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『堺市・開口神社』

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 大阪府堺市の阪堺電車「大小路」停留所の東に鎮座する「開口(あぐち)神社」の東側の入口の鳥居である。

 開口神社は、古代に神功皇后が三韓征伐より帰ってきた時に堺の石津浜に上陸し創建した神社で、奈良時代には「開口水門姫神社」の社名となり、港を護る神社となっていた。
 開口神社の社領地の中に、また奈良時代に僧行基により「念仏寺」が創建されていて、その念仏寺の通称が大寺であったため念仏寺が廃寺となった今も、堺の人々はこの神社のことを「大寺さん」と呼んでいる。

 大小路という所は堺の北組と南組を分ける所、また摂津国と和泉国の境目の所である。
 聖徳太子の時代には、この大小路から、我が国初の官道である「竹内(たけのうち)街道」が始まり、奈良の飛鳥へと続いていた。
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 いずれにしても、古代から中世、近世にかけてこの神社とその周辺は堺の中心地であり、よくご存じの与謝野晶子の邸宅や、千利休の屋敷もこの辺りにあった。
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 さて、開口神社であるが、冒頭の鳥居を潜り、石畳を右折れすると正面に拝殿本殿が祀られている。
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 祭神は、塩土老翁神(しおつちおじのかみ)、素盞嗚神(すさのおのかみ)、生国魂神(いくたまのかみ)の3柱である。

 また境内には、沢山の神が祀られている。
 一部であるが、三宝荒神社である竈神社、舳松神社等、そして影向石などである。
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 また境内には、幾つかの塚もある。そのうちの、歌塚、扇塚である。
 また、茶道の中心でもあったので、武野紹鴎好みの茶室「無礙庵」も再建されている。
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 そして近世には、大阪府立泉陽高校、大阪府立三国ヶ丘高校もこの場所で開校されたという石碑がある。
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 もう一つ、西側の商店街の鳥居から入った所の左手の狛犬の後ろの林は、三好長慶の父である三好元長が殺害された場所とのことである。
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『京都市・百萬遍知恩寺』

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 京都市の全国都道府県駅伝の走路となる左京区の今出川通りと東大路通りとの交差点「百万遍」の東北にある「知恩寺」の正面寺門である。
 この門は今出川通りに面していて、門前は今出川通りを挟んで、京都大学の本部キャンパスとなっている。
 また東大路通りに面して、知恩寺の西門がある。
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 百萬遍とは変わった名付けであるが、これは念仏「南無阿弥陀仏」を百万回唱え、疫病の流行から民衆を救った空圓上人が、後醍醐天皇から賜った勅号である。

 知恩寺は浄土宗大本山の一つで、法然上人が賀茂の神職から招かれ、たびたび訪れた下賀茂神社の神宮寺の「功徳院」を、法然上人の弟子であった源智上人が、師の恩徳を偲び「知恩寺」としたものである。
 寺の場所は移動していて、江戸時代に最終的に現在の場所に落ち着いたものである。
 
 正面の寺門を潜ると、広い境内となる。
 左手には、吉祥前と云う鳥居と祠がある。
 またその先に大きな阿弥陀堂が構え、そして西からの参道を挟んで鐘楼がある。
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 一方右手には、釈迦堂、勢至堂がある。
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 またこれらの背後の境外には、塔頭が並んでいる。
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 元に戻って、正面には法然上人を祀る大きな御影堂がある。
 また御影堂の中には、「百萬遍大念珠繰り」の大数珠が祀られている。
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 御影堂の左側には神社がある。
 一社は加茂明神、もう一社は百萬弁財天である。
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 また御影堂の裏手には、客殿や庫裏がある。
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『堺市・南宗寺Ⅱ』

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 大阪府堺市にある南宗寺の内陣に入る。
 先ずは、最も興味深いのは、「徳川家康墓」と彫られた石盤である。

 徳川家康は、大坂の陣の終盤、真田信繁をはじめとする城方に追われ、命からがら逃げたとのことであるが、その後の去就は良く知られていない。
 一説には、南へ追われ、あびこ観音の須弥壇に隠れたが、更に追われ、堺の南宗寺辺りで城方の槍で刺され死亡したと云われている。
 仕留めたのは後藤又兵衛であるとの説もある。

 これらの経過は、徳川氏が書いた歴史書には当然のことながら書かれていないが、それぞれの寺院の記録には残されているとのことである。
 真偽は霧の中ではあるが、この南宗寺には、後年に祀られた上掲の家康の墓、そしてその奥の墓地に簡素な家康の墓があり、2代将軍秀忠、3代家光が墓参しているとのことである。
 また、前回紹介した唐門には葵の紋が設えられているのも興味あるところである。
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 その後、家康の遺体は、日光東照宮創建に伴い、密かに移されたと云われている。

 先に家康の墓に触れてしまったが、南宗寺の内陣を見てみる。
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 受付の脇から入ると、仏殿の裏側にある坐雲亭である。
 南宗寺の山内で最も古い建物で、下層は茶室である。
 そしてこの中に、徳川秀忠、家光両将軍の御成を記した板額が掛けられている。
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 その隣は千家一門のの墓地、そして隣に利休の師である武野紹鴎の墓がある。
 そしてその横には三好一族の墓が並んでいる。
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 上掲の家康の墓は、三好一族の墓の前にある。

 墓地を離れて本堂へ入る。
 本堂に隣接して、利休好みの茶室「実相庵」や庭園を眺めることができる。
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『堺市・南宗寺Ⅰ』

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 上図は大阪府堺市にある南宗寺(なんしゅうじ)の北面する寺門である。
 南宗寺は中世の環濠都市堺の南端の濠「土居川」沿いにある臨済宗大徳寺派の寺院である。
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 下図の境内案内は下側が北で更に下方向に冒頭の寺門がある。
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 寺門を潜ると石畳の参道があり、辿ると重要文化財の甘露門に至る。
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 甘露門の横からは参道は斜めとなる。
 その甘露門の裏側には南宗寺を創建した戦国時代の天下人であった三好長慶の像が祀られている。
 前回の参拝時には無かったので、ここ2、3年の内に設けられたものであろう。
 南宗寺は非業の死を遂げた父の三好元長の菩提を弔うべく創建されたものである。
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 長慶の像の前の参道を進む。途中の水路にカラーと云う白い花が咲いている。
 またその向かいの土塀沿いにアジサイ、ヤマボウシが咲いている。
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 アジサイの奥に、これも重文の唐門がある。
 そしてその隣には重文の仏殿がある。
 仏殿の天井には臨済宗の寺らしく龍の絵が描かれているらしいが、見ることができないのは残念である。
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 更に進む。
 塔頭の海会寺や天慶院の前を過ぎ、本源院の鳥居に至る。
 鳥居の先の寺門には、織田信長・信忠親子の供養塔があるとの表札が掛けられている。
 本源院の右手の塀の中は南宗寺の内陣である。
 本殿や墓所など核心に触れる部分が多いが、これは次回に触れることにする。
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 参道を戻ると、駐車場の向こうに、鳥居が見える。
 行ってみると弁財天である。
 扁額には「大弁財尊天」とあり、市杵嶋姫命が祀られている。
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 南宗寺の外回りは、これで終了であるが、退出した東門のところに枇杷の木が果実を付けていたのが印象的であった。
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『時節の花たちⅢ』

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 この時節、道端を賑やかしているのはサツキツツジである。
 ツツジからのバトンタッチも済み、小振りの花と歯が綺麗である。
 ピンクのみならず、紅が混ざった白いサツキも清々しい。
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 キク科の花も数多くみられる。
 大金鶏菊、勲章菊、唐キンセンカである。
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 同じキク科でも、爽やかなアフリカンデイジーも幾つか見られる。
 また、右端は松葉菊と云う名であるが、キク科ではないハマミズナ科である。
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 変わり種の花もある。ホタルブクロである。
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 紫陽花が花を付け始めている。
 そろそろ雨の季節となるような香りがする。
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 道端でヘビイチゴ、芙蓉、そしてユリを縮小したようなへメロカリスも咲いている。
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 そしてお決まりのバラもまだまだ健在である。
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『金沢市・尾崎神社』

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 石川県金沢市丸の内、金沢城址の北西角そして前田利家公を祀る尾山神社の北に鎮座する「尾崎神社」の西向きの正面神門である。
 この尾崎神社は別名を金沢東照宮と云い、天照大神、東照大権現(徳川家康公)、加賀藩三代藩主前田利常公を祀る神社である。

 元々は、加賀藩四代藩主の前田光高公が、江戸時代の初めに金沢城北の丸に東照三所大権現社として建立したもので、 明治になって金沢城が陸軍省用地となったため、現在の場所に移築されたものである。
 この神社は、金沢城の現存遺構としては最古の建造物でもあり、社殿は全て重要文化財である。

 冒頭の神門を潜ると、正面は板囲いされた拝殿と幣殿である。
 尚、拝殿から本殿まで社殿は劣化を防ぐためか、板囲いされていている。

 拝殿の中に入ると、徳川の葵紋が主体である。
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 拝殿の向こうは唐門と透塀であり、これらも重文である。
 また重文の本殿は、恐らくは豪華な彫刻等が施されていると思われるが、見えないのは残念である。
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 境内社に豊受稲荷社が祀られている。
 また北参道には石の鳥居が建っているが、扁額は無い状態である。
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 尚、東照宮は城内にある時には、社殿が10数棟もあるかなりの大きさであったそうであるが、移築費用の関係で主要な建物だけの移築となり、現在の神域はかなり狭くなったそうである。

『金沢市・淺野神社』

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 石川県金沢市の市内を流れる浅野川の右岸地域の浅野本町に鎮座する淺野神社の参道入り口である。
 淺野神社は平安時代、近江国の日吉大社を勧請して創建された神社で「淺野山王社」と云われた。 
 中世には 一向一揆のため社殿や文書はことごとく灰塵となったが、その後室町時代に再建された。

 鳥居を潜ると正面に拝殿が祀られている。
 その背後には本殿が祀られている。
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 本殿には、山王さんの大山咋神(おおやまくひのかみ)、大国主の大己貴神(おおなむちのかみ)が祀られている。

 また拝殿の手前には苔むした狛犬がある。
 左側の狛犬は子供を抱いているのは珍しい。
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 境内社には、菊理媛神(くくりひめのかみ)を祀る若宮白山神社、倉稲魂神(うがたまのかみ)を祀る淺野稲荷神社がある。
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 また境内には、疫豆で患部をさすり、疫病を追い払う「疫塚」、母猿が子猿を抱いているように見える「魔去る石」が祀られている。
 尚、猿は山王さんのつかいである。
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 また当時の宮司が室生犀星に師事し親交があったとのことで、境内には犀星の句碑が建てられている。
 「竹むらや やゝにしぐるる 軒ひさし」と彫られている。
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『金沢市・犀川神社』

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 石川県金沢市の金沢城跡の西、武家屋敷跡の更に西の犀川の右岸に鎮座する犀川神社である。
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 加賀の領主となった前田利家公の入府の天正2年に、奈良の春日大社から、天児屋根命 比咩大神 武甕槌命 経津主命の四神を勧請して創建されたと云われている。
 江戸時代には、犀川の左岸に移されたこともあるが、洪水で流されたりして最終的にこの場所に祀られ、現在がある。

 上流側に一ノ鳥居があり、鳥居を潜ると冒頭の社名柱と注連縄柱がある。
 その先にも鳥居があり、境内となる。
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 境内の正面には拝殿が祀られている。
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 拝殿の背後には本殿が祀られているが、覆屋に護られている。
 また、拝殿の右横には隣接して境内社が祀られ、その前にはクロマツの保存樹がある。
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『越前大野・篠座神社』

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 福井県大野市に鎮座する「篠座(しのくら)神社」の参道入り口である。
 参道は左手から奥、西方向へと続いている。

 正面には鳥居、社名柱が掲げられ、式内社と書かれている。
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 式内社とは平安時代の延喜式に記名された神社で、それ以前に創建された神社である。
 神社の由緒によると、
『養老元年に泰澄大師が麻生津から白山登拝を思い立ち、大野に到着したとき、南の方の林、清水湧き流れ出る所(この篠座のこと)に10日ばかり過ごされた。
 白山登拝の後、 再び篠座に還られたとき、虚空に声があって「我は大己貴命なり。かかる林泉の勝地であるから常に心を楽しませて降遊する」とのお告げがあり、泰澄大師は一 つの祠を営み、影降の尊容を刻んで安置申し上げた』とある。
 従って、本殿の主祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)である。

 参道を進むとニノ鳥居がある。
 それを潜ると正面に拝殿が祀られている。
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 その背後は覆屋に覆われた本殿である。
 またその横に秋生神社が祀られている。
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 他にも境内社として本殿左手に鳥居を持つ若生子神社、更に左手に温見白山神社が祀られている。
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 本殿右手には、御霊泉があり、眼病に効能ありとされている。
 泉の中には、小さな祠と共に磐座神社が祀られている。
 この磐座神社の祭神は市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)、即ち弁財天である。
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 篠座神社は戦国時代に朝倉氏などに攻められ荒廃したが、大野城主金森長近により再興され、歴代藩主より厚い保護を受けている。
 また松尾芭蕉が立ち寄ったと云われていて、句碑「こゝろみに 浮世そゝがん 苔清水」が伝えられている。
 
 余談であるが、神社の隣の町屋の蔵であるが、写真のように屋根の支えが全周になされている。
 雪対策で、このあたりの特徴であろうと思われる。
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『大阪市・あびこ観音』

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 大阪市住吉区我孫子にある通称「あびこ観音」、正式には「観音宗総本山 吾彦山 大聖観音寺」の境内である。
 最寄駅は大阪地下鉄の「あびこ駅」であり、門前の商店街を歩いて5分程度の道のりである。

 寺門は正門である西門、そして南門がある。
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 駅に近い南門を潜ると冒頭の境内風景が広がる。
 左手前の燈篭から井戸など建造物が一直線に並ぶ。
 先ずは本堂へのお参りである。
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 本堂には本尊の秘仏聖観世音菩薩が祀られている。
 あびこ観音は日本で最古の観世音菩薩の寺院と云われている。
 昔、この地に住んでいた依網吾彦(よさみのあびこ)という豪族が、百済の聖明王から小さな観音像を贈られ、寺院を創建したと云われる。
 その後、聖徳太子がこの地に赴いた時、観音菩薩のお告げにより「吾彦山観音寺」が創建されたと云われる。
 また、聖武天皇の病気平癒のために僧行基が創建したとの説もある。

 本堂の右横には、病のある部位を撫でると病気が治るという賓頭盧尊者の像、左横にはお堂の中に福聚地蔵尊像が祀られている。
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 また本堂の裏手には三十三観音像が祀られている。
 西国三十三ヵ所巡りができ、ご利益があると云われる。
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 また境内には庫裏、そして護摩堂である油之不動尊も祀られている。
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 南門の傍の大楠は、室町時代の中期から700年もの間、幾多の戦火を逃れ、お参りする人々を見守り続けているとのことで、大阪市保存樹にも指定されている。
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 更にこの寺には徳川家康に纏わる逸話がある。
 大坂夏の陣の時、真田信繁に追いかけられた家康はこの寺に駆け込み、須弥壇に隠れて助かったと云う話である。
 真偽はともかくとして、その後江戸時代になって、幕府の庇護を受け、大寺院になった云う経緯を辿っている。

『道端の花たち』

空木_convert_20160520064510
 
 この時期、街路や農道を歩いていると、少し前とは違った花に出会う。
 見慣れたのもあるが、初めてお目見えの花もある。

 冒頭の「空木うつぎ)」に加えて、「花園衝羽根空木(はなぞのつくばねうつぎ)」と云う名の花もある。
 同じような白い花であるが形が違う「白丁花(はくちょうげ)」も咲いている。
         花園衝羽根空木_convert_20160520064452  白丁花_convert_20160520064603

 変わりだねでは「ブラシの木」、あまり見かけない「スイカズラ」も花を付けている。
         ブラシの木_convert_20160520064352  スイカズラ_convert_20160520064332

 足元に目を移すと、「昼咲月見草」や「ムラサキカタバミ」が、そしてお決まりの「ヘビイチゴ」や「ドクダミ」も花を咲かせている。
         昼咲月見草_convert_20160520064542  ムラサキカタバミ_convert_20160520064435

         ヘビイチゴ_convert_20160520064413  IMG_0960_convert_20160520064311.jpg

『奈良市・宇奈多理坐高御魂神社』

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 奈良市の平城宮跡の東、東院庭園の北隣に鎮座する「宇奈多理坐高御魂(うなたりにいますたかみこと)神社」の社名板である。

 この神社は式内社で、神功皇后の時代に武内宿禰によって勧請された神社と云われる。
 鳥居は東面し、参道を進むと神門が右手にあり、それを潜ると境内である。
     IMG_0783_convert_20160519060602.jpg  IMG_0784_convert_20160519060626.jpg  IMG_0787_convert_20160519060710.jpg

 境内正面には本殿が祀られている。
 本殿は三間社流造檜皮葺で室町時代の遺構を残し、国の重要文化財に指定されている。
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 本殿の祭神は、造化三神の一である高御魂尊 (たかみむすびのみこと) と、その子神の天太玉命 (あめのふとたまのみこと) 、並びに思兼命 (おもいかねのみこと) である。

 本殿の左右に境内社が並ぶ。
 いずれも天孫降臨や天岩戸の変に関わる神々である。
 右側には天鈿女(あめのうずめ)神社、手力男 (たじからお)猿田彦 (さるたひこ)神社が祀られる。
 左側には、大宮媛(おおみやひめ)神社、豊岩窓(とよいわまど)神社が祀られている。
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 また本殿前には、一対の狛犬、そして狛犬が付属した燈篭は珍しいものである。
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 尚、境内一帯は平城天皇の楊梅宮址とか春日斎宮の斎院址とかの学説もあるそうである。
 またこの神社は、古文書では宇奈足とも菟名足とも書かれ、日本書紀には692年、新羅の調を伊勢、住吉、紀伊、大倭、菟名足の五社に奉じるとされていて、当時の主要な神社であったとのことである。

『平城京・第二次大極殿阯』

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 奈良県奈良市の平城京平城宮の第二次大極殿阯の標柱である。
 元明天皇が平城宮に遷都して以後は奈良時代と云われるが、その奈良時代の途中で恭仁京や難波宮、紫香楽宮に都が移され再び平城宮に帰って来て新たに宮殿が造営された。

 その場所は、復元されている第一次大極殿の東側で、第二次大極殿と云われる。
    IMG_0828_convert_20160518054851.jpg  IMG_0823_convert_20160518054755.jpg  IMG_0826_convert_20160518054824.jpg

 しかしこの場所には復元建物はなく、基台と礎石や掘立柱が模擬的に整備されているのみである。
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 第二次大極殿阯の南には朝堂院などがあった。
 その建物配置の図が金属板で示されている。
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 そして草原の中には、堂の跡を示す石柱が立てられている。
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 第二次の宮殿跡は今後、復元建物が設置されるのかも知れないが、現在は草地である。
 東に若草山が見える。
 そして鴨であろうか、遊ぶ姿も微笑ましい。
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『平城京・朱雀門』

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 奈良市の北西部、現在の阪奈道路である二条大路の北に位置する平城京の朱雀門である。
 二条大路と直交して朱雀大路があり、その名残が公園とされている。
 その公園の一角にこの平城京の保存の大切さを提唱し、それを成功させた棚田嘉十郎氏の像が建てられている。
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 朱雀門とは当時の宮城の入口にあたるもので、この平城京の朱雀門は1998年に復元されたものである。
 朱雀門から正面に、これも復元された第一次大極殿が遠くに見える。
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 門を潜り、すぐ北にある近鉄電車の踏切を渡り、宮城内の広場の南に出る。
 そこには案内板もあり、振り向くと朱雀門の手前に電車が走っているのが近く望める。
 この時の電車は、相互乗り入れの京都市の地下鉄の車両であった。
    IMG_0847_convert_20160517071428.jpg  IMG_0844_convert_20160517071345.jpg  IMG_0849_convert_20160517071517.jpg

 この広い場所は、手前が政庁である朝堂院、その先、宮殿を囲む塀と南門があり、大極殿に至るものである。
 これは奈良朝前期の形態であり、第一次大極殿と呼ばれる。

 そして宮城内からは、東に春日山や御蓋山、西に生駒山を望むことができる。
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『平城京・東院庭園』

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 奈良市の平城京の東南の突出部にある奈良時代の宮廷庭園「東院庭園」の西側の入口である。
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 この東院庭園を南側から眺めると、農地の向こうに土塀と門が見える。
 門は東院の正門で南門である。
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 東院庭園の現在の入口は、冒頭写真の西建物と云う再現建物である。
 この入口から中に入ると、奈良時代の池回遊式の庭園が広がる。
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 庭園の中心には中央建物がある。
 露台付きの建物であり、天気の良い日にはこの露台で宴会をしたのであろう。
 この中央建物を3方向から眺めた写真である。
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 庭園の東南隅には隅楼(すみろう)がある。
 発掘調査の結果、平等院鳳凰堂の構造と似ていたことから推測し、この形に再現したとのことである。
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 池に架かる反橋とその先に北東建物がある。
 また、橋の下の池中には、カキツバタが今を盛りに咲いているのが印象的である。
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 東宮とは皇太子の住まいする場所である。
 この東宮は、孝謙・称徳天皇の時代にはとくに「東院」とよばれていた。
 称徳天皇はこの地に「東院玉殿」を建て、宴会や儀式を催し、聖武天皇の「南苑(南樹苑)」もこの場所を中心として営まれていたと云われている。

『平城京・左京三条二坊宮跡庭園』

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 奈良市の奈良市三条大路にある平城京の遺跡、左京三条二坊宮跡庭園である。
 場所は、大阪から奈良の中心部に向かう阪奈道路が国道24号線の高架橋を潜った辺りの南側で、道路の北側にはイトーヨーカドーがある。

 この宮跡庭園は、平城宮の離宮または皇族等の邸宅であった可能性もあり、国の特別史跡・特別名勝に指定され、奈良市が日常その整備を行っているものである。

 当時の区画表示は、この辺りは左京二坊で更に16区画に分かれていてこの庭園はその6番目の六坪にあたるとされている。

 庭園は北側が入り口である。
 庭園の東側には菰川が流れていて、庭園の用水はこの川から取り入れたと云われる。
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 下図のように庭園内には幾つかの掘立柱建物が設けられていて、中央に池がある。
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 池の西には復原建物があり、池とずっと東にある春日山や御蓋山を借景にして、宮廷人たちは宴席などを設けたところと云われる。
 しかしながら現在はその池が覆屋の中で修復中であり、覆屋の屋根以外には見えない。
    IMG_0735_convert_20160515173347.jpg  IMG_0740_convert_20160515173556.jpg  IMG_0746_convert_20160515173957.jpg

 覆屋の隙間から内部を覗いてみると、修復中の池が見える。
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 建物の中に入ってみる。
 それなりに広い建物で、大宴会が出来そうである。
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 一説には、光明皇后が利用したと云う話もある。
 また、この庭園の北の左京三条二坊の一坪、二坪、七坪、八坪の4区画約6万㎡に長屋王の邸宅が設けられていたと云われる。
 長屋王は、天武天皇の孫であるが、無実の罪を着せられ自害したと云う人物である。
 その邸宅跡は、かつての奈良そごう、現在のイトーヨーカドーである。
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 尚、この庭園の菰川を挟んで東南には藤原仲麻呂の邸宅「田村第(たむらてい)」があった。
 仲麻呂は藤原不比等の孫で、かつ光明皇后の甥であり、太政大臣まで登り詰めた人物であるが、天皇や朝廷に不満を持つことになり、乱を起こして自滅したと云われる。

『大阪市・高崎神社』

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 大阪市住之江区の南加賀屋に鎮座する「高崎神社」の標柱である。
 高崎神社は、この東に鎮座する高砂神社と創建の由来が似たりである。

 江戸元禄の頃の大和川の付け替えにより、河口付近にできた浅瀬を新田として開拓した加賀屋甚兵衛が、洪水などで新田工事が中断されるので神の加護を願い、自身出身の富田林から天之水分(あめのみくまり)大神を勧請して創建したものである。
 当時は海に面した新田の先端に祀られたとのことであるが、江戸末期にこの場所の加賀屋新田会所の近くに遷座されたと云われている。

 東面する鳥居を潜ると、注連縄柱、そして拝殿本殿と並ぶ。
    CIMG2615_convert_20160513181810.jpg  CIMG2624_convert_20160513181944.jpg  CIMG2617_convert_20160513181828.jpg
 本殿には、天之水分大神(あめのみくまりのおおかみ)を主祭神に、天照皇大神、柿本人丸大神が合祀されている。

 境内社として、五社宮、大多田稲荷神社、祖霊社の天柱殿などが祀られている。
    CIMG2618_convert_20160513181850.jpg  CIMG2620_convert_20160513181927.jpg  CIMG2619_convert_20160513181908.jpg

 神社は大和川の堤防近くにあり、また近くには趣のある町屋も見られる。
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『大阪市・高砂神社』

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 大阪市住之江区北島の大和川の右岸北側に鎮座する高砂神社の鳥居である。
 この神社は、江戸元禄の頃の大和川の付け替えに関係が深い神社である。

 大和川付け替えにより、河口の住之江浦に土砂が堆積して浅瀬を形成するようになった。
 この浅瀬を大坂淡路町の両替商加賀屋甚兵衛により新田として開墾され、その新田開墾が一段落を見たので、その新田の鎮守として、砂が堆積した高台に甚兵衛の出身地である河内国石川郡より天水分(あめのみくまり)大神を勧請して高砂神社が創建された。
 高砂神社と云うからには、兵庫高砂市の高砂神社と関係あるのであろうか?
 御朱印を頂いた神官の方に聞いてみたが、「関係ありません」とのことであった。

 神社名は、謡曲「高砂」の「はや住之江に着にけり」に因み、名付けられたとのことである。
 そしてその後、天保年間に住吉大神を勧請し、現在の姿となっている。

 鳥居を潜ると一段と高い瑞垣の中に本殿が祀られている。
 祭神は、天水分大神、住吉大神、柿本人麻呂神である。
    CIMG2597_convert_20160513173926.jpg  CIMG2598_convert_20160513173942.jpg  CIMG2599_convert_20160513174000.jpg

 その他に境内社として、食物・商いの神の洲先稲荷神社、交通安全の神の金山彦神社、そして学問の神の天神社が祀られている。
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 神社の前方は大和川の堤防である。
 堤防上の遊歩道から神社の森を眺めることができる。
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『時節の花たちⅡ』

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 この時節、ハナミズキの花は姿を消して、代わりにヤマボウシが花を付けている。
 ハナミズキの花びらの先端は曲線で中央に括れがあるが、ヤマボウシは先端が尖っているのが特徴である。
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 ヤマボウシは国内原産であるが、ハナミズキはアメリカヤマボウシとも云われ、北アメリカ原産である。

 近頃、街角で良く見かける花として、シランとシロバナシランがある。
 特に紫のシランは、気持ちを和ませてくれる。
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 他に垂れ下がっているものには、ドウダンツツジ、ウキツリボク(チロリアンランプ)、枝垂エゴノキも見られる。
    IMG_0012_convert_20160512200154.jpg  豬ョ驥」譛ィ_convert_20160512200709  譫晏桙繧ィ繧エ繝弱く_convert_20160512200625

 そのほか、白い大手毬、小花の野博多唐草などもあるが、アジサイはまだ開花準備中である。
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 桜はサクランボであったが、梅は梅の実をしっかりと付けている。
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 しかし、街角の花の雄はバラであろう。
 順次開花して行く楽しみを感じる時節である。
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『東大阪市・西堤神社』

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 大阪府東大阪市西堤に鎮座する「西堤(にしつつみ)神社」参道入り口の鳥居である。

 かつての古墳時代には大阪の上町台地より生駒山麓にかけて河内湖と呼ばれる、大きな湖が広がっていた。
 その湖が年月が経つに従い規模を縮小し、現在の大東市の「深野池」、東大阪市の「新開池」の二つ大池となり、それぞれ寝屋川、大和川が流れ込んでいた。
 そして新開池の西岸に祀られたのが西堤神社である。

 神社の鳥居を潜り、参道を進むと、正面に拝殿・本殿が祀られている。
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 本殿の祭神は、伊勢神宮より勧請された天照皇大神、豊受大神が祀られている。

 また、本殿の右手には、菅原道真公を祀る天満宮、八大龍王社、稲荷社が祀られている。
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 そして拝殿の右手前には鱗殿と云われる水神社が祀られている。
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 この鱗殿には逸話がある。
  
 西堤神社が畔に鎮座する新開池は、魚が豊富で美しい池であった。
 この村には内介(ないすけ)と云う大家の使用人がいた。
 ある晩、内介が風呂から中々出てこないのを心配した主人が覗きにいったところ、内介は大蛇に姿を変え、火を噴いていた。
 姿を見られた内介は池へ逃げ込んみ、このあたりが内介淵と呼ばれるようになった。

 その後、この大蛇が西堤の水神を呑み込もうとしたが、呑み込めなかったので、鱗を1枚残して立ち去った。
 その鱗を祀ったのがこの水神社であると云われる。

『東大阪市・彌刀神社』

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 大阪府東大阪市近江堂に鎮座する彌刀(みと)神社の西参道の鳥居である。

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 彌刀神社は、長瀬神社とは旧大和川の長瀬川を挟んだ東にある奈良時代かそれ以前の創建の式内社である。
 神社の由緒によると、762年に大和川の大洪水で長瀬堤が決壊し、社殿がことごとく流されたと記載され、古社であることが示されている。

 神社の鎮座地の近江堂とは大水戸が訛ったもので、旧大和川から当時は大阪湾の入江であった河内湖への河口であったことによるものと云われる。
 また彌刀(みと)も同じように、水戸から来ているものと思われる。

 西の鳥居を潜り参道を進むと正面に拝殿・本殿が祀られている。
 主祭神は、伊邪那岐、伊邪那美の二神の子である速秋津日子(はやあきつひこ)神、速秋津比売(はやあきつひめ)神の2柱で、河口即ち水戸の神である。
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 拝殿の右手に八坂神社が祀られている。
 創建年代は江戸時代中期とされ、素戔嗚尊が祀られている。
 参拝時には、原因は分からないが鳥居が半壊状態であった。
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 拝殿正面に正対して常世神社が祀られている。
 祭神は大国主の大己貴命(おおなむちのみこと)である。
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 拝殿の左手は東参道である。
 この参道から出ると、近江堂の集落の中心部へと至る。
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『東大阪市・長瀬神社』

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 大阪府東大阪市の近鉄長瀬駅近くの衣摺(きずり)に鎮座する長瀬神社である。
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 駅で下車し、商店街を過ぎ、長瀬川を渡り、川沿いに歩いて行くと神社に達する。
 この長瀬川は江戸元禄に付け替えらた旧大和川で、戦前までは約30m幅の河川であったと云われるが、現在は5m程度の川に整備されている。
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 長瀬神社は新しい神社である。
 明治時代に近隣の8つの村が合併し、長瀬村が出来たが、その後各村の鎮守社が合祀され神社が成立した。
 その神社の中には古代に創建された式内社の波牟古曽(はむこそ)神社も含まれている。

 鳥居を潜ると正面に拝殿が祀られている。
 そしてその奥には本殿が祀られている。
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 8神社の合祀であるので、祭神は多彩である。
 伊弉諾命( いざなぎのみこと)、伊弉册尊(いざなみのみこと)、天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)、素盞鳴命(すさのおのみこと)、保食大神(うけもちのおおかみ)、少彦名命(すくなひこなのみこと)、菊理姫命(くくりひめのみこと)、品陀和気命(ほんだわけのみこと)、菅原道真公の9神である。

 境内社には、多賀神社、稲荷神社、雨之神社、弁財天大神が祀られている。
    P1080483_convert_20160509064714.jpg  P1080484_convert_20160509064733.jpg  P1080485_convert_20160509064757.jpg

 尚、余談であるが衣摺という地名は、古代この河内には帰化人などが多く住み着き、染め織りの技術が発達していた。
 そしてこの地域には衣に色を摺る(する)仕事を持つ部民の集落があり、染め物が盛んに行われていたことにより名付けられたものと云われる。

『時節の花たち』

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 この時期、街路や畦道そして住宅の庭に沢山の花が賑やかである。
 中でもシャクナゲは派手な色鮮やかさである。
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 また、通りを歩くと家の庭からバラの花が顔を覗かせるようになった。
    IMG_0465_convert_20160508060954.jpg  IMG_0545_convert_20160508061307.jpg  IMG_0548_convert_20160508061328.jpg

 上を見上げるとサクランボ、道の脇にはポピーやビンカマジョールが数多くみられる。
    IMG_0505_convert_20160508061012.jpg  IMG_0519_convert_20160508061209.jpg  binka_convert_20160508061553

 更には、チェリーセージが賑やかに並んでいる。
    cherry_convert_20160508061529  IMG_0557_convert_20160508061450.jpg  IMG_0565_convert_20160508061509.jpg

 一方、農地が多い田園部分に入ると、綿帽子、アヤメ、ムラサキツユクサも見られる。
    IMG_0537_convert_20160508081815.jpg  IMG_0521_convert_20160508061229.jpg  mura_convert_20160508061613

 農道脇ではヤグルマギクが色の競演である。
    IMG_0518_convert_20160508061140.jpg  IMG_0511_convert_20160508061101.jpg  IMG_0512_convert_20160508061120.jpg

 そして畑の中には、エンドウの花、ジャガイモの花も盛りである。
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『木津川市・白山神社 岩船寺』

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 京都府の南端の木津川市加茂町岩船に鎮座する白山神社である。
 アジサイ寺で知られる岩船寺の山門手前の石段を登ると割拝殿状の建物を潜り、冒頭の本殿前に達する。
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 本殿は2殿祀られ、左手が室町時代に建てられた重要文化財の白山神社、右手が江戸時代建築の春日神社である。
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 この神社は、奈良時代に柿本人麻呂により、岩船寺の鎮守社として創建されたと云われる。
 寺院の創建は僧行基と云われ、創建の地は現在の少し南の奈良県北端の鳴川と云われる。

 いつの時代にこの地に移されたかは明確でないが、中世には修験道の聖地として、現在寺院が立地する御本陣山には39の僧房があったと云われる。
 その僧房の僧に合図をするために、山頂付近に貝吹岩と云う岩の上で法螺貝を吹いたと云われる。
 見晴らしの良い山で、遠く生駒山が見渡せる。
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 その岩船寺である。
 関西花の寺として知られる。
 白山神社本殿と同時期に建立された三重塔も良く知られる。
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 そのほかの花は、まずはシャクナゲであるが、この時期の日本シャクナゲは、ほぼ終わっていたが、余韻の花も見つかった。
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 また、この時期はミヤコワスレが参道の周りに綺麗に咲いている岩船寺であった。
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『四條畷市・住吉平田神社』

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 大阪府四條畷(しじょうなわて)市の飯盛山北西麓に鎮座する住吉平田神社の参道入り口である。
 この手前には、最近新調されたと思われる燈篭と鳥居が祀られている。
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 神社の鎮座場所は、先ごろ訪ねた四條畷神社の北並びで、この住吉平田神社の神主らが四條畷神社創建の動きをしたことで知られている。

 神社境内へは、二百数十段の長い参道石段を登る。
 登り詰めたところの石垣漆喰土塀の内が拝所である。
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 拝殿、本殿が祀られている。
 主祭神は住吉三神と平田大神である。
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 また拝殿の両サイドには狛犬が祀られている。
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 住吉平田神社の由緒は、神社によると、平安時代に飯盛山山麓に住吉神社が創建されたが、詳細は不明とある。
 そしてその後、江戸文化年間に現在の楠公町に鎮座していた平田神社と合祀され、住吉平田神社と称するようになったとのことである。
 尚、現在の社殿は、平成になってからの造営とのことである。

 その他、境内には幾つかの附属社が祀られている。
 拝殿の右手に、神功皇后、応神天皇を祀る八幡神社と天照皇大神を祀る神明神社、そして左手に素戔嗚尊を祀る八坂神社が鎮座している。
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『四條畷市・御机神社』

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 大阪府四條畷(しじょうなわし)市の南野に鎮座する御机(みつくえ)神社の参道石段である。
 御机神社は四條畷の水瓶である室池から流れ出る権現川に架かる新橋を渡るとこの参道となる。
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 石段を登り詰めると玉垣の中に拝殿が祀られている。
    IMG_1703_convert_20160505171150.jpg  IMG_1704_convert_20160505171212.jpg  IMG_1708_convert_20160505171310.jpg

 そして両側には狛犬、拝殿の背後に覆屋に護られた本殿が祀られている。
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 境内には幾つかの境内社が祀られている。
 素戔嗚尊の妃である櫛名田姫命(くしなだひめのみこと)を祀る稲田社は四周に立派な彫刻が施されている。
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 その他にも、水神社、藤木社が祀られている。
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 御机神社は延喜式に記載された式内社で奈良時代の創建と伝えられる。
 神社名は津夫江氏から来ているとされる説がある。
 この神社は元々は室池の畔にあり、牛頭天王(素戔嗚尊)と水神信仰に基づく神として祀られていた。
 
 そして、三好長慶が飯盛に居城した頃には飯盛城鎮護の神として崇敬が厚かった。
 しかし長慶が滅亡した後は、清滝に遷座され、江戸元禄の頃にこの場所に遷宮されたと云われている。

『宇治市・シャクナゲの三室戸寺』

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 京都府宇治市にある西国十番三室戸寺(みむろとじ)へシャクナゲを見に出掛けてみた。
 寺に到着して入山受付けの職員の方にシャクナゲはどうですか?と聞いてみた。
 その結果、「日本シャクナゲは当寺のは早咲きですから既に終わりました。西洋シャクナゲはまだこれからですから、少し早いと思いますが、花を探してみてください」と云われ、困ったなぁ、と思いつつ入山したのであった。

 受付を入り、周りを見回しながら進むと、右手の躑躅庭園が真っ盛りである。
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 躑躅は躑躅として、シャクナゲを見つけることが大事である。
 山門を潜ると右手は庭園である。
 ポツンポツンとシャクナゲの木がある。
 葉っぱの形から見て西洋シャクナゲであろうが、どちらでも良い。
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 参道に戻ると、それなりの木がある。
 もう少しで見ごろを迎えるのであろう。
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 参道石段の傍にも、幾つかの木がある。
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 参道石段を登ると本堂である。
 本堂の右手奥には三重塔がある。
 また本堂の裏手には、重要文化財の十八所神社も鎮座している。
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 伽藍、堂宇を一巡して帰路につく。
 もう一度、シャクナゲを探してみた。
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『徳川大坂城・東外堀』

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 大坂城の外堀の最後は東外堀である。
 東外堀は、玉造口と青屋口の間にある南北の堀である。

 先ずは玉造口の様子を見てみる。
 元々は門があったと思われるが、火災で焼け、その後が石垣にも残っている。
 門の内には、玉造定番屋敷の跡があり、その跡は広い林となっている。
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 玉造口から東外堀の畔に出るには、長い石段を降りることになる。
 降りたところの右手はもみじ園である。上の地図の堀の南の部分にあたる。
 今の季節は、新芽が緑の青紅葉、新芽が赤い紅葉の2種類があり、両方を見ることができる。
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 このもみじ園から北方向の東外堀を見たのが冒頭の写真である。
 東外堀に沿って北に歩く。
 外堀の外側は賑やかである。
 それもその筈、今の時期はこの広大なエリアがバーベキュー広場として市民に開放されている。
 バーベキューの間からは天守閣も遠くに見える。
 石垣の中はかつての市正曲輪、現在はお馴染みの梅園である。
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 バーベキューパーティーは青屋口の近くまで続いている。
 バーベキューの更に東外側は広場である。
 この広場ではメーデーの集会も行われる。
 そして野球場もある。
 しかし、元々はこの場所は明治時代から大阪砲兵工廠というアジア最大の軍需工場であった。
 太平洋戦争時の空爆により破壊され、その機能を停止したところである。
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 この地には現在、他にも大阪城ホールが設置されている。
 この辺りから、東外堀を見返してみる。豊かに水を湛えた広い外堀である。
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 青屋口へと到着し、外堀の探索は終了である。
 大阪城ホールのゲートを潜り、第二寝屋川を見ながら京橋駅方向へと向かった。
 真東に生駒山が望める風景である。
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『徳川大坂城・南外堀』

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 南外堀は大手口から玉造口までを云い、冒頭写真の南外堀には1つの櫓しか現存していないが、元々は櫓が林立していて、防御としての威容を保っていたものと考えられる。

 大坂城は南北に長いカマボコ状の上町台地の北端に築かれている。
 その城の立地から、防備面で云うと、北側と東側は平地で、おまけに北側には寝屋川と大川が自然の濠となっていて比較的安全である。
 西側は、まだ台地が続いているが、東町奉行所、西町奉行所や各藩の蔵屋敷などが建ち、武家屋敷も多くあったことから、こちらも防備は心配がない。
 
 一方、南側は台地続きで、最も攻められやすい方角である。
 徳川軍が豊臣氏を攻めた大坂の陣でも、この方向からの攻撃が主であった。
 徳川大坂城でも同様に、この南側を最大の防御線と考え、縄張りを行ったものと考えられる。

 先ずは大手口から見てみる。
 大手門を入ると桝形の石垣には巨石が並び、その上に建てられた重文の多聞櫓がある。
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 櫓門を潜ると正面には塀があるが、その奥に城代屋敷と二ノ丸、そして更に奥には西ノ丸が設けられていた。
 そして、門の南には西大番頭屋敷があったと云われる。
 
 太鼓櫓があった中門の石垣の間を入るとそこには、西大番小屋、東大番小屋、東大番頭屋敷の順で外堀の内側を埋め尽くしていたと云われる。
 そして外堀の石垣には、東から一番櫓の順で、七番櫓まで設けられていたと云われる。
 即ち、この部分には軍隊を常駐させ、一大事には対応できる態勢を保っていたところである。

 現在のこの地域には、手前から残存している重文の六番櫓、武道館の修道館、そして豊国神社と並んでいる。
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 大手門に戻り、南外堀の周囲を西から東へ巡る。

 先ずは生魂国(いくたま)神社の御旅所がある。
 生魂国神社は元々この場所に鎮座していたが、秀吉の大坂城築城にあたって天王寺区生玉町に遷座させられた跡で、現在は渡御の御旅所となっている。
 堀は直角に曲がる。そしてその場所から六番櫓が間近に見える。
 大手口を見返してみると、七番櫓の跡の石垣に大きく黒ずんだ所がある。
 空爆か何かでの火災の跡であろう。
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 藤棚がある。花も真っ盛りである。
 その南に教育塔と云うのが建っている。
 1934年の室戸台風で殉職した教員や死亡した児童が多数出たことから、これらの人々の慰霊と、ため、このよう災害が再び起きないよう祈願したものである。
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 更に行くと大きな観光バスの駐車場がある。
 多くの乗客たちが、休憩したりしている。外国語が飛び交う空間である。

 そして堀は直角に北方向に玉造口が近づく。
 左手、堀の内側に櫓が見える。重文の一番櫓である。
 手前の石垣の隅には二番櫓があったが、爆撃で焼失し、今はない。
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 玉造口の手前右手に算用曲輪跡と云うのがある。
 秀吉の大坂城に関するもので、城に納められた年貢などの算出などが行われていたとされるが、徳川になって杉の林となり、市民の行楽地となったと云われている。
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 玉造口から、南外堀を見返してみる。
 一番櫓のみが目立つ風景である。
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『徳川大坂城・西外堀』

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 徳川氏の築いた大坂城の外堀周辺めぐり、今回は西外堀である。
 西外堀は京橋口から大手口の間である。
 冒頭写真は京橋口から西外堀を眺めたものである。
 この外堀も略直角に折れ曲がっていて、その屈曲点に櫓が残っている。
 乾(いぬい)櫓と云い、重要文化財である。

 京橋口から櫓の方向を目指して進む。
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 櫓の正面から堀は上述の如く南に向いて折れ曲がる。
 その屈曲点の外堀の外は、現在の名前では大手前と云う交差点である。
 交差点から西方向の道路沿いは官庁・学校街である。
 写真の右手は、国の役所で幾つかの合同庁舎がある。
 その一角に、東町奉行所の石碑も建っている。
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 城の縄張りでは、乾櫓の向こうは西の丸、そして二ノ丸、更に城代屋敷があった。

 このあたりからは大手口が見える。
 そして東には天守閣が遠くに臨むことができる。
 また天守閣に対面する外堀の外は大阪府庁である。
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 大手口に近づくと堀の内に重要文化財の千貫櫓と多聞櫓が正面に見えるようになる。
 西外堀を振り返ると、乾櫓とその先のビルが重なって見える。
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 尚、千貫櫓の謂れは、大坂城の前身の石山本願寺にもこの場所に櫓があったと云われ、本願寺攻めを行う織田信長が、金千貫払ってもあの櫓を手に入れたいものだ、との逸話が名付けとなっている。

 そろそろ西外堀が終わり、大手口に到着である。
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プロフィール

藤白 怜

Author:藤白 怜
気まぐれに各地の城跡、神社仏閣、路端や公園の草花、街角の風景などあっちこち出掛けては写真を撮ったり、その土地の歴史遺産を訪ねたりしています。
よろしかったら覗いてみて下さい。
よろしくお願いします。
最近、小品集を別ページにてアップしました。
右側リンクの「悠々紀行あっちこち」です。
併せてよろしくお願いします。

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