阪和線35・和歌山駅
「天王寺駅」、「関西空港駅」、「和歌山駅」を起終点とするJRの「阪和線」、「関西空港線」の各駅を途中下車で訪問して見る
今回は「天王寺駅」から34駅目で、起終点の和歌山市にある「和歌山駅」である。
和歌山駅で下車する。
和歌山駅は市街地の東にあり、かつての駅名は「東和歌山駅」であった。
そして現在は、阪和線、和歌山線、きのくに線(紀勢本線)、そして私鉄の和歌山電鐵貴志川線の起終点で、和歌山市の中心駅となっている。
駅前から西へと広い道路が延びている。
「けやき通り」という。
この道を進み、北からの繁華街から延びて来ている「本町通り」との交差点は公園前と云う。
公園とは「和歌山城公園」のことで、この中に再建された和歌山城がある。
虎伏山(とらふすやま)の頂上に和歌山城の再建天守がある、
城跡への入場は、「一ノ橋」「大手門」からである。
大手門から入ると左手に堀がある。
重要文化財の土塀、そして石垣を見ながら天守へと進んで行く。
高石垣も見られる。
石垣は積まれた時代により、その特徴がある。
天守曲輪には楠門(二の門)から入る。
大天守と小天守の連結式であり、他にも二つの櫓が建ち、天守曲輪は長方形状である。
先ずは大天守である。
大天守には登ることができる。
そして周囲の櫓を眺めて見る。
左が二の門櫓、右が乾櫓である。
大天守は三層で、最上階から周囲の風景を眺めて見る。
先ずは北側と東側である。
北側は左和歌山市役所のビル、右側はホテルで、奥の和泉山脈との間に紀ノ川の鉄橋が見える。
東側は駅方向で、遠くに見える富士山型の山が、竜門山(紀州富士)である。
次に南側である。
真下は美術館と博物館、その続きは和歌山大学付属中・高、その先の小高い山は西国三十三ヶ所の二番の紀三井寺がある名草山、そしてその先は海南市の関電火力発電所や鋼管製造所などの工業地域である。
最後に西側である。
西側は紀ノ川の河口で、右岸には日本製鉄関西製造所(かつての住金和歌山)である。
そして海の向こうの遠くに見えるのは淡路島である。
下乗して、城の周囲を巡ってみる。
城門であるが、南東隅にある重要文化財の岡口門、そして西の馬場入り口の追廻門である。
最後に天守を見上げてみる。
東方向から眺めた大天守と小天守である。
そして北側の道路から眺めた大天守と手前に重なる小天守である。
最後に和歌山城の経緯である。
和歌山には室町時代の終盤頃に築城された太田城があったが、豊臣秀吉の何万という大軍に水攻めで滅ぼされた。
その後の秀吉の時代に太田城からずっと西の現在の地に、和泉・紀伊を治める豊臣秀長の城として、藤堂高虎を奉行にして築城されたものである。
関ヶ原の戦いの後、桑山一晴が入城、その後浅野幸長が紀州藩主となり入城した。
その後、浅野氏は広島藩に加増転封となったため、最終的には徳川家康の十男である頼宣が入城し、御三家の一として明治まで続いた。
その時の紀州藩の石高は55万5千石である。南海の鎮となる御三家の紀州徳川家が成立した。
明治には廃城になり、大部分の建物は取り壊わされた。
残されていた天守も太平洋戦争の空襲で破壊され、昭和の時代に再建されたものである。
城跡は住宅地のほか、公共の建造物や公園などに利用されている。
和歌山まで探索したことにより、阪和線各駅のミニ探索を終了したのであった。
今回は「天王寺駅」から34駅目で、起終点の和歌山市にある「和歌山駅」である。
和歌山駅で下車する。
和歌山駅は市街地の東にあり、かつての駅名は「東和歌山駅」であった。
そして現在は、阪和線、和歌山線、きのくに線(紀勢本線)、そして私鉄の和歌山電鐵貴志川線の起終点で、和歌山市の中心駅となっている。
駅前から西へと広い道路が延びている。
「けやき通り」という。
この道を進み、北からの繁華街から延びて来ている「本町通り」との交差点は公園前と云う。
公園とは「和歌山城公園」のことで、この中に再建された和歌山城がある。
虎伏山(とらふすやま)の頂上に和歌山城の再建天守がある、
城跡への入場は、「一ノ橋」「大手門」からである。
大手門から入ると左手に堀がある。
重要文化財の土塀、そして石垣を見ながら天守へと進んで行く。
高石垣も見られる。
石垣は積まれた時代により、その特徴がある。
天守曲輪には楠門(二の門)から入る。
大天守と小天守の連結式であり、他にも二つの櫓が建ち、天守曲輪は長方形状である。
先ずは大天守である。
大天守には登ることができる。
そして周囲の櫓を眺めて見る。
左が二の門櫓、右が乾櫓である。
大天守は三層で、最上階から周囲の風景を眺めて見る。
先ずは北側と東側である。
北側は左和歌山市役所のビル、右側はホテルで、奥の和泉山脈との間に紀ノ川の鉄橋が見える。
東側は駅方向で、遠くに見える富士山型の山が、竜門山(紀州富士)である。
次に南側である。
真下は美術館と博物館、その続きは和歌山大学付属中・高、その先の小高い山は西国三十三ヶ所の二番の紀三井寺がある名草山、そしてその先は海南市の関電火力発電所や鋼管製造所などの工業地域である。
最後に西側である。
西側は紀ノ川の河口で、右岸には日本製鉄関西製造所(かつての住金和歌山)である。
そして海の向こうの遠くに見えるのは淡路島である。
下乗して、城の周囲を巡ってみる。
城門であるが、南東隅にある重要文化財の岡口門、そして西の馬場入り口の追廻門である。
最後に天守を見上げてみる。
東方向から眺めた大天守と小天守である。
そして北側の道路から眺めた大天守と手前に重なる小天守である。
最後に和歌山城の経緯である。
和歌山には室町時代の終盤頃に築城された太田城があったが、豊臣秀吉の何万という大軍に水攻めで滅ぼされた。
その後の秀吉の時代に太田城からずっと西の現在の地に、和泉・紀伊を治める豊臣秀長の城として、藤堂高虎を奉行にして築城されたものである。
関ヶ原の戦いの後、桑山一晴が入城、その後浅野幸長が紀州藩主となり入城した。
その後、浅野氏は広島藩に加増転封となったため、最終的には徳川家康の十男である頼宣が入城し、御三家の一として明治まで続いた。
その時の紀州藩の石高は55万5千石である。南海の鎮となる御三家の紀州徳川家が成立した。
明治には廃城になり、大部分の建物は取り壊わされた。
残されていた天守も太平洋戦争の空襲で破壊され、昭和の時代に再建されたものである。
城跡は住宅地のほか、公共の建造物や公園などに利用されている。
和歌山まで探索したことにより、阪和線各駅のミニ探索を終了したのであった。