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『紀州九度山真田庵跡』

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 天下分け目の関ヶ原の戦いの時、信州の真田氏は二股を掛けた。
 親昌幸と次男信繁(幸村)は西軍に、長男信幸は東軍へと付いた。
 ご存じのように東軍が勝利し、信幸はそれまでの所領を引き続き与えられた。
 そして上田藩を立藩し、真田氏としては目的を達成した。

 一方敗れた昌幸・信繁の方はと云うと紀州高野山へ蟄居を申し付けられ、高野山の麓九度山の地に真田庵を構え住むことになった。
 高野山への蟄居なのになぜ九度山にという疑問が残るが、それは高野山は寒くて耐えられなかったからとか、妻を連れていたため女人禁制の高野山に入れなかったとかの説がある。

 昌幸はこの蟄居中に亡くなった。
 信繁の方は大坂の陣を迎えた豊臣軍に乞われ、子幸昌を連れて大坂城に入城したのであった。
 しかし信繁らの奮闘も虚しく、豊臣方は敗れ、信繁は討ち取られ、豊臣家も滅亡したのであった。

 その後、江戸時代中期に大安上人が真田庵の跡地に一堂を建立し、後に現在の形の善名称院(ぜんみょうしょういん)となったのである。
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 真田庵は白い塀と2つの寺門、そして長屋門に囲まれている。
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 寺門には六文銭の旗印が彫刻されている。
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 境内には幾つかの堂宇がある。
 真田三代を祀る真田地主大権現、そして昌幸の墓もある。
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 更に境内には信繁が真田庵に落ちた雷を井戸に封じ込め、里の人たちを救ったと云う伝説がある雷封じの井もある。
 また境内から一歩外へ出ると隣には幸村庵という信州そば処もある。
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『重伝建・奈良県五條新町』

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 奈良県五條市の「五條新町」の町並みは、同じ奈良県の今井町や大阪府の富田林と同じように、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
 五條新町は吉野川沿いの紀州街道筋に、江戸初期から五條藩主松倉重政の号令で整備された町並である。
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 江戸初期に建てられた我が国最古の民家と云われている栗山家住宅は重要文化財である。
 その次には、元禄期に建てられた栗山家の通りを挟んだ前にある中邸や少し新しいと思われるが醤油屋、そして表紙写真左側の本家栗山邸が保存されている。
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 五條新町の通りにはその他江戸期以来の多くの建物が見られる。
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 新町の西の方には松倉重政を祀る西方寺、そして松倉公園があり、町をあげて当時の藩主を顕彰している。
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 新町の街道の北側には国道24号線が通っている。
 国道の向こうには江戸末期に建てられた五條代官所の長屋門、こちら側には本場柿の葉寿司の「TNK」の本店がある。
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 五條新町には珍しいものがある。
 鉄道の陸橋である。
 明治末期、五條から紀伊山地を縦断して和歌山の新宮までの鉄道が計画され一部建設されたが、経済状況が追い付かず中断されたままで残っている。
 幻の五新鉄道と云う。
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 鉄道はできなかったが、新宮まで通じる国道168号線を日本一長い路線バスが走っている。

『大和国・五條代官所』

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 大和の五條藩は松倉重政一代で廃藩になった後、幕府直轄領、郡山藩領、再び幕府領となって五條代官所が置かれた。
 表紙は2代目の代官所の長屋門で、初代の代官所はこの史跡公園から一区画ほど東の現在の五條市役所のところにあった。
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 この初代の代官所は、ご存じ明治維新の引き金となった天誅組の襲撃により全焼した。
 史跡公園の入り口には「明治維新 発祥の地」との看板が設けられている。
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 天誅組とは、明治維新の5年前(1863年)、尊王攘夷派の志士たちで構成され、討幕のために大和行幸を計画する孝明天皇の先鋒になろうと先んじて大和に入国し、五條代官鈴木源内を殺害し、代官所を焼き払い、後は天皇の行幸を待つばかりとなった。

 しかしその次の日、京で政変が起こった。
 京都守護職の松平容保以下が、尊王攘夷派の長州志士やそれを手引きする公家三条氏を京から追い出してしまい、それに危機を感じた天皇は行幸を中止するのはもちろんのこと、先発の天誅組を反乱軍として処遇したのであった。

 天誅組は幕府軍に追われることになった。
 吉野山中から大峰山中を逃げたが、最後は東吉野の鷲家口(わしかぐち)でほぼ全滅させられたのであった。
 下図はその逃避行の南半分は省略している。
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 そして2代目代官所は元の地の西に再建され、明治以降は五條県の県庁とし使用された。
 五條県は廃止され裁判所の用地となったが、この長屋門とその周辺は史跡公園として五條市に提供され、今日に至っている。
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 また公園内には記念の石碑、そしてなぜかSLが静態展示されている。
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『大和五條・二見城』

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 奈良県五條市の二見地区の吉野川沿いにある二見城跡である。
 この城は源氏の流れを汲む二見氏が築いた城であったが、南北朝時代に北朝足利軍に滅ぼされ、そのままになっていた。
 その後、関ヶ原の戦いの後、元筒井順慶の家臣で東軍に単身参戦して戦功があった松倉重政が五條藩を立藩し、城主として入城した。
 重政は城の修復を行うとともに、五條の町に商人を呼び込むなどして五條新町という城下町を作り上げた。
 五條新町には松倉公園が設けられ顕彰碑が建てられている。
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 二見城は吉野川が大きく蛇行する内側に建てられていた。
 主郭は現在は妙住寺という寺になっている。
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 寺の境内の裏側は吉野川に面しており、石垣や土塁の雰囲気が味わえる。
 また川畔沿い向こうに五條の町が見える。
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 松倉重政はその後大坂の陣の功で肥前日野江藩に栄転し、初代藩主となった。
 五條藩では善政を敷いた重政であったが、日野江藩では農民を苦しめたりキリシタンを弾圧したりして悪政を敷いた。
 それが島原の乱の主因となったことは良く知られている。
 そしてそれを見かねた幕府は、重政を暗殺したとの説もある。

 五條藩は重政の移封とともに廃藩、幕府直轄領となり、併せて二見城も廃城、街中に代官所が設けられて明治まで続いた。

『岡山・足守の町並み』

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 岡山市北区の足守地区の町並みである。
 江戸時代には足守藩・足守陣屋があり、町中には大山道と云われる街道が通っていた。
 現在も町屋の3分の1にあたる100戸程度が江戸時代からの景観を保っている。
 町並みは岡山県の町並み保存地区の指定を受けてもいる。

 足守へ行くにはJR吉備線の足守駅で下車し、小1時間歩くことになる。
 但しタイミングが良ければバスにありつくこともできる。
 駅の傍に足守川が流れている。
 羽柴秀吉軍が備中高松城を水攻めした時、足守川を決壊させたのはこの辺りであるとの標柱が建っている。
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 長い道を歩いて足守の町にかかると、辻地蔵の祠がある。
 そして道はカーブして少し行くと足守の町並みが直線的に広がる。
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 すぐ右手が藤田邸である。
 中国鉄道を開発した家系である。
 道路を挟んで綺麗な町屋が見られる。
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 藤田邸の左手にある足守プラザで案内図を頂いた。
 左下から右上に斜めに通っているのが町の真ん中の通り大山道である。
 町を出たところで足守川を渡りると、右手には緒方洪庵の生家跡に顕彰碑が建っている。
 地図の上半分が陣屋町である。 
 足守陣屋を奥にして、手前には武家屋敷があったところである。
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 足守の町を歩く。
 2つの寺院がある。乗典寺と東光寺である。
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 すぐ右手に藤田千年治邸がある。
 醤油を製造販売していた江戸時代の町やで内部を見学することができる。
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 引き続き両側の町屋を見ながら歩く。
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 足守川に出る。
 橋を渡り、緒方洪庵の顕彰碑のところに行く。
 緒方洪庵は大坂の地に適塾を開校し、福沢諭吉などを教えたことで良く知られている。
 顕彰碑の傍には座像も建てられていた。
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 ここで足守の町並みは終了である。
 この後は、直交する陣屋町へ武家屋敷や陣屋跡を見に行ったのであった。
 そして帰りの吉備線車窓から、備中高松城址を見たのであった。
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『備中国・足守陣屋跡』

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 岡山市北区足守地区は秀吉の水攻めで知られる備中高松城の北部にある町である。
 町は街道筋と陣屋町に大きく分けることができる。
 陣屋町の奥には関ヶ原の戦で功があった豊臣秀吉の正室おねの兄木下家定が立藩したもので、足守藩2万5千石の陣屋が設けられていた。

 その後、家定の後継争いから木下家は改易となり足守は公儀御料となったが、子の利房の大坂の陣の功が認められ、木下家は足守藩主に復帰し、明治まで続いたのであった。

 現在の足守陣屋跡は緑一色の公園となっている。
 前方には水路があり、雰囲気を醸し出している。
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 陣屋跡の北隣には明治時代の詩人木下利玄(としはる)の生家が保存されている。
 佐々木信綱に学び、武者小路実篤や志賀直哉らとともに白樺派の中心作家であった。
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 その隣には「近水園(おみずえん)」という藩主庭園がある。
 池泉回遊式の庭園で、中央の数寄屋造りの吟風閣は京都の仙洞御所建築の残材を用いたものとされている。
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 陣屋から街道に至る通りを陣屋町という。
 小学校の校庭の隅に北木下家長屋門がある。
 この門から奥まったところに土塀で囲まれた民家がある。
 武家屋敷の一つであったものであろう。
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 通りには侍屋敷として見学できるものがある。
 家老杉原家の居宅で、内部は武家書院造りとなっている。
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 陣屋町から街道筋に出たところにお休み処がある。
 「おね」という屋号であった。
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『備中国・庭瀬往来』

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 江戸時代の岡山城下から領国内の備前備中の各地に向けて6つの官道が整備されていた。
 鴨方往来、倉敷往来、金毘羅往来、松山往来、津山往来、牛窓往来である。.
 このうち最初の3つは庭瀬(にわせ)の街中を抜けるまでは共通で、庭瀬往来と呼ばれていて、現在もその姿を留めている。
 現在の住所地は岡山市北区庭瀬で、上掲の写真の右下隅にはJR山陽本線の庭瀬駅がある。

 庭瀬往来は駅前を北へ進み、西へ入りそして北へ向かう。
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 通りの風景や町屋には時代を感じる趣がある。
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 北上し常夜灯のところで西へ折れて進むと閂付の木門跡に至る。
 夜間や緊急時に閉鎖し、町を護るような仕組みになっていたようである。
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 木門跡を通過し、通りを外れ南へ行くと庭瀬港跡がある。
 新たに造られものであろう常夜灯、橋の下には当時を偲ぶ舟、そして移設されたものであろう道標が置かれている。
 道標は往来がここから分岐していたことを示している。
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 元の庭瀬往来に戻る。
 商家町屋がある。
 これらの風景は当時を十分に偲ばせてくれる。
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 このまま西へ行くと、道は広くなる。
 幾つかの大きな寺院の前を通り過ぎ庭瀬の街を出て、秀吉の高松城水攻めで知られる足守川畔へと出る。
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 Uターンをして往来の南にある日蓮宗の不変院を訪ねて見る。
 不変院は戸川氏が庭瀬藩に入封したとき、菩提寺として庇護し、改修を進めた寺である。
 境内には戸川氏の累代の墓も建てられている。
 また境内には、八幡大菩薩も祀られていて、神仏習合の寺でもある。
 そしてこの寺、広い水路に囲まれていて、水城ならぬ水寺である。
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 そしてこの寺から西には板倉氏の庭瀬城跡、戸川氏の撫川(なつかわ)城跡が水路に囲まれてある。
 引き続いて、これらの城を訪れたのであった。
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『備中国・撫川城跡』

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 岡山市北区、庭瀬城址に隣接している撫川城跡である。
 庭瀬藩主を務めていた戸川氏主家が安風が早世したため断絶した。
 その後に板倉氏が藩主となったが、幕府は安風の弟である達富に戸川の名跡を継がせ、1千石から5千石に加増し、撫川の地を知行として、かつ旗本として重用した。
 そして庭瀬城を分割し、撫川に近い西の部分の場所を与え、撫川城(陣屋)を整備させたのであった。
 その時まで大いに功績のあった地元の戸川氏を重用し、幕府と領民との融和策を狙う心憎い所作であったのである。

 撫川城は表紙の写真のように濠に囲まれている。
 入城する場所は南の門からである。
 この門は戸川氏の知行所の総門を明治になって移築したものである。
 その先に三神社が祀られている。
 城内は綺麗に整備されている。
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 城内には、矢竹がしっかり植えられている。
 また栗の実も成長している。
 そして石垣もしっかりと結ばれている。
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 濠の外から石垣を詳細に眺めてみる。
 石垣の北西の隅は一段と高くなっている。
 かつては物見の櫓か天守があったものかと思われる。
 北へ回ると太鼓橋と呼ばれる石橋がある。
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 この石橋は、城内と庭瀬往来が織りなす民の町並と繋がっている。

 板倉氏の庭瀬城と戸川氏の撫川城、隣り合わせでそのままの状態で明治まで続いたのは、彼らのダブル統治が民から受け入れられた証しであろうと思われる。

『備中国・庭瀬城跡』

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 岡山市北区のJR山陽本線庭瀬駅近くにある庭瀬城跡である。
 戦国時代に三村元親が備前の宇喜多氏の侵攻を防御するために造った城である。

 羽柴秀吉の備中高松城水攻めの際に、毛利方の国境防備の境目七城のひとつとして機能した。
 時の城主井上有景が800人で守ったが滅ぼされそのままとなっていた。

 城は宇喜多のものとなり、家老の戸川が城主となり庭瀬藩を立藩した。
 その後戸川氏嫡流が断絶したため倉敷代官所の管理となったが、元禄時代になって板倉氏が藩主として入城して明治まで続いたと云う歴史を持つ。

 庭瀬一帯は足守川がカーブする左岸の懐に形成された低湿地である。
 水路を整備して町を整えたと云われる。
 城の大手門付近は庭瀬港となり、陸路水路が交差し、物資集散の要衝として栄えたところである。
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 表紙の写真は城跡であるが、さながら水に浮かぶ城のようである。
 濠には大賀蓮が保存生育されている。
 城跡は公園となっていて、石碑とともに八幡神社が鎮座する。
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 土橋を渡ると更に広い場所がある。
 石碑とともに板倉氏の祖を祀る清山神社が鎮座する。
 この神社の本殿は白い漆喰で塗装された珍しいものである。
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 尚、撫川領を治めるために庭瀬城の本丸二ノ丸跡地に撫川(なつかわ)城(陣屋)が造られ、明治になるまで戸川氏が治めた。
 庭瀬城、撫川城が並存することになったのである。

『河内国・野田城址』

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 かつては河内国であった大阪府堺市の南海電車北野田駅を含む野田城址である。
 駅南部の南野田すかしゆり公園の中に石碑と説明板が新しく建てられている。
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 野田城は南朝楠木正成に与する地元の領主野田氏の城であった。
 鎌倉末期、天皇の新政を拒否する鎌倉幕府北条軍が後醍醐天皇や楠木一統を滅ぼそうと河内の国へ攻めた。

 野田城では白い紙など大量に用い大規模城に見えるように装飾し、城方や住民は近くの山に隠れたと云われる。
 幕府軍は千早に籠る楠木軍を攻める前哨戦として、野田城の攻略作戦を練ったが、いざ攻めてみるともぬけの殻であった。
 ここで手間取っている間に千早では防備を固め、幕府軍が千早城を攻めあぐねることになった。
 その間に鎌倉本国では新田義貞が、手薄になった幕府を滅ぼしたと云われている。

 建武の新政が始まったが、武士を軽んずる後醍醐天皇についていけない足利高氏が離反し、別に天皇をたて、南北朝の時代が始まった。
 野田氏も楠木氏の下で足利軍と戦ったが、最後に楠木正行が敗れ、南朝方は全滅した。
 その後、この野田城も攻められ、女子供を含み殲滅されたという歴史を持つ。
 
 城跡の東側には西除川が流れている。
 天然の要害である。
 現在は橋が架かっていて川向うと行き来することができる。
 川の畔の大楠木の根元には小さな祠が祀られている。
 この祠から上の台地のような住宅街に上っていくが、この台地上が主郭であったと思われる。
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 西除川の向こうには大悲寺という寺がある。
 もともと狭山にあった大悲庵という寺であったが、その寺の墳丘から多くの人骨が発見された。
 野田城落城の犠牲者と考えられ、この地に祀られたものである。
 境内には牛頭神社もある。
 またその隣には西寶寺という本願寺派の寺もある。
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 城跡の現在は、北野田駅舎と線路、高層マンション、住宅団地、それに商店街となっていて当時を語る遺構は何も発見されなかった。
 あるとすれば川の流れくらいであろうか?
 城跡を川向うから眺めてみる。
 そして北野田駅の連絡橋から眺めた城跡である。
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『泉州・貝塚寺内町』

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 大阪府貝塚市の南海電車貝塚駅北方向に「貝塚寺内町」がある。
 紀州街道沿いのこの地に室町時代末期に町ができてきていた。

 戦国時代になって、中心となる町の草庵に、紀州根来寺から卜半斎了珍(ぼくはんさいりょうちん)を迎え、一向宗の町づくりが始められた。
 その後、石山本願寺から寺内町として取り立てられ、支城として信長と戦った。
 寺や町は焼かれたが、その後再建が始まり、秀吉に与するところとなり、紀州鷺ノ森から本願寺法主顕如上人を迎えた。
 町は寺の領地となり、独立自治の寺内町として江戸時代になって益々栄えて行ったのであった。

 本願寺の寺院は願泉寺という。
 表門、本堂、太鼓楼は重要文化財である。
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 寺内町の東端には神社が鎮座する。
 寺内町の産土神である「感田神社」いう。
 多くの社殿が登録有形文化財となっている。
 また境内には当時の濠の一部がそのまま残っている。
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 街中を散策してみる。
 先ずは並河家、山田家である。
 並河家は領主卜半の重臣であったと云われる。
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 続いて竹本家、利齋家と西へ進む。
 利齋家の前の坂を下ったところで小学校の校門の横に出る。
 北小学校は願泉寺の境内であった。
 ここに寺内町の政庁である卜半役所が置かれていた町の中心部である。
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 北へ進む。
 岡本家、宇野家がある。
 その先は北境川となっていて、北の端である。
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 紀州街道を挟んで尾食家がある。
 そして紀州街道を挟んで西町、南町と並ぶ。
 竹本家、吉村家がある。
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 そして街区の一画を占める大きな渡海家、更には名加家がある。
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 更に行くと清水川に到達する。
 南の端であり、清水橋地蔵が守られている。
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 貝塚寺内町は泉南地区では最も古い寺内町と云われている。
 主要な道には表紙のカラー舗装と案内板が埋め込まれている。
 江戸時代からの町屋も多くあり、そのうち13棟が登録有形文化財に指定されている。

『播磨国・野口城跡』

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 兵庫県加古川市の東部、野口と云う地区にある野口城跡である。
 野口城は室町時代にこの地の国人長井四郎左衛門尉国秀が築城したと云われる。
 この小さな森には後年に稲荷神社の拝殿と祠が設けられている。
 この森が野口城の主郭の跡と考えられる。
 木々に囲まれ積み上げられた土塁と石垣の残骸などが残っている。
 野口城は周辺が沼などの低湿地で囲まれていて、自然の要害であった。
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 戦国時代、播磨に侵攻する秀吉軍はこの西にあった加古川城で評定を開いた後、叛旗を翻す三木城別所長治攻めの前哨戦として、この城の周囲の沼地を草木や藁で埋め立て攻めた。
 城方の僅かの手兵に加えこの城の隣にある天台宗教信寺の僧兵や城下の農民達が立て籠もり良く耐えたと云われるが、三木城からの援軍もなく、健闘虚しく落城したと云う歴史を持つ。

 この野口城は西国街道に面していた。城の東には近江比叡山日吉(ひえ)神社を勧請した五社宮野口神社が鎮座する。
 御朱印を頂き、城跡の情報を聞いたが、遺構は皆無に近いとのことであった。
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 城跡のすぐ西には西国街道に面して、天台宗比叡山延暦寺の末寺であり、幾つかの塔頭もある教信寺の大伽藍がある。
 この戦国の物騒な時期なので、多くの僧兵を抱えていたのは間違いがないと思われる大寺院である。
 教信上人は、若い時から諸国を行脚し布教活動に勤め、40歳ごろに加古川のこの地に庵を結び、街道を行く人々にも布教を展開したと云われる。
 上人亡きあと、清和天皇がこの地に伽藍を建て、崇徳天皇が念仏山教信寺と寺号を定めたと云われる。

 もちろんのこと、秀吉によって焼かれたが、江戸時代になって惣門、本堂、薬師堂など順次再興されたと云う経緯を持つ。
 しかし阪神淡路大震災にて多くの被害を受けた。
 これも徐々に修復され現在に至っているとのことである。
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 尚境内には教信上人の廟も設けられ祀られている。
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 この野口城は延暦寺の末寺と比叡山日枝神社を勧請した野口神社に挟まれた所にあり、さながらミニ比叡山の感がある。
 この野口城攻めは信長が攻め勝利した比叡山と被り、先ずは景気付けに初戦突破を狙ったものであろうか?

『播磨国・神吉城跡』

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 兵庫県加古川市神吉町神吉にある神吉(かんき)城跡である。
 現在は主郭跡には浄土宗法西山派性山常楽寺と云う寺が建立されている。
 神吉城は播磨の盟主赤松氏の家臣である神吉頼定が城主であり、別所長治の三木城の支城として機能していたが、三木城攻めに呼応して信長の息子の信忠の3万の軍に攻められ、1000の兵で奮闘したが落城したと云われる。
 尚、織田方を先導した播磨の黒田官兵衛の娘が城主頼定の正室でもあった。

 神吉城は加古川評定が行われた加古川城の加古川を挟んで右岸にある城である。
 この城跡を訪れるにはJR山陽本線加古川駅の西隣の宝殿駅が便利である。
 バス便で「神吉」という停留所で降りる。
 バス停から少しの登りになっている。
 工事中の本堂が見える。
 それに向かって進んでゆくと表紙の常楽寺に到達する。
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 寺門の脇には諸説明がある。
 加古川出身の官兵衛の正室「光(てる、みつ)」の幟も上がっている。
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 因みにこの寺門、横のお堂と鐘楼、そして本堂の4つの建物が国の登録有形文化財となっている。
 ただ本堂は修復工事中であったのは残念である。
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 墓地の中心には、当時の城主神吉頼定の立派な墓が祀られている。
 遺構と思われる寺門から伸びる塀の土台の石垣もあるが、寺のご住職に聞いてみると、石垣は改修され、当時とは違うとのことであった。
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 寺の周囲を巡り、遺構を探してみる。
 寺の裏手に大きな複数の邸宅があった。
 表札を眺めてみると、当時の城主と同じ姓である。
 なるほど、以来、係累の方が住んでいるのであろう。
 土塀、石垣…、当時を偲ばせてくれたのであった。
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 余談であるが、この神吉城攻めの時、秀吉は南にある石の宝殿で有名な生石(おうしこ)神社を本陣として借り受けようとした。
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 しかし、この生石神社の神職が神吉頼定の弟であり、即座に断ったそうである。
 そこで神社を神社を焼き、鐘を持ち去ったとされる。
 その鐘は軍鐘として秀吉の家臣千石秀久が使用し、現在は大垣市の寺院に奉納されている。
 その鐘、もうすぐ神社に返還されると、社務所の方が話してくれたのは、印象的であった。

『播磨国・志方城址』

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 兵庫県加古川市志方町にある志方城址の観音寺である。
 志方城は赤松氏の家臣であった国人櫛橋氏が室町時代末期に築いた城である。
 以来4代に渡り櫛橋氏が城主を務めた。

 織田信長、羽柴秀吉の播磨侵攻の時、中国の毛利を頼みに抗戦したが、大軍には抗しきれず落城の憂き目にあった。
 秀吉軍の中にいた黒田官兵衛の正室はこの櫛橋家の姫「光(てる、みつ)」であった。
 官兵衛は落城した城方の者を黒田家の家臣として引き取ったと云われている。

 この観音寺は志方城落城の後、本丸跡に曹洞宗の寺として建立されたものである。
 志方城址観音寺へは、JR宝殿駅からバス便で、城址に近い皿池のところにあるバス停で下車する。
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 東へ行くと観音寺の参道に出る。
 表紙の寺門を潜ると、城の説板などがある。
 残念ながら本堂は修復工事中であり、眺めることはできない。
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 本堂の裏手に回る。
 本丸の跡地であるが、大部分は寺の墓地となっている。
 墓地の奥、中央に五輪の塔の櫛橋家の墓がある。
 その向こうは志方小学校であり、二ノ丸跡と云われている。
 土塁があり、一段低くなっている。
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 寺を出るとその北には小学校の校門がある。
 また寺の少し西には、西ノ丸跡と云われる加古川市立西ノ丸会館がある。
 そして元のバス停には「タマスダレ」がさりげなく咲いていたのであった。
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『和泉国・沢城』

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 大阪府貝塚市の近木川流域の最も海に近いところにあったのが沢城である。
 戦国時代に根来雑賀衆が北側(大坂側)から侵攻してくる侵略軍に対抗し、南和泉や紀州の防衛線の一城としたものである。
 村落と一体化した城であったが、豊臣秀吉軍に攻められ、上流にあった千石堀城の陥落後、貝塚御坊の卜半斎 了珍(ぼくはんさい りょうちん)僧正の仲介で開城したと云う歴史を持つ。

 沢城跡へ行くには、貝塚の街中から旧紀州街道を下り、近木川を永久橋で渡った所が沢の町内である。
 旧街道らしく古い町屋や邸宅が立ち並ぶところである。
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 道は少しの登りとなる。
 城の縄張りはどうであったのかわからないが、街中それも高いところに主郭があったのではないかと付近を探索してみる。
 浄国寺と云う寺院がある。
 境内に表紙の立派なソテツが本堂の両側に並んでいる。
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 浄国寺の横には沢町会館、そして紀州街道との間に薬師堂がある。
 そしてこの辺りは道路が入り組んでいて、長屋門の大邸宅も見られる。
 勝手な推測であるが、この辺りが主郭の位置と想像できる。
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 更に紀州街道を下る。
 虫籠窓の商家らしきがある。
 すぐに二色の浜の交差点に出て、その先南海電車の二色浜駅に至る。
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 踏切を渡って東へ行くと、前回訪ねた窪田城に至ることになる。

『和泉国・窪田城』

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 大阪府貝塚市窪田には根来衆の支城、窪田城があったという記録がある。
 先の畠中城から永寿橋で近木川の左岸(南岸)に渡ると少しの登りになり、高台となっている。
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 まずは高台の入り口付近に窪田町集会所、左手奥に窪田町会館がある。
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 その中心付近には水路があり、表紙の辻地蔵が祀られている。
 この辺りからは北方向の畠中城辺りを見渡すことができる。
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 少し西へ行くと恐らく庄屋であったであろう立派な長屋門を設けた大邸宅とその横に空き地がある。
 城の主郭跡のようであるが、良くはわからない。
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 これらのいずれかが窪田城の主郭であったと考えられるが、特定できる遺構はない。

 窪田城は窪田村落に三面の堀を設け近木川とで取り囲んで城塞化したものである。
 根来衆が100人程度詰めていたと考えられる。
 地形から見て、貝塚平野の物見や諸城との伝令の機能を果たしていたと考えられる。

 窪田城は秀吉軍の侵攻し抗しきれなかった西の沢城や北の畠中城の開城に伴い、開城したものである。

『和泉国・畠中城』

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 和泉の国、貝塚市畠中にある畠中(はたけなか)城跡である。
 この場所は、百済からの渡来人神前連(かむさきのむらじ)が住んでいたところであった。

 戦国時代になって神前要人(宗行)が村落を含めて城塞化し、城主を務めた。
 織田信長の紀州侵略、続いて秀吉の紀州侵略の時、雑賀衆根来衆を味方に引き入れ、近木川を防衛線とする根来6城の一つとなった。
 城を強固なものに修築し良く戦ったが、近木川上流の千石堀城の陥落とともに城を放棄したと云われる。

 江戸時代になって、神前要人の子孫・要源太夫が本丸跡地に表紙の写真の広大な庄屋屋敷を整備した。
 そして要家は岸和田藩より郷士代官かつ七人大庄屋の一人に列せられた。
 その屋敷は現在まで続いている。

 この畠中城の跡地は畠中一丁目にある貝塚市役所の西の府道畠中の交差点から二丁目の街中へ入ったところにある。
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 少し歩くと、かつての本丸跡要家の邸宅に到着する。
 周りは長屋門や長い土塀に囲まれた大きな邸宅である。
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 畠中の街中の少し高いところの邸宅に石垣がしつらえられているが、城の石垣のようにも見える。
 またその先に浄土宗長楽寺という寺がある。
 この寺は要源太夫の一族の堺の豪商帯屋道寿が神前氏や要氏の菩提寺として創建し、本山知恩院より本誉を招いたと云われる。
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 南には近木川が流れている。
 架かっている橋は永寿橋という。
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 橋を渡ると窪田と云う地名で、窪田城があったところである。
 畠中城、窪田城そしてその西の沢城は土居に囲まれた連絡通路があったと云われ、3城で連携機能を果たしていたと云われる。

『この時節の花』

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 暑さ真っ盛りのこの頃、どんな花が咲いているのか、近場を一巡してみた。

 先ずは路端にはオシロイバナ、雑草に混じって力強く咲いている。
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 次は百日紅、まだ若い木であるが、三色揃い踏みで咲いている。
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 定番の向日葵と芙蓉、それにユリの花が殊の外清楚に咲いている。
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 桜の木には、クマゼミが鳴き疲れたのか、静かに止まっている。

『備前国・下津井城跡』

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 旧備前国、現岡山県倉敷市下津井にある下津井城跡である。
 下津井城は下津井の港や街を南に見下ろす89mの背後の城山に築城されていた城で、現在は石垣や掘割などの遺構が残っている。
 城跡は現在「瀬戸大橋架橋記念公園」の一部となって整備・管理されている。
 城跡は、北側に遊園地「鷲羽山ハイランド」、東側南側に「下津井瀬戸大橋」を望む場所でもある。

 この城は戦国時代に備前の領主宇喜多秀家が瀬戸内海の海路を護るために築城したものである。 
 その後岡山藩主となった小早川秀秋の城となったが、最終的には岡山藩主池田氏の城となり城代が置かれ、整備もされた。
 しかしその後徳川幕府の一国一城令により廃城となったものである。

 城跡へ入るにはJR瀬戸大橋線の児島駅から下津井循環バス「とこはい号」に乗る。 
 バスは鷲羽山ハイランドを経由して下津井の街に入る。
 街中を少し行き「城山公園入口」のバス停で下車、山へ向かって自動車道を登ると、公園の入り口がある。
 左手が城跡の森である。
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 途中に掘割らしきものがある。
 案内板は見当たらないが、ここから城跡へ入ってみる。
 登って行くと右側に石垣がある。
 少し年代が違う2種類が見られる。
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 ここは本丸と西ノ丸の掘割である。
 先ずは西ノ丸跡地へ行ってみる。
 戻って本丸への階段を登る。
 登り終えたところの左手は天守台の跡である。
 そう高いものではない。
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 天守台の正面に本丸広場が広がっている。
 表紙の石碑が建っている。
 本丸の南の一段と低いところが二ノ丸である。
 休憩所や案内看板が建てられている。
 案内図によると、下津井城は尾根筋に郭が連続する縄張りとのことである。
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 二ノ丸の東は三ノ丸である。
 三ノ丸の東には掘割がある。
 掘割の東は中之丸である。
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 二ノ丸下には整然とした石垣が残っている。
 この場所からは木立の間に下津井瀬戸大橋が見える。
 児島半島と右手香川県坂出市の櫃石島との間に架けられた1447mの橋である。
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 先ほどの掘割には下山する階段がある。
 これを伝って降り始めたが、途中に掘割の崩れも見られた。
 下まで降り切って港の辺りから城山を眺めて見る。
 城山の向こうに遊園地のタワーが見えろ新旧取り混ぜた景色である。
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『備前国・下津井古城』

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 備前国下津井、現在の岡山県倉敷市下津井には城があった。
 平安時代の源平合戦の頃に築かれ室町の頃改修された下津井古城と、戦国時代に築かれ江戸時代に改修された下津井城である。

 表紙の写真は下津井古城のあった下津井港に隣接した小山を北から眺めたものである。
 現在は長浜宮、祇園宮の2宮を祀る祇園神社が鎮座している。
 この神社に参詣し、古城の城跡を眺めてみることにする。

 神社参道から登って行く。
 鳥居を潜り石段を登りつめると神社の境内に達する。
 境内から下津井瀬戸大橋が良く見える。 
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 先ずは神社にお参りし、二つの本殿を拝見する。
 右は東本殿の長浜宮で、城の守り神で水軍の将に崇敬されたと云われる。
 左は西本殿で、北前交易の守り神で江戸時代に合祀されたものである。
 御朱印を頂き、城跡へと進む。
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 本殿の裏側に少し高い石垣の部分がある。
 石段を登ると少しの広場となっている。
 海を監視する櫓台の跡と思われる。
 下に降りて神社の周りを眺めて見る。
 石垣の遺構が見られる。
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 これ以上は何も発見できないので、城跡を離れ付近を眺めてみる。
 まずは「むかし下津井回船問屋」である。
 内部の生活様式や、遺物が公開されている。
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 下津井には数か所の共同井戸があり、かつてから生活用や下津井港から讃岐金比羅山に出かける人たちに水を提供したと云われている。
 下の津の井戸、これらを合わせて下津井の地名ができたのではないかと思われる。
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『備後国・三原城趾』

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 備後国、広島県三原市にある三原城趾である。
 三原城は戦国時代、毛利元就の三男隆景が小早川家の養子となり、竹原、沼田の小早川家を掌握し小早川家の当主となった時、三原の沼田(ぬた)川上流の高山城・新高山城から、海に面した河口の場所に新居城を築城したものである。
 養子の小早川秀秋が越前に移封された後は隆景の隠居城とされ、城は更に整備されたと云われる。

 関ヶ原の後、三原城主は広島城主福島正則の係累が入ったが失脚し、その後同じく広島城主となった浅野氏の一族で家老の浅野忠長が入り、広島藩の支城として幕末まで続いた。

 三原城は明治になって廃城となり、その本丸跡に三原駅が建設された。
 そのため、駅及びその周辺が城跡の主要部になっている。

 余談であるが、城跡を駅とした例は他にもある。
 三原の東の福山城であるが、ここの駅は二ノ丸か三ノ丸の跡地である。
 もう一つ伊丹市の有岡城がある。
 ここも天守に近いところが駅である。

 三原城の主な遺構には、表紙の写真の天守台跡、本丸中門跡、船入櫓跡のそれぞれの石垣と濠などで、いずれも駅の周辺にある。

 先ずは三原駅で下車する。
 駅構内に天守台への階段が設置されている。
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 天守台には二層程度の櫓があったと云われる。
 天守台広場は公園となっている。
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 天守台からの眺めである。
 北には三角形の桜山が聳えている。
 この山には、かつて山城があり遺構も見られるとのことである。
 西北方向の濠の向こうでは、現在発掘調査も行われている。
 南方向は新幹線駅のホームである。
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 駅から外へ出て遺構を訪ねて見る。
 外に出る前に新幹線の高架橋の下に本丸石垣が保存されている。
 天守台の濠には石碑もある。
 そして表紙の天守台の全容を眺め一周する。
 一周したところのバスロータリーの中にある公園には小早川隆景の像も建てられている。
 これらはすべて駅の北側である。
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 今度は駅の南側を見てみる。
 本丸中門跡である。
 石垣と濠がある。
 回り込んだところに「臨海一番櫓跡」の石碑がある。
 ここから南は海であったことが伺える。
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 この場所から一区画南に三原港があるので行ってみる。
 フェリーの桟橋、そして港湾ビルの反対側に「やっさ踊り」の像がある。
 やっさ踊りとは、小早川隆景が三原城を竣工した時、領民たちがその祝いとして飲めや歌えで気ままに踊り明かしたものが現在も続けられているとのことである。
 30万人ほどを集め、中国地方最大の祭りと云われている。
 阿波踊り発生のパターンとよく似ている。
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 今度は東方向である。
 船入櫓跡の石垣そして上部の櫓跡である。
 北へ進むと和久原川の右岸に川に突出させた石垣群が見られる。
 川の流れを制御し、城への浸水を防いだものと云われている。
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 駅へ戻る。
 先ほどは見落としていたが、三原城の城郭模型がある。
 真ん中の海と濠に囲まれた部分が本丸および天守台である。
 本丸に至る左側の橋のところが中門、右下の突出部が船入櫓である。
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 三原城は「浮城」とも呼ばれる。
 小早川隆景はこの海城で、陸上のみならず瀬戸内の制海権も握っていた。
 まさに毛利の最前線にふさわしい城であった云える。

 蛇足であるが、三原の街を歩いていても江戸期の殿様浅野氏の面影は一つも見えない。
 三原の人たちは小早川隆景を真の殿様として崇敬しているように思われた。

『和泉国・千石堀城』

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 千石堀城は貝塚市名越の近木川の左岸70m程度の三ノ丞山の山頂から山麓まで広く築かれていた紀州根来衆の城である。
 根来衆は紀伊国の根来寺本領を護るため、和泉山脈を北に越えた近木川流域に雑賀衆の城と合わせて幾つかの砦・城を築き、有事の際にはこれを拠点として防衛していた。

 千石堀城の城郭跡地へのアプローチである。
 柵の横をすり抜け堀切の底のようなところを進む。
 通り抜ける手前に山中へ入る道があるが、分かりにくい。
 通り抜けてしまうと池畔に出てしまう。
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 池畔は平坦で幾つかの郭があったような地形である、
 山側は一段高く土塁状に積まれている。
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 山の南裾から一段と高い尾根筋に上る。
 尾根筋は少し広い場所が連続している。
 三ノ丸、二ノ丸とあったのであろう。
 真ん中に道が付いているのでそれを進む。
 石碑の建っている本丸跡へと到達する。
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 石碑は理由がわからないが上部が折れて無くなっている。
 本丸の端の方には、表紙の説明板が建っているが、色褪せて読みずらい。
 その先はズンと落ち込んでいる。
 下に堀があったものとみられ、千石堀の所以となっている。
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 豊臣秀吉の紀州侵略の時、根来衆雑賀衆の紀州方はこの城で良く防戦し、豊臣方は苦戦したと云われる。
 その時筒井順慶隊が火矢を撃ち込み、火薬庫に火が付き爆発、それを契機に総攻撃が行われ、城炎上の中、城兵や女子供まで容赦なく壊滅されたと云われている。
 この攻城戦で紀州方が敗れたことにより、防戦中の積善寺城、沢城は和議により開城し、いよいよ豊臣方が紀州本国へ攻め込むことになったという経緯を辿る。

『和泉国・高井城跡』

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 大阪府貝塚市にある高井城跡である。

 紀伊国にある根来寺は寺領である荘園地を護るために僧兵軍団を組織し、北側の和泉山脈を越えた和泉国の近木川を第一次の防衛線として雑賀衆の城も合わせて6つの城を築いていた。
 上流から千石堀城、高井城、積善寺城、畠中城、窪田城、沢城である。

 このうち高井城と畠中城は近木川の大坂側に築かれ、敵の侵攻の物見と前線の役割をしていた。
 高井城は平安時代末期の高井天神社の神宮寺があった場所に築かれた城とされている。

 豊臣秀吉の紀州侵略の際には、川の南側にある千石堀城の前線として戦ったが、秀吉小姓上がりの福島正則に滅ぼされ、壊滅したと伝えられる。
 説明板の図面の左が高井城、中央を流れている近木川を挟んで右の山が千石堀城である。 
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 現在、高井城跡は小さな児童公園状になっている。
 また城跡公園への上り口には、古木があり、かつてを偲ぶことができるのみで、顕著な遺構は見当たらない。
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『和泉国・積善寺城跡』

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 大阪府貝塚市橋本、JR阪和線の和泉橋本駅の南側一帯にある積善寺(しゃくぜんじ)城跡である。
 貝塚市の中央を南東から北西へ流れる近木川(ちかぎかわ)の左岸、西南側に城郭があったと云われている。
 上の写真の右岸、川の東北側にある説明看板のところから城跡へ入る。
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 近木川を渡るとそこは平坦な台地となりこんもりとしている。
 川を護る曲輪があったものと思われる。
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 橋本の町内へ入ると、かつてを偲ぶ民家が見られる。
 町内には縦横に道が付いているが結構狭い。
 町の構成からして、城の状況は町を城塞化した城であったと思われる。
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 町内の中心には城の本丸があったと云われる明教寺と云う真宗本願寺派の寺がある。
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 また周辺には、浄土宗安楽寺、真言の清水大師という寺もある。
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 この積善寺城は、ここから南の和泉山脈のその向こうの大伽藍真言宗根来寺を防衛するために築城された紀州根来衆の城であった。
 畿内から攻めてくる三好氏と対峙する根来六城の一つであった。

 三好が滅亡し、織田信長から羽柴秀吉の時代になって、秀吉の紀州攻めを防ごうとし、出原右京を守将に9500人がたてこもった。
 城は持ちこたえたが、周りの城が落城する中、貝塚御坊卜半斎了珍(ぼくはんさいりょうちん)の仲介により開城し、その後廃城となったと云われる。

『河内音頭の常光寺』

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 大阪の中河内八尾市の常光寺は河内音頭の発祥の寺として知られている。
 常光寺は奈良時代の始め、聖武天皇の勅願で僧行基の創建と云われている。
 そして参議小野篁が地蔵尊を奉安したことにより、地蔵盆踊りが始まった。
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 南北朝時代にこの寺の別当八尾顕幸が南朝方として寺を城郭化し戦ったが、北朝に奪取された。
 室町時代になってこの寺を再建するにあたり三代将軍足利義満が大量の材木を京から運ばせたと云う。
 材木は淀川を下り、大和川を遡行した。

 その時の掛け声が木遣り音頭となり、「流し節正調河内音頭」となった。
 そして従来の地蔵念仏踊りと合体し、毎年地蔵盆に大盆踊り会が催されることになったものである。
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 しかしこれだけでは済まないのがこの常光寺である。
 大坂の陣の時、徳川方藤堂高虎の軍と長宗我部盛親の軍がこの付近で激突した。
 勝利した藤堂軍は長宗我部軍の首を廊下に並べ首実検をしたと云う。
 その廊下板が血天井として客殿に組み込まれている。
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 また、藤堂軍も重臣・家臣を失っている。
 その72名の墓が本堂裏に守られている。
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 「エンヤコラセー ドッコイセ-」の掛け声がもう少しで聞かれるような季節になった。

『河内国・八尾城趾』

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 大阪府八尾市の近鉄八尾駅の直ぐ南西側にある八尾城跡である。
 八尾神社の境内の本殿横に建てられていて、文字は「矢尾城趾」と書かれている。

 八尾の地は古代は付替え前の大和川畔の丘陵地で、弥生時代から集落があった。
 その後、聖徳太子と争った物部氏が住まいしたところで、八尾神社には牛頭天王が祀られていた。
 江戸時代に式内「栗栖神社」に比定され、宇麻志麻治命(うましまぢのみこと)として祀られるようになった。
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 西隣の河内音頭で有名な常光寺の神宮寺とも云われた時代もあったと云う。

 南北朝時代になって、常光寺の別当八尾顕幸が寺院と神社を城塞化し、八尾城(矢尾城とも云う)とした。
 南朝側に与したが、略奪され北朝の河内における重要拠点となり、先に紹介した恩智城などと対峙した。
 最終的には南朝方は敗れ、城は荒廃したままになっていた。

 戦国時代になって八尾城は再建され、織田信長の家臣でキリシタン武将の池田教正の居城となった。
 城下には多くのキリシタンが居住したと云われる。

 秀吉の時代になって池田教正は美濃に移封となり、城は廃城となったと云われる。
 境内には城を偲んだ歌碑が建てられている。
 また、古き道標もあり、左地蔵尊(常光寺)、右信貴山となっている。
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『和泉国・岸和田古城』

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 大阪の岸和田には新旧の岸和田城があった。
 南海電車の岸和田駅近くの線路を挟んで北西には岸和田新城、反対側にはこの岸和田古城があった。

 岸和田古城は南北朝時代に和泉国の守護であった楠木正成が、甥の和田高家を「岸」の守護代とし、城を築かせたと云われている。
 当時は「岸」と呼ばれていたこの地に和田氏が城を築いたことで「岸の和田」と呼ばれ、岸和田の地名の語源となっている。

 その後、南朝が滅び、北朝の細川氏が守護となり、岸和田古城は改築されたと云われる。
 古城の場所は、西は現在の南海の線路、東は現在の岸城中学の辺りまであったと云われる。
 5年ほど前に発掘調査が行われ、濠跡や土塁、かまどなどが発見され、古城はこの場所と確定されたようである。
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 和田氏の居城の標柱のある場所は本城跡である。
 そこには説明パネルも建てられている。
 現在は全く住宅街の中で、城があったとは考えられない風景である。
 少し南には本門佛立宗の妙扇寺があり、鐘楼であろうか六角形のお堂建っていて、少しながらも雰囲気を出している。
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 岸和田古城は、三好長慶が和泉国を手にしたとき、新城の方に移築、移動したと考えられている。
 新城は海岸べりに建てられていて、長慶の3人の弟達(三好義継、十河一存、安宅冬康)が滞在したとの記録もある。
 海運を重視する長慶らしい所作であったと思われる。

『河内国・恩智城趾』

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 大阪府八尾市の東南部、高安山から信貴山に至る山麓の50m程度の高さのところに築かれていた恩智城の趾である。
 築城は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけてで、神社社家の恩智左近満一が築いたと云われている。

 城跡へは近鉄電車恩智(おんぢ)駅から東へ向かう。
 途中、恩智石器時代遺蹟という石碑がある。
 この地は弥生時代から開けたところであった。
 その後、渡来人である阿智(あち)氏が住んだところとされ、訛って「おんぢ」となったとされている。
 この石碑が建っている地は天王の森と云い、城が建つ前は恩智神社本宮が鎮座していたところである。
 築城とともに城から神社を見下ろすのは不敬であるとのことで、神社は城の奥に遷座され、現在は恩智神社の頓宮となっている。
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 城跡へは奥にある神社の参道を登る。
 途中東高野街道と交差する。
 参道筋には当時の由緒ありそうな民家が見られる。
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 参道を更に登ると、参道から少し離れた右手に城跡がある。
 城跡には小学校が建てられていたと云う標柱もある。
 この場所は二の丸だったと云われている。
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 参道を登り、恩智神社を訪れる。
 例祭の翌日で、参道階段の燈籠などには菰がかけられたままになっている。
 太鼓台や神輿を担いで100段以上もの階段を駆け上がる勇壮な祭りである。
 主祭神は大御食津彦命(おおみけつひこのみこと)と大御食津姫命(おおみけつひめのみこと)である。
 築城により遷宮されたものであるが、その遷宮は城の上部を護ると云う意味もあったと云われる。
 右近の橘が実を結んでいたのが印象的である。
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 神社を後に、付近を散策してみる。
 城の石垣のように見える近世的な石積みがある。
 しかし時代が違うのでどうであろうか?
 また近くには城主恩智左近の墓も護られている。
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 恩智城と恩智左近は、南朝方に与し足利北朝と戦ったが、南朝大将楠木正行(まさつら)が北の四条畷で敗れた後、この城も攻められ落城し、廃城となったと云う歴史を辿った。

『摂津国・今城』

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 大阪府高槻市にある「今城(いましろ)」という戦国時代に織田信長が三好三人衆を攻める時に築いた城の跡がある。
 元々は6世紀前半に造られた古代の大豪族の古墳であり、当時では最大級のものであった。

 現在では城跡と云うよりも古墳として国の史跡に指定されていて、「今城」と云う名前にその城の名残を留めている。
 古墳は2重の濠がめぐらされた前方後円墳で、写真の右が前方、左が後円の部分である。
 綺麗な形をしていないのは、慶長の大地震で地滑りを起こしたからであると考えられている。

 この古墳は天皇家関係の墓とは治定されていないため、宮内庁の管轄ではなく内部に入ることができる。
 後円の部分から入ってみる。
 後円と前方のつなぎ部分は城のような土橋となっている。
 後円の終点まで来ると濠に出る。
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 濠は前方部の半分ぐらいが残されている。
 濠の周りを歩き、濠が途切れた部分から外の土手に上がるとこのようである。
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 土手の上には、模擬の埴輪や土偶が並べられ、古墳の雰囲気を醸し出している。
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 残念ながらどこを見ても城の遺構はない。
 この城は信長が三好衆や将軍義昭追放により不要とされ、廃城となった。

『讃岐国・引田城』

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 現在の香川県、旧国名讃岐国の東端、阿波国との境に築城された引田(ひけた)城跡である。
 引田城は写真のように引田湾を囲むように張り出した80m程度の半島に建てられた平山城である。

 室町時代末期 に寒川氏に属する四宮右近が居城として築城した。
 その後阿波から攻めてきた三好氏の城となり、長宗我部の略奪を経て、四国制覇を狙う秀吉の家来仙石秀久の居城となった。
 四国平定の後は生駒氏の居城となったが、生駒市は讃岐の中央高松に城を築いたためこの城は不要となり、廃城となったと云う歴史を辿っている。
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 この城は東西南北の郭でなっている。
 上記の案内図に従って、西、東、南の順で城跡を一巡してみる。
 登り口には木柱、説明看板が置かれている。
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 低い山であるが最初は一気に登ることになる。
 登りつめると尾根筋に出る。
 そこは「狼煙台跡」である。
 狼煙は本城であった屋島城との通信に使われたと云われている。
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 尾根筋の平坦な道を進んでゆくと西の郭に出る。
 ここには石垣の遺構が残っている。
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 本丸の東の郭に向けさらに進む。
 東の郭下に広い場所がある本丸下二番郭跡であろう。
 その先に階段があり登ると、不思議な石の模様もある広い場所に出る。
 おそらくは本丸下一番郭であろう。
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 その先に、ハイキングのために造られたような階段がある。
 登ってみるとそこが最頂部、本丸跡であろう。
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 その場所から海が良く見える。
 引田灯台の先端部も見える。
 また引田湾、引田の街も良く見える。
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 次は南の郭に向かう。
 途中化粧池と云う湧水の原に出る。
 この辺りは道は険しい。
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 登りつめると城山の頂上に出る。
 そこには国土地理院の三角点の標石が埋め込まれている。
 またおそらく城主であろうが祀る祠もある。
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 その先南の郭である。
 一巡を終え、防波堤の上から城跡を眺めたのが、冒頭の写真である。
 冒頭写真の中央の岩場の辺りが、船着き場船隠しであったのではと想像できる。
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プロフィール

藤白 怜

Author:藤白 怜
気まぐれに各地の城跡、神社仏閣、路端や公園の草花、街角の風景などあっちこち出掛けては写真を撮ったり、その土地の歴史遺産を訪ねたりしています。
よろしかったら覗いてみて下さい。
よろしくお願いします。
最近、小品集を別ページにてアップしました。
右側リンクの「悠々紀行あっちこち」です。
併せてよろしくお願いします。

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