『横浜・永谷天満宮』
菅原道真公に関わる聖蹟の一つ、横浜市港南区、地下鉄上永谷駅の近くに鎮座する永谷(ながや)天満宮である。
道真公は大宰府に流されてから、自分の姿を鏡に写し、自身の像を三体彫り、その一体を子の敦茂に授けた。
敦茂はこの像を帯同し関東に下向し、永谷郷に住まいし、日々拝したと云われる。
室町時代の終わりごろ、この相模国八郷を領し、永谷郷に城を構えた上杉刑部太夫藤原乗国に夢のお告げがあり、天満宮の社殿を造営して天満宮が祀られたという経緯を辿る。
三体像のうち、一体は大宰府の安楽寺に、もう一体は河内の道明寺に安置されたと云われるが、現在はそれぞれの天満宮にて祀られている。
これらを称して、日本三躰天満宮と云われる。
永谷天満宮へは、横浜市市営地下鉄上永谷駅で下車し北西方向へ向かう。
直ぐに丘が見えてくるが、かつてはこの丘の手前山麓に天満宮が鎮座していたが、江戸時代に丘の向こう山麓に移転されている。
丘の右手に遊歩道が設けられている。
今は、躑躅の花がきれいに咲いていて、良い香りもしている。
程なく鳥居、そしてその横には別当寺であった天神山貞昌院の伽藍が並ぶ。
子の敦茂はこの寺院の前身である天性院の宿坊下之坊で住まいしたと云われている。
鳥居を潜り、リアルな神牛像を見て、正面の石段に向かう。
本殿にお参りし、その上の富士が望める天神山に登りかけるが、靄なのか黄砂なのか見通しが悪く、残念ながら中断した。
その後、神官がいらっしゃたので御朱印を頂き、駅へと戻ったのであった。
『菅公聖蹟・一夜天神堂』
菅原道真公の聖蹟二十五に選定されなかった天満宮を順次訪ねることを続ける。
上掲写真は京都市中京区の壬生寺境内に鎮座する一夜天神堂である。
道真公は大宰府への左遷を言い渡された直後、この壬生の親戚を訪ね別れを惜しみ一夜を明かしたと云われる。
江戸時代になって、壬生寺の支院寂静庵の開基である託願上人の夢枕に道真公が現れ、我を壬生の地に祀るべしとの神託があった。
そこで上人は神像を刻み、社殿を建立し「一夜天神」と名付けお祀りしたと云う経緯を有する。
現在一夜天神は、一夜にして知恵を授かると云う御利益があるとのことで、お守りも授与している。
壬生寺は道真公の死から約900年後の創建で、律宗の大本山の寺院である。
一夜天神堂は寺門を入ったすぐ右手にある。
余談になるが、この界隈は新撰組の屯所があったところである。
下の写真は屯所があった前川邸である。
土産物や記念品などが販売されている。
また壬生寺境内には新撰組の隊士の墓所もある。
壬生塚と云い、隊長近藤勇の像も祀られている。
更に壬生寺は重要無形民俗文化財である壬生念仏大狂言でもよく知られている。
境内北門から入ったところにある重要文化財大念仏堂で4月末から演じられることになっている。
『そぐわない看板』
京都府南部のある市の高速道路の建設現場で見かけた看板である。
田畑を潰し高速道路に作り変えているが、「緑豊か」や「田園都市」を目指すこの市の都市像に逆行しているのではないかと思われてならない。
それでは高速道路は、「文化」を推進するものなのかと言えば、観光という点で少しはあるだろうが、それほどの関係があるようにも思えない。
市当局や工事事業者はどのような判断でこのような看板を掲げているのか理解に苦しむ。
場所はそれこそ田園地帯のど真ん中である。
実はこの工事現場の向こうには既に一本の高速道路が設置され、運用されている。
この高速道路工事の左手の先を見てみると、小さな丘を越えてやはり田圃の真ん中、そしてその先も小山を切り裂いている。
現代社会では、高速道路は交通の利便性や産業の活性化に寄与する大事なインフラであるので、建設することは時代の流れでであり、むしろ賛成である。
しかしこの看板が目指しているこの市の都市像との整合はどうなのか?
『駿河国・駿府城跡』
静岡県静岡市にある駿府城跡に一年ほど前に再建されたばかりの坤(ひつじさる、南西)櫓である。
駿河府中を略して駿府は、当初は今川氏の居館があったところで、若き日の徳川家康はこの駿府に今川氏の人質として暮らしたところである。
今川氏は武田氏に城を奪われ、そして武田氏が織田・徳川連合軍により滅亡させられ、駿河は家康の領国となり、家康が城を新たに築いたのが駿府城である。
以後、家康は秀吉によって関東に追いやられ、江戸城を築いて移り、駿府は豊臣大名中村一氏が城主となった。
家康は江戸幕府を開き、駿府には内藤氏が入った。
その後、家康は将軍職を秀忠に譲り、この駿府城を隠居所とした。
そのタイミングで駿府城は天下普請で大幅に改修された。
その時の城主は家康の子の頼宣であったが、頼宣が紀伊藩主となったため以後は幕府の直轄地となり、城代や定番が差配し、明治を迎えたのであった。
明治になって駿府は城の北にあり浅間神社が鎮座する賎機山(しずはたやま)から名を取り、静岡と改められた。
そしてその後、陸軍の師団が城を利用することになり、内堀は埋められ、建物はすべて破壊されたという経緯を辿っている。
城跡は現在公園として市民の憩いの場ともなっている。
上の右図のように城は3重の堀で構成されていた。
駿府城跡へはJR静岡駅前の広い道を向かう。
右手に三の丸の堀が見えてくると、左手に市役所、右手向こうの堀の内部、かつての三の丸の地に県庁が建っている。
県庁の本館を見て少し戻り、大手門の桝形から二の丸の堀方向へと向かう。
県庁別館の21階の展望ロビーから城跡が望めるとのことを聞いていたので、早速登って見る。
左写真は坤櫓のあたり、中は中央あたり、そして右は巽櫓と東御門のあたりである。
展望はこれくらいにして、元の道に戻り、二の丸堀へ向かう。
二の丸堀は満々と水を蓄えている。
左手には冒頭写真の坤櫓、右手には巽櫓が見える。
堀沿いに回り込んで、東御門から入城する。
門を潜ると、正面に本丸堀の一部、本丸堀と二の丸堀を繋ぐ水路、そして新たに造営された紅葉山庭園の入り口門がある。
振り返ると県庁の別館が見える。
奥へと進む。
家康公の像、そしてお手植えのミカンがある。
更に奥へ進むと天守台の跡があるが、かなり広い。
現在は非常時のヘリポートの機能を持たせているとのことである。
他の天守台で見られるような石垣などは全く見られないのは心残りである。
尚、駿府城の遺構はこの場所にある石垣や堀しか無いとのことであるが、ただ一つ家康側室のお万の方の居間が同県三島市にある妙法華寺の奥書院として移築され現存しているとのことである。
『相模国・小田原城址』
冒頭は神奈川県小田原市の小田原城址公園に再建された天守である。
江戸時代になって大名の大久保氏や稲葉氏の手によって、北条氏の居館の場所に新たに築城されたものである。
この城は国の史跡、そして100名城の1つに指定されている。
先ずは、小田原城址を訪ねてみる。
小田原駅東口から少し東へ行き城入口へと真っ直ぐに伸びているお堀端通りを南下する。
城までは両側に飲食店など沢山の商店が並ぶ。
商店街が切れ、役所関係の建物が始まる左手に幸田門跡がある。
もう少し行って左に少し入った辺りに大手門跡の鐘楼がある。
元の道に戻ると右側西側に堀が沿ってくる。
小田原城二の丸の東堀である。
二の丸の平櫓、土橋が架けられた馬出門桝形が見えてくる。
また、小田原城の郭の配置図も掲げられている。
土橋を渡り、門を潜って馬出曲輪跡の広い場所に出る。
この曲輪には、馬で登城する武士が馬を繋ぎとめておくための馬屋があった。
また隅には土塁の跡が見られる。
そして二の丸への門である銅門(あかがねもん)が桝形の塀を伴って建っている。
銅門の名は、門の扉に銅の装飾がされていることによるものである。
堀の橋を渡り銅門を潜ると、二の丸の広場に出る。
広場には、歴史見聞館が建てられている他、銅門の塀の内部構造を示す実物大模型も置かれている。
そして本丸への常盤木橋を渡ると、いよいよ本丸であるが、橋の下の本丸東堀は空堀であり、植物が植えられている。
本丸への常盤木門(ときわぎもん)の桝形に入り、門を潜ると本丸広場に出る。
そしてその向こうには冒頭の天守が聳えている。
尚、常盤木門の名付けは、この門の傍に植えられている松の木のように城が永遠に栄えるようにとのことである。
天守の裏へと回る。
自然のままの山が利用されている様子が分かる。
また、斜面には石垣の名残であろうか、崩れたままの形で置かれている。
天守台とかつての北条氏時代の城の小峰曲輪跡との間に空堀がある。
当時は深さ7~8m程度あったと云われる。
そして空堀を渡ると、曲輪跡に創建された報徳二宮神社が鎮座している。
ご当地生まれの二宮尊徳を祀る神社である。
境内にはお馴染みの薪を背負った金次郎像に加えて、あまり目にしたことのない尊徳翁像も祀られている。
神社を後に城の周囲を元の城入り口方向に戻る。
途中の藤棚は見事である。
小田原城の経緯であるが、元々はこの地の豪族小早川氏の居館であった。
それを駿河国の大森氏が奪ったと云われる。
その後、室町時代に伊豆国を支配していた伊勢盛時改め北条早雲が大森氏から城と領国を奪い、戦国の雄として五代に渡り関東一帯までも支配の手を広げたが、次に登場した豊臣秀吉に戦いを挑まれ、徳川家康の軍力で北条氏は滅んだのであった。
尚この時の城郭は東海道線を挟んだ北西側が中心であったと云われる。
八幡山古郭と云われ、土塁や堀切跡などが遺構として残っている。
上述の小峰曲輪もその1つである。
その後は家康の領するところとなり、江戸時代には小田原藩が成立し、上述のように城を築城し、明治になるまで中断はあったものの大久保氏が藩主城主として治めたのであった。
明治になって薩長を中核とする時の政権から廃城令が出され、小田原城も例にもれず殆どの建物が壊された。
唯一壊されずにあった二の丸平櫓も関東大震災で壊れ、存続する建物は無くなった。
城は権力者が戦闘や治世のために建てたものであるが、しかし市民から見れば権力者同士の争いは争いとして、城はその街のシンボルやランドマーク、そして歴史を物語る貴重なものである。
権力者が政争のために破壊してよかろうは筈はないと思われる。
戦後になって小田原市や市民の間に再建の機運が盛り上がり、順次再建しているのである。
小田原市では、やはり殿様は北条氏なのであろう。
もう少ししたら「北条五代祭り」が挙行されることになっている。
その看板が駅をはじめ、各所で見られる小田原城下である。
『時節の移ろい2』
『時節の移ろい1』
『大和国・柳生陣屋跡』
奈良県奈良市柳生にある柳生陣屋跡の石碑である。
徳川家康に認められ将軍家の剣術指南役となった柳生宗矩(むねのり)は、柳生藩を立藩し、大名として柳生の領主へと復帰した。
居館は柳生旧城ではなく、旧城の谷向かいの小高い丘に柳生陣屋を築城したのであった。
柳生陣屋跡は現在、奈良市の公園として整備されている。
遺構はないが、その公園に陣屋建物基礎の石積みが再現されている。
また、柳生宗矩の後の2代目は柳生十兵衛であるが、その弟である3代目宗冬の時に柳生八坂神社を創建、そして神社前の丘に武道の守り神である摩利支天を祀ったのであった。
摩利支天の祠は今はなく、レリーフが建てられている。
しかし歴代の柳生当主は剣術指南役であるので、江戸詰めである。
そのため家臣たちは家老を中心に柳生藩を護り、柳生家は明治まで続いたのであった。
その家老屋敷であるが、摩利支天を祀る摩利支天山から北西方向に見える。
左の写真の奥の右の土塀のある屋敷が家老屋敷の小山田家である。
また左側に小山田分家が見える。
目を東に移すと柳生氏のそれまでの居城であった柳生本城の山が望める。
右の大きな建物は剣術の修練場の正木坂道場である。
陣屋の北西方向にある家老屋敷をもう少し詳しく見てみる。
家老屋敷を訪ねる道は柳生街道と云う。
街道筋には石楠花が満開である。
そして小山田分家がある。
もう少し行くと小山田主鈴の屋敷がある。
この屋敷は一時小説家の山岡荘八氏が手に入れ小説「春の坂道」を創作したとところであるが、その後、氏は屋敷を奈良市に寄贈し、現在は見学施設となっている。
家老屋敷の石垣は江戸末期の積み上げであるが見事である。
自然石をそのままに近い形で加工した様子が伺える。
『大和国・柳生本城址』
奈良県奈良市の柳生の里にある柳生石舟斎宗厳(むねよし)らが居城した柳生氏の本城址である。
この石碑の向かい側の小高山322mに主郭や副郭が築かれ、この石碑の場所や、背後の芳徳寺、寺への参道にある正木坂道場の辺りも城郭化されていたと云われる。
城の建造年代は定かではないが、平安時代藤原氏の荘園であった柳生郷の一つ小柳生庄の代官となった大膳永家の後裔が柳生姓を名乗り館を構えたとされている。
数代後になって、柳生家厳(いえよし)とその子宗厳の時に武士化し、北にあった柳生古城とこの本城を拠り所に筒井順昭の大軍と戦ったが敗れ、筒井側に降ったと云われる。
その後、織田信長の台頭により松永久秀の大和攻めが始まると、柳生一族は久秀に与し戦ったが、久秀が敗れたため、宗厳は隠居した。
このころ宗厳は新陰流の教えを受けていて、隠居時も鍛錬に徹したと云われる。
信長が亡くなり秀吉が台頭すると、太閤検地により隠田が摘発され、柳生氏の所領は没収された。
その後、黒田長政の引き合わせにより徳川家康に新陰流の「無刀取り」の秘技を披歴したことで、感動した家康は宗厳を召し抱えようとしたが、宗厳は既に「石舟斎」と号し隠居していたたことから、五男宗矩(むねのり)を推挙したのであった。
徳川に仕えた宗矩は関ヶ原で多くの武功を挙げ、柳生の旧領を一部回復することができたが、戦後、父宗厳が亡くなり、城域の一部に菩提を弔う芳徳寺を創建した。
宗矩は幕府の剣術指南役に抜擢され、江戸にて将軍秀忠等に教えることもした。
そしてその功あって、柳生氏は加増に加増を重ね、大名になり、元の支配力を回復したのであった。
城跡の山へ登る道が正木坂道場の向かい側に付けられている。
しばらく登ると尾根筋を遮断する堀切が見られ、その上の一段高いところは南郭跡の削平地であるが、その場所に水道施設が設けられている。
更に上を目指すと、本郭の前部にあたる削平地がある。
それに引き続き、本郭があった削平地がある。
本郭のところが頂上であるが、その奥側北側へ向かうと、一つ目の堀切があり、その北は北郭の台地がある。
その北側にもう一つの堀切がありその北は土塁が積み上げられている。
城跡はここまでである。
途中に、城に関係があるのかどうかわからないが、石が無造作に残されている。
また移動中には、下にある芳徳寺の寺門周辺が良く望める。
柳生本城は所領没収により廃城とされ、そのまま放置されていたようである。
宗矩が大名となってからは新たに柳生陣屋が築かれ、政庁としたという経緯を辿っている。
余談であるが、正木坂道場は、当時は現在よりも一段下の現在の市営駐車場のところにあったと云われる。
当時は、宗矩の子の三厳(みつよし)通称十兵衛が一万人以上もの門弟を錬成したと云われている。
そして宮本武蔵も訪れたとの話もある。
現在の道場は、昭和40年に、興福寺別当の一乗院の建造物、そして京都所司代の玄関を移設し、結合されて建てられたものと云われている。である。
『大和国・柳生古城跡』
奈良県奈良市の柳生の里にある柳生古城山305mである。
南北朝期から戦国時代にかけてこの城山には柳生永珍(ながよし)が築いたと云われる城があった。
この城は当初はこの北にあり後醍醐天皇が逗留した笠置山に繋がっていて、補城として機能したと云われる。
戦国期に至っては、この南にある柳生本城の、これも捕城として機能し、北側の護りを固めたと云われる。
城跡へは柳生の中心部にあるバス停付近からの尾根筋の登山道を登る。
途中の木立の間から、柳生の里の西側にある柳生藩家老屋敷やその分家屋敷が望める。
城の遺構としての建造物は無く、堀切、土塁、削平地が見られるのみである。
本郭まで至る途中には2本の堀切がある。
最初の堀切は鉤型で、他ではあまり見られないものである。
また、堀切に土橋らしきが設けられているのも見られる。
長い尾根筋の堀切に挟まれて削平地も見られる。
そして副郭、主郭へと至る。
主郭跡は広場となっていて、奥の土塁に剣塚が祀られている。
また説明板、休憩用の東屋が設けられている。
主郭から更に奥の古城山の頂上付近へと進む。
2本の堀切や土橋が見られる。
そして急な登りとなり、山頂へと到着する。
その先は笠置山へと繋がっているようであり、微かに道が伸びている。
尚この柳生古城であるが、戦国期に同じ大和の筒井順昭に攻め滅ぼされたと云う経過を辿る。
『丹波国・福知山城跡』
京都府福知山市の中心地にある再建された福知山城天守である。
福知山城の地には、元々国人領主塩見氏改め横山氏の居城横山城があったが、織田信長の丹波侵略により、八上城、黒井城と共に明智光秀軍に滅ぼされ、丹波国を領地とした光秀が横山城の後に、地名も福知山と改めた城を築いた。
光秀は、城の石垣に寺社から集めた宝篋印塔や石仏、燈籠などや、石仏、石臼などを石垣に転用したとされている。
寺社を破壊して城の石垣としたと云うのが通説であるが、そうではなく、領民の負担を軽くするためのに現存する石を集めたというのが当たっていると思われる。
発掘により出た転用石は城内に並べられている。
築城後、光秀は新たに現亀岡市に亀山城を築き移ったため、福知山城へは光秀の娘婿の明智秀満と藤木権兵衛を配置し、城代とした。
信長の本能寺事件、それに続く山崎の合戦の後、城は秀吉軍に襲われ、明智氏は滅亡、その後亀山城と共に豊臣秀勝が支配するところとなった。
その後、杉原氏、小野木氏が城主となったが、関ヶ原では小野木氏は西軍に与したため、細川忠興に攻められ小野木氏は敗れ切腹した。
関ヶ原の論功行賞で有馬豊氏が8万石の福知山城主となり、それにふさわしいように城郭や城下町を作り上げた。
その後、岡部氏、稲葉氏、松平氏の順で交代したが、最終的には朽木氏が城主となり、明治維新を迎えたという経緯を辿る。
明治になって城は廃城とされ、建物は殆ど壊されたと云われる。
二ノ丸にあった銅門(あかがねもん)の番所は破壊から免れ、現在本丸跡地に移築されている。
しかし、本丸の石垣は遺構として残っている。
立派な石はないが野面積み、穴太積みと云われる自然石のままに積まれた石垣は見事である。
本丸の跡には、今から約30年前に大天守、小天守、釣鐘門が再建されている。
これらは当時のものが忠実に再現されたとのことである。
さて、その他の遺構である。
二ノ丸にあった城門が市内の寺院に移築され、現存している。
下写真は昭仙寺、明覚寺、法鷲寺、正眼寺の移築門である。
その他の寺にも移築門があるとのことである。
もう一つ、城内の遺構ではないが、朝暉(あさひ)神社にあった能舞台であるが、現在は朽木氏初代を祀る一宮神社の境内に移設されている。
余談であるが、福知山市内に御霊神社が鎮座している。
明智光秀も合祀されていて神紋は明智氏の桔梗紋である。
神官に話を聞いて見た。
福知山市でも亀岡市と同様に明智光秀が慕われていて、祭りなども行われているとのことであった。
『丹後国・田辺城跡』
京都府舞鶴市の西舞鶴には、かつての田辺城、別名舞鶴城の本丸跡地を舞鶴公園として、堀跡に上掲の大手門、それに連なり二層櫓の彰古館が模擬再建されている。
とはいえ、公園内には石垣や堀、庭園が遺構として残されていて、当時の香りを楽しむことができる。
先ずは天守台の石垣である。
天守台のには見ごろの枝垂れ桜が花を付けている。
次は本丸石垣である。
戦国期のままの手法である。
本丸跡は広い。
公園であるので、子供らの遊び場としては最適である。
また、色んなイベントが行われたりもする。
本丸の奥側東側に藩主庭園「心種園」がある。
名付けは細川藤孝の歌からとのことである。
「古へも 今もかはらぬ 世の中に 心のたねを 残す言の葉」
田辺城は、宮津城に引き続き、より京都に近い舞鶴のこの地に一色氏を倒した細川藤孝によって、その城跡に築城されたものである。
関ヶ原の前哨戦で石田三成の西軍1万5千に囲まれるが、後陽成天皇のとりなしにより開城され、藤孝は城を離れ敵将前田茂勝の丹波亀山城に入ったと云われる。
関ヶ原の後、細川氏は豊前国に移封された。
そして京極氏が入城して、3代の後、豊岡藩に転府した。
その後は牧野氏が入り、明治まで続いたのであった。
城門は遺構として移築されている。
近くの見海寺と瑞光寺の寺門とされている。
更に藩校であった明倫館の正門が、公園の斜め前の明倫小学校の校門として移築されている。
『丹後国・宮津城跡』
京都府宮津市の現在の丹鉄宮津駅と宮津市役所の間に宮津城が築かれていた。
元々はこの地を支配した一色氏の城があったが、織田信長の家臣細川藤孝と明智光秀に侵略されて滅ぼされた。
そして細川藤孝、忠興父子には丹後国を、明智光秀には丹波国が与えられ、それぞれ宮津と福知山に城を築いたのであった。
上掲の写真は宮津城の遺構であり、宮津小学校の正門として移築された馬場先御門の太鼓門である。
それ以外の遺構は土の下で、見ることができないが、城壁の土台として使われていた石や、黒鉄門の袖の石などを見ることができる。
現在は観光用であろうか、大手川両岸の石垣に土塀が設けられ、雰囲気を醸し出している。
城域の北端は宮津の港で、日本海に繋がっていた。
海上防備も兼ね備えていたものと思われる。
城跡から大手川を挟んだ西側の市役所の南側に公園がある。
その公園に細川忠興の妻女であったガラシャの像があり、その背後に宮津カトリック教会がある。
ガラシャが宮津にいるころにはまだキリスト教信者でもなく、もちろん教会(明治の設立)もなかった。
またその隣には武家屋敷大村邸の長屋門がある。
これは江戸時代にこの辺りが武家屋敷となり、その遺構である。
さて、細川父子であるが、信長の本能寺事件の後、明智への非協力を明確にするため、藤孝は舞鶴の田辺城へ隠居した。
忠興はこの宮津と大坂屋敷に住まいし、秀吉と行動を共にしていたが、秀吉亡き後、徳川家康に接近した。
そして関ヶ原の前夜、藤孝の田辺城が石田三成の大軍に囲まれるとともに、大坂屋敷も攻められ、ガラシャが自害に追い込まれたのであった。
関ヶ原の後、忠興は豊後国に転府となり、宮津城には京極氏が大名として入った。
京極氏は城の大改修を行ったと云われる。
しかし京極氏は領国を召し上げられ旗本となり、その後は永井氏、阿部氏、奥平氏、青山氏と短期間に交代したが最終的には松平資昌(すけまさ)が入封し、以後明治まで、松平氏7代を数えた、と云う経緯を辿る。
『河内国・岡山城』
JR学研都市線で京橋駅から北東方向に8つ目の忍ヶ丘(しのぶがおか)駅の西の岡山という小高い丘が岡山城跡である。
現在この丘には、忍陵(しのぶがおか)神社が祀られている。
もともとこの丘には、古墳時代に忍陵(しのぶがおか)古墳が築かれていた。
その古墳を利用して、戦国時代に岡山城が築城された。
そして江戸時代になり、城が廃止された後に、忍陵神社が近隣から遷座されたと云う経過を辿る。
社殿が新しいのは、台風で損壊したため、近年に新築再建されたとのことである。
この神社の境内に大坂の陣に関する立札が、神社の由緒書きと共に建てられている。
徳川秀忠が夏の陣の時、本陣を築いたとの内容である。
一方、大阪城の近くの大阪市生野区にも秀忠が本陣を築いた御勝山と呼ばれるところがある。
この四条畷の方は、大阪城からはかなり遠いので、秀忠が夏の陣の時、伏見城から大坂に向かう途中で陣を敷いたものである。
それはともかくとして、岡山城の築城は、三好長慶が畿内の覇者となって、この南東の飯盛山山頂に城を築いた時、その支城として建てられたのであった。
そして永禄、天正年間の織田信長の時代には、当時の城主であった結城氏が熱心なキリシタン信者あったため、キリシタン信仰の拠点となったと云われている。
しかし、秀吉の時代にはキリシタンが禁止され、城主や信者たちも悲痛な運命となったと云われている。
城の遺構が無いかと探してみたが、社殿の周囲には周回の道が整備され、斜面に僅かに当時の姿を留めるのみであった。
『重伝建・倉吉市打吹玉川赤瓦の町』
鳥取県倉吉市の打吹(うつぶき)玉川地区に、国の重要伝統的建造物群保存地区がある。
かつての城下町倉吉の町屋群で、玉川と云う水路周辺に保存されている赤瓦の建屋群である。
赤瓦館は1~16号まである。
冒頭写真は玉川に面する白壁倉庫である。
また、下部右の建物は赤瓦一号館で、醤油醸造元の作業場であった。
玉川の南側(倉吉陣屋、打吹公園側)には主となる通りがあり、町屋が見られる。
下右の2つは元帥酒造本店、赤瓦七号館である。
元帥という銘は東郷元帥が逗留したことから名付けたとのことである。
東へ行くと、ご当地出身の横綱琴桜の記念館、そして洋風の銀行の建物の赤瓦十三号館がある。
西へ行くと「くら用心」と書かれた防災センターがあり、内部公開で当時の町屋の様子を見ることができる。
庭には蔵も建っている。
この建物は火災に遭い、再建されたものであるが、焼け残った木材等が使用されていて、防災意識を高めている。
更に西へ行くと、醤油の醸造元「桑田醤油」、赤瓦六号館の大きな建物がある。
建物の中では醤油の販売も行われている。
更に西には「此君(しくん)」という酒銘の高田酒造がある。
ご主人は蕎麦打ちを趣味としていて、土日限定で蕎麦を食べさせてもらうことができる。
酒屋の一角を改造して座席が設えてあり、釜揚げ蕎麦を美味しく頂だいた。
更に西には、有形文化財の豊田家住宅、そして倉吉淀屋の屋敷があり、見ごたえのあるものである。
山陰の山間の小都市で、このような文化が護られていることに感心した倉吉であった。
『伯耆国・三徳山投入堂』
鳥取県東伯郡三朝町にある三徳山三仏寺の投入堂(なげいれどう)である。
標高900mの三徳山の中腹470mの洞窟に建築されている国宝建造物である。
奈良時代の頃、役行者(えんのぎょうじゃ)により創建された寺であるが、この投入堂はそれよりも後で、使用されている材木を鑑定した結果、平安後期の建造ではないかと云われている。
お堂は総檜の舞台づくりで高さ10m、屋根は桧皮葺、建坪17㎡である。
しかしこのようなところに、どのようにして建てたのか? 明快になっていないそうである。
寺の本堂からこの奥ノ院の投入堂までは、修験道の険しい道が続いているそうである。
したがって、一般向けにこのお堂が見える県道脇に遥拝所が設けられている。
遥拝所には望遠鏡も備えられている。
また背後には、三朝温泉を流れ天神川に流れ込む三徳川が流れているが、清流そのものであり、河原にはフキノトウが数多く見られる。
『伯耆国・倉吉陣屋跡』
鳥取県倉吉市の倉吉市役所や打吹(うつぶき)公園の一帯にあった江戸時代の倉吉陣屋の跡である。
陣屋跡は現在は成徳小学校となっていて、学校の周囲に一部石垣が残されている。
江戸時代になって因幡伯耆を治めることになった鳥取藩主池田氏は、倉吉地区の統治のために家老の荒尾氏12000石を配置し、陣屋を築いたものである。
その後倉吉の町の繁栄を招くため、武家屋敷の外郭に町屋を配し、城下町として整備したのであった。
その町並みは打吹玉川の重要伝統的建造物群保存地区として残っている。
また陣屋の背後の庭園は打吹公園として市民の憩いの場となっている。
尚、打吹公園や打吹山の「打吹」という地名の由来であるが、以下の民話がある。
昔打吹山の麓に天女が舞い降りて羽衣を小枝にかけ、清水で水浴びをしていた。
それを見た農夫は、あまりの天女の美しさに、羽衣を隠し自分の妻とし、2人の子供が生まれた。
何年か後、天女は農夫が隠していた羽衣を見つけ出し、天に帰って行った。
残された子供たちは雅楽が好きだった母を慕い、毎晩この山に登って、鼓を打ち、笛を吹いて母を呼び戻そうとしたと云われる。
毎夜、鼓を打ち笛を吹く音が聞こえ、人々は打吹山と呼ぶようになったと云われる。
『伯耆国・打吹城址』
鳥取県倉吉市打吹山204mにある打吹(うつぶき)城址である。
打吹城は南北朝時代の終わりごろ、伯耆国の守護所として山名氏が築いた城とされる。
その後、山名氏が力を失い尼子氏の城となった。
しかしその後、毛利氏に奪われ、吉川元春が城に入ったが、羽柴秀吉と毛利氏との和睦により羽衣石城主の南条氏がこの倉吉の旧領を回復し城主となり、麓に備前屋敷を構え、居住した。
そして関ヶ原の後は、米子城主となった中村一忠の所領となったが、中村氏は嗣子なく改易となり、倉吉は鳥取藩主池田氏の所領となり、城は一国一城令により廃城となったという経緯を辿る。
打吹城址へは麓の打吹公園がら登山道が整備されている。
階段を上がった鎮霊神社は南条備前守の屋敷跡である。
遊歩道に従って登って行く。
林の中を上がって行くと備前丸跡という削平地がある。
説明によると、更に上に越中丸や小鴨丸という郭跡があるようであるが、特定できない。
途中には石垣の残骸も散見する。
200m近くの登山で、山頂の本丸広場に到着する。
頂上には冒頭の石碑が設けられている。
また頂上からは、日本海方面が見えるが、少し遠い。
下山は東側からとしたが、両側は深い谷である。
比較的しっかりとした石垣が残っている。
また土橋らしきもある。
倉吉の町が近づくと、街全体が見下ろせ、近くは旧の文化ゾーン、遠くは倉吉駅の方向が見える。
『備前国・八濱城址』
岡山県玉野市の両児山(ふたごやま)53mに築かれていた八濱(はちはま)城址である。
戦国時代に備前を支配する宇喜多氏によって築かれた城であった。
織田信長の台頭により、宇喜多氏は毛利を敵とする信長に与していたと云う背景がある。
宇喜多直家の子である喜多与太郎基家は、父直家の死去を隠し備前に攻め込む毛利氏と対峙するため、防御戦闘用の城をこの八浜に築いた。
毛利が来襲し、八浜の城下で激しい戦闘が行われた。
基家は負傷して逃げたが、敵の探索にあって無念の最後となった。
しかし、八浜七本槍の活躍により毛利勢を負い散らし、宇喜多勢はこの城に籠城した。
この後、織田軍の秀吉隊が毛利許さじと備中高松城を攻めることになった。
この流れから、八浜の戦いは、高松城水攻めの前哨戦と云われている。
八濱城は2つのピークを持つ両児山の南側の山にあった。
その山頂には主郭があった。
冒頭の写真はその場所にある城址碑である。
山頂の部分は、現在は墓地と公園広場となっている。
そこへ至る虎口と思われる登り口もある。
この主郭の南側、東側には堀で囲まれていたと思われる跡が明確に残っている。
両児山のもう一つのピークには神社が鎮座する。
八幡神社と快神社である。
両児山からは北側の児島湾を堰き止めた児島湖が良く見える。
干拓地もその先に見えている。
八浜の集落へ降りてみると、そこには城下町らしく町並み保存地区があり、かつての建築物が残されている。
右は醸造業を営んでいた家屋のようである。
町中から両児山が見える。
左が南側で、城山である。
また、両児山の西側に与太郎神社が鎮座する。
宇喜多与太郎基家が、負傷し近所の竹藪で潜んでいる時に、追ってきた毛利方が近くにいた農民に訊問した。
農民の様子が煮え切らなかったため、察知され捕らえられたので、そのお詫びとして農民たちが基家を祀ったものである。
基家は脚気を患っていたことから、足の守り神としても信仰されている神社である。
『河内国・西代陣屋跡』
大阪府河内長野市の西代町から本多町にかけて江戸時代に西代(にしだい)藩の陣屋があった。
近江国膳所藩第2代藩主の次男本多忠恒が、河内国錦部(にしこり)郡や近江国において1万石を分知することになり、譜代大名として西代藩を立藩した。
そして藩2代目の忠統が西代陣屋を構えた。
上の写真は長野小学校の裏門で、陣屋門を模したものである。
陣屋はこの小学校の運動場の向こうの校舎から、その向こうの長野中学校にかけて築かれていた。
その後、忠統は若年寄に昇進し伊勢国神戸(かんべ)藩に転府したため西代藩は僅か50余年で廃藩となったという経緯を辿る。
この模擬陣屋門の隣には国之常立神(くにのとこたちのかみ)を主祭神とする古くからの西代神社が鎮座する。
国之常立神は東京の日枝神社や京都の城南宮の祭神でもある。
この神社は藩主の崇敬が篤く、当時を物語る唯一のものである。
『河内国・膳所藩陣屋跡』
徳川の統治下では、多くの藩やその藩の知行地が全国に存在した。
特に近畿地方の中心部には一万石やそれ以下の知行地があり、藩の出先や旗本の陣屋が置かれていた。
その一つ、大阪府河内長野市古野町には、近江国膳所(ぜぜ)藩の陣屋があった。
この陣屋には領主は置かず、交代制の代官が駐在する代官所として機能していた。
代官所は広さ約1000㎡で、現在の場所で云うと、冒頭の石碑が建てられている長野保育園の辺りである。
この辺りには高野街道が通っていた。
河内長野駅前には高野街道の石碑があり、その前の高野街道を北へと行く。
本多町の交差点に到達すると、その交差点に説明板があり、その東に長野保育園がある。
その東に冒頭の石碑が建っている。
遺構のようなものは皆無なのは残念である。
尚、膳所藩のこの地の支配は江戸末期まで続いたとのことである。
この少し西にこれも膳所藩に由来する本多氏の西代陣屋があり、両陣屋は補完関係にあったものと思われる。
『河内国・白木陣屋跡』
大阪府南河内郡河南町大字白木にあった白木(しらき)陣屋の遺構の石垣である。
この石垣の上部に石川総長(ふさなが)が築いた白木陣屋の建物があった。
石川総長は近江膳所藩主石川忠総(ただふさ)の三男で、忠総の死後一万石を分与され伊勢神戸藩を立藩したことで知られる。
そして総長は大坂城番に任じられ、それにより河内国石川郡内に一万石が加増された。
その領地を治めるためにこの場所に陣屋を建てた。
上図の上にあたる東の部分は冒頭写真の石垣である。
一万石の陣屋であるから多くの建物が建てられていたが、現在は農地となっている。
この立派で茅葺きと瓦葺きのハイブリッド屋根の民家は、陣屋跡地の北の部分かも知れないが、定かではない。
また陣屋西側のこれも立派な民家であるが、長屋門が設けられているが、陣屋遺構と関係があるのかどうか、これも定かではない。
陣屋の西の表門であるが、これは隣の千早赤阪村吉年の大きな民家に移築されているのは定かである。
唯一の建物の遺構であり、当時を偲ぶことができる。
尚この陣屋は石川氏の領地を治める代官所として幕末まで機能した。
『河内国・烏帽子形山城跡』
国の史跡烏帽子(えぼし)形山城跡は、大阪府河内長野市喜多町の烏帽子形山にある。
山の形が烏帽子に似ていることからそう呼ばれている。
烏帽子形山城は、最初は楠木正成によって築城された楠木七城の一つであった。
この地は高野街道や河泉街道、その他大和や紀伊の国への街道が分岐している要衝であり、且つ烏帽子形山は石川とそれに合流する天見川に挟まれた要害の地でもあった。
南北朝の戦いでは楠木氏と北朝の畠山氏との間で城の争奪戦が行われたが。
その後畠山氏が入城したり、三好三人衆が入城したりしたが、織田信長の時代には楠木氏の子孫の甲斐庄正治が入城した。
その後正治は遠江に移封され一時は廃城となったが、大坂の陣で正治の子正房に功があったため、旗本としてこの城に帰還した。
しかし、旗本の禄高では城は維持できず、暫らくして廃城となった。
烏帽子形山は公園となっていて、城の堀切や郭跡など遺構は当時のままで残されている。
先ずは公園入口から城跡に登ってみる。
幾つかの堀切を眺め、郭があったと思われる「こなら広場」を通過し、本丸広場へと向かう。
本丸への虎口を登り本丸跡の本丸広場に到達する。
広場の隅には、石塔や石碑が建ってられている。
また上部写真の城郭復元図も掲げられている。
本丸広場から本丸道という尾根筋を北東方向へ歩く。
幾つかの堀切や土橋、そして削平地が見られる。
そして最終的に古墳広場と云うところに到達する。
この辺りまで、城郭があったものと思われる。
広場での見晴らしは良い。
北側にある教団の塔が良く見える。
南へ下る。
本殿が重要文化財であり、素戔嗚尊や応神天皇らを祀る烏帽子形八幡神社が鎮座している。
境内には楠公武威松の切株も保存されている。
公園の入り口付近は桜の季節である。
丁度満開となっていて見事である。
『河内国・河合寺城跡』
大阪府河内長野市の古刹河合寺を、南北朝時代に楠木正成が城郭化したのが河合寺城である。
場所は河内長野駅の東側、石川を挟んだ200mの山腹から山頂にかけて展開していた。
現在は長野公園となっていて、河合寺の他にアジサイ園やモトクロスのサーキットなどがある。
河合寺は飛鳥時代に皇極天皇の命にて蘇我入鹿が創建した寺院てあるが、現在は拝観不可となっている。
バス停「河合寺」で下車し、寺門横の遊歩道から登る。
途中桜を見ながら登る。
この森は大阪みどりの百選に選定されている。
しばらく登ると、本堂、鐘楼などの伽藍のところに到達する。
本堂の辺りは広い削平地で、城の本郭が置かれていたものと思われる。
寺の本堂の横の遊歩道を登る。
かなりな急坂もある。
尾根筋に出ると両側は結構深い谷である。
途中、郭の跡地であろうか削平地が、それに土橋のような跡が見られる。
更に尾根筋を辿ると、山頂付近に展望台が設けられている。
恐らくは城の望郭が設けられていたのであろう。
周辺も近年に整備されたのであろうか、広い空間となっている。
河内長野市内から遥か堺市の方向まで見渡すことができる。
敵見の櫓としては最高の場所であったと思われる。
しかし、バイクのエンジン音が雰囲気を壊す場所でもある。
少し行ったフェンスの先はモトクロスのサーキットとなっている。
この場所に一本の八重桜が植えられていて、綺麗な花を付けている。
下山道を変えてみる。
そこにも削平地が見られる。
また途中に谷を挟んだ向こうに清教学園中高校のキャンパスが見える。
途中で、スズラン水仙やシャガの花を見つけたのも印象的であった。
河合寺城であるが、楠木正成の子である正行が敗れた後、北朝を目論む足利氏に焼かれてしまったと云われる。
その後は織田信長の領地となり、寺を豊臣家が復興しようとしたが以前のような興隆には至らなかったと云われている。
『播磨国・浅野陣屋跡』
『尾張国・小牧城跡』
尾張の国愛知県小牧市の小牧山86mの山頂にある模擬天守小牧市歴史館である。
戦国時代この小牧山とその周辺には、織田信長が岐阜への侵攻を開始すべく小牧城を築城し、清州城から本拠や城下町を移転したとされている。
信長は4年後に岐阜を手に入れ、岐阜稲葉山城に移転したため小牧城は一旦廃城となった。
その後、織田信雄・徳川家康連合軍と羽柴秀吉との争い(小牧長久手の戦)が勃発し、家康はこの小牧城を大規模改修し本陣とした。
秀吉軍はこの城を攻めきれなかったため、家康の本城岡崎を襲うことになったが、家康軍に察知されることとなり、岡崎の手前の長久手で野外戦となり、家康軍が勝利した。
以後小牧城は徳川家が所領とし、代官所や小牧宿が整備され、明治まで続いた。
小牧城跡は公園となっている。
下から遊歩道を登って行くと、冒頭の歴史館の頂上に達する。
昭和の初期、 尾張徳川家代19代徳川義親氏が、小牧山を国に寄付したとされている。
そして戦後しばらくしてから、市民有志が小牧城模擬天守を私費で建築し、小牧市に寄贈した。
以来、小牧市歴史館として機能している小牧城である。