兵庫県淡路島洲本市にある洲本城跡模擬天守である。
洲本城は16世紀の初頭、熊野水軍の一族である安宅水軍が紀淡海峡を望む三熊山125mに築いた城である。
安宅氏はご存じのようにあの三好長慶の末の弟冬康を養子とし、三好連合軍として海上を制していたのであった。
洲本城もその後、戦国の支配体系により目まぐるしく城主が変わったが、現在遺構として残っているのは石垣や土塁、堀などで、建物は殆ど残されていない。
大手門跡から登ってみる。
そして腰曲輪跡を過ぎる。
石垣が当時を偲ばせる。
月見台と云われる馬屋跡は、現在は駐 車場となっている。
この場所から眼下の洲本温泉街、そして遠く紀淡海峡を望むことができる。
海峡の右手は紀伊水道を経て太平洋へ、左手は大阪湾へと繋がっている。
洲本城は織田信長軍の淡路攻めによって織田軍のものとなったが、そのあと四国統一を目指す長宗我部軍に奪われた。
信長が本能寺で横死した後、秀吉が各地を攻めて行くが、その一環として淡路も攻略し、配下の仙石秀久が城主となり、瀬戸内から九州攻めの拠点となった。
その後関ヶ原で武功のあった脇坂安治が城主となった。
洲本城の縄張りは、この仙石、脇坂の時に形作られたと云われる。
図の右下が大手門で、本丸を囲んで西の丸、南の丸、東の丸と配置されている。
本丸へ至る大石段を横に見て、南の丸との間を西ノ丸に向かう。
西ノ丸は上図からは外れている、細い道をや階段を通り、本丸から5分ほどの距離にある。
また途中には残念石も置かれている。
本丸石垣は見事である。
その上に天守が聳えている。
西の丸からの入口である搦手虎口を登る。
本丸広場である。
周囲には武者走台と云う石垣が積まれている。
天守台に上がってみる。
天守は近代建築である。
石垣は吹き抜けとなっていて、天守閣への入口も見られない。
またこの場所から洲本の港が良く見える。
かつては大阪との船の往来で賑やかであったが、今は市民の憩いの場となっている。
本丸の東側の石垣である。
この下も広い場所であるが、どのように利用されていたのかは不明である。
さらに下ると庭園「日月(じつげつ)の池」がある。
更に東へ向かう。
東の丸の跡であるが雑木林に覆われていて、見学は不可能である。
その東には洲本測候所、下から上ってくる東一の門があり、更に東には広い武者溜がある。
三熊山の北の平地には、城主などの館が築かれていた。
現在は役所や学校、そして神社仏閣や一般の住宅地となっている。
その中心に洲本八幡神社がある。
その境内に金天閣という洲本城の遺構が唯一存在する。
金天閣は江戸時代に淡路をも領地とした蜂須賀氏が建てた洲本城の玄関および書院である。
また神社から天守を見上げることもできる。
前後するが洲本城は脇坂氏が伊予大洲に転府となった後、藤堂高虎預かりの城となった。
そして池田氏が淡路を領地とすると城を廃城とし、南の由良城を主城とした。
大坂の陣の後、阿波の蜂須賀氏に淡路一国が加増された。
蜂須賀氏は麓に館を設け、淡路を統治し、明治の廃藩置県まで続いたのであった。