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『桃の花も咲いた』

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 ここ2,3日、さくらの花が街路で見られる。
 まだ蕾のものから、3分、5分、そして満開に近いものまで華やかになってきた。

 桃もそろそろかな? と農園の桃の木を見に出掛けた。
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 咲いてる咲いている。
 桜と同じように、まだ蕾のものから5分咲きぐらいまで、桃の春も着実にやって来ている。
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 このJR片町線大住駅辺りでは、戦前から桃の栽培を始め、当時は100トンも出荷した桃処であったが、現在はその10分の1程度になっているとのことである。
 また、駅の南方にある小学校には桃園と云う名を被せているのも、その歴史を伝えようとするものであろう。

 近くの桜も、負けじと競演の春が始まっている。
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『河内国・小松山古戦場跡』

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 大坂夏の陣の終盤、大坂城落城の2日前の5月6日に、大和川に沿った奈良街道を河内へ越えてきた伊達正宗などの徳川方と、大坂城方の後藤基次又兵衛の軍の戦闘が行われたところの小松山という丘に古戦場の石碑が建っている。

 この古戦場は、奈良から流れる北方の大和川に、南から流れ込む石川が合流する地点の川に挟まれたところの100m程度の小高い丘(小松山、玉手山)とそれを取り巻く河原である。
 丘から眺めると、下写真の左が石川、右が大和川である。それぞれの写真の上下中央部に川が見える。
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 戦況は、最初は大坂方が小松山を占領したが、数に勝る徳川軍の反撃に遭い、後藤又兵衛や吉村武右衛門など主だったものは討死、また徳川軍も奥田定右衛門などと、少なからず戦死者を出したと云われている。

 場所は大阪府柏原市の近鉄国分駅の西側である。
 小高い丘ではあるが急峻で、当時は登るのには苦労したのではないかと思われる。

 冒頭の石碑は連なる丘の北の方の柏原市体育館前に建っている。
 石碑の前は、玉手山1号墳で、古墳頂上に徳川武将奥田定右衛門の墓がある。
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 この石碑から丘の上を通る道路を伝って行くと、玉手山公園に達する。
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 公園の中の最高所に大坂夏の陣の戦死者を供養する供養塔が建っている。
 この塔は戦後、公園に隣接している安福寺の住職によって建てられたと云われている。
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 またその南に少し下ったところに、後藤又兵衛と吉村武右衛門の碑が建てられている。
 また石碑の左には、地元の人たちが又兵衛桜と名づけ、枝垂桜を添えている。
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 余談であるが、この東に、この地を訪れた小林一茶の句碑が建てられている。
 句碑には「初蝉や 人松陰を したふ比 一茶」とある。
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 又兵衛の碑の北西方向の谷あいに上述の安福寺がある。
 参道には、大阪府史跡の横穴群が両側にある。
 古墳時代後期の墓との説明である。
 安福寺には庭園が、また寺の隣には伯太彦(はくたひこ)神社が鎮座している。
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『寝屋川市・石の宝殿』

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 寝屋川市の東の端の打上(うちあげ)と云う地域の小高い山に国の史跡である「石宝殿遺跡」がある。
 最寄駅はJR片町線の東寝屋川駅、駅から東南方向に緩やかな登り500~600m程度のところである。
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 駅から団地の中を進む。
 道は登りとなり、民家や寺院の間を登り詰めると、少し盛り上がった展望台のようなところに到着する。
 北摂方向や、大阪梅田・京橋方面のビル群が見える。
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 この盛り土のような部分の斜面には打上行者堂が祀られている。
 不動明王や神変大菩薩、妙見大菩薩などが祀られている。
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 行者堂の前が神社への入口である。
 高良神社と云う高良玉垂命、すなわち武内宿禰を祀っている神社である。
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 明治維新以降は、打上神社と命名されたとのことであるが、現在の主流の名称は高良神社である。
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 神社の横手に石の宝殿への道がある。
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 5分ほど歩くと、冒頭の石の宝殿古墳の露出された石室に到着する。
 今までの調査によると、この古墳は付近の豪族の墓で、7世紀末の古墳時代の終わりごろと云われている。
 石室内部は1m立方くらいで、火葬での埋葬と考えられている。
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 石室を右側から眺めてみる。
 明日香村の石舞台に似たりである。
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『大阪府・四條畷神社』

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 大阪府四條畷市に鎮座する四條畷神社の社名標柱とニノ鳥居である。

 四條畷神社は、明治時代になって、政府によりかつての南北朝時代について、南朝の方が正統と認められたことを背景に、住吉平田神社の神職らが中心となり、正行を始め家臣らを祀る神社の建立を願い出で、その結果「四條畷神社」の社号の宣下が勅許され、明治の23年に創建されたものである。

 ご承知のように、南北朝の時代に、楠木正行(まさつら)を主将とする南朝の軍3千が、このあたりの四条縄手と云われる場所を主戦場として、北朝に加担する足利方の高師直(こうのもろなお)の軍6万と戦い敗れ、その場で自害した楠木正行公は、現四條畷市雁屋南町に葬られ、室町、戦国、江戸時代を通じてその墓は「楠塚」と呼ばれて、地元の人達に守られてきていた。

 それが明治になって上述のようになり、また墓所も「小楠公御墓所」と正式に名付けられた。 
 そして神社は飯盛山山麓に建てられ、神社への参道は、その墓所前から真っ直ぐ東へと延びることになった。

 まずは、正行公の墓所である。
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 墓所の前から参道を進む。
 両側は商店街である。
 JR片町線の線路が直交している。
 踏切を渡ると、右手に幼稚園から大学までの総合学園、四條畷学園がある。
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 そしてその先、東高野街道と交差するが、その場所に一ノ鳥居が建っている。
 また東高野街道を少し北に行けば右手に、正行公と共に戦った家臣の和田源秀(にぎたげんしゅう)の戦死墓がある。
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 元に戻り、参道を進む。
 近々祭りがあるらしく多くの幟が建てられている。
 また参道には、紅白の花桃が植えられ、早い花を付けているものもある。
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 参道は冒頭のニノ鳥居の石段へと行き着く。
 鳥居横に咲き始めていた花を眺めながら、石段を登る。
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 登り詰めると左手に境内が広がっている。
 境内を進むと、その右手には有源招魂社、並んで楠天神社が祀られている。
 また左手には、社務所、その先に楠公慰霊塔が移築されている。
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 その先に菊のご紋が付いた木の鳥居が祀られ、そこから神域である。
 右手には、正行公の父子像、左手には母子像が祀られている。
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 その先は、拝殿、本殿である。
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 本殿には、正行公と共に戦い戦死した家臣の二十四柱が祀られている。

 拝殿の左横には正行公の母君を祀る御妣(みおや)神社の拝所と本殿が祀られている。
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 また御妣神社の横からは、四條畷を始め、大阪方面を望むことができ、神社は結構高いところにあることが分かる。
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 尚、神社横から飯盛山へ登ることができる。
 飯盛山山頂付近には、戦国時代に四国や機内を制圧して、当時の天下に登り詰めた三好長慶の城、飯盛城跡がある。
 また山頂には、正行公の像も建てられている。
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『丹波国・御霊神社』

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 京都府福知山市に鎮座する御霊神社の鳥居と神社標柱である。

 この御霊神社は江戸時代の宝永年間に、福知山藩主朽木氏により創始された神社である。
 祭神は、五穀豊穣商売繁昌の神である保食神(うけもちのかみ)と、領主として善政をしき、領民に愛された明智光秀公である。
 光秀公の霊を祀っていることから御霊神社と名付けられている。

 冒頭の鳥居を潜り石段を登るとニノ鳥居を潜る。
 そしてその先は拝殿である。
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 拝殿の扉や瓦には光秀公の桔梗紋が付けられている。
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 そして背後には本殿が祀られている。
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 また拝殿の右側の由良川を背景とし、堤防を神体とした「堤防神社」が祀られている。
 水害の多い由良川を鎮めるための神社であり、全国でも珍しいものである。
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 そして神社の門前には趣のある旅館や食事処が軒を並べている。
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『丹波国・一宮神社』

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 京都府福知山市の中心部から少し南に鎮座する「一宮(いっきゅう)神社」の参道入り口の鳥居である。
 全国一之宮神社のリストに載せられるような神社名であるが、それとは関係がない。
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 しかしこの神社は古く、奈良時代以前で、麿子(まろこ)親王による創建と伝えられている。
 麿子親王は用明天皇の皇子で、聖徳太子の異母弟と云われ、大江山の鬼退治伝説がある人物である。

 正面の石段を登るとニノ鳥居があり、それを潜ると正面に拝殿、その背後に本殿が祀られている。
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 本殿の祭神は、大国主命と云われる大巳貴命(おおなむちのみこと)である。
 この神社は、戦国時代以降には、福知山藩や城下の守護とされ崇敬を集めた。
 特に江戸時代のほとんどの期間を藩主として務めた朽木氏は、享保年間に本殿を造営したと云われている。

 また明治になってからであるが、福知山城内本丸の朝暉(あさひ)神社内にあった能舞台が、この神社に移設されている。
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 神社内には鎌倉時代の石灯篭がある。
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 また境内にはいくつかの境内社も祀られている。
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『但馬国・表米神社』

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 兵庫県朝来(あさご)市和田山町竹田の山頂に竹田城が築かれた虎臥山東麓に鎮座する表米(ひょうまい)神社の一ノ鳥居である。

 神社へはJR播但線竹田駅の南方の踏切を渡る。
 このあたりからは、虎臥山山頂の竹田城跡である石垣を眺めることができる。
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 参道は山へと緩やかに登って行く。
 ニノ鳥居を潜り、更に進むと神門である。
 右手にも門がある。恐らくは随身門と云われるものであろう。
 また、神門を潜らずに左へ進むと竹田城跡への登山道となる。
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 境内正面に拝殿、そしてその奥は本殿である。
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 本殿の祭神は、孝徳天皇の皇子とも云われる表米宿禰命(ひょうまいすくねのみこと、またの名を日下部表米)である。
 
 表米宿禰命には、白鳳時代に但馬国に攻めよせた新羅の軍船を丹後国白糸浜で迎え撃って勝利し、そして逃げる敵を海上で追撃した際、嵐に遭い船が沈没しそうになったが、海底から無数の鮑が浮き上がり、危機が救われたとの逸話がある。
 但馬国ではこの表米宿禰命を讃え、この表米神社に祀り、また鮑は丁寧に持ち帰えられ、赤淵神社に祀ったとされている。

 境内には相撲桟敷が設けられている。
 表米宿禰命が格技を好んだという伝承に基づくものである。
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 境内にはいくつかの境内社が祀られているが、社名は不明であった。
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『但馬国・養父神社』

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 兵庫県養父(やぶ)市養父市場に鎮座する養父神社の参道入り口である。
 参道石段を登ると、左手に鳥居、そしてその先に随身門と配置されている。
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 養父神社はもともとは鳥居正面の円山川河畔から直線的な参道があったが、参道に山陰本線が開通し、社域が現在の如くに削られ狭められたとの経緯がある。
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 また境内の右手前には低い幾重の石垣で構成されているところがある。
 これは相撲桟敷とのことである。
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 随身門を潜ると正面は拝殿である。
 拝殿両側には、頭を低くし尻を持ち上げ今にも飛び掛かろうという狼像が祀られている。
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 拝殿の背後は大きな檜皮葺の本殿が鎮座している。
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 本殿には、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、大己貴命、少彦名命、谿羽道主命(たにはみちぬしのみこと)、船帆足尼命(ふなほそこねのみこと)の5神が祀られている。

 養父神社は奈良時代に創建された神社である。
 平安時代初期には、出石神社、粟鹿神社と合わせて、これら3社は但馬国で最も古い神社と認定されている。

 境内社は、本殿の右手の参道を行くと、左手に迦遅屋(かじや)神社、厳島神社、そして奥には山野口神社が祀られている。
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 また拝殿左手前には、金刀比羅神社、五社神社、御霊神社が祀られている。
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 社務所へは新しく設けられた神橋を渡る。
 社務所横には、稲荷神社が祀られている。
 またその奥に南北朝時代作の花崗岩の宝篋印塔が置かれている。
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 尚、住所地の養父市場は、古くから但馬牛の市が開かれている処に由来する。

『但馬国一之宮・粟鹿神社』

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 兵庫県朝来(あさご)市山東町に鎮座する粟鹿(あわが)神社の参道入口の鳥居である。

 粟鹿神社は、創建2000年にも及ぶ歴史ある神社で、神社の杜もそれにふさわしい鬱蒼としたものである。
 創建の由緒は、景行天皇の時代に熊襲を制圧した時に社殿を造営したと云われる。
 平安時代中期に成立した延喜式には、粟鹿神社は但馬国筆頭の名神大社とされている。
 粟鹿の名づけは、鹿が粟を三束くわえて山から現れ、人々に農耕を教えたことによると云われている。

 鳥居を潜り参道を進むと、右手の杜の入口に礎石が並べられている。
 そして程なく神門と白塗りの土塀が見えてくる。
 手前の門は勅使門である。
 勅使門は応仁の乱の時、唯一焼けなかった建物であると云われている。
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 そしてその先は随身門である。
 左右に一対の江戸初期に修復したという記録がある木造著色随身倚像が祀られている。
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 門を潜ると左手に天満宮が、境内中央に土俵が、そして右手に猿田彦社が祀られている。
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 右手の猿田彦神社に並ぶように、拝殿、狛犬が祀られている。
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 拝殿の背後は本殿、更にその背後は丘である。
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 本殿には、大国主の子の天美佐利命(あめのみさりのみこと)、開花天皇の皇子で四道将軍の一人の日子坐王命(ひこいますのおおきみのみこと)、山幸彦と云われる日子穂穂手見尊(ひこほほてみのみこと)が主祭神として祀られている。
 また、後ろの丘は墳丘で日子坐王の墓と云われている。

 この神社は、神功皇后にゆかりがあり、主祭神とも関係すると云われている。
 三韓征伐の進軍の時には戦勝祈願、そして凱旋の時には塩満珠を奉納したとのことである。

 境内には、数多くの境内社が祀られている。
 先ずは厳島神社、そして少し山腹を登ったところに稲荷神社が祀られている。
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 更に、草野姫命を祀る茗荷神社、大巳貴命を祀る床浦神社がある。
 そして古きが故に、境内の大木も苔に覆われているのは見事である。
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『但馬国一之宮・出石神社』

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 兵庫県豊岡市出石町に鎮座する但馬国一之宮「出石神社」の一ノ鳥居である。

 現在の出石はそば屋が40店以上もあり、「皿そば」で良く知られる但馬の観光地である。
 その観光場所は、出石城跡とその城下町であった城のすぐ北側の街が観光の中心となっている。
 しかし、古代から中世にかけては、現在の街の約2km北にあるこの出石神社とその周りが中心であった。

 冒頭の鳥居を潜ると石燈籠の参道となる。
 そして二ノ鳥居には「一宮」と書かれた扁額が掛けられている。
 地元では一宮を「いっきゅうさん」と通称されているとのことである。
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 二ノ鳥居の先は神門である。
 神門の左右には回廊が広がっている。
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 神門を潜ると境内正面には拝殿、そして幣殿、祝詞殿が本殿へと連なっている。
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 本殿には、伊豆志八前大神(いづしやまえのおおかみ)、天日槍命(あめのひぼこのみこと)が祀られている。
 天日槍命が新羅より持ち込んだ八種の神宝を伊豆志八前大神と云うとのことである。

 本殿の左には、天神社、市杵島比売社が祀られている。
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 また本殿の右手には、比売社、夢見稲荷社が祀られている。
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 神社の右奥は禁足地である。
 そして神門の前には、発掘されたかつての鳥居の残材が神門に立掛けられている。
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『京都市・法住寺』

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 京都市東山区の三十三間堂の東側にある法住寺の山門である。

 法住寺は平安時代の中期に時の太政大臣である藤原為光が、早くに亡くなった妻と娘の菩提を弔うために創建したものである。
 これだけだと普通の寺院であるが、その後100余年建って様相が変わった。

 後白河上皇が、この法住寺を中心として、院御所を造営したことである。
 院御所は法住寺殿と云う。
 敷地は十余町で、平家を後ろ盾とし、南殿、西殿、北殿の三御所が設けられた巨大なものであったと云われる。
 そして平家の棟梁の清盛は南殿の北側に蓮華王院三十三間堂も建立したのであった。
 併せて、また新日吉神社、新熊野神社も法住寺殿内に建立されている。

 しかし法住寺殿は、木曾義仲軍に焼かれ、上皇と平家の栄華もそれまでとなった。
 更に上皇の崩御により、焼け落ちた法住寺殿の敷地に新たに上皇の御陵が造営され、法住寺その御陵を守る寺として存続したのであった。
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 法住寺の本尊は身代わり不動尊である。
 赤穂浪士の大石良雄が祈願し、大願成就されたことでも知られている。
 寺紋と本堂であり、本尊が安置されている。
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 そして客殿である。寒緋桜も咲いている。
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 法住寺の境内には神社もある。
 豊川稲荷と厳島弁財天が祀られている。
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 尚、参考であるが、法住寺前の通りの南にある三十三間堂の南門、そして正面にある東の回廊である。
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『京都市・養源院』

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 京都市東山区の三十三間堂の東側にある「養源院」の山門である。
 寺門前には大きな立札が建てられ、歴史的興味がそそられる。
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 この養源院は、豊臣秀吉の側室淀殿が秀頼を生んで直ぐに、父親の浅井長政の菩提を弔うために開基建立したものである。
 寺号の養源院は長政の院号から付けられ、開山となる僧侶は比叡山に居た長政の従弟の成伯法印である。

 大坂の陣の後に、淀殿の妹で徳川秀忠の室のお江崇源院がこの寺にて、淀殿と秀頼の菩提を弔ったと云われる。

 これだけならば普通の寺であるが、この寺がその後火災により焼失したことから歴史が変わった。
 それが上掲の血天井である。

 遡ること20年近く、関ヶ原の前哨戦で徳川方の鳥居元忠を主将とする伏見城が石田三成の西軍に攻められたことがある。
 城方は勇敢に戦ったが、内通者が出て、最後は主将以下300余名が自刃することになり、その現場の廊下の床板が20年後の養源院の再建に天井板として組み込まれたのである。

 そして、自刃武士の菩提を弔うために、当時の琳派の第一人者であった俵屋宗達が廊下の両側に杉戸絵を描き、更に日光東照宮の眠り猫で有名な江戸初期の大工・彫刻師である左甚五郎が鶯張廊下を構築したのであった。

 以後、養源院は徳川家の菩提寺となり、浅井長政、お江、そしてお江の子で後水尾天皇の中宮の東福門院和子と、秀忠以下の歴代徳川将軍の位牌が祀られている。
 
 前置きが長くなったが、この養源院の本堂は見学することができる。
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 しかし堂内は撮影禁止であるので、血天井や襖絵などは紹介ができないのは残念である。
 血天井は、自害の後関ヶ原の合戦が終わるまでの2か月ほどそのままに放って置かれていたので、遺体から流れ出た血が板に染み付き、人の形が認識できるような様子であった。

 境内には、鐘楼、中門、表門がある。
 これらも本堂と合わせて重要文化財である。
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 境内には神社もある。
 本堂前には白鷹龍神が祀られている。
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 また山門を入った左右に、毘沙門天、白衣弁財天が祀られている。
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『桜の開花日とは?』

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 この時期、桜の開花情報がニュースで頻繁に流される。
 気象庁や気象会社やマスコミが大好きな染井吉野に限った開花情報である。

 染井吉野は、江戸末期ごろ東京で合成された桜である。
 それが明治になって全国に沢山植えられたのでこの品種を基準にするのは便利なものなのであろう。 

 しかしその前にも多くのサクラが咲いていることは、よくご存じの通りである。

 多いのは河津桜、上記の写真はある公園の2月末ごろの花である。
 よく咲いている樹木は七分咲きぐらいであろうか。
 サクラらしいサクラである。
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 次は、2、3日前に見つけた農地に咲き始めていたサクラである。
 品種は良く分からないが、ヒガンザクラであろうか。
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 近所の公園に咲き始めていた八重のサクラである。
 清楚な花であるが、これも品種は良く分からない。
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 これも2,3日前に咲いていた高瀬川河畔の寒緋桜である。
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 これらのサクラ達、世間の開花情報はどこ吹く風、見事に咲いている。

『大阪市・四ツ橋跡』

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 大阪市の中央部、南北の「四つ橋筋」と東西の「長堀通」の交差点を「四ツ橋」という。
 交差点の地下には地下鉄「四つ橋線」の「四ツ橋駅」がある。
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 かつてはこの交差点の少し東側(現在の阪神高速の下あたり)に、南北の「西横堀川」と東西の「長堀川」が直行していてそこにロの字型に4つの橋が架かっていた。
 この4つの橋を四ツ橋と云い、現在は冒頭写真のように旧跡となっていて、当時の様子を忍ことができるように小振りの模擬橋が設けられている。
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 橋の名前は、南北の西横堀川にかかるのは、北が「上繋(かみつなぎ)橋」、南が「下繋(しもつなぎ)橋」である。
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 また東西の長堀川に架かる橋は東側が「炭屋橋」、西側が「吉野屋橋」で、それぞれ町名を橋名にしている。
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 余談であるが、何年か前の大阪検定の設問に、吉野屋橋の正答を選択させる問題があった。
 なんとその4つの選択肢は、中卯橋、数寄屋橋、松屋橋、吉野屋橋であった。
 
 見た瞬間に思わず笑い出してしまう、大阪らしい一コマであった。

『大阪市・あみだ池和光寺』

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 大阪市の西部、なにわ筋と新なにわ筋との間に大淀中2丁目から芦原橋駅近くまで南北に通っている「あみだ池筋」という道路がある。
 この道路の名称は、この道路の東側にある北堀江の「和光寺」境内にある上掲写真の「あみだ池」に由来している。

 あみだ池とは、長径40mぐらいの小判型の池で、池の中央には放光閣という宝塔が祀られている。

 一説によると、日本最古の仏像と云われる長野の善光寺の本尊の阿弥陀如来が、朝鮮半島百済国より仏教伝来とともに伝わったのであるが、仏教をよしとしない反対勢力の物部氏によりこの池に棄てられたという。

 それを信濃国司・本田善光がこの池より救った。
 それ以後この池があみだ池と云われるようになったとのことである。
 そして救い出された阿弥陀如来はその後、長野の善光寺に祀られたと云われる。
 奈良時代よりも少し前の飛鳥時代のころのことである。

 その後江戸時代も元禄のころ、堀江新地開発のときに、善光寺の智善上人がこの地に蓮池山智善院和光寺を建立し現在まで続いている。

 和光寺は太平洋戦争の大阪爆撃で殆どの建物を失った。
 そして寺地は狭くされたが、伽藍が再建されたとの経緯を有する。

 寺門、そして寺門の向こうに本堂が見える。
 本堂の右手にはあみだ池があり、池の手前に地蔵菩薩などが祀られている。
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 そしてあみだ池の中央には放光閣が祀られている。
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 また池の東側には、白龍大神、不動明王が祀られている。
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 さらには松梅稲荷神社、そして地蔵尊も祀られている。
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 山門前は阿弥陀池公園となっていて、椿の花も見ごろである。
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『大阪市・土佐稲荷神社』

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 大阪市西区北堀江に鎮座する土佐稲荷神社の正面参道である。

 安土桃山時代の大坂城築城の際に、運搬されていた石にただならぬものを感じ、この場所に祀ったのがこの神社の創建と伝えられる。
 江戸時代になって土佐藩はこの神社の東側、長堀川の南河畔に藩の蔵屋敷を構え、鎮守社としてこの神社を祀ってきた。
 そして享保年間に京都の伏見稲荷から稲荷神の分霊を勧請し祀ったことから稲荷神社と云われるようになった。

 その後、明治になってこの土佐藩の蔵屋敷を土佐の岩崎弥太郎が貰い受け、この地にて三菱会社を興し、そしてこの神社を繁栄の守護神としたことで知られている。

 冒頭の神社参道から、一ノ鳥居、ニノ鳥居を潜ると拝殿に達する。
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 またこの参道の左手には河津桜が満開である。
 そして参道の右手には石宮大神が祀られている。
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 さらに拝殿の右手前には岩崎家舊邸跡の石碑があるが、これは土佐藩蔵屋敷跡すなわち岩崎邸跡から移設されたものである。
 また、拝殿の正面の神紋には、三菱のマークが使われているのも珍しい。
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 本殿には稲荷神すなわち宇賀御魂大神が祀られている。
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 境内には沢山の境内社が祀られている。
 拝本殿の右側には、上掲の石宮大神の他に、玉根社、若宮社、他が祀られている。
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 そして、本殿の後ろには奥宮社が、右後方には源八社、大黒社が祀られている。
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 土佐藩蔵屋敷は神社の東側の長堀河畔にあったが、その川の橋を鰹座橋と云う。
 土佐国からの産物はこの地に陸揚げされた。
 そして土佐の名産鰹節を取引する鰹座があったことからこの名づけとなっている。
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『京田辺市・佐牙神社』

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 京都府京田辺市宮津佐牙垣内に鎮座する式内社「佐牙(さか)神社」の本殿である。
 右の本殿には佐牙弥豆男(さがみづお)神、左には佐牙弥豆女(さがみづめ)神、天津神吉田大明神が祀られている。
 尚、この本殿は国の重要文化財に指定されている。

 佐牙神社の大鳥居は府道木津八幡線に面して建っている。
 大鳥居から参道が西へと続き、二ノ鳥居へと達する。
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 その先参道は石段となり、途中に神宮寺であった恵日寺跡の標柱がある。
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 石段を登り詰めると境内となる。
 割拝式の拝殿の向こうに冒頭の本殿が祀られている。
 尚、本殿を詳細に眺めてみると、両側に武者絵が書かれている。
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 この佐牙神社は、古代、敏達天皇の時代に創建されたと云われている。
 また造酒司の奉幣が伝えられていることから、我が国の酒造りの発祥と関係が深いものと推察されている。

 この佐牙神社の創建の地は、現在の鎮座地の北東方向約1.3kmのところの山本という地区であったと云われる。
 その地には大神宮寺跡の遺跡が残されている。
 そして近くには古代和同時代の交通の要衝であった山本の駅との標柱も建っている。
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『京田辺市・白山神社』

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 京都府京田辺市の宮津地区の西の山麓に鎮座する白山神社の鳥居である。
 扁額には「蛭子大神宮」と書かれていて、現在は白山神社という社名であるが、古代から事代主命(ことしろのぬしのみこと、えびす神)を主祭神とする神社である。

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 神社の創紀は、古代、継体天皇の時代に現在の京田辺市に筒城(つつき)宮に遷都した時に西宮えびすから事代主命を勧請したとされている。
 尚、継体天皇は、大阪府枚方市の樟葉宮(くすばのみや)で即位し、筒城宮(つつきのみや)、長岡京市の弟国宮(おとくにのみや)を経て、奈良県桜井市の磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)に遷都したとされている。

 鳥居の手前には狛犬や小さな祠が祀られている。
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 拝所の瑞垣の中には覆屋に守られて本殿、末社が祀られている。
 勿論のこと本殿には事代主命が祀られているが、末社には大国主命が祀られている。
 尚、本殿は室町時代の建築となるもので、国の重要文化財に指定されている。
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 小さな神社ではあるが、古代からの歴史を伝える神社である。

『京都城陽・市辺天満神社』

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 京都府城陽市の市辺(いちのべ)に鎮座する市辺天満神社の参道入り口の鳥居並びに社名柱である。

 市辺天満神社は、菅原道真公を祀る神社であるが、創建等神社の由緒については定かではない。
 このあたりの市辺地区や少し北の青谷地区は梅林を業とする地域であったことから、梅を愛した道真公を鎮守として祀ったものであろうと思われる。

 鳥居の手前には狛犬ならぬ神牛が祀られている。
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 鳥居を潜り緩やかな参道を登ると右手に市辺文化財収納庫、そして稲荷神社が祀られている。
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 その先は割拝式の拝殿である。
 拝殿には、小さな神輿が保管されている。
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 拝殿の先は本殿である。
 本殿を横から見てみようと適当な場所を探したが、覆屋に覆われていて、残念ながら詳しく見ることはできなかった。
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 尚、市辺天満宮の鎮座する山には、鎌倉時代に市辺城があったと云われているが、遺構は残されていない。

『京都城陽・久世神社』

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 京都府城陽市久世芝ヶ原に鎮座する久世(くぜ)神社の一ノ鳥居である。
 鳥居前には旧大和街道が通っていて、かつてから開けていた所である。
 正面の参道石段を登り詰めると、そこにはJR奈良線の線路があり、その先は再び参道となっている。
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 この参道の左手は久世廃寺跡で国の史跡となっている。
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 参道は直角に北へと曲がり、社務所前を通過し、二ノ鳥居へと至る。
 鳥居の先は再び石段、玉垣であるが、時節柄梅の花が華やかに咲いている。
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 石段を登ると両側に狛犬、右手には末社の稲荷神社、竜王神社が鎮座している。
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 そして狛犬の先は本殿である。
 本殿は室町時代の建立と云われ、極彩色の装飾がなされた見事なもので、重要文化財である。
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 祭神は日本武尊である。
 この神社の創建は、古代、日本武尊が白鳥となってこの地に降り立ったとの言い伝えに基づいている。

 尚、この神社の東側には、奈良時代の政庁である正道官衙遺跡(しょうどうかんがいせき)がある。

『京都城陽・荒見神社』

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 京都府城陽市富野(との)に鎮座する荒見(あらみ)神社の入口鳥居である。
 JR奈良線長池駅の西方にあり、大型スーパーの西隣にある。

 鳥居の右手には神社標柱、そして鳥居の先に薬医門があり、それを潜ると境内である。
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 境内の右手には天兒屋根尊(あめのこやねのみこと)を祭神とする御霊社が祀られている。
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 境内中央には拝殿、そして中門、本殿の順で並んでいる。
 本殿は室町時代の再建と云われ、国の重要文化財に指定されている。
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 神社は鎌倉時代に五社谷に創建され、その後この地に遷宮されたと云われている。
 そして明治の中期までは安羅見天神宮と号されている。

 本殿には、天火明尊(あめのほあかり のみこと)、天香語山尊(あめのかごやまのみこと)、天村雲尊(あめのむらくものみこと)、阿比良依姫尊(あひらよりひめのみこと)、木花開耶姫尊(このはなさくやひめじんじゃ)が祭神として祀られている。

 また、本殿裏の神苑の中には菊水の泉が祀られている。
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 荒見神社は四周が環濠で囲まれている。
 その濠に杜若が咲き始めている風景も見られる。
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『京都城陽・水渡神社』

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 京都府城陽市寺田水度坂に鎮座する水渡(みと)神社の一の鳥居である。
 鳥居手前で参道と直行する通りは旧大和街道、鳥居を奥へと向かう参道は山背(やましろ)古道である。
 また神社が鎮座する山は鴻ノ巣山と云う。
 そして神社参拝後の話であるが、山背古道は神社からこの鴻ノ巣山に登り、南へと向かう。
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 この参道を延々と歩き続けると、二ノ鳥居となり、その先参道石段を上ると境内である。
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 境内の正面に拝殿、そして拝所・本殿となっている。
 本殿には、天照皇大御神(あまてらすおおみかみ)、高御産靈神(たかみむすびのかみ)、少童豐玉姫命(わだつみとよたまひめのみこと)が祀られている。
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 この神社の創建は古い。
 平安時代の前期に成立した延喜式には載せられている神社である。
 また本殿は室町時代の作とされ、国の重要文化財に指定されている。

 境内には沢山の境内社が祀られている。
 稲荷大明神、三社、天地神祇である。
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 また、それ以外の神も祀られている。
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『京都城陽・中天満神社』

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 京都府城陽市中黒土に鎮座する中天満神社の標柱、鳥居である。
 この天満神社は江戸時代の初め頃には鎮座していたことから、創建はそれ以前とされる。
 天満神社であるので祭神は菅原道真公で、大梅林である青谷梅林の中に建つのは、大変似つかわしいものである。
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 鳥居を潜り、石段を上ると拝殿前に狛犬が祀られている。
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 拝殿は割拝式で、建物の中を潜り本殿に直接お参りする形式となっている。
 また、素焼きの瓦の様な肌の神牛も祀られている。
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 境内社には、須久祢神社、蛭子神社、そして無名の一社が祀られている。
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『京都城陽・青谷梅林』

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 京都府南部の城陽市の青谷地区では、今年も梅林が見頃となっている。
 青谷梅林は、約20ヘクタールの面積に約1万本の梅が植えられていて、梅干しや梅菓子、そして梅酒などを製造する目的のものである。
 現在、一部の梅林を開放し、梅まつりが開催されている。

 梅の実は手摘みである。
 したがって木の高さは人の背丈ほどに制限している。
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 梅の花を個別に見てみると、白い色が大多数である。
 主として城州白という品種である。
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 また、ピンクの花も所々で見られ、アクセントとなっている。
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 梅園の中にある小高い山の頂上には、堂山見晴台という展望台が設けられ、城陽市内を眺めることができる。
 また明治時代の小学唱歌「梅ぼしのうた」の歌詞が書かれた説明板が設置されている。
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 この梅林の中を、古代の街道である山背古道(やましろこどう)が通り抜けている。
 このあたりには10基程度の古墳群「黒土古墳群」があったとも云われている。
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 尚、梅林の場所は、JR奈良線山城青谷駅から徒歩で北東方向へ20分ぐらいのところである。

『大阪府・エキスポシティー』

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 大阪府吹田市の万博記念の跡地の中に、昨年エキスポシティーなるものが新しくオープンした。
 この施設は、エンターテインメントとショッピングが融合した大型複合施設である。
 最寄駅は大阪モノレールの万博記念公園駅で、1970年に開催された大阪万博の跡地の楕円サークルの中央に位置する駅である。
 駅を降りて、通路を下って行くと、万博の記念碑とその傍に万博主催者側の中心人物であった石坂泰三氏の銅像が建っている。
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 そして、おなじみの岡本太郎氏の太陽の塔が正面に見られる。
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 万博記念公園はこの場所から左折し高速道路を超える陸橋を渡ると行くことができるが、エキスポシティーは直進である。
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 エキスポシティーはエンターテイメント施設に加えて300以上の店舗も設置されている。
 冒頭掲載の案内図を見ると俯瞰は球場のような形をしている。

 駅からエキスポシティーに到着したところがホームベース、選手がプレーするグラウンドが前庭、その先が多くの店舗が入るビルで、そのビルはさながら観戦スタンドのような見立てになっている。
 その奥の外周は大駐車場である。

 建物の中の左、レフトスタンドには食品スーパーや良く名前を聞く店も沢山ある。
 またエンターテイメントでは、映画館は勿論のこと、海遊館がプロデュースするニフレルという水族館の様なものもある。
 二フレルは人気があるようで、行った時は入場待ちの長い行列ができていいた。

 建物を通り抜け駐車場に出てみると、道路を挟んで大型のサッカー場が見える。
 この度、新設されたもので、吹田市の施設であるが、J1のガンバ大阪のホームとなるものである。
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 一周して入口付近に戻り、再度眺めてみる。
 最初から気になっていたが、建設中のタワーのようなものがある。
 よく見てみると、「OSAKA WHEEL」と書かれている。
 大観覧車が建設されているようである。
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『豊中市・原田神社』

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 大阪府豊中市中桜塚の能勢街道と伊丹街道が交わるところに鎮座する原田神社の大鳥居である。
 駅で云うと、阪急電車宝塚線の岡町駅のすぐ東側で、駅前から続く岡町商店街のアーケードの南側である。
 商店街から入ることができる裏参道も用意されているが、それをやり過ごし、少し行くと右側に冒頭の大鳥居が立っている。
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 また、商店街の途中に桜塚碑がある。
 この辺りは古代の古墳44基が集積しているところであった。
 古墳を発掘した際に古墳の頂上あたりから桜の古木の根が現れたことから、桜塚と呼ばれるようになり、それを記念した碑である。
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 原田神社は古代、古墳群の地に素戔嗚尊などの五神を祀る祇園神社として創建されたとされている。
 鎌倉時代には牛頭天王を習合し、幅広い信仰を集めたと云われている。
 江戸時代になって、神祇管領から「原田大明神」の神号を得て現在の社名となったものである。
 
 神社の境内は広いが、正面に石舞台、拝殿、本殿が祀られている。
 本殿は江戸時代の初め頃の再建で、国の重要文化財に指定されている。
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 また、境内には国常立命(くにのとこたちのみこと)等を祀る摂社十二神社本殿が祀られている。
 これも江戸時代前期の建立とされている。
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 その他境内社として、神明社、そして伊邪奈美尊、天児屋根命、應神天皇、菅原道真を祀る小宮、更に稲荷社が祀られている。
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 そして、かつての神宮寺であった瑞輪寺が近代的な姿で、少し東にある。
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 商店街は連続しているが、このあたりは桜塚商店街と云う。
 そしてさらに東へ行くと国道176号線に出る。
 その向こうは豊中市役所である。
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『静岡県・柿田川湧水』

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 静岡県駿東郡清水町には富士山からの伏流水の湧水を水源とする柿田川が流れている。
 上掲の写真は、「わき間」と言われるところで、湧水の水源地である。

 そして、この水源から流れ出す柿田川は、国交省の一級河川にも指定されているが、全長はわずかに1.2km、最も短い一級河川でもある。
 また、柿田川は、長良川、四万十川とともに日本三大清流の一つに数えられている。

 この柿田川の水源のあるところは柿田川公園として管理され、市民の憩いの場所ともなっている。
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 このわき間以外にも湧水のポイントがある。
 それを探すのも、また一興である。
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 公園の中には、泉の館がある。
 元々は製紙業を営んでいた土地で、その時代の建造物が今でも残っていて、現在は喫茶店、豆腐店、そば屋などとして活用されている。
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 また公園の中には、貴船神社が祀られている。
 この神社は水の上で、京都の深山幽谷、貴船神社から勧請されたものと云われている。
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 そして最後は富士である。
 この日も晴の中に富士を望むことができたのである。
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 柿田川は、8500年前の富士山噴火の約40kmに及ぶ三島溶岩流の間を、雪解け水や雨水が数ヶ月から数年という長い年月をかけて湧出するという仕組みである。

『武蔵国・江戸城跡Ⅲ』

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 江戸城跡、今回は現在の皇居東御苑かつての本丸、二ノ丸、三ノ丸跡である。

 JR東京駅や東京メトロ大手町駅に近い大手橋を渡り、大手門から入場する。
 この大手門は三ノ丸大手門とも云われ、江戸城の正面玄関である。
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 大手門を潜ったところは三ノ丸で、皇宮警察やその他の用途で使用されているので、入ることはできない。
 三ノ丸尚蔵館や休憩所の前を通って行くと、右手に同心番所、左手に百人番所がある。
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 右手に折れて、先ずは二ノ丸跡へと向かう。
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 二ノ丸跡は雑木林が半分を占めている。
 その先に二ノ丸庭園、そして諏訪の茶屋という建物がある。
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 また、遊歩道には椿や梅が見られる静かなところである。
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 元に戻り、百人番所の前の中之門跡から本丸跡へと向かう。

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 右手に大番所があり、その先に中雀門跡があり、それを過ぎると本丸広場へと出る。
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 本丸広場はかなりの広さである。
 ゴルフのミドルホールが優にできそうである。
 奥には天守台の石垣が見える。

 本丸広場の左側を通り、天守跡へと向かう。
 少し行ったところに松之大廊下跡の碑がある。
 元禄赤穂事件の原因となった吉良、浅野両氏の私闘が行われた場所である。
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 もう少し行くと、石室がある。
 このあたりが大奥の納戸の脇だそうで、有事の際に大奥の調度品を納めたと云われている。
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 このあたりには桜が綺麗に咲いている。
 先ずは河津桜である。
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 そして、琉球寒緋桜である。
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 いよいよ天守台の石垣が近づく。
 上って見ると結構な天守台の広さである。
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 ここで、本丸は終わりである。
 天守台を斜めから眺めて、北桔橋(はねばし)門から退出し、平川濠と本丸石垣を振り返ったのであった。
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『武蔵国・江戸城跡Ⅱ』

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 江戸城跡の続編、今回は現在の北の丸公園である。

 北の丸公園は、太田道灌らの江戸城を築城時代に、関東の守護神でもあった築土神社が鎮座し、平将門らを祀っていた。
 徳川家康が入府した際には関東代官であった内藤清成らの屋敷となったため、代官町と呼ばれた場所でもある。
 そして8代将軍である徳川吉宗になって、徳川氏の御三卿であった田安徳川家、清水徳川家が上屋敷を構えるようになった所でる。
 維新後には明治政府によって近衛師団の兵営地が設置されたという経緯を有している 北の丸公園は東京メトロ九段下駅が最寄である。

 九段下で下車し、坂を登って行くと、公園入り口に到達する。
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 入口は重要文化財の田安門である。
 門を入ると間近にアーティストのメッカの日本武道館がある。
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 北の丸公園は結構広いが、あまり寄り道はせず武道館から真っ直ぐと広い道路を南へ下がる。
 左手に少しの広場がある。
 河津桜が賑やかな花を付けている。
 そして吉田茂の銅像の前を通過すると、今度は寒緋桜である。
 その下には清水門が見えている。
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 更に南へ進む。
 科学技術館がある。
 そして広い道路を南へ下がって行くと、駐車場などがあり、北の丸公園の出口となる。
 その出口の東には、国立公文書館、その向こうに近代美術館が見える。
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『武蔵国・江戸城跡Ⅰ』

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 東京都千代田区千代田にある国の特別史跡江戸城跡である。

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 (図の下側が北方向である)

 江戸城跡は現在はご承知のように、皇居、皇居外苑、皇居東御苑、北の丸公園と大きく分かれ、当時とは別の機能を果たしている。
 冒頭の石橋は二重橋濠に架かる正門石橋と呼ばれ、手前側が皇居外苑、奥の伏見櫓のあるところが皇居である。

 江戸城は、麹町台地の東端に扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城である。
 太田道灌が上杉定正に殺害された後、江戸城は上杉氏となったが、後に、後北条氏の北条氏綱の支配下に入る。
 そして秀吉の小田原攻めにて江戸城は開城し、豊臣の家臣であった徳川家康が入り、その居城となった。

 江戸幕府が成立してからは幕府の政庁となり、明治以降は御所、即ち皇居となった。

 この江戸城跡は国の特別史蹟であるが、火災や関東大震災、そして戦争時の空爆などに晒されたため、現存する重要文化財は
次の三ヶ所の門だけである。

 先ずは最も北で、千鳥ヶ淵に架かる田安門の高麗門、櫓門である。
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 続いてその少し東南にある清水門の高麗門、櫓門である。
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 清水門を潜り、石段を登るとそこには寒緋桜が花を付けていた。
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 この2つの門は北の丸公園にある。
 
 もう一つの重要文化財の門は一番南にある桜田門の高麗門、櫓門である。
 そして門外にはお馴染みの風景の警視庁がある。
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 ついでであるので櫓を見ておく。
 冒頭の伏見櫓には、関ヶ原の戦いの前哨戦であった伏見城攻防戦において、鳥居元忠率いる徳川軍が敗れ、元忠が自刃した血染めの畳が掲げられていたことは有名な話である。

 櫓としては他に、本丸跡地周囲に富士見櫓、そして富士見多聞櫓がある。
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 そして、富士見櫓の東、桔梗濠に面して桜田巽櫓がある。
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 皇居外苑の馬場先濠には、白鳥が優雅に浮かんでいる姿も見られる江戸城跡である。
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プロフィール

藤白 怜

Author:藤白 怜
気まぐれに各地の城跡、神社仏閣、路端や公園の草花、街角の風景などあっちこち出掛けては写真を撮ったり、その土地の歴史遺産を訪ねたりしています。
よろしかったら覗いてみて下さい。
よろしくお願いします。
最近、小品集を別ページにてアップしました。
右側リンクの「悠々紀行あっちこち」です。
併せてよろしくお願いします。

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