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『淡路国・叶堂城跡』

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 兵庫県南あわじ市にある叶堂(かのど)城跡である。
 現在は感応寺と云う寺院の一部となっている。

 叶堂城は、先に訪問した志知城に代って、戦国時代に淡路島西部の瀬戸内海に注ぐ三原川の河口付近に築かれた城である。
 秀吉の淡路侵略進出により志知城は加藤嘉明が治めたが、嘉明の伊予への転府後、直轄領となり石川氏が代官となった。
 そしてその後志知城を廃城とし、海運に都合がよいこの地に叶堂城を築いた。
 しかし石川氏は関ヶ原で西軍について敗れ、そのあと淡路は阿波の国とともに蜂須賀氏の領地となり、叶堂城は廃城となった。

 叶堂城の遺構としては、穴太(あのう)積の石垣や堀跡が残っている。
 また穴太積みの説明碑も建てられている。
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 叶堂城は、元々感応寺を移転疎開させ築城されたものである。
 廃城となった跡に感応寺が戻って来て、現在がある。
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 小高い丘の上は、恐らく物見櫓のような天守があったものと思われるが、廃城後に元に修復されたものであろう。
 丘の上から三原川の河口も見える。
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 また丘の下の広い場所は主郭があったと思われるが、現在は感応寺の本堂などがある広い境内である。
 三原川では鷺が遊ぶ風景も見られた。
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『淡路国・志知城跡』

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 兵庫県南あわじ市志知の県道志知交差点の東南にある志知(しち)城跡である。
 この森は堀を周囲に配していて、この森の中は本丸二ノ丸で、石柱が建てられている。
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 この場所に行くには、堀に架けられた木橋を渡ることになるが、周辺は住宅地や田畑になっていて極めて分かりにくい場所にある。
 また本当は堀だったのでろうが水が干上がってしまっているところもある。
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 志知城跡は本丸、二ノ丸とそれを囲む堀跡が残っているだけであるが、それはそれで趣がある。

 志知城は鎌倉時代に土地の豪族菅氏により築城された城である。
 その後菅氏は管領細川氏に与し、三好氏が覇権を持った時は三好氏傘下の安宅氏に与し、そして長宗我部軍と戦った。
 しかし秀吉の淡路攻めにて落城し、退散した。
 秀吉は、黒田官兵衛をこの城に配し、守らせたと云われるが、真偽のほどは不明である。
 そのあと秀吉は洲本城に脇坂安治を、この志知城に加藤嘉明を配した。
 志知城の縄張りは主に嘉明の手によるものと云われている。

 嘉明が伊予国に転府になった後、志知は秀吉の直轄領となり代官が置かれた。
 しかし新代官所として三原川河口近くに叶堂城を築き、そちらに移転し、志知城は廃城となったと云われる。

 志知城のすぐ南に声明寺という寺院がある。
 文化財を有する寺であるが、この寺は最初に志知城を築いた菅氏の菩提寺でもある。
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『淡路国・洲本城跡』

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 兵庫県淡路島洲本市にある洲本城跡模擬天守である。
 洲本城は16世紀の初頭、熊野水軍の一族である安宅水軍が紀淡海峡を望む三熊山125mに築いた城である。
 安宅氏はご存じのようにあの三好長慶の末の弟冬康を養子とし、三好連合軍として海上を制していたのであった。

 洲本城もその後、戦国の支配体系により目まぐるしく城主が変わったが、現在遺構として残っているのは石垣や土塁、堀などで、建物は殆ど残されていない。

 大手門跡から登ってみる。
 そして腰曲輪跡を過ぎる。
 石垣が当時を偲ばせる。
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 月見台と云われる馬屋跡は、現在は駐 車場となっている。
 この場所から眼下の洲本温泉街、そして遠く紀淡海峡を望むことができる。 
 海峡の右手は紀伊水道を経て太平洋へ、左手は大阪湾へと繋がっている。
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 洲本城は織田信長軍の淡路攻めによって織田軍のものとなったが、そのあと四国統一を目指す長宗我部軍に奪われた。
 信長が本能寺で横死した後、秀吉が各地を攻めて行くが、その一環として淡路も攻略し、配下の仙石秀久が城主となり、瀬戸内から九州攻めの拠点となった。
 その後関ヶ原で武功のあった脇坂安治が城主となった。
 洲本城の縄張りは、この仙石、脇坂の時に形作られたと云われる。
 図の右下が大手門で、本丸を囲んで西の丸、南の丸、東の丸と配置されている。
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 本丸へ至る大石段を横に見て、南の丸との間を西ノ丸に向かう。
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 西ノ丸は上図からは外れている、細い道をや階段を通り、本丸から5分ほどの距離にある。
 また途中には残念石も置かれている。
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 本丸石垣は見事である。
 その上に天守が聳えている。
 西の丸からの入口である搦手虎口を登る。
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 本丸広場である。
 周囲には武者走台と云う石垣が積まれている。
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 天守台に上がってみる。
 天守は近代建築である。 
 石垣は吹き抜けとなっていて、天守閣への入口も見られない。
 またこの場所から洲本の港が良く見える。
 かつては大阪との船の往来で賑やかであったが、今は市民の憩いの場となっている。
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 本丸の東側の石垣である。
 この下も広い場所であるが、どのように利用されていたのかは不明である。
 さらに下ると庭園「日月(じつげつ)の池」がある。
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 更に東へ向かう。
 東の丸の跡であるが雑木林に覆われていて、見学は不可能である。
 その東には洲本測候所、下から上ってくる東一の門があり、更に東には広い武者溜がある。
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 三熊山の北の平地には、城主などの館が築かれていた。
 現在は役所や学校、そして神社仏閣や一般の住宅地となっている。
 その中心に洲本八幡神社がある。
 その境内に金天閣という洲本城の遺構が唯一存在する。
 金天閣は江戸時代に淡路をも領地とした蜂須賀氏が建てた洲本城の玄関および書院である。
 また神社から天守を見上げることもできる。
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 前後するが洲本城は脇坂氏が伊予大洲に転府となった後、藤堂高虎預かりの城となった。
 そして池田氏が淡路を領地とすると城を廃城とし、南の由良城を主城とした。
 大坂の陣の後、阿波の蜂須賀氏に淡路一国が加増された。
 蜂須賀氏は麓に館を設け、淡路を統治し、明治の廃藩置県まで続いたのであった。

『伊予国・川之江城跡』

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 愛媛県四国中央市川之江町にある川之江城跡である。
 川之江は四国四県を走る高速道路4本が全て集まるポイントで、昔から陸上海上交通の要衝として栄えた街である。
 また近代になって製紙業が立地し全国的にも生産量の高いところである。
 先ごろ世間を騒がせたDO製紙の工場地でもある。

 川之江城は南北朝時代に南朝方に与した河野氏の家臣土肥義昌によって築かれたとされる。
 その後長宗我部方の城となったり、再び河野方の城となったりしたが、秀吉の四国平定後は小早川、福島、池田などが城主となった。
 最終的には関ヶ原の後、伊予松山藩藩主となった加藤義明の時に一国一城令により廃城となった。

 川之江城跡は海に面した独立の鷲尾山62mの一帯である。
 現在ある川之江城の建物は、川之江市市制30周年を記念して昭和の終盤に模擬再建されたものである。
 その建造物は天守、櫓門、涼櫓である。
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 上掲の石碑のところから櫓門を入ると枡形の石垣がある。
 右手の石垣は黒くなっているので、戦火の跡かもしれない。
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 石垣を過ぎると広い場所に出てその先に天守が建っている。
 写真は奥の天守側から見たものであるが、この頂上の広場は本丸跡であろう。
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 戦国の川之江城は廃城となったが、その後藩主を一柳直家とした川之江藩が立藩された。
 しかし城再建を待たずに藩主が亡くなったため、領地没収で廃藩となり、川之江は天領となって明治を迎えている。

『伊予国・今治城跡』

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 愛媛県今治市にある今治城跡である。
 今治城は江戸時代になって伊予の国を治める築城名人の徳川大名藤堂高虎により築城されたのもである。
 日本100名城の一つ、また日本三大水城の一つに挙げられている。

 堀は三重になっているが、水城という所以である海水が引き込まれていて、海から直接船が出入りできる水系となっている。
 訪問した時も堀を覗いてみると、クロダイらしきものが泳いでいたのが確認できた。

 当初、天守も築城されたようであるが、徳川の天下普請により丹波亀山城へ移築され、その後天守の無い城となっている。
 遺構は見事な石垣群と堀のみで、昭和の時代に天守、平成になってその他の建物が再建されている。
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 正面に山里櫓、奥に天守が望める。
 そして山里櫓を城内から見たものであるが、左手に高麗門が見える。
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 入城は堀に設けられた土橋を渡って黒鉄門から入る。
 黒鉄門の石垣には一つだけ大きな石が埋められている。
 築城奉行の渡辺勘兵衛に因んだもので、勘兵衛石と呼ばれる。
 花崗岩で16.5屯もあるそうである。
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 黒鉄門を入ると二ノ丸跡で、藩主の居館があったところである。
 広場には藤堂高虎の像も建てられている。
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 二ノ丸から櫓門を潜り一段と高いところが本丸、天守である。
 本丸跡には吹揚神社の本拝殿が鎮座している。
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 今治城は藤堂氏がしばらくの間城主であったが、高虎は伊勢国に移封、養子の高吉は名張へ移封された。
 その後、久松松平家が藩主として入城し、明治まで続いたのち廃藩廃城となり、建物は破却された。

 尚、吹揚神社は廃城後に今治市内の神明宮、八幡宮、蛭子宮、厳島宮を合祀し、そして更に藩祖藤堂高虎をも祀っている神社である。

『伊予国・能島城跡』

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 愛媛県今治市のしまなみ海道の伯方島、鵜島の南にあり、大島の東にある能島と鯛崎島とに能島(のしま)城があった。
 分かりにくい写真であるが、右奥の高い島は鵜島、左奥は大島である。
 そして手前の左側の島が能島、右の島は鯛崎島である。

 この能島城は、村上水軍のうちの能島水軍と呼ばれる水軍が築城したものである。
 その領袖は村上武吉と云われている。

 能島には一般交通手段がないので行くことはできない。
 海岸べりから島を眺めただけであった。

 上の写真を島の正面写真として、左側(西方向)から眺めると、東屋のあるところが三ノ丸、その奥の一段と高いところが二ノ丸、本丸跡である。
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 正面から眺めると、横に長く石垣が連なっている。
 この場所は軍船の繋留場であったと云われている。
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 尚、能島の右の鯛崎島には出丸があったと云われている。
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 この大島には村上水軍博物館がある。
 入口に村上武吉の像が建てられている。
 また武吉丸という復元された小型高速船の小早舟も展示されている。
 また毛利に与して関ヶ原を戦った武吉の子の景親の像もある。
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 尚、能島城は秀吉の時代の海賊禁止令とともに廃城となった。

『伊予国・甘崎城跡』

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 愛媛県今治市の大三島の東に浮かぶ古城島である。
 この島には戦国から江戸期にかけて甘崎(あまざき)城が築城されていた。
 伊予の国人越智(おち)氏により築かれた城で、戦国時代には来島(くるしま)村上水軍の拠点として機能したと云われている。
 甘崎城とは、海人(あま)を取り締まる防人(さきもり)の城から来ているとされる。

 その後、豊臣秀吉が瀬戸内海の制海権を握ると、藤堂高虎が今治城の支城として支配し、その後高虎の移封に伴い廃城となったと云われる。
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 この島、城跡は大潮の時に陸続きとなる特徴がある。
 城跡の探索や周囲に張り巡らされた遺構の石垣が見えるとのことである。

 大三島は瀬戸田のレモンで知られる生口島の南にある島で、島間には世界最大の斜張橋多々羅大橋がかけられている。
 大橋から城跡である古城島も眺めることができる。
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 蛇足であるが、かつて「ひょっこりひょうたん島」と云う人形劇テレビドラマがあった。
 この古城島はそのモデルとなった島としても知られている。

『しまなみ海道・因島水軍城』

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 広島県尾道市因島にある因島水軍城である。
 この模擬城は観光施設として今から30年ほど前に築城されたもので、戦国時代に実在したものの復元ではない。

 しかし戦国時代にはこの因島を拠点とする因島村上水軍は実在した。
 毛利に与し、厳島に陶氏を攻めたり、大坂の石山本願寺の戦いで織田信長の九鬼水軍と戦ったりした。
 因島村上には居城はあったと思われるが、何処とは特定できていないようである。

 この模擬城の麓には金蓮寺という寺がある。
 そこは因島村上氏の菩提寺であり、歴代の墓もある。
 恐らくは寺の敷地の部分にこの城が建てられたのであろうかと思われる。
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 それはそれとして、水軍城に登ってみる。
 登り始めて城を見上げ、しばらくすると城門に達する。
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 城門を潜り、階段を登ると冒頭の風景に達する。
 これは隅櫓を模擬的に再現したものである。
 頂上に達するとそこには隅櫓と少しの広場がある。
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 また隅櫓と広場を挟んで本丸、二の丸が造られている。
 本丸には貴重な資料が展示されているが、二の丸は水軍の軍議の様子が再現されている。
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 この水軍城から遠くを見渡しても海は見えない。
 最初は物見の櫓があったのかと思ったが、そうではなく、恐らくは詰めの城のようなものがこの辺りにあり、それをイメージしたものと思われる因島水軍城であった。
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『摂津国・麻田藩旧蹟』

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 大阪府豊中市の蛍池駅近くにある江戸時代の麻田藩陣屋跡である。
 蛍池駅を降りて、西の商業ビルの向こうの旧公民館前にこの石碑が建っている。

 麻田藩とは、斎藤道三、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康に仕えた美濃の国人、青木氏によって大坂の陣後に立藩されたもので、この地に陣屋が構えられた。
 青木氏は江戸時代を通してこの地を治め、明治維新まで続いた。
 しかし陣屋の地は都会化の波にのまれ、現在は何も残っていない。

 幸いなことに移築された建造物がある。
 先ずは陣屋門である。
 大阪モノレールの柴原駅近くの刀根山城跡の南の個人住宅に移築されている。
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 また、柴原駅と千里中央駅の間の宮山バス停の近辺の報恩寺の境内に表玄関が移築されている。
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『摂津国・原田城跡』

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 大阪府豊中市の阪急電車曽根駅の西にある原田城跡である。
 原田城は鎌倉末期か室町初期に、この地原田村の土豪原田氏が築いた城とされている。
 居館と戦闘用の2城があったと云われる。

 応仁の乱で細川晴元方に滅ぼされ、その後、細川と三好の戦いにより三好長慶方が支配した。
 しかし、最終的には織田信長の畿内侵攻で滅ぼされ、織田方の支配する城となり、有岡城攻撃の時の出城となったという歴史を持つ。

 写真は北城で、改修された石垣と土塁、それに囲まれた若干の曲輪の跡が残っている。
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 これらは「原田しろあと館」の名称で管理され、休日に内部の見学ができるとのことであるが、訪問日は平日であったため、隙間から覗いただけであった。
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『摂津国・刀根山城跡』

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 大阪府豊中市にある刀根山(とねやま)城跡である。
 現在は、大阪モノレール柴原駅の南側の高台、刀根山御坊常楽寺の境内となっていて、上掲の碑はその境内にある。
 常楽寺は本願寺の存覚上人が現在地とは異なる中国自動車道を挟んだ石橋地区に14世紀中ごろに創建されたものである。
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 刀根山城は織田信長が荒木村重攻め(摂津国侵攻)の時に本陣として築かれたと云われる。
 信長方の勝利で城も不要となったため、その跡に常楽寺や塔頭正安寺が移設された。
 寺の周辺は道路や住宅地となっているため、遺構は見られない。
 時代は違うが近くに麻田陣屋の陣屋門が移築されているので少しの雰囲気はある。
 尚、中国自動車道やモノレールを挟んで向こうの丘には大阪大学豊中キャンパスがある。
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『摂津国・吹田城跡』

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 大阪府吹田市片山公園に建てられている吹田城の模擬虎口門である。
 吹田城はJR東海道本線吹田駅の西南部一帯に築かれていたと云われている。
 丘陵地である片山公園とアサヒビールの吹田工場一帯である。

 片山公園には、この虎口の周辺に模擬石垣なども造られていて雰囲気を醸し出している。
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 隣には片山神社が鎮座している。
 素戔嗚命を主祭神とする旧片山村の産土神であった。
 室町時代以降の戦火で、城と同様に何度も焼かれたと云われている。
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 城跡の公園を登って行くと高台の中央付近に句碑がある。
 吹田城に関係していると云われるが確認はできていない。
 また公園の北斜面には大学もある。
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 吹田城は地元の武将吹田氏が室町時代に築城したと云われる。
 応仁の乱では東軍細川方に与した。
 その後、細川澄元、晴元と細川高国の戦いに巻き込まれた。
 三好衆の台頭に与したが、最終的には織田信長に滅ぼされたと云われる。
 その後摂津国主荒木村重の傘下に入ったが、村重が滅ぼされると城も荒廃したと云われている。

 片山公園東南半分はアサヒビールの庭園である。
 綺麗に整備され、三春滝桜も何本か植えられている。
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 そして道路を挟んでビール工場である。
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 また、ビール工場の南側の街中には泉殿宮(いづどのぐう)と云う神社がある。
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 素戔嗚命がこの神社に立ち寄った時、付近の田畑は大旱魃に見舞われていた。
 その時、神社境内から清水が湧き出し、田畑は救われたとの逸話がある。
 その清水、ドイツのミュンヘンでビール醸造に最適と評価され、旧大阪麦酒(アサヒビール)がこの場所に工場を建てたとの謂れがある。

『摂津国・富松城跡』

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 兵庫県尼崎市の市内北部、阪急電車武庫之荘駅に近いところにある富松(とまつ)城跡である。
 大きな道路の交差点にあるが、土塁、水堀,、堀切跡などが保存されている。
 尼崎市バスの富松城跡と云うバス停があり、降りたところが城跡である。
 バス停には説明看板それに城跡を守ろうというスローガンを書いた大きな看板があり、迷うこともない。
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 富松城は室町時代末期に築城された。
 築城者を特定する資料はないが、室町管領の細川高国の家臣で当地の土豪の薬師寺氏であるという意見が多い。
 その後の支配者は、細川晴元、三好長慶、荒木村重と変わり、最終的に織田信長に畿内が制圧されるまで機能したと云われている。
 
 城跡の現在は住宅地の一区画に相当する分が残っている。
 二方には水のある堀がある。そしてもう一方は空堀が一部で、堀切のようである。
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 そして林の中に土塁がある。
 柵が設けられていて、入ることができないのは残念である。
 東側には少しの郭跡であろうか広場がある。
 当時はもう少し広かったのであろうが、今はこれだけしか見られない。
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 さて富松城であるが、もう一つの城が東側にあったと云われている。
 その場所は東の方にある富松神社である。
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 富松は平安時代からの荘園であった。
 元々は「泊津(とまつ)」と云われていた。
 その地名に縁起の良い「富」「松」を充てたと云うのが富松神社の宮司さんの話であった。

 荘園を守る領主の城、それが富松神社を中心とする濠で囲まれた富松城であったという。
 先ほどの細川高国の城と関係があるのかどうか? わかっていないそうでもある。
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『摂津国・七松城跡』

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 兵庫県の尼崎市の七松町と云うところに七松城(ななまつじょう)と呼ばれる城があった。
 詳しい場所は、JR立花駅と尼崎市役所を結ぶ線のほぼ中間あたりで、現在も七松八幡神社が鎮座しているところである。
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 この七松城は表題の写真の石碑の通り、620余人の武士や婦女子が惨殺された城として知られている。
 時は摂津の国主荒木村重と尾張から攻め来る織田信長の戦いの時である。
 信長は伊丹有岡城や尼崎大物城に立て籠もる村重一族を襲い、それぞれの城を落城させた。

 七松には大物城と対峙するために信長の息子信忠が元あった城を要塞化したものである。
 敗れた村重方は、武士はもちろんのこと婦女子に至るまで捕らえられ、見せしめのために惨殺された。
 その場所の一つがこの七松城内であった。

 七松城は平安時代末期に創建された七松八幡神社を中心に、環濠集落状の城域をなしていた。
 それと云うのもこの尼崎は、室町時代には管領や守護の細川氏同士の戦いの地で、それぞれ自らの集落を護る必要があったからである。
 現在もその名残の濠がある。
 神社の隣には、趣のある鐘楼を有する寺院もある。
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 また付近を眺めてみると、大きな邸宅がいくつかある。
 登録有形文化財に指定されている邸宅、かつては庄屋だった邸宅などが見られる。
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『摂津国・大物城跡』

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 兵庫県尼崎市にあった大物(だいもつ)城は、最後の室町幕府管領であった細川高国が築いた城である。
 大物は当時は海がこの辺りまで迫っていて、大物浦として海上交通と陸上交通の要であった。
 この場所を統治すべく大物城が築かれたのであった。

 その後、細川高国と細川澄元、晴元の抗争が一段と激化した。
 摂津国の各所で戦いが起こり、高国は同盟を結んだ播磨国赤松政祐に裏切られ、大物城も赤松氏に乗っ取られ、追い詰められて、大物の廣徳寺で自害したと云われている。
 その「大物くづれ」の碑は駅の北側にある。
 上掲の石碑と説明パネルが設けられている。
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 大物城は阪神電車大物駅の南側、現在の大物町2丁目一帯にあった。
 阪神電車の車庫があるところから東がその場所である。
 車庫から東へ行くと、町の中央付近に深正院と云う寺がある。
 江戸時代の尼崎藩の何代か目の藩主である松平氏の菩提寺が城跡に創建されたものである。
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 東に行くと大きな道に出るが、その道路沿いに大物主神社がある。
 古代からあった大国主命を祀る神社で、この神社の西北に城があったものと思われる。
 城とは時代が違うので関係がないが、この神社の境内に義経弁慶の隠家の碑もある。
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 大物町2丁目を探索してみる。
 神社の横に公園、そして2丁目から先ほどの大きな道路に出る辺りは少しの登りになっている。
 このような場合、堀跡や土塁の存在が考えられるが、どうなんであろうか?
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 大物城は織田信長が荒木村重領主の摂津国を攻めた時、村重はこの城に滞在し毛利軍との援軍交渉を行ったとして知られている。

 江戸時代になって、尼崎藩主となった戸田氏鉄が新たに大物城の西南に尼崎城を築いたため、大物城は不要となり廃城となった。

『摂津国・大覚寺城跡』

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 兵庫県尼崎市寺町の大覚寺である。
 この大覚寺には室町第2代将軍足利義詮が半年間在陣したため大覚寺城と呼ばれている。
 在陣中に後伏見天皇の中宮の安産祈願を行い、無事に光厳天皇が誕生したとの逸話がある。
 光厳天皇とは北朝初代の天皇で、足利の手で北朝が開設され後醍醐天皇との正当性を争う南北朝時代が始まったその由来の大覚寺城である。

 大覚寺は、聖徳太子の命にてずっと東の大物(だいもつ)に建立されていた。
 江戸時代になって尼崎城主戸田氏鉄が尼崎城建設のために、建設用地にあった寺々を現在の寺町に移動させた。
 もちろん大覚寺もその例に漏れていない。
 左は寺町の一風景と大覚寺の境内である。
 大覚寺の境内には元あった大物を偲ばせる大物橋の石柱もある。
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 この寺町には、他にも由来のある寺がある。
 先ずは法園寺、秀吉の家臣となった佐々成政(さっさなりまさ)が肥後熊本の大名に任じられたが厳政をしいたため土豪や領民からの反発を受け逃亡、この寺にて自刃したと云われ、その供養塔がある。
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 また廣徳寺には、大物崩れで敗れた細川高国が寺内で三好方に切腹させられたと云う逸話、更には豊臣秀吉が中国大返しの際、この寺に伏兵を避けるために逃げ込んだと云う逸話も残っている。
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 また長遠寺は日蓮宗の寺で、北の七松に建てられていたが、これも寺町に移動させられた寺である。
 本堂、多宝塔が重要文化財に指定されている。
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 これらの寺々は寺町の西半分の部分である。
 東半分にも本興寺や全昌寺など著名な寺がある寺町である。

『関ヶ原戦場・東軍陣地』

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 前回の西軍陣地に引き続き、今回は関ヶ原の戦いの東軍の陣地を眺めてみる。
 上掲は総大将徳川家康が関原まで軍を進め、最初に陣を敷いた桃配山の陣地である。
 毛利軍団と西軍主力軍団を遮断したような位置である。
 すでに開戦の前から、毛利は戦わないとの約束ができていたような位置でもある。

 西軍が関ヶ原周囲の山麓に野原を取り囲むように陣を敷いたが、東軍はその囲まれた野原の中にそれぞれの陣を敷いた。
 西軍が一斉に攻め掛かれば、一網打尽であったろうが、そうはならないようにと家康は予め仕組んでいたようである。

 開戦から暫らくして東軍が前進すると、家康は陣場野に陣を移した。
 関ヶ原のど真ん中である。
 その傍には本多忠勝が陣を敷いた。
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 豊臣大名福島正則は宇喜多と対峙する最前線に陣を敷いた。
 初陣の家康の息子松平忠吉は井伊直政の後見の下、後詰の位置に陣を敷いたが、開戦を待ちきれず、先駆けをしようとした。
 そして、同じように血気にはやる島津豊久を討ち取ったと云われている。
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 決戦は関ヶ原の中央部で行われた。
 そこには決戦地の石柱が建てられている。
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 結果は東軍の勝利に終わった。
 家康本陣近くには、戦死者の霊を弔う御霊神社が建てられ、歴史を物語る資料館も建てられている。
 また近くには、東軍の首塚も祀られている。
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 関ヶ原の戦いは僅か半日で勝負がついた。
 両軍とも数万の大軍でである。
 こうなるのは戦う前からの調略戦が全てを決めていたのであろうと思われる。

『関ヶ原戦場・西軍陣地』

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 岐阜県関ケ原町にて旧暦1600年9月15日に行われた関ヶ原の戦いは、毛利輝元を総大将とし石田三成が率いる西軍と、徳川家康を総大将とする東軍の戦いであった。
 戦いは豊臣恩顧の大名同士の戦いとなり、その日のうちに東軍勝利で決着がついたことは良く知られている。

 表紙の写真は石田三成の笹尾山の陣である。
 前面に戦場が広がっている。
 写真中央あたりの白い煙が出ている辺りが戦の集結地である。
 左手は大垣城方向で、東軍が陣を張ったところである。
 右手は近江彦根方向で、山地となっていてその山麓に西軍が陣を敷いたところである。

 戦いの前夜、西軍主力の三成は大垣城に籠っていたが、家康東軍がその西側の美濃赤坂まで進出してきたため、挟み撃ちに遭うことを嫌い、大垣城を捨て、関ヶ原に移動したのであった。
 下右は大垣市内から関ヶ原方向を望んだものである。
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 西軍の陣形は「釣針の陣」と云われる。
 アルファベットのJの文字の形をした釣針の針先部分を北にして東西に横たえた陣形である。

 針先の部分には石田三成が陣を張った。
 その左右両翼には、嶋左近、蒲生郷舎(さといえ)が陣を構えた。
 左近の陣の右手の山麓には、東軍の黒田長政、竹中重門が陣を張っている。
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 釣針の底の部分には、小西行長、宇喜多秀家が陣を張り、その奥中仙道出口には大谷吉継が守りを固めた。
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 小西行長の陣の前方の神明神社には島津義久が陣を構えていた。
 戦闘は小西の陣の横で開始されたが、島津は静観していた。
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 釣針の軸には毛利勢が陣取った。
 底に近い部分の松尾山には小早川秀秋隊が陣取ったが、東軍に鞍替えしたため、西軍不利となり、西軍敗北の原因の一つとなった。
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 釣針の軸の上方の大垣に近いところの南宮大社が鎮座する南宮山麓には毛利本隊が陣取った。
 毛利、吉川、安国寺、長束、長宗我部などの西軍主力であったが、一切戦闘には参加しなかった。
 西軍の敗北の主原因となった。
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 戦場内の西の部分に、西軍の首塚が設けられていて、一抹の哀愁を誘う。
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『摂津国・塚口城跡』

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 兵庫県の尼崎市の北東部、伊丹市に近い辺りに中世からの城塞、塚口城があった。
 この城は一向宗興正寺別院を中心とした寺内町で、本来は塚口御坊と云う。

 この辺りは場所柄、時の権力者同士の争いに巻き込まれる土地柄で、応仁の乱の時は摂津国の衆徒やら農民やらが集結して良く護った。

 戦国時代になって、尾張の織田信長軍が攻めてきたときは、この北にある伊丹有岡城主荒木村重を総帥に良く闘ったが敗れ、城は廃城となった。
 そのあとに正玄寺(しょうげんじ)が建立され、今なおその面影を偲ぶことができる。

 城地は200m四方であったと云われる。
 そして4つの町、清水町、北町、南町、東町で構成されていたと云われる。
 そしてそれらの町への出入り口門が遺構として残され、また堀跡も形は変わっているが残っている。

 城跡は阪急電車神戸線塚口駅の北東部にある。
 駅から歩いて少し東には南町門跡があり、祠が祀られている。
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 北東部へ進むと、東町門跡の土塁上に祠と上掲の説明パネル、そしてその背後に堀跡がある。
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 北西方向に道を辿る。
 清水町門跡である。
 同様に土塁とともに祠が建てられている。
 また土塁の後ろの城域の外側には堀がある。
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 西へ進む。
 城内の最北の通りと思われる道を辿る。
 北町門跡に到達する。
 同様に祠が祀られているが、覆屋の中である。
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 最後に中心の正玄寺に向かう。
 立派な寺院である。
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 本堂横には上掲の説明パネルが建てられていて、この塚口寺内町の歴史を物語っている。


『河内国・津田城跡』

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 大阪府枚方市にある国見山284mの山頂である。
 京都大阪を見下ろす見晴らしのよい場所であるが、ここには室町末期から戦国時代にかけて津田城が築城されていた。
 築城主は国人の津田周防守正信で、紀州根来寺の僧兵長であった津田算長監物がその係累として知られている。
 監物は種子島から鉄砲を導入し、武器化し、攻め寄せる秀吉軍と果敢に戦った人物である。
 
 津田正信は畿内に台頭した三好長慶に与したが、織田信長に侵攻され、津田城も焼かれ落城したと云われている。

 津田城跡へは枚方市の関西学研都市の一部である津田サイエンスパークの外れから登る。
 比高は130mである。
 道は大阪府のハイキングコースになっていて、危険なところはないが、最近の大雨で道が所々崩れているところがあり、応急手当てがなされているのは有り難い。
 しばらく行くと右手の高いところに「夫婦岩」と云う大きな岩が並んでいる。
 落石にビクビクしながら進む。
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 しばらく行くと、右手に土塁跡の表示がある。
 その先には石垣の残骸もある。
 いよいよ城内である。
 そしてその奥はかなり広い。
 下の郭や馬屋などがあったところであろうか?
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 ここからは両側に山の傾斜を確かめながらの登りである。
 落石も見られる。
 そしてその先は郭があったであろう平地も見られる。
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 頂上に近くなった。
 三段の土塁がある。
 そこに「津田城跡」の立札があり、その先は虎口状の関門となっている。
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 左手には休憩場所がある。
 何らかの郭があったのであろう。
 右手の頂上を目指す。木の階段が設えられている。
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 いよいよ冒頭の写真の頂上である。
 この地には天守状の望櫓があったのであろう。
 京都方面、淀川流域、大坂方面の状況が手に取るように分かったのであろう。
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 津田城廃城の後、津田正信は山の麓に屋敷を設けた。
 そして天王山の戦いの時には、宿敵秀吉と戦うために光秀方に与したが敗れ、その後は慎ましく生きたようである。

『近江甲賀・小川城跡』

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 滋賀県甲賀市信楽にある小川城跡である。
 鎌倉時代から室町時代にかけて小川氏と改姓した鶴見氏によって築城されたとされる。
 その後近隣の多羅尾氏に滅ぼされ、以後は多羅尾氏の城となった。
 場所はタヌキの焼き物で知られる信楽の山中にあり、政略的にはさして重要なところではない。

 この城が世間に知られるようになったのは、織田信長が本能寺事件で横死した後、徳川家康が堺から三河に伊賀山中を辿り向かうが、その時に逗留したことである。
 家康は堺から京に向かう途中の大坂北河内で信長の死を知らされ、そのまま方向を東に変え、木津川を渡り、途中山口城、遍照院と立ち寄り、信楽のこの小川城まで辿り着き、一泊したと云われている。

 小川城へは小川集落から横にそれて林道口から沢添いに敷設された林道を登る。 
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 途中林道と別れて城への道を登る。
 道は整備されていて軽自動車なら通れそうである。
 沢とともに登って行くが、途中で水音が聞こえなくなる。
 いよいよの登りとなる。
 両側の谷は急峻で深い。
 尾根筋へ出てしばらく行くと土橋を渡る。 
 いよいよ小川城が近づく。
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 途中、曲輪があったような平地部分がある。
 小川城跡の標識があった。
 いよいよ主郭である。
 中の城への分岐道もある。
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 主郭跡へ進む。
 説明版がある。
 その背後は少し高くなっている。
 登ってみると三等三角点が設置されていた。
 恐らくは天守のような望櫓があったところであろう。
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 更に進むと冒頭の写真の主郭跡となる。
 低い土塁で周りが囲まれている。
 力石というのが、その中に置かれている。
 山は急峻で、眼下に麓の集落を見ることができる。
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 周辺には、休憩所のようなところがあった。
 主郭と同程度の広さである。
 二ノ丸であろうか。
 建屋の中には、小川城跡の歌が掲げられていた。
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 周辺を歩いてみる。
 主郭への虎口、またしっかりとした土塁も残っていたのであった。
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 小川城跡は良く整備されている。
 地元の関係者の方に敬意を表し下山したのであった。

『大和国・西宮城、下垣内城』

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 奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)の平群中央公園には、西宮城、下垣内(しもかいと)城があった。
 平群町は生駒山と信貴山からなる生駒連山の東麓の竜田川流域の町である。
 公園の案内図の右上の多目的広場は下垣内城、右下の冒険広場には西宮城があった。
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 それぞれの城は間に池を挟んで南北に並立していた。
 先ずは下垣内城、遺構は何もないが広場中央に休憩所が設けられている。
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 次に西宮城、主郭跡は遊具のある遊園地となっている。
 遊園地広場の隅には城跡の説明図も置かれている。
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 主郭跡から長い滑り台が下降していて、滑り台の下に、堀があったとされている。
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 この西宮城、下垣内城は戦国時代に筒井順慶の重臣であった嶋氏が築いたものと云われている。
 尚、嶋氏とは、後に石田三成の家臣となった嶋左近で良く知られている家系である。
 これらの城は、嶋氏本城の椿井(つばい)城と合わせて平群1万石の領地を護るものであった。

 筒井氏は大和に侵攻してきた松永久秀に一時追いやられ、この城も占領されたが、後の織田軍の侵攻により奪還され、以後廃城となったものである。

 西宮城跡地に隣接して西宮古墳がある。
 古墳の周囲には、いかにも城の一部とみられる堀切、土塁があり、雰囲気を醸し出している。
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『大和国・小泉城』

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 奈良県大和郡山市小泉町にある小泉城跡である。
 別名片桐城とも呼ばれる。

 元々は、南北朝時代に興福寺衆徒であった小泉氏がこの地に館を築いたのが始まりである。
 その経緯は信長に与し大和国主になった筒井氏と同様である。
 小泉氏と筒井氏は隣同士で、お互いに争いが絶えなかった。
 劣勢の小泉氏が敗れ、城は破壊されその基材は筒井城に運ばれた。
 しかし最後は両氏が和解し、小泉氏は家臣となり、筒井定次の伊賀上野への移封に同行したと云われる。

 秀吉の時代になって豊臣秀長が大和国主になった時、家臣の羽田長門がこの城を整備し、支城として機能した。

 関ヶ原の後、片桐且元、片桐貞隆兄弟に小泉藩が与えられたが、兄且元はその後茨木藩主となったため貞隆が小泉藩主として治めた。

 城の遺構としては南側に堀がある。
 薙刀池、お庭池と称される。
 薙刀池には社が祀られている。
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 小泉藩の2代目藩主は片桐貞昌、稀代の茶人で石州流の元祖であり、第4代徳川将軍家綱公の茶道の指南となった人物である。
 そのようなこともあって、片桐氏は歴代この地を動く必要もなく明治維新を迎え、今尚住まいされている。
 屋敷の中には当時の城を彷彿させる模擬城郭櫓が設けられている。
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 本郭跡の片桐氏の大きな屋敷は「高林庵」という名の石州流茶道宗家の本部ともなっている。
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 城の縄張りの東には小泉神社が祀られている。
 創建は小泉氏が館を築いたのと同時期と考えられている。
 神社の本殿は重要文化財である。
 神門には城の大手門が移築されている。
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 また神社の北側、縄張りの東北方向には城跡の碑が建てられている。
 小泉城の辺りは少しの丘で、現在は多くの住宅が建てられている。
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『摂津国・野田城』

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 野田城は大阪市のJR大阪環状線野田駅の東側一帯に築城されていた。
 野田駅のホームからその場所を見てみると、駅の向こうに城跡の石柱が見える。
 そして駅を出てその場所に行くと表紙の石柱が確認できる。
    CIMG4928_convert_20140901091900.jpg  CIMG4931_convert_20140901091958.jpg  CIMG4930_convert_20140901091936.jpg

 この場所から後ろ一帯が野田城跡であると云われているが、遺構は見当たらない。
 街中の道を東南方向に辿る。
 古い通りであろうか、先ずは極楽寺という寺院がある。
 その寺門の脇にも野田城趾と書かれた石碑がある。
 その石碑の説明書きによると、この東の恵比須神社辺りまでが野田城域であったとのことである。
 寺院の鐘楼であろうか、雰囲気を醸し出している。
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 東の恵比須神社である。
 街中であるのに大きな神社である。
 神社境内には野田藤の藤棚も再生されている。
 中世はこの辺りは大川の河口であり、洲となっていて、その洲の一つに城は建てられたと云われる。
 築城は阿波から出てきた三好元長であると云われている。
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 信長上洛後、復権を目指す三好三人衆がこの城に籠ったが、最終的には石山本願寺の戦いの一環で、信長の手に落ちたと云われている。
 
 その後、大坂の陣の時に豊臣方が立て籠もったが、織田方に追われ退却し、しばらくして廃城となったと云う歴史を持つ。

 これら戦国の戦に先立つ、本願寺の物語もある。
 山科本願寺を追われた証如上人はこの野田村に逃げてきたが、追ってきた細川晴元の軍に行く手をふさがれた。
 一向衆に帰依していた野田村の庄屋以下の村人が戦い、証如を無事泉州へ落ち延びさせたと云われる。
 21人の村人が討死し、その慰霊が円満寺で弔われ、付近には慰霊碑も建てられている。
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プロフィール

藤白 怜

Author:藤白 怜
気まぐれに各地の城跡、神社仏閣、路端や公園の草花、街角の風景などあっちこち出掛けては写真を撮ったり、その土地の歴史遺産を訪ねたりしています。
よろしかったら覗いてみて下さい。
よろしくお願いします。
最近、小品集を別ページにてアップしました。
右側リンクの「悠々紀行あっちこち」です。
併せてよろしくお願いします。

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