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『伊予国・木浦城跡』

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 四国愛媛県のしまなみ海道の伯方島にある木浦(きのうら)城跡である。
 島の東南部の伯方湾の背後に、中世前期に築かれた城であるとされる。
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 築城者は、当時伊予国を支配していた河野氏の家臣、紀氏であるとされる。
 鎌倉時代の承久の乱で、紀氏は後鳥羽上皇方についたため、敗れ滅ぼされたと云われる。

 その後、南北朝時代から戦国時代にかけて、水軍の能島村上氏が伯方島を本拠とし、連郭状の伯方城を築きその一部に組み込まれた。
 
 現在は跡地を公園とし、天守をはじめ、城門、物見櫓が模擬再建されている。
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 標高は90m、三層の天守から伯方湾、伯方港のみならず、燧灘(ひうちなだ)全域が眺められる城としては恰好の地理的条件である。
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『大坂夏の陣・家康星田陣所』

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 大阪府交野市(かたのし)星田にある徳川家康の陣所跡の碑である。
 
 星田の陣所とは、周囲の堀が埋め尽くされた大坂城を攻撃し、豊臣一族を滅ぼすための戦争(夏の陣という)に、徳川家康は京都の二条城を出陣し大坂へ向かう行軍の途中で、この星田を陣所とし、一夜を明かしたところである。
 碑文のタイトルは下記のように「神祖営趾之碑」である。
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 実は、その時から遡ること25年前、家康は信長が京の本能寺で自害した事を受け、急ぎ逗留していた堺から岡崎を目指した。
 その時は生駒連山の西麓を辿り、山城の国から伊賀越えを目論み、途中の星田村に差し掛かったところ、不審な者に命を狙われている気配を悟り、星田村で一旦竹藪に潜み、星田の有力者であった平井氏に山城までの道を案内頼、事なきを得たと云われる。
 その潜み薮は星田妙見の参道の傍にある。
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 平井氏を甚く気に入った家康は、今度も平井氏を頼りとし、平井屋敷に逗留した。
 冒頭の石碑は現在の平井氏宅の塀に沿って行ったところにある。
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 但し、平井氏宅に逗留したのは家康とその側近だけで、軍の多くの者たちは近くの新宮山を中心として、布陣した。
 新宮山は現在は星田公園となっていて、それなりに長屋門が模擬的に建てられている。
 また、登場付近には旗掛け松という軍旗を建てた場所もあり、跡地の石碑がある。
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 家康の宿舎と新宮山との間には、現在は星田神社と星田寺があるが、この地も、現在の星田会館も、軍の野営地であったと推察できる。
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 家康はあくる日に星田から河内の国を縦断する形で大坂城に向かう。
 これを阻止しようとし、家康の首を狙う豊臣方の木村重成は、星田を出たところで戦おうと東へ向かった。
 そして、若江の付近で徳川軍と遭遇し、右翼の藤堂隊を退け意気が上がったが、久宝寺を守備していた井伊隊が駆け付け乱戦となった。
 しかし木村隊にとっては、多勢に無勢、時と共に消耗して敢え無く敗れ、家康は楽々と大坂城に向かったのである。

 尚、平井氏はその後星田村の庄屋となり、明治を迎えたと云われている。

『菅公聖蹟・子安天満宮(高槻市)』

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 大阪府高槻市赤大路町に鎮座する子安天満宮である。
 最寄はJR摂津富田駅または阪急電車富田駅で、その西方にある。
 祭神は道真公並びに側室とその子である。
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 この天満宮は、道真公が大宰府に左遷され向かう時に、別れを惜しんだ側室が臨月であったにもかかわらず道真公の後を追い、この地で俄に産気を催した。
 慌てた付き人は輿を担いで民家に入ったが、流血は輿中より洩れ道路が赤く染まったと云われる。

 側室は民家で手当を受けたが、産後の経過が悪く当地で亡くなった。
 側室は死期に望み、里人の介抱を深く感謝し、死後は婦人安産の神たらんと誓ったので、村人達が社殿を建立し祀ったのが、この神社の始まりである。
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 尚、民家に向かう時に輿から血が洩れ赤く染まったことから、赤大路と云う地名が起り、現在まで続いている。

『菅公聖蹟・子安天満宮(岡山)』

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 岡山市北区十日市東町に鎮座する子安天満宮である。
 道真公が大宰府へ左遷されその赴任の船旅で児島の内海を通るルートを選択し、当時は貝殻塚であったこの地で下船、休憩したと云われる。
 その時、近所の海人の妻が難産で苦しんでいるのを目の当たりにし、安産祈願の詩を詠んで与えたとされる。 
 するとたちまちのうちに無事に子供が生まれたと云われる。
 感謝した海人人らが道真公の腰を掛けた石の上に祠を設け、祀ったのがこの天満宮の始まりである。
 その腰掛石は現在も保存、祀られている。
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 天満宮の拝殿・本殿はそう大きくはない。
 訪れた時は、氏子の方々が祭事の打ち合わせをされていたようで、何台かの車が境内を賑わしていた。
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 余談であるが、近くの南区浜野と云うところに吉備国「内宮」が鎮座している。
 内宮であるから天照大神を祀る神社である。
 戦国時代の創建と云われる。
 太平洋戦争の岡山空襲で焼かれたが、表門は江戸時代のままで残っているとのことである。
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『菅公聖蹟・履掛天神宮』

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 岡山県備前市伊部に鎮座する履掛(くつかけ)天神社である。
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 菅原道真公が大宰府に左遷され赴任の途中に立ち寄り、履を脱いで石に掛け休憩したとの謂れがある。
 この天満宮は、道真公が大宰府で死去して数十年後の天暦年間に里人たちにより祀られたものであると云われている。
 その石は履掛石と云い、今も本殿の後ろに祀られている。
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 備前市伊部は備前焼陶器の産地で、境内の狛犬や瓦がその焼き物なのも当を得ている雰囲気である。
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『菅公聖蹟・津田天満神社』

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 兵庫県姫路市飾磨区に鎮座する津田天満神社である。
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 元々は「津田の細江」、即ち現在の思案橋の西側に大歳明神を祀る神社であったが、道真公が大宰府に左遷された時にここに上陸した。
 その後大宰府で道真公が亡くなってから、里人達は道真公を主祭神として祀り天満宮とした。
 後に現在の地に遷宮されたため、上陸地は神社の御旅所となっていて、道真公の像が祀られている。
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 また、道真公が上陸した時、船の艫綱を巻いて座布団の代わりにしたことから、綱敷天満宮とも呼ばれる。
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 天満神社の境内には、一対の神牛、そして万葉集時代の歌人である山部赤人を祀る神社もある。
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『菅公聖蹟・浜の宮天神社』

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 兵庫県加古川市尾上町口里(くちり)に鎮座する浜の宮天神社である。
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 道真公が大宰府に左遷され、その赴任の船旅で明石での上陸に引き続き、この地でも下船し、海上旅の平穏と人々の幸福を願って松の木を手植えし、しばらくの間休息したと云われている。
 鹿児(かこ)の浜松と云われ、初代の松は枯れたが、2代目の松が枝を広げ立派に成長している。
 2代目は樹齢550年と云われている。
 また3代目も植えられている。
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 浜の宮天神社へは、山陽電鉄浜の宮駅が最寄である。
 また近くには尾上の松で知られる尾上神社も鎮座している。
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『菅公聖蹟・柳原天神社』

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 神戸市兵庫区柳原に鎮座する柳原天神社である。
 道真公が大宰府に左遷され、その赴任地へ向かう船旅の途中、この兵庫津に上陸した。

 そして丁度この地に咲いていた梅の花を愛で、
  「風さむみ 雪にまかへて 咲く花の 袖にぞ移れ 匂ふ梅が香」
 と詠んだと云われている。

 そして、大宰府で道真公が亡くなった後、大宰府安楽寺の菅公廟より分霊を迎え祀ったのがこの天満宮の始まりである。
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 境内には、神牛の他、筆塚や珍しいところでは亀の体をした狛亀(?)も祀られている。
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 鎌倉時代になって、この地に時宗満福寺が建立され、以後僧侶がこの神社を祭祀することで明治初頭まで続いた。
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 柳原天神社はJR兵庫駅が最寄で、平清盛で知られる兵庫の津に向かって、ほど近いところにある。
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『菅公聖蹟・綱敷天満宮(御影)』

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 神戸市東灘区御影に鎮座する綱敷天満宮である。
 六甲山系から流れ出る石屋川の左岸で、JR東海道線の高架橋の直ぐ北側にある。
 この神額は先の兵庫県南部大地震で倒壊した大鳥居に掛けられていたものである。

 この神社には元々古代に、別雷大神(わけいかづちのおおかみ)と、聖徳太子の法隆寺建立に関わり倉稲魂大神(うかのみたまのおおかみ)が祀られていた。

 道真公はこの神社に讃岐国司への赴任の時と、後の大宰府への左遷の時に立ち寄り参拝している。
 左遷の時は、この村の里人たちが船の舫い綱を巻いてその上に座り歓談したとの逸話があり、神社の名となっている。
 即ちこの神社は、後に道真公の子孫が、山の手の天神山より少し下ったこの地に道真公を合祀して天満宮としたものである。
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 石屋川は天井川である。
 堤防上からは社殿が下に見える。
 また明治時代に東海道線の鉄道を通す時に、トンネルを掘って通したと云われる。
 我が国初めての鉄道トンネルだそうである。
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 石屋川を少し下ると、国道2号線と交差する。
 石屋川橋の左手前に、神戸空爆や大地震でも倒壊しなかった御影公会堂がある。
 また橋の右向こうに、野坂昭如の「火垂るの墓」の記念碑がある。
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『菅公聖蹟・松原天満宮』

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 兵庫県西宮市松原町に鎮座する松原天満宮である。
 この神社の創建は古いと云われているが、その時期は明らかではない。

 道真公が大宰府に左遷されその赴任地へ向かう船から、当時は「都努(つぬ)の松原」と呼ばれる白砂青松の海岸が見え、船を着けて景色を愛でながら休憩したと云われる。
 道真公が大宰府で死去して間もなく、この地の人々は道真公の霊を慰め威徳を偲ぶために祠を建て、新たに天満宮としたと云われる。
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 境内には、神牛、筆塚等も祀られている。
 その他にも幾つかの社が祀られている。
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 この松原天満宮はJR西宮駅の南にある。
 阪神西宮駅から云うと、東にある西宮市役所を越えて、更に東にある。
 近くの川には上天神橋と云う名の橋が架かっている。
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 余談であるが、天満宮の鳥居前には、古代に大陸から渡ってきてこの地に着いた漢織(あやはとり)姫と呉織(くれはとり)姫の逸話がある染殿池がある。
 両姫はその後、北東部の池田に向かっている。
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 もう一つ余談である。
 この天満宮の近いところに、室町時代に創建された臨済宗海清寺がある。
 堂宇は新しくなっているが、江戸時代に建てられた赤門が保存されている。
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『菅公聖蹟・臂岡天満宮』

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 兵庫県伊丹市鋳物師(いもじ)地区に鎮座する臂岡(ひじおか)天満宮である。

 道真公が大宰府へ左遷され、赴任途中にこの鋳物師の丘に立ち寄った。
 鋳物師とは、その名の通り鋳物を司る職人たちや工房があったことからそう呼ばれている。

 道真公はあられ茶を飲みながら肘を枕に休憩した。
 後に大宰府で亡くなってから、この地に天満宮が創建され、その名も臂岡天満宮と名付けられ、現在まで続いている。
 この天満宮は別名「いもじの天神」とも呼ばれる。
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 恐らくは、道真公は現豊中市の服部天神宮の地に立ち寄り、そしてこの地に立ち寄り尼崎に向かい、長洲天満宮の地で乗船のための潮待ちをしたものと思われる。

 この丘の並びには奈良時代に創建された伊丹寺の廃寺の跡がある。
 下部中央の写真は、その伊丹廃寺の金堂跡である。
 またその向かいには、陸上自衛隊の伊丹総監部がある。
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『菅公聖蹟・服部天神宮』

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 大阪府豊中市の阪急電車「服部天神」駅の東に鎮座する服部天神宮である。

 この神社の創建は古い。
 渡来人である秦氏がこの辺りにも住まいし、医薬の祖神である少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀り信仰していたのが始まりである。
 道真公が大宰府へ左遷されるほぼ100年前、川辺左大臣藤原魚名が大宰府に左遷され向かう途中にこの地に立ち寄り病没し、祠の近くに葬られた。
 そのことを知らずに道真公がこの辺りを通過しようとしたところ持病の脚気に襲われ動けなくなった。
 そこで里人の勧めにより、少彦名命を祀る祠と「今日は我が身」と魚名の墓に祈願したところたちまちに平癒したと云われる。

 道真公が大宰府で死去した後、天神信仰の高まりとともに道真公を祀り「服部天神宮」としたのであった。
 また、道真公の足の平癒に因み「足の神様」としての信仰もあつく、現在に至っている。
 境内には道真公の座像も祀られている。
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 境内には豊中戎神社、そして稲荷神社も鎮座している。
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 余談であるが、阪急電車の駅は1年前ごろまでは「服部」駅の表示であったが、現在は「服部天神」駅と改称されている。
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『菅公聖蹟・松山神社』

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 大阪市東淀川区小松に鎮座する松山神社である。
 広い神社で、一の鳥居から神門までの間は公園として開放されている。
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 道真公が大宰府に左遷され赴任する淀川の船旅でこの地で下船し、生い茂る小松を見て「小松の詩」を吟じ、そして直筆の自画像を「我が像をこの地に置くべし」と里人に与えたと云われる。
 道真公が大宰府で亡くなってから里人たちは道真公を祀る祠を建て、氏神として崇めたのが始まりである。
 当時から明治の初めまでは「小松の天満宮」と呼ばれたとのことである。

 境内には、神牛の他、天満宮では珍しい撫天神が祀られている。
 撫天神の由緒書きによると、元々菅公腰掛石があったが、紛失したため改めて撫天神を彫り祀ったのことである。
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 また神社のお守りであるが、子供向けに可愛いのが並べられていた。
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 松山神社の近くに本願寺派の瑞松寺がある。
 元々、楠木正成の後裔が本願寺の僧となり建立したとのことである。
 寺門前には石山戦争の地との石柱も建てられている。
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 松山神社へは阪急電車の上新庄駅が最寄である。
 小松商店街を通り抜けて行くことができる。
 尚、阪急電車では、松山神社に加え長岡天満宮、服部天神宮を三天神巡りとして合格祈願を推奨している。
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『菅公聖蹟・淡路天満宮社』

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 大阪市東淀川区淡路の愛宕神社境内にある「天満宮者舊趾」と彫られた石碑である。
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 菅原道真公が大宰府に左遷され、赴任すべく淀川を下った時、風光明媚な風景が淀川の右岸に見えた。
 道真公は伴の者に「あれは淡路か?」と問いかけ、そこに上陸した。
 このことが淡路の地名の由来となっている。
 大宰府で道真公が死去して後、この地に淡路天満宮が創建され、その後崇敬を集めた。

 しかし明治になって天満宮は近くの中島総社に合祀され、現在は石碑のみとなっている。
 下記はその合祀された中島総社である。
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 天満宮旧蹟の南に阪急電鉄京都線の駅名ともなっている崇禅寺(そうぜんじ)がある。
 崇禅寺は、戦国時代の細川忠興の妻、細川ガラシャ(玉)の菩提寺でもある。
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『菅公聖蹟・菅原天満宮(東淀川)』

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 大阪市東淀川区菅原に鎮座する菅原天満宮である。
 道真公が大宰府に左遷され赴任地へ向かう途中に淀川べりのこの地に立ち寄り、京を眺めた所と云われている。

 また、この道真公が立ち寄った淀川の川岸を「牛まわし」と名付けた。
 牛まわしとは、田植えの始まる時期に牛を一定の所を回らすと、天満大神の加護があり、牛は新しい飼い主になつくとも、牛はその年には病気にならないとも云われる風習である。
 天満宮の石段の脇にはその牛まわし碑が建てられている。
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 この天満宮は江戸時代の初期、この地を開墾する際に天満大自在天神を勧請して創建されたものである。
 旧河川の逆川堤防上に建てられたため、本拝殿など境内はその部分だけが小高くなっている。
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 また境内には神牛像、神輿堂、倉庫などが古式豊かな様相を呈している。
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 この天満宮はかつての境内であろう、その場所で幼稚園を経営している。
 神主氏が園長先生を兼務していて、御朱印を園長先生に書いていただいた次第であった。
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 またこの鎮座地は、旧街道で云うと、大坂の高麗橋から亀岡に向かう亀岡街道の淀川を越えて東へ入ったところである。
 少し吹田の方へ行ったところに、和合橋の旧欄干とと共に石碑が建てられていた。
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『菅公聖蹟・三本松天神社跡』

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 淀川の右岸で、大阪市東淀川区の北に隣接、そして対岸には守口市や寝屋川市がある摂津市鳥飼(とりがい)の三本松天神社跡である。
 淀川堤防と道路を挟んで隣接している。
 堤防上からは、跡地が個人住宅となっているが、雰囲気は漂っている。
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 道真公が大宰府に左遷され赴任の途中にこの鳥飼の地に上陸し、昼食を取った後、楊枝3本を植え、松の木が育つことを願い旅立ったという逸話がある。
 後、松の木が育ったので、村人たちは道真公を祀る天神社を建て、三本松天神社と名付けたのが起こりである。
 それらの松は、下り松、義経松、踊り松と名付けられ、以後昭和の時代まで崇敬された。

 淀川堤防上からの付近の景色である。
 守口市大日の高層マンション、遠くに生駒山、そして少し上流に架けられている斜張橋の淀川新橋である。
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 昭和の時代になって淀川の改修が行われた。
 これにより神社の地は無くなってしまうため、天神社は西にある藤森神社に合祀され、現在に至っている。

 当時は淀川には、数多くの渡しがあった。
 この地は鳥飼の渡しの港である。
 港には鳥居が設けられ、藤森神社への参道が始まる。
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 しばらく進むと藤森神社に到着する。
 元々の藤森神社は舎人親王を祀る神社であが、現在は道真公も祀られ、神紋は梅鉢と下がり藤が用いられている。
 そしてこの2神は学問の神として崇められている。
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 境内には、神牛、なで牛も祀られていて、天満宮の雰囲気が漂う。
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『菅公聖蹟・綱敷天神社(大阪)』

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 大阪市北区神山町に鎮座する「綱敷天神社」である。
 この神社は元々、嵯峨天皇がこの地に行幸した時に一夜を過ごした所とされ、天皇の死後に皇子であり、源氏物語の光源氏のモデルと云われる源融(とおる)が天皇を偲び神野神社を祀ったのが始まりである。

 道真公が大宰府に左遷されたとき、この地に船を着けこの神社に参った時、紅梅があまりにも美しかったので、船の艫綱(ともづな)を円形に巻き上げ、伴の者と座して花を賞賛したと云う謂れがある。
 そして伴の者数名にこの地に残る様に伝え、道真公は西に向け旅立ったと云われる。

 道真公が大宰府で死去という報を受けた部下たちは、紅梅の下に小さな祠を建て、梅塚天満宮と称し、道真公を祀ったと云われる。
 
 その後、神野神社と合祀となり、綱敷天神社の社殿を建立したという経緯がある。
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 以降、梅田キタの氏神として広く地元の人達から崇敬を受け、現在に至っている。

 境内は都会地であるので、そう広くはないが、筆塚、歌碑などが祀られている。
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『菅公聖蹟・天満宮寺』

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 大阪市北区与力町の真言宗御室派の寶珠院本堂の扁額は「天満宮寺」と掲げられている。
 この寺は、真言宗開祖の弘法大師空海が高野山に密教道場を立ち上げるために、京都東寺から高野山に通った時にしばしば逗留し、大師自らがこの地に「如意珠院」を建立したのが開基であり、その後大師の弟子の堅恵大徳が寺号を「寶珠院」と改めたもので、院号は現在もそのままである。
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 時代は降って、道真公は弘法大師を敬愛していて、時々はこの寺院を訪れていた。
 道真公は、いよいよ大宰府に左遷された赴任の途中に、この寺に立ち寄り、自念仏や写経を納めたと云われる。

 道真公が亡くなってから、、暫く立って後小松天皇の時代にそのことが天皇に伝わり、この天満郷も菅原家の領地となり、寺院には「菅原山 天満宮寺」の号が与えられたとのことである。
 
 本堂の左手には天満宮の社が鎮座し、道真公を祀っている。
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 都会地の寺院であるので、境内そう広くはない。
 しかし良く整備されていて、気持ちの良い寺院である。
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 かつて我が国は明治になるまでは神仏混淆であったのは良くご存じの通りである。
 神への信仰と仏への帰依の形はこのようだったのかと思われる天満宮寺である。

『菅公聖蹟・潮待天満宮』

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 大阪市天王寺区の浄土宗天然寺の境内に鎮座する「潮待天満宮」である。
 道真公が大宰府に左遷され赴任する時に、船出の頃合いを待ち、しばらく滞在したため、「おちつき天神」とも云われる。
 冒頭の鳥居を潜ると、本殿そして右手に道真公の腰掛石が祀られている。
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 元々は大坂で海中の唯一の半島であり後の大坂城が築城された上町台地にあったが、豊臣秀吉が大坂城を築城する時に城外の現在地に天然寺と共に移された云われる。
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 天然寺は大阪市地下鉄の谷町六丁目で下車し、空堀商店街を東へ進んだ南側にある。
 空堀とは、大坂冬の陣の直ぐ後、家康によって埋められた堀のことを云う。
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 尚、余談であるが、近くの大福寺は明治の初期に現在の大阪大学医学部に繋がる浪華仮病院が設けられていたところで、その記念碑が建てられている。
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『菅公聖蹟・天神ノ森天満宮』

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 大阪市西成区に鎮座する天神ノ森天満宮である。
 場所は阪堺電気軌道の天神ノ森駅の直ぐ西側にある。
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 この阪堺電車で南へ少し行くと住吉大社が鎮座する。

 道真公は左遷された赴任地である大宰府へ向かう途中に住吉大社へ参拝した後、この地に立ち寄り休憩したと云われる。
 道真公の逝去の報に接した地元の人達は祠を建てお祀りし、その後室町時代に京都の北野天満宮から分霊を勧請したのがこの天満宮の始まりである。
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 境内には、千利休の師匠である武野紹鴎(じょうおう)が茶室を設け、風月を楽しんでいたことから「紹鴎の森」とも云われる。
 また天満宮は紹鷗の森天満宮とも呼ばれる。
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 また境内には子安石なるものが祀られている。
 このことから子安天満宮とも呼ばれる。
 子安石は淀殿懐妊の時、豊臣秀吉が安産の祈願をしたことでも知られる。
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 この神社前を紀州街道が通っている。
 街道を挟んで茶屋があり、豊臣秀吉が堺や住吉大社への行き帰りに休憩し茶会を催し、この辺りの景色を賞したことから天下茶屋と云われるようになった。
 また江戸時代には、紀州藩主など諸大名も宿泊する大きな屋敷があったと云われる。
 またこのことから、この天満宮は天下茶屋天満宮とも呼ばれる。
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『菅公聖蹟・御袖天満宮』

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 道真公の聖蹟二十五拝の第十九番、広島県尾道市に鎮座する御袖(みそで)天満宮である。
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 道真公が大宰府に左遷された瀬戸内の船旅でこの尾道に立ち寄ったことがある。
 それを聞きつけたこの地の人々に酒や食事を御馳走されたので、甚く感謝し、自らの着物の片袖を破り、そこに自画像を描いて与えたと云われている。

 道真公が亡くなり暫らくして、人々はそれを「御袖の御影」と称して、それを祀る祠を建て天神坊としたのがこの天満宮の始まりである。
 後に天満宮は大きな社となり、天神坊はそれを護る別当寺として栄えたのであった。

 別当寺は明治の神仏分離で大山寺となり、現在も隣接して建っている。
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 この天満宮へはJR山陽本線尾道駅の東方20分程度のところにある。
 参道入り口は狭いので分かりにくい。
 石段がある参道を暫く登ると右手少し入ったところに菅公の腰掛岩が祀られている。
 そして元の石段を登ると冒頭の鳥居に達する。
 鳥居の先には立派な神門が配されている。
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 神門の先は綺麗な55段の石段である。
 一段一段が一つの石で造られている。
 この石段は映画のシーンや、NHKの朝ドラで使われたことがある。
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 この石段の上に本拝殿が鎮座する。
 大山寺は右手にある。
 また境内にはお決まりの神牛なで牛も祀られている。
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『菅公聖蹟・手向山八幡宮』

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 奈良市の東大寺境内と隣接する手向山(たむけやま)八幡宮の境内に祀られている道真公の腰掛石と歌碑である。
 歌碑には道真公の百人一首の歌、
   「このたびは ぬさもとりあえず 手向山 もみぢのにしき 神のまにまに」
 が刻まれている。
 道真公が朝廷で要職を占めていたころ宇多上皇の大和旅に随行して、この石に腰を掛け、この歌を詠んだと云う逸話に基づくものである。
 
 手向山八幡宮は東大寺大仏建立の無事を祈念し、宇佐八幡宮を勧請して平城京内に創建された神社である。
 後に東大寺の鎮守社として東大寺の境内に遷宮された。
 しかし明治の神仏分離により独立した神社となっている。

 鎮座地は三月堂の真向いである。
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 この右手に楼門、楼門を潜ると応神天皇などを祀る拝殿本殿がある。
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 腰掛石は拝殿の右手、一段低いところにあるが、その向かいに仁徳天皇を祀る若宮神社と神楽所、神楽所の内部に元東大寺にあった東照宮が祀られている。
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『菅公聖蹟・船待神社』

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 堺市堺区西湊町に鎮座する船待神社である。
 道真公が大宰府へ左遷され赴任する時に、道真公の祖先である天穂日命(あめのほひのみこと)を祀るこの神社に参拝し、船を待つ間に松や榎を植えて立ち去ったと云われる。
 道真公が亡くなってから、道真公の子孫がこの神社に道真公を合祀し、船待天神社、船待天満宮となった。
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 境内には道真公の腰掛石祀られている。
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 また境内には少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀る瘡神社(かさかみしゃ)や水掛不動明王などが祀られている。
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 裏の参道には寺院のような門が建てられている。
 神宮寺であった安楽寺の寺門であったものである。
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 尚、この神社へは、路面電車の阪堺電気軌道の御陵前駅が最寄である。
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『菅公聖蹟・堺天神』

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 大阪府堺市堺区戎之町に鎮座する通称堺天神の「菅原神社」である。
 元々は威徳(いとく)山天神常楽寺(じょうらくじ)という天台宗の寺院として創建された。

 道真公が亡くなりしばらくして海船の濱に一体の木像が流れ着いた。
 この像は道真公が大宰府にて自ら彫り海へ放された七天神のうちのひとつであった。
 木造は地元住民により大切に祀られていたが、その後常楽寺の僧により境内に天神社が創建された。

 明治の廃仏毀釈により寺は廃寺とされた後、神社は菅原神社と改められ今日に至っている。
 祭神は道真公とその先祖である天穂日命(あめのほひのみこと)並びに野見宿祢である。

 現在の菅原神社には立派な石の鳥居、文化財の楼門、南大門がある。
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 また境内には、常楽寺を偲ぶ常楽殿、薬祖神社、堺戎神社が鎮座している。
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 尚、常楽殿の裏手に広がる庭園には茶室紅梅軒がある。
 そこには千利休の師匠である武野紹鴎愛用の椿の井戸があり、現在はホタルの育成に活用されているとのことである。

 更に境内には、神牛も祀られ、天満宮の様相を呈している。
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『堺市東区・萩原天神』

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 大阪府堺市東区に鎮座する萩原天神である。
 この神社は奈良時代に僧行基が開基した「萩原寺」のち萩を外して「原寺」と云う神仏の聖地に鎮座していた。

 道真公が亡くなってから、天神信仰が高まり、天満宮を大宰府から勧請して、天満宮に改めたと云われる。
 南北朝時代には南朝に与し、戦火に合いほぼ焼失したが、寺院の部分は村に移し、神社はこの地に再建された。
 そして明治末期には近在の7村の神社が合祀され、現在の広大な神域を持つに至ったと云う経緯を辿る。
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 萩原天神の境内には、350年前に建てられた旧本殿が保存されている。
 更に、戎神を祀るが故の恵比寿神像、珍しいものとしては男根を神とした道祖神が祀られている。
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 後になったが、萩原天神へは南海高野線の萩原天神駅で下車し、難波側の踏切を渡り、天神橋を渡ると鳥居のある参道は直ぐである。
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『堺市・菅生天満宮』

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 大阪府堺市美原区の菅生(すごお)地区に鎮座する菅生天満宮である。
 最近社殿が更新されたようで、新しい本拝殿となっている。
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 この天満宮は、元々は藤原氏のルーツである中臣氏の流れを汲む人達が住み、地名から菅生氏を名乗り、この地域を支配し、祖神である天児屋根命(あめのこやねのみこと)を氏神として祀る菅生神社を創建したのが起こりである。

 中世になって、道真公への天神信仰が広まると、この神社の神宮寺であった高松山天門寺の僧が、道真公はこの神社の境内の池である菅沢の畔で生まれたという説を唱え、そして天神を勧請し祀ったのであった。
 そして江戸時代には天神が主祭神とされ、天満宮と呼ばれるようになった経緯を辿っている。
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 天門寺は明治の神仏分離令で廃寺となったが、お堂は戎社に、また寺門は寺門として残されている。
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 菅生天満宮の鎮座する菅生へは南海北野田駅から近鉄バスが出ていて「菅生」が最寄である。
 バス停からは天満宮が間近に見える。
 又、東南方向には富田林市に建っているPLの塔が見えるところである。
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『菅公聖蹟・屯倉神社』

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 大阪府松原市北部の三宅地区に鎮座する屯倉(みやけ)神社である。
 この地には元々、道真公の祖先の土師氏の祖神であった天穂日命を祀る穂日の社があった所である。

 道真公が大宰府への左遷を申し渡され、その赴任の途中に道明寺のおば覚寿尼に別れを告げた後、この地に立ち寄り石に座して天穂日命に無実の罪をはらすことを祈ったと云う。
 その石は神形石と云われ、今も神社境内に祀られている。
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 写真に人体の血管のような模様が見られるが、単に横にある木の枝の影なので、無視してご覧いただきたい。

 道真公が大宰府に赴任した後、等身大の自像を彫り、縁深いこの三宅郷に送った。
 像は神社に祀られたが、道真公死去の後は、天神信仰と相俟ってご神体として祀り、神社も天満宮とも呼称された。
 拝殿、本殿の写真である。
 また境内には神牛も祀られている。
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 この神社は室町時代に、守護の畠山氏によって城郭化された。
 本拝殿の横には土塁のものが残されている。
 また神社の四周には堀が設けられていたと云われ、一部神社前に残っている。
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 屯倉神社にお参りするには、近鉄南大阪線河内天美駅からバスに乗り三宅バス停が神社前となる。
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『菅公聖蹟・新家天満宮』

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 大阪市平野区加美の平野川の北岸に鎮座する新家(しんけ)天満宮である。

 道真公は大宰府に左遷され向かう途中に、藤井寺道明寺におば覚寿尼を訪ねた後、平野川の川下りでこの地まで来て休憩したと云われる。
 この地の人々は道真公が亡くなった後、京都の北野天満宮から分霊を勧請して「川べりの天神」として祀ったとのがこの新家天満宮である。
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 境内には旧蹟の碑、それに訪れた時には梅ならぬ桜の花が咲き始めていた。
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 新家天満宮は明治になってこの北にある菅原神社に合祀されたが、昭和の時代にこの元の地に遷宮されたのであった。
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 なお、この新家天満宮、菅原神社へは、JR関西本線加美(かみ)駅が最寄で、駅の南に菅原神社、そしてその南には重要文化財の奥田家住宅、そして平野川に向かって南下すると新家天満宮が鎮座している。
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『菅公聖蹟・諏訪神社』

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 大阪市城東区諏訪に鎮座する「諏訪神社」の境内の末社「腰掛天満宮」拝殿前に祀られている菅公腰掛石である。

 道真公は大宰府に左遷された時に、河内国藤井寺の道明寺に在住しているおばの覚寿尼に別れの挨拶を告げに行った。
 その道中に諏訪神社の横の堤を通り、神社で休憩したのがこの腰掛石である。

 道真公の左遷を聞き、そして大宰府で亡くなったことを聞いた村人たちは、この地域を「左遷道→左専道」と名付け、近代までこの地名を使っていた。
 合わせて村人たちは、道真公を境内に祀ったのであった。

 諏訪神社は、JR学研都市線「放出(はなてん)」駅から南にある第二寝屋川を渡り、街道を南に行った辺りに鎮座する。
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 諏訪神社は長野の諏訪大社の分霊・分社で、創建は平安時代初期以前であると云われている。
 道真公は、霊験あらたかな諏訪大明神にお参りするとともに、神額一面を奉納されたと云われる。
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 腰掛天満宮は、拝殿から表参道を見て左側にある。
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 そして諏訪神社の境内には、戊辰戦争で官軍の軍艦に備わっていた海外製の大砲・砲丸が置かれている。
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『菅公聖蹟・蹉跎神社』

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 京都から淀川べりを大阪に向かうと、その左岸(東側)で最初に到着する街が大阪府枚方市である。
 その枚方市の南中振と云うところに、上掲の拝殿の蹉跎(さだ)神社が鎮座している。
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 蹉跎神社は蹉跎天満宮とも云うが、その本殿は覆屋に覆われ、参道には燈籠、そして金比羅宮をはじめ末社が祀られている。
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 蹉跎とはつまづいて時期を逸した様子をいう。
 どうして蹉跎なのかと云うと、道真公が大宰府に左遷され、その向かう道で、この枚方の蹉跎の山に登り京を振り返り、懐かしんだと云われる。
 道真公の大宰府赴任を聞いた道真公の娘で宮中勤めをしていた苅屋姫がここまで追いかけたが間に合わず、足摺をして悔しがったことから蹉跎の山と名付けられた。

 現在の蹉跎神社から東方向の更に高いところの見晴らしのいい場所に菅相塚と云うのがある。
 道真公はこの場所まで来て京を振り返ったとも云われている。
 そして菅相塚には苅屋姫の道真公の出発した様子を見送った様子も石像にされている。
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 この苅屋姫のことを後日聞いた道真公は、娘を不憫に思い、自像を彫り、娘に送ったと云われる。
 そして蹉跎の村人たちはこの像を祀る祠を建てたのがこの蹉跎神社の起源である。

 蹉跎神社は大坂の陣で戦火にまみえたが、木造は類焼を免れ、後に神社を再建し、現在に至っている。

プロフィール

藤白 怜

Author:藤白 怜
気まぐれに各地の城跡、神社仏閣、路端や公園の草花、街角の風景などあっちこち出掛けては写真を撮ったり、その土地の歴史遺産を訪ねたりしています。
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よろしくお願いします。
最近、小品集を別ページにてアップしました。
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併せてよろしくお願いします。

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