はてなキーワード: 美辞麗句とは
(https://www.jprime.jp/articles/-/41329?display=b 2026年4月15日掲載)
この記事は、日本共産党・小池晃参議院議員が2015年に投稿した動画(辺野古海上抗議中、海上保安庁のボートに向かって「国会議員に逆らうな!」と叫ぶ様子)がSNSで拡散され、2026年3月の転覆事故との関連で党の責任回避姿勢が問題視されていることを報じています
日本共産党は、辺野古事故を契機に改めて民主主義の深刻な脅威であることが浮き彫りになりました。以下に、自由・民主主義・法治国家の観点から整理します。
それにもかかわらず、共産党は反対協を支援し、無登録運航・危険接近・法執行妨害を繰り返す集団を「平和の闘い」と擁護しています。
事故後も「活動に事故はつきもの」との姿勢は、法治を無視した「力による既成事実化」を正当化しています。
共産党は反対協を事実上の支持母体とし、選挙での組織動員・票田として活用しています。違法行為を繰り返す集団を政党が支援・政治的正当化することは、選挙を通じた違法行為の追認です。
平和学習への介入も、教育の政治化を通じて次世代への思想誘導(反基地左派イデオロギー)を進め、民主主義の基盤である「多角的思考」を阻害しています。
共産党は「表現の自由」「平和の権利」を盾に、抗議集団の危険行為を擁護します。しかし、表現の自由は他者の安全・生命を侵害してはなりません。未成年者を危険海域に連れ込み、事故を「つきもの」と片付ける態度は、自由を名目にした他者への暴力です。
• 違法行為常習集団を支援・擁護し、司法判断を無視し、教育現場に政治的偏向を持ち込む。
• 事故後も責任を曖昧にし、「活動に事故はつきもの」と人命を相対化する姿勢は、民主主義の価値(法治・公正・多角性)を根本から否定しています。
日本共産党はヘリ基地反対協議会(反対協)を構成団体とし、選挙動員・組織的支援・政治的擁護を長年行っています。これは「政党と違法行為常習集団の組織的つながり」として、癒着という表現に該当します。
公金(平和関連予算)、組合費(教職員組合・労組)、民間寄付(辺野古基金)が反基地運動に環流し、教育現場(平和学習)まで取り込まれる構造は、民主主義の腐敗(公的資源の私物化・政治的利用)と言えます。特に、違法行為を繰り返す集団を政党が支援し続けることは、腐敗の典型です。
抗議集団の「非暴力直接行動」は、実際には無登録船による危険接近、高速操船、制限区域侵入、波浪注意報下での出航、未成年巻き込みという他者の安全・生命を脅かす行為です。これは表現の自由の範囲を超えた「正当でない暴力」(法執行妨害+危険行為の常習)です。小池晃議員の「国会議員に逆らうな!」発言も、法執行機関への威嚇としてこのカテゴリに入ります。
報道機関や国民は、この構造を「平和の闘い」という美辞麗句で覆い隠さず、厳しく監視・批判する必要があります。事故は、共産党の民主主義への脅威を象徴的に示した悲劇でした。
(沖縄タイムス系列、Yahoo!ニュース配信、2026年4月9日掲載)
記事は、3月16日の辺野古沖抗議船転覆事故(同志社国際高校生徒1名+金井創牧師死亡)を受けた、反対運動関係者や一般県民の声を集めたインタビュー形式の解説記事です。
• 事故は「命を守るための運動の中で起きてはならない悲劇」であり、原因の徹底調査を求める。
• 運動関係者は事故後、発言を控えめにし、「言い訳は一切できない」と反省の姿勢を示している。
• 平和学習の意義を肯定的に強調(「現地の痛みを知り、生き方を問い直す機会」)。大阪の元教師(西野千代さん)は「安全対策を見直した上で沖縄での平和学習を続けるべき」と主張。
• 運動に参加しない県民との距離感や、ネット上の誹謗中傷を問題視。「県民みんなの意見を反映できる場をつくって平和学習のあり方を考えるべき」との声も紹介。
• 全体として、事故を痛ましい出来事として扱いつつ、運動の正当性と平和学習の継続を暗に擁護するトーン。
• 運動関係者や一般県民の生の声を複数拾っており、地元紙らしい「現場の空気」を伝えている。
• 事故後の運動側の沈黙や自己反省の姿勢をそのまま報じている点は率直。
記事は「命を守るための運動の中で起きた悲劇」と位置づけ、反対運動の正当性を前提にしている。しかし、 事故は反対協の組織的問題(共産党関与、無登録運航、安全軽視)、平和学習の政治的丸投げ(教師不在、希望制、抗議船利用)、金井牧師の信仰と政治の一体化が絡んだ結果です。これらをほとんど触れず、「運動関係者は地道にやっている」「ネットの誹謗中傷が問題」とのフレームに矮小化している。
西野さんのコメントのように、「現地の痛みを知る」「生き方を問い直す」と美辞麗句で包み、実際のプログラム(反対協テント訪問、活動家講話、フェンスリボン結び、抗議船乗船)が一方的反基地活動の延長だった点を避けている。これは教育基本法第14条(政治的中立)違反のリスクを軽視した典型的な報道姿勢です。
運動関係者の声を重視しつつ、「県民みんなの意見を反映できる場を」と提案するが、実際には反対運動の既得権益化(平和学習産業、公金投入、外部勢力の関与)を批判的に検証していない。結果として、記事は反基地運動の擁護・再結束を促す印象が強い。
ネット上の批判意見を「誹謗中傷」として一括りにし、運動の構造的問題(重複団体、資金の不透明性、住民への生活被害など)を深掘りしない。沖縄タイムスらしい反基地寄りのトーンが強く、全国的な視点や中立的な検証が不足している。
この記事は、琉球新報記事(平和関連事業の「無関係」強調)と同様の矮小化パターンを示しています。
• 事故の核心(反対協の組織実態、金井牧師の政治活動、平和学習の丸投げ、中立性欠落)を避け、「運動の悲劇」と「平和学習の継続」という枠に収めている。
• オール沖縄の勢力低下を別の記事で報じつつ、この記事では運動関係者の「地道さ」を強調する二重基準が見られる。
記事は運動側の声を丁寧に拾っていますが、事実の取捨選択とトーンに明確なバイアスがあり、バランスを欠いた「運動擁護寄りの解説記事」です。沖縄タイムスが長年培ってきた反基地報道の延長線上にあり、県民全体の多様な意見や構造的問題を十分に反映していない点が大きな限界です。
沖縄の政治状況は、やや内向きな文化(強い地域アイデンティティ、共同体意識、外部批判への敏感さ)と結びついて、政治的自由が実質的に制限されている側面が確かにあります。そして、左翼・反基地勢力が「平和学習」を産業化し、学校にツアーを売り込み、県の補助金で支える構造は、官民癒着の偏向政治産業と言える性格を帯びています。
沖縄では「反基地・反米軍」が地域の正義として強く刷り込まれ、異論を述べにくい雰囲気があります。特に公務員、教師、教育関係者、メディア関係者では、左派以外の意見を公にすると「売国」「右翼」「本土の味方」といったレッテルを貼られ、社会的・職業的な制裁を受けるリスクが高いです。
沖縄の共同体意識の強さ(「ウチナーンチュ」としての連帯感)は、外部(本土)への不信感と結びつきやすい。結果として、「県民の総意=反基地」という一元的なナラティブが強固になり、多様な意見が排除されやすい土壌ができあがっています。
• 教育現場の役割 平和学習や修学旅行で反対協テント訪問、活動家講話、抗議船乗船などが長年「体験学習」として行われてきたことが、若い世代の価値観を一方向に形成してきました。事故後の学校HPからの記録削除ラッシュも、この「空気」を守る動きと見なせます。
◦ 左翼・反基地団体(反対協、オール沖縄、辺野古基金など)が「平和学習ツアー」をパッケージ化。
◦ 学校(特にキリスト教系や左派系)に「辺野古コース」を積極的に売り込み。
◦ 県や市町村が補助金・委託事業として資金を投入(沖縄平和啓発プロモーション事業など)。
◦ 旅行会社(東武トップツアーズなど)が全体をコーディネートし、利益を確保。
◦ 「平和」「いのちの大切さ」という美辞麗句で、政治的偏向(反対協テント訪問、活動家講話、フェンスリボン結びなど)を隠蔽。
◦ 県の公金が事実上、反基地運動の維持・拡大に使われている構造。
◦ 事故後も「平和学習の重要性」を強調する論調が続き、根本的な見直しが進みにくい。
この産業は、運動の長期化によって既得権益化しており、解決すればツアー収入、補助金、活動家の生活基盤が失われるため、問題の継続自体が利益になる逆説を生んでいます。
大多数の県民。特に若者世代は、経済格差、教育機会の偏り、イメージダウンによる投資・雇用喪失という形で被害を受けています。
世論調査では、辺野古反対は依然として多数派ですが、若年層を中心に「経済優先」「現実的解決」を求める声が増えています。しかし、その声が公の場で十分に表に出にくいのが現状です。
沖縄の政治的自由が制限されている背景には、内向きな地域文化と左翼勢力による「聖地巡礼」の産業化が深く絡み合っています。公金・教育・運動が癒着した構造的な問題です。
結果として、県民全体の真の利益(基地負担の公平化、経済的自立、生活の質向上)が後回しになり、分断が固定化されています。
が不可欠です。
私は社会のお荷物です。私は就職氷河期世代の発達障害の非正規雇用者です。年金もろくな資産もありません。
氷河期世代は数百万人。これから皆で老人になり、医療と生活保護で国家予算を破壊します。選挙権を持つ私たちは、自衛のために社会保障拡充に投票するでしょう。若者は私たちの老後のために、さらに重税を課されます。
これは世代間搾取です。私たちは日本の未来、若者の未来を食い物にする、パブリック・エネミーです。
しかし、単純に切り捨てることもできません。ホームレスが増え、ゴミが溢れ、犯罪が増えれば、結果的に社会全体が損をします。また精神病院や刑務所に収容するのは生活保護の倍以上のコストが伴います。生活保護は「安い平和維持費」なのです。
私個人としては、現状でもクーラーがまともに使えない生活が、加齢とインフレでさらに劣悪になる未来になんの魅力も感じません。社会に負担をかけながら、病気と貧困にあえぐ老後など、地獄です。
政府は「生きる権利」を唱えますが、私たちに必要なのは「死ぬ権利」です。医療費と生活保護費の無駄を省き、本人の意志で尊厳ある死を選べる制度。これが氷河期世代への真の救済です。
「生きることが何よりも大切だ」という美辞麗句は、自分が善人になりたいだけのエゴに私には聞こえます。実際に苦しむのは私たちです。金がない、健康がない、家族もいない、尊厳もない、未来もない。そんな人間を無理やり生かす意味は何ですか?
安楽死を認めれば、社会保障費は削減され、若者の負担は軽減され、私たちは苦痛から解放されます。これこそがウィンウィンの解決策です。
こりま
@korimakorima
『エルム街の悪夢』や『スクリーム』の1、2、3を作った監督、ウェス・クレイヴンは何度も同じ質問をされ、律儀に同じ回答をしていた人だ。なぜ人々はわざわざ、怖い思いをしにホラー映画を観にいくんでしょう?と聞かれるたびに「違う。観客は怖がりに行くんじゃない。もう、すでに怖がっているんだ」と答えていた。
観客たちは確認しにいく。日常生活で自分が抱いている恐怖の源が作品化されてるのを見に行く。だから、心のどこかでほっとしている。ああ、私だけじゃなかった。私以外の誰かも私と同じ恐怖を抱いてくれていた。
とくに子供。子供の観客はホラー映画の裏にいる理解者を確認する。周りの大人はニコニコしてもっともらしい美辞麗句を連ねているが、一皮剥けば本質は残酷だと自分は嗅ぎ取っている。映画製作者もそれを知ってくれている。
『エルム街の悪夢』のフレディ・クルーガーが良い例で、監督はフレディを「子供から見た、現実の大人が持つ冷徹な冷酷さ」の象徴だという。
──────
ウェス・クレイヴン監督「『エルム街の悪夢』のフレディは、“あなたの苦しみを望む大人の男性”なんです。
子供たちと話すと、彼らはこう言う。「自分たちが人生で何をしたいのかわからない。だって、どのみち、もう詰んでるじゃないか。自分たちはエンドゲームを生きてる、と。
この子たちが感じているのは、大人たちが世界を完膚なきまでにだいなしにしてしまった、という感覚です。資源は使いつくされ、何もかもが汚れている。動物の種は絶滅しつうけている。
彼らはこう思ってる。“大人たちは自分たちが得られるだけの利益をむさぼり尽くし、後の世代のことなんか知ったことかと思っている。The adults are crazy。おとなのひとはくるっている。
自分よりも年上で、自分たちよりもずっと多くの知識を持ち、自分たちを恐怖に陥れることで楽しみを得ている。それは、逃れようがない、絶対的な恐怖です。
(1997)
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一見マトモそうに見える大人も、他人の子供たちがハァハァと息をきらし、スポーツの練習で苦しむのを見て嬉しそうにする。ごろごろ寝転びくつろいでいると「甘やかされている」と不満そうな顔をする。
そしてクレイヴンは、「ホラー映画のおそろしいシチュエーションは、個々の変わり者の監督の頭から自動的に発生するわけじゃないんだ」と言う。けして独自のアイデアじゃない。
2003年以降、ホラー映画における拷問シーンは大きく変わった。ゴア描写も変わった。アブグレイブ刑務所でイラク人を笑いながら虐待し、全裸にして犬をけしかけ、その様子を撮影する米兵の動画やキューバのグアンタナモ収容所で捕虜を家畜のように扱う米兵の写真が流出し、しかも、政府はそれを「悪い行為ではない」と主張した。一応、今までは囚人や捕虜の扱いに大義名分を持っていた政府が堂々と虐待を「何か悪いか?」と言い出した。当時のホラージャンルは現実に激しく反応し、逃げ場のない場所で人間の身体が肉の塊として扱われ、損壊し、撮影される場面を積極的に描きはじめた。それまではファンタジーとしてのゴアが主流だったのに、映画内のゴアが現実味を帯びていった。 法が及ばない秘密の場所で、独自のルールを持つ冷酷な管理者が、対象者の身体を損壊する。そして、写真や動画で「記録」をする。
「ホラー映画に出てくる要素は、けっして、変わり者のフィルムメーカーの頭から勝手に湧き出てくるものではありません。現実と密接に結びついています」(クレイヴン監督)
(これは日本ではあまり歓迎されない意見だと思う。日本にはなにしろ、ひとりで脚本も美術も手掛けるマンガというジャンルがあるので、荒木飛呂彦作品なら荒木飛呂彦の世界、藤子不二雄A作品なら藤子不二雄Aの世界、と、個の作家性への還元が作品鑑賞の基盤になっている)
「田舎に行ったら襲われた」「因習村」の物語は、田舎蔑視が作者の心に潜んでいるからしっくり馴染むというより「自分と共通の話題を持たない人間達とコミュニケーションがとれる気がしない」という、ネットに慣れきった現代人共通の自信のなさを示している、ともいえる。
そして何より、「いかなるときにも何かを書き、描き、残すのに意味がある」と思わせてくれる。大きな事件があると「マンガなんか描いてる場合か」「娯楽小説を書いている場合か」と自分を責める作家さんが出てくるが、個人が思ったことにはいつも価値がある。個人の頭の中から勝手に湧き出たわけではなく、何を考えついたとしてもそれは、現実を反映しているのだから。
ビル・ゲイツが、ついに口を開いた。
ロシア人女性二人との不倫を認め、エプスタインとの関係について「後悔している」と語った――そう報じられている。だが、この「告白」をそのまま美談として飲み込むほど、世界はもうナイーブではない。
まず押さえておくべきは、タイミングだ。
アメリカ司法省などから公開されたエプスタイン関連文書の中で、ゲイツの名は、きわめて生々しい文脈で登場した。「ロシアの少女」「性病を隠そうとした」といった文言が、下書きメールという形で残されていたと報じられている。世間が騒ぎ、メディアが騒ぎ、財団内部ですら説明を求める声が高まった。その一連の「包囲網」が出来上がってから、ようやくゲイツは「二人のロシア人女性との不倫」を認めたのである。
彼は、いちばん核心にある疑惑――未成年、人身売買、ドラッグ、STI隠し――そうしたエプスタイン的な“闇の領域”は徹底的に否定する。一方で、「既婚者としての不倫」という、まだ社会が消化可能なレベルの罪は認めてみせる。
つまり、ゲイツは「自分がコントロールできる範囲の悪徳」だけをテーブルに載せ、「ここまでは悪かった、しかしその先は虚偽だ」と線を引いたのだ。
この構図は、80年代から何度も繰り返されてきた「エスタブリッシュメントの危機管理マニュアル」と寸分違わない。
情報が一気に流出し、逃げ場がなくなったとき、彼らは「一部を認める」ことで、残りの部分を守ろうとする。
一度も自発的に真実を語らなかった人間が、包囲された瞬間だけ「正直」になる。それを正直と呼ぶのか、計算と呼ぶのか。答えは明らかだ。
さらに興味深いのは、この「告白」の場が、世界に向けた公開謝罪会見ではなく、まず財団職員向けのタウンホールであったことだ。ゲイツにとって最大のリスクは、世論以上に、自らのフィランソロピー帝国の正当性が内部から崩れることだろう。だからこそ、最初に守りに行ったのは「世界の貧困を救う」イメージの中枢だった。
彼は、グローバル・エリートの典型として、生身の倫理よりも、ブランドとしての倫理を守る道を選んだのである。
ここで問うべきは、「ビル・ゲイツが悪いかどうか」などという安っぽい道徳談義ではない。
問うべきは、「なぜ彼ほどの知性を持つ人間が、よりによってエプスタインの周辺に出入りし、いまになって『あれは愚かだった、1分1秒後悔している』などと平然と言えるのか」という構造のほうだ。
それは、世界のトップに立つ人間たちの頭の中にある「二重帳簿」を露骨に示している。
表の帳簿には、慈善、テクノロジー、イノベーション、ワクチン、教育支援といった美辞麗句がびっしりと並ぶ。
裏の帳簿には、影響力のネットワーク、権力者同士の密談、そして時に性とカネを媒介にした“取引”が書き込まれる。
エプスタインは、その裏帳簿のハブだった。そこに何度も足を運んだという事実だけで、本来なら「アウト」なのだ。にもかかわらず、ゲイツは「知らなかった」「距離を置くべきだった」と、あたかもビジネス上の失敗でも振り返るような軽さで自分を総括している。
この種の「後悔しています」という台詞ほど、国際政治と巨大資本の世界で軽く使われる言葉はない。
後悔しているのは、「バレたこと」「文書に残ったこと」「司法文書として公開されたこと」だ。
バレない不倫、バレない密会、バレない取引であれば、彼らは今も涼しい顔で続けていただろう。
今回、ゲイツは「不倫を認めた」という一点で、「正直だ」「勇気がある」という評価すら受けている。だが、これは話を逆さまに見ている。
本当に正直であろうとするなら、エプスタインとの関係が問題視される前に、自ら時系列と関係性を明らかにしているはずだ。
司法文書が公開され、メディアが騒ぎ、元妻までがコメントを求められ、財団内部がざわついてから、ようやく最低限のカードを切る――それは「追い詰められた者の選択」であって、「自発的な真実の告白」ではない。
世界はいま、「テクノロジーと慈善」の仮面をかぶったビル・ゲイツという人物を、もう一度冷静に見直す局面に来ている。
彼個人の性癖や不倫歴など、本来はどうでもいい。問題は、巨額のカネと政策、医療、教育、メディアまでを巻き込んだ影響力を持つ人物が、その裏側でどのような人脈と価値観に浸ってきたのかということだ。
そして、追い詰められたとき、その人物が選ぶのは「全てをさらけ出すこと」ではなく、「切り捨て可能な罪だけを認めて、残りを守る」という冷徹な打算である――その現実を、我々は今回、ありありと見せつけられている。
だが、彼が本当に認めたのは、自分の過ちではない。
「大日本帝国」が反日で、統一教会=CIA=ナチスの同類である
日本に侵略されたと歴史捏造するために起こした自作自演の犯罪」
大本営発表を盲信してるだけの人間は統一教会=CIA=ナチスの盲信者
マイナンバーがKCIA系の韓国・在日企業のLINEヤフーとつながってるような
状況をおかしいと思わない奴は全く役に立たない。
統一教会やLINEヤフーとべったりの反日自民党が起こすような戦争は
自衛戦争ではなく、朝鮮人が日本人を殺すための戦争でしかない。
戦争を起こすのは日本人を殺したい反日害人か、その盲信者の馬鹿だけ。
1.高市政権の発足を機に女性天皇容認を巡る報道に触れることが増えた。リベラルは「男女平等」を錦の御旗に賛成論を唱え、保守派は「伝統」というワードでねじ伏せようとする。だが、どちらの陣営も自らが口にしている議論が、皇室というシステムの本質を無視した暴論であることに無自覚だ。
本稿で問題にしたいのは、女性天皇の是非などという表層的なことではない。我々日本人が皇室という存在に対してどのような「加害」を行っているか、そして、我々がその差別構造にいかに無自覚であるかということである。
2.まず我々が直視すべきは、天皇とは日本において唯一「人権」を事実上剥奪された存在であるという事実である。
「象徴」として天皇家を戴くということは、我々日本人が総意の名の下に特定の家系を差別し、特別な地位という檻に閉じ込め、「国民・伝統・形式のためにのみ祈る装置」であることを強いる行為に他ならない。
この「高貴なる犠牲」を中心として国民が一致団結し、国家の連続性を担保しているのが日本という国の正体だ。我々は特定の家系を差別し、生贄に捧げることで統合している集団なのだ。この構造的残酷さを自覚せず、単なる敬愛の対象としてのみ語るのはあまりに偽善的である。その自覚はあるか。
3.この差別構造が最も醜悪な形で露呈したのが、眞子元内親王の結婚騒動だった。
当時、国民総出で繰り広げられたバッシングの本質は、「皇族に『結婚の自由』などあると思うな。結婚したいのであれば、我々主権者のお眼鏡にかなう男を連れてこい」という、むき出しの差別意識である。我々日本人は、一人の女性の「自己決定権」を完膚なきまでに蹂躙したのだ。その自覚はあるか。
4.極めて不可解なのは、その舌の根も乾かぬうちに、今度は「女性の権利向上」や「男女平等」といった文脈で「愛子天皇」を待望する世論である。
自分たちがつい先日一人の女性の人権を踏みにじった事実には目をつむり、今度は「進歩的な人権派」を気取っている。
だが、少しでも想像力があれば気づくはずだ。愛子内親王に「天皇の座」を求めることは、本来であれば結婚によって皇籍から離脱し自由を得るはずだった彼女から基本的人権を永久に奪い去るという、残酷な宣告だ。彼らはそのむき出しの暴力性を「男女平等」という美辞麗句でグロテスクに飾り立て、彼女を「人権のない檻」に閉じ込めようとしているのだ。
繰り返すが、天皇家とは個人の幸福を追求することが許される存在ではない。国民全体のためにのみ存在することを許された「純粋なる形式」である。その「差別」を大前提としたシステムに中途半端に「個人の尊重」や「平等」などという近代的な人権概念を持ち込むことは致命的な自己矛盾である。その自覚はあるか。
5.特定の血筋を差別し、職業選択も結婚も言論も居住もありとあらゆる自由と権利を奪い続けることに対し、近代的な理性を備えた人間であれば耐えがたい罪悪感を覚えるはずである。
しかし、日本人はその罪悪感から逃げるために天皇家を「神聖なる存在」として奉り、莫大な公金を投じて尊厳と格式という金箔を貼り付けてきた。「尊崇の念」さえ抱いていれば、一族から自由と権利を奪い、生贄にしても許されるという傲慢さだ。
これらはすべて自分たちが加担する非人道的な構造から目を逸らし、己の良心を麻痺させるための「鎮痛剤」に過ぎない。その自覚はあるか。
6.「伝統を守りたい」という形式維持の欲求と、「差別者になりたくない」という人権思想のいいとこどりは不可能である。
天皇制に人権思想を持ち込み、愛子内親王を「男女平等」という文脈で語るのであれば、その論理的帰結は「皇室廃止」以外にあり得ない。人権と世襲差別は水と油であり、混ぜれば制度は内側から崩壊するからだ。
誤読されないようにはっきり言っておくが、私はここで「女性天皇を容認せよ」、「皇室を廃止せよ」と主張しているのではない。また、逆に「伝統を死守せよ」と言っているわけでもない。
もし皇室というシステムを存続させたいのであれば、「我々は人権を蹂躙する差別者である」という汚名を甘んじて受け容れなければならない。逆に、その差別者という汚名にどうしても耐えられないのであれば制度を解体するほかはない。
最も許しがたいのはそのどちらの覚悟も持たず、「自分は差別などしていない」という無邪気な顔をして、安全圏から「女性天皇で男女平等」や「麗しき伝統」などとさえずることだ。
冗談じゃないよ。
どうしてこうも簡単に、バカと若者は「TACO市」こと高市早苗にホイホイ騙されちまうんだ?
あの勇ましいことばっか言う口先パフォーマンスに酔ってるのか知らんが、お前らが熱狂してるその「強そうなリーダー」の足元、ちゃんと見てんのかよ。
まず、自民党だぞ?
あの「壺(統一教会)」とのズブズブの関係、何一つ精算されてないだろ。
「裏金」問題だって、トカゲの尻尾切りで終わらせて、しれっと公認だの推薦だの出して復権させてる。
TACO市はそれを「保守の団結」だか何だか知らん美辞麗句で包んでるけど、要は「身内には激甘」ってだけじゃないか。
そんな腐敗した組織のトップを「ジャンヌ・ダルク」みたいに崇めてる奴ら、脳みそ湧いてんのか。
百歩譲って、清廉潔白じゃなくても経済さえ良くしてくれりゃいいよ。
でも、こいつらやる気ないじゃん。
消費税減税?
「検討を加速する」
選挙目当てのガス抜きで、終わったら「財政規律が~」とか言い出すのが目に見えてる。
安全保障が大事なのはわかる。けど、TACO市のやり方は外交じゃなくてただの「挑発」だろ。
中国との不和を不必要に加速させて、経済的なパイプを自分から切っていくスタイル。
威勢のいいこと言ってる間に、日本企業の体力がどんどん削がれていく。
一番言いたいのはこれだ。
「日本経済が衰退した!」「給料が上がらない!」「若者に希望を!」
この30年、日本が衰退の一途をたどっていた間、ずっと政権の座に座り続けてたのは誰だ?
お前らが苦しい今の状況を作った「A級戦犯」に、なんでまたハンドル握らせようとしてるんだ?
「高市さんなら変えてくれる」?
寝言は寝て言え。彼女はずっとその自民党の中枢にいた人間だぞ。共犯者だよ。
騙されてるんじゃない。
思考停止して、雰囲気だけで投票して、自分たちの首を絞めるロープを編んでることに気づいてないだけだ。
TACO市(Takaichi Always Chickens Out)が、本当にヤバい時に国民を守ると思うか?
これまでの言動見てりゃわかるだろ。
フリードマンの理論に忠実に日本経済を眺めれば、この結論は感情論でも陰謀論でもなく、単なる算術の帰結にすぎない。
貨幣は実体経済の上に外生的に価値を持つのではなく、供給量と需要、そして期待によって価値が決まるという貨幣数量説を出発点に置けば、インフレは常に貨幣的現象であり、財政赤字の規模や美辞麗句でごまかせる問題ではない。
日本は長年、国債発行で歳出を賄い、それを中央銀行が事実上吸収することで低金利と安定を演出してきたが、これは構造的には借金で借金を返すロールオーバーを続けているだけで、健全化ではなく時間稼ぎの自己放尿にすぎない。
合理的期待を持つ経済主体は、いずれ貨幣供給の増加が物価に転嫁されることを織り込み始める。
その瞬間、賃金交渉、価格設定、資産配分が同時に動き、インフレ期待が自己実現的に加速する。
政府は成長戦略を語り、日銀は出口論を先送りし、評論家は「日本は特別だ」と唱えるが、それらはすべて観測不能な奇跡に賭ける態度であり、フリードマン流に言えば政策当局自身の自己放尿である。
財政規律を失った国家が、インフレ税という見えない形で国民から徴収し、実質債務を薄めようとするなら、そのコストは通貨価値の毀損として社会全体にばらまかれる。
結果として起きるのは、財政放漫と金融緩和のダブル放尿であり、片方だけを批判してもう片方を免罪する態度こそが最も非科学的だ。
市場は期待で動き、期待は一度アンカーを失えば、理屈通りに暴走する。
日本経済が今立っているのは、奇跡を信じて延命するか、痛みを伴う調整で信認を守るかの分岐点であり、どちらを選んでも魔法はない。
オチから逆算して作る映画としてはジャンルが不適合すぎるし、ワンダーが足りない46点。
アメフト部のいじめっ子が殺害され、その後も同じ学校の優等生ぶってるカスとか主人公チームの鎮痛剤中毒の陰キャとかが次々殺されるんだけど、犯人は誰なの~っていう、スクリームとかラストサマーの5番煎じみたいな映画。
冒頭のタイトルバックへのシークエンスは悪くない。見るからにジョックス!みたいなアメフト部員が家に帰ってきたらなんか様子がおかしい。気付くとあちこちに自分のいじめの証拠写真が貼られていてバットだったかゴルフクラブだったかを持ってウォークインクローゼットに飛び込むも犯人はいない。と思ったら服の下からにゅっとナイフを持った手が伸びてきてアキレス腱をズバーッ!血がビュシャー!犯人が姿を現すと顔には被害者本人を模ったマスクが。めった刺しにされるアメフト部員。そしてタイトル。
THERE'S SOMEONE
INSIDE YOUR HOUSE
ドゥーン(効果音)
一番の問題は「INSIDE YOUR HOUSE」展開がこのあともうほとんど出てこないんだよ。
殺害場所は教会、パーティー会場、家(後から侵入)、トウモロコシ畑。最初だけかい!タイトル最初だけかい!
家という一番安心できるはずの閉鎖空間に何者かがいる?いない?というハラハラと思いもしないところから飛び出してくるビックリ、みたいなのがほとんどない。別に家スラッシャーじゃなきゃダメってことはないんだけど、タイトルのワクワクがあったからこそのギャップでだいぶがっかりしちゃった。
主人公が一緒に住んでる祖母が夢遊病って設定なんだけど、この設定が結局「え?誰かいるの?」→「おばあちゃんが寝ながらやっただけでした」っていう部分にしか生きてこないのも正直マイナス。
そしてこれ系のジャンル映画にしては殺害動機が薄い。薄すぎる。
冒頭のアメフト部員は同じアメフト部のゲイの部員をボコボコに殴るっていじめをしてたんだけど、別に殺したわけじゃなし、なんならそのゲイ部員は普通に試合も出ててエース選手。殺すほどのことかなぁ。
次に殺される優等生ぶった無神経のカスはなんかあるたびにヒロインぶってXのカスインフルエンサーみたいな美辞麗句を並べたてながら、実は裏ではポッドキャストでレイシスト発言連発してたことがわかる。嫌な女だけど殺すほどのことかなぁ。
次に殺される主人公チームの陰キャは鎮痛剤中毒で母親の鎮痛剤を盗んでいたことが断罪される。う~ん、殺すほどのことかなぁ。
で、結局は本丸は犯人の街の権力者で金持ちの父親の殺しだったことが最後にわかるんだけど、別に犯人が父親を恨んでいるのはいいよ。これも殺すほどのことかなぁと思うような動機だったけど、親子の怨って外部からは計り知れないからさ。
で、まぁ。外面ばっかりいいけど裏で汚いことをしてる父親を罰するためにいろんなやつの秘密を断罪したって理屈がつくんだけど、八つ当たりすぎるし支離滅裂すぎる。結局、別にそいつらを殺したことが父親殺しにいい影響を与えたことは何もなく、逆に無駄に警戒させただけでは?と思うし。
「いじめ」「ヘイトスピーチ」「ヤクブツ」というSNSでバレたら炎上させられる=社会的に殺害されるやつ~をスラッシャー文脈に落とし込もうとしたのかなという部分も読み取れなくはないけど、だとしたら犯人の動機は父親殺害じゃなくてもっと炎上系に寄せておいた方がいいと思った。メッセージの接続性が弱すぎる。
そういえば、主人公が抱える秘密が親友を文字通り炎の中に叩き込んだことだったのは示唆的に過ぎたかも。
過去の類似作品に対してやや良かった点としては犯人が殺害対象の顔を模った仮面を被っているという不気味さ。で、まぁそれが「お前自身=お前の中にあるお前の罪に向き合え」というメッセージになっていたり、サムワン・インサイド(中に誰かいる)を回収している部分はまぁ、悪くはなかった。
この投稿は、特定の政治的意図に基づいて巧妙に構成された「プロパガンダ・フィクション」である疑いが濃厚。以下の3点から、その不自然さと作為性を指摘しておきたい。
1. 「プロの秘匿性」と「家族への無防備な情報漏洩」の致命的な矛盾
筆者の父は「元警察官」であり、公安も実態を掴めない「非公然部門」の人間だったとされる。そのような機密保持のプロが、将来的にどのような社会的立場になるか予測不能な幼少期の子供に対し、組織の内情を明かし、訓練現場へ連れ回すだろうか?メンバーの誰もが 「警察に一度もお世話にならなかった」ほど徹底した秘匿主義と、息子に「秘密軍の特別隊員」という自覚を持たせるという脇の甘さは、まったくもって両立し難い。これは、「事情を知り得る立場だった」というアリバイを後付けで補強するための、創作上の設定と見るのが妥当だろう。
おそらく、この文章の最大の狙いは、統一教会・勝共連合という組織が持つ「反社会性」や「搾取」という負のイメージを、「時代の荒波に消えていった男たちのロマン」へと書き換えることにある。 「実態は牧歌的なクレー射撃サークルだった」「父やおじさんたちは優しかった」という描写を重ねることで、彼らが関与したとされる数々の疑惑や、現在進行形で苦しむ被害者の存在を、読み手の意識から巧みにフェードアウトさせている。これは典型的な「毒抜き」の手法だ。
なぜ、これほどまでに長文かつ重層的な構成なのか。それは長文と論理や議論を好む「はてなユーザー」の習性を利用するためであろう。
・メタ認知を逆用した誘導: 単なる美辞麗句ではなく、組織の形骸化や「退屈な日常」をリアリズムとして提示することで、懐疑的な読者の批判精神を「現場の実態は案外こんなものか」という納得感で中和させている。
・逆説的カタルシスの利用: 「サタン国家(日本)を愛してしまった」という物語は、教義上の矛盾を「個人の苦悩と愛国心」という美しい物語に昇華させる。この劇的な逆説には、論理的な議論を好む層も食いつきやすい。
・政治的現実の隠蔽: 安倍元首相銃撃事件以降、白日の下に晒された「汚い人脈とやり口」を、「実は深い憂国の情があった」というナラティブで上書きする。これは、現体制の負の側面を温存させたい勢力にとって、極めて都合の良い広報活動(ナラティブ・ビルディング)として機能している。
・初期ブクマカの不自然さ: 極めつけはこれだ。藪をつついて蛇が出るのも面倒なので詳述は避けるが、見ようによっては、工作の端緒が露呈しているようにも見受けられる。
【結論】
この投稿は、個人の回想を装いながら、検証不可能な「個人的体験談」という形式で読者の思考停止を誘発するポスト真実的(Post-truth)なアプローチである可能性が高い。
付言するなら、我々が心にとめ置くべきは、この文章が事実か否かにかかわらず、「こうした文章によって、誰が、どの不都合な事実を歴史の闇に葬り去り得るか、Cui bono(誰の利益になるか)」の視点である。
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最近、村を支配する46人の盗賊団乃木坂の首領Fido(肩書きの無駄に長い男だ)が、インフルエンサーをやっている村人に近づいてはなにやらしきりと「勧誘」しているようだ。だが、騙されてはいけない。Fidoが勝つ、というか、もはや「負けない」、保証は今やなく(「いつ」の問題)、負ければ「すべての美辞麗句を並べたてた契約」がふいになるのだ。それを見越した上での「うまい話」なのだから、とらぬ狸の皮算用に騙される方がバカだ。ちょっと弊社に持ち帰って検討させていただきますね、と言っておけばいい。
かたや、ピザ屋および検非違使は組織であり、気前のいい「スポンサー」のついた組織は人員を補充して老いない。いつか、それも遠くない未来に、クリティカルピリオドが来て、Fidoの老いの進行と切れるカード不足のどちらかにより、Fidoは負ける。これは論理的な結論だ。
その上で、一本の蜘蛛の糸を垂らす。あなた、良いことも一度だけしましたよね、でも、天国に金も女も地位ももっていけませんよ、全部渡しなさい。私は慈悲深いお釈迦様ですよ。登る途中で風が吹くかもしれませんね、それは私のせいではありません。
別に俺はアンフェじゃない。むしろ、日本のジェンダーギャップ指数が低いことには危機感を持っている。
でも、その解決策として大学入試に「女子枠」を作るのは最悪手だ。
あれはアファーマティブ・アクションなんて高尚なもんじゃない。
この国が18年間、女の子に「理系なんて似合わない」という呪いをかけ続けてきた責任を、たまたまその年に受験する18歳の男子学生と将来18歳になるいまの未成年男子たちに全部押し付ける行為だからだ。
左派やリベラルを自認する人たちにこそ、この制度のグロテスクさに気づいてほしい。
本来、理工系に女子が少ないのは、大学入試のせいじゃない。もっと手前だ。
幼少期からの女の子は愛嬌、理系はオタクっぽいという刷り込み、ロールモデルの欠如、長時間労働が前提で女性が働きにくい研究職の現場。これら社会全体の構造的欠陥が原因だろ?
本来なら、政府や大人が数十年かけて労働環境を変え、教育を変え、女子が自然と理系を目指せる土壌を作るべきだった。
だから彼らは手抜きをしたんだよ。
根本的な社会改革をサボり、入試の定員という一番いじりやすい数字だけを操作して、「ほら、多様性達成しました」とドヤ顔をする。
これはやってる感を出すための行政のアリバイ作りであり、企業のSDGsアピールと同じだ。
その手抜きのツケを払わされているのは誰だ?
政治家でも大学教授でもない。これから社会に出ようとしている、罪のない未成年男子たちだ。
さらにタチが悪いのが、この制度が「経済格差」を無視している点だ。
想像してみてほしい。
都内の裕福な家庭に生まれ、中高一貫の女子校で手厚い教育を受け、塾にも通えた女子学生。
地方の貧困家庭に生まれ、バイトしながら国公立を目指す男子学生。
女子枠という制度下では、前者が「弱者」として優遇され、後者が「強者」として割を食う可能性がある。
これはリベラルが最も嫌うべき「生まれによる固定化」の助長じゃないのか?
女性であるという属性一つで、個々の経済的背景や努力のプロセスを無視して下駄を履かせるのは、平等の実現どころか、新たな特権階級の創出にすぎない。
女子比率を上げれば偏差値の見栄えがいい、補助金が取りやすい、ダイバーシティランキングが上がる。
そこに学生への教育的配慮はない。あるのは大学経営と、世間体のための数字合わせだけだ。
本当に女子学生を増やしたいなら、女子枠なんて安易な劇薬じゃなく、大学卒業後のキャリアパスを保証するとか、研究職の給与を上げるとか、そういう出口改革をするのが筋だろ。
出口が泥沼のまま入り口だけ広げても、不幸な人を増やすだけだ。
最後に、これから受験を迎える男子、そして将来受験する男の子たちへ。
君たちが枠を奪われるのは、君たちの能力が不足しているからでも、君たちが「男性という加害者」だからでもない。
単に、この国の大人が社会構造を変える努力を放棄して、そのコストを君たちに転嫁したからだ。
積極財政が正義だの、緊縮が正義だの、毎度この国の議論は温度管理できてないボイラーみたいに暴発しては沈黙し、挙げ句に誰も責任取らないまま「まあ何とかなるっしょ」で自己放尿される。
この行き当たりばったり文化そのものが、マネーの価値を平然と蒸発させてきた元凶なんだよ。
お前ら、いい加減、積極財政バラマキなのか、日本版DOGE緊縮なのかはっきりしろよ。
国家運営の舵取りが、酔っ払いのハンドル操作みたいに左右フラフラしてるんだから、通貨の信認が溶けないほうが奇跡だ。
マネーの価値ってのは信頼の凝縮物であって、政府の気分と人気取りのスケジュール帳で勝手に増減させていいもんじゃないのに、毎年自己放尿みたいな意味不明な政策転換を浴び続けてる。
しかも悪いことに、緊縮と積極を同時に名乗るダブルバインド体質だからまともな評価基準すら作れない。
まさに事業仕分けと財政出動のダブル放尿だよ。どっちも方向が逆だから地面に落ちる前に蒸発して、国民の懐と未来だけが自己放尿でびしょ濡れになる。
俺が言いたいのは単純だ。マネーの価値を守るというのは、美辞麗句で国民を安心させることでも、政治家が胸を張って絵空事を叫ぶことでもなく、インフレを抑えたいなら通貨供給と財政を統制しろ、成長を取りたいなら目的と期間を明示して必要な投資に限って財政を動かせ、ってことだ。
だが今の政策運営は、目的関数が毎年変わり、指標はその場しのぎ、説明責任はゼロ、そして失敗コストはすべて一般国民に押しつけるという、最悪の構造的リスクを生み続けて自己放尿している。
この国の通貨の価値が下がるのは、外部環境のせいでも国際情勢のせいでもなく、国家運営という内部の愚が原因だ。
積極なのか、緊縮なのか、どちらを選ぶにせよ、まずは自分の足で立って、自分が何を守りたいのか明瞭に数式化し、その上で責任を負う覚悟を示せ。
「清潔感」のミソは「清潔」という言葉だろう。「清潔」であることと「きれい」であることは厳密にいえば違うのだが、人間の日常生活では「きれい」の感覚のほうが重視され、なおかつヒューリスティックな判断ではきれいなものは「きたないものと比較して」おおむね清潔であるので、この2つの概念はごっちゃにされやすい。
既に使い古された例示ではあるが、あなたがこれから2つのマグカップのうちどちらかを使って水を飲めと言われたら、どちらを使うだろうか。
どう考えても、「清潔」なのはカップBだ。しかし人間の認知はカップBを「きたない」と感じるようにできている。実際にはカップAのほうが「不潔」なのだが、カップBと比較するとカップAのほうが「きれい」に感じられる。
近代以前であれば、つまり細菌という概念が見つかっておらず、また除菌技術も発達しておらず、身分によって享受できる衛生環境に差があった時代にあっては、「きれい/きたない」と「清潔/不潔」はおおむね対応していた。水で洗ったものは洗っていないものに比べてきれいであり、清潔である。整えられた貴族の髭は農民の無精髭に比べてきれいであり、清潔である。つるりとした富豪の肌は皮膚病で荒れた貧民の肌と比べてきれいであり、清潔である。それで何の問題もなかった。
しかし現代社会ではこの2つがズレる局面が多々出てくるようになった。多くの人が毎日風呂に入るようになった時代にあっては、短い無精髭よりも丁寧に梳られた豊かな髭のほうが雑菌が多いだろう。伝染性の皮膚病が少なくなった社会にあっては、アトピーが目立つ風呂上がりの肌よりもシャワーを浴びる直前の滑らかな肌のほうがよっぽど不潔だ。コーヒーの染みが落とせていない洗いたての白衣と当直で着たきりの真っ白な白衣なら、多くの医師が前者を清潔だと判断するだろう。
そして現代人も、多くのひとは「清潔」ではなく「きれい」を重視して生きている。スマートフォンという雑菌の塊をレストランのテーブルに置くひとは大勢いる。多くの店舗では手袋をはめたまま食事の準備と会計を行う(素手で都度手を洗ったほうがよっぽど清潔だろうに)。増田は風呂を浴びてメガネをかけてから洗い物をする習慣があるが、メガネをかけるときに手が雑菌まみれになることはあまり気にしないようにしている。気にしていたらきりがないからだ。
「清潔感」はうまい言葉だ。「~感」といったとき、対象が実際に「~」であるか否かは場合による。AIの絵に「ジブリ感出てる」と言うとき、AIの絵はジブリの絵ではないことが明らかだが、いっぽうで、「それってどうなのよ感がある」と言ったら「それってどうなのよ」と言いたいのだ。
では「清潔感」はどちらか。伝染性のないアトピーの患者やシャワー浴びたての無精髭やシワが寄った洗いたてのシャツに発動され、水虫の美男子や立派な髭をたくわえたイケオジや昨日から着たままの洒落た服に発動されない感覚は、どう考えても実際の「清潔」を推し量っているのではない。それは「きれい」さを推し量っている。
「~感」がついている以上、「清潔感」が実際の清潔を表していなくとも間違いではない。その意味で、「論理的」に概念の破綻を示そうとする人たちはおかしい。しかし同時に、「清潔感」を必死になって正当化しようとするのもおかしい。それは原始的でヒューリスティックな認知に過ぎず、倫理的に正当化しうるものではない。カップAを反射的に選びたくなる本能を美辞麗句で飾り立てているだけだ。
もちろん本能に従うことは別に悪いことではないが、本能に基づいてくだされた判断を道徳的に正当化することはできない。「巨乳の女性が好き」という本能にしたがっておっぱいの大きな配偶者を選ぶのは個人の自由だが、それを道徳的に正しいと言い募ることができないのは誰にだってわかるだろう。私たちは、清潔感という言葉の定義をめぐる不毛な論争にかまけるのではなく、清潔感に意味を持たせようとするのをやめるべきなのだ。それは本能的な反射にすぎないのだから。
本日発表された「生成AI時代の創作と権利のあり方に関する共同声明」は、表面上は高尚な倫理を装いながら、実際には旧来の出版・映像業界が自らの利権と支配を維持するために発した時代錯誤の自己防衛声明にすぎません。文化の担い手を名乗りながら、彼らは文化を盾にして独占し、創作の自由を自らの縄張りに囲い込もうとしています。AIという新たな知的基盤を「脅威」と決めつけ、法律や科学的事実を踏みにじってまで、自分たちの都合に合わせた“新しい原則”を作り出そうとする姿勢は、文化の発展を自ら人質に取る行為と言わざるを得ません。
声明で繰り返される「オプトイン原則」なる主張は、法的根拠のない作り話にすぎません。日本の著作権法第30条の4は、情報解析、すなわち機械学習を適法な行為として明確に認めています。これは国会で正式に審議され、国際的にも承認された条文です。それをあたかも存在しないかのように無視し、独自の“原則”をでっち上げているのは、法の支配を自分たちの感情で上書きしようとする行為にほかなりません。法治国家の根幹を軽んじるこうした態度こそ、社会にとって最大の脅威です。
声明では「WIPO著作権条約の原則にも反する」との一文が見られますが、これは国際法を理解していないか、あるいは意図的に誤解させる表現です。WIPO著作権条約第10条は、各国が技術革新との調和を図るために例外を設けることを明確に認めています。日本の著作権法第30条の4は、その条項に基づく正当な立法です。にもかかわらず、これを「国際的に反する」と断じるのは、国際法の権威を自らの商業的利益のために悪用する詭弁にすぎません。法を装いながら法を捻じ曲げる態度は、文化への裏切りです。
声明が要求する「学習データの透明性」は、AI技術の基本構造を理解していない人々の発想です。生成AIは著作物を丸ごと保存しているわけではなく、膨大な情報を数学的に抽象化して学習しています。どの作品を学習したのかを特定することは、理論的にも不可能です。にもかかわらず、それを“透明性”という美辞麗句で求めるのは、AI研究を停止させるための方便に見えます。理解できない技術を「危険」と断じて封じ込めようとする態度は、科学の否定であり、知の進歩への挑戦です。
著作権法第1条は、「著作物の公正な利用を通じて文化の発展に寄与する」ことを目的としています。声明はこの理念を真っ向から踏みにじり、創作の自由を業界の利権で縛りつけようとしています。もし学習をすべて許諾制にすれば、日本のAI研究は立ち行かなくなり、創作者自身もAI支援という新しい表現手段を奪われるでしょう。つまり、彼らは「創作者を守る」と言いながら、実際には創作の未来を殺そうとしているのです。
声明全体に共通するのは、「自分たちだけが正義である」という思い込みです。AIに学習されることを「搾取」と呼びながら、彼ら自身は長年、他人の文化を引用し、再構成してきました。著作物の「利用」は自分たちの権利であり、AIの「利用」は侵害だという二重基準は、もはや論理ではなく自己保身のための感情論です。著作権を対価交渉の武器に変え、創作の自由を締めつける構図は、文化産業ではなく利権産業の姿です。
7.未来に向けて
AIは人間の創造性を奪うものではなく、拡張するものです。学習を犯罪扱いし、技術革新を恐れ、自由な発想を封じることこそ、文化への裏切りです。私たちは、旧来の特権構造に縛られた声ではなく、法と科学と自由の原理を信じる社会の声を支持します。AIと人間の創造性は対立するものではなく、共に進むべき文明の両輪です。文化を守るとは、未来を拒むことではなく、未来に開かれることです。
【発出者】
しかし、それは**「盛唐の繁栄」**のような一時の幻影にすぎなかったのではないか。
京都本社はまるで長安のごとく、黄金の瓦が輝き、経営陣は「任天堂の時代は続く」と豪語した。
だが、いまその都の地下では、制度が腐り始めている。
Switch帝国はすでに、静かなる安史の乱を迎えているのだ。
唐王朝が詩と礼の形式に縛られたように、任天堂もまた「伝統」の檻に閉じ込められた。
一見、美しい理念だ。だがそれは同時に、挑戦を抑圧するシステムでもある。
内部では新規IPは通りにくく、革新よりも“前作の延長線”が求められる。
若い才能は沈黙し、外部のスタジオに依存する比率が増えている。
それはもはや「遊びの会社」ではなく、形式を守るだけの官僚機構だ。
いまや多くの開発が社外で進められ、本社は“監修”と“承認”しか行わない。
それは、かつての唐が地方軍閥に統制を失った姿とまるで同じだ。
「任天堂ブランドの統制」を掲げながら、その実態は分権化の嵐。
唐の末期、民の不満が爆発して起きたのが黄巣の乱だった。
その炎が都を焼いたように、いま任天堂を蝕むのはユーザーの無言の反乱だ。
SNSにはこうした声が並ぶ。
その兆しは、すでに“数字に現れない危機”として進行している。
■「盛唐の夢」から醒めよ
唐の玄宗は晩年、滅びゆく王朝を前にしてなお、「盛唐の夢」を見続けた。
任天堂もまた、Switchの成功を“永遠の栄光”と錯覚している。
「任天堂らしさ」という美辞麗句の下で、創造の精神は失われつつある。
経営陣の決断が遅れ、技術革新に出遅れ、クラウドやAIの波を見逃す。
その様は、かつて文明の中心にありながら衰退していった唐と何が違うのか。
唐の長安も、いつか砂に埋もれた。
任天堂のSwitch帝国も、いずれ同じ運命を辿るかもしれない。
任天堂が“盛唐”を抜け出せるか、それとも“後唐”として歴史に消えるのか。
その分岐点は、もう目前に迫っている。
新高市政権の行く末を考えると、冷徹に論理を積み上げれば積み上げるほど、笑えない結論しか見えてこない。
円安は加速する。なぜか?「物価高対策の積極財政」などという、真逆のアクセルを踏む自己放尿的政策をやらかすのが目に見えている。
結果は火を見るより明らかで、財政出動がさらなる円売りを誘発し、通貨の信用を失わせる。つまり、やればやるほど事態を悪化させるのだ。
にもかかわらず、支持者は何を考えているか。
実に単純だ。NISAや投資信託でそこそこの金融資産を抱えている層が、自分の残高が数字の上で増えていくことに快感を覚える。
円安で株価が上がると、自分が勝ち組になった気分になる。だから「高市政権でいいじゃないか」と手を叩くわけだ。
だがそれは、実体経済での購買力が毀損しているという根本的事実を見ない、きわめて近視眼的な自己放尿に過ぎない。数字の幻影に溺れるのは勝手だが、それはゆっくりと自分の生活基盤を腐らせる自傷行為だ。
さらに問題なのは、金融資産を持たない貯金オンリー層の反応だ。彼らは現実を直視せず、「外国人が悪い!」といった陰謀論にすがる。
まるで肉屋を愛する豚のように、自分を切り刻む政策を支持して歓声を上げるのである。政府が撒き散らす「対策」の美辞麗句を信じ、なけなしの現金を目減りさせられながら「俺たちの国を守るんだ」と自己放尿する。
だがその実態は、刃物を握った肉屋に自分の喉を差し出す家畜の自己放尿でしかない。
新高市政権は、円安と物価高をさらに加速させる。積極財政と物価高対策を同時に唱える自己放尿的ポーズに酔いしれ、金融資産保有層は数字の幻影を喜び、金融資産を持たない層は陰謀論で溶ける。
全員が自ら進んで損をする構造に突っ込むわけだ。冷徹に分析すれば、これほど滑稽で哀れな自己放尿はない。だが哀れんでやる必要もない。なぜなら、これは本人たちが望んだ結末だからだ。
誰を選ぶかって?
前職はすでに態度を表明している。
一方、新人候補は「わざわざ新しく立候補した」わけで、市長を助けるために「市長不信任の現状を変え」ようとして「新たに行動した人」なのだから、市長支持派のステルス立候補である可能性が前職より「遥かに高い」。
どんな美辞麗句を並べようと。
特に態度を表明していない人は、限りなく黒に近いと言わざるを得ない。
さらに、現状不支持を表明しているとしても「市長と直接話をすることで、意見が変わった」と言い始める人が現れない、とは考えづらい。
そういうことを「頭のいい企み」と考えるような人が、この手の活動をしている人に多いのはいい加減気づいてもいいだろう。
とか言い放つような輩が総理大臣をせしめるような現状なんだから。
今回は、「不信任案を可決した議会を支持するかどうか」が主題となっているので、「不信任案を可決した議会の構成員つまり前職」に、「前回投票した人と同じ人に」投票するのが正しい投票行動です。