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『大阪府豊能郡・吉川八幡神社』


 大阪府豊能郡豊能町吉川に鎮座する「吉川八幡神社」を訪ねてみる。

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 下車駅は上図右下隅の能勢電鉄妙見本線の終着の「妙見口駅」である。
 駅から神社へ向けての街道は「花折街道」と云い、これを進む。
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 途中、廃校になった学校校舎や白龍大神などがある。
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 そして、趣ある民家の辺りから妙見山方向が開けてきたところの左手に神社への参道入り口がある。
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 参道を進む。
 道の両側には、イノシシやシカからの防御柵が張られている。
 そして神社に近づくと阪急電車の車両の顔が置かれているのにはビックリさせられる。
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 神社の正面へ出ると、鳥居がある。
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 そして石段を昇ると、拝殿である。
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 拝殿の先には本殿が祀られ、両側に狛犬もある。
 外へ出てみると、本殿は覆屋に包まれている。
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 主祭神は応神天皇である。

 社殿周囲の社叢には山城の空堀のような溝見られる。
 それに関連するのか、社殿前に吉川城址への案内板もある。
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 また、境内社が祀られている。
 5連境内社は左から弁財天、多賀社、稲荷社、天照大神、祓戸大神社である。
 また独立した小祠は奥宮で、八幡大神の荒御霊とのことである。
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 尚、吉川八幡神社は、平安時代の終わりごろに、吉川在住の源頼仲が、清和源氏の守護神である応神天皇を祀る神社として、創建したものと伝えられている。

『大阪府茨木市・大岩八幡神社』


 大阪府茨木市の山間部に鎮座する「大岩八幡神社」を訪問してみる。

 場所は、新名神高速道路の「千提寺IC」と住宅団地「山手台」の中間付近の大岩の村落内で、府道「茨木摂津線」の「大岩郵便局」停留所が最寄であったが、バス便は今は無い。
 府道と平行した村中の道を進むと神社への入り口表示がある。
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 路地を進むと右手に大きな灯篭、正面に児童公園がある。
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 左手が神社である。
 石段、石の鳥居が建つ。
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 正面は拝本殿である。
 その両側に一対の狛犬が祀られている。
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 本殿は覆屋の中に祀られている。
 祭神は応神天皇である。
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 拝殿の左手の建屋の軒に釣り鐘、また右手には五輪の塔が配置されている。
 どちらも神社には珍しいものである。
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 五輪の塔は高さ2m強で、1445年に勧進僧の勧めで、8万4千人もの人々の結縁によって建立されたものとされる。
 茨木市内では最大のもので、茨木市指定文化財の第1号である。

『大阪府摂津市・新在家八幡宮』


 大阪府摂津市新在家1丁目に鎮座する「八幡宮」を訪ねてみる。

 摂津市は大阪府北部の中央にある市であり、隣接している市は、高槻市、茨木市、大阪市、そして淀川を挟んで、寝屋川市、守口市である。
 小さな市であるが、市内をJR東海道本線、阪急電鉄京都線、大阪モノレール、そして駅はないが東海道新幹線が走り抜けている。
 その新幹線の車両基地「鳥飼基地」もあり、その基地の東側の新在家という住宅地の中の小高い丘に八幡宮が鎮座している。
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 神社正面の鳥居を潜ると石段があり、その先は境内である。
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 拝本殿は横向きである。
 拝殿の両側に一対の狛犬が祀られている。
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 本殿は覆屋の中である。
 祭神としては、由緒書きなどが見当たらないので不明であるが、八幡宮であるので八幡大神(応神天皇)であろう。
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 本殿の左手には朱塗りの鳥居があり、小祠が祀られているが、祭神は不明である。
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 この八幡宮は、平安京の前の長岡京遷都に合わせて、味府(あじふ)神社を3社に分割、その1つ八幡大神をこの地に遷座して、創建されたとされている。

『大阪府枚方市・磯島八幡神社』


 大阪府枚方市磯島元町に鎮座する「八幡神社」を訪ねてみる。
 場所は、京阪電鉄「枚方市駅」と「御殿山駅」の中間あたりの淀川寄りである。
 目標物で言えば、大阪府立枚方なぎさ高校(旧・磯島高校)の通り一本南側の住宅街の中である。
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 正面は鳥居である。
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 鳥居脇には一対の狛犬が祀られている。
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 狭い境内である。
 境内左手には、旧の鳥居の石柱が残されている。
 そこには、寛保三年(江戸時代中期)と刻されている。
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 社殿は横向きである。
 手前は本殿覆屋である。
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 覆屋の中を覗くと、狛犬に守られた本殿が鎮座する。
 祭神は品陀別命(応神天皇)である。
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 本殿の右に稲荷神社がる。
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 この磯島八幡宮は、江戸初期にこの地の領主・日野前大納言が八幡大神を勧請し、社殿を造営したと云われている。
 枚方市は河内国であったが、磯島は当時は川向うの摂津国島上郡に属する淀川の中州であったともされている。

『大阪市城東区・若宮八幡大神宮』


 大阪市城東区蒲生四丁目に鎮座する「若宮八幡大神宮」を訪ねる。

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 最寄は大阪メトロの「蒲生四丁目駅」である。
 駅の西南部へ店舗や住宅が立ち並ぶ道路を進むと、神社の玉垣へと到着する。
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 神社は西向きである。
 鳥居を潜り、石段を昇る。
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 正面は拝殿である。
 拝殿の両側には一対の狛犬が祀られている。
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 拝殿の先は本殿である。
 本殿の祭神は若宮、即ち応神天皇の子である仁徳天皇である。
 本殿は覆屋の中であるが、その側面がガラス張りであるのは珍しい。
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 境内社には、豊受稲荷神社、祖霊社が祀られている。
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 その他境内には、灯篭、山車庫(玉垣の外に)などがある。
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 尚、この神社には大坂冬の陣の時に佐竹義宣隊が本陣としたことで知られる。
 そして隊員が境内の楠木を切り倒して焚火にして暖を取ったと云われている。
 戦後、そのお詫びとして佐竹氏から、太刀が奉納されたという逸話もある。
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『大阪府八尾市・太田八幡宮』


 大阪府八尾市太田に鎮座する「太田八幡宮」を訪ねる。
 場所は八尾空港の南側であるが、JR関西本線八尾駅からバス便で向かい、太田バス停で下車が最寄である。
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 北東方向へ町内を歩くと、神社の裏参道へと到達する。
 裏入り口(西側)には、注連縄柱、社号柱、そして灯篭の列がある。
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 東側の鳥居へと回る。
 神域はそう広くないが、境内は広く感じる。
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 正面は拝殿である。
 そして両側に一対の狛犬が祀られている。
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 その奥は本殿である。
 祭神は八幡宮であるので、誉田別命である。
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 境内社が祀られている。
 境内の右サイドで、左に大神神社、右に水分神社である。
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 また鳥居の両脇の灯篭には、「免田宮」と刻されたもの、「巽八幡宮」と刻されたものが建てられている。
 この地は免田町と云い、免田宮は元の名称である。
 また、巽宮は、合祀るされた神社とのことである。
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『大阪府松原市・大堀八幡神社』


 大阪府松原市大堀に鎮座する「大堀八幡神社」を訪ねてみる。
 大堀は松原市の最北部で、大和川の左岸の地域であり、近畿自動車道、阪神高速道路、西名阪自動車道、阪和自動車道のジャンクションがあるところで、街自体が改造されている所でもある。

 駅は近鉄南大阪線の「恵我ノ荘駅」で、神社へは、古代の堺と大和を結ぶ「長尾街道」を横切り、北へ北へと30分程度歩き、阪和自動車道を潜って、少し行く。
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 そして大堀八幡神社の鎮座地が現れる。
 神社の左側は府立の平野高校である。
 尚、余談であるが、松原市であるのに、平野と云う名はそぐわないが、調べて見ると高校の辺りから大和川までは、大阪市平野区長吉川辺と云う住所地である。
 江戸時代の大和川の付け替えによって長吉という集落が分断されたことを物語っている。
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 神社は極めて新しい。
 それもその筈、今から約5年前に、大和川畔からこの地に遷座されたとのことである。
 
 神社の正面には社号柱、鳥居、扁額がある。
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 そして神社の境内である。
 左手には手水舎、灯篭、そして正面は拝殿である。
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 拝殿には神紋が描かれた幕、そして扁額が掲げられている。
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 また拝殿の両手前には一対の狛犬が祀られている。
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 拝殿の背後は覆屋に覆われた本殿である。
 本殿の祭神は品陀別命である。
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 遷座前の神社は鉄筋コンクリート製の社殿であったそうであるが、今回は寺社建築で長い歴史を持つ金剛組の木造の施工とのことである。
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 神社の右横裏手は大堀小学校で松原市内である。
 学校の前を北東方向へ行くと、東除川(ひがしよけがわ)を渡り、大和川へと達する。
 川には、近畿自動車道の橋梁が架けられている風景が見える。
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『大阪府松原市・我堂八幡宮』


 大阪府松原市天美我堂(あまみがどう)に鎮座する「我堂八幡宮」を訪ねてみる。

 神社は近鉄南大阪線の「河内天美駅」と大阪メトロ御堂筋線の「北花田駅」を東西に結ぶ中間あたりにあるが、今回は近鉄駅から府道「大堀堺線」を西方向へと向かう。
 途中、西除川(にしよけがわ)を渡り、更に進むと府道「大阪狭山線」と交差し、「天美我堂」という住所地に至る。
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 道路に面して南側に「厄除宮」と標柱に記された「我堂八幡宮」の朱の鳥居がある。
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 鳥居を潜ると注連縄柱があり、そして境内である。
 境内左手に大楠の神木が祠と共に祀られている。
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 大楠を回り込んだ左手が拝本殿である。
 朱の鳥居、そして朱を主とした拝殿がカラフルである。
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 拝殿の両側には一対の狛犬も祀られている。
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 そして本殿である。
 祭神は誉田別命(応神天皇)である。
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 この神社の創建は江戸時代の初期とされる。
 京都の石清水八幡宮からの勧請とのことである。
 また、明治になるまでは神社境内に神宮寺があったとされている。

 尚、我堂八幡宮は他の松原市内の5社も合わせて「開運松原六社参り」の一社である。

 神社には境内社が祀られている。
 入り口に近い方から、金刀比羅宮、天雨神社である。
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 そして、末廣稲荷大神である。
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 そして向かい側の拝殿側に、白髭大神が祀られている。
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 神社の西側にも鳥居が建つ。
 石の鳥居で、元はこちらが神社の正面であったとされている。
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 神社を後にして西へ西へと向かう。
 下図は、上部が東方向である。
 そして大阪メトロの北花田駅へ到着したのであった。
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『大阪府大東市・御供田八幡神社』


 大阪府大東市御供田(ごくでん)に鎮座する「御供田八幡神社」を訪ねてみる。

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                         (上図の上は東方向)

 最寄り駅はJR学研都市線の「住道(すみのどう)駅」、駅を後にマンションなどが立ち並ぶ線路沿いの道を東へ向かい、御供田と云う住所地の住宅街の中に神社は鎮座する。
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 正面には鳥居が建つ。
 境内に入ると、江戸時代天保2年作の灯篭も建つ。
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 境内正面は拝殿である。
 神紋は三ツ巴である。
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 拝殿手前両側には一対の狛犬が祀られている。
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 拝殿の背後は覆屋の本殿である。
 祭神は、誉田別命、息長帯比賣命、比咩大神とされる。
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 また、境内には保存樹が3本ある。
 銀杏、そして椋木が2本である。
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 また、境内に旧鳥居の残柱が置かれている。
 そして裏参道の注連縄柱である。この場所には、旧鳥居の上部が置かれている。
 そしてその外に公園状の長く連なる低地がある。恩地川の雨水貯留施設だそうである。
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 尚、御供田(ごくでん)という地名であるが、元々は岡野村と云ったそうであるが、石清水八幡宮の社領となってから、御供田と改称され、八幡神社も祀られたとのことである。

『大阪府八尾市・服部川八幡宮』


 大阪府八尾市の高安山の麓に鎮座する「服部川八幡宮」を訪問する。

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 神社は、近鉄信貴線の「服部川駅」が最寄である。
 風景は山頂に高安山の気象レーダー施設が見え、またこの辺りは八尾市の「史跡の道」と云う。
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 その史跡の道の入り口に服部川八幡宮は鎮座する。
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 拝殿の前には一対の狛犬が祀られている。
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 そして拝殿の背後は覆屋の本殿である。
 本殿の祭神は誉田別命(応神天皇)、相殿には菅原道真公(天神社)が祀られている。
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 この服部川八幡宮は江戸時代以降、服部川村の氏神として崇拝されてきたが、明治7年に玉祖(たまおや)神社に合祀された。
 そしてその後、明治25年に、元のこの地に社殿が建てられ、現在は独立した神社となっている。

 境内には元宮の石碑、楠木と男根がまつられている。
 また現在の境内は「中高安小学校」の跡地とのことでもある。
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 また境内に、地蔵堂なども祀られている。
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 かつて境内には神宮寺の尼寺「西光寺」があったとのことであるが、明治5年に廃寺となったとのことである。

 神社から東方向へ行くと、式内社の「佐麻多度神社」などを訪れることができる。

『奈良県香芝市・関屋八幡神社』


 奈良県の西部、香芝市関屋に鎮座する八幡神社を訪ねてみる。

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                    (上図の上は南方向)

 最寄り駅は近鉄大阪線の「関屋駅」である。
 駅から東へと延びる街道は名前は分からないが、由緒のありそうな街道で、趣のある町屋が並ぶ。
 神社へはもう一本北側の道へと変える。
 大きな邸宅も見られる。
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 少し行くと一ノ鳥居が建つ。
 参道は北へと向かう。
 そして二ノ鳥居へと到着する。
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 二ノ鳥居の左手には保育園であろうか、カラフルな造作が見られる。
 二ノ鳥居を潜り進むと、石段がある・
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 その石段を昇ると玉垣があり、一対の狛犬が祀られている。
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 そして三ノ鳥居である。
 三ノ鳥居の正面は石段があり、そして拝殿である。
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 拝殿の裏手は本殿が祀られている。
 祭神は、八幡神社であるので品陀別命である。
 また、玉垣・本殿の風景はこのようになっている。
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『大和高田市・大谷八幡神社』

 
 奈良県大和高田市大谷に鎮座する「八幡神社」を訪ねる。
 下車駅は近鉄大阪線「築山駅」で、西方向に駅から約800mのところである。

 駅の西方には大谷山自然公園がある。
 幾つかの古墳を中心に構成されている公園である。
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 さらに進む。
 街中の三差路に「高田荘園」の標柱と辻地蔵の祠があり、これを通り過ぎる。
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 道路脇の庭園には「蝋梅」が今は盛りと咲いているのが目を引く。
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 そして進むと、大寺院「大和大谷別院」がある。
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 この大谷別院は、浄土真宗大谷派の創始者の教如がこの付近を通りかかった時、大谷山という地名に惹かれて創建したとされている。

 大谷別院の北側に八幡神社が鎮座する。
 神社正面は神門で、鳥居は無い。
 境内へと入ると、鳥居、拝殿である。
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 正面は拝殿と一対の狛犬である。
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 そして本殿である。
 本殿の祭神は、品陀和気命である。
 また本拝殿の右横には収蔵庫がある。
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 尚、この神社が鎮座する築山駅の周辺には築山古墳があり、かつて訪問したことがある。
   【築山古墳】http://fujisirorei.blog.fc2.com/blog-entry-1738.html

『奈良県川西町・高堂八幡神社』


 奈良県磯城郡川西町下永に鎮座するもう一つの八幡神社「高堂(たかんど)八幡神社」を訪問する。
 先に訪問した八幡宮は、結崎駅の北方であったが、今回の高堂八幡神社はそこから東方向へ大和川を渡り、駅から同じ距離ぐらいを進んだところである。
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 先ずは結崎駅で下車する。
 駅のホームには、「観世発祥之地 面塚」の石柱が建っている。
 観阿弥・世阿弥の能芸の発祥地である。

 駅の東側の通りを北へと進む。
 駅近に大きなスーパーがある。
 「OY」というが、元々は10年前にあったサティの後進だそうである。
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 大和川を渡ることができる唯一の橋が、前回の神社の東にある「下永橋」である。
 橋上からみた大和川、そして金剛・葛城・二上の山なみ、そして生駒山である。
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 この下永橋を渡り川沿いに進む。
 そして高架道路の国道24号線を潜ると、高堂八幡神社である。
 この神社の地には、明治時代になるまで前回に触れた「白米寺」があった。
 そして白米寺は、この神社の神宮寺であったとのことである。
 
 神社の全景、そして正面である。
 また神社の横は高架道路で、広いエリアである。
 そしてこの高架道路建設時に、奈良時代の瓦が出土したとのことで、
 この辺りに、白米寺があったのではないかと思われる。
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 その白米寺が明治の廃仏毀釈で廃寺になった後、仏像は川向うの八幡神社の収蔵庫へ、石造り類はこの東の教願寺に収蔵されているとのことである。

 さて、高堂八幡神社である。
 鳥居を潜る。
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 正面は拝殿である。
 拝殿の背後は本殿であるが、その前に一対の狛犬が祀られている。
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 そして本殿である。
 本殿は春日造りで、祭神は品陀別命(応神天皇)である。
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 神社を後にして駅へと戻る。
 駅の北西側には、金網で囲まれた土盛がある。
 近寄ってみると、佐々木塚古墳とのことであった。
 この古墳からは、5世紀中ごろの須恵器、円筒埴輪、形象埴輪などが出土されているとのことであった。
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『奈良県川西町・八幡神社』


 奈良県磯城郡川西町下永に鎮座する「八幡神社」を訪ねてみる。

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 最寄りの近鉄橿原線の「結崎(ゆうざき)駅」で下車、線路の東側の道を北へと向かう。
 途中右手に演芸館もある。
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 突き当りまで進むと神社が見えてくるが、神社の参道は、もう一本東の道である。
 注連縄樹を潜り、神社境内へと向かい、鳥居を潜る。
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 境内は、約1,000平方メートルの広さで、正面には2棟の社殿、そして多くの灯篭が建っている。
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 2棟の内の右は、大和川を挟んだところにあった白米寺(はくまいじ)の仏像(重文2体)などが収蔵されている収蔵庫である。
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 左手は拝殿である。
 拝殿前には、幕末期の石工・丹波佐吉が彫り上げた一対の狛犬が祀られている。
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 拝殿の背後は本殿である。
 本殿の祭神は、誉田別命 (ほんだわけのみこと、応神天皇)、足仲彦命 (たらしなかつひこのみこと、仲哀天皇)、息長帯姫命 (おきながたらしひめのみこと、神功皇后)である。
 また、本殿の左右に、境内社として、熊野神社、愛宕神社が祀られている。末社祭神 
 祭神は、伊邪那美命 (いざなみのみこと)、加具津智命 (かぐつちのみこと)とのことである。
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 神社裏には大和川が流れている。
 堤防から南西方向を遠望すると、金剛、葛城、二上の山々を望むことができる。
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『奈良県田原本町・薬王寺八幡神社』


 奈良県磯城郡田原本町薬王寺というところに八幡神社が鎮座している。
 近鉄橿原線の「田原本駅」の西方であり、下記の地図(上が西方向)からはみ出たところである。
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 神社に近づくと先ずは大きなクスノキが見えてくる。
 約400㎡の境内を覆い尽くしているようである。
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 現在は神社しかないが、かつては薬王寺と云う大寺院があり、神社はその鎮守社であったと思われる。
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 鳥居を潜ると、正面は拝殿である。
 そして手前両側に一対の狛犬が祀られている。
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 拝殿の裏手には本殿が祀られている。
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 本殿の祭神は誉田別命(応神天皇)である。

 また本殿の右手に小祠が祀られているが、祭神は不明である。
 そして本殿前に大楠がある。
 樹齢500年の天然記念物である。
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『奈良市・西大寺八幡神社』


 奈良市の近鉄奈良線「大和西大寺駅」の近くに南都七大寺の一つである「西大寺」がある。
 その西大寺の鎮守社であった西大寺八幡神社を訪問してみる。
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                   (上図の上は北東方向)

 先ずは西大寺である。
 駅から寺院へと向かう。
 右手の塀は朽ちかけた歴史あるものである。
 駅に近い東門から入る。
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 かつては広い寺域を有していたであろうが、現在は主要な堂宇だけに凝縮された伽藍群である。
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 内部(西方向)へと進むと、先ずは右手に十一面観音立像(重文)と四天王立像(重文)を祀る四天金堂、本尊の釈迦如来立像(重文)を祀る重文の本堂とその前の東塔跡、そして愛染明王坐像(重文)、興正菩薩叡尊坐像(国宝)を祀る京都御所から移築された愛染堂と続く。
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 愛染堂から南へと進む。
 境内社の清瀧権現社を右に見て、南門から退出する。
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 尚、西大寺は平安時代には衰退したが、鎌倉時代に興正菩薩叡尊により中興されたとされている。

 南門前の道を西へと進むと、その先に鳥居が見えてくる。
 そして200m程で八幡神社の一ノ鳥居へと至る。
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 鳥居前には由緒が記された碑が建てられている。
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 参道を進む。
 二ノ鳥居があり、参道の奥に社殿が見えてくる。
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 右手に小祠が祀られている。
 順に、若宮神社、恵比須神社、厳島神社である。
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 そして参道左手にも境内社が祀られている。
 稲荷社の杉高大明神である。
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 そして数段の石段を昇ると境内である。
 両側には回廊のような建物がある。
 そして正面には本殿拝所である。
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 そして本殿が一対の狛犬と共に祀られている。
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 本殿は三間流造で、中央に誉田別命(応神天皇)、右に気長足姫命(神功皇后)、左に玉依姫命 (皇后の母)が祀られている。
 また、本殿の右奥には武内宿禰(たけのうちすくね)の武内神社が祀られている。
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 更に、本殿左手には住吉神社が祀られている。
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 そして、本殿右手には2社、左に厳島神社、右に善女龍王神社が祀られている。
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 西大寺八幡神社を一巡したが、東大寺の鎮守社「手向山八幡宮」に負けず劣らずの神社であった。

 尚、西大寺の大イベント「大茶盛」はこの神社が発祥とのことである。

『奈良市・山上八幡神社』

 
 奈良市山陵(みささぎ)町の近鉄平京都線「平城駅」の東側にも、八幡神社と御陵がある。

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 先ずは駅から近い方から訪問してみる。

 丘へと登って行くと、成務天皇陵である。
 周濠は、しっかりと水を湛えている。
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 その隣に並ぶようにして垂仁天皇皇后の日葉酢媛(ひばすひめ)陵がある。
 この陵には造出も見られる。
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 それらの陵の拝所前を横として孝謙・称徳天皇陵があるが、拝所は下の県道に面している。
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 最も奥が八幡神社である。
 「山上(やまがみ)八幡神社」と云い、先ほどの日葉酢媛陵を背にして鎮座している。
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 社頭の社号碑にはロウバイが咲き始めている。
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 鳥居を潜り境内を進む。
 社叢も広い。
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 正面は割拝式の拝殿、両側に一対の狛犬も祀られている。
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 拝殿を潜ると本殿である。
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 本殿の祭神は、天照皇大神、八幡大明神、春日大明神である。

 尚、この神社の創建は不詳であるが、天正時代(戦国時代)の祈願文が保存されていることから、その時代かそれ以前とされている。

『奈良市・山稜八幡神社』


 奈良市の北西部、山稜(みささぎ)町に鎮座する「山稜八幡神社」である。
 場所は、近鉄京都線の「大和西大寺駅」の一つ京都寄りの「平城駅」の直ぐの北で、その北にある「神功皇后陵」との間である。
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 駅から直ぐに神社参道となるが、線路を渡った東側には成務天皇陵などがある。
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 神社の社頭の鳥居である。
 鳥居の先は石段となる。
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 また社頭には社号碑、金毘羅宮の灯篭も建つ。
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 石段を昇ると境内である。
 正面に割拝式の拝殿が祀られている。
 拝殿の前にも狛犬が祀られているが、拝殿を潜り本殿瑞垣前にも一対の狛犬が祀られている。
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 そして本殿である。
 本殿の祭神は、気長足姫命(神功皇后)、品陀和気命(応神天皇)、玉依姫命のご一家である。
 また本殿の左手に扉に日、月の印がある祠が祀られているが、社名は不明である。
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 神社の裏手の神功皇后陵を訪れてみる。
 直ぐの右隣りには稲荷神社が祀られている。
 福松大神と云う。
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 その先進み、左手へ上がると神功皇后陵、狭城盾別池上陵で全長275m、この付近の佐紀盾列古墳群の中では最大のものである。
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『奈良市・押熊八幡神社』


 奈良市の北西部、ならやま大通の近くの押熊(おしくま)町にも八幡神社が鎮座している。
 押熊町へは、近鉄奈良線の大和西大寺駅から押熊行きのバスに乗る。
 このバスは前回の中山八幡神社へ下車の平城中山北口を通り、押熊を終点とするバスである。

 押熊バス停から西方向へ住宅街の中を歩くと小高い丘の手前に鳥居が見えてくる。
 そして参道の右手の丘にも鳥居が建っている。
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 右手は後にして、先ずは神社へと向かう。
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 右には神池、正面の石段を進むと、頂上が変わった形の灯篭、そして正面に拝殿が見えてくる。
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 割拝式拝殿の両側には一対の狛犬が祀られている。
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 拝殿を潜ると、鳥居である。
 そして、その先は本殿の瑞垣である。
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 瑞垣の手前にも一対の狛犬が祀られている。
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 正面は本殿である。
 本殿の祭神は、誉田和気命(応神天皇)である。
 そして本殿の左側に三社の境内社が祀られている。
 市杵島姫神社、木花開耶姫神社、鹿島神社とのことである。
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 本拝殿エリアの右手に八大龍王神社が祀られている。
 この神社への八幡神は江戸元禄の頃に南の中山八幡宮より勧請されたとのことで、それまでは龍王神が祭神の神社だったとのことである。
 右手の灯篭には、元禄の刻みがある。
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 参道の左手には赤い鳥居があった。
 鳥居を潜ると、2つの社殿が祀られている。
 左手は新防火大明神である。
 そして右手は、内部に2社がある。
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 内部の2社の左手は松永大明神、右手は秋葉大明神である。
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 これら稲荷神社群の左手横には神仏混交時の神社の石碑が建っている。
 福成寺である。
 発掘により発見された地蔵尊と供養塔の一部が祀られている。
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 そして道にはには、押熊町郷土資料館も建てられている。
 また境内右手には、こうずいさん(雷鳴神社)が祀られている。
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 このこうずいさんの前を通って行くと、最初に見た右手の鳥居へと行くことができる。
 この鳥居は忍熊皇子の墓があったと云われる旧蹟地で忍熊皇子社である。
 香坂皇子も合わせ祀られている。
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『奈良市・中山八幡神社』

 
 奈良市の北西部、近鉄大和西大寺駅からバス便で秋篠寺を経由し、秋篠川を渡った北側の中山町に八幡宮が鎮座する。
 その神社「中山八幡神社」へは、バス停「平城中山北口」で下車、少し南へと戻り、住宅街の中を西へと進む。
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 途中、左手に浄土宗の光明寺、そして右手に高野山真言宗の札所の安楽寺がある。
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 そして安楽寺の前には神社が鎮座する。
 訪れてみると、市杵島比売命を祭神とする大辯財天社である。
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 そしてその先道路を少し下っての右手に目的の中山八幡神社の門前の鳥居がある。
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 石段を上って行くと先ずは舞殿がある。
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 その先は、石段があり拝殿である。
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 拝殿の手前の両脇には一対の狛犬が祀られている。。
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 拝殿は割拝式であるので潜り、更に石段の上の本殿へと参拝する。
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 先ずは中央の本殿である。
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 祭神はもちろんのこと八幡大神の応神天皇である。

 本殿の左手は春日神社で天児屋根命、右手は大津社で天照皇大神を祀っている。
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 その他境内社は、拝殿への登り口左に祀られている大物主命を祭神とする金毘羅社がある。
 また背後の社叢も広がっている。
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明智光秀の足音Ⅶ(最終回)・細川ガラシャ


 光秀に明智玉(珠)という三女がいた。
 後に細川忠興の妻となり、そしてキリスト教の洗礼を受けて「細川ガラシャ」となる女性である。

 そのガラシャの足音も聞いてみる。

 ガラシャは、光秀がまだ北陸・福井にいる時に、生まれた娘である。
 光秀が信長に仕えて以降、15歳の時に信長の主命婚にて細川藤孝(幽斎)の子である細川忠興と結婚し、京都長岡の勝龍寺城を居として、2年間を過ごした。
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 城内の庭園には、細川夫婦の仲睦まじい像も建てられている。
 そして、「ガラシャおもかげの水」や枝垂桜も見事である。
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 また主郭の北側には、隅櫓は模擬ではあるが、堀は当時の姿であると云われている。
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 この勝龍寺城で2年間を過ごした後、本能寺事件の2年前に、忠興が丹後国12万石を与えられたことから八幡山城を経由して、丹後宮津城へ移ったとされている。
 宮津城の面影は殆どない。
 唯一、宮津小学校の正門が城門の遺構であるとのことである。
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 そして本能寺事件が起こった。
 事件後、ガラシャは主犯の子ということで、丹後半島の味土野に幽閉されたとされる。

 その後の秀吉のとりなしで幽閉は解除となり、ガラシャは大阪城南にある細川屋敷へと移ったとされる。
 細川忠興は越中守の呼称があり、現在も跡地は越中公園、越中井、そしてカトリック玉造教会などとなっている。
 越中井の標柱にはガラシャの辞世が刻まれている。
 「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
 である。
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 ガラシャは細川屋敷へ戻った時から監視が付けられていて、外出もままならなかったようである。
 しかし、抜け出してはカトリック教会へと出向いたと云われる。
 そして屋敷内において密かに洗礼を受けた。
 それが洗礼名ガラシャである。ラテン語で意味は恩恵である。
 現在も越中井の隣にカトリック玉造教会がその教会であろう。
 教会の正面には、ガラシャの像、そして高山右近の像も建てられている。
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 関ケ原の戦いを迎えることになる。
 石田三成は、秀吉の時の大名を西軍に組させようと大名の妻たちを人質に取り始めた。
 ガラシャも人質にされようとしたが、断固として拒否したガラシャ、細川屋敷が包囲され、家臣の介錯にて若い命を絶ってしまったとされている。
 そのガラシャの墓は、大阪市淀川区の阪急沿線の崇禅寺に祀られている。
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 ガラシャが忠興と過ごした宮津城の大手川を挟んだ向かいにカトリック宮津教会がある。
 明治時代に造られたものであるが、ガラシャを偲んで建てられたと云われる。
 教会正面には和服姿のガラシャが凛として立っているのが印象的である。
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 ガラシャ、淀君、そして日野富子、戦国の男性社会において、自らの意思を貫き通した女性3傑であると思われる。

 光秀の足音はここで終了させていただく。
 数年前に光秀に関する短編を纏めたことがある。
 拙作の宣伝で申し訳ないが、URLを記載させていただく。
 
 【前編】https://fujishirorei.com/2018/07/27/第%ef%bc%98話%e3%80%80明智光秀の前半生/ 

 【後編】https://fujishirorei.com/2019/09/07/明智光秀の後半生/   
                    
                      <完>

明智光秀の足音Ⅵ・墓所と祭祀


 山崎合戦の後、明智光秀はどうなったのであろうか?
 諸説が存在する。

 ①京都から坂本への壊走の途中に山科の小栗栖の竹藪で農民に襲われ、命を落としたという説
 ②京都の嵐山南部の尼寺に隠れ住み、ほとぼりが醒めてから僧侶として行動したという説
 ③岐阜まで逃げ延びて、関ケ原合戦の直前までは生きていたという説

 先ずは①の小栗栖の竹藪説である

 その竹藪から北方向の山科区勧修寺御所内町の一角に光秀の胴塚なるものが祀られている。
 胴の部分を埋めたとのことである。
 最寄は京都市地下鉄東西線の「小野駅」である。
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 小野駅から西進して、山科川沿いに南下すると、その場所へと至る。
 そして南の醍醐駅に至る橋上から胴塚の辺りを振り返ってみる。
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 前述したように大津の坂本の街の西教寺にも明智光秀一族の墓所がある。
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 京都市内の街中の三条東山の白川沿いにも光秀の墓所がある。
 地下鉄の「東山駅」が最寄である。
 三条通から白川の東側に沿って少し南へ行き、路地へ入る。
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 そこには光秀の首塚が祀られている。
 光秀の付き人が首を抱えて粟田口に葬られ、後にこの場所へ埋葬したと云われている。
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 首塚と云えば亀岡市の谷性寺(こくしょうじ)にも祀られている。
 谷性寺は大覚寺の末寺で、光秀はこの寺の不動明王をこよなく愛したと云われている。
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 「ききょう寺」とも云われ、参道や境内にはシーズンともなれば、桔梗一色になる寺でもある。
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 実は、今から10年ほど前、この寺を訪問したことがある。
 その時に、応対してくれた寺の方から「光秀公を大河ドラマに、という署名をやっている。協力してくれないか」と云われたことがある。
 10年近く経って、それが実現でき、「麒麟がくる」になるのは、何とも喜ばしいことではある。

 次は福知山である。

 福知山駅の北方向に「御霊神社」が祀られている。
 もとは別々の神社と寺院であったとのことであるが、福知山藩主の朽木氏の手によって、18世紀の初めに再編され創建されたものである。
 祭神は、宇賀御霊大神並びに明智光秀命である。
 そして神紋は明智家の桔梗紋である。
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 そのほかにも、宮津市の盛林寺には首塚が、また岐阜県山県市には光秀の墓所「桔梗塚」があるとのことであるが、残念ながら訪問していない。

明智光秀の足音Ⅴ・山崎の合戦

 織田信長が襲撃された本能寺事件の約10日後、山城国と摂津国の境目の山崎にて合戦が行われた。
 明智光秀軍と羽柴秀吉軍である。

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                (上図の上は東方向)

 戦地の西の山は天王山と云う。
 現在は名神高速道路がトンネルで突き抜けている所である。
 その高速道路の両側に、小泉川を挟んで両軍が対峙している。

 その天王山の中腹に旗立て松という所がある。
 秀吉軍が軍旗を掲げたところであり、合戦の碑が建てられている。
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 合戦が行われたのは事実であろう。
 しかし、なぜこの場所で行われたのかは不明である。

 この合戦の構図は、京都に攻め上ってくる賊軍を、その手前で阻止して京都を護るといういう構図である。
 京都には武士の本拠地も城も何もない。
 あるのは唯一、朝廷・禁裏や公家である。

 このことから説として、朝廷・禁裏あたりから安土にいる光秀に対して、京都を護れという命令が発せられた結果であろうと、推察される。
 光秀が本気で合戦を考えたのなら、このような不利な野戦はしない筈ではある。
 本陣を亀山城、あるいは安土城として戦を展開するのが普通である。
 本能寺事件に対して後ろめたい朝廷・禁裏が襲われるとの考えから、このようになってしまったのであろうか?

 それでも合戦は行われた。
 光秀軍1万と云われ、光秀の娘ガラシャが嫁いでいる細川の城勝龍寺城を本陣に軍を展開し、天王山と対峙した。
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 秀吉軍は2万とも3万とも云われ、おまけに山を背景としている。
 決着は、セオリー通りとなった。

 光秀軍の主たる将は敗れてゆく。
 当の光秀は壊走した。
 亀山城や坂本城へは敵が追ってくると考え、懇意にしている大覚寺までは逃げた。
 
 そこで法主から、大覚寺も危ない故、南の尼寺へ逃げろと案内された。
 桂川を渡った山中にある「蔵泉寺」である。
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 光秀はこの寺で隠れた生活を送ることなったのである。(蔵泉寺にて、庵主様から取材済)
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 その後の光秀はどうなったのであろうか?
 以降は小説の世界へと入って行く。

 戦いに敗れた光秀の壊走については、主流の説がある。
 坂本城へ向かおうと山科を通って逃げる途中で、農民に覆われ命を奪われたという。
 山科小栗栖の竹やぶの中で、その地点を明智藪と云う。
 このようなところで光秀が、という疑問は残る。
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 藪を登って行くと、本経寺という寺院がある。
 また寺院から東南方向の景色が開けている。
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 さて秀吉であるが、いきなり京都には入らない。
 天王山山頂に城を築き、朝廷・禁裏からの指示待ちを演出したのであった。
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明智光秀の足音Ⅳ・本能寺事件


 その後、武田信玄が亡くなり、そして上杉謙信が亡くなり、信長包囲網も瓦解したことで、信長の大敵はいなくなった。
 このころから信長は、「朝廷の力も必要無し、神も仏も要らず」と、自らがすべての支配者となるべく、官位従右大臣も放棄し神格化し始めた。

 そして、1581年、京都御所で軍事パレード「馬揃え」が開催された。
 覇王信長の威力を皇族・公家に見せつけたのである。
 その実行部隊の長として光秀がいた。

 光秀はようようここまで来たとして、感慨深い思いをしていたのであった。
 しかし、無視された朝廷側、これを良しとは一切しない。
 信長を亡きものすべく、この日を境に動いて行くのであった。
 そして、信長の古くからの重臣達も光秀の頭越しの栄達に嫉妬し、何時かは亡き者にと、決意したのであった。

 信長と光秀、静かに危機が訪れていた。
 そして、次の年の本能寺事件へと向かうのであった。

 信長が中国攻めのテコ入れに中国へ出発しようと、京都の本能寺に途中滞留した。
 その頃、光秀は京都と亀山の間にある標高900m以上の愛宕山山頂の神社にての連歌の会に参加していたと云われる。
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          愛宕山(京都側)   愛宕山(亀山側)
 
 連歌の会が終了し、光秀主従は山を下り、亀山城へと入った。
 ここまでは、誰も疑うことがない。

 しかしこの後の光秀の行動について、大きく分けて2つの説がある。
 一つは、軍を整え、自らの意思で本能寺へ向かったとの説、もう一つは、「信長襲る」という知らせを受け、本能寺へ向かったという説である。
 どちらにしても、光秀は京都警護の役回りなので、本能寺には行ったことは間違いがないようである。

 本能寺は現在の場所ではない。
 現在の二条城の東南側の蛸薬師通りと小川通りの交差点には石柱、その南の油小路に面して石盤が建てられている。
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 そして現在の本能寺である。
 場所は、ずっと東へと行った、御池通と寺町通りの交差点の南側である。
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 信長の廟が設けられ、菩提が弔われている。
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 本能寺にて信長が襲われ自害した時にいち早く駆け付けた人物がいる。
 子供のころから兄弟同様に育った阿弥陀寺の清玉上人である。
 信長や家臣の亡骸を寺へと運び、弔ったとされている。

 その阿弥陀寺も現在は寺町通りに移設されている。
 信長・信忠親子の墓、そして森蘭丸や力丸・坊丸兄弟の墓も護られている。
 光秀は、本能寺から阿弥陀寺へと駆け付けたと云われる。
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 光秀の心配事は、主が不在となった安土城である。
 襲撃され、本拠を乗っ取られる可能性がある。
 京都警護の部隊を残し、兵と共に安土城へ急行したのであった。
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 そして、多くの武将が各地へ散らばり戦いをしている今、安土城を明智の部隊で固めた光秀であった。

 情報は次々と入ってくる。
 その中に、「信長を殺めたのは光秀である」というのもあった。

明智光秀の足音Ⅲ・福知山城


 丹波亀山城を居城とし、丹波の攻略に力を注いだ結果、約1年後に福知山を平定し、信長から丹波国29万石が与えられ、福知山城を築城した。
 丹波国の平定には、信長の意向で光秀の娘の玉(ガラシャ)を丹後国12万石の細川忠興に輿入れし、両者の協力関係があったことも大きいとされている。

 そして光秀は、福知山城の縄張りと、合わせて福知山の城下も整備したとされている。

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 福知山の城下へはJR山陰線の福知山駅が最寄である。
 駅の南口には昭和期前半に活躍したSL「C11」が転車台に乗せられて静展示されている。
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 駅の北口のロータリー右手は、明智家の家紋の桔梗に由来する「ききょう通り」という名付けの商店街である。
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 駅前から東へ向かう広い通りは「お城通り」という。
 これを進むと、市役所の向こうに城の天守が見えてくる。
 福知山城である。
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 入城は東側の公園からである。
 法川に架かる昇龍橋を渡り、登ってゆくと本丸である。
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 天守を間近に見ることができる。
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 そして小天守、移築された銅門(あかがねもん)番所である。
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 また、この城の石垣には転用石が数多く使用されている。
 転用石は、石材を十分に揃えられなかったということもあろうが、墓石や石仏には領民の思念や信仰の力が籠もっていることから、領主と一体となったことを誇示するものでとの考えもある。
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 また、城の石垣に沿って美術館「福知山市佐藤太清記念美術館」が設けられている。
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 城内は終了して、場外へと出る。
 
 福知山城の城門が市内の寺院へと移築されている。
 明覚寺、法鷲寺、正眼寺の寺門へとである。
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 福知山の城下には河川「円山川」が流れている。
 よく氾濫する川である。
 この氾濫を防止し、城下を洪水から守るために光秀は川の土手に明智藪を造ったことも賢政の一つである。
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 市中には商店街がある。
 そのアーケードにはNHK大河「麒麟がきた」の歓迎幟が繋がれている。
 福知山では、明智光秀が街造りの功労者として高く評価されていることが分かる風景である。
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明智光秀の足音Ⅱ・丹波亀山城


 近江国坂本城を居城とした光秀は、城の整備とその城下町である坂本の門前町の再興を図った。
 しかし、それらのことに専念できるわけではない。

 信長から次々と参戦への指示が舞い込む。
 越前朝倉との一乗谷の戦い、丹波国平定の指示等々である。

 中でも、謀反を興し信貴山城へ閉じ籠った松永弾正を殲滅する戦いでは織田軍が総力を挙げて取り組んだ。
 信貴山には朝護孫子寺がある。
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 そして信貴山頂を中心に城郭が築かれていた。
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 織田軍は攻めに攻めて、弾正親子を自害に追い込んだとされている。
 一説には、弾正は平蜘蛛の茶釜を被って爆死したとも云われている。

 越前・若狭、そして大和を平定した信長は光秀に本格的に丹波平定に専念すべしと、その拠点として京都から丹波国への入りである現在の亀岡に城を築くように指示した。丹波亀山城である。

 その亀山城跡を訪れてみる。
 最寄り駅はJR山陰線の亀岡駅である。
 駅の北口には「サンガスタジアム by Kyoucera」、正式名称は「京都府立京都スタジアム」が完成間近である。
 また駅の付近から、京都との境にある愛宕山が確認できる。
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 亀山城跡へは駅の南側へと広い通りを進む。
 突き当りは南郷公園と云い、そこには明智光秀公の像が建てられている。
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 その近くには、「明智光秀公築城亀山城趾」の石碑も建ち、南郷池という堀が広がり、その向こうの林の中は城郭の跡である。
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 城跡へは堀を回り込む。
 城跡は宗教団体OM教の資産で教団本部である。
 その入り口から入城する。
 正面、突き当りに見取り図が掲げられている。
 それによると、左半分は教団の建物、右半分は城跡の本丸・天守の跡で、宗教的な拝殿や本殿のようである。
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 右手へと進む。
 手前一帯(東の部分)は、木々に分割されているが、かなり広い広場である。
 亀山城の当時は、明智平と云われたようで、人馬の集合場所であったとの説もある。
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 西へと進む。
 大きな参拝所のような建物がある。
 その裏手が天守があった所で、石垣が一層高い。
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 周辺を回ってみるも、天守跡は残念ながら禁足地である。
 しかし、天守台であることは間違いがない。
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 石垣を眺めたので、この場所を離れ、周辺を探索してみる。

 城跡の南側に形原神社という神社が鎮座している。
 その神社の鳥居は「大手門跡「」とのことである。
 また神社鳥居の左手の通路には「御館跡」の立て札がある。
 城内の本丸が狭かったのでこの辺りに藩主の居館があったとのことである。
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 神社の拝殿、中門、本殿は以下である。
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 亀岡駅から北へ2つ目の駅に「千代川」がある。
 その駅の西に千代川小学校があるが、その校門が亀山城の三ノ丸新御殿門が移築されたものである。
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 更に移築された城門がある。
 それは京都の大覚寺の明智門である。
 後日に述べることになるが、光秀と大覚寺は近しい関係にあったことによるものである。
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 また明智門を潜ったところに、武家屋敷風の建築物がある。
 明智陣屋と云われ、これも移築されたものとされている。
 そして、大覚寺から西に見える愛宕山の風景は下記である。
 この山の向こうに亀山城があったのである。
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 以下は参考である。
 亀山、亀岡とややこしいが、明治になるまでは全て亀山という地名であった。
 明治になって、三重県の亀山市と地名が被るため、山を岡に変え、亀岡としたとのことである。

明智光秀の足音Ⅰ・近江坂本


 謹賀新年!
 
 今年2020年のNHKの大河は明智光秀を主人公とした「麒麟がくる」が放送される予定である。
 明智光秀と云えば、織田信長が襲われた「本能寺事件」の重要人物として、小説やドラマなどに描かれている。
 その真実はどうであったのだろうか? 確たる証拠がないままに論議は過ぎて行ってしまっている。
 しかし、時代の主人公は信長から秀吉へと確実に受け継がれたことは事実である。

 このシリーズでは、あっちこちのPHOTOミニ旅の中から、光秀に関係するものを探し出して掲載してみる。
 
 明智光秀の前半生は恵まれたものでは無かった。
 光秀は岐阜明智郷の生まれで、幼くして土岐家家来の明智家の当主となった。
 そして30歳になる前に、明智城は斎藤義龍に攻められ落城、明智家は離散し、光秀も流浪の旅を余儀なくされたのであった。
 
 越前の朝倉家に居候している時に、後の室町将軍・足利義昭と知り合い、幕臣となった。
 そして義昭と共に信長の下へと向かい、信長の家臣ともなり、武人としての活躍が始まるのであった。
 この時、光秀の年齢は40歳であったとされている。

 信長は、近江の北の脅威である浅井・朝倉軍と現長浜市の姉川で戦うことになる(姉川の戦い)。
 光秀は信長の参謀として参戦する。
 そして光秀の作戦提案が功を奏し、その後、光秀は京都警備を任されることになった。
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 そして、比叡山の焼き討ち事件が起こる。
 比叡山や麓の門前町坂本は致命的な打撃を受けるが、その事後処理を任されたのが光秀である。
 織田家としては初めての事例であるが、光秀に5万石の知行地が与えられ、坂本城を築城し、居城としたのであった。
 
 先ずは比叡山の焼き討ちである。
 信長軍は、比叡山の四方から山へと登る。
 それは僧侶などに逃げ道を作らないという考えであった。

 光秀は、京都警備なので、京都側から登った。
 比叡山の伽藍の西側の離れたところに瑠璃堂という3間四方のお堂がある。
 光秀はこのお堂を中心に布陣した。
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 延暦寺が次々に焼かれていくので、僧侶らが逃げてくる。
 光秀軍は、知らんふりをして逃がしたそうである。
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 余談であるが、秀吉は北の横川中堂辺りから攻め上った。 
 逃げてくる僧侶に対しては、金品を提供した者のみを逃がしたそうである。
 人格の違いがよくわかる所作である。

 比叡山の焼き討ちは終わった。
 陣を引き上げる際に、光秀は瑠璃堂を焼かなかった、というか焼くことに興味がなかったのであろう。
 この瑠璃堂、この焼き討ちで唯一焼けなかったお堂として知られている。

 さて、光秀の戦後処理が始まる。
 門前町の復興と坂本城の築城である。

 坂本城は、琵琶湖の沿岸に築かれた。
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 連結式天守を有する本丸、二ノ丸、三ノ丸と内陸へ広がっている城である。
 石垣などの若干の遺構もあるが、城跡の公園が本丸の南に設けられている。

 坂本城跡公園へは、JR湖西線比叡山坂本駅が最寄である。
 駅から20分程度で、公園へと到着する。
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 公園内には上掲の説明板や光秀公の像がある。
 また歌手鳥羽一郎唄の「光秀の意地」という歌詞が掲げられている。
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 公園の周りである。
 琵琶湖対岸には近江富士が、またこちら側には日吉大社の鳥居が、そして背後には比叡山を望むことができる。
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 城跡を少し訪ねてみる。
 先ずは本丸跡の石板、二ノ丸跡である。
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 そして本丸・二ノ丸の境目には「明智塚」がある。
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 更に、城門が移築されている。

 北に向に向かうと聖衆来迎寺という寺院の表門がそれである。
 重要文化財である。
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 もう一つ、明智家の菩提寺「西教寺」の総門である。
 尚、本堂は重要文化財である。
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 西教寺には明智一族の墓所もある。
 また、坂本城で亡くなった光秀の妻の熈子(ひろこ)夫人も供養されている。
 光秀の辞世も掲げられている。
 更に、芭蕉の句碑、「月さびよ 明智が妻の 咄せむ  芭蕉」もある。
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尚、坂本城は、1586年に廃城となり、大津城が築城されたのであった。

プロフィール

藤白 怜

Author:藤白 怜
気まぐれに各地の城跡、神社仏閣、路端や公園の草花、街角の風景などあっちこち出掛けては写真を撮ったり、その土地の歴史遺産を訪ねたりしています。
よろしかったら覗いてみて下さい。
よろしくお願いします。
最近、小品集を別ページにてアップしました。
右側リンクの「悠々紀行あっちこち」です。
併せてよろしくお願いします。

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