大阪府交野市(かたのし)星田にある徳川家康の陣所跡の碑である。
星田の陣所とは、周囲の堀が埋め尽くされた大坂城を攻撃し、豊臣一族を滅ぼすための戦争(夏の陣という)に、徳川家康は京都の二条城を出陣し大坂へ向かう行軍の途中で、この星田を陣所とし、一夜を明かしたところである。
碑文のタイトルは下記のように「神祖営趾之碑」である。
実は、その時から遡ること25年前、家康は信長が京の本能寺で自害した事を受け、急ぎ逗留していた堺から岡崎を目指した。
その時は生駒連山の西麓を辿り、山城の国から伊賀越えを目論み、途中の星田村に差し掛かったところ、不審な者に命を狙われている気配を悟り、星田村で一旦竹藪に潜み、星田の有力者であった平井氏に山城までの道を案内頼、事なきを得たと云われる。
その潜み薮は星田妙見の参道の傍にある。
平井氏を甚く気に入った家康は、今度も平井氏を頼りとし、平井屋敷に逗留した。
冒頭の石碑は現在の平井氏宅の塀に沿って行ったところにある。
但し、平井氏宅に逗留したのは家康とその側近だけで、軍の多くの者たちは近くの新宮山を中心として、布陣した。
新宮山は現在は星田公園となっていて、それなりに長屋門が模擬的に建てられている。
また、登場付近には旗掛け松という軍旗を建てた場所もあり、跡地の石碑がある。
家康の宿舎と新宮山との間には、現在は星田神社と星田寺があるが、この地も、現在の星田会館も、軍の野営地であったと推察できる。
家康はあくる日に星田から河内の国を縦断する形で大坂城に向かう。
これを阻止しようとし、家康の首を狙う豊臣方の木村重成は、星田を出たところで戦おうと東へ向かった。
そして、若江の付近で徳川軍と遭遇し、右翼の藤堂隊を退け意気が上がったが、久宝寺を守備していた井伊隊が駆け付け乱戦となった。
しかし木村隊にとっては、多勢に無勢、時と共に消耗して敢え無く敗れ、家康は楽々と大坂城に向かったのである。
尚、平井氏はその後星田村の庄屋となり、明治を迎えたと云われている。