fc2ブログ

『阿波国・一宮城跡』

P1060497_convert_20151028195258.jpg

 徳島市の西部郊外の一宮町の東竜王山144mの山頂にある一宮城の本丸跡の石垣である。
 南北朝時代に阿波の守護であった小笠原氏が築いた城で、麓には一宮神社があり一宮城と名付けられた。
 
 小笠原氏は一宮氏と改め城主を務めたが、ご承知のように阿波の国を巡って、三好氏、長宗我部氏、そして細川氏も絡み戦闘を繰り広げられたが、最後は豊臣秀吉方が勝利し、配下の蜂須賀氏の阿波を治める居城となった。

 その後蜂須賀氏は海側に徳島城を築いたので、この城は城代が治め阿波九城の一つに数えられたが、一国一城の令により廃城となり、石材等は徳島城に運ばれたと云う経緯を辿っている。

P1060493_convert_20151028194903.jpg

 城跡へは一宮神社の鳥居前から登ることになる。
 登り始めると、先ずは左手に神宮寺跡の石碑がある。
         P1060452_convert_20151028182919.jpg  P1060460_convert_20151028183014.jpg

 もう少し登ると、左手に倉庫跡がある。
         P1060461_convert_20151028183115.jpg  P1060462_convert_20151028183301.jpg

 更に登ると、右手に曲輪跡、左手に財蔵丸跡がある。
         P1060471_convert_20151028183511.jpg  P1060477_convert_20151028183616.jpg

 更に行くと本郭への門の跡がある。
 右手に行くと南城の明神丸への虎口跡がある。
    P1060480_convert_20151028183817.jpg  P1060482_convert_20151028184100.jpg  P1060484_convert_20151028194546.jpg

 明神丸跡はかなりの広さである。
 井戸跡もあり、またこの場所からは鮎喰川とその先に徳島の眉山と市街地が見える。
    P1060485_convert_20151028194647.jpg  P1060486_convert_20151028194740.jpg  P1060487_convert_20151028194826.jpg

 次に北城の本丸へと移動する。
 本丸は冒頭の写真のように当時の石垣が残っている。
         P1060494_convert_20151028195006.jpg  P1060495_convert_20151028195123.jpg

         P1060499_convert_20151028195415.jpg  P1060513_convert_20151028200421.jpg

 石垣の間の石段を登ると本丸の広場となる。
 手入れが行き届いているのは嬉しい。
 また本丸には若宮神社も祀られている。
         P1060502_convert_20151028195622.jpg  P1060504_convert_20151028212332.jpg

 本丸を後に下山へと向かう。
 途中堀切や空堀が見られる。
         P1060520_convert_20151028200541.jpg  P1060528_convert_20151028200722.jpg

 しばらく下山すると湧水地があり、今でも水が蓄えられている。
 この湧水地の先には蔭滝がある。そして蔭滝を下るのは鎖場である。
    P1060534_convert_20151028201020.jpg  P1060538_convert_20151028201900.jpg  P1060536_convert_20151028201713.jpg

 滝を下りきると、平常の道となる。
 辿って行くと、出発点の一宮神社の登山口に戻る。

『讃岐国・北岡城跡』

P1020895_convert_20150716101825.jpg

 香川県高松市西山崎町にある北岡城跡である。
 中世からの城で、城主の秦久利(はたのくり)は、当時讃岐の国司であった菅原道真公によく仕えたと云われている。
 また道真公も時々はこの城を訪れ、詩歌などを共に語り合ったと云われる。
 付近には道真公が訪問途中に休憩したと云われる腰掛石が保存されている。
         P1020885_convert_20150716101408.jpg  P1020886_convert_20150716101502.jpg

 北岡城跡は西にある堂山から延びる尾根の先端にある。
 林の左側の果樹園のところには主郭があったものと思われる。
               P1020901_convert_20150716102110.jpg

 この城跡へは、山麓の車道から少し歩くことになる。
 主郭の頂上部(林の中)に冒頭の石碑が設けられていてるので、それとわかる。 
    P1020899_convert_20150716102033.jpg  P1020896_convert_20150716101854.jpg  P1020893_convert_20150716101748.jpg

 尾根の終点には池があり、堀としての機能があったものと思われる。
               P1020898_convert_20150716101938.jpg

 城の去就であるが、久利が老いてから、男子が居なかったので道真公の係累から一子を貰い受け、城主を継続した。
 そして戦国時代、土佐から侵攻してきた長宗我部軍に健闘虚しく敗れ、下野したと云われる。

『伊予国・木浦城跡』

P1010162_convert_20150531064051.jpg

 四国愛媛県のしまなみ海道の伯方島にある木浦(きのうら)城跡である。
 島の東南部の伯方湾の背後に、中世前期に築かれた城であるとされる。
P1010164_convert_20150531064119.jpg

 築城者は、当時伊予国を支配していた河野氏の家臣、紀氏であるとされる。
 鎌倉時代の承久の乱で、紀氏は後鳥羽上皇方についたため、敗れ滅ぼされたと云われる。

 その後、南北朝時代から戦国時代にかけて、水軍の能島村上氏が伯方島を本拠とし、連郭状の伯方城を築きその一部に組み込まれた。
 
 現在は跡地を公園とし、天守をはじめ、城門、物見櫓が模擬再建されている。
    P1010149_convert_20150531063919.jpg  P1010159_convert_20150531064030.jpg  P1010165_convert_20150531064142.jpg

 標高は90m、三層の天守から伯方湾、伯方港のみならず、燧灘(ひうちなだ)全域が眺められる城としては恰好の地理的条件である。
         P1010155_convert_20150531064006.jpg  P1010153_convert_20150531063944.jpg

『讃岐国・由佐城跡』

CIMG7529_convert_20141104171953.jpg

 香川県高松市の香南町にある由佐城跡である。
 由佐城は、足利高氏に従って京都の東寺で敗れた益子顕助の子が、細川頼春に付いて四国に渡り、父の功績により香川郡井原荘を賜り、由佐の地に居館を築城したものである。
 そして名前も由佐と名乗った。
 由佐の地は東に香東川、南は沼地の自然の要害で、その後長宗我部氏が攻め入った落とすことができなかったと云われている。
 その後秀吉の四国侵攻があり、以後由佐氏は、秀吉配下の仙石秀久や生駒親正などに臣従し、そして九州平定や朝鮮出兵にも参陣したと云われる。

 現在の由佐城跡は、模擬の天守や大手門や櫓が建てられ、城の雰囲気を醸し出すとともに、香南町の民俗資料館として機能している。
 先ずは大手門と鯉が泳いでいる内堀である。
         CIMG7531_convert_20141104172013.jpg  CIMG7533_convert_20141104201724.jpg

 天守を正面から見たもの、城内からみたもの、そして城外西方向から見たものである。
    CIMG7532_convert_20141104172035.jpg  CIMG7543_convert_20141104172219.jpg  CIMG7547_convert_20141104172240.jpg

 遺構の一つである土留めの石垣と土塁である。
 この一本だけが残っている。
         CIMG7534_convert_20141104172056.jpg  CIMG7536_convert_20141104172117.jpg

 また城内の隅の方に城の屋根の瓦であろうか、「由」の文字が入った瓦がさりげなく置かれている。
         CIMG7540_convert_20141104172140.jpg  CIMG7541_convert_20141104172158.jpg

 由佐氏が仕えた生駒氏が讃岐から出羽国に移封された後は、由佐氏は香南地域の豪農として大勢力を保ちながら明治時代を迎えたと云われている。

『伊予国・川之江城跡』

CIMG5975_convert_20140925113933.jpg

CIMG5990_convert_20140925114223.jpg

 愛媛県四国中央市川之江町にある川之江城跡である。
 川之江は四国四県を走る高速道路4本が全て集まるポイントで、昔から陸上海上交通の要衝として栄えた街である。
 また近代になって製紙業が立地し全国的にも生産量の高いところである。
 先ごろ世間を騒がせたDO製紙の工場地でもある。

 川之江城は南北朝時代に南朝方に与した河野氏の家臣土肥義昌によって築かれたとされる。
 その後長宗我部方の城となったり、再び河野方の城となったりしたが、秀吉の四国平定後は小早川、福島、池田などが城主となった。
 最終的には関ヶ原の後、伊予松山藩藩主となった加藤義明の時に一国一城令により廃城となった。

 川之江城跡は海に面した独立の鷲尾山62mの一帯である。
 現在ある川之江城の建物は、川之江市市制30周年を記念して昭和の終盤に模擬再建されたものである。
 その建造物は天守、櫓門、涼櫓である。
    CIMG5986_convert_20140925114139.jpg  CIMG5977_convert_20140925114000.jpg  CIMG5988_convert_20140925114203.jpg

 上掲の石碑のところから櫓門を入ると枡形の石垣がある。
 右手の石垣は黒くなっているので、戦火の跡かもしれない。
         CIMG5978_convert_20140925114026.jpg  CIMG5979_convert_20140925114050.jpg

 石垣を過ぎると広い場所に出てその先に天守が建っている。
 写真は奥の天守側から見たものであるが、この頂上の広場は本丸跡であろう。
               CIMG5983_convert_20140925114113.jpg

 戦国の川之江城は廃城となったが、その後藩主を一柳直家とした川之江藩が立藩された。
 しかし城再建を待たずに藩主が亡くなったため、領地没収で廃藩となり、川之江は天領となって明治を迎えている。

プロフィール

藤白 怜

Author:藤白 怜
気まぐれに各地の城跡、神社仏閣、路端や公園の草花、街角の風景などあっちこち出掛けては写真を撮ったり、その土地の歴史遺産を訪ねたりしています。
よろしかったら覗いてみて下さい。
よろしくお願いします。
最近、小品集を別ページにてアップしました。
右側リンクの「悠々紀行あっちこち」です。
併せてよろしくお願いします。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR