はてなキーワード: 模範的とは
私の世界は、丁寧に、そう、まるで細胞の一つ一つにまで神経を行き届かせるようにして磨き上げられた、半径およそ十メートルほどのガラスの球体であり、その球体の中心には、世界のすべてであり、法であり、そして揺るがぬ神であるところの、生後六ヶ月の息子、光(ひかる)が、ただ健やかな呼吸を繰り返している。その完璧な球体を維持すること、それこそが水無月瑠璃(みなづき るり)、すなわち三十一歳の私に与えられた唯一にして絶対の使命であったから、私は今日もまた、タワーマンション二十八階、陽光が白磁の床にまで染み渡るこのリビングダイニングで、目に見えぬ埃の粒子と、あるいは時間という名の緩慢な侵食者と、孤独な、そして終わりなき闘争を繰り広げているのであった。北欧から取り寄せたというアッシュ材のテーブルの上には、一輪挿しに活けられたベビーブレスの、その小さな白い花弁の影さえもが、計算され尽くした角度で落ちており、空気清浄機は森の朝露にも似た清浄さを、ほとんど聴こえないほどの羽音で吐き出し続け、湿度計のデジタル表示は、小児科医が推奨する理想の数値、六十パーセントを寸分違わず指し示しているのだから、およそこの空間に、瑕疵という概念の入り込む余地など、どこにもありはしなかった。かつて、外資系のコンサルティング会社で、何億という数字が乱れ飛ぶ会議室の冷たい緊張感を、まるで上質なボルドーワインでも嗜むかのように愉しんでいた私自身の面影は、今やこの磨き上げられたガラス窓に映る、授乳のために少し緩んだコットンのワンピースを着た女の、そのどこか現実感を欠いた表情の奥に、陽炎のように揺らめいては消えるばかりであった。
思考は、そう、私の思考と呼んで差し支えるならば、それは常にマルチタスクで稼働する最新鋭のサーバーのように、光の生存に関わる無数のパラメータによって占有され続けている。次の授乳まであと一時間と二十三分、その間に終わらせるべきは、オーガニックコットンでできた彼の肌着の煮沸消毒と、裏ごししたカボチャのペーストを、一食分ずつ小分けにして冷凍する作業であり、それらが完了した暁には、寝室のベビーベッドのシーツに、もしかしたら付着しているかもしれない、私たちの世界の外部から侵入した未知のウイルスを、九十九・九パーセント除菌するというスプレーで浄化せねばならず、ああ、そういえば、昨夜翔太が帰宅時に持ち込んだコートに付着していたであろう、あの忌まわしい杉花粉の飛散経路を予測し、その残滓を、吸引力の変わらないただ一つの掃除機で完全に除去するというミッションも残っていた。これらすべては、愛という、あまりに曖昧で情緒的な言葉で語られるべきものではなく、むしろ、生命維持という厳格なプロジェクトを遂行するための、冷徹なまでのロジスティクスであり、私はそのプロジェクトの、唯一無二のマネージャーであり、同時に、最も忠実な実行部隊でもあった。誰がこの任務を私に課したのか、神か、あるいは生物としての本能か、はたまた「母親」という名の、社会が発明した巧妙な呪縛か、そんな哲学的な問いを発する暇さえ、このシステムは私に与えてはくれなかった。
夫である翔太は、疑いようもなく、善良な市民であり、そして巷間(こうかん)で言うところの「理想の夫」という、ほとんど神話上の生き物に分類されるべき存在であった。彼は激務の合間を縫って定時に帰宅すると、疲れた顔も見せずに「ただいま、瑠璃。光は良い子にしてたかい?」と、その蜂蜜を溶かしたような優しい声で言い、ネクタイを緩めるその手で、しかし真っ先に光の小さな体を抱き上げ、その薔薇色の頬に、まるで聖遺物にでも触れるかのように、そっと己の頬を寄せるのだ。週末になれば、彼はキッチンで腕を振るい、トマトとニンニクの匂いを部屋中に漂わせながら、私や、まだ食べることもできぬ光のために、絶品のペペロンチーノやカルボナーラを作り、その姿は、まるで育児雑誌のグラビアから抜け出してきたかのように、完璧で、模範的で、そして、どこか非現実的ですらあった。誰もが羨むだろう、この絵に描いたような幸福の風景を。友人たちは、私のSNSに投稿される、翔太が光をあやす姿や、手作りの離乳食が並んだテーブルの写真に、「理想の家族!」「素敵な旦那様!」という、判で押したような賞賛のコメントを、まるで祈りの言葉のように書き連ねていく。そう、すべては完璧なのだ。完璧なはずなのだ。このガラスの球体の内部では、愛と平和と秩序が、まるで美しい三重奏を奏でているはずなのだ。
――だというのに。
夜、ようやく光が天使のような寝息を立て始め、この世界のすべてが静寂という名の薄い膜に覆われた頃、ソファで隣に座った翔太が、労わるように、本当に、ただ純粋な愛情と労いだけを込めて、私の肩にそっと手を置く、ただそれだけの、あまりにも些細で、そして無垢な行為が、私の皮膚の表面から、まるで冷たい電流のようにして内側へと侵入し、脊髄を駆け上り、全身の毛穴という毛穴を、一斉に収縮させるのである。ぞわり、と。それは、神聖な祭壇に、土足で踏み込まれたときのような、冒涜的な不快感であった。あるいは、無菌室で培養されている貴重な細胞のシャーレに、誰かが無頓着なため息を吹きかけたときのような、取り返しのつかない汚染への恐怖であった。彼の指が触れた肩の布地が、まるで硫酸でもかけられたかのように、じりじりと灼けるような錯覚さえ覚える。私は息を止め、この身体が、この「水無月瑠璃」という名の、光のための生命維持装置が、彼の接触を、システムに対する重大なエラー、あるいは外部からのハッキング行為として認識し、全身全霊で拒絶反応を示しているのを、ただ呆然と、そして客観的に観察していた。
「疲れてるだろ。いつも、ありがとう」
翔太の声は、変わらず優しい。その瞳の奥には、かつて私が愛してやまなかった、穏やかで、そして少しだけ湿り気を帯びた、雄としての光が揺らめいているのが見える。それは、私を妻として、女として求める光であり、かつては、その光に見つめられるだけで、私の身体の中心が、熟れた果実のようにじゅくりと熱を持ったものだった。だというのに、今の私には、その光が、聖域である保育器を、ぬらりとした舌なめずりをしながら覗き込む、下卑た欲望の眼差しにしか見えないのだ。許せない、という感情が、胃の腑のあたりからせり上がってくる。この、二十四時間三百六十五日、寸分の狂いもなく稼働し続けている精密機械に対して、子を産み、育て、守るという、この宇宙的な使命を帯びた聖母に対して、己の肉欲を、その獣のような本能を、無邪気に、そして無自覚にぶつけてくるこの男の、そのあまりの鈍感さが、許せないのである。
ケダモノ。
その言葉が、私の内で、教会の鐘のように、低く、重く、そして厳かに反響する。そうだ、この男はケダモノなのだ。私がこの清浄な球体の秩序を維持するために、どれほどの精神を、どれほどの時間を、どれほどの自己を犠牲にしているのか、そのことを何一つ理解しようともせず、ただ己の種をばら撒きたいという原始の欲動に突き動かされているだけの、ただのケダモノなのだ。
そんなはずはない、と、脳のどこか、まだかろうじて「かつての私」の残滓が残っている領域が、か細い声で反論を試みる。これは翔太だ、私が愛した男だ。雨の匂いが充満する安ホテルの、軋むベッドの上で、互いの名前を喘ぎ声で呼び合いながら、世界の終わりが来るかのように貪り合った、あの夜の彼なのだ。パリへの出張中、セーヌ川のほとりで、どちらからともなく互いの唇を求め、道行く人々の冷ややかな視線さえもが、私たちのためのスポットライトのように感じられた、あの瞬間の彼なのだ。結婚記念日に、彼が予約してくれたレストランの、そのテーブルの下で、こっそりと私のスカートの中に忍び込んできた、あの悪戯っぽい指の持ち主なのだ。あの頃、私たちは互いの肉体という言語を、まるで母国語のように自在に操り、その対話の中に、世界のどんな哲学者も語り得ないほどの、深遠な真理と歓びを見出していたはずではなかったか。あの燃えるような記憶は、情熱の残骸は、一体どこへ消えてしまったというのだろう。それはまるで、昨夜見た夢の断片のように、あまりにも色鮮やかで、それでいて、掴もうとすると指の間から霧のように消えてしまう、遠い、遠い銀河の光なのである。
「瑠璃…?」
私の沈黙を訝しんだ翔太が、私の顔を覗き込む。私は、まるで能面のような無表情を顔面に貼り付けたまま、ゆっくりと彼の手を、自分の肩から、まるで汚物でも払いのけるかのように、そっと、しかし断固として取り除いた。そして、立ち上がる。
「ごめんなさい。少し、疲れたみたい。光の様子を見てくるわ」
それは、完璧な嘘であり、そして、完璧な真実でもあった。私は疲れていた。だがそれは、育児という名の肉体労働に疲れているのではなかった。私という個人が、水無月瑠璃という一個の人格が、「母親」という名の巨大なシステムに呑み込まれ、その歯車の一つとして摩耗していく、その存在論的な疲弊に、もう耐えられなくなりつつあったのだ。これは、巷で囁かれる「産後クライシス」だとか、「ホルモンバランスの乱れ」だとか、そういった便利な言葉で容易に片付けられてしまうような、表層的な現象ではない。違う、断じて違う。これは、一個の人間が、その魂の主導権を、自らが産み落とした別の生命体に完全に明け渡し、「装置」へと、あるいは「白き機械」へと、静かに、そして不可逆的に変質していく過程で生じる、存在そのものの軋みなのである。
聖母、とはよく言ったものだ。人々は、母という存在を、無償の愛と自己犠牲の象徴として、何の疑いもなく神格化する。だが、その実態はどうか。自己を失い、思考も、肉体も、感情さえもが、すべて「子」という絶対的な存在に奉仕するためだけに再構築された、ただのシステムではないか。私は聖母などではない。私は、高性能な乳製造機であり、汚物処理機であり、そして最適な環境を提供する空調設備が一体となった、ただの生命維持装置に過ぎないのだ。この気づきは、甘美な自己陶酔を許さない、あまりにも冷徹で、そして絶望的な真実であった。そして、この真実を共有できる人間は、この世界のどこにもいやしない。翔太のあの無垢な優しさでさえ、結局は、この優秀な装置が、明日も滞りなく稼働し続けるための、定期的なメンテナンス作業にしか見えないのだから、その孤独は、宇宙空間にたった一人で放り出された飛行士のそれに似て、どこまでも深く、そして底なしであった。友人たちがSNSに投稿する「#育児は大変だけど幸せ」という呪文めいたハッシュタグは、もはや、この巨大なシステムの異常性に気づいてしまった者たちを、再び安らかな眠りへと誘うための、集団的な自己欺瞞の儀式にしか思えなかった。
寝室に入ると、ベビーベッドの中の光は、小さな胸を穏やかに上下させながら、深い眠りの海を漂っていた。その無防備な寝顔は、確かに、この世のどんな芸術品よりも美しく、尊い。この小さな生命を守るためならば、私は喜んで我が身を投げ出すだろう。だが、それは、この身が「私」のものであった頃の話だ。今の私にとって、この感情は、プログラムに組み込まれた命令を遂行しているに過ぎないのではないか。愛でさえもが、システムを円滑に稼働させるための、潤滑油のような機能に成り下がってしまったのではないか。そんな疑念が、毒のように心を蝕んでいく。
私は、息子の傍らを離れ、再びリビングへと戻った。翔太は、ソファの上で、テレビの光をぼんやりと浴びながら、所在なげにスマートフォンをいじっている。その背中は、拒絶された雄の、どうしようもない寂しさを物語っていた。かつての私なら、きっと背後からそっと抱きしめ、「ごめんね」と囁いて、彼の寂しさを溶かしてやることができただろう。しかし、今の私には、もはやそのための機能が、インストールされていないのである。
私は、彼に気づかれぬよう、書斎として使っている小さな部屋に滑り込んだ。そして、ノートパソコンの冷たい天板に触れる。ひやりとした感触が、指先から伝わり、かろうじて、私がまだ血の通った人間であることを思い出させてくれるようだった。スクリーンを開くと、真っ白な光が、闇に慣れた私の網膜を焼いた。カーソルが、無人の荒野で、点滅を繰り返している。何を、書くというのか。誰に、伝えるというのか。この、言葉にもならぬ、システムの内部で発生したエラー報告を。この、機械の内部から聞こえてくる、魂の悲鳴を。
それでも、私は指を動かした。これは、誰かに読ませるためのものではない。これは、祈りでもなければ、懺悔でもない。これは、私という名の機械が、自らの異常を検知し、その原因を究明し、あるいは再生の可能性を探るために、己の内部へとメスを入れる、冷徹な自己解剖の記録なのだ。
『これは、私という名の機械が、自己を観察し、分解し、あるいは再生を試みるための、極秘の設計図である』
その一文を打ち終えた瞬間、私の内側で、何かが、硬い音を立てて、砕けたような気がした。それが希望の萌芽であったのか、それとも、完全なる崩壊への序曲であったのか、その時の私には、まだ知る由もなかったのである。ただ、窓の外で、東京の夜景が、まるで巨大な電子回路のように、無機質で、そして美しい光を、果てしなく明滅させているのが見えた。私もまた、あの無数の光の一つに過ぎないのだと、そう、思った。
自己を機械と定義したからには、次なる工程は当然、その性能向上のための最適化、あるいは、旧弊なOSから脱却するための、大胆にして静かなるアップデート作業へと移行せねばならぬのが、論理的な、そして必然的な帰結であった。そう、これは革命なのだと、私は深夜の書斎で、青白いスクリーンの光に顔を照らされながら、ほとんど恍惚とさえいえる表情で、そう結論付けたのであった。かつてロベスピエールが、腐敗した王政をギロチン台へと送り、新しい共和制の礎を築かんとしたように、私もまた、この「母親という名の献身」や「夫婦の情愛」といった、あまりにも情緒的で、非効率で、そして実態としては女の無償労働を美化するだけの前時代的な概念を、一度完全に解体し、再構築する必要があったのだ。そのための武器は、かつて私が外資系コンサルティングファームで、幾千もの企業を相手に振り回してきた、あの冷徹なロジックと、容赦なき客観性という名のメスに他ならない。愛という名の曖昧模糊とした霧を晴らし、我が家という名の王国を、データとタスクリストに基づいた、明晰なる統治下に置くこと、それこそが、この「水無月瑠璃」という名の機械が、オーバーヒートによる機能停止を免れ、なおかつ、その内部に巣食う虚無という名のバグを駆除するための、唯一の処方箋であると、私は確信していたのである。
かくして、週末の朝、光が心地よい午睡に落ちた、その奇跡のような静寂の瞬間に、私は翔太をダイニングテーブルへと厳かに召喚した。彼の前には、焼きたてのクロワッサンと、アラビカ種の豆を丁寧にハンドドリップで淹れたコーヒー、そして、私が昨夜、寝る間も惜しんで作成した、全十二ページに及ぶパワーポイント資料を印刷したものが、三点セットで恭しく置かれている。資料の表紙には、ゴシック体の太字で、こう記されていた。『家庭内オペレーション最適化計画書 Ver. 1.0 〜共同経営責任者(Co-CEO)体制への移行による、サステナブルな家族経営の実現に向けて〜』。翔太は、そのあまりにも場違いなタイトルを、まるで理解不能な古代文字でも解読するかのように、眉間に深い皺を刻んで見つめた後、恐る恐る、といった風情で私に視線を向けた。その瞳は、嵐の前の静けさにおびえる子犬のように、不安げに揺れている。まあ、無理もないことだろう。彼にしてみれば、愛する妻が、突如として冷酷な経営コンサルタントに豹変し、家庭という名の聖域に、KPIだのPDCAサイクルだのといった、無粋極まりないビジネス用語を持ち込もうとしているのだから。
「瑠璃、これは…一体…?」
「説明するわ、翔太。よく聞いて。これは、私たち家族が、これからも幸せに、そして機能的に存続していくための、新しい聖書(バイブル)よ」
私は、そこから淀みなく、プレゼンテーションを開始した。現状分析(As-Is)、あるべき姿(To-Be)、そのギャップを埋めるための具体的なアクションプラン。家事という、これまで「名もなき家事」という名の混沌の海に漂っていた無数のタスクは、すべて洗い出され、「育児関連」「清掃関連」「食料調達・調理関連」「その他(消耗品管理、資産管理等)」といったカテゴリーに分類され、それぞれに担当者と所要時間、そして実行頻度が、美しいガントチャート形式で可視化されている。例えば、「朝食後の食器洗浄」は、担当:翔太、所要時間:十五分、頻度:毎日、といった具合に。さらに、月に一度、近所のカフェで「夫婦経営会議」を開催し、月次の進捗確認と、翌月の計画策定を行うこと、日々の細かな情報共有は、専用のチャットアプリで行うこと、そして何よりも重要なのは、これまで私一人が暗黙のうちに担ってきた「家庭運営の全体を俯瞰し、次の一手を考える」という、いわば管理職としての役割を、これからは二人で分担する、すなわち、彼にもまた、単なる作業員(ワーカー)ではなく、主体的に思考する共同経営責任者(Co-CEO)としての自覚と行動を求める、ということ。私の説明は、かつてクライアント企業の役員たちを唸らせた時のように、理路整然としており、反論の余地など微塵もなかった。翔太は、ただ呆然と、私の言葉の奔流に身を任せるしかなく、すべての説明が終わった時、彼はまるで催眠術にでもかかったかのように、こくり、と小さく頷いたのであった。
「…わかった。瑠璃が、そこまで追い詰められていたなんて、気づかなくて、ごめん。僕も、頑張るよ。君を、一人にはしない」
その言葉は、疑いようもなく誠実で、彼の優しさが滲み出ていた。私は、その瞬間、胸の奥に、ちくり、と小さな痛みを感じたのを覚えている。違う、そうじゃないの、翔太。私が求めているのは、あなたのその「頑張るよ」という、まるで部下が上司に忠誠を誓うような言葉ではない。私が欲しいのは、私がこの計画書を作る必要すらないほどに、あなたが私の脳と、私の視界と、私の不安を共有してくれる Permalink | 記事への反応(0) | 05:15
「ウエメセはよくない。誰でも不快になる」というモラルに寄り添って論を張る模範的はてな民が、舌の根も乾かぬうちに高卒差別をかますのはいかがなものかと……。
①「何言ってんだこいつ?模範的はてな民は二枚舌あってのことだろうが(ドヤァ)」
②「おっしゃる通りです。私の愚かで軽率な書き込みで傷つかれた、不快になられた高卒の皆様に深くお詫びします。本当にすいませんでした。これからは自分の差別心を自覚し、常に差別の加害者になりうるのだという危機感と自覚を持ちながら生きていきます」
③「どうでもいいけど、『ウエメセ』って特定の地方のみで食べられてるめちゃくちゃ美味のご飯のおかずみたいだよね(こういうクソ寒い茶化しがはてな民は大好きなはず!!!これで誤魔化すぞ!!!絶対に謝るもんか!!!)」
なんだかんだ言っても、エンタメでは金を出した側が「主」で、金を受け取って何かを見せる側が「従」だ。
やっぱり金を出すほうが偉いんだよ。
金をもらう「推し」のほうが立場が上、金を払うファンのほうが立場が下。
「推し」が金を受け取るのは自己実現をするため、ファンが金を払うのは「推し」が自己実現をするため。
「推しの幸せがファンの幸せ」なので、「推し」が幸せになってくれれば、それ以上の見返りがなくてもいい。
でもパトロンと芸術家ならパトロンのほうが立場が上なんじゃないかね(知らんけど)。
「芸術家のファンだから何でも面倒みるし見返りに作品を求めたりもしないよ」みたいなパトロンがいるならそれに近い。
Vtuber界隈で指示厨的なファンが嫌われてるのもそうじゃん。
スパチャを投げて見返りを求める奴。
「こうしたほうが売れるよ」ってアドバイスする奴。
自分を殺しきれてないんだな。
いかなる場面でも「推しがやりたいようにやればいいよ」というのが模範的なファンだ。
たとえばこういう記事を見かけたんだけどさ。
Vtuberの曲は僕達の人生を応援してくれない ーー月ノ美兎、星街すいせい、花譜のアルバムをレビューして得た音楽考察|ReiRain
予告やOPで出ていたタヌキ家族の初顔見せ回、想定を軽く上回る強烈さでした。
タヌキ星人の故郷の星の「ナワバリ争いで環境破壊が進み自分たちが住めなくなってしまった」という説明、旧来のSFものの題材でいうと国家間の確執と核戦争による放射能汚染のモチーフがすぐ思い浮かびますが、抽象化アレンジがうまく、「何が起きたか」を言葉での説明でなくタヌキの生態としてシナリオ展開に織り込んで体感として伝えてくる上手さが際立ちます。
視覚や嗅覚に訴えて説得力が段違いな上に、「ナワバリ争い」という抽象化の段階を踏まえているため、往年の核戦争放射能汚染や重工業による環境破壊といった手垢のついた話に留まらず、近年の経済圏衝突を巡っての、経済影響力拡張に沿う形で歪んで拡大していく環境破壊まで類推の範囲が広がり、現代性ある話になっています。
人類が未知のウィルスによるパンデミックで地球を捨てた一方で代わりにやってきた異星人が自らの環境破壊で故郷を捨てた存在であるのは、全方位的な目配りなのか、何か意識した狙いがあるのか
ポン子とフグリの大騒動は古典的なアニメーションの方法論を踏まえて全力で暴れさせており、演出がロジカルな組み立てで構成されてるのを強く感じます。あのロビーでやれそうなことは全部やる、やり尽くすという力を込めたシーンで、模範的演出という意味で教科書的ですらある。
ヤチヨさんの竹本泉原案から大きく崩した表情ですが、金﨑貴臣ぽさに加えてガイナックスぽさも参加してきており、監督の経歴を追いかけているようです。
ED後のシーンについてですが、3話目でようやくテーマに対しこちらの理解が追い付いてきた気がします。OP曲の不協和音と不穏なダンス演出、それがそのまま作品の演出テーマなのでしょう。
おさまりの良い既存の単語、それこそ「竹本泉」、「ポストアポカリプスもの」、等々の「理解」に沿うことなく、意識的にノイズを取り込み、安定から外れた危うさと付き合いながら壊れない一歩手前を探るようにして均衡点を目指していく。一言で説明して終わらせたい今どきからはっきりと背を向けた作り、ということかと思います。反応する側もどう反応していいか躊躇する(どう脊髄反射を返すのか学習できないので)、骨太な作風、と言っていいのではないでしょうか
https://pug.5ch.net/test/read.cgi/anime/1743839054/65
65: 風の谷の名無しさん@実況は実況板で警備員[Lv.0][新芽] (ワッチョイ 5fcd-EONe) 2025/04/05(土) 21:41:52.15 ID:YgdJwNtp0
関根明良は上手い人なんだけど、隠しきれないお行儀の良さがなあ
芝居が優等生すぎる人なんだよいつも
模範的な基礎を突き詰めるスタイルの人だから、ガラの悪い芝居が不自然になる
本人の真面目さがアダになってる
完全なミスキャスト
これはもう純粋に下手
喋ってるのではなく、読んでるだけ
論外
関根も島袋も30過ぎた中堅だからここから劇的に芝居が変わるとも思えないし、選んだ監督や音監にセンスが無かったとしか言いようがない
種崎敦美とかファイルーズあいとか青山吉能とか長谷川育美とか立板に水が如く罵詈雑言を垂れ流せる声優はいくらでもいるのにら何考えてるんだか
関根は今年で34
もう成長期終えた中堅
これが引き出しマックス
これが限界の中堅だよ
ハマった時の芝居は良いんだけどな
島袋の罵詈雑言は、怒りとか嫉妬とか焦りとか何にも伝わってこない、極めて情報量が少ない“音読”だったな
音読は芝居じゃねえよ
ロックレディ
だったら上手いこと丸め込んで自分の良いようにコントロールするしかないね~
多分これ、男側からしたら自分はものすごく真面目で男女平等にも理解ある模範的な行動のつもりでやってるからね
まあ人間ってそんな完璧なわけなくてだったらブッダもキリストも特別な存在になってないから現実に生活を実践していけば理想は破綻してその時に現実をどうやるかが出てくるはず
そこでバランス調整してちょっと天秤の傾きを自分たちなりに変えていきましょうってなるでしょ
だいたいそうすると結局男の方が労働多めで女の方が家事育児多めみたいな配分になって、それを馬鹿なアカデミアが男女不平等って言い続けてるのが現状なんだけどね
原神はPCゲーマー目線だとよく出来てるんだけど、ソシャゲーマーがソシャゲ的遊び方をしようとするせいで文句言われてる感がいまだに強い
プラチナトロフィーと名刺取得の名誉のために20層到達をしたくなるんだけど、そこでナタキャラ所持検査だとか不満を垂れるユーザーが多発してる
でもその不満は妥当とは言い難く、そもそもソシャゲとはゲームの設計が違うんだから石の使いかたはキャラの幅広い確保を最優先で考えるべきなんだよね
こう言うとプレイスタイルは好き好きだろうと突っかかってくる人が必ずいるが、このべき論は高難度戦闘をゲームとして楽しむ気がある全ユーザーに該当する
シアターをはじめ最近の他のあらゆるイベントでも運営は「キャラ所持が何よりも重要ですよ」ってメッセージを発してる
そしてガチャシステムもコンスタントなキャラ確保がしやすい天井引き継ぎ式になっていて、逆に昔ながらのソシャゲのように新キャラの大半をスルーしていてもフェスガチャさえ逃さなければ大丈夫な遊び方とは異なる発想が求められる
そのへんの性質を理解して常識を切り替えていければ、ログボ課金と紀行の安い方と2倍石を買い切る程度の微課金でも新キャラの8割は取れるし、月額610+1220円の超微課金でも7割は取れる作りになってる、ゲームまじめにやって石掘ってればね
そうすれば理想のパーティはほぼ形になるし、無凸の星4武器でだいぶ雑な厳選の4人パーティでも今回の戦闘イベントくらいならフレンドバフも飯バフもなくても20層はギリギリ行けるくらいの調整になってる
ただ、ソシャゲ的偏愛主義で遊ぼうとして、最近のキャラを総スルーするような溜め込み癖ある人だと理想パーティが全然組めないってことになり途端にハードルが高くなる
そういう戦闘アトラクションを楽しむ方向とは逆のキャラ取得方針をとってるのに、特定キャラには廃課金してるから戦闘イベでも厚遇を受けられるはずと思って不満を感じる人はやはりソシャゲに毒されすぎだと思う
ソシャゲみたいに金の力で突破する似非ゲームなら好きなキャラに一点投資してなんでもそのキャラでクリアできるっていう偏愛主義者を喜ばせる拝金接待ゲーになってるし、ソシャゲーマーがそういうゲームに親しんできた過程で「えこひいき」的嗜好スタイルが染み付いてるのは分かる
でも原神はちゃんと作られてるゲームなんだから、キャラの選り好みをしすぎて取得をスキップしたせいでナタキャラ固有ギミックやら反応縛りみたいなピンポイントな要求のある高難度イベントで詰まるってのは当たり前なんだよね
例えばタワーディフェンスゲーで、遠隔ユニットがいないと詰むステージに近接だけ配置してクソゲーって言う人がいたら、遠隔ユニットのプールもちゃんと増強しなよって思うよね
近接ユニットに廃課金したら遠隔ステージもゴリ押しできたとか自慢されても、それはネタ攻略であってゲーム的にナンセンスだと思うよね
それと同じことだと思うんだけど、ソシャゲに親しんできた人にとっては、高難度は解法が狭くて非理想パーティでゴリ押しするなら廃課金が必要なクソゲーという認識になってしまう
まあ実際25層とかは廃課金向けの難度なので、そのへんは課金ゲーとしての接待部分と理解できるとはいえ、20層までは戦闘ゲームとしてのキャラ取得の考え方を間違えてない長期ユーザーなら誰でも行けるはずなんだよ
ここに不満を抱くのであればゲーム認識の根本から違っていて、原神は総戦力で押し通すソシャゲじゃなくて中身はパズルゲーみたいなものと考えてほしい
アクションの腕やら装備厳選やら課金やらの依存度はイベ報酬コンプ目的ならそこまで高くなく、一方で合理的なパーティや適切な立ち回りを考えることの比重が遥かに高い
というのも凸や餅を取れば個人火力が20%、パーティ火力が10%くらいずつは上がるかもしれないが
そもそも凸餅に石を費やしたためにキャラ未所持が増えるということであればそれは悪手になる可能性が極めて高い
だって適した編成を組めているかどうかで、イベント等の戦闘ギミックを活用できるかどうかまで考えると10%20%どころじゃなく100%200%も変わってくるんだから
キャラというピースの所有価値の高さを認識してもらうためにあらゆる戦闘イベントが設計されていると言っても言い過ぎではないくらい
そういう理解にもとづいてコツコツキャラプールを増やしていれば大抵のステージギミックは労せず解ける知育ゲーの一環として設計されているわけよ
原神ユーザーはミニゲームを知育ゲーとよく言うが、実際には高難度戦闘コンテンツであっても知育ゲーなんだよ……
ともかく戦闘コンテンツに関してはパズルのピース集めが重要で、オープンワールド探索とシナリオを楽しみつつ戦闘ピースを整えていく盆栽ゲーと理解すべきで、こう書くと「ソシャゲそのものじゃん」と思えなくもないが、実感としてはまるで反対なんだ
知育バトルを突破するために、立ち回りは動画でも見て研究すればいいが、パーティ構築は石リソースを使って長期的に行うもんだから方針を致命的に間違えててピースのない状態では高難度挑戦はどうにもならない
反面、シナリオエンジョイくらいならどんな組み合わせでも問題ないようユルく作られてる、この落差が良心的である一方でゲーム認識に対する勘違いを修正できない人が多い原因でもあるね
キャラ収集の戦略をどうゲームに合わせるかって部分も立派なゲーム要素の一つだと思うんだけど、そこをゲームと見做さないでガン無視している人がソシャゲーマーに多いんだろう、ソシャゲの多くはそうだったし、金さえ払えばゲームが自分に合わせてくれるのがソシャゲだったからね
この状況をどうにかするには、ゲームとして遊びたいユーザーがゲームに反するリソース配分をしているのをやめさせなきゃならない
解決策としては、課金やゲーム内取得も含めた石の獲得ペースが一定以下の人が武器ガチャや凸狙いのガチャを回そうとするときに、ストップをかけることがある程度有効だろう
「旅人さんの原石獲得ペースでは、未所持キャラの取得を優先したほうがゲーム体験が向上する見込みが高いです。それでも当祈願を行いますか?」みたいなモーダルを出すってことだな
けっこう押し付けがましいけどゲーム理解が足らなくてネガキャンに走る人が目立つんなら仕方ない
ガチャという形で課金額の自由とキャラプール構築に裁量を与えている一方で、運営が想定している「こう遊んでほしい」思惑はけっこう濃いメーカーだからある程度は思惑を前面に出して発信すべきだと思う
運営はお利口すぎて意図を主張してこなかったから余計に誤解や不満を招いてる側面があって、まあ不満垂らすユーザーは事前にどう言っても文句言うとは思うが
それでも何かしら主張をしておくことで、作り手の思惑を汲んであげて作品自体を愛して可能な範囲で余すことなく味わおうという模範的よくばりユーザーは器用貧乏ならぬ器用リッチなムーブができて温泉に浸かるような体験を得られる一方で
思惑に反したデータベース消費型の選り好みユーザーは、そんなにキャラばかり無凸で取っても器用貧乏で何もできなくなるだろうという旧式ソシャゲで刷り込まれた恐怖を乗り越えられないため
凸餅狙いという全キャラ所持余裕なペースの課金者が酔狂で費やすようなゲーム的コスパ悪い領域に身の丈を超えて踏み込みがちで、ますます自身のゲーム体験を毀損していくエクストリーム滝行体験に直面するループに陥っていく現状に歯止めはかかるだろう
言ってしまえば旧世代のソシャゲに慣れてしまった罰ともいえるが、そういう罰を与えて挽回の悔し追い課金を刺激しなくてももうこのメーカーはやっていけるはずだ
というかそもそも、復刻を全然してくれないから悔し追い課金がしたくてもできないんだ、ある意味商売としては健全だけどサービスとしては不合格だね
戦闘とは違うが、実質胡桃の伝説任務2章を見せておきながら胡桃ガチャ来てないとか商売ヘタクソかとツッコんでた配信者は無数に見た
もしこういう、時期を逸したことを後悔させる展開を意図的にやっていて、その感情を使って課金を煽るような商売っ気は出さないけども、箱推しファン勢へと向かわせロイヤリティ醸成ひいては根気強い長期ユーザー郡を形成する為にそうしているなら何とも言えないところだけど
まあ自分は初登場時にどのキャラも確保してる古参の典型的高ロイヤリティユーザーだから公平なことは言えないが、途中参加勢に歯がゆい思いをさせすぎだろうとは思う
是正するとしたらそこだ、ソシャゲみたいな期間限定ガチャの復刻インターバル縛りをなくして、一度実装したキャラは翌verの後半くらいにはもう復刻するくらいでいい
ゲーム性の面で新キャラ依存度の高い崩壊3rdでは実際そうしてるんだし、システム一新することを予告しさえすれば受け入れられるはずだ
というか、このゲーム設計なら、過去の全キャラの中から未所持を1キャラ選んで期間限定ガチャを自作できる券をver毎に1枚配るような方が望ましいな
全キャラ所持勢はその券が使えないかわりにグッズ応募券になるとかなら面白い、それくらいすればユーザーにも強いメッセージが伝わるだろう
理想としては、格闘ゲームとかの追加キャラみたいな感じで常時購入できるラインナップに加わる感じが最善だろうけど
このへんもついでに改める余地のあるところだね、欧米圏では買い切りオプションを用意しろって声も少なくないし、やるなら石を注ぎ込んで定価から減額する感じになるんだろうか