『琉球国・首里城』
『伯耆富士大山』
『筑前国・福岡城』
福岡県福岡市の中央区にある福岡城の遺構「潮見櫓」と「大手門」である。
福岡城はよくご存じのように、黒田官兵衛(孝高)、長政父子が関ヶ原の戦いに功があったとして、筑前52万石が与えられ、現在の場所である福崎丘陵に築城したものである。
当初天守閣も建設されたようではあるが、幕府を慮って、取り壊したと云われている。
明治になって県庁が置かれたが、多くの建物は移築や取り壊され、文化財としてはあまり多くの建物は残っていない。
国の重要文化財として、多聞櫓と二の丸南隅櫓、県の重要文化財としてこの写真の櫓と門など、わずかである。
福岡という名前は、この福崎丘陵地を黒田家ゆかりの備前国福岡の地名に因み「福岡」と改めたものであると云われている。
城跡の大部分は広大な舞鶴公園となっている。
この公園内には平和台陸上競技場などのスポーツ施設があり、かつては西鉄ライオンズ(現ダイエーホークス)の平和台球場もあった。
また福岡市美術館や高等裁判所なども公園内にある。
『豊前国・小倉城』
『播磨国・明石城』
『播磨国・赤穂城』
兵庫県赤穂市にある赤穂城址に建つ大手隅櫓と大手門である。
播州赤穂城は15世紀の半ば、岡光広が加里屋城を築城、その後、姫路藩主池田輝政の弟・長政が領主となり大鷹城として築城された。
その後、赤穂藩が立藩されたが、池田氏は改易となり、浅野長直が5万3千石で入封した。
城主浅野氏の3代目が忠臣蔵で有名な浅野内匠頭(たくみのかみ)長矩で、良くご存じのように刃傷沙汰でお家断絶となり、永井氏、森氏と受け継がれ、森藩主体制で廃藩置県を迎えた。
明治になって廃城となり、建物は順次取り壊された。
現在は、この写真の他に本丸表門や高麗門などが再建されている。
また、本丸庭園や二の丸庭園は国の名勝に指定されている。
『加賀国・金沢城菱櫓』
北陸石川県金沢市にある金沢城の一部、復元された河北門を入った所にある塀越しに見た菱櫓で、これも復元されたものである。
ご存じ加賀百万石の前田家の居城で城域は公園として多くの観光客を楽しませている。
元々は加賀一向宗本願寺の拠点として知られる尾山御坊であったが、佐久間盛政が攻め落とし支配した。
その後、秀吉に賤ヶ岳の功で重用された前田利家が入城し、尾山城となった。
後、高山右近や子の利長の改修を経て、江戸期には金沢城という名前で呼ばれるようになったものである。
金沢という地名の由来は、山芋を掘って売っていた藤五郎という人物が芋を掘ったところ芋の髭に砂金がついていたので、その砂金を現在の兼六園「金城霊沢(きんじょうれいたく)」で洗ったと云う。
その泉が金沢の地名になったといわれている。
『越中国・富山城址』
『和気清麻呂』
『美作国・津山城』
岡山県津山市にある津山城の備中櫓である。
津山城は元々、美作国の守護大名であった山名氏が鶴山丘陵に築いた城である。
応仁の乱後、山名氏が衰退し廃城となっていた。
江戸時代になって、本能寺事件で討ち取られた森蘭丸の末弟・森忠政が入封し津山藩を立藩、津山城の建設に着手し、地名も「鶴山」から「津山」に改められたものである。
しかし城郭は明治の廃城ですべて破却された。
日本三大平城、100名城の一つであり、幾重にも重なった石垣は見事なものであり、国の史跡に指定されている。
現在の城内には、この備中櫓、塀が再建されている。
備中櫓の名付けは、藩主森忠政の娘が鳥取藩主池田備中守に嫁いでいて、備中守来城の折りに整備された接待所であることに由来する。
『岡山・閑谷学校』
岡山県備前市の山間部に位置する「閑谷学校(しずたにがっこう)」である。
この閑谷学校は岡山藩主池田光政によって設立された藩立の学校で藩士の子弟のみならず庶民の子弟も教育したことから、わが国最初の学校と云われる。
さらに門戸を広くして他藩の子弟も学ぶことができたと云われている。
この写真は講堂で集合教育の場である。
この建物は1701年の築で、国宝に指定されている。
また左の小さな建物は小斎で、藩主が立ち寄った時の居室となったものである。
生徒達はこの講堂の後ろ側にある火除山の向こうの学坊で寝泊まりと日常教育を受けていた。
また敷地内には藩主光政を祀る閑谷神社、孔子を祀る聖廟などがあり、独特の雰囲気と風景を醸し出している。
『奈良・高天彦神社』
『奈良・千体石仏』
奈良県御所(ごせ)市の「九品寺(くほんじ)」に祀られている「千体石仏」である。
今から200年ほど前に境内裏の竹藪を開墾したときに、土の中から無数の石仏が発見された。
それをこのように斜面に左右対称に整頓し、祀ったものである。
京都化野念仏寺の千体石仏とは、また違った供養の仕方である。
この石仏は南北朝の頃、付近の楢原城の兵士たちが自分の身代わりに奉納したものと云われていて、「身代わり千体地蔵」と呼ばれている。
石仏の数は1600~1700体とされている。
近年でも、大雨で山肌が露出した時に石像が見つかることがある。
尚この九品寺は奈良時代の僧行基が開基した寺である。
本尊は平安時代後期に彫られた木造阿弥陀如来坐像で重文に指定されている。
『延暦寺Ⅲ・横川』
『延暦寺Ⅱ・西塔』
『延暦寺Ⅰ・東塔』
『滋賀・堅田浮御堂』
『高松・栗林公園Ⅱ」
『高松・栗林公園Ⅰ』
四国の玄関、香川県高松市にある栗林公園の風景である。
栗林公園は、讃岐高松藩に入府した水戸黄門の兄、松平頼重から5代かけて造られた藩の庭園である。
園内には沢山の池と木々などが配され、池を巡る回遊式の庭園で、国の特別名勝に指定されている。
そして特別名勝としては最大の広さと云われ、ミシュラン観光ガイドには三ツ星で登録されていて、外国人の観光客も多い。
写真は群鴨池(ぐんおうち)と云い、江戸時代には鴨猟に用いられた池である。
もちろん現在でも鴨や鯉が池で遊んでいるのを見ることができる。
いくつかの茶室も配されている。
高松藩は千利休の曾孫の一翁宗守が出仕して武者小路千家を興したところでもあり、その茶室旧日暮亭も池畔にある。
『京都東寺Ⅲ・観智院』
東寺の塔頭「観智院」の庭「五大の庭」である。
観智院は東寺本坊の北大門を出て小路を進んだ右側にある。
塔頭でありながら、別格本山ともなっている。
小路を挟んだ左側は東寺経営の学校「洛南中・高校」の体育館で、運動部であろうか賑やかな掛け声が聞こえてくる。
観智院は東寺だけでなく、真言宗全体の勧学院と位置づけられていて、多くの学僧を輩出している。
創建は「杲宝(ごうほう)」という元学僧で、国宝「東宝記」という東寺の創建からの寺史を著わした人物でもある。
桃山時代の典型的な書院造である「客殿」は国宝となっていて、客殿の南に五大の庭がある。
また客殿には剣豪宮本武蔵の筆になる「鷲の図」「竹林の図」がある。
本堂には本尊の五大虚空蔵菩薩像があり、この像5体は唐の長安の青龍寺の本尊であったとの伝承がある。
『京都東寺Ⅱ・五重塔』
京都東寺の国宝五重塔である。
高さ約50mで、木造としては日本一の高さである。
その頂点は、傾斜地形である京都の街の鴨川の上流あたりと同じ高さである。
この塔は弘法大師が健在の時に建設が始まったが、大師は塔の完成を待たずに没してしまった。
さぞや残念なことであったろうと思われる。
塔の完成後、雷や火災で4度も焼失している。
現在のは徳川家光の寄進で建設された5代目である。
初層内部の須弥壇には金剛界四仏像と八大菩薩像を安置している。
金剛界五仏でその中心である大日如来の像はない。
塔の心柱を大日如来とみなしているからである。
東寺の塔は京都駅付近からその威容がよく見える。
「東寺の塔を左にて 留まれば七条ステーション
東寺東寺と呼びたつる 駅夫の声も勇ましや」
と、鉄道唱歌にも唄われている。
『京都東寺Ⅰ・金堂』
世界遺産の京都教王護国寺(東寺)の国宝の一つ「金堂」である。
平安京の造営にて正門である羅城門の東西に官立寺院「東寺」「西寺」が建立された。
それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、そして東国と西国とを守る国家鎮護の寺としてである。
これら両寺はそのときから数百年の間、京都市中の大寺院として、人々の信仰や学僧の勉学、あるいは不本意ながら合戦の陣所として活用されてきた。
西寺は戦国時代を最後に荒廃・消失したが、東寺は早くに弘法大師が嵯峨天皇から下賜され、その後、真言密教の根本道場として今日に至っている。
南北朝時代には、九州から京へ上ってきた足利高氏が本陣を構えたのもこの東寺である。
金堂の東にある東大門に向け、後醍醐天皇方の新田義貞の攻撃があったが、高氏方はこの門を決して開けず、戦いに応じなかったとのことでも知られる。
そのこと以来、東大門は不開門(あかずのもん)と云われることになる。