『伊賀国・名張藤堂家邸跡』
(上図の上は東方向)
三重県名張市の近鉄名張駅の西方約500mのところに、江戸時代を通して伊賀国名張を治めた津藩藤堂家の分家藤堂家邸跡がある。
その藤堂家邸は明治の廃城令により殆どが取り壊されたが、一部が残っているとのことで訪ねてみた。
藤堂家邸へは、名張駅で下車し、県道を西へと進む。
名張中学校を過ぎ、名張小学校の正門前へと回り込む。
その小学校の斜め前に、名張藤堂家邸跡があり、正面の門から入る。
右手に庭が広がり、正面に玄関があり、邸宅の内部へと入ることができる。
邸宅内部の正面には名張藤堂家の家系図が掲げられている。
そして右裏手の方に、朱具足などの遺品が陳列されている。
家系図によると分家の初代の高吉は、もと織田信長の家臣の丹羽長秀の三男で、豊臣秀吉の命によって津藩藤堂高虎の養子なり、津藤堂家の一門として伊賀国名張に屋敷地を与えられたのが名張藤堂家の始まりである。(当初2万石→1.5万石)
以後、享保騒動(名張騒動)などを経て、明治四年まで11代に渡って屋敷が存続し、陣屋の役割をしていたとのことである。
邸内には、「御西」と称された日常生活の場所である、次の間、中奥六畳間、清閑楼などの幾つかの部屋がある。
また、邸内の廊下から、色んな角度から庭園を楽しむことができる。
また、現在の邸外に、大手門跡や太鼓門へ通ずる石標がある。
塀に沿って、正門であった太鼓門を訪ねてみる。
太鼓門は裏手にある神社「寿栄(ひさか)神社」の神門となっている。
この寿栄神社は、初代の藤堂高吉を祀る神社である。
そして、神社と藤堂邸の間には通用門もある。