備後国、広島県三原市にある三原城趾である。
三原城は戦国時代、毛利元就の三男隆景が小早川家の養子となり、竹原、沼田の小早川家を掌握し小早川家の当主となった時、三原の沼田(ぬた)川上流の高山城・新高山城から、海に面した河口の場所に新居城を築城したものである。
養子の小早川秀秋が越前に移封された後は隆景の隠居城とされ、城は更に整備されたと云われる。
関ヶ原の後、三原城主は広島城主福島正則の係累が入ったが失脚し、その後同じく広島城主となった浅野氏の一族で家老の浅野忠長が入り、広島藩の支城として幕末まで続いた。
三原城は明治になって廃城となり、その本丸跡に三原駅が建設された。
そのため、駅及びその周辺が城跡の主要部になっている。
余談であるが、城跡を駅とした例は他にもある。
三原の東の福山城であるが、ここの駅は二ノ丸か三ノ丸の跡地である。
もう一つ伊丹市の有岡城がある。
ここも天守に近いところが駅である。
三原城の主な遺構には、表紙の写真の天守台跡、本丸中門跡、船入櫓跡のそれぞれの石垣と濠などで、いずれも駅の周辺にある。
先ずは三原駅で下車する。
駅構内に天守台への階段が設置されている。
天守台には二層程度の櫓があったと云われる。
天守台広場は公園となっている。
天守台からの眺めである。
北には三角形の桜山が聳えている。
この山には、かつて山城があり遺構も見られるとのことである。
西北方向の濠の向こうでは、現在発掘調査も行われている。
南方向は新幹線駅のホームである。
駅から外へ出て遺構を訪ねて見る。
外に出る前に新幹線の高架橋の下に本丸石垣が保存されている。
天守台の濠には石碑もある。
そして表紙の天守台の全容を眺め一周する。
一周したところのバスロータリーの中にある公園には小早川隆景の像も建てられている。
これらはすべて駅の北側である。
今度は駅の南側を見てみる。
本丸中門跡である。
石垣と濠がある。
回り込んだところに「臨海一番櫓跡」の石碑がある。
ここから南は海であったことが伺える。
この場所から一区画南に三原港があるので行ってみる。
フェリーの桟橋、そして港湾ビルの反対側に「やっさ踊り」の像がある。
やっさ踊りとは、小早川隆景が三原城を竣工した時、領民たちがその祝いとして飲めや歌えで気ままに踊り明かしたものが現在も続けられているとのことである。
30万人ほどを集め、中国地方最大の祭りと云われている。
阿波踊り発生のパターンとよく似ている。
今度は東方向である。
船入櫓跡の石垣そして上部の櫓跡である。
北へ進むと和久原川の右岸に川に突出させた石垣群が見られる。
川の流れを制御し、城への浸水を防いだものと云われている。
駅へ戻る。
先ほどは見落としていたが、三原城の城郭模型がある。
真ん中の海と濠に囲まれた部分が本丸および天守台である。
本丸に至る左側の橋のところが中門、右下の突出部が船入櫓である。
三原城は「浮城」とも呼ばれる。
小早川隆景はこの海城で、陸上のみならず瀬戸内の制海権も握っていた。
まさに毛利の最前線にふさわしい城であった云える。
蛇足であるが、三原の街を歩いていても江戸期の殿様浅野氏の面影は一つも見えない。
三原の人たちは小早川隆景を真の殿様として崇敬しているように思われた。