『大津・粟津の晴嵐』
『ドクダミ』
『京都・洞ヶ峠茶屋』
国道1号線枚方バイパスの、大阪と京都の府境に洞ヶ峠というところがある。
大阪側からも京都側からもダラダラした登りの峠である。
この峠の頂上の道の西側に「洞ヶ峠茶屋」というのがある。
物心ついた時からここにある結構古い茅葺の古民家である。
この茶屋の少し西の円福寺という寺の参道入り口のところが東高野街道であるので、
歴史はかなり古いものかも知れない。
名物は「ぼた餅」、一度味合わないといけない。
洞ヶ峠は、秀吉が中国大返しで京に上ってきて、京を護る光秀軍と戦った山崎の合戦(天王山の合戦)で、光秀から参軍要請された大和の筒井順慶が、どちらに付こうか戦況を見守ったところとされている。
俗に「洞ヶ峠を決め込む」という日和見の代名詞のような諺となっている。
しかし、ここからはどう頑張っても山崎方面は見えないし、距離もかなりある。
おそらくは、この場所に出陣はしていなかったのだろうと思われる。
そのような洞ヶ峠である。
『京都・石清水八幡宮』
石清水八幡宮は、京都三川(木津川、鴨川、桂川)が合流するその付け根、大阪との境の男山という小高い山の頂上にある。
その合流点の向こうには、合戦で有名な天王山が間近にあり、大阪から京都へ向かう関門となっている。
この八幡宮、平安建都の後、清和天皇の命により建立され、京都の南西の裏鬼門を守護する神とされた。
また、水運要路の神として、行きかう舟を守り、皇室始め、源氏を始祖とする征夷大将軍の武家にも、氏神として信仰篤かったようである。
この石清水、1000年もの長きに渡り、都のありようを眺めて来たのであった。
さて、兼好法師の「徒然草第52段」、
『仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩より詣でけり。
極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。
下の社「頓宮」
さて、かたへの人にあひて、
「年比思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそ おはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」
とぞ言ひける。
少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。』
との、逸話まである石清水である。
『近江富士』
『琵琶湖疏水』
『京都・伏見の酒蔵』
『サクランボ』
『薔薇と港と』
『菖蒲or杜若』
「いずれアヤメかカキツバタ」
いずれ劣らぬ美人が二人いて、優劣がつけがたいほど素晴らしいという時に使われる言葉である。
アヤメ(菖蒲)は「文目」とも書かれ、花弁の付け根に網目模様があるのが特徴である。
カキツバタ(杜若)は花弁の付け根に白の目型模様があり、かつて青紫色の染料として使われていたことから「書付花」と呼ばれ、それが訛った名付けである。
それぞれの生育地は、アヤメが畑のような乾燥地、カキツバタは水辺の湿地帯であるのも間違いがない。
この花は通りすがりの道端に咲いていたのでアヤメが妥当であるが、花弁に網目模様がなく白い目型模様であるので、カキツバタとも云える。
アヤメかカキツバタ、どちらであろうか?
『ある運動会』
『薔薇一輪』
『愛宕山遠望』
京都市内から東に見上げる山が比叡山なら、西に見上げる山は愛宕山(924m)である。
中央の尖っているところの山頂には、愛宕神社がある。
この神社は防火・鎮火の神として崇められていて、「千日参り」と言って、7月31日から8月1日にかけてお参りすると、普段の日にお参りするより千日分の御利益があると云われている。
また3歳までの子供が参ると、その子は一生火難に合わないと云われている。
戦国時代には、この山頂の愛宕神社で、織田信長の本能寺事件の前の日、犯人にでっち上げられた明智光秀が連歌遊びをしてたと小説には興味本位で書かれているが、この山の高さと、光秀の亀岡の亀山城から登山道を見たら、ありえないことであろう。
そんな曰く付の愛宕山ではある。
『比叡山遠景』
『シラン』
『中之島公園』
靱公園バラ園に引き続き中之島のバラ園にも行ってみた。
最寄駅は、京阪なにわ橋か北浜、地下鉄では北浜である。
こちらは堂島川と土佐堀川に挟まれたところで、CAFEレストランもあり、また違う雰囲気である。
ベンチでは休憩中のビジネスマンやビジネスウーマンも、弁当を食べたり携帯をしたり…。
花の咲き具合は靱と同様に5~6分咲きである。
この黄色いバラは「荒城の月」という品種である。
そしてこのバラ園、靱と一体運用されているようである。
「〇〇はどこにありますか?」って、職員さんに聞いてみたら、
「靱のあのあたりにありますよ…」
と答えが返ってきた。
バラを眺めながら、暫しの憩いの時間を過ごしたのであった。