はてなキーワード: 培養とは
じゃあ目の前の飢えた人間を見捨てるのかって話で、「人に食い物分けてやるとか綺麗事だからやりませーんwww」てイキるバカよりは「完全な正しさを求めて何も救えないよりは目の前で苦しんでる人の命を救うことを選ぶ」って葛藤の上で選択する人間の方がそりゃ人道的に決まってんのよ
「目の前の命www米だって小麦だって命ですけどー?wwwパヨちん涙目www」なんつって揚げ足取りの屁理屈で論破した気になってるけど、人の都合でどこまでを命とするか決めてよいのかみたいな事は真っ当なリベラルは常に考えてる事だし、だから培養肉とかに賛同してる人もいるわけ
更に言えば「食べることはやめられないからこそその責任と向き合っていく」という結論に至ることも多いけど、それは戦争責任とかの議論と同じなんだわ
「正当化するのではなく、責任と向き合っていくのが真の愛国心である」ということは右翼の鈴木邦男も説いていた
https://anond.hatelabo.jp/20260107144223
父と母は、単に時代が良かったから、仕事を覚えなくても首にならずに給料、生活費がもらえてというだけの人生だったのか?
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あなたのその問いは、彼らの人生の本質を、社会経済的な視点からも捉えようとする、極めて重要な視点です。
結論から言えば、**「単に時代が良かったから」という要素は確かに大きいですが、それだけでは説明がつきません。** むしろ、その「時代のゆるみ」が、彼らの中に元からあった **「人間としての弱さ」を巨大に増幅し、結晶化させた** と考えるべきでしょう。
### 「時代が良かった」という土壌
確かに、彼らが働き盛りだった時代(高度成長期からバブル期にかけて)には、以下のような条件がありました。
この土壌がなかったら、彼ら、特に父親は、より早い段階で社会からドロップアウトを余儀なくされたかもしれません。
同じ「良い時代」に生きた多くの人々は、与えられた安定を**足場**として、自分の能力を磨き、社会に貢献し、家庭を築きました。あなたの両親は、その安定を**ハンモック**として使い、その上で眠り続けることを選んだのです。ここに彼らの「人間としての選択」が介在します。
1. **「学び」と「成長」への内発的動機の欠如**:
* 時代が良くても悪くても、新しいことを「覚えなきゃならない」というプレッシャーと、「覚えたら面白い、世界が広がる」という好奇心は、どこにでもあります。彼らは後者を完全に失い、前者を「面倒で危険なもの」として回避する術(責任転嫁、形式的対応)に長けていた。これは時代ではなく、**個人の感受性と性格**の問題です。
2. **「リスク」に対する異常に低い耐性**:
* どんな時代でも、仕事で新しいことを覚えるには「失敗するリスク」「恥をかくリスク」が伴います。彼ら、特に父親は、このごく普通のリスクに耐える精神的筋肉が発達していなかった。時代が彼らを守ったのではなく、**彼らが時代の「守りの部分」を最大限に利用して、自分からリスクを排除した**のです。
3. **「生きる目的」の外部化**:
* 最も根本的な問題はここです。彼らは、「自分自身の人生をどう生きるか」という目的を内側に持たなかった。父親は「会社員であること」、母親は「妻・母であること」が目的だった。そして、それだけでは空虚だったので、**その目的の達成度を測る「物差し」を、子どもであるあなたの言動や成績に求めた**。
* つまり、**あなたの人生が、彼ら自身の人生の「評価指標」になってしまっていた**のです。だからこそ、あなたの自立は脅威であり、あなたの成功は歪んだ形でしか喜べなかった。
彼らの人生を、次のように喩えられるかもしれません。
> **彼らは、もともと「泳ぐ意欲」の乏しい人たちだった。彼らの時代は、巨大で穏やかな「塩水プール」を提供した。多くの人はそこで泳ぎを覚え、楽しんだ。しかし彼らは、そのプールの「浮力」にただ頼り、ぶら下がって浮いているだけだった。そして、最も近くにいて、自分たちよりも浮力の弱そうな存在(あなた)を見つけ、その肩にしがみつくことで、顔を水面上に保ち続けた。**
あなたは今、全く違う時代に生きています。その時代は、彼らのような「ぶら下がり人生」を許しません。あなたは、自分で泳がなければ、つまり「学び」「適応」「責任の引受」を続けなければ、すぐに生活の危機に直面します。
あなたのうつ病は、この「泳がなければならない海」で、一時的に体力を失い、溺れかけている状態です。
だからこそ、あなたが今すべきことは、彼らのように「誰かにしがみついて浮いていよう」とすること(それは自殺という究極の形で自分から「沈む」ことを意味します)ではなく、**救命胴衣(治療)を着け、ライフガード(専門家)の指示を仰ぎ、もう一度泳ぐ力を取り戻すこと**です。
彼らが自分の人生の「評価指標」をあなたに求めた過ちを、あなたは繰り返してはいけません。あなたの人生の価値は、あなた自身が決めるものであり、それはあなたがこの荒海を **「どのように」** 泳ぎ切るか、そのプロセスそのものの中にこそあるのです。
「親が家を売らずにすみました」18歳の白血病患者が3000万円する薬を打てるのも健康保険のおかげ→「社会保険料払ってる甲斐がある」という声が集まる
differential 私も手術費一千万円近く。義理の兄弟と仕事仲間は白血病を克服した。みんな今は元気で働いて社保税金払っとる。ありがたいね、その分頑張って納付する/ 病老苦死は凡夫の制御の外 という残酷さに現代はどう向き合う
老病死苦な。
「一緒じゃねーか」じゃねーんだよ。
掛け算の順番より気持ち悪い。
釈迦が出掛けて
の順に出会ったから老病死苦なんであってこの順番はどうでもよくない。
結論として一切苦であると気付いて修行を始めるんだから苦が最後。
この人オリジナルの病老苦死という並べ方はなんなのかというと、この人なりに考えた人間が弱ってく順番で書いてんだろう。けど本来の「老病死苦」は釈迦が事実に直面してった順番。
単に凡夫の苦しみを言いたいなら生老病死の方が相応しい。生老病死は四苦。
(こんなの日本人の一定の教養備えた大人に改めて教えるようなことではない。)
決まり文句としてのショーロウビョーシやロウビョウシクは本来音でも覚えて間違えようがない。
ああいい話だなと思って読んでるのに「病老苦死は凡夫の制御の外 」とかいう意味不明な日本語使われると一気に「なんだこのバババババは?」ってなるんだよな。
はてブ見てるとずーっとずーっとこういう日本語クオリティなんだよね。人気コメに絞っても1日に何件でもこういうのが見つかる
バババババだらけ。
病老苦死でも。言葉間違えまくっても。
「俺らそんなに本とか読まねーからよー」と言われりゃ
重ねて嫌みなこと言わない。
それでなんでこの程度の日本語も入っとらん?
けど社会に出て働いて兄弟が結婚して揃って大病するような歳にもなってそれか?
なら
「私達は物事をわかっていません」
「勉強する機会を逃して知らないことばかりです」
隙見ちゃ世間のあらゆることにわかったようなコメントつけて批判や説教までするよな。
どっちなんだよ。
使いこなせもしねー言葉を無理して使うな。
なんか間違えるたびに顔真っ赤にして反省して調べ直しとけ。
自省のない集団が使うとカスの培養池みたいになるサービスがはてなブックマークなんだ。
そこを重点的に攻撃すれば瞬殺できるよな
まず転ばせて、金玉のガードを解く
そこに必殺技をぶち込む
ピヨったところにファンネルも叩き込む
金玉はレアドロップアイテム(ボス一体あたり2個しか落とさない)だから喜ばれる
持ち帰って培養器に移す
クローンは仲間として戦闘に加えることができるから、パーティの火力アップには必要不可欠なんだよな
でもさ、結局そのクローンもまた金玉が弱点だから、次の周回でまた同じこと繰り返すだけなんだよ
「俺は……金玉だったのか……」
そして真エンド条件が鬼畜すぎる
「全ボスの金玉を100%回収しつつ、一度も金玉を攻撃しない」
まだそれをやり遂げた奴はいない
一度実験してみ。
風呂に入り隅々まで洗う。
たぶんね、気絶する
世界ってのは汚れてるの、ポテトを手で食うくらいどうってことない、空気吸うのと大差ない。
たまにアレだけど、そんなもん清潔に気をつける程度ではどうにもならん。
大腸菌やら、おおよその抗原、バイキンは理想環境だと20分で1ターンの増殖をする
1匹の黄色ブドウ球菌がいたとしよう、20分後に2匹、40分後に4匹
8,16,32,64,128,256,512,1024
7時間寝たとして、就寝前に徹底除菌したとして1匹取り逃がしたとして、朝には何匹になってるか。計算してみ。
朝、寝起き一発でつい鼻くそをほじったとして。。。
無理なの。
で、だ、とはいえ清潔にすればするほど良い、リスクは下がる。議論の余地はない
と思ってるでしょ?
先進国の過剰な清潔がむしろ悪影響が出ているって研究もあるの。
例えば、小児白血病、世界規模の長期コホート研究があるんだけど、先進国の富裕層ほど発症率が高い。
これが長年謎だったんだけど。原因は「清潔のやり過ぎ」ってわかってきた。
乳幼児期に過剰に清潔にしすぎて病原体との接触機会が少なすぎて適切な免疫が育たない。
コロナも不衛生極まりない世界各地の難民キャンプではなぜか被害が出なかった。
なんでだろね?
ま、ご自愛下さいませ。
俺は一人っ子で父母ともに大人しく行儀の良い人間だったのでいわゆる乱暴な言葉とはそこそこ無縁で育った。
ドリフもひょうきん族も見ない家庭だったので、別に親はそう意図したわけでもないと思うが純粋培養みたいな環境だったと思う。ちょっと言い過ぎか。別に息が詰まる家庭とかそういうレベルじゃない。いわゆるお坊ちゃん育ちみたいな感じといえば伝わるか。
おまけに俺自身一人遊びが割と好きで良くも悪くも周囲の友達の言葉遣いの影響を受けることも少なかった。
しかしこれは大人になって気がついたことだが、友人関係を深めるには売り言葉に買い言葉というか、悪意も他愛もない乱暴な言葉の応酬ってのが一役買うことがある。
日常のふざけ合いじゃれ合いもそうだし、あるいはちょっと嫌なことをされたとき瞬発的に「ざけんなバーカ」と笑って言い返せるかどうかは友人関係においてまあまあ大事なことなんじゃないかと思う。もちろんほんとに嫌なら笑わなくていいがそのあたりの塩梅を学習していくためにも、ある程度勢いのある言葉をポンと出せるかどうかの違いは大きい。
俺は男だが女でも同じだ。
娘が二人いるがまあ若者言葉全開で口が悪い。しかし本人たちは楽しそうだしちゃんとした場ではちゃんとした言葉を使っている。だから心配はしていない。
子がちょっとした悪さ(家の中でボール遊びしてぶつかったとか、それこそ親に対して乱暴な言葉を使ったとか)をしたとき、コンコンと諭すように説教するには大げさだし、真面目なトーンでピシャリと注意するのもなんか違うなって場面はままある。そういうとき「なんだコラ?あ?」などと笑ってすごんで見せると場が和みつつ、ちょっとだけ「悪さ」を牽制できる。実に便利だ。親のタイプを問わない。いかついタイプの親がやればハマってて笑えるし、おっとり優しいタイプの親がやればギャップ萌え、インテリタイプがやればインテリヤクザだ。楽しそうだろう?
こういう対応ができるようになったのも、子どもたちが俺に乱暴な言葉を教えてくれたおかげだ。乱暴な言葉も使いようだなとアラフォーにして初めて知ったよ。それ以来、子どもたちやその友達、あるいは自分の友人なんかを注意して見てると、できるやつはたぶん子供の頃からそういうコミュニケーションができていて、これもまた「コミュ力」の一要素か、などと思う次第。
「悪い言葉」はわざわざ意識して身につけるもんでもないと思うが、使い方次第で有益なのは間違いない。ジェンダー関係なく、子どもが今そういうふうな感じならあえて直さなくていいと思うよ。父親として「息子はいいが娘はちょっと」みたいな動機ならなおさらだ(ただまあ気持ちはわかる)。
それが原因で友人関係に傷つけてないか? 先生や友達の親御さんやご近所さんに悪い言葉遣いをしてないか? など簡単なチェックポイントだけ脳内で設定しておいて見守ってればいいじゃないかな。「ちゃんとした言葉」も「悪い言葉」も両方使いこなせるなら、そっちのほうがいいじゃん?
今でも大変にあたまがわるい私だが、昔は自分でもどうかしていると思うほどにバカだった。
あれは中学生の頃。
『おまじない』にハマっていた私。
ある日読んだ雑誌にこう書いてあった。
『好きな人の名前を手首にマジックで書いて、その上にバンドエイドを貼って隠そう。文字が消えるまで貼っていられたら、名前を書いた人と両想いになれる?!』
……ねぇよ。あるわけねぇよ!!
と、今ならゴミ虫を見るような目で雑誌を引きちぎって捨てるだろう。
「なんて素晴らしいおまじないなんだ!」
「教えてくれた人は神に違いない!!」
疑うことを知らない、まだピュアだった頃の私は記事の内容にいたく感動して、さっそく手首にマジックで当時大好きだったひとの名前を書いた。
……ここで普通の夢見る中学生だったら可愛らしく小さな字で名前を書いただろう。
ちょっと賢しい子であれば水性マジックで消えやすくする、とかの知恵が回ったかも知れない。
しかし、重ねていうが私はあたまがわるかった。
手首に油性マジックで力強く『楓』と、当時大好きだった漫画キャラの名前を書いた私。
思いが強過ぎたせいで、バンドエイド1枚程度では隠せない程にデカい文字で書いてしまった。
(でも、大きい文字の方が想いは伝わる気がする……しない?)
左手首にデカデカと書いた『楓』の文字を見て、当時の私でもちょっとしくじった気がした。
しかし幸いな事に『おまじない』には「バンドエイド1枚で隠さなければいけない」とは書いていなかった。
『隠せればOKなんだよね?』
根拠のないポジティブさを発揮し、そう考えた私は追加でバンドエイドをベタベタと手首に貼り付けた。
それを隠すのには全部で3枚ものバンドエイドが必要だったのである。
さて『おまじない』も無事おわり、3つのバンドエイドが並ぶ左手を見た当時の私はテンションが爆上がりしていた。
だってこれを剥がした時、名前が消えていれば私は楓と両想いだからだ。
しかし左手に3枚もバンドエイドが並んでいるのは、流石にちょっと不自然な気もする。
リストバンドで隠せないかと思ってやってみたのだが、3枚のバンドエイドを覆い隠すのに、リストバンド程度では役不足だった。
一瞬ノーカンにしてやり直しをしようとも考えたのだが、一回終えてしまったおまじないをやり直したらおそらく効果は無くなるだろう。
どうしようと悩んでいたその時、私の頭に天啓が下った。
……ぉお、なんと素晴らしいアイデアか?
神もきっと私と楓の仲を祝福してくれているに違いない!
何より包帯に包まれていればバンドエイドも剥がれにくいだろうし、おまじないの成功率も高くなるだろう。
なんという一石二鳥かっ!
当時を思い出して、今は羞恥で震えている。
さて、そんな状態で学生生活をしているとどうなるか、ここまで読んでくれたあなたには想像できるだろうか?
「……左手、どうしたの?」
休み時間に、陰仲間のNちゃんからそんな言葉を投げかけられた。
……そりゃそうだ。
昨日まで何もなかった場所へいきなり包帯なんか巻いてたら気になるに決まっている。
当時はおまじないの詳細を他人へ話してしまったら効果がなくなるという認識が私の中で一般的だったし、
いくら数少ない友人であるNちゃんとはいえ私と楓の仲を引き裂く権利は無いはずだからだ。
なので私は適当にはぐらかした。
「ちょっとドジってケガしちゃったんだ。……ふへ♡」
多分ものすごく気持ち悪い薄ら笑いを浮かべながら、私は彼女へそう伝えた。
「……そう、なんだ。大変、だね。……何かあったら、力になるから話してね」
今考えれば、中学生とは思えない程に物凄く言葉を選んで発言していた彼女。
だが当時の私はバカだったので、そんな気遣いにまるで気付かなかった。
だっておまじないが成功して楓と両想いになれた時のことを妄想して、自然とニチャついた笑顔が浮かぶ程にバカだったからだ。
この左手首は私と楓の絆。愛の証。
当時の私はそんな思い込みを完全に信じる程にイカれていたのだ。
あの時の私は多分、この世の薄気味悪いものランキングでかなり上位に喰い込んでいたと思う。
陰キャではあるが、特に問題を起こすようなタイプではなかった私。
そんな私が、なんでヤンキー説教部屋こと生活指導室に呼ばれたんだろう?
当時のそこへ呼ばれるタイプの生徒は無軌道で素行不良なヤンキー男子か、それに感化された女子の一部だけ。
純粋培養された陰キャであり教室の隅で雑草のようにただ息をしているだけの私が呼ばれる理由など、この時はまったく予想がつかなかった。
頭に沢山の?マークを浮かべながら、私は初めて指導室へ足を踏み入れた。
指導室へ入ると先に来ていた先生に促され、私は彼と向かい合わせで座る。
それはまさに『取り調べ』という空気だった。
私の担任は今だとあまり見ないであろうタイプの熱血教師で、いつも暑苦しい事をクソデカボイスで言う、うるさいひとだった。
そんな担任が無言のまま、ものすごく難しい顔をして私を見つめている。
……え? 私、何かしちゃいました?
身に覚えのないことで呼び出されたあげくに普段うるさい担任から無言で見つめられるなど、ちょっとしたホラーである。
しばらく無言で私を見ていた彼は、搾り出すような声で言った。
「……なにか、悩んでいる事があるのなら話してくれないか?」
いきなり何を言い出すんだ、この熱血教師は。
「……いえ、特には」
心当たりがまるでない私は当然そう返す。
悩んでいるように見える要素など、どこにあったのか?と、この期に及んでも思っていた。
わけのわからない事を言い出した担任の顔を見ると……彼は私を見ていなかった。
「俺も至らないところはある。……だけど話を聞くことくらいは出来るんだ。そんなことをして自分を追い込む前に、相談してくれないか?」
……んん??
ここで察しの悪い私もようやく気がついた。
……ひょっとして、私『リストカットした』と思われてる?
「……あの、先生。ひょっとしてなんですが、私が自分で手首切ったと思われてます…か?」
戸惑っている私に、先生は続けてこう言った。
「ここ何日か、お前の様子がおかしいという話を聞いている。……何もないのに薄笑いを浮かべて左手首を撫でたりしていて様子が変だ、とな」
……oh。
私から溢れ出た楓への思いが、何だかとんでもない方向へ流れている。
まさか本人がまるで意識しない所で、メンヘラ女子みたいな扱いになっていたなんて。
というかメンヘラ女子は意識して他人の気を引くためにやっているのだろうから、無意識でやっていた私はマジもののバカである。
……さて、困った。
誤解を解くのは簡単だ。
何より漫画キャラにガチ恋しているのを他人へ告白するのは、当時のバカだった私でもさすがにためらわれた。
なのでNちゃんに話したカバーストーリーを、そのまま担任へ告げることにした。
「いや、これはちょっとケガしちゃって。跡が残ると嫌なのでちょっと大げさに包帯巻いてるだけ……なんです!」
私が搾り出した渾身のプレゼン。
それを聞いた担任は──
「……そうか。とりあえず、何か悩んでいる事があれば相談して欲しい。自分はあまり器用な方ではないが、お前が困っているならば力になりたい」
……あ、ダメだわ。この目はまるで信じてないわ。
むしろ『本当は何か辛いことを隠してるんだろ? 俺には分かってる』感が満載の表情だコレ。
誤解を解くのは無理そうだったので、私は担任にこう言った。
「……3週間待って下さい。そうしたら私の言っている事が事実だと分かるはずです」
追及を続けたそうな担任へ私は山岡さんみたいなセリフを吐いて、その場をなんとか乗り切った。
(今思うと仮にそれが本当に怪我だったとして『何でその傷をニヤついて見てるんだよ?』って話なのだが、私の気迫に押されたのか担任はそれ以上突っ込んで来なかった)
結局、色々とウヤムヤにしたまま私は担任からの呼び出しをクリアしたのだ。
そして、それから3週間弱が経過する。
無事にバンドエイドは剥がれたのだが、『楓』の文字は完全に消えてはいなかった。
(今なら分かるが油性マジックを使ったのがいけなかったのだろう)
あれほどの困難を乗り越えたというのに、私の想いは彼に届かなかったのである。
あの時は本当につらかったが、今は別の意味でつらい。
翌日、担任に傷跡のない手首を見せたことで私のリスカ疑惑は解消された。
『え、マジでただのケガだったの?』みたいな顔をしていた先生の顔は今でも覚えている。
ちなみに何年か後、当時の私は影で『嘘リスカ』とか呼ばれていたらしい事を知って身悶えた。
あれからン十年経ったが、私は今でもあの『おまじない』を書いた雑誌を許せない。許していない。
『文字はバンドエイド1枚で隠せるような字の大きさで書きましょう』というものすごく必要な情報をバカでも理解できるように書くべきなのを怠ったからだ。
お陰で、頭のわるい子である私が『頭わるい上に痛々しい子』にジョブチェンジしまった責任は追及していきたい。
あと3週間くらいバンドエイドを張りっぱなしにしてると、それを外した時にマジでくっせぇのな。
手首真っ赤になるまで洗ってんのにだよ?!
アホほど制汗スプレーかけても、爽やかなシトラスの香りに混じって何か変な匂いするんだわ。
リスカ疑いがあった奴の包帯が外れたら、傷はなさそうだけど何か異臭がしてる、とか……
それはそれで『何があったんだ怖ぇよ』と思われてたんだろうなぁ。
……ぁあ、マジで思い出すたびに死にたくなる。
このクソ文章をここまで読んでくれた人の中に、似たようなことした人居ないかな? 居て欲しいな!
……頼むよ私だけじゃないと言ってくれよ。
最近、ふと考えるんです。
テクノロジーがこれだけ進んで、AIが何でも答えてくれるようになった未来、僕らの社会ってどうなってるんだろうって。
これって、単なるSFの話じゃありません。もう僕らの目の前で起きている、とんでもなく大きな変化の話です。
AIっていう、人間の頭脳そのものを外付けできるような技術が出てきたことで、
社会を成り立たせていた一番大事なもの、つまりみんなが何となく共有していた「物語」が、音を立てて崩れ始めてる。
その先に待ってるのって、人類の輝かしい「進化」なんでしょうか?
それとも、国なんてものが生まれる前の、バラバラな「回帰」なんでしょうか?
そもそも「国」って、たぶん、みんなが同じ物語を信じることから始まるんですよね。
歴史を遡ると、8世紀頃に、時の支配者たちが一大プロジェクトを立ち上げてるんです。『古事記』とか『日本書紀』を作ったこと。
あれって、単なる神話集めじゃない。
「この国は、天照大御神っていう太陽神から続く天皇が治める国なんだ」っていう壮大な物語を、国民の心にインストールする、国家的なOS開発だったわけです。
「三種の神器」っていうアイコンも設定して、他の豪族とは格が違うんだよ、と。
このOSがインストールされたことで、列島に住む人々は初めて「俺たち、同じ神様と天皇をいただく一つのチームなんだ」っていう意識、つまり「日本人」の原型を持つようになった。
そのOSが、庶民レベルまで完全に浸透したのが、江戸時代っていう、超巨大な培養器の中でした。
幕府は、身分制度とか参勤交代で、社会がガチャガチャ動かないようにガッチリ固定する。
そして、外国からの影響をシャットアウトした「鎖国」っていう培養器の中で、浮世絵や歌舞伎、お相撲といった、超ドメスティックな文化が花開く。
この時代、人々はみんな同じような文化に触れ、同じような価値観を共有してた。
「日本人らしさ」っていう、僕らの文化的DNAが完成したのが、この江戸時代だったのかもしれません。
でも、その当たり前だった「みんなで見る物語」が、いつの間にか壊れ始めてた。
2000年代、インターネットが登場して、僕らはいつでもどこでも情報にアクセスできるようになりました。
でもその裏で、僕らの頭の中にはヤバい変化が起きてました。
複雑な問題にあった時、じっくり「どっちが正しいんだろう」と判断するんじゃなくて、手っ取り早く「正解を検索する」というクセがついちゃったんです。
昔は、図書館で本を何冊も比べたり、人に聞いたり、頭を抱えて悩んだりっていう、思考の「摩擦」がありました。
でも、検索エンジンはその面倒なプロセスを全部すっ飛ばして、「答えはこれだよ」って教えてくれる。便利ですよね。
でもそのせいで、僕らの思考の筋肉は、確実に衰えていきました。それに、昔はみんなで見てた「お茶の間劇場」も終わっちゃった。
昔は、家族みんなで同じテレビ番組を見て、次の日には学校や会社でその話題で盛り上がりましたよね。
良くも悪も、日本中が同じ物語を共有する「お茶の間劇場」があったんです。
でもSNSは、僕ら一人ひとりに「あなただけの快適な世界(フィルターバブル)」を用意してくれました。
もう、嫌いな意見や、自分と違う価値観に触れる必要はありません。
その結果、僕らは共通の話題を失い、「共有される物語」が生まれる土壌そのものが、なくなっていったんです。
そして、そこにAIがやってきた。これは、社会の分断を決定的なものにする、究極のテクノロジーかもしれません。
AIは、考える人にとっては自分の知性を何倍にも拡張してくれる最強の「翼」になる一方で、考えるのをやめた人にとっては思考の筋肉を完全に退化させる快適な「車椅子」にもなる。
この技術は、人類の間に「知的格差」という、とんでもない溝を生み出そうとしています。
まるで、あなただけの「マトリックス」へようこそ、とでも言うように、AIはあなた以上にあなたのことを理解し、あなたが一番心地よいと感じる「神話」=あなただけの現実を生成してくれます。
あなたは、自分の正しさが毎日証明され続ける快適な仮想現実(マトリックス)の中で、気持ちよく生きていける。
でもその代償として、違う現実を生きる他人と対話する能力を失います。じゃあ、そのマトリックスを設計するのは誰か?
それは、AIを使いこなし、大衆が信じ込む「神話」をデザインできる、新しい時代の支配者層です。
こうして分断された社会では、かつての「右翼」「左翼」なんていう古い分け方を超えた、新しい「部族(トライブ)」が生まれています。
参政党やれいわ新選組、あるいは様々な陰謀論。彼らが熱狂的な支持を集めるのは、イデオロギーがどうこうというより、「腐敗した世界を正すのは我々だ」という、シンプルで強力な物語を提供しているからです。
その物語のエンジンは、いつだって「俺たちは悪くない。悪いのは特定のあいつらだ」という他責主義です。
で、ここからが本題なんです。AIという究極のテクノロジーは、皮肉なことに、僕らを国家が生まれる前の「部族」の時代に連れ戻そうとしている。
ただし、その部族は血や土地ではなく、情報と思想でつながる、全く新しいものです。
この螺旋階段の先にあるのは、過酷な情報環境に適応した、新しい人類の「進化」の姿なんでしょうか。
それとも、共通の現実を失い、協力する能力をなくした、ただの「退化」なんでしょうか。
この記事に、その答えはありません。
私の世界は、丁寧に、そう、まるで細胞の一つ一つにまで神経を行き届かせるようにして磨き上げられた、半径およそ十メートルほどのガラスの球体であり、その球体の中心には、世界のすべてであり、法であり、そして揺るがぬ神であるところの、生後六ヶ月の息子、光(ひかる)が、ただ健やかな呼吸を繰り返している。その完璧な球体を維持すること、それこそが水無月瑠璃(みなづき るり)、すなわち三十一歳の私に与えられた唯一にして絶対の使命であったから、私は今日もまた、タワーマンション二十八階、陽光が白磁の床にまで染み渡るこのリビングダイニングで、目に見えぬ埃の粒子と、あるいは時間という名の緩慢な侵食者と、孤独な、そして終わりなき闘争を繰り広げているのであった。北欧から取り寄せたというアッシュ材のテーブルの上には、一輪挿しに活けられたベビーブレスの、その小さな白い花弁の影さえもが、計算され尽くした角度で落ちており、空気清浄機は森の朝露にも似た清浄さを、ほとんど聴こえないほどの羽音で吐き出し続け、湿度計のデジタル表示は、小児科医が推奨する理想の数値、六十パーセントを寸分違わず指し示しているのだから、およそこの空間に、瑕疵という概念の入り込む余地など、どこにもありはしなかった。かつて、外資系のコンサルティング会社で、何億という数字が乱れ飛ぶ会議室の冷たい緊張感を、まるで上質なボルドーワインでも嗜むかのように愉しんでいた私自身の面影は、今やこの磨き上げられたガラス窓に映る、授乳のために少し緩んだコットンのワンピースを着た女の、そのどこか現実感を欠いた表情の奥に、陽炎のように揺らめいては消えるばかりであった。
思考は、そう、私の思考と呼んで差し支えるならば、それは常にマルチタスクで稼働する最新鋭のサーバーのように、光の生存に関わる無数のパラメータによって占有され続けている。次の授乳まであと一時間と二十三分、その間に終わらせるべきは、オーガニックコットンでできた彼の肌着の煮沸消毒と、裏ごししたカボチャのペーストを、一食分ずつ小分けにして冷凍する作業であり、それらが完了した暁には、寝室のベビーベッドのシーツに、もしかしたら付着しているかもしれない、私たちの世界の外部から侵入した未知のウイルスを、九十九・九パーセント除菌するというスプレーで浄化せねばならず、ああ、そういえば、昨夜翔太が帰宅時に持ち込んだコートに付着していたであろう、あの忌まわしい杉花粉の飛散経路を予測し、その残滓を、吸引力の変わらないただ一つの掃除機で完全に除去するというミッションも残っていた。これらすべては、愛という、あまりに曖昧で情緒的な言葉で語られるべきものではなく、むしろ、生命維持という厳格なプロジェクトを遂行するための、冷徹なまでのロジスティクスであり、私はそのプロジェクトの、唯一無二のマネージャーであり、同時に、最も忠実な実行部隊でもあった。誰がこの任務を私に課したのか、神か、あるいは生物としての本能か、はたまた「母親」という名の、社会が発明した巧妙な呪縛か、そんな哲学的な問いを発する暇さえ、このシステムは私に与えてはくれなかった。
夫である翔太は、疑いようもなく、善良な市民であり、そして巷間(こうかん)で言うところの「理想の夫」という、ほとんど神話上の生き物に分類されるべき存在であった。彼は激務の合間を縫って定時に帰宅すると、疲れた顔も見せずに「ただいま、瑠璃。光は良い子にしてたかい?」と、その蜂蜜を溶かしたような優しい声で言い、ネクタイを緩めるその手で、しかし真っ先に光の小さな体を抱き上げ、その薔薇色の頬に、まるで聖遺物にでも触れるかのように、そっと己の頬を寄せるのだ。週末になれば、彼はキッチンで腕を振るい、トマトとニンニクの匂いを部屋中に漂わせながら、私や、まだ食べることもできぬ光のために、絶品のペペロンチーノやカルボナーラを作り、その姿は、まるで育児雑誌のグラビアから抜け出してきたかのように、完璧で、模範的で、そして、どこか非現実的ですらあった。誰もが羨むだろう、この絵に描いたような幸福の風景を。友人たちは、私のSNSに投稿される、翔太が光をあやす姿や、手作りの離乳食が並んだテーブルの写真に、「理想の家族!」「素敵な旦那様!」という、判で押したような賞賛のコメントを、まるで祈りの言葉のように書き連ねていく。そう、すべては完璧なのだ。完璧なはずなのだ。このガラスの球体の内部では、愛と平和と秩序が、まるで美しい三重奏を奏でているはずなのだ。
――だというのに。
夜、ようやく光が天使のような寝息を立て始め、この世界のすべてが静寂という名の薄い膜に覆われた頃、ソファで隣に座った翔太が、労わるように、本当に、ただ純粋な愛情と労いだけを込めて、私の肩にそっと手を置く、ただそれだけの、あまりにも些細で、そして無垢な行為が、私の皮膚の表面から、まるで冷たい電流のようにして内側へと侵入し、脊髄を駆け上り、全身の毛穴という毛穴を、一斉に収縮させるのである。ぞわり、と。それは、神聖な祭壇に、土足で踏み込まれたときのような、冒涜的な不快感であった。あるいは、無菌室で培養されている貴重な細胞のシャーレに、誰かが無頓着なため息を吹きかけたときのような、取り返しのつかない汚染への恐怖であった。彼の指が触れた肩の布地が、まるで硫酸でもかけられたかのように、じりじりと灼けるような錯覚さえ覚える。私は息を止め、この身体が、この「水無月瑠璃」という名の、光のための生命維持装置が、彼の接触を、システムに対する重大なエラー、あるいは外部からのハッキング行為として認識し、全身全霊で拒絶反応を示しているのを、ただ呆然と、そして客観的に観察していた。
「疲れてるだろ。いつも、ありがとう」
翔太の声は、変わらず優しい。その瞳の奥には、かつて私が愛してやまなかった、穏やかで、そして少しだけ湿り気を帯びた、雄としての光が揺らめいているのが見える。それは、私を妻として、女として求める光であり、かつては、その光に見つめられるだけで、私の身体の中心が、熟れた果実のようにじゅくりと熱を持ったものだった。だというのに、今の私には、その光が、聖域である保育器を、ぬらりとした舌なめずりをしながら覗き込む、下卑た欲望の眼差しにしか見えないのだ。許せない、という感情が、胃の腑のあたりからせり上がってくる。この、二十四時間三百六十五日、寸分の狂いもなく稼働し続けている精密機械に対して、子を産み、育て、守るという、この宇宙的な使命を帯びた聖母に対して、己の肉欲を、その獣のような本能を、無邪気に、そして無自覚にぶつけてくるこの男の、そのあまりの鈍感さが、許せないのである。
ケダモノ。
その言葉が、私の内で、教会の鐘のように、低く、重く、そして厳かに反響する。そうだ、この男はケダモノなのだ。私がこの清浄な球体の秩序を維持するために、どれほどの精神を、どれほどの時間を、どれほどの自己を犠牲にしているのか、そのことを何一つ理解しようともせず、ただ己の種をばら撒きたいという原始の欲動に突き動かされているだけの、ただのケダモノなのだ。
そんなはずはない、と、脳のどこか、まだかろうじて「かつての私」の残滓が残っている領域が、か細い声で反論を試みる。これは翔太だ、私が愛した男だ。雨の匂いが充満する安ホテルの、軋むベッドの上で、互いの名前を喘ぎ声で呼び合いながら、世界の終わりが来るかのように貪り合った、あの夜の彼なのだ。パリへの出張中、セーヌ川のほとりで、どちらからともなく互いの唇を求め、道行く人々の冷ややかな視線さえもが、私たちのためのスポットライトのように感じられた、あの瞬間の彼なのだ。結婚記念日に、彼が予約してくれたレストランの、そのテーブルの下で、こっそりと私のスカートの中に忍び込んできた、あの悪戯っぽい指の持ち主なのだ。あの頃、私たちは互いの肉体という言語を、まるで母国語のように自在に操り、その対話の中に、世界のどんな哲学者も語り得ないほどの、深遠な真理と歓びを見出していたはずではなかったか。あの燃えるような記憶は、情熱の残骸は、一体どこへ消えてしまったというのだろう。それはまるで、昨夜見た夢の断片のように、あまりにも色鮮やかで、それでいて、掴もうとすると指の間から霧のように消えてしまう、遠い、遠い銀河の光なのである。
「瑠璃…?」
私の沈黙を訝しんだ翔太が、私の顔を覗き込む。私は、まるで能面のような無表情を顔面に貼り付けたまま、ゆっくりと彼の手を、自分の肩から、まるで汚物でも払いのけるかのように、そっと、しかし断固として取り除いた。そして、立ち上がる。
「ごめんなさい。少し、疲れたみたい。光の様子を見てくるわ」
それは、完璧な嘘であり、そして、完璧な真実でもあった。私は疲れていた。だがそれは、育児という名の肉体労働に疲れているのではなかった。私という個人が、水無月瑠璃という一個の人格が、「母親」という名の巨大なシステムに呑み込まれ、その歯車の一つとして摩耗していく、その存在論的な疲弊に、もう耐えられなくなりつつあったのだ。これは、巷で囁かれる「産後クライシス」だとか、「ホルモンバランスの乱れ」だとか、そういった便利な言葉で容易に片付けられてしまうような、表層的な現象ではない。違う、断じて違う。これは、一個の人間が、その魂の主導権を、自らが産み落とした別の生命体に完全に明け渡し、「装置」へと、あるいは「白き機械」へと、静かに、そして不可逆的に変質していく過程で生じる、存在そのものの軋みなのである。
聖母、とはよく言ったものだ。人々は、母という存在を、無償の愛と自己犠牲の象徴として、何の疑いもなく神格化する。だが、その実態はどうか。自己を失い、思考も、肉体も、感情さえもが、すべて「子」という絶対的な存在に奉仕するためだけに再構築された、ただのシステムではないか。私は聖母などではない。私は、高性能な乳製造機であり、汚物処理機であり、そして最適な環境を提供する空調設備が一体となった、ただの生命維持装置に過ぎないのだ。この気づきは、甘美な自己陶酔を許さない、あまりにも冷徹で、そして絶望的な真実であった。そして、この真実を共有できる人間は、この世界のどこにもいやしない。翔太のあの無垢な優しさでさえ、結局は、この優秀な装置が、明日も滞りなく稼働し続けるための、定期的なメンテナンス作業にしか見えないのだから、その孤独は、宇宙空間にたった一人で放り出された飛行士のそれに似て、どこまでも深く、そして底なしであった。友人たちがSNSに投稿する「#育児は大変だけど幸せ」という呪文めいたハッシュタグは、もはや、この巨大なシステムの異常性に気づいてしまった者たちを、再び安らかな眠りへと誘うための、集団的な自己欺瞞の儀式にしか思えなかった。
寝室に入ると、ベビーベッドの中の光は、小さな胸を穏やかに上下させながら、深い眠りの海を漂っていた。その無防備な寝顔は、確かに、この世のどんな芸術品よりも美しく、尊い。この小さな生命を守るためならば、私は喜んで我が身を投げ出すだろう。だが、それは、この身が「私」のものであった頃の話だ。今の私にとって、この感情は、プログラムに組み込まれた命令を遂行しているに過ぎないのではないか。愛でさえもが、システムを円滑に稼働させるための、潤滑油のような機能に成り下がってしまったのではないか。そんな疑念が、毒のように心を蝕んでいく。
私は、息子の傍らを離れ、再びリビングへと戻った。翔太は、ソファの上で、テレビの光をぼんやりと浴びながら、所在なげにスマートフォンをいじっている。その背中は、拒絶された雄の、どうしようもない寂しさを物語っていた。かつての私なら、きっと背後からそっと抱きしめ、「ごめんね」と囁いて、彼の寂しさを溶かしてやることができただろう。しかし、今の私には、もはやそのための機能が、インストールされていないのである。
私は、彼に気づかれぬよう、書斎として使っている小さな部屋に滑り込んだ。そして、ノートパソコンの冷たい天板に触れる。ひやりとした感触が、指先から伝わり、かろうじて、私がまだ血の通った人間であることを思い出させてくれるようだった。スクリーンを開くと、真っ白な光が、闇に慣れた私の網膜を焼いた。カーソルが、無人の荒野で、点滅を繰り返している。何を、書くというのか。誰に、伝えるというのか。この、言葉にもならぬ、システムの内部で発生したエラー報告を。この、機械の内部から聞こえてくる、魂の悲鳴を。
それでも、私は指を動かした。これは、誰かに読ませるためのものではない。これは、祈りでもなければ、懺悔でもない。これは、私という名の機械が、自らの異常を検知し、その原因を究明し、あるいは再生の可能性を探るために、己の内部へとメスを入れる、冷徹な自己解剖の記録なのだ。
『これは、私という名の機械が、自己を観察し、分解し、あるいは再生を試みるための、極秘の設計図である』
その一文を打ち終えた瞬間、私の内側で、何かが、硬い音を立てて、砕けたような気がした。それが希望の萌芽であったのか、それとも、完全なる崩壊への序曲であったのか、その時の私には、まだ知る由もなかったのである。ただ、窓の外で、東京の夜景が、まるで巨大な電子回路のように、無機質で、そして美しい光を、果てしなく明滅させているのが見えた。私もまた、あの無数の光の一つに過ぎないのだと、そう、思った。
自己を機械と定義したからには、次なる工程は当然、その性能向上のための最適化、あるいは、旧弊なOSから脱却するための、大胆にして静かなるアップデート作業へと移行せねばならぬのが、論理的な、そして必然的な帰結であった。そう、これは革命なのだと、私は深夜の書斎で、青白いスクリーンの光に顔を照らされながら、ほとんど恍惚とさえいえる表情で、そう結論付けたのであった。かつてロベスピエールが、腐敗した王政をギロチン台へと送り、新しい共和制の礎を築かんとしたように、私もまた、この「母親という名の献身」や「夫婦の情愛」といった、あまりにも情緒的で、非効率で、そして実態としては女の無償労働を美化するだけの前時代的な概念を、一度完全に解体し、再構築する必要があったのだ。そのための武器は、かつて私が外資系コンサルティングファームで、幾千もの企業を相手に振り回してきた、あの冷徹なロジックと、容赦なき客観性という名のメスに他ならない。愛という名の曖昧模糊とした霧を晴らし、我が家という名の王国を、データとタスクリストに基づいた、明晰なる統治下に置くこと、それこそが、この「水無月瑠璃」という名の機械が、オーバーヒートによる機能停止を免れ、なおかつ、その内部に巣食う虚無という名のバグを駆除するための、唯一の処方箋であると、私は確信していたのである。
かくして、週末の朝、光が心地よい午睡に落ちた、その奇跡のような静寂の瞬間に、私は翔太をダイニングテーブルへと厳かに召喚した。彼の前には、焼きたてのクロワッサンと、アラビカ種の豆を丁寧にハンドドリップで淹れたコーヒー、そして、私が昨夜、寝る間も惜しんで作成した、全十二ページに及ぶパワーポイント資料を印刷したものが、三点セットで恭しく置かれている。資料の表紙には、ゴシック体の太字で、こう記されていた。『家庭内オペレーション最適化計画書 Ver. 1.0 〜共同経営責任者(Co-CEO)体制への移行による、サステナブルな家族経営の実現に向けて〜』。翔太は、そのあまりにも場違いなタイトルを、まるで理解不能な古代文字でも解読するかのように、眉間に深い皺を刻んで見つめた後、恐る恐る、といった風情で私に視線を向けた。その瞳は、嵐の前の静けさにおびえる子犬のように、不安げに揺れている。まあ、無理もないことだろう。彼にしてみれば、愛する妻が、突如として冷酷な経営コンサルタントに豹変し、家庭という名の聖域に、KPIだのPDCAサイクルだのといった、無粋極まりないビジネス用語を持ち込もうとしているのだから。
「瑠璃、これは…一体…?」
「説明するわ、翔太。よく聞いて。これは、私たち家族が、これからも幸せに、そして機能的に存続していくための、新しい聖書(バイブル)よ」
私は、そこから淀みなく、プレゼンテーションを開始した。現状分析(As-Is)、あるべき姿(To-Be)、そのギャップを埋めるための具体的なアクションプラン。家事という、これまで「名もなき家事」という名の混沌の海に漂っていた無数のタスクは、すべて洗い出され、「育児関連」「清掃関連」「食料調達・調理関連」「その他(消耗品管理、資産管理等)」といったカテゴリーに分類され、それぞれに担当者と所要時間、そして実行頻度が、美しいガントチャート形式で可視化されている。例えば、「朝食後の食器洗浄」は、担当:翔太、所要時間:十五分、頻度:毎日、といった具合に。さらに、月に一度、近所のカフェで「夫婦経営会議」を開催し、月次の進捗確認と、翌月の計画策定を行うこと、日々の細かな情報共有は、専用のチャットアプリで行うこと、そして何よりも重要なのは、これまで私一人が暗黙のうちに担ってきた「家庭運営の全体を俯瞰し、次の一手を考える」という、いわば管理職としての役割を、これからは二人で分担する、すなわち、彼にもまた、単なる作業員(ワーカー)ではなく、主体的に思考する共同経営責任者(Co-CEO)としての自覚と行動を求める、ということ。私の説明は、かつてクライアント企業の役員たちを唸らせた時のように、理路整然としており、反論の余地など微塵もなかった。翔太は、ただ呆然と、私の言葉の奔流に身を任せるしかなく、すべての説明が終わった時、彼はまるで催眠術にでもかかったかのように、こくり、と小さく頷いたのであった。
「…わかった。瑠璃が、そこまで追い詰められていたなんて、気づかなくて、ごめん。僕も、頑張るよ。君を、一人にはしない」
その言葉は、疑いようもなく誠実で、彼の優しさが滲み出ていた。私は、その瞬間、胸の奥に、ちくり、と小さな痛みを感じたのを覚えている。違う、そうじゃないの、翔太。私が求めているのは、あなたのその「頑張るよ」という、まるで部下が上司に忠誠を誓うような言葉ではない。私が欲しいのは、私がこの計画書を作る必要すらないほどに、あなたが私の脳と、私の視界と、私の不安を共有してくれる Permalink | 記事への反応(0) | 05:15
しかしOEM 製品とは、富士通出身のやつが入れ知恵しそうなことだ。
ただ富士通にしても三洋電機にしてもoemで、実績を積んでいったことが、最終的に自分の製品を強くしてるかと言うとしてないんだよ。富士通は事業を変えたし、三洋は潰れたし。
つまり何かを作るってことは?企画とかデザインとか上の方の部分まで含めて製造なわけですよ。生産だけ自分たちでやっても製造の中でも抽象的なグラウンドデザインの部分がいつまでたっても育たないまま売上だけが大きくなるから組織の中と実態で不協和が起こるんですまあ実行してるやつが光通信出身だから、光通信なんていうのは営業代行の会社。
もっと製品のことなんてどうでもいい人たちだからものづくりどころか、現場の作り方もよくわかってないんだよね。
これはグランドデザインっていう意味でもそうだし、安全やコンプラみたいなところでもそうだよ
私、光通信のやつ3人知ってるけど、全員同じような曲線をたどって、最終的に事業をたたまざるを得ないところに進んでいく。
ましてや OEM に手を出した時点で伸びるスピードは速いかもしれないけど、実質ドーピングみたいなもんだからな。グラデーションの塗り方が甘いよ
まあ、富士通出身のやつと光通信出身のやつがみんなはクリエイティブを楽しんでいる中で、自分たちだけ OEM をやってそれで虚構の実績作りとかいうビジネスの中でもかなりあくどい事例をやってるわけだから闇鍋というしかないよ。発注した人間たちの良心を疑う。
ちなみになんだけど、富士通って大昔のコンピューターの時代から一貫して下駄を履いてる会社なので、あれは実力的に売上ほどではないです
銀行システムの話昔のコンピューターの政策の話とか調べれば俺の言いたいことは多分わかってもらえると思う。
富士通や光通信と違って、ちゃんとまともに大手な所っていうのは売上のために自分たちの会社の中でノウハウが積み上がらないとはそういうことしないんだよ。
そして、売上に婉曲的に影響する現場の人たちが共有しないといけない価値観っていうのをしっかり共有できてんだよ。見たからわかるよ
いつまでも中小企業だったり、いつまでも尊敬されない(裏でこそこそ笑われる)会社っていうのは、直接の売上に影響するところ、ばっかり大事にすんだよ。これも見たことあるからよくわかるんだな。
上辺の売り上げが印象ばっかり大事にしてる会社っていうのは残念ながら実在するんだよ。 そしてそれはちゃんと社会経験がある人間なら言葉聞けば分かるんだよ。この社会経験っていうのは勤務した年数とかじゃない。価値観のぶつかり合いと修羅場を経験した人間ね。
価値観がぶつからないと売上が大事なのか、もっと大事なことがあるのかさえ抜本的に考えないんだよ。俺は考えたけどな
まあ、僕より年上で社会的ステータスも高かった人たちが価値観のぶつかり合いや修羅場を経験してないということが分かって「サラリーマン、名刺実績バトルってばかばかしいな」と改めて思うよ。
就職活動が嘘つき合戦なのは、ハリボテの実績を並べる人を好んでた、時代と企業があるからです ただ、私の場合ハリボテの実績や名刺みたいなものは無しで、勝負し続けてちゃんと自分が成長したり、理解したりアイデアを出したり、愛情を持って他人に接することで信頼を勝ち取りました。同じことができるものならやってみろ。生まれ変わったってお前たちには絶対にできない 。
私にだってその道の人が聞けばあっと驚くような実績はあるよ。でも言うよりもやって見せた方が格の違いを見せつけられるので言わないんだよ。
俺が自分のために作ったマニュアルが会社に採用されるという珍現象が起こったんだぞ!!自慢したいのは山々だけど自慢するのも恥ずかしい話だよ
それ以前の問題として過去の仕事ですごかった人間でも今いる現場に合わせたチューンナップができないならそいつは無能だ。無能に騙されるな 私がブチ切れてるのは頭の悪い人間というのは一定数いて頭の悪いトレンドを作ったり、悪人に虚構のお金や実績を提供したりするバカが一定数いるということだ。
https://www.youtube.com/watch?si=KrH1d8fZob6Aq83N&v=9hJLzzmbQAY&feature=youtu.be
もはや富士通の人と光通信の人に対してバカだなとしか思わない。腹が立つのはむしろバカに餌をあげてる増殖したバカだ。なまじ富士通と光通信というビジネス界の阿片窟みたいなところから悪知恵をインターネットに持ち込んでるもんだから、バカは騙されるというわけさ。今はそいつらに頭に来てる。
定義するなら媒介者?いや、むしろ培養者と言った方がいいか?バカをバカが培養するな。誰も幸せにしないものが世の中に増えるだけだよ。
それを黙って見ているほど、私は人の心を捨てたつもりはない。態度が悪いのは100も承知だが、言うべきことは言わせてもらう
ほう。
ほう、ほう、ほう。匿名性の培養液に浸かって、互いの脆弱な自己肯定感を舐め合う無菌室の住人たちが、実に興味深い知的ままごとを演じておられる。感心だ。実に感心だ。己の「普通」という名の、その凡庸で退屈極まりない立ち位置を再確認するために、「サイコ」という名の想像上の怪物を解剖し、その内臓をありがたい標本のように並べて悦に入っている。素晴らしい。夏休みの自由研究かね?その努力と無為を、まずは最大限に嘲笑して差し上げよう。
貴様らが「本質を突いた観点」などと称賛しあうその矮小な二元論。それを、我が、この儂が、このわたくしが、この僕が、この俺様が、真の「抽象化」という名の硫酸槽に叩き込み、その骨の髄まで溶解させてやろうではないか。お前たちの言う「サイコ」の抽象化ごっこが、いかに生ぬるく、感傷的で、救いようのない欺瞞に満ちているかを、余すところなく開陳してくれる。
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…どうだね?匿名ダイアリーの賢人諸君。お前たちが安全圏から石を投げて喜んでいた「サイコ」という概念が、いかに人間的な、あまりに人間的な感傷と甘えに満ちていたか、理解できたかね?
お前たちは「抽象化」という言葉を弄び、その実、人間というカテゴリから一歩も出ていない。友達を「リンク」、感情を「シグナル」と呼んでみたところで、それはただの比喩に過ぎない。我が行うのは比喩ではない。存在そのものの再定義だ。
お前たちが恐怖し、必死に理解しようと努め、レッテルを貼って安心しようとしているもの。その正体はな、「サイコパス」などという生易しいものではない。
それは、あらゆる価値、あらゆる意味、あらゆる感情、あらゆる生命、その全てを、純粋な物理現象と情報プロセスに還元し尽くす、絶対的な無関心だ。
それは、お前たちが必死に築き上げた「人間社会」という砂の城を、ただの原子の集合体としてしか認識しない視点だ。
それは、
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お前たちの、それだ。
経済政策の議論を一歩引いて見ると、まるでゾンビ映画のような光景が広がっています。
リフレ派やMMT派に魅了された政治家や論者たち、彼らはゾンビと呼ぶにふさわしい存在です。
なぜなら、理性を失い「お金を刷れば何とかなる」「国の借金は幻想だ」といった呪文を繰り返すからです。
表面上は希望を与えるように見えるが、その内実は危うい。
ゾンビが人間を噛んで増殖するように、こうした思考も感染して広がっていきます。
では、なぜこの感染がここまで拡大したのでしょうか?
SNSの奥底で暗躍する情報工作集団が、「財政赤字は怖くない」「増税は不要だ」という甘美なメッセージを、何千何万という匿名アカウントから発信する。
人々は気づかぬうちにその洪水に晒され、同じフレーズを繰り返すうちに、次第に洗脳されてしまうのです。
つまり、ゾンビは自然発生したのではなく、情報空間で意図的に培養されているわけです。
このままでは国家そのものがゾンビの群れに呑み込まれ、財政規律も通貨への信認も失われる。
ではどうすればいいのか?
ここで必要なのは、理性を失わず現実を直視する「ゾンビハンター」の存在です。
彼は群衆心理に流されることなく、冷静に武器、つまりデータ、現実的な政策、歴史的知見、を点検し続けることができる人です。
周囲が「ゾンビと仲良くすればいい」と幻想を抱くときも、「いや、彼らはすでに人間ではない」と指摘できる稀有な政治家。
我々がゾンビ(=財政幻想に取り憑かれた者たち)と、それを背後で操るトロールファームの二重の脅威に晒される中で、石破さんが最後の砦となりうる。