『伊勢路の城・亀山城』
三重県亀山市にある伊勢亀山城跡である。
京都丹波亀岡市にある亀山城跡と良く混同される。
この亀山城は亀山市の中心にある若山70m程度の山に築城されていた平山城である。
独立した山でなく、付近と台地状に繋がっていて、その台地の西端にある。
築城は鎌倉時代で、国人の関氏であるが、時代が降って豊臣大名岡本宗憲が入城し、天守、本丸、二の丸、三の丸など亀山城の原型を築城したと云われている。
しかし宗憲は関ヶ原で西軍に与したため改易され、関氏が復帰し亀山藩が成立した。
その後藩主は目まぐるしく代わり、最後は石川数正の叔父の系統が入城し、明治維新を迎えることになった。
表紙の写真は天守閣のあった天守台に建っている本丸多聞櫓である。
改修はされているが江戸期から残っている県内唯一の建物で、県の史跡に指定されている。
実はこの本丸多聞櫓がなぜ天守の位置に建てられているかと云うと、それには訳がある。
江戸時代の初頭、明智光秀が築城した丹波亀山城の天守を解体するよう命じられた堀尾忠晴の亀山間違いによって天守が取り壊されてしまったのである。
その後、城主本多氏によって、天守の代わりに建てられたのがこの櫓である。
この本丸多聞櫓を別方向から見るとこのようになる。
また櫓への登り口には、案内板や石碑が建てられている。
本丸跡地には亀山神社と文化財に指定されているその神官家棟門がある。
また通りを挟んで児童公園となっていて、SLの静展示もある。
亀山は東海道の要衝であるので、上洛する徳川家康や秀忠、家光が本丸を宿舎にしたと云われる。
本丸の東側は二の丸、東三の丸である。
一部平地として残されていて、眼下に堀を望むことができるが、大部分の跡地は小学校となっている。
また二の丸跡地と空堀が埋め立てられた部分には市役所が建っている。
そして本丸の南にある低い部分である西の丸は現在中学校となっている。
城跡が学校や役所として活用されるお決まりの構図となっている。