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『備前福岡の街並』

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 岡山県東部の旧山陽道と吉井川が交わるところ「備前福岡」は平安時代のころから交通の要衝であった。
 市が開かれ、ずっと備前国の中枢の街として栄えてきた。
 しかし、戦国時代を経て宇喜多直家が岡山藩の藩都を西の現岡山市に移し、この福岡から商人たちを連れて行ったために街が縮小されたことは否めない。
 
 吉井川の流れも大きく変わったと云われている。
 現在は街は左岸になっているが、もとは右岸であったと云われている。
 この福岡の街を訪ねて見ることにする。

 福岡の最寄はJR赤穂線長船駅である。
 駅から2キロほど西北に行くと吉井川の堤防に達する。
 その手前が福岡の街である。
 街中には東小路と上小路という道路があり、吉井川沿いには堤防道路がある。
 写真は東小路で、ところどころに通りの案内看板が建てられている。
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 東小路には表紙の写真のような由緒あると思われる民家が並ぶ。
 少し行くと仲崎邸という古民家があり、居住者がいなくなったため、町の再生プロジェクトで整備公開されている。
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 そして、その邸内には黒田官兵衛の兜らしきものも展示されている。
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 その南は日蓮宗の妙興寺である。
 墓地には黒田官兵衛の曽祖父など黒田一族の墓、それに宇喜多家の先祖の墓もある。
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 妙興寺前から横の通りである市場小路を進む。
 「福岡一文字造剣之地」という碑がある。
 備前長船とともに名刀の郷である。
 上小路と交差する四つ角を北へ行ってみると郷土館がある。
 旧医院の建物である。
 一遍上人の物語などが展示されている。
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 元の道に戻り堤防に向いて進む。
 「福岡の市跡」の碑があり、その広場では今日も市が開催されていた。
 市の上の堤防道路沿いにうどん屋がある。
 IMJうどんと云う。
 その店の名物「どどめせ」をいただいてみた。
 炊き込みご飯に合わせ酢をしたもので、「どぶろくめし」が訛ったものである。
 備前ばらずしのルーツであると云われている。
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 備前福岡の街には七つの井戸があった。
 街中に分布しているが、現在も4つは生きているとのことであった。
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 堤防道路の川側河川敷にはゴルフ場の中に中世の城跡福岡城趾もあり、歴史多彩な備前福岡である。
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『備前国・福岡城趾』

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 岡山県瀬戸内市長船町福岡にある備前福岡城趾である。
 この福岡の地は山陽道と吉井川が交わる陸運水運の要衝で、平安時代から市が開かれ備前国の中心として栄えていたところである。
 備前長船や福岡一文字の名刀の郷としても知られている。
 鎌倉時代には、一遍上人が説法に訪れ、多くの市民が出家したことでも知られる。
 
 この備前福岡の市に隣接する吉井川の中州に、鎌倉末期に築かれたのが福岡城である。
 築城は細川清氏の家臣頓宮四郎左衛門と云われる。
 その後、九州から東上する足利高氏に滅ぼされ、佐々木氏、赤松氏、山名氏など、南朝北朝の勢力により激しく争奪戦が行われ支配者も交代した。
 そして応仁の乱後に再び赤松氏が城主に返り咲いたと云う歴史を持つ。

 しかしこの時代、川は一たび洪水が起きると流れまで変わってしまう。
 この福岡城も戦国時代初期の大洪水により流され廃城となってしまった。
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 福岡城趾は現在はゴルフ場の中にある。 
 堤防上の自動車道の脇に「福岡城跡の丘」の石柱がある。
 この下にあるゴルフ場のクラブハウスに許可を頂き、おまけに進入路まで説明頂き城跡へ向かう。
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 野球場もサッカー場もある。
 その間の道を一旦川縁まで出て、ゴルフボールの行方を気にしながら、中央の10m程度の小山を目指す。
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 小山の手前はティーグランドなので留まることはできない。
 反対側の別ホールのグリーン近くから城丘を眺めてみる。
 丘の入り口には表紙の標柱が建てられている。
 そして丘には神社が祀られている。
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 この辺りの吉井川は滔々と流れている。
 上の地図の上部の川である。
 下部の川は無くなりゴルフ場となっている。
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 今話題の黒田官兵衛の曽祖父高政、そして祖父重隆が近江国から流れてきてこの地に住まいしたと云われる。
 それゆえ福岡は「黒田家礎の地」と云われている。
 子孫黒田長政が筑前博多に築城した時、この地の名前から福岡城と名付けたのは良く知られている話である。

『阿波国・勝瑞城趾』

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 徳島県板野郡藍住町にある勝瑞城趾である。
 戦国時代に室町将軍や豪族を欲しいままに動かし、武家の頂点へ昇り詰めた三好一族の本拠である。
 総帥三好長慶は畿内に居城を構えていたが、その弟たちは阿波、讃岐、淡路の国主となっていた。

 勝瑞城はこの時代には珍しい平城である。
 すぐ下の弟、三好義賢が城主として阿波の国を支配していた。
 義賢が畿内の戦いに出かけ没すると子の長治が城主となったが、重臣たちに追われ、その後讃岐国十河氏の養子となっていた長治の弟、十河存保が守ったが、土佐から押し寄せる長宗我部元親に抗し切れず、滅ぼされ城は奪われ、その後破却された。
 石垣や遺構は徳島城の築城に利用されたと云われる。

 勝瑞城趾へはJR高徳線勝瑞駅から行くことになる。
 城跡碑から入ると直ぐに主郭跡である。
 そこは三好氏の菩提寺見性寺と少しの広場となっている。
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 江戸時代に徳島藩儒官により三好家の盛衰と戦没者の慰霊文が刻まれた「勝瑞羲家碑」が建てられている。
 また三好家累代の墓も守られている。
 主郭跡の隅には矢竹が植えられている。
 戦時中には矢の材料となるものである。
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 主郭の周囲には土塁そして堀が遺構としてある。
 また堀の外の北側には、表紙の写真の建物が新たに建てられている。
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 勝瑞本城はここまでである。
 城の周辺を歩いてみると西南側にかなり広い場所を発見した。
 勝瑞城の館群の跡である。
 発掘調査も行われていて、全容を明らかにしているところである。
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 勝瑞は紀伊水道近い吉野川三角州にある。
 海陸の交通の要衝として市も開かれ、古くから栄えた城郭都市であったことが推察できる。

『河内国・飯盛山城』

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 三好長慶が関わった城の3つ目、生駒山系の北部、大阪北河内の「飯盛山城」である。
 長慶は畿内に覇を唱え、摂津西宮の越水城、高槻の芥川山城と順に居城とし、その後この大和と河内の境の300m強の飯盛山城に居を移し、強固な城郭を築城した。
 しかし、芥川山城主に据えた息子義興が他界し悲痛にくれたまま、長慶も次の年に亡くなってしまった。
 その後飯盛山城は暫くは三好勢力にて維持されていたが、最終的に織田信長に攻め落とされ廃城となった。 

 表紙の写真は飯盛山である。
 見える範囲の山頂尾根に下の絵に対応する城郭が築かれていた。
 右手が南で山と対応している。
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 飯盛山へはいくつかの登山口がある。
 今回は野崎参りで良く知られる野崎観音慈眼寺からの登山とする。
 野崎観音への参道を辿り、まずは観音様にお参りする。  
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 本堂脇の登山道を上ると途中に野崎城址の広い場所がある。
 飯盛山城の支城である。
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野崎城址から奥へは一旦下りとなり、「せせらぎ」と云う谷を越える。
ここからは急峻な山道である。
一気に登りつめると、尾根筋に出る。
更に登ると広い場所に到達する。
城郭群の一番南の千畳敷廓跡である。
ここには大阪の3つのFM局の共同送信塔が建っている。
下界から良く見えているものである。
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 更に北上し、次のピークへ登る。
 本丸高櫓廓跡である。
 飯盛城址の標柱、それに中央には楠木正行(まさつら)の像が建っている。
 元々、子の飯盛山は南朝方に与した軍の居館であった。
 正行は四条畷で足利軍に敗れ最期となったため、それを偲び、ここに像が建てられている。
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 本丸の周りには石垣が残っている。
 そしていくつかの廓があった。その廓跡を順に辿る。
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 その北は二ノ丸である。
 先ず、御体塚廓跡がある。
 他界した長慶の遺体を仮安置したところである。
 そして石垣、堀切を眺め廓群はここまでである。
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 その北には少しの広場がある。
 史蹟の碑が建てられている。
 また長慶の偉業を偲び「長慶が畿内に君臨する」との立札が地元の方の手で建てられている。
 山の高さの標点基準315mも設けられている。
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 残すは下山である。
 非常に急峻な山道である。
 一気に四条畷神社まで下山した。
 尚この神社には楠木正行が祀られている。
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『摂津国・芥川山城阯』

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 三好長慶が関わった城の2つ目、大阪府高槻市の三好山183mにあった芥川山城阯である。
 この城は細川高国が築城したものであるが、長慶は内紛で混乱する細川氏からこの城を奪い、父元長の従弟に当たる芥川孫十郎を城主とした。
 その後、孫十郎が謀反に走ったためそれを滅ぼし、自らがこの城に入り、畿内を治めた。
 そして、その後長慶は河内の飯盛山城へ移り、嫡男の義興を城主とした。 

 しかし義興は22歳の若さで急死し、悲観した長慶は翌年後を追うように他界した。
 その後は三好長逸が城主になっていたが、織田信長の摂津に侵攻により敗れ、長逸は阿波へ逃れた。
 
 その後信長の家臣和田惟政が城主となり高山氏を入城させ、自らは高槻城に入った。
 そして和田惟政は高山氏に滅ぼされ、高山氏が高槻城で政務を行ったため山城は不要となり、廃城となった。

 城山へは搦め手口から登る。
 案内に従って、里側に猪であろうか鹿であろうか防御フェンスが設置された道を登って行く。
 三好山の全容が見える。
 この三好山は三方が摂津峡という芥川上流の渓谷に囲まれている。
 登城となれば左手山腹にある大手道か、尾根を伝うこの搦め手道となる。
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 しばらく行くと少し広いところに出る。
 搦め手口の守備所があったところと思われる。
 これを過ぎると、道は細くなり、石垣も見られる。
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 芥川山城は東から尾根伝いに3つの曲輪群から構成されている。
 まずは東の曲輪群である。
 一角に墓石やら石仏が集められた箇所がある。
 いくつかの曲輪があったものと思われる。
 次の中央の曲輪との間には土橋が架かっている。
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 土橋を渡ると石垣が積まれていたであろう門跡に至る。
 中央の曲輪群である。
 「史蹟 城山城跡」の石柱が建てられている。
 これを過ぎると、道は曲がりくねり、急となる。
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 これを登る。
 頂上直下の左右に広い場所がある。
 いよいよ本丸を含む西の曲輪群である。
 登りつめると広い頂上に出る。
 本丸跡である。
 中央に長慶を祀る祠が建てられている。
 そして表紙の「城山城阯」の石柱が建てられている。
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 本丸下の石垣を探してみた。
 歩行すること困難な山肌なので、十分な発見ができなかったのは残念である。
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 下山し、摂津峡下の口から三好山を眺めてみる。
 この川が大曲がりして三好山の北、西、南半分を囲んでいる。
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 高槻の街中の天神町に霊松寺という寺がある。
 この寺の墓地の一角に三好義興の墓がある。
 叩くと音がするとのことから「三好のカンカン石」と呼ばれている。
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 また高槻の芥川下流の殿町には「芥川城址」と云う標柱が大きな屋敷の前にある。
 山城を築城するまでの領主の居館であったと云われている。
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『摂津国・越水城址』

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 今回から、室町将軍を欲しいままに動かす天下の覇者第一号となった阿波の雄三好長慶に因んだ城跡を訪ねて見ることにする。
 先ずは兵庫県西宮市の中心部から少し北の高台にあった越水城址である。
 小清水城とも瓦林城とも云われる。
 市立大社小学校の東南の隅に石碑が建てられている。
 そして周辺は市街化・宅地化されていれ、その面影は殆どないと云って良い。
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 この城は国人瓦林正頼が築城したとされる。
 戦国時代になって、細川澄元に与する三好元長・長慶親子が畿内に進出し、この城を拠点とした。
 三好長慶はこの城を居城と定め、京に松永久秀を配し畿内の実権を握ったと云われる。

 しかし最終的には、織田信長の台頭により、この地も支配地となった。
 そして紛争の種となる城を廃して欲しいと云う町衆の願い出により城は廃城となた。
 
 城は清水町、桜谷町、越水町の3町を中心に築城された。
 我が国最古となる天守があったとも云われている。
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 数少ない遺構であるが城内の井戸が残っていて、住民に守られてきている。
 西所(にしんじょ)、中所、東所と云われる。
 写真は西所と東所とその内部である。
 この井戸はまだ現役で、阪神淡路大震災の時には住民の貴重な水供給源となったそうである。
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 丘の高い方へ上って行くと西宮の中心部はこのような風景となる。
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 城跡の南側には西田公園が整備されている。
 この公園内に万葉研究家犬養孝先生監修の万葉植物公苑があり、万葉集の歌や因んだ草木が植えられている。
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『摂津国・兵庫城跡』

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 現在の神戸市、かつての兵庫の津に兵庫城という城があった。
 織田信長が、摂津の国主荒木村重を有岡城、尼崎城、花隈城と順に追い詰め滅ぼした後、戦功のあったあった池田恒興を国主に任じた。
 恒興は花隈城には入らず、新たに兵庫の津に築城したのがこの兵庫城である。

 その後、秀吉の時代には直轄地となった。
 大坂の陣の後は兵庫津一帯は尼崎藩に組み込まれ兵庫城跡には陣屋として改変された。
 その後は天領となり、幕府の勤番所となった。

 明治時代になってこの地に兵庫県庁が置かれ、伊藤博文が初代知事として赴任したことでも知られる。
 その後、城跡に兵庫新運河が開削され、城跡はかなりな部分が破壊されてた。
 また運河の東の城跡部分には神戸の中央卸売市場が建てられもした。

 平成になって市場が東へ移転され、現在は空き地となっている兵庫城跡では発掘作業が展開されている。
 遺構の石垣等が発見されているというニュースが聞こえる。

 また兵庫津は平清盛にも縁深いところで、運河を渡る橋には「清盛くん」像が建っている。
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 城外を探索してみる。
 兵庫城下は惣構えの城下で、城下には西国街道が通っている。
 西国街道は、北口にあたる「湊口惣門」から南下し、城に突き当たったところで西に90度向きを変える。
 そして出口は西惣門である。
 JRの山陽本線の線路を長辺とする直角三角形を構成している。
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 西惣門の辺りには、足利尊氏が開基となった禅宗の「福海寺」、そして通りを挟んで「蛭子神社」が建っている。
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 西惣門からJR線路沿いに少し歩くと、兵庫駅に到達する。

『京都洛西・物集女城』

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 京都盆地の西部、洛西の向日(むこう)市に物集女(もずめ)という住所地がある。
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 大阪堺の豪族が古墳群の百舌鳥(もず)から移り住んだと云われ、物集氏あるいは物集女氏を名乗ったのが起源とされている。
 この物集女氏、室町時代には幕府に仕えこの地区(総称して西岡)の代官を務めていて、物集女城を構えていた。

 しかし、織田信長が台頭するにおよび最後まで抵抗したが、勝龍寺城に拠りこの地を支配した細川藤孝に滅ぼされ、城も廃城となった。

 以降この地区の住民たちは、土塁、堀、居館跡などの城跡を守り続け現在に至っている。
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 この物集女城跡の西の丘には「竹の径」があり、周回してみる。
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 小学校のところで自動車道に出ると、隣に桓武天皇の妃の陵があり訪れてみる。
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 そこから住宅街の中を下り、大原野道に出ると珍しいものが路端にあった。
 白鳳時代から湧き出ている水だそうである。
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 大原野道を下ると西国街道と交差し、その先はJRの向日町運転所となり、西岡のミニ旅は終了となった。
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『京都・聚楽第址』

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 京の街の現在の京都御所から西へ向かう線と、現在の二条城から北へ向かう線が交差するところに豊臣秀吉が築城した聚楽第(じゅらくだい)があった。
 通り名で云うと、東西は大宮通りと浄福寺通りに囲まれ、南北は一条通りと下立売通りに囲まれた部分である。
 その中央付近、中立売通りと智恵光院通りの交差点辺りが本丸中心で、2重3重の濠で囲まれていた.。
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 聚楽第は秀吉の関白就任に伴い築城されたもので、後陽成天皇を迎えたりしたが、後に関白秀次の居城となった。
 秀吉に嫡男秀頼が生まれてから、秀次に謀反の疑いがかけられ、秀次は追放、自害とされ、聚楽第も破壊された。
 僅か8年の寿命であった。
 遺構の多くは伏見城や各所に移されたとのことであり、現在は町屋の下に石垣が残っているのみである。

 表紙の写真は本丸の東端に建てられている石碑である。
 中立売通りを西へ進み、本丸の西の端付近の正親(せいしん)小学校前にも標柱が建てられている。
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 少し下がって、本丸の南端に濠の遺構が最近発見されている。
 京都府警察本部が職員住宅を建設した折に発見されたものである。
 このようなことでもない限り土の下の遺構は出てこない。
 現在は埋め戻されて、説明パネルが設けられている。
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 聚楽第の当時を偲ぶものとして、聚楽第の濠の外側に豊臣大名たちの名前が町名になって残されている。
 時計回りに順に訪ねてみることにする。
 先ずは北東の晴明神社前に千利休の屋敷跡がある。鬼門の位置である。
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 一条通を東へ進み、堀川を戻橋で渡ると主計町がある。
 加藤主計頭(かずえのかみ)清正の屋敷があったところである。
 その南に甲斐守町がある。
 黒田官兵衛の息子黒田長政の屋敷があったところである。
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 一条通を西へ戻るとそこには黒田如水の屋敷跡がある。
 黒田官兵衛孝高(よしたか)の屋敷である。
 町名は如水町と云う。
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 如水町の隣には弾正町、浅野弾正少弼長政の屋敷跡と考えられている。
 その南には飛騨殿町がある。飛騨殿と呼ばれた蒲生氏郷の屋敷跡である。
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 南へ下がって西へ行くと西の丸跡は高台院町となっている。
 秀吉の正室高台院「おね」の屋敷である。
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 更に南へ下がると、道路が先へ下がっていて、その先に寺がある。
 松林寺と云う。
 境内は更に下がっている。濠を埋め戻さずにそのまま寺が建てられたものであろう。
 寺門の横に「南外濠跡」とある。
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 東南へ行くとそこには、浮田町と云う表示がある。
 宇喜多秀家の屋敷があったところである。
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 この付近には後の五大老、家康や毛利輝元などの屋敷も有った筈であるが、それを偲ぶ町名が見つからなかった。
 その代りに中村一氏を偲ぶ中村町、脇坂中書少卿安治を偲ぶ中書町、そして上杉景勝と重臣直江兼続の屋敷があったと書かれた標柱が見つかった。
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 聚楽第の遺構は土の下であるが、城下の有り様は京都市民の手で、現在も大切にされていることが実感できた。

『祇園祭・復活大船鉾』

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 今年の京の祇園祭には変化があった。
 大船鉾(おおふねほこ)が150年ぶりに復活したのをきっかけに、山鉾巡行が本来あるべき姿の前祭(さきまつり)と後祭(あとまつり)の2度に分けて行われることである。

 大船鉾は神功皇后の三韓征伐の時の船を形どったもので、神功皇后や住吉大神などを祀っているものである。
 幕末の長州藩が引き起こした禁門の変、いわゆる蛤御門の変の大火で焼失していたもので、この度復活し、24日の後祭りの最後尾で巡行することになっている。
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 鉾見物に出かけたが、3日前と云うのに凄い人出であった。
 おまけに祇園提灯に前後が挟まれ、両側面は狭い通路で全容を見ることはできなかったが、巡行でその姿を拝観できる楽しみとなった。
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『京都・旧二条城跡』

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 京都市上京区烏丸下立売を中心に、東西は烏丸通りから室町通り、南北は出水通りから丸太町通りの間の約390m四方に築かれた旧の二条城跡である。
 築城者は織田信長で、将軍足利義昭を奉じ、その居館としたものである。
 二重の堀、三重の天守を持ち、内部には金銀を散りばめた豪華な城であったと云われる。

 しかし将軍義昭は信長包囲網を画策するなどして信長に反抗したため、追放された。
 その後信長は東宮誠仁親王を迎え入れて二条御所としたが、室町幕府の滅亡に伴い廃城となった。
 そして解体され、資材は安土城建設に使われたと云われる。
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 その旧二条城の跡地の中心は現在、平安女学院の大学や高校、中学が建設されていて、女の園となっている。
 表紙の標柱は大学本部の北に隣接して建てられている。
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 また少し南には、将軍足利義輝の館もあった。
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 遺構として、新二条城の西の端に石垣が移設されている。
 これは地下鉄工事の時に発見されたもので、犬走りも見られる。
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 京の街の地下には、平安京や聚楽第、その他の遺構が沢山眠っている。
 発掘調査と云う訳には行かないが、それはそれで工事の折に発見されたりするので、少しずつであるが楽しみと云える。

『播磨国・龍野城』

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 兵庫県の西部、姫路市よりさらに西の揖保川流域に龍野という街がある。
 この龍野の街の北の鶏籠山(けいろうさん)218mの山頂付近に国人赤松氏が築いた鶏籠山城があった。
 そして南の山麓には居館が造られていた。
 これらを称して、龍野古城と云う。

 この城は秀吉の中国攻めにて落城させられ、蜂須賀小六正勝が城主となった。
 その後城主は目まぐるしく代わり、京極高和がの四国丸亀への転府に伴い、城は破却となった。

 その後、脇坂安政が龍野城主となり山麓部の居館のみの龍野城が新たに築城された。
 遺構としては石垣が残っていて、現在、城域には幾つかの建造物が再建されている。
 表紙の写真は模擬再建された隅櫓である。
 そして、埋門や塀、それに本丸御殿も再建され、塀下の幼稚園もそれなりの外観で造られている。
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 龍野には有名なものが三つある。
 一つ目は、童謡「赤とんぼ」の三木露風の産まれたところで、城近くの公園入口に歌碑が建っている。
 二つ目は、播州そうめん「揖保の糸」。にゅう麺を近くのS茶屋で頂いた。
 三つ目は、淡口(うすくち)醤油の発祥の地。大手メーカーの蔵が城下に建っている。
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 また城下にはこのような風景もある。
 かつては食品問屋だった建物である。 
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 竜野城は、脇坂家城主が10代続いた後、明治維新となり廃城とされた。

『山城国・笠置山城』

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 奈良の柳生と境界を接する京都府南部の笠置山288mに笠置山城はあった。
 戦国時代の城ではなく、鎌倉時代末期に後醍醐天皇が立て籠もった城である。

 後醍醐天皇は皇位継承問題の縺れから鎌倉幕府を討幕しようと計画し挙兵した。
 しかしながら勢力優位な幕府方に京を追われることになった。
 そして京都の南部の、笠置山へと逃げ、当時あった白鳳時代からの古刹笠置寺を城郭化し、攻め寄せる幕府軍と戦ったのであった。
 約一か月の戦いの後、城に火が放たれ落城、天皇は捕らえられ、隠岐の島へと流されたのであった。

 笠置山城跡は笠置寺の境内にある。
 笠置寺は天武天皇の開基によると云われ、奈良東大寺と関係が深い寺である。
 境内には看板が設けられ、境内や城跡散策の道も明示されている。
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 途中には巨大な石塊に、光背だけしかない弥勒磨崖仏、虚空蔵菩薩磨崖仏がある。
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 また正月堂は弥勒磨崖仏の礼堂として建てられたものである。
 東大寺の二月堂、三月堂へとお堂が連続していると云われる。
 寺の住職の話によると、後醍醐天皇はこの正月堂を常日頃の住まい(御殿)としたとのことであった。
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 境内を一周する道に入る。
 太鼓石、ゆるぎ石と云うのがある。
 又、眼下に木津川と谷が見える。北の方向である。
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 頂上へ近づくと少しの広場にでる。
 休憩所もあり、二ノ丸跡と説明されている。
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 更に進む。
 行在所遺址の石柱と石段がある。
 登ると玉垣が設置されている行在所である。
 横から回り込んでみると、草木に覆われているが、広い場所となっている。
 本丸の部分であろう。
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 後醍醐天皇は隠岐島に流されていたが、その間に楠木正成が挙兵し、鎌倉幕府北条軍を大坂南部金剛山麓の千早に引き付けている間に、新田義貞が鎌倉を襲い幕府を滅ぼした。
 そして島から帰ってきた天皇の建武の新政へと続いて行くのであった。

『山城国・山口城』

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 山城国山口城は織田信長の命にて山口秀康が築城した館である。
 そしてこの城は徳川家康の伊賀越えを助けた城として良く知られている。
 場所は京都府南部の宇治田原町郷ノ口にあったが、遺構は殆ど残っていない。
               
 1582年6月2日、信長が本能寺にて襲撃され、自害との報が家康のもとに入った。
 堺からの帰り、大坂北河内を移動していた家康、供の者は50名足らずなので何ともなら無い。
 一目散に三河を目指し帰ることにした。
 歴史に云われる家康伊賀越えである。

 家康一行は津田の人家の間を抜けて生駒の山裾で山に沿って方向を東へ、穂谷川に沿った信楽街道へ踏み込んだのであった。

 家康の気懸かりは、武田の遺臣穴山信君(梅雪)である。
 信長の押さえがなくなった今、どう転ぶか分からないと疑心暗鬼となった。
「梅雪翁に頼みがある。貴殿は武田の重臣、山野の戦いには慣れておられよう。先鋒を引き受けてくれまいか?」
 信君は家康から大役を仰せつかり意気揚々、しかし信君の手勢は10名ばかり。
 多少の不安もあったが、ここは徳川家を守るためと決断した信君は手勢をまとめ、豊富な路銀も分掌して、田辺の普賢寺に向け、先に出発したのであった。

「ワシらも行こうかのゥ…」
 家康本隊、信君の道とは違う北に向いて、甘南備山の麓を目指したのであったが、信君は知る由もなかった。
 雨はいよいよ本降りとなった。
 忠勝(本多)は何故かそわそわと落ち着かない様子であった。
 その他のものは臨戦の構えで、寡黙になって山越道を歩いたのであった。
 
 伊賀越え道はどこを通っても、木津川畔の草内の渡しで、舟に頼らなければいけない。
 二手に分かれた家康一行はそれぞれこの渡渉地点を目指したのであった。
             
 家康本隊は酬恩庵という一休禅師の寺に無事到着した。
 そこに寺小姓が「本多様…」と呼びかけた。
 何やら耳打ちされた本多、すぐさま家康の傍に行き、「… …」と。

 家康は「ふん…」と一言。 
 皆に向かって、
「渡し舟も、動き始めたようじゃ…」 
「さあ、雨もあがったようじゃ。行こうかの…」 
 一行は、もう一度禅師の墓所に手を合わせ、木津川べり向け、今度は勢い良く動き始めたのであった。
               
 木津川土手が見える所まで来た。
 何やら騒がしい。
 家康は小姓二人に手招きし、
「何か、祭りでもあるのか? 見て参れ!」
 と言い放って、渡し目指し進んだ。

 小姓が帰って来て、言うことには、
「鷹狩りに来ていた武将が百姓の一揆で殺された、との様子でござる。地元の百姓ではなしに、山賊の化身かとも、言っているようでござる」
「そうか、それは気の毒に…。きっと名のある武将じゃな」
 と、金子を取り出して、
「通りがかったのも、何かの縁じゃ。手厚く葬ってやるが良かろう」
 と言い、
「これを手渡してくれ。」
 と小姓に預けた。、
 村人たちが一年位、何もせずに暮らして行ける程の金子を手渡したのであった。

 後日譚ではあるが、村人たちは、その一行の亡きがらを村の墓地の中心に手厚く葬ったのであった。
 数日して、墓標が届けられた。何やら書いてあった。
 偉い武将のような名であった。
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 木津川の草内の渡しといっても、当時は小舟が一艘と、多少の人夫がいるのみである。
 荷駄と一行を渡し終えるのには、相当な時間が掛かる筈である。
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 助け舟とはよく言ったもので、この先の宇治田原の山口城から来た屈強な男衆が、川べりで待っていてくれた。
 百姓姿である。「すわっ一揆か?」と一瞬ひるんだ。
 隠し持っていた山口家の旗を立てたこの家紋、家康は知らなかったが、酒井は知っていた。 
 さすがである。
 もう説明する必要もない。
 半蔵が城主山口秀康に掛け合っての手配である。

 これだけの人数がいるので、渡し作業は早い。
 小半時もすれば全て完了した。
 山口城目指して、一行は案内された。

 藪の向こうに集落が見えて来た。
 郷ノ口、山口城下である。
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 この地には極楽寺と云う寺院がある。山口家の菩提寺である。
 この寺の寺門は山口城の裏門の遺構と云われている。
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 一方、家康一行を迎える山口城、台所はてんてこ舞い。
 城主秀康は悩んでいた。
 ご馳走は出したいが、戦時中ゆえ一喝されることは分かっている。

 しかし知恵が働く秀康、策を弄した。
 白米入りの麦飯は、握った。 
 後は、体力回復のうなぎである。宇治川特産の川鰻である。
「当地特産の煎餅とでもしておくか? デザートなら良かろう…」

 さて家康一行、城内で握り飯の接待を受けることになった。
 秀康「戦時中ゆえ、粗末なモノばかりで…」
 家康「かたじけないのう…。気まぐれ旅で迷惑かけるのう…」
「当地特産の煎餅でございまする。お立ちより記念にご賞味を!」
 と、一同の前に指し出した。

「これが、煎餅か? いつも食しておるのか? 美味いのう…」
「…。 たまりたっぷりでございまする。千人の兵(センベイ)を食うという云われがありまして、当地では戦勝祈願で…」
「そうか、馳走になったのう…」

 山口城の兵に守られ、宇治田原の山越え道に挑む、家康一行であった。
 山道は殊のほか険しく、ぬかるんだ
 山間の人家の見える場所に寺院があった。
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 遍照院という名であった。
 この寺で湯茶の接待を受け、少しゆっくりし、朝宮、信楽、…、を通過し、無事鈴鹿の白子の港に到着したのであった。
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『伊賀国・百地丹波城』

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 三重県伊賀市の上野城から東南東約10kmの山間の喰代(ほおじろ)と云うところに伊賀流忍者の上忍、百地(ももぢ)丹波守の居館、百地城跡がある。
 上忍とは忍者の総元締めである。
 百地丹波守は、3ヶ所の居館に住まいしていたと云われ、この居館もその一つである。
 忍者の部下たちでさえ、いつどの居館に居るのかいないのか、その所在は闇に包まれていたと云われる。

 百地家の菩提寺となっている青雲寺の東側に入口がある。
 少し行くと左手に登る20段程度の階段がある。
 階段の上は広場となっている。
 主郭跡(廓C)である。
 表紙の標柱や、説明看板も建てられている。
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 主郭の東側(山側)は堀切である。
 その南北には、南虎口、北虎口がある。
 堀切の上はこれも広場となっている。
 郭Bである。
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 更に登って行く。
 傾斜は緩やかであるが、道が登るにつれ不確かとなる。
 土塁があり、その上は頂上の郭である。
 物見の櫓などがあったものと思われる。
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 下山途中には石垣もあった。
 入口まで戻って、青雲寺を訪ねる。
 この寺の場所も廓の一つであると云われている(廓D)。
 墓地入口には百地家累代の墓がある。
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 百地忍者一族は織田信長の伊賀侵攻に抵抗したが、敢え無くこの城も落城し、百地丹波のその後の足取りは分かっていないが、忍者団を再構築し、その恨みを晴らしたと云われている。

『伊賀国・上野筒井城』

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 三重県伊賀市にあった上野筒井城は、織田信長の息子北畠信雄の家臣である滝川雄利が平楽寺跡に築いた砦を改修して、大和国から移封された筒井順慶の息子筒井定次が築城した城である。

 その後、江戸時代になって大坂の陣の徳川方の拠点として藤堂高虎が改修を開始したが、陣も終結し豊臣方が滅んだため不要となり、建設途上のままで放置された。
 定次の建てた城は、高虎が改修した城と区別するため、地元では筒井城と呼ばれている。

 高虎は伊勢国の津城主となりこの伊賀国も合わせて治めることになったため、城代役所のみを整備して出先としたのであった。
 その城代役所は筒井定次の城の本丸跡に建てられた。
 上野城の縄張りの東半分の部分である。
 その広い場所の東北の片隅に階段がある。
 少し上ると草叢の中に表紙の筒井天守跡の石碑が建てられている。
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 筒井城の遺構であるが、石垣、土塁、それに発掘されたものであろう石仏が道路に並べられている。 
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 縄張りの西半分は高虎が改修した部分である。
 何と云っても特徴は高さ30mの高石垣である。
 堀も現存し、その長さは400m近くにも及んでいる。
 模擬天守も建てられている。
 昭和初期にご当地の議員氏の寄付によって建てられたものである。
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 城域の外の上野公園には松尾芭蕉を偲ぶ俳聖殿がある。
 芭蕉の旅姿を模したもので、これは国の重要文化財である。
 並んで伊賀流忍者屋敷があり、楽しいイベントが行われている。
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『姫路城リニューアル』

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 「平成の大修理」中の世界遺産国宝姫路城の天守が覆いが外されその姿を現した。
 真っ白な漆喰で塗り固められたその姿は、まさに白鷺城である。
 「白過ぎ!」との意見もあるが、これが本来の姿であろう。
 年月とともにくすんで来るので、今の間にその白い姿を見ておきたいものである。

 表紙も下の写真も大手門を入った三の丸広場から見たものである。
 天候はどんよりとしていたため、写真がくすんでいるのは残念である。
 工事用の搬送機が取れないのは、内装工事が継続している証しであろうか…。
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 城の裏側には清水門跡がある。
 鷺の清水という井戸もある。
 この地点からは姫山原生林の上に天守の頭が少しだけ見える。
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 城と逆側に城山の姫山より少し高いくらいの男山59mがある。
 登って行くと、千姫天満宮、男山八幡宮、頂上広場は姫路市水道配水池となる。
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 少し遠くなるが男山の頂上から天守の全容が良く見える。
 裏姫路城である。
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 姫路城の原型は播磨の領主赤松氏が築いた城である。
 赤松氏が本城を置塩城とした後、家臣の小寺氏が城代となった。
 小寺氏が御着に城を新たに構えたので、家臣の黒田職隆、孝高(官兵衛)が城代として入城した。
 その後、秀吉の中国侵攻の拠点となり改修が加えられた。
 関ヶ原の後、藩主となった池田輝政、そして家康の孫千姫と再婚した本多忠刻が大改修を行い、現在の姿となっていると云われる。

『伊勢路の城・鳥羽城』

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 伊勢路の城跡を訪ねて、最後は伊勢神宮の東で、海に面した鳥羽城である。
 旧の国名でいえば志摩の国に入る。
 この城は織田信長に与した水軍の武将、九鬼嘉隆(くきよしたか)が秀吉の時代に豊臣大名となり、築城したものである。
 場所は今の近鉄鳥羽駅の南側すぐ近く、鳥羽湾に隣接したところに築城されたもので平山城である。
 海水を周囲に引き込んでいたことから水城、浮城とも云われる。
 
 九鬼水軍は織田軍の石山本願寺との戦いで、毛利や村上の水軍を討ち破るために燃えない鉄甲船を造り、大坂湾木津川口の戦いで勝利し、織田軍の戦況を有利に導いたことで知られている。

 表紙の写真は三の丸跡に設けられた観光用モニュメントである。
 写真の撮影側背後には大手水門があった。
 現在は近鉄線路、国道、鳥羽水族館、そして海へと繋がる。
 
 整備された階段を登りながら、左手山肌に棚田のような石垣を見る。
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 階段を登りつめたところに整備された広場がある。
 何らかの曲輪があったところであろう。
 本丸跡を目指してさらに登って行く。
 途中に本丸石垣、天守の石垣が見られる。
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 頂上が本丸跡地である。
 海面から40m程度のところである。ここも広い。
 じつはこの本丸跡、すぐ南に校舎がある旧鳥羽小学校の運動場となっていたところである。
 風化はしているが、その名残のものも残されている。
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 本丸跡からの眺めである。
 少々見にくいが眼下に鳥羽湾が見える。九鬼水軍の船溜まりであったところであろう。
 目を遠くに移すと、真ん中に御木本(みきもと)真珠島、左手遠くに答志(とうし)島が見える。
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 答志島には嘉隆の首塚、胴塚がある。
 関ヶ原の戦いで、家名存続のため嘉隆が西軍に、子の守隆が東軍に与して戦った。
 敗れた嘉隆はこの島に逃れた。
 そして守隆の懇願で嘉隆は許されたが、それを知らないまま自刃したのであった。
 水軍の勇将の切ない最期である。

『伊勢路の城・松阪城』

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 三重県松阪市にあった松阪城は近江出身の戦国武将である蒲生氏郷が築城したもので、松阪の中心部にある。
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 氏郷は近江の穴太衆を率い、自然石で積み上げる穴太積みの技術を用い、壮大な城を築城した。
 現在は、城周囲の堀は全て埋め立てられているが、石垣は当時の様子を伝えるものとして、殆どのものが残っている。
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 城郭の東側に大手門跡がある。
 また二の丸に向かう中門跡、そして南の下城口には裏門跡がある。
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 二の丸跡、本丸跡へと進む。
 本丸の隅には天守台がある。
 それぞれ整地され公園としての機能を果たしている。
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 本丸、二の丸の周囲にはいくつかの櫓台がある。
 敵見櫓、藤見櫓、月見櫓である。
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 松阪城は、氏郷が会津若松へ国替えになった後、豊臣大名の服部一忠が入城したが、秀次事件に連座したとして自害させられ、その後古田織部の甥、古田重勝が入城した。
 重勝は関ヶ原の前哨戦、津城への西軍攻撃の折り、それを支援し釘付けした功により江戸時代になって松阪初代藩主に任じられた。
 大坂の陣の後、古田氏は石見国に転封となり、松阪から南の伊勢は紀伊藩の藩領となり、紀伊藩の管理下に置かれ、明治まで続くのであった。
 
 話はややこしくなるが、江戸末期に紀州藩の家臣たちが家老安藤家が治める田辺城に派遣されていたが、藩主から安藤の家臣になるように云われ、それを不満として脱藩した。
 現在の企業でも出向先の社員にならされると云うのは良く聞く話である。

 脱藩した藩士たちは数年して藩への帰参が許され、松阪城番の職が与えられ、裏門を出たところにある三の丸に御城番屋敷を建て住まいしたものである。
 現在も子孫の方々が住まいされているところもある。
 この御城番屋敷というのは、他の城には無い大きな特徴であろう。
 国の重要文化財にも指定されている。
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 城内には学者本居宣長の屋敷跡と記念館がある。
 そして城壁の外になるが、本居神社、そして松阪神社が並んでいる。
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『伊勢路の城・津城』

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 三重県の県庁所在地津市にある津城跡である。安濃津城とも云う。
 元々は国人領主長野氏の一族である細野氏が安濃川と岩田川に挟まれた三角州に築いた城郭がベースとなっている。
  
 織田信長の時代に、信長がこの地を支配し、長野氏に養子として弟信包(のぶかね)を送り込み、信包はこの安濃津城を居城とした。

 秀吉の時代になって、信包は移封され、その後に家臣の富田一白が入城した。
 一白の子信高の時、関ヶ原の戦いが起こった。
 信高は東軍に与したため、その前哨戦として毛利を始めとする西軍3万に攻められ、やむなく開城することになった。

 江戸時代になって、藤堂高虎が上野国も合わせて32万石の大大名となり、安濃津城を大幅に改修した。
 その後も引き続き藤堂氏が城主として存続し、明治維新を迎え廃城となったと云う経緯を有している。

 現在は石垣に囲まれた本丸部分が残されていて、表紙の写真は本丸の隅の石垣上に模擬再建された丑寅櫓である。
 本丸跡地は公園広場として残されている。
 その公園の一角に藤堂高虎の像が建立されている。
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 本丸跡地には沢山の紫陽花が今を盛りに咲いていた。
 また丑寅櫓の対角側には天守台の石垣があるが、一部老朽化し崩れている様子が伺われる。
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 西側は西の丸である。
 庭園となっているが、その入口に藩校であった有造館の正門、入徳門が移築されている。
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 本丸は堀と石垣に囲まれていたが、現在は北側、西側そして南側の一部に堀、石垣が残っている。
 石垣の底部には犬走りがあるのは珍しい。
 東側の堀は埋め立てられ道路となっている。
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 南側堀の埋立地には高山(こうざん)神社が鎮座している。
 藩祖藤堂高虎を祀る神社で、明治時代に創建され、商工業の守護神や市民の氏神として信仰を集めている。
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 伊勢音頭に「伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と謡われたように、津は伊勢神宮参拝の中継基地として、栄えたところでもある。

『伊勢路の城・安濃城』

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 三重県津市の郊外、田園地帯の安濃川の左岸の60m弱の小山に築城された安濃城跡である。
 戦国時代に国人領主長野氏の一族の細野藤光が安濃城を築きこの地の統括の主城とした。

 織田信長の中伊勢侵攻の時、この安濃城は攻められたが、細野氏の主家長野氏は信長の弟信包を養子とすることで、一旦和解が図られた。
 しかし反抗を止め無い細野藤敦を長野氏が攻めたが、返り討ちに合い長野氏は止む無く逃亡した。

 名実ともに長野氏の当主となった信包は、細野が築城した安濃川三角州の安濃津城に入城し、城を改修して本拠とし、この安濃城を攻め、細野藤敦は城に火を放って落ち延びたと云われる。
 城もそのまま廃城となるという歴史を辿っている。

 城跡へは西口にある阿由多神社の参道を登る。
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 しばらく行くと頂上広場に出るとそこには神社の本殿があり、安濃城跡の説明看板もある。 
 ここは本丸である。城主の館があった場所である。
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 山頂の神社本殿から東はなだらかな通路になっている。
 その両側は階段上の土地となっている。この場所は家臣など幾つかの曲輪があったところである。
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 曲輪跡を降りていくと道は最後は西へと曲がり、真宗高田派松原寺の境内へと降り、城下へと戻る。
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 なお予断であるが、真宗高田派とは聞きなれない派であるが、この津市の 専修寺を総本山とする浄土真宗の派で、蓮如が布教活動を始めるまでは本願寺派を凌ぐ門派であった。
 室町、戦国時代を通じて本願寺派の一向一揆などと対決したと云われる。  
 伊勢路には、多くの高田派の寺院が存在している。

『伊勢路の城・亀山城』

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 三重県亀山市にある伊勢亀山城跡である。
 京都丹波亀岡市にある亀山城跡と良く混同される。

 この亀山城は亀山市の中心にある若山70m程度の山に築城されていた平山城である。
 独立した山でなく、付近と台地状に繋がっていて、その台地の西端にある。

 築城は鎌倉時代で、国人の関氏であるが、時代が降って豊臣大名岡本宗憲が入城し、天守、本丸、二の丸、三の丸など亀山城の原型を築城したと云われている。
 しかし宗憲は関ヶ原で西軍に与したため改易され、関氏が復帰し亀山藩が成立した。
 その後藩主は目まぐるしく代わり、最後は石川数正の叔父の系統が入城し、明治維新を迎えることになった。

 表紙の写真は天守閣のあった天守台に建っている本丸多聞櫓である。
 改修はされているが江戸期から残っている県内唯一の建物で、県の史跡に指定されている。

 実はこの本丸多聞櫓がなぜ天守の位置に建てられているかと云うと、それには訳がある。
 江戸時代の初頭、明智光秀が築城した丹波亀山城の天守を解体するよう命じられた堀尾忠晴の亀山間違いによって天守が取り壊されてしまったのである。
 その後、城主本多氏によって、天守の代わりに建てられたのがこの櫓である。

 この本丸多聞櫓を別方向から見るとこのようになる。
 また櫓への登り口には、案内板や石碑が建てられている。
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 本丸跡地には亀山神社と文化財に指定されているその神官家棟門がある。
 また通りを挟んで児童公園となっていて、SLの静展示もある。
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 亀山は東海道の要衝であるので、上洛する徳川家康や秀忠、家光が本丸を宿舎にしたと云われる。
 本丸の東側は二の丸、東三の丸である。
 一部平地として残されていて、眼下に堀を望むことができるが、大部分の跡地は小学校となっている。
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 また二の丸跡地と空堀が埋め立てられた部分には市役所が建っている。
 そして本丸の南にある低い部分である西の丸は現在中学校となっている。
 城跡が学校や役所として活用されるお決まりの構図となっている。
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『伊勢路の城・神戸城』

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 戦国時代に神戸氏神戸具盛より現鈴鹿市神戸に築かれた神戸(かんべ)城跡である。
 神戸城は織田信長に攻められ、信長三男の信孝を養子とすることで和睦し、以後は信孝の居城となった。
 信孝は天守など城を強固に修築した。
 表紙の写真は本丸跡と天守台の野面積の石垣の跡である。

 天守台には何も残っていない。
 本丸の跡地、奥に天守台が見える。
 また本丸の周りには土塁が残っている。
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 信孝は本能寺事件の後に岐阜へ移封され、その後秀吉と対立したことから自害させられた。
 全くの悲運の武将であった。
 天守は北の桑名城へ移築され、その後建設されなかった。
 関ヶ原の戦いの後には神戸藩が成立し、一柳氏、石川氏と入った。
 そして最終的には本多氏七代にて明治維新を迎え廃城となった。

 現在は鈴鹿市の公園として管理されている。
 本丸東側の二ノ丸、三の丸跡には現在神戸高校となっている。
 西側は神戸公園として整備されている。
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 城の遺構としては大手門が四日市市の顕正寺という寺に残されている。 
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 また、太鼓楼が鈴鹿市の蓮花寺の鐘楼として移築されている。
 内部を見せていただいたが、綺麗に管理されていた。
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『伊勢路の城・桑名城』

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 伊勢路の城、長島城の長島から長良川・揖斐川を挟んだ南側右岸にある桑名城跡である。
 川岸から平野部に広がっている平城で、城内に水を引き込んだ水城である。
 川岸には表紙の蟠龍(ばんりゅう)櫓が模擬復元されている。
 城内の堀へ水を入れる三之丸水門、川向うになばなの里、そして櫓の南傍には旧東海道が通っている。
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 戦国時代、元々桑名城の場所には東城があったと云われている。
 織田信長がこの地を制してからは滝川一益が治め、秀吉の時代になると神戸信孝などが目まぐるしく入城したと云われる。
 関ヶ原の後は本多忠勝が入城し、桑名藩が成立し、城も大幅に改造された。
 その後 松平諸氏が入城し、幕末には松平容保の弟である松平定敬が藩主となった。
 定敬は京都所司代を務めていたため戊辰戦争では官軍に無血開城させられたが、見せしめのために城は焼かれたという歴史を持っている。

 西側の大手筋から入ってみる。
 現在は桑名市が九華(きゅうか)公園として管理している。
 また北側の入り口には本多忠勝の像が建てられている。
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 内堀を越えると桑名城跡の石碑がある。
 そして内堀沿いの西南隅には神戸(かんべ)櫓跡がある。
 東南の隅には辰巳(たつみ)櫓跡があるが、何故か大砲が置かれている。
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 本丸の南側は幅の広い内堀である。吉之堀という。
 本丸の跡地と、その北には鎮国公と云われる松平定綱、守国公と云われる実父松平定信を祀る鎮国守国神社が鎮座する。
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 最後は天守である。
 本丸の北東の隅にある。
 石段、石垣しか残っていないが、この場所に南の神戸城から天守が移築されたと云われる。
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『伊勢路の城・長島城』

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 伊勢路の城を北から順に訪ねてみることにする。
 先ずは愛知三重の県境の木曽三川の河口付近長島にあった長島城跡である。
 長島城は戦国時代に伊勢の国人伊藤重晴が築いた城と云われている。
 その後、長島の願證寺を拠り所とする一向宗が占拠し、織田信長の長島一向一揆攻めの舞台となり、良く知られるようになった。
 信長が3度の攻めで一向一揆を殲滅した後、江戸時代も含めて領主は目まぐるしく変わった。
 最後は徳川譜代の増山氏が城主を務め明治維新を迎えた。

 表紙の写真は近くの蓮生寺に移築された大手門である。
 長島城には長島江という堀川があり、大手橋が架かっている。
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 この大手橋の右奥に本丸がある。
 現在は長島中部小学校と長島中学校となっている。
 小学校の校庭には当時からあった「大松」が残されている。
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 長島江の反対側東側で、国道一号線の東に願證寺がある。
 境内には一向一揆殉教の碑が建てられている。
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 また願證寺の南の長島江の畔に旧久我邸を改修し庭園も整備された「長島水辺のやすらぎパーク」もある。
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『大阪池田・呉服の里』

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 大阪府池田市は兵庫県との府県境を流れる猪名川の左岸東側に古来より発展した街である。
 この街は古来より「呉服(くれは)の里」と呼ばれる。

 4世紀の頃、中国の呉の国から呉織媛(くれはとりひめ)、綾織媛(あやはとりひめ)の姉妹の織姫が渡来し機織りの技術を伝えたことに由来している。
 この2人の織姫が糸を染めたのが表紙の写真の「染殿井跡」である。

 そしてこの地を通りかかった応神天皇に織り上げた御衣を献上した。
 それを聞いていた子である仁徳天皇が両姫の死後、呉服の地を定め「呉服(くれは)神社」を、綾羽の地を定め「伊居太(いけだ)神社」を祀ったと云われる。
 以来、両方合わせて「呉服の里」と云われるようになったのである。

 その両神社を訪ねる。
 先ずは呉服神社である。
 阪急池田駅の西方の呉服地区にある。
 呉織媛、転じて呉服大明神と仁徳天皇を祀る。
 またこの神社の南に少し行った所に、小学生の吹奏楽で比類なき力を発揮する呉服小学校がある。
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 次は伊居太神社である。
 駅から北にある五月山の麓にある。
 鬱蒼としたところで、綾織媛改め穴織大明神と応神天皇、仁徳天皇を祀る。
 五月山公園から池田城址へと繋がるところである。
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 池田の戦国時代は城と酒である。
 伊丹酒とともに池田酒は江戸へ大量に下り、愛飲された。
 しかし大手酒蔵「満願寺屋」の失脚により朱印は没収され、以来灘の酒が取って変わった。
 五月山の伏流水を活用した酒で、現在は2社の酒蔵しか残っていないのは残念である。
 その酒蔵の一つは「呉春酒造」、もう一つは「緑一」の吉田酒造である。
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 呉服の里にはいろんなものがある。
 呉服、綾羽の両地区を分ける道路沿い南側に芝居小屋「呉服(ごふく)座」がある。
 なぜか「ごふく」と読むらしい。
 梅田にある呉服座とセットになっていて、梅田の方が主流なのであろうか?
 ここ池田の以前の呉服座の建物は愛知県の明治村に移設され、重要文化財となっている。
 その筋向いには「落語みゅーじあむ」そしてレトロな建物もある。 
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 最後は駅の南側である。
 日清のチキンラーメンやカップヌードルでおなじみの「インスタントラーメン発明記念館」である。
 安藤百福氏は池田の自宅裏庭に建てた小さな小屋でありふれた道具を使って日夜研究を重ね、チキンラーメンを発明したことを記念したものである。
 館内ではチキンラーメンやカップヌードルを体験製作することもできる人気の記念館である。
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 池田にはこの他、阪急電車や宝塚歌劇を創設した小林一三氏の記念館や小林氏の個人コレクションを収蔵した「逸翁美術館」もあり、多彩なところである。

『摂津国・池田城』

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 大阪府池田市にある池田城跡である。
 阪急電車宝塚線池田駅の北、五月山から南に延びる50m程度の尾根に築城されたものである。
 写真は模擬復元された櫓台である。

 池田城は鎌倉時代に国人領主の池田氏が築城し居城とした。
 当時は豊島郡と云われた現在の池田市、豊中市、箕面市などを治めていた。
 以来、応仁の乱や細川氏、三好氏そして織田信長の侵攻などで紆余曲折があったが、最終的には荒木村重に滅ぼされた。
 しかし村重はこの城を重要視せず、そのまま池田氏が城主を務めていたとも云われる。

 大手門は東側にある。
 再建された橋を渡り、大手門から入城する。
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 城郭の領域は塀で囲まれている。
 中には、茶室、ユリ園、礎石のみの本丸跡地があり、南の端に櫓台が建っている。
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 櫓台からの風景である。
 南西方向に六甲山、北側に本丸跡と五月山、下には庭園も見える。
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 城郭の東側は堀であった。
 現在は空堀で唯一の遺構である。
 底は遊歩道となっている。
 土塁の一部と、周囲を回ると虎口、南門がある。 
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 最後は西側である。
 当時西側は崖になっていた。
 現在は急な階段が設けられている。
 上り詰めると西門に到着する。
 下から見上げた櫓台は趣のある構図となっている。
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『河内国・楠木城阯』

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 千早赤坂の町中にあった赤坂城阯から千早川を遡り、千早城との間の中流にあるのが楠木城阯である。
 楠木氏の本城で、上赤坂城とも呼ばれる。
 金剛山の支尾根の一つの標高350m程度のところが本丸頂上で、表紙のように楠木城阯の標柱が建てられている。

 登城口は町外れで、標高200m程度のところである。
 説明看板もありわかりやすい。
 最初は一の木戸から入って行く。
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 切通しの細い道を進む。
 途中には地蔵が並べられている場所もある。
 しばらく行くと二の木戸に到達する。
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 三の木戸から上は両側が切り立った尾根道となる。
 程なくそろばん橋と云う場所に到達する。
 土橋である。
 そろばん玉のように両側が切り立っている。
 堀切に土橋を造って通れるようにしたものであろう。
 もちろん有事には壊してしまうのであろう。 
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 ここから先は本郭である。
 鞍部に日常の居住館があったと思われる茶碗原、左右の高台は二ノ丸と本丸で、ここで別れている。
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 まずは本丸へと向かう。
 土塁の下を進む。
 本丸は平らな場所である。
 表紙の標柱が建てられている。
 本丸からは北西方向の富田林の方向が開けていて、PLの塔も良く見える。
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 最後に二ノ丸である。
 本丸と同じように頂上広場であるが、整地はされていない。
 再び茶碗原へ戻ると、金剛山への登山道もある。
 いざと云う時には、上流の詰めの城である最後の砦「千早城」へ移動する道であろう。
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 これら千早城、楠木城は南北朝時代に南朝方の軍事拠点となっていたが、最後は北朝に攻められ、落城、廃城となった。

『河内国・赤坂城阯』


 
 金剛山系の水を集める千早川の、上流右岸の山には千早城、中流右岸の山には楠木城、そしてこの地には赤坂城があった。
 赤坂城は千早川下流の村の中心部の左岸段丘に築かれた楠木正成の城であり、楠木城と区別するため通称下赤坂城と呼ばれる。
 赤坂城は現在の千早中学校の裏の一段と高いところに石碑が建っている。
 そしてその場所から下流に向かっての段丘にいくつかの館が並んでいたと云われるが、遺構は何もない。

 石碑の場所は少しの展望広場となっている。
 日本の棚田百選に選ばれた風景、金剛山系そして山と反対側にPL教団の塔が見える。
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 この千早赤坂村の中心部に楠木氏の館があった。
 正成誕生の地として石碑などが祀られている。
 この場所には文化施設や道の駅が建設・設置されている。
 また近くには誕生の井戸が保存されていて、今も清水が湧き出ている。
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 楠木正成は、後醍醐天皇が京都南部笠置山にて鎌倉幕府打倒の挙兵をしたとき、それに呼応してこの赤坂城で挙兵したと云われる。
 赤坂城は鎌倉幕府軍に落城させられたが、上流の千早城では奇策を用い幕府軍を寄せ付けなかった。
 その間に幕府は新田義貞に滅ぼされ、程なく後醍醐天皇も隠岐の島から抜け出し、天皇の新政が始まったと云われている。

 正成は氏神である「建水分(たけみくまり)神社」に挙兵の願を掛けた。
 この神社は紀元の頃、金剛葛城の山麓に水神として祀られた歴史の古い神社である。
 「南木(なぎ)神社」という大楠公正成を祀る摂社もある。
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『河内国・千早城阯』

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 日本の100名城の1に数えられる千早城は鎌倉時代に楠木正成が築城した山城である。
 大阪府最高峰金剛山1125mの西に連なる前山673mにある。
 楠木氏はこの金剛山系を始めとして7城を構えていたが、この千早城は詰めの城であった。
 現在は千早神社の境内となっていて、駐車場からの比高は175mである。
 
 神社への参道入り口兼登城口である。
 楠木軍と鎌倉幕府北条軍との戦いに用いられたダミーの藁人形も再現されている。
 案内看板に従い、神社へのお参りと城跡を訪ねた。
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 最初は石段、階段が続く。
 かなりハードである。
 先ずは四ノ丸跡に到着する。両側に売店があるかなりな広い場所である。
 千早神社の標柱があり、ここから境内となる。 
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 その上の段は三ノ丸である。
 表紙の「千早城跡」の標柱があり、神社の社務所がある。
 社務所の横の石段を上ると二ノ丸となる。
 ここには神社の本殿、拝殿がある。
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 神社の裏の一段と高いところが本丸跡である。
 神社からは入れないので、横の道を巡ってみる。
 強引に登ってみると、本丸の石垣も見られる。
 最高点には物見櫓があったのであろうか?
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 本丸の横を更に進んでみる。
 回り込むと金剛山への登山道へと出る。
 この登山道を少し上った所に楠公の首塚とも云われる守将楠木正儀の墓がある。
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 この場所からは、金剛山の登山道を城山を上に眺めながら下山した。

 千早城は鎌倉幕府に攻められたが、藁人形、石落とし、橋焼などの奇策を用い、護り通したと云われる。
 その間に後醍醐天皇は隠岐島から抜け出し討幕の綸旨を全国に発した。
 そして新田義貞も挙兵し、手薄となった鎌倉を攻め幕府を滅亡させたのはこの直ぐ後のことである。
 この城は歴史に大いなる役割を果たした城と云える。

 南北朝時代にも楠木氏の居城となっていたが、末期に北朝の畠山基国に攻められ千早城は落城、60年の幕を閉じたのであった。

プロフィール

藤白 怜

Author:藤白 怜
気まぐれに各地の城跡、神社仏閣、路端や公園の草花、街角の風景などあっちこち出掛けては写真を撮ったり、その土地の歴史遺産を訪ねたりしています。
よろしかったら覗いてみて下さい。
よろしくお願いします。
最近、小品集を別ページにてアップしました。
右側リンクの「悠々紀行あっちこち」です。
併せてよろしくお願いします。

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