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『琉球国一之宮・波上宮』

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 琉球国一之宮「波上宮(なみのうえぐう)」である。
 那覇港を望む高台にある。
 はるか昔この高台から人々が海の彼方の海神の国の神々に豊穣や平穏を祈ったのがこの神社の始まりである。
 祭神は、伊弉冊尊 (いざなみのみこと)、速玉男尊 (はやたまをのみこと)、事解男尊 (ことさかをのみこと)である。

 太平洋戦争の沖縄戦の中で鳥居を残し全てが灰燼に帰してたが、戦後復興に着手された。
 ハワイ移民の寄進により本殿と社務所を再建、その後、拝殿も再建された。
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 この神社の敷地一帯が「波上(なんみん)」として那覇市より史跡・名勝文化財へ指定されている。

『琉球国・首里城』

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 沖縄県那覇市の丘陵地にある首里城(スイグスク)の正殿である。 
 琉球王朝の王城で、戦前はこの正殿などが国宝であったが、沖縄戦とその後の琉球大学建設により完全に破壊されて、当時のものとしては城壁などが残っている。
 平成の時代になって復元が行われ、主要な建物が復元されている。

 城跡は公園として整備され、首里城跡として世界遺産に登録されている。
 また国の史跡でもある。
 
 この正殿へはこれも再建された守礼門を潜って丘を登り、奉神門を入って本殿前広場である御庭に至る。
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守礼門
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奉神門

 首里城は高台であるので、那覇市内の景観を楽しむことができる。

『伯耆富士大山』

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 鳥取県西部に聳えている伯耆富士とも呼ばれている「大山」である。
 最高峰は剣ヶ峰で、標高1729mで、中国地方の最高峰でもある。

 奈良時代に山岳信仰の山として開かれ、山腹には大神山神社奥宮、大山寺阿弥陀堂などがある。
 中世には尼子氏や毛利氏などの戦国武将からも崇敬され、寄進や造営がなされたと云われる。
 明治の廃仏毀釈までは山全体が大山寺領とされ、一般の登山は禁止されていた。

 尚、大山は米子地区から眺めるとこのような富士山型に見えるが、北部から眺めると溶岩ドームが崩れた荒々しいドーム状に見え、北壁と呼ばれている。

『筑前国・福岡城』

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 福岡県福岡市の中央区にある福岡城の遺構「潮見櫓」と「大手門」である。
 
 福岡城はよくご存じのように、黒田官兵衛(孝高)、長政父子が関ヶ原の戦いに功があったとして、筑前52万石が与えられ、現在の場所である福崎丘陵に築城したものである。
 当初天守閣も建設されたようではあるが、幕府を慮って、取り壊したと云われている。

 明治になって県庁が置かれたが、多くの建物は移築や取り壊され、文化財としてはあまり多くの建物は残っていない。
 国の重要文化財として、多聞櫓と二の丸南隅櫓、県の重要文化財としてこの写真の櫓と門など、わずかである。

 福岡という名前は、この福崎丘陵地を黒田家ゆかりの備前国福岡の地名に因み「福岡」と改めたものであると云われている。

 城跡の大部分は広大な舞鶴公園となっている。
 この公園内には平和台陸上競技場などのスポーツ施設があり、かつては西鉄ライオンズ(現ダイエーホークス)の平和台球場もあった。 
 また福岡市美術館や高等裁判所なども公園内にある。

『豊前国・小倉城』

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 北九州市小倉北区にある小倉城の再建天守である。

 鎌倉時代からあった城であるが、豊臣秀吉の家臣の森勝信が入城し改修した。
 その後、森勝信は元の姓である毛利を名乗ることを許され、毛利勝信・勝永父子の城として知られる。

 関ヶ原の戦いの後、細川忠興が小倉に入城し改修した。
 この時、城下町も整備したと云われる。
 細川氏が肥後国へと改易となり、続いて明石城主であった小笠原忠真が小倉藩主となり、明治を迎えることになった。
 本丸御殿や天守は江戸の末期に焼失して、再建されていない。

 城跡は公園となっていて、ご当地出身の作家、松本清張の記念館も建てられている。

『播磨国・明石城』

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 兵庫県明石市にある明石城の巽櫓である。
 明石駅から北方向正面に見え、塀の両端には櫓が見える。その左側の櫓である。
 京都の伏見城から移築されたと云われ、重要文化財に指定されている。

 明石城は江戸初期に小笠原忠真が藩主として築城し、入城したものである。
 またその時に剣豪宮本武蔵が城下の町割りをしたと云い伝えられている。

 小笠原氏はその後九州小倉に移封となり、何度か藩主が変わったが、最終的には越前松平氏が藩主となり、明治まで続いて廃城となった。

 城跡は野球場や陸上競技場などを含む公園となっていて、市民の交流や憩いの場となっている。

『播磨国・赤穂城』

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 兵庫県赤穂市にある赤穂城址に建つ大手隅櫓と大手門である。
 播州赤穂城は15世紀の半ば、岡光広が加里屋城を築城、その後、姫路藩主池田輝政の弟・長政が領主となり大鷹城として築城された。

 その後、赤穂藩が立藩されたが、池田氏は改易となり、浅野長直が5万3千石で入封した。
 城主浅野氏の3代目が忠臣蔵で有名な浅野内匠頭(たくみのかみ)長矩で、良くご存じのように刃傷沙汰でお家断絶となり、永井氏、森氏と受け継がれ、森藩主体制で廃藩置県を迎えた。
 明治になって廃城となり、建物は順次取り壊された。
 
 現在は、この写真の他に本丸表門や高麗門などが再建されている。
 また、本丸庭園や二の丸庭園は国の名勝に指定されている。

『加賀国・金沢城菱櫓』

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 北陸石川県金沢市にある金沢城の一部、復元された河北門を入った所にある塀越しに見た菱櫓で、これも復元されたものである。
 ご存じ加賀百万石の前田家の居城で城域は公園として多くの観光客を楽しませている。

 元々は加賀一向宗本願寺の拠点として知られる尾山御坊であったが、佐久間盛政が攻め落とし支配した。
 その後、秀吉に賤ヶ岳の功で重用された前田利家が入城し、尾山城となった。
 後、高山右近や子の利長の改修を経て、江戸期には金沢城という名前で呼ばれるようになったものである。

 金沢という地名の由来は、山芋を掘って売っていた藤五郎という人物が芋を掘ったところ芋の髭に砂金がついていたので、その砂金を現在の兼六園「金城霊沢(きんじょうれいたく)」で洗ったと云う。
 その泉が金沢の地名になったといわれている。

『越中国・富山城址』

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 北陸富山市の富山城址公園に建つ富山城模擬天守である。
 戦後に建設されたもので、現在は富山市郷土博物館として利用されている。

 元々富山城の築城は室町時代とも戦国時代とも云われ、当時は神通川がこの辺りを流れており、それを取り込んだ堀に囲まれて、あたかも神通川に浮いているように見えることから、浮城とも云われていた。

 この城を巡って、信長と上杉勢との争奪戦、佐々成政が入ってから秀吉との争奪戦が繰り広げられたが、最終的には加賀前田氏が入り、富山藩が立藩され明治までに至っている。

 富山の街中にあり、ライトアップや、春には桜の名所として市民憩いの風景となっている。

『和気清麻呂』

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 岡山県和気町の和気神社の入り口に建っている和気清麻呂像である。
 和気神社は和気氏一族の氏神であり、和気清麻呂と和気広虫が祀られている。

 清麻呂には猪に纏わる逸話がある。
 法王道鏡に鹿児島に追放され、おまけに追っ手に追われたことがあった。
 その時清麻呂は追っ手に足の筋を切られたが、突如現れた三百頭の猪に助けられ、猪に警護され、足も治ったと云われる。
 その後、清麻呂は平城京に呼び戻されて、平安遷都などに尽力したのであった。

 清麻呂を祀るこの和気神社や京都の護王神社には狛犬ならぬ狛猪があり、足腰の神としても崇められている。

『美作国・津山城』

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 岡山県津山市にある津山城の備中櫓である。
 
 津山城は元々、美作国の守護大名であった山名氏が鶴山丘陵に築いた城である。
 応仁の乱後、山名氏が衰退し廃城となっていた。
  
 江戸時代になって、本能寺事件で討ち取られた森蘭丸の末弟・森忠政が入封し津山藩を立藩、津山城の建設に着手し、地名も「鶴山」から「津山」に改められたものである。
 しかし城郭は明治の廃城ですべて破却された。

 日本三大平城、100名城の一つであり、幾重にも重なった石垣は見事なものであり、国の史跡に指定されている。

 現在の城内には、この備中櫓、塀が再建されている。
 備中櫓の名付けは、藩主森忠政の娘が鳥取藩主池田備中守に嫁いでいて、備中守来城の折りに整備された接待所であることに由来する。

『岡山・閑谷学校』

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 岡山県備前市の山間部に位置する「閑谷学校(しずたにがっこう)」である。
 この閑谷学校は岡山藩主池田光政によって設立された藩立の学校で藩士の子弟のみならず庶民の子弟も教育したことから、わが国最初の学校と云われる。
 さらに門戸を広くして他藩の子弟も学ぶことができたと云われている。

 この写真は講堂で集合教育の場である。
 この建物は1701年の築で、国宝に指定されている。
 また左の小さな建物は小斎で、藩主が立ち寄った時の居室となったものである。

 生徒達はこの講堂の後ろ側にある火除山の向こうの学坊で寝泊まりと日常教育を受けていた。

 また敷地内には藩主光政を祀る閑谷神社、孔子を祀る聖廟などがあり、独特の雰囲気と風景を醸し出している。
 

『奈良・高天彦神社』

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 奈良県御所市の金剛山の東麓に鎮座する式内社名神大社の「高天彦(たかまひこ)神社」である。 
 「古事記」に云うところの天孫降臨の高天原(たかまがはら)で、江戸時代の初期まではこの地がその場所として考えられていた。
 
 社殿後方の白雲峯を御神体としている。
 周辺の谷には農家が散在しているが、いかにも神さびた雰囲気のするところである。

 日本各地には高天原があり、いずれも天孫降臨の地として伝承されている。
 もっともよく知られているのは宮崎県の北部、高千穂であろう…。

 元々は神話の世界であるので真実はないが、夢のある話でもある。

『奈良・千体石仏』

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 奈良県御所(ごせ)市の「九品寺(くほんじ)」に祀られている「千体石仏」である。
 今から200年ほど前に境内裏の竹藪を開墾したときに、土の中から無数の石仏が発見された。
 それをこのように斜面に左右対称に整頓し、祀ったものである。
 京都化野念仏寺の千体石仏とは、また違った供養の仕方である。

 この石仏は南北朝の頃、付近の楢原城の兵士たちが自分の身代わりに奉納したものと云われていて、「身代わり千体地蔵」と呼ばれている。
 石仏の数は1600~1700体とされている。
 近年でも、大雨で山肌が露出した時に石像が見つかることがある。

 尚この九品寺は奈良時代の僧行基が開基した寺である。
 本尊は平安時代後期に彫られた木造阿弥陀如来坐像で重文に指定されている。

『延暦寺Ⅲ・横川』

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 叡山伽藍の北部、第3世天台座主慈覚大師円仁によって開かれた横川(よかわ)区域にある横川中堂である。
 元は国宝であったが、落雷で焼失し、1971年に再建されたものである。
 このお堂は、遣唐使船をモデルとしたと云われている。

 またこの区域には元三大師の住居跡と伝えられる四季講堂・元三大師堂もある。
 元三大師良源は現在のおみくじの形を考え出したと云われていて、元三大師堂はおみくじ発祥の地ともなっている。

『延暦寺Ⅱ・西塔』

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 叡山延暦寺西塔という区域にある「瑠璃堂」、重要文化財である。
 織田信長の叡山焼き討ちを唯一免れたお堂である。

 お堂は山頂のドライブウエーの西側京都側で、少し入り組んだところにある。
 隣には勧学院であろうか?学問所のような建物もある。
 そして直下は深い谷でもある。

 尚、西塔には、転法輪堂、弁慶の担い堂など、幾つかのお堂が静かに佇んでいる。

『延暦寺Ⅰ・東塔』

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 延暦寺の根本中堂の回廊である。
 延暦寺は平安時代初期に僧最澄によって開かれた寺院で、京都の街の東北部にある比叡山848m全域を境内としている。

 「鴨川の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と白河法皇は嘆いたと云われるその山法師である。

 根本中堂は、戦国時代に織田信長軍に焼き討ちにあった後、江戸時代になって3代将軍家光によって再建されたもので、国宝となっている。

 根本中堂には最澄自作の秘仏・薬師如来立像を安置し、その前には最澄の時代から続く「不滅の法灯」が灯っている。

 この根本中堂を中心とする伽藍の区域は東塔(とうどう)と呼ばれ、最も参拝者の多いところである。

『滋賀・堅田浮御堂』

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 滋賀県大津市堅田にある臨済宗大徳寺派満月寺浮御堂である。
 近江八景「堅田の落雁」で名高い所で、通称堅田の浮御堂とも云われる。

 このお堂は、平安時代に恵心僧都が湖上安全と衆生済度を祈願して建立したと云う。

 先代の堂は昭和9年に室戸台風によって倒壊、現在の建物は昭和12年の再建によるものである。
 境内の観音堂には、重要文化財である聖観音座像が安置されている。

 俳人松尾芭蕉も訪れている所である。

『高松・栗林公園Ⅱ」

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 栗林公園の中心的存在である「掬月亭 (きくげつてい)」である。
 歴代藩主が使用した数寄屋造りの大茶屋で、開放感のある建物である。
 玄関はなく、周囲のいろんな場所に沓脱石が置かれ、どこからでも出入りができる構造となっている。

 この掬月亭の名前は、唐詩の「水を掬すれば月手にあり」の句から拝借したものと云われ、手前の南湖と合わさって、見事な景観を醸し出している。

 この掬月亭、南湖、手前の偃月橋、そして背景の紫雲山を一望できる場所がある。
 「飛来峰(ひらいほう)」という園内最高地点で、富士山型の山になっている。
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 ここからの景観は、この庭園の配置が巧みに計算されていることが良くわかる。

『高松・栗林公園Ⅰ』

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 四国の玄関、香川県高松市にある栗林公園の風景である。
 栗林公園は、讃岐高松藩に入府した水戸黄門の兄、松平頼重から5代かけて造られた藩の庭園である。

 園内には沢山の池と木々などが配され、池を巡る回遊式の庭園で、国の特別名勝に指定されている。
 そして特別名勝としては最大の広さと云われ、ミシュラン観光ガイドには三ツ星で登録されていて、外国人の観光客も多い。

 写真は群鴨池(ぐんおうち)と云い、江戸時代には鴨猟に用いられた池である。
 もちろん現在でも鴨や鯉が池で遊んでいるのを見ることができる。

 いくつかの茶室も配されている。
 高松藩は千利休の曾孫の一翁宗守が出仕して武者小路千家を興したところでもあり、その茶室旧日暮亭も池畔にある。

『京都東寺Ⅲ・観智院』

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 東寺の塔頭「観智院」の庭「五大の庭」である。

 観智院は東寺本坊の北大門を出て小路を進んだ右側にある。
 塔頭でありながら、別格本山ともなっている。
 小路を挟んだ左側は東寺経営の学校「洛南中・高校」の体育館で、運動部であろうか賑やかな掛け声が聞こえてくる。

 観智院は東寺だけでなく、真言宗全体の勧学院と位置づけられていて、多くの学僧を輩出している。
 創建は「杲宝(ごうほう)」という元学僧で、国宝「東宝記」という東寺の創建からの寺史を著わした人物でもある。

 桃山時代の典型的な書院造である「客殿」は国宝となっていて、客殿の南に五大の庭がある。
 また客殿には剣豪宮本武蔵の筆になる「鷲の図」「竹林の図」がある。

 本堂には本尊の五大虚空蔵菩薩像があり、この像5体は唐の長安の青龍寺の本尊であったとの伝承がある。

『京都東寺Ⅱ・五重塔』

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 京都東寺の国宝五重塔である。
 高さ約50mで、木造としては日本一の高さである。
 その頂点は、傾斜地形である京都の街の鴨川の上流あたりと同じ高さである。

 この塔は弘法大師が健在の時に建設が始まったが、大師は塔の完成を待たずに没してしまった。
 さぞや残念なことであったろうと思われる。

 塔の完成後、雷や火災で4度も焼失している。
 現在のは徳川家光の寄進で建設された5代目である。

 初層内部の須弥壇には金剛界四仏像と八大菩薩像を安置している。
 金剛界五仏でその中心である大日如来の像はない。
 塔の心柱を大日如来とみなしているからである。

 東寺の塔は京都駅付近からその威容がよく見える。
「東寺の塔を左にて 留まれば七条ステーション
 東寺東寺と呼びたつる 駅夫の声も勇ましや」
 と、鉄道唱歌にも唄われている。

『京都東寺Ⅰ・金堂』

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 世界遺産の京都教王護国寺(東寺)の国宝の一つ「金堂」である。
 
 平安京の造営にて正門である羅城門の東西に官立寺院「東寺」「西寺」が建立された。
 それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、そして東国と西国とを守る国家鎮護の寺としてである。

 これら両寺はそのときから数百年の間、京都市中の大寺院として、人々の信仰や学僧の勉学、あるいは不本意ながら合戦の陣所として活用されてきた。

 西寺は戦国時代を最後に荒廃・消失したが、東寺は早くに弘法大師が嵯峨天皇から下賜され、その後、真言密教の根本道場として今日に至っている。 

 南北朝時代には、九州から京へ上ってきた足利高氏が本陣を構えたのもこの東寺である。
 金堂の東にある東大門に向け、後醍醐天皇方の新田義貞の攻撃があったが、高氏方はこの門を決して開けず、戦いに応じなかったとのことでも知られる。
 そのこと以来、東大門は不開門(あかずのもん)と云われることになる。

『興福寺Ⅳ・五重塔』

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 興福寺の4つ目の国宝、ご存じ五重塔である。

 興福寺の創建者藤原不比等の娘である光明子、すなわち聖武天皇の光明皇后の発願で建てられたものである。
 その後5回の被災にあっていて、現在のは室町時代の再建である。
 高さ50m強で、初層には薬師三尊像、釈迦三尊像、阿弥陀三尊像、弥勒三尊像が安置されている。

 この五重塔と云えば、南の猿沢の池から見上げる姿が、奈良観光の名所として良く紹介されていたが、現在は塔との間の木が高くなったのであろうか、かつてのようにスッキリと見えないのは残念である。

『興福寺Ⅲ・三重塔』

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 興福寺の国宝三重塔である。
 北円堂とともに興福寺最古の建物で、高さ19m強である。

 元々は平安末期に崇徳天皇の中宮・皇嘉門院により創建されたものであるが、その後被災して、鎌倉時代になって再建されたものと云われている。
 鎌倉時代の建物であるが、木割が細く軽やかで優美であることから、平安時代の建築様式を良く伝えているものと思われる。

 塔の建っている場所は興福寺境内の西南の隅で、一段と低い所である。
 外からも境内からも見えないので、この塔まで足を運ぶ人は少なく、静かに立っている塔である。
プロフィール

藤白 怜

Author:藤白 怜
気まぐれに各地の城跡、神社仏閣、路端や公園の草花、街角の風景などあっちこち出掛けては写真を撮ったり、その土地の歴史遺産を訪ねたりしています。
よろしかったら覗いてみて下さい。
よろしくお願いします。
最近、小品集を別ページにてアップしました。
右側リンクの「悠々紀行あっちこち」です。
併せてよろしくお願いします。

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