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【速報】岸和田だんじり祭り(9月18日)

 鉄道路線を順番に選び、各駅下車で駅周辺の探索を続けているが、「南海電鉄南海線(本線)」の3駅を訪ねたところ、偶然にも「だんじり祭り」が開催されていたので、その風景を紹介させて頂く。

 その3駅とは、北から順に、「春木駅」、「岸和田駅」、「蛸地蔵駅」である。
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 それぞれの駅で、「だんじり」が道路の角を曲がる「やりまわし」に出会った。
 「お囃子」がハイテンポになり、大勢の引手が走り出すと、続いて「だんじり」が現れ、高速で角を曲がると云う醍醐味である。
 全員力を合わせ、難しいテクニックを要すると思うが、長年の技術の積み重ねと、「だんじり」の十分な手入れが、優雅な「やりまわし」として達成できているのであろう。

 先ずは、「春木駅」の近くで見た「やりまわし」である。
 春木のだんじりは、岸和田とは別に行われ、「宮入り」は春木の「彌栄神社」で行われる。
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 次に、「岸和田」のだんじりの「やりまわし」である。
 「岸和田城」近くの「城見橋」交差点で見学したものである。
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 最後は、「蛸地蔵駅」から北方向の「蛸地蔵 天性寺」に近い場所での「やりまわし」である。
 「紀州街道」から出てきた「だんじり」が「そかいみち」に右折する風景である。
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 3年ぶりに観客を入れて開催された岸和田の「だんじり祭り」、岸和田市民の方々の安堵感と気合が感じられたのであった。
 (詳細については、各駅下車での探索の際に記述させていただく)

今年の祇園祭

 京都では、本日7月17日は、例年だと「祇園祭・先祭」の山鉾巡行の日である。
 巡行は中止となったが、「山鉾建て」は行われたので、山鉾を見ることはできる。

 場所は、「京都市下京区」の京都市地下鉄の「 四条駅」、「阪急 烏丸駅」の周辺である。

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 「四条駅」で下車する。
 地上は「四条烏丸」の交差点である。
 銀行の建物やビルが並ぶ通りに、「鉾」も見える。
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 常に山鉾巡行の先頭を行く「長刀鉾」である。
 この鉾だけは「烏丸通」の東にあり、近づいてみる。
 特に、「懸装品(けそうひん)」の「前掛」、「胴掛」、「見送」の優美な織物が見事である。
 この鉾にのみ稚児が乗ることになっていて、「注連縄切り」が行われ、神域へと山鉾が巡行することの行事が行われる。
 また、鉾の由来は、平安時代の名工「三条小鍛冶宗近」が娘の病気平癒を祈って「祇園社」に奉納した長刀とされている。
 また、「天王座」には、鎌倉時代の武士「和泉小次郎親衡」の人形が祀られている。
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 「四条烏丸」の交差点を西へと行く。
 今度は「函谷鉾(かんこぼこ)」である。
 この鉾は鉾2番目で巡行する「くじ取らず」の鉾である。
 中国の戦国時代に「斉」の宰相の「孟嘗君」が「函谷関」で、家来に鶏の鳴き声を真似させて関門を開かせ難を逃れたという故事が由来となっている。
 そして、「天王座」は「孟嘗君」である。
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 更に西へ行き、「室町通」を渡ると、「四条通」の南側に「月鉾」が建っている。
 「月鉾」は「山鉾」の中でも最も大きく、重い鉾である。
 そして、鉾を飾る、「懸装品」も細部に至るまで素晴らしく、動く美術館と云われている。
 鉾頭に「月」を装備し、「天王座」には「月読尊」を祀っていることから、「月鉾」と呼称されるようになったと云われる。
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 「室町通」を南下する。
 右手に「池坊短期大学・文化学院」が建っている。
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 そしてその南隣には「鶏鉾(にわとりぼこ)」が建っている。
 名称は、中国の故事によるもので、唐堯の時代に天下がよく治まり訴訟用の太鼓も用がなく苔が生え鶏が宿ったとのことによる。
 また、「天王座」には航海の神といわれる「住吉明神」が祀られている。
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 「四条烏丸」周辺で見つけた山鉾は、ここまでである。
 今回の「山鉾建て」は、34基中の17基が建てられたとされている。
 来年は、是非とも「山鉾巡行」の開催を願うものである。

『大和街道・長池宿』

 中世から近世にかけて、京都と奈良を結ぶ街道は「大和街道(奈良街道)」であった。
 京都から奈良までは十里の旅程(約40km)があり、その中間点の「五里五里の里」である現在の城陽市に一夜の宿を求め、それが「長池宿」として隆盛した。

 今回はその「長池宿」を訪ねてみる。
 長池宿はJR奈良線の長池駅(下図の②)の西側の大和街道にある。
 このあたりの大和街道は古代の「山背古道」と重複している所である。

 先ずは「長池駅」で下車する。
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 駅前には、その長池宿の説明パネルが掲示されている。
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 また、見どころポイントに番号が振られ、説明もある。
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 ①は「長池の道標」 ②は「長池駅」 ③は「森山地蔵堂」 ④は「旧旅籠 松屋」 ⑤は「北清水 放示邸のヨコメガシ」 ⑥は「旧長池郵便局」 ⑦は「大蓮寺」 ⑧は「新町地蔵堂」 ⑨は「梅村泰一家」 ⑩は「森山遺跡」 である。

 この順に、長池宿を訪ねてみる。

 スタートは上の地図の国道24号線から大型スーパーの所で別れる府道の大和街道の地点である。
 大和街道はカラー舗装されている。
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 スタートの右手には、旅程標柱、説明パネル、そして江戸時代の後期に伊能忠敬が立ち寄ったと云うパネルもある。(①)
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 街道を進む。
 右手には「茶問屋 芳香園」がある。
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 そして、左手の駅方向への道に入ると、「森山地蔵」(③)が祀られている。
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 元の大和街道に戻る。
 そこにはかつての旅籠「松屋」(④)がある。
 現在は菓子舗である。
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 また、松屋の前には、趣のある町屋もある。
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 街道を更に進む。
 右手には「旅篭 大和屋跡」がある。
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 更に進むと、右手の民家の庭に「北清水 放示邸のヨコメガシ」の木がある。(⑤)
 樹齢100年のアラカシの園芸種とのことである。
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 進むと右手に郵便局がある。
 その隣に「旧長池郵便局」がある。(⑥)
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 また、「旅篭 菱屋」の跡もある
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 更に街道を進んで行く。
 趣のある町屋が順番に現れて来る。
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 更に進んでも同様である。
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 茅葺をトタン屋根に変更した民家の手前を右折すると、「大蓮寺」の門前である。
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 山門、標柱が建つ。
 山門を潜ると右手には本堂が構えている。
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 境内には庭園、そして江戸時代に「寺田芋」の栽培に成功した「嶋利兵衛」の墓もある。
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 元の街道に戻り、進む。
 街道を横切る電車が見える。
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 右手に「新町地蔵堂」がある。
 そして趣のある町屋もある。
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 更に進むと、右手に「木戸孝允公御中飯処」の石碑の町屋がある。
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 そして、最後の町屋と云うべきであろうか、「梅村泰一家」の町屋がある。(⑨)
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 JR奈良線の踏切に達し、この地点で「長池宿」の探索を終了した。

明智光秀の足音Ⅶ(最終回)・細川ガラシャ


 光秀に明智玉(珠)という三女がいた。
 後に細川忠興の妻となり、そしてキリスト教の洗礼を受けて「細川ガラシャ」となる女性である。

 そのガラシャの足音も聞いてみる。

 ガラシャは、光秀がまだ北陸・福井にいる時に、生まれた娘である。
 光秀が信長に仕えて以降、15歳の時に信長の主命婚にて細川藤孝(幽斎)の子である細川忠興と結婚し、京都長岡の勝龍寺城を居として、2年間を過ごした。
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 城内の庭園には、細川夫婦の仲睦まじい像も建てられている。
 そして、「ガラシャおもかげの水」や枝垂桜も見事である。
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 また主郭の北側には、隅櫓は模擬ではあるが、堀は当時の姿であると云われている。
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 この勝龍寺城で2年間を過ごした後、本能寺事件の2年前に、忠興が丹後国12万石を与えられたことから八幡山城を経由して、丹後宮津城へ移ったとされている。
 宮津城の面影は殆どない。
 唯一、宮津小学校の正門が城門の遺構であるとのことである。
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 そして本能寺事件が起こった。
 事件後、ガラシャは主犯の子ということで、丹後半島の味土野に幽閉されたとされる。

 その後の秀吉のとりなしで幽閉は解除となり、ガラシャは大阪城南にある細川屋敷へと移ったとされる。
 細川忠興は越中守の呼称があり、現在も跡地は越中公園、越中井、そしてカトリック玉造教会などとなっている。
 越中井の標柱にはガラシャの辞世が刻まれている。
 「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
 である。
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 ガラシャは細川屋敷へ戻った時から監視が付けられていて、外出もままならなかったようである。
 しかし、抜け出してはカトリック教会へと出向いたと云われる。
 そして屋敷内において密かに洗礼を受けた。
 それが洗礼名ガラシャである。ラテン語で意味は恩恵である。
 現在も越中井の隣にカトリック玉造教会がその教会であろう。
 教会の正面には、ガラシャの像、そして高山右近の像も建てられている。
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 関ケ原の戦いを迎えることになる。
 石田三成は、秀吉の時の大名を西軍に組させようと大名の妻たちを人質に取り始めた。
 ガラシャも人質にされようとしたが、断固として拒否したガラシャ、細川屋敷が包囲され、家臣の介錯にて若い命を絶ってしまったとされている。
 そのガラシャの墓は、大阪市淀川区の阪急沿線の崇禅寺に祀られている。
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 ガラシャが忠興と過ごした宮津城の大手川を挟んだ向かいにカトリック宮津教会がある。
 明治時代に造られたものであるが、ガラシャを偲んで建てられたと云われる。
 教会正面には和服姿のガラシャが凛として立っているのが印象的である。
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 ガラシャ、淀君、そして日野富子、戦国の男性社会において、自らの意思を貫き通した女性3傑であると思われる。

 光秀の足音はここで終了させていただく。
 数年前に光秀に関する短編を纏めたことがある。
 拙作の宣伝で申し訳ないが、URLを記載させていただく。
 
 【前編】https://fujishirorei.com/2018/07/27/第%ef%bc%98話%e3%80%80明智光秀の前半生/ 

 【後編】https://fujishirorei.com/2019/09/07/明智光秀の後半生/   
                    
                      <完>

明智光秀の足音Ⅵ・墓所と祭祀


 山崎合戦の後、明智光秀はどうなったのであろうか?
 諸説が存在する。

 ①京都から坂本への壊走の途中に山科の小栗栖の竹藪で農民に襲われ、命を落としたという説
 ②京都の嵐山南部の尼寺に隠れ住み、ほとぼりが醒めてから僧侶として行動したという説
 ③岐阜まで逃げ延びて、関ケ原合戦の直前までは生きていたという説

 先ずは①の小栗栖の竹藪説である

 その竹藪から北方向の山科区勧修寺御所内町の一角に光秀の胴塚なるものが祀られている。
 胴の部分を埋めたとのことである。
 最寄は京都市地下鉄東西線の「小野駅」である。
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 小野駅から西進して、山科川沿いに南下すると、その場所へと至る。
 そして南の醍醐駅に至る橋上から胴塚の辺りを振り返ってみる。
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 前述したように大津の坂本の街の西教寺にも明智光秀一族の墓所がある。
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 京都市内の街中の三条東山の白川沿いにも光秀の墓所がある。
 地下鉄の「東山駅」が最寄である。
 三条通から白川の東側に沿って少し南へ行き、路地へ入る。
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 そこには光秀の首塚が祀られている。
 光秀の付き人が首を抱えて粟田口に葬られ、後にこの場所へ埋葬したと云われている。
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 首塚と云えば亀岡市の谷性寺(こくしょうじ)にも祀られている。
 谷性寺は大覚寺の末寺で、光秀はこの寺の不動明王をこよなく愛したと云われている。
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 「ききょう寺」とも云われ、参道や境内にはシーズンともなれば、桔梗一色になる寺でもある。
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 実は、今から10年ほど前、この寺を訪問したことがある。
 その時に、応対してくれた寺の方から「光秀公を大河ドラマに、という署名をやっている。協力してくれないか」と云われたことがある。
 10年近く経って、それが実現でき、「麒麟がくる」になるのは、何とも喜ばしいことではある。

 次は福知山である。

 福知山駅の北方向に「御霊神社」が祀られている。
 もとは別々の神社と寺院であったとのことであるが、福知山藩主の朽木氏の手によって、18世紀の初めに再編され創建されたものである。
 祭神は、宇賀御霊大神並びに明智光秀命である。
 そして神紋は明智家の桔梗紋である。
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 そのほかにも、宮津市の盛林寺には首塚が、また岐阜県山県市には光秀の墓所「桔梗塚」があるとのことであるが、残念ながら訪問していない。

プロフィール

藤白 怜

Author:藤白 怜
気まぐれに各地の城跡、神社仏閣、路端や公園の草花、街角の風景などあっちこち出掛けては写真を撮ったり、その土地の歴史遺産を訪ねたりしています。
よろしかったら覗いてみて下さい。
よろしくお願いします。
最近、小品集を別ページにてアップしました。
右側リンクの「悠々紀行あっちこち」です。
併せてよろしくお願いします。

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