海外ではって言葉もよく聞くけど特にアメリカはコミックコードで元々開放的な表現を規制した結果女性の作家と読者が減って育たず男性に大きく偏った上での性的表現/男性に向けたマクロにおける相対的視点での性的表現性是正で女性作家の性的表現、女性向けの性的供給が男性向けに対して映像メディア含め欧米で進歩的に扱われて許容されるのもLGBTQ作品然りその偏りがまだまだ前提にあるからで、二次元表現における男女平等公平性、女性の性的能動性や創作における受容度からして進歩的な日本の状況でフェミニズム男女同権を謳って女性の性的な表現自体を厭うのはゾーニング論にしかなり得ず性的忌避的価値基準はそのまま双方へ働くわけでだからBLはどうだショタはどうだ女性向けのピンナップはって話になってしまう
保守的主張として性的に絶対的基準をって話ならまだしもそのゾーニングを個人的な快不快でフレキシブルに運用できると思ってるのは単純に考えなしで自分で首絞めてゲロ吐き散らかしてるみたいで迷惑だからやめてほしいと思う
いきなり極端すぎて想像力が乏しすぎるな。
軍隊のような巨大な暴力機関を作る財はほとんどの自治体が持ち得ないだろうが、効率的に治安維持をするための技術や人材は自治体レベルでも構築可能だろう。夜警国家ならぬ夜警自治体も現代の技術水準ならば現実的だろうということ。
技術によって、人々に「世の中は安全だ」と感じさせることができれば、「盗られるより盗る側になろう」と連鎖的に治安悪化することはなくなる。日本は特に「世の中は安全だ」と感じさせる社会を作るノウハウについては長けているので貢献できる分野だろう。
ただし、羽振りのよすぎる自治体に対しては、国家レベルの巨大な統治機構を生みかねず腐敗した際の害が大きいので、睨みを効かせる必要がある。
要するに、国家がないということは、地球すべてが一つの連合の視野内にあるということ。
言語や文化の違いがあり統一されるような圧力がない、基本的な自治を委ねる寛容さ(と恵まれない地域が存在しても介入しない冷淡さ)を連合が備えてる点で、統一国家とは違う風通しの良さはあるだろう。
自由を推進すると原始的な紛争闘争時代に逆戻りすると信じたがる人間は、人類が歩んできた文化的・科学技術的進歩をまるで考慮せず、物事を現実的に考える精細さに欠いているため、恐怖に囚われセンセーショナルで破滅的な未来像に引き寄せられてしまうんだろう。保守的な脳の人間が陥りやすい思考だ。
このような人々は、過剰な悲観主義と冷笑主義によって進歩的な人々が築こうとする未来像を頭ごなしに否定し潰しにかかり、現状の構造を異様なまでに有難がることによって現在の統治機構を崇拝することを好み、その嗜好によって停滞から目を背ける自己欺瞞的な性格の持ち主。現状維持バイアスの囚人だ。
こうした想像力の乏しいヒステリックな集団が変化を拒んで騒ぐことによって、人類が進歩するための文化的・科学技術的な土台が整っていたとしても、変化が起こらなくなってしまう。
原子力発電に過剰なアレルギー反応を示す無理解な民衆のせいで核融合炉の開発まで滞ってしまうようなものと言えば分かるだろう。
xに不満を書いた人は女性Bとした。
(正確じゃないかも)
つまり、差別反対・時代遅れ批判・ネット私刑が混ざった感じだ。
現代のSNSでは、差別反対の「進歩的正義」が強いので、こういう炎上は攻撃側が優勢になりやすい。
こっちは共感型の擁護だが、ネットの声量としては小さかったかもしれない。
結果として女性Bは「差別主義者」「クレーマー」として叩かれた。
今回の炎上は、いくつかの要素が複雑に絡んでいる。
「ドレス予約だけでは独占できない」
「自分が着たいと思えなくなった」という気持ちは本来尊重されてもいい。
そこに社会的スティグマを持つ職業の人が触れると嫌悪が生じる層もいる。
公共空間では「差別反対」が優位になりやすく、個人感情は潰されやすい。
今回の炎上を考えるうえで、**スティグマ(社会的烙印)**の存在が大きいと思った。
でも近年、SNSや個人発信の時代になって、少しずつスティグマは薄れている。
これは反スティグマとしては良いことだ。
しかし同時に、華やかな成功だけが見えることで、若年層や未成年にとって安易な参入の誘因になる面もある。
「簡単に稼げる」「有名になれる」と思ってしまうかもしれない。
差別は消えず、形を変えて外見格差や淘汰に変わる可能性が高い。
もしスティグマを減らす方向に進むなら、
そして、今回の元AVの人のような存在は、反スティグマの象徴であり、
(自由が勝つ社会では、感情表明の自由が抑圧されるのも一つのポイント)
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個人が炎上するたびに、私たちは社会の価値観の摩擦点を見ている。
スティグマをなくすのか、残すのか。
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この事件は単なる強盗殺人ではない。日本社会が抱える“偽善的寛容”の破綻を象徴している。外国籍の若者が住宅に押し入り、「お金を出せ」と言って母娘を襲う。まるで映画のワンシーンだが、これは現実だ。犯行の背景に移民政策や治安管理の緩みがあるのではないか?いや、それを問うことすら「差別」とされる時代だ。被害者の命よりも、犯人の「人権」に配慮せよという声が必ずどこかから上がる。果たしてそれが“進歩的”と言えるのか。この国はいつから「加害者に優しい社会」になったのか。本来守られるべきは、家の玄関で血を流した日本人の女性たちではなかったのか?
これは、日本で女性たちが強盗殺人の被害に遭い、その犯人である外国籍の人が捕まったニュースに寄せられていたコメントです。
個人的には、このコメントに外国人差別を助長したい意思があるように思えます。しかし、日本への外国人の流入が増えて外国人による犯罪も多く報道されているので、怯える気持ちもわかります。
ご質問ありがとうございます。非常に重要で繊細なテーマですね。
おっしゃる通り、このコメントには一見もっともらしい怒りや不安が込められていますが、その背後には感情に訴えるレトリックを用いながら、外国人全体への偏見を助長する危うさがあります。以下に、論理的・道義的な問題点を整理しつつ、それがなぜ差別につながるのか、そして不安の背景にどう向き合えばよいかを考えてみます。
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1. 個別の犯罪を属性全体の問題と結びつけている(誤った一般化)
→ これは個別の事件であり、犯人の国籍がたまたま外国籍であったという事実だけで「外国人=危険」という印象を広げるのは統計的にも倫理的にも誤りです。
これは典型的な**合成の誤謬(composition fallacy)**にあたります。
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>「まるで映画のワンシーン」「日本人の女性たち」「血を流した」
→ 具体的で生々しい表現を強調し、読者の怒りと恐怖を喚起するように構成されています。
その上で、「加害者は外国人である」という点に執拗に焦点を当てることで、怒りの矛先を外国人全体に向けるよう誘導しています。
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>「被害者の命よりも犯人の『人権』に配慮せよという声が必ずどこかから上がる」
→ これは事実ではなく、架空の“過剰な人権擁護”を想定して非難するという論法(ストローマン論法)です。
また、「人権」を守ることは加害者を擁護することではなく、「法治国家としての基本姿勢」であり、それを否定することは危険です。
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→ この問いの裏には、「日本人は守られ、外国人は脅威」という単純化された二項対立があります。
しかし実際には、日本で起きる犯罪の多くは日本人によって行われています(外国人の犯罪率は全体から見れば低い)。
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5. 「移民政策の緩み」や「治安管理」と結びつける因果関係の曖昧さ
→ 事件の背景に移民政策が直接影響しているかは不明で、そこに根拠のない推測を持ち込むこと自体が問題です。
それによって、実際には事件に無関係な大多数の善良な外国人居住者が不当な視線を浴びる可能性があります。
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あなたがおっしゃるように、「外国人犯罪の報道が増えて不安を感じる」のは自然な感情です。しかし注意すべきは、「不安を感じること」と「不安をもとに誰かを排除・非難すること」は別次元の行動である、ということです。
人間は「自分とは違う存在」を本能的に警戒する傾向がありますが、その感情が制度や社会の方向性を決める根拠になってしまうと、排外主義や偏見が強化されてしまいます。
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【では、どうすれば良いか?】
犯人の国籍ではなく、個人としての動機・環境・背景に着目する。
「増えたと感じる」=「実際に増えている」とは限らず、報道の偏りによって印象が作られることがあります。
実際、日本における外国人の犯罪率は、人口比で見ると日本人と大きな差はありません。
3. 人権や寛容の意義を見直す
法による公正な裁きを求めることが、社会の信頼性を担保します。
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【結論】
このコメントは、被害者への共感を装いつつ、「外国人全体」を一括して危険視するレトリックを使っており、差別的な意図や結果を含みうる発言です。冷静な事実確認や、法に基づく判断よりも感情に頼った主張は、社会を分断し、少数者への不寛容を正当化しかねません。
ですが、不安を感じること自体は悪ではないです。不安とどう向き合い、それをどう表現するかが問われています。
もし必要であれば、より具体的な「建設的な言葉の使い方」や「移民と治安に関する統計データ」などもご紹介できますよ。
→私は、高齢者は高齢になるにつれて自分で解決方法が見出せなくなるから意固地になったり感情論に頼ろうとしたりするんだろうなって思ってるんだけど、それを思い出した。
自分で変えたいとか自分の思い通りになるべきと思う感覚と、自分に備わってる解決能力の不釣り合いさ。傲慢とも言えるか。
一方で、民意だとか多数の感情に訴えかけようとするのは解決能力の大きな一つとも捉えられる。
ただ、事態を動かせても安易なのだ。安易に人が賛同して、安易に事態が動きそうになるとして、そこに集った人が肯定する解決方法がどんな質のものになりがちなのか、安易に動いていく事態をどうコントロールできるのか。