謹賀新年!
今年2020年のNHKの大河は明智光秀を主人公とした「麒麟がくる」が放送される予定である。
明智光秀と云えば、織田信長が襲われた「本能寺事件」の重要人物として、小説やドラマなどに描かれている。
その真実はどうであったのだろうか? 確たる証拠がないままに論議は過ぎて行ってしまっている。
しかし、時代の主人公は信長から秀吉へと確実に受け継がれたことは事実である。
このシリーズでは、あっちこちのPHOTOミニ旅の中から、光秀に関係するものを探し出して掲載してみる。
明智光秀の前半生は恵まれたものでは無かった。
光秀は岐阜明智郷の生まれで、幼くして土岐家家来の明智家の当主となった。
そして30歳になる前に、明智城は斎藤義龍に攻められ落城、明智家は離散し、光秀も流浪の旅を余儀なくされたのであった。
越前の朝倉家に居候している時に、後の室町将軍・足利義昭と知り合い、幕臣となった。
そして義昭と共に信長の下へと向かい、信長の家臣ともなり、武人としての活躍が始まるのであった。
この時、光秀の年齢は40歳であったとされている。
信長は、近江の北の脅威である浅井・朝倉軍と現長浜市の姉川で戦うことになる(姉川の戦い)。
光秀は信長の参謀として参戦する。
そして光秀の作戦提案が功を奏し、その後、光秀は京都警備を任されることになった。
そして、比叡山の焼き討ち事件が起こる。
比叡山や麓の門前町坂本は致命的な打撃を受けるが、その事後処理を任されたのが光秀である。
織田家としては初めての事例であるが、光秀に5万石の知行地が与えられ、坂本城を築城し、居城としたのであった。
先ずは比叡山の焼き討ちである。
信長軍は、比叡山の四方から山へと登る。
それは僧侶などに逃げ道を作らないという考えであった。
光秀は、京都警備なので、京都側から登った。
比叡山の伽藍の西側の離れたところに瑠璃堂という3間四方のお堂がある。
光秀はこのお堂を中心に布陣した。
延暦寺が次々に焼かれていくので、僧侶らが逃げてくる。
光秀軍は、知らんふりをして逃がしたそうである。
余談であるが、秀吉は北の横川中堂辺りから攻め上った。
逃げてくる僧侶に対しては、金品を提供した者のみを逃がしたそうである。
人格の違いがよくわかる所作である。
比叡山の焼き討ちは終わった。
陣を引き上げる際に、光秀は瑠璃堂を焼かなかった、というか焼くことに興味がなかったのであろう。
この瑠璃堂、この焼き討ちで唯一焼けなかったお堂として知られている。
さて、光秀の戦後処理が始まる。
門前町の復興と坂本城の築城である。
坂本城は、琵琶湖の沿岸に築かれた。
連結式天守を有する本丸、二ノ丸、三ノ丸と内陸へ広がっている城である。
石垣などの若干の遺構もあるが、城跡の公園が本丸の南に設けられている。
坂本城跡公園へは、JR湖西線比叡山坂本駅が最寄である。
駅から20分程度で、公園へと到着する。
公園内には上掲の説明板や光秀公の像がある。
また歌手鳥羽一郎唄の「光秀の意地」という歌詞が掲げられている。
公園の周りである。
琵琶湖対岸には近江富士が、またこちら側には日吉大社の鳥居が、そして背後には比叡山を望むことができる。
城跡を少し訪ねてみる。
先ずは本丸跡の石板、二ノ丸跡である。
そして本丸・二ノ丸の境目には「明智塚」がある。
更に、城門が移築されている。
北に向に向かうと聖衆来迎寺という寺院の表門がそれである。
重要文化財である。
もう一つ、明智家の菩提寺「西教寺」の総門である。
尚、本堂は重要文化財である。
西教寺には明智一族の墓所もある。
また、坂本城で亡くなった光秀の妻の熈子(ひろこ)夫人も供養されている。
光秀の辞世も掲げられている。
更に、芭蕉の句碑、「月さびよ 明智が妻の 咄せむ 芭蕉」もある。
尚、坂本城は、1586年に廃城となり、大津城が築城されたのであった。