『伊賀国・百地丹波城』
三重県伊賀市の上野城から東南東約10kmの山間の喰代(ほおじろ)と云うところに伊賀流忍者の上忍、百地(ももぢ)丹波守の居館、百地城跡がある。
上忍とは忍者の総元締めである。
百地丹波守は、3ヶ所の居館に住まいしていたと云われ、この居館もその一つである。
忍者の部下たちでさえ、いつどの居館に居るのかいないのか、その所在は闇に包まれていたと云われる。
百地家の菩提寺となっている青雲寺の東側に入口がある。
少し行くと左手に登る20段程度の階段がある。
階段の上は広場となっている。
主郭跡(廓C)である。
表紙の標柱や、説明看板も建てられている。
主郭の東側(山側)は堀切である。
その南北には、南虎口、北虎口がある。
堀切の上はこれも広場となっている。
郭Bである。
更に登って行く。
傾斜は緩やかであるが、道が登るにつれ不確かとなる。
土塁があり、その上は頂上の郭である。
物見の櫓などがあったものと思われる。
下山途中には石垣もあった。
入口まで戻って、青雲寺を訪ねる。
この寺の場所も廓の一つであると云われている(廓D)。
墓地入口には百地家累代の墓がある。
百地忍者一族は織田信長の伊賀侵攻に抵抗したが、敢え無くこの城も落城し、百地丹波のその後の足取りは分かっていないが、忍者団を再構築し、その恨みを晴らしたと云われている。