はてなキーワード: 集団的とは
まずテロは悪だ。これは双方そうだ。イスラエル側のやってる武装入植者のテロも、アメリカが制裁してるっちゃしてる訳で、まぁ随分甘い対応に見えるけれども、これはいい。
問題はテロを起こされたことに対して、自衛戦争を起こせるのかってことだ。ここに不均衡がある。
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当つて加盟国がとつた措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持又は回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。
俺も素人だからよーわからんけども、国じゃないと自衛戦争は起こせないわけよ。
我らが石破茂なんかは今回のイスラエルの自衛権の行使に懐疑的みたいな話もあるが、欧米様がイスラエルの自衛権は絶対擁護なので、そこはもう争ってもしゃーない。
自衛戦争でおこる一つ一つの事件には戦争犯罪もあるだろう。比例原則だの均衡原則だのに反してるように見える軍事行動もあるだろう。もはやジェノサイドだろう。
じゃあパレスチナはどうなんですか?
国じゃないので自衛戦争できません。自衛戦争できないんで違法な戦争するしかありません。それってテロです。
もうずっとこの枠組みなわけ。この枠組みを維持したいからアメリカはパレスチナ国連加盟も認めない。
イエスかノーで答えて
「テロ国家」とは通常、国家が体系的にテロ行為を支援したり、利用したりすることを意味します。しかし、イスラエルを「テロ国家」と呼ぶかどうかは、評価する立場や基準によって大きく異なります。以下に、この議論の主なポイントを整理します。
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イスラエル軍の空爆や地上作戦で、パレスチナの市民(特に子どもや女性)が犠牲になることが頻繁に報告されています。これに対し、国際人権団体や国連は「過剰な武力行使」と批判しています。
例:2021年のガザ紛争や2023年の軍事作戦では、数百人の市民が犠牲となり、インフラも大規模に破壊されました。
2. 占領政策
ヨルダン川西岸地区や東エルサレムにおける入植活動は、国際法(第四ジュネーブ条約)に違反しているとされています。これにより、パレスチナ人の土地や資源が奪われることがあり、不満が高まっています。
裁判なしでの拘束(行政拘禁)、子どもの拘束、家屋破壊など、イスラエルの政策は「集団的懲罰」として非難されています。
イスラエルは、パレスチナ武装勢力への報復を超えて、広範な地域に対して破壊的な攻撃を行うことがあります。このような行動が「国家によるテロ」と批判される場合があります。
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イスラエルは、ロケット攻撃や自爆テロといった脅威から自国民を守るための行動だと主張しています。
ハマスやイスラム聖戦などの武装勢力は、市民を標的にした攻撃を繰り返しており、これが軍事行動を正当化する理由とされています。
イスラエルは、自国を「テロの被害者」と位置づけ、反テロリズムの一環として行動していると主張しています。
これにはロケット迎撃システム「アイアンドーム」や、武装勢力への軍事作戦が含まれます。
3. 法治国家としての仕組み
イスラエルは民主主義国家であり、法の支配が確立されていることを強調しています。一部の行動は国際法に基づいて正当化されているとしています。
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国際社会で「テロ国家」とされる基準は、国家が意図的にテロ行為を計画、支援、実行しているかにあります。
イスラエル政府の行動は、安全保障政策や戦争行為として正当化される場合も多い一方で、非対称的な暴力や市民への被害の大きさから、批判を受けています。
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イスラエルを「テロ国家」と呼ぶかどうかは、見る立場や価値観に依存します。
批判する人々は、占領政策や市民への武力行使を根拠に「国家によるテロ」とみなします。
「ぬい活」というものをご存じだろうか。
公式のグッズ製作会社から販売されている「キャラクターを模したぬいぐるみ」を中心とした、一種のオタク活動である。
主に女性オタク界隈で多くみられ、「キャラクターを模したぬいぐるみ」は「ぬい」と略称される。
彼女らは「ぬい」を愛で、旅行先やテーマパーク、飲食店などに引き連れていく。ただし、鞄の中に仕舞いっぱなしというわけではない。取り出し、写真を撮る。そして、その写真をSNSにアップする。
私はこれら「ぬい活」を異常だと思っている。そんなことをしてはいけないと強く思う。
この文章をお読みくださっている方の中にも、「ぬい活」の現場に居合わせた経験をお持ちの方がいるかもしれない。
どう思われただろうか。
「かわいいな」「楽しそうだな」と思っただろうか。
それとも「恥ずかしいな」「痛いな」と思っただろうか。
予想するに、大半の人は「どうでもいい」と思ったのではないだろうか。
一瞬、「うわっ」となりながらも、さっと視線を逸らし、数秒後には忘れている。立ち止まって眉を顰めるほど暇ではないし、そもそも街の中は「うわっ」となるもので溢れている。
薄汚れた作業着を纏った無精ひげだらけの男性、ミニスカートを履いた中年女性、フリルのついた可愛いワンピースを着ているが骨格がどうみても男性の人、奇声をあげながらフラフラ歩く人。
彼らは他人に迷惑をかけているわけではない。ひどい臭いを発していたり、単純にうるさかったりするが、罪を犯しているわけではない。
しかし、視界に入れた瞬間、「うわっ」となる。慌てて視線を逸らし、「見なかった」ことにする。自分の人生から追い出し、登場しなかったことにするのだ。
そういう「うわっ」となる人たちの中に「ぬい活」をするオタクも含まれている。共通項は一般人とは異なる価値観を持ち、奇抜さを越え、そこはかとない嫌悪、恐怖を感じさせる点だろうか。
これがたとえば、「高校生が某テーマパークで、そのパークの公式キャラクターとなっているキャラのぬいぐるみを持ちながら写真を撮る」ならいいのだ。主体の属性・場所・行為に整合性がある。
「ぬい活」は違う。
その多くは成人しており、中には30歳を超えている人もいる。そういう人たちが、キャラとも作品とも関連性のない公共の場で「ぬい」を取り出しているから、「うわっ」となるのだ。
どうしてなんだ。どうしてそんなことができるんだ。
普通は年齢を重ねるごとに成熟していくはずの客観的視点がどうして退化しているんだ。自分を何歳だと思っている。大丈夫か。マジで。
そしてまた、彼女らは「ぬい」に服や靴などの装飾品を与え、自分好みにカスタマイズする。専用の服が売られているし、自分で作る人もいる。まんま幼少期に楽しんだ「お人形ごっこ」である。
ひとり、あるいは友人同士で、家の中で楽しむなら何も文句はない。何故、外で取り出すのだ。
人によっては「ぬい」を飲食店で取り出し、食事と一緒に写真を撮ったりする。
どうしてだ。衛生観念をドブに捨てたのか。人の手でべたべた触り、頻繁に洗うこともないであろう、ぬいぐるみをどうして食事の場に出す。子供でも親に注意されるぞ。
社会人として働いている人も多いだろうに、どうしてその程度のマナーが守れないのだ。お店の人も困ってるよ。
私は彼女らの行動が理解できない。そもそもの話、彼女らの目的は何なのだ。
『キャラが好きだから、キャラを模した「ぬい」と行動を共にし、写真を撮ったりなどして、思い出に残したい』
ぱっと思いつくのはこんなところだが、私には彼女らが本当の意味でキャラを愛しているとは思えない。
本当にそのキャラを愛しているのなら、「ぬい」を公共の場で取り出すなどという、恥ずべき行為に至るわけがないからだ。
「ぬい」はデフォルメされているとはいえ、知っている人がみたら「あのキャラだ」とわかる。そして、オタクが公共の場で「ぬい活」をすることで、「あのキャラのファンは、ああいうことやっちゃうのか」と思われる。冷えた視線を送られ、非常識のレッテルを貼られる。
「キャラ」と「ファン」は一体なのだ。グッズを手にしている以上、切り離してみられることはない。
一度だけでいい。一度だけでいいから、自分の行為をみつめ直して欲しい。
友人と一緒に好きなキャラの「ぬい」を持ち、画角や背景、光の当たり方などを工夫して写真を撮るのは楽しいだろう。その写真をSNSに上げ、いいねされ、コメントがつくのは嬉しいだろう。キラキラと輝く思い出になるだろう。
ただ、それらの行為をしている最中、周りにはあなた以外の人がいる。あなたの行為をみている人がいる。
https://anond.hatelabo.jp/20220304161806
これって旧日本軍と同じ発想じゃん
何故急にこれがありになったんだ?
■未だにウクライナVSロシアの一対一での勝負だと思ってるからこういうアホなことを言う
https://anond.hatelabo.jp/20220305020931
まずますだのいってることはろんがいなのだが、何故かそれをちゃんと指摘できてるはてブコメントが少ない。はてなブックマークの反論がことごとくポイントずれてるんだよ。
純粋にロシアVSウクライナの戦いならこの増田や玉川徹の言ってることは正しい。しかしそもそもその前提がおかしいという話をすべきだ。
お互いの勝利条件をもう一度整備して考え直せ。増田はそもそもが勝利条件の理解が間違っている。
これは一対一の戦いではなく集団的防衛圏が本当に機能するのか、国連が機能するのかという話だ。
ロシアは単にウクライナとだけ戦って勝てばいいのではない。迅速に勝利して他国が介入したり国際世論が反発する前に事態を把握する必要があった。
実際にはこれに失敗して世界中から非難決議をうけて経済制裁を受けている。義勇兵も参戦したりしてる。
一方ウクライナは戦いを長引かせることで国連を始めとする世界がロシアを批判し、さらに義のない戦争でウクライナに攻め込んで民衆の生活を破綻させたプーチンに対するロシア国民の反乱が起きることを狙っている。NATOの支援を得られるように戦闘と同じくらいプロパガンダも頑張っている。
うまくいくように見えたが実はそうでもない。
電力の要を抑えられてしまったので、遅滞作戦は失敗するかもしれないけどな。こちらはこちらで有利ではない。
そういう次元での戦いをやっている。
繰り返す。
ウクライナが純粋な一対一でのロシアとの戦いで勝てないのは誰でもわかっている。他国が一切介入しないならウクライナは一定ライン抵抗した後は降伏する以外の選択肢はない。これは過去のウクライナの悲惨な歴史を考えたところで変わらない。いかにうまく負けるかの話でしかない。失敗すればどこかに核が落ちたうえでの降伏となりゼレンスキーは一転無能の烙印を押されるだろう。
だがそういう前提で戦ってると思っているのは橋下徹と玉川徹と増田だけだ。どうせお前の名前も徹なんだろう。
徹、もう一度よく考えろ。お前はこんな基本的なところすら理解できてないで議論をしてる。それをわかってないからこういうバカみたいなことを言っている。
徹よ、橋下徹と玉川徹はもう手遅れだが、お前だけはまだ間に合う。前提のちがいをかんがえたうえでもう一度同じ意見か考え直してみろ
これは、いけない(ネットリ。
そもそも、「民主集中制」という言葉を独裁と簡単に結びつけることは、その複雑性を十分に理解していない証拠です(ニチャァ)。
この制度の核心は、確かに上からの指示に従うことを要求しますが、それは意思決定過程での広範な議論と集約に基づいています。
この点で、一見すると独裁的な要素を持つように見えますが、実際には内部の民主的なプロセスに依存しているのです。
さて、ここで一旦、制度の理論的背景から離れて、同様の概念が他の文化や歴史的文脈でどのように扱われてきたかを見てみましょう。
例えば、古代ローマの共和政時代においても、元老院が集団的な意思決定機関として機能していましたが、時には一人の強力な指導者が大きな影響を与えることがありました。
これは「プリンケプス」と呼ばれる人物で、後の皇帝制へと発展していくわけですが、この変遷は民主集中制の理論においても参考にされるべき点が多々あります。
また、文化的な側面から見れば、日本の「組織」や「団体」における意思決定のスタイルも興味深い例です。
日本ではしばしば「和をもって尊しとなす」という考え方が見られ、これは全員が調和して一致団結することを重んじる文化的価値観に基づいています。
これと民主集中制とを対比することで、異なる文化的背景がどのように同じような政治的理念に影響を与えるかが見て取れます。
このように、一つの政治的理念をただ「独裁」と決めつけることなく、その多様な側面や異文化間での共通点・相違点を探求することは、より豊かな理解を促すことに繋がります。
そして、そのような表面的で短絡的な非難は、到底、許されない。
この意見には妥当な点もありますが、いくつかの問題点や誤解が含まれています。以下で詳しく指摘します。
妥当な点
1. 自己満足としての投票: 「選挙は自己満足とわきまえて行くべき」という部分にはある程度の妥当性があります。民主主義の中で、個人の一票がすぐに大きな変化をもたらすわけではないため、自分の信念に基づいた選択が自己満足的な側面を持つのは事実です。しかし、選挙への参加を「自己満足」とだけ捉えるのは限界があります。
2. 生活の一部としての選挙: 選挙を「生活の一部」として捉える視点は正しいです。選挙は日々の暮らしに影響を与える決定を行う場ですので、自分自身や社会のために参加することが重要です。
1. 「一票や数票で結果が変わるわけではない」という主張: これは誤解を招きやすい考え方です。確かに、一票で選挙結果が変わることはまれですが、地方選挙や接戦の場合には、少数票が結果に大きな影響を与えることがあります。過去の選挙でも数百票、あるいは数十票差で当選者が決まる例が存在しています。このように、一票が集まることで結果を左右するケースもあり得るため、「一票に意味がない」というのは一面的な見方です。
2. 白票の意味について: 意見では「白票に意味が発生する」とされていますが、白票は選挙結果に影響を与えないため、その意味を巡って議論があります。白票は「どの候補者も支持できない」という意思表示ではありますが、具体的な政策や政治的影響を及ぼす可能性は低く、白票が多くても選挙制度自体には変更が起きません。したがって、選挙結果に影響を与えたい場合、白票ではなく、自分に最も近い政策を持つ候補者に投票することがより効果的です。
3. 「投票結果に結びつかない」という認識: 個々の投票行動が直接的に結果に結びつくわけではないことを冷静に理解することは重要ですが、このような姿勢が投票行動の放棄を助長する可能性もあります。集団的な投票行動の積み重ねが選挙結果を形成し、最終的に政治の方向性に影響を与えるため、参加そのものが重要です。投票行動に意味がないとする見方は、民主主義の基本的な価値を軽視してしまうリスクがあります。
まとめ
この意見は、投票行動の一部を「自己満足」として捉える点や、選挙を日常生活の一部として理解する点では妥当です。しかし、「一票が結果に影響を与えない」という見方や、白票の価値を過大評価している部分には問題があります。選挙は、集団としての意思表示を行う場であり、個々の投票が積み重なることで最終的に大きな影響をもたらす可能性があります。そのため、投票行動を放棄するのではなく、積極的に自分の意思を反映することが重要です。
この意見は一部に妥当な点がありますが、いくつかの問題点や矛盾点が指摘できます。以下に詳細を説明します。
妥当な点
1. 一票の集団的効果: 意見の中で「一人の一票は大きな意味を持たないが、集団で動けば意味を持つ」という点は正確です。民主主義の基本は、集団の意思を反映させることですので、個々の票が集まることで結果に影響を与えるという考え方は妥当です。
2. 自分の意見を反映させる方法として候補者擁立: 候補者がいない場合や不満がある場合は、自ら候補を擁立するか、政治活動に積極的に関わることが選択肢としてあるという点も理にかなっています。
1. 「投票しないことは無意味」という主張: 意見の中で「白票や無効票には意味がない」とされていますが、これは一面的な解釈です。白票や無効票を通じて「どの候補にも賛成できない」という意思表示を行うこと自体は、選挙システムにおいても重要なメッセージと解釈される場合があります。これは、政治家や政党に対して「選択肢が不十分である」という抗議の一形態です。
2. 「勝つことが重要」という視点の偏り: 意見では「勝たなければ意味がない」という主張がありますが、民主主義は勝敗だけでなく、多様な意見が反映されることも重要です。少数派の意見であっても、長期的な議論や変化に寄与する可能性があるため、「負けることが無意味」とするのは狭い視点です。
3. 選挙に行かないことの影響を軽視: 「投票する人がいないから選挙に行かなくてもいい」という主張は、投票率の低下が民主主義の健全性に悪影響を与えることを無視しています。低投票率は、代表性の欠如や特定の集団に有利な結果をもたらすことがあります。そのため、どのような選択肢であれ、投票に参加することは重要とされています。
まとめ
この意見は、一票の集団的な力や候補者擁立の重要性を指摘する部分では妥当ですが、白票や無効票の意義を軽視し、投票しないことの影響を正当に評価していない点に問題があります。また、勝つことが唯一の目標であるとする視点は、民主主義の多様性や長期的な影響を軽んじているといえるでしょう。
ある匿名掲示板においてAIによる文章を投稿すると以下のような文章を返す人がいます
このような投稿をする人の考えや感情は、いくつかの要素が考えられます。具体的には、次のような心理的背景が推測されます。
AI(特にChatGPTのような会話型AI)に対して否定的な感情を持っている可能性があります。AIによる文章や情報提供に対して不自然さを感じ、嫌悪感や不信感を抱いている人は、AIの活用を「バカにされている」と捉えることがあります。
匿名掲示板では、煽りや皮肉を使ったコミュニケーションが一般的です。この投稿は、他の利用者に対する挑発的な反応の一環として、軽い煽りやジョークの一部として書かれた可能性があります。「バカにChatGPTを送りつける」というフレーズは、AIを使うこと自体を低評価し、相手を見下そうとする意図があるかもしれません。
AIによる文章を「バカが使うもの」だと決めつけることで、自分がAIよりも優れている、あるいはAIを使う他の人々よりも自分の方が知識や判断力があると示したいという感情があるかもしれません。自己の優越感を保つために、AI利用者を揶揄している可能性もあります。
「定着してきた」という表現からわかるように、こうした煽りはその掲示板や一部のコミュニティ内で「ネタ」として共有され、他者との一体感を感じながら投稿している可能性もあります。この場合、投稿者は深い考えや感情を持たず、単に流行に乗って楽しんでいるだけかもしれません。
まとめると、この投稿者はAIに対して否定的な感情を持っているか、匿名掲示板特有の軽い煽りやジョークの一環として、AI利用者を揶揄している可能性が高いと言えます。
日本で事件が起こった後に原因究明や懲罰が不十分でありながらも、一定期間が過ぎると「禊が済んだ」とされ忘れられる傾向には、いくつかの要因が考えられます。
1. 時間の経過と世論の移り変わり: 時間が経つと、新しいニュースや事件が発生し、社会の関心が別の話題に移ります。その結果、以前の事件は記憶の中で風化していくことが多いです。
2. 集団的な文化特性: 日本社会は調和を重視する傾向があり、問題を長引かせるよりも、早く解決し忘れ去ることが重視されることがあります。「禊が済んだ」という言い回しが使われるのも、こうした集団的な文化の反映と考えられます。
3. メディアと報道の役割: マスコミやメディアが事件に対してどう報道するかによって、問題の注目度が左右されます。メディアが事件を取り上げなくなると、社会全体の関心も薄れてしまう傾向があります。
4. 責任回避の構造: 政治や行政において、責任の所在があいまいにされるケースが多く、その結果、原因究明や懲罰が徹底されず、時間の経過によって問題が自然に忘れ去られるような構造が存在します。
改善策
• 継続的な監視と情報公開: 市民やメディアが事件に対して継続的に関心を持ち、透明性のある情報公開を求めることが必要です。
• 責任の明確化: 責任の所在を明確にし、適切な懲罰や再発防止策を取ることが求められます。
• 教育と意識向上: 社会全体での倫理意識や責任感を向上させ、問題を忘れ去らずに適切に対処する文化を育てることも重要です。
欧と米でリベラルの意味が左右逆なうえに日本独自の要素が絡んでるからこじれまくる
欧では資本家寄り・小さな政府をリベラルと呼び右派とみなされてる(労働者寄り大きな政府の左派はソーシャルと呼ぶ)が
米では労働者寄り・大きな政府・世俗派の民主党をリベラルと呼ぶ(資本家寄り・小さな政府・福音派の共和党はコンサバティブ)
日本ではアメリカっぽい労働者寄りの左翼がリベラル名乗りがちやがマイナンバー・増税に反対するのが多いように大きな政府とも言い切れず
しかも護憲派で日米安保集団的自政権反対(欧米の左派政党は当然ながら集団的自衛権に反対してるわけではない)も左翼とセット売りなので
アメリカの歌「YMCA」が保守派に好まれる理由はいくつかありますが、その背景には歴史的、文化的、そして社会的な要因が絡んでいます。
「YMCA」は若者が困難を乗り越え、新しい生活を始めるための支援をする場所として、Young Men's Christian Association(青年キリスト教協会)を歌っています。歌詞の表面的な解釈では、コミュニティ支援、ポジティブな価値観、健全な生活の促進といったメッセージが含まれているため、保守派にとって好意的に受け取られやすいです。
「YMCA」は1970年代のディスコブームを象徴する曲であり、多くのアメリカ人にとって懐かしい思い出を呼び起こします。保守派は伝統的な価値観や文化を重視する傾向があるため、ノスタルジアを感じさせるこの曲が好まれるのは自然なことです。
「YMCA」は多くの人々が一緒に踊り、楽しむことができる曲であり、集団的な一体感を促進します。保守派はしばしば、コミュニティの結束や共同体意識を重視するため、こうした一体感を生む曲は好まれる傾向があります。
「YMCA」の歌詞には、特にLGBTQ+コミュニティに対する暗示的なメッセージが含まれていると解釈されることがあります。しかし、保守派の一部はこの深層的な解釈を無視し、表面的なポジティブなメッセージだけを受け取ることがあります。そのため、曲が持つ潜在的な性的多様性のメッセージが問題視されることなく受け入れられる場合があります。
「YMCA」は単に楽しく、親しみやすいディスコソングとして広く知られており、特定の政治的立場やイデオロギーに関係なく楽しむことができる曲です。このため、保守派に限らず、幅広い層に受け入れられています。
古今東西どこもかしこもやることは同じだからか次々と出てくるが、似たような事しか言わなくなったので終了
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現代社会において、生成AIはその革新的な技術で多くの注目を集めていますが、その影響力を懸念する人々も少なくありません。私たちが目にするSNS上の活動やキャンペーンの背後には、影響力を行使しようとするフリーランスのイラストレーターたちがいます。彼らは、生成AIの使用に対する反対意見を広めるために、さまざまな群衆心理を操作する手法を駆使しています。今回は、その中でも特に顕著な手法について詳しく見ていきましょう。
アドラーの本を途中まで読んだ.
これによると,精神疾患など生きるのに役立たない道に陥るものには,幼少期から共通感覚(コモンセンス)を獲得できていないという特徴があるらしい.
そして共通感覚を獲得できなかった子供いじめられたり問題行動を起こしたりする.
この共通感覚は家庭において保護者から学ぶらしい.つまり保護者が共通感覚を有していなければその子供も共通感覚を獲得することが困難で,大人になってから苦しむのだ.
なぜこの世界では誰でも子供を持つことが許されるのだろうか.ペットですらちゃんと育てられないなら飼うなと批判されるのに.
あるいはせめて,誰でも子供を作る自由があるのなら,どんな子供も自分で死んでいい自由を認めるべきではないか.
この物語では,子供は生まれたらすぐに親から引き離されて専門の施設で集団的に育てられるというユートピアが描かれている.
作中ではこのユートピアを明示的には否定も肯定もしていないが,画一的に育てられた子供は個性がなく皆同じような表情をするという描写が描かれている.
「個性なくしたら死んでるのと一緒だよ」
共通感覚を有しない"悪い個性"を持つことは決して本人のためにはならない.
個性を持つことが良いとされるのは,個々の親が独立して子供を育てる現在社会におけるナッシュ均衡にすぎないのではないか.
消滅世界のシステムのように全員が同じ教育を受け,共通感覚を有していることこそがパレート最適なのではないだろうか.
あるいは,個性,個体差は環境が変化した際に種全体が生き延びるのに有利だと説明される.
だが,これは明らかにほとんどの平均から外れた個性を持つ個体にとっては酷な話だ.当然ながら平均から外れた個体の殆どは環境に適応できず苦しむからだ.
上のような理論を唱える者は,「お前らのような珍獣が居た方が俺/私の遺伝子が残る可能性が高まるから生きろ.そして苦しめ」と言っているのに他ならない.
現代社会は第二次世界大戦前の全体主義を反省し,個人の幸福を最大化しようとしたのではなかったか.所詮それは,正規分布の真ん中あたりにいるマジョリティの自己満足に過ぎなかったのか.
そもそも,人類が環境変化を生き抜くのに,遺伝子の多様性は必要なのだろうか.
多数のサイコロをばらまいて確率論的に変化に打ち勝とうとするその他大勢の生き物とは違って,人類は理性を持って変化を予測し,技術で環境を変えて乗り越えることができるのではないだろうか.
だが,ときに個性は天才を生み出し,その天才が技術を飛躍的に進歩させる.
こういった天才を生むために正規分布の端のほうの人間も,その殆どは苦しむ運命にあるとはいえ,大人になるまで生きていなければいけないのかもしれない.これによって,苦しむ未来の天才に生きる希望を与えることができるから.
本当にそうだろうか.電球の発明のように一人の天才の発想が大きな一歩を生み出した時代とは違って,現代の科学の進歩は過去の技術を積み重ねて積み重ねて演繹的に導き出された進歩ではないか.
いや,そうでもないか.私も理系の大学院で研究の真似事をしたことがある.今でも科学の最先端では天才の発想が不可欠だ.そしてそういう人は共通感覚を有していない人が多い.少なくともそう見える.
つまり,現代においても正規分布の端にいる,共通感覚を有しない,遺伝子的耐用性を持った人間を生きさせることは必要なのかもしれない.
私は天才ではない.だが,共通感覚を獲得することができず,苦しんでいる.正規分布の中央に行けなかった人間の中の,一握りの天才を除くその他多数の中のひとりだ.
私の意識は死ぬことがのみが正解だと確信している.だが,私の無意識が生きることを声高に主張している.そのせいで私はまだ生きていてこの文章を書いている.
理性で動く私は,なんとかして自分が死ぬことが論理的に正しいのだと結論付けたい.だが,今日も失敗した.
誰か私を助けてくれ.お前はもう開放されて良いのだと背中を押してほしい.