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『大阪市・難波八阪神社』

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 大阪市浪速区に鎮座する難波(なんば)八阪神社の境内にある獅子舞台である。
 
 難波八阪神社は、仁徳天皇の在世時に難波の里に悪疫が流行った時、この辺りの森に牛頭天王(ごずてんのう)の霊地という神託が現れ、村人が祠を建て祈願するとおさまったとのことから、以来この地の産土神として崇敬を受けてきていたとの由来がある。
 仁徳天皇を祀る難波神社を難波大宮、この神社を難波下の宮と云われるようになった。

 そして平安時代末期の頃から祇園牛頭天王を祀る神社として世間に知られるようになり、江戸時代の初めには七堂伽藍、十二坊を備えた神仏混淆の神社・仏寺として栄えた。
 そして明治の神仏分離により、神社となったものである。

 難波八阪神社は、素盞嗚尊(すさのおのみこと)、奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)、天穂日命(あめのほひのみこと)などの八柱御子命を主祭神とする。

 鎮座の場所は、難波の大相撲が行われる府立体育館の西の国道25号線を西に越えたあたりである。
 神社の南口には大鳥居がある。
 まだ国道筋からは東門を潜ると、獅子舞台が大きな口を開けている。
 拝殿は大鳥居の正面、東口から入ると右手となる。
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 境内の右手には摂末社、そして戦艦陸奥の大砲部品の記念碑、そして下の宮址の碑も祀られている。
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 拝殿の庇には多くの燈籠が吊り下げられている。
 本殿は木々の間から何とか眺めることができる。
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 また境内に西口横には篠山神社が祀られている。
 篠山氏はこの地の代官で、住民たちの願いであった青物市場(現在は木津市場)の開設に尽力した人物である。
 住民たちは感謝をこめて生き神として祀ったと云われている。
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『近隣の秋色』

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 真っ赤なドウダンツツジが良く目立つ季節である。

 ドウダンツツジに加えてイロハモミジも真っ赤になって欲しいところであるが、今年は気候がモミジに合わないのか、綺麗とは言えないのが残念である。
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 その代わりと云ってはなんだが、皇帝ダリアが上空に延びて紫の花を沢山付けているのが良く目立つ。
 そして咲き終わった花から実へと変化しているのが楽しめる時節でもある。
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『備前市・三石八幡宮』

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 岡山県備前市三石の国道2号線に沿って鎮座する三石八幡宮の一の鳥居である。

 関西方面から2号線を走ると、兵庫県と岡山県の県境は船坂峠であるが、この峠のトンネルを抜けると三石に出る。
 その左手に八幡宮があり、以前から気になっていたので、この機会に訪れてみた。

 三石八幡宮は山陽本線、国道2号線の下を通る町道から山に登るが如くに鎮座している。
 三石は全国的に見て有数の耐火煉瓦の生産地であり、この煉瓦トンネルは金剛川四連拱渠と云い、上部を山陽本線が通っている。
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 参道石段を登り、冒頭の一の鳥居を潜る。
 鳥居のところには、過去に倒壊した鳥居が置かれている。
 石段はなだらかとなり、二の鳥居へと向かう。
 二の鳥居の右手には、この地出身の平安時代初期の実力者和気清麻呂公の像が祀られている。
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 更に石段を登ると、境内に達する。
 正面に拝殿・本殿が祀られている。
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 由緒書き等が見当たらないが、祭神は八幡神の応神天皇、神功皇后等であろうと思われる。

 また、本殿裏には摂末社、そして境内には孕み石が祀られている。
 孕み石は神功皇后に関わるものであろうと推察される。
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 隣には三石小学校がある。
 三石は江戸時代は山陽道の宿場町であったためか、学校は明治5年に設立されている。
 また、昭和の12年に建設された木造2階建ての講堂が現存している。
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『岡山県瀬戸内市・牛窓神社』

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 岡山県瀬戸内市牛窓(うしまど)町牛窓の海岸べりの小高い山上に鎮座している牛窓神社の一の鳥居である。
 牛窓神社へは、鳥居から続く長い石段参道を登ることになる。
 途中見晴らしの良いところに出るが、参道はまだまだ続く。
 そしてやっとのことで、2の鳥居に到達する。
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 2の鳥居から石段が続く。
 しばらく行くと随身門に到達する。
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 随身門の先はまだ石段である。
 登りつめると境内、拝殿が祀られている。
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 境内の紅葉は今が真っ盛りである。
 目を楽しませてくれる。
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 拝殿を回り込むと本殿が祀られている。
 この神社の祭神は神功皇后、そしてその家族である応神天皇や比売神と、武内宿禰、その他である。
 また、瑞垣の外には摂末社も祀られている。
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 この牛窓神社には、神功皇后に纏わる由来があるとのことを、神社の宮司氏からお聞きした。

 それによると、神功皇后が三韓征伐からの岐路、この地に立ち寄った。
 その時、牛鬼と云う怪物がこの地にて暴れまわり、住民たちは困り果てていた。
 神功皇后とその一統が牛鬼を退治し、体を切り刻んで海上に投げつけた。
 そしてその牛鬼の部分部分が島となったとのことである。
 胴体は一番大きな前島、頭が黒島、前足が黄島、後ろ足が青島、尻尾がねずみ島になったと云われる。

 更に、神功皇后は、牛鬼が復活しないように、その島々を見渡す山の上に鎮座して睨んだのがこの神社であるとの謂れである。
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 そして、宮司氏は話の後、拝殿にて祝詞をあげてくれたのが印象として残った。

 高台から見渡すとそれぞれの島が見える。
 写真は胴体の前島である。
 その向こうに薄っすらと、小豆島も見える牛窓の風景である。
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 牛窓の地名の起こりであるが、牛が転ぶことを「牛が転ぶ(まろぶ)」と云う。
 その「牛転ぶ」が訛って「牛窓」と云われるようになったとのことである。

『大阪市旭区・大宮神社』

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 大阪市旭区大宮に鎮座する大宮神社の一の鳥居である。
 
 この神社は、平安時代末期にこの地に逗留した源義経により、宇佐八幡神の霊夢を見たとのことから、後鳥羽天皇の勅許を得、創建された八幡神社であった。
 そのため、主祭神は応神天皇、神功皇后、比売神で、長きに渡り大宮八幡神社と呼称されてきていた。

 豊臣秀吉の時代には大坂城の鬼門守護とされた。
 また徳川の世になっても、同様に鬼門守護とされたのであった。

 明治の末期になって、近隣の数社を合祀したため八幡の名を外し、大宮神社と呼称され現在に至っている。

 大宮神社の参道は旭区の役所街から北へと続く。
 道路の先に森が見えるが、これが大宮神社である。
 そして、冒頭の一の鳥居を潜ると神橋を渡り、2の鳥居を潜る。
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 冒頭の一の鳥居を潜ると神橋を渡り、2の鳥居を潜る。
 右手に役小角(えんのおづぬ)の行者社、モチの御神木のいぼ大神社が祀られている。
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 そして拝殿である。
 拝殿には、八幡神社の神紋が表されている。
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 拝殿の左手には楠社、そして高良社が祀られている。
 高良社の右手は本殿である。
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 本殿の背後には多数の摂末社が祀られている。 
 その代表的なものは、稲荷社、春日社である。
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 かつては、本殿北側に小山があり、沢山の椿が咲いていたそうであるが、京街道の改修の折りに取り壊され、現在は大宮中公園となっている。

『八尾市・恩智神社』

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 大阪府八尾市恩智中町に鎮座する式内社並名神大社河内国二之宮の「恩智(おんじ)神社」の参道石段である。
 訪れた時は祭礼の前であったのか、石段両脇や燈籠に安全や保護のための用意がなされている。
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 石段を登りつめると神社境内に達し、先ずは拝殿が祀られている。
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 そして拝殿の後方には本殿が祀られている。
 恩智神社は古代に創建された神社で、元々は現千葉県の香取神社からは天児屋根命(あめのこやねのみこと)を勧請して祀っていたが、後に河内国一之宮である枚岡(ひらおか)神社に遷座されたため、現在は摂社春日神社として祀られている。
 そして現在の主祭神2柱は、大御食津彦命(おおみけつひこのみこと)、大御食津姫命で、2つの本殿に祀られている。
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 この恩智神社は、かつては現在の地よりもずっと下方に鎮座していた。
 近鉄恩智駅に近い現在の頓宮とされている場所である。
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 室町時代の終わりころ、この地の豪族である恩地左近満一が恩智城を神社の東の高台に建てたが、神社を下に見下のは不敬であるとして、神社は城より高い所に遷座されたという経緯を辿っている。
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 また恩智神社のすぐ下の参道石段の横には、神宮寺である高野山真言宗の感応院がある。
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 恩智神社から下部にある門前の町を眺めてみると、屋敷の長屋門や城の石積みのような石垣も見られる。
 そして、東高野街道も通っている。
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『大和郡山市・賣太神社』

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 奈良県大和郡山市稗田(ひえだ)町に鎮座する賣太(めた)神社で、日本の歴史に名高い古事記の編纂者の一人、稗田阿礼(ひえだのあれ)を主祭神とする神社である。

 稗田阿礼は天武天皇の舎人として抱えられ、天皇が語る歴史的事柄を記憶して、後、元明天皇の時代に、太安万侶(おおのやすまろ)の記述にて古事記を完成させたと云われている。

 稗田地区は天鈿女命(あめのうずめのみこと)を祖とする猿女君稗田氏と云う阿礼の先祖が住まいした地で、この神社も当初は稗田氏の祖先の廟祠として創建されたもので、後、稗田阿礼を始め、猿田彦命、天鈿女命が祭祀されたものである。

 賣太神社は、室町時代に完成されたと云われる稗田環濠集落の南東の隅に鎮座する。
 鳥居を潜ると境内には、かたりべの碑、鏡池などが祀られている。
 そして、奥には拝殿・本殿が祀られている。
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 稗田集落の周りは濠に囲まれている。
 そこには古代大和の五街道の一つである下ツ道が通っていたことも示されている。
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『京都市・建勲神社』

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 京都市北区紫野の船岡山に鎮座する建勲(けんくん)神社である。
 但し、「たけいさおじんじゃ」と呼ぶ人もいる。
 この神社は織田信長とその子信忠を祀る。

 江戸時代の末期、我が国は外国から侵略の手が伸ばされたが、統一国家として頑として譲らなかったのは、織田信長の戦国時代からの全国統一の機運づくりが大きく作用していたとして、明治時代になって、天皇から信長を祀る神社創建の勅命が下され、最初は東京と山形の織田の領地内に、そして最終的には秀吉が信長の墓所と定めたこの船岡山の山頂付近東側に遷座されたものである。

 神社へは船岡山の東側から参道石段を登る。
 登りつめると境内に達するが、その左手手前に信長公が好んで演じた幸若舞「敦盛」の一節の歌碑が建っている。
 その奥には船岡妙見社の祠が祀られている。
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 拝本殿への石段を登る。
 石段の上から東方向を見る。貴賓館、社務所などが見られ、建造物は殆どが国の登録有形文化財である。
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 拝殿そして拝殿を通して本殿の神門が見える。
 本殿は一間社流造檜皮葺で近代本殿の好例と云われている。
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『大阪市・高津宮』

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 大阪市中央区高津(こうづ)に鎮座する「高津宮」の一の鳥居である。
 高津宮は、この場所に難波高津宮を遷都した仁徳天皇を主祭神とし、祖父の仲哀天皇、祖母の神功皇后、父の応神天皇、そして后の葦姫皇后と子の履中天皇をも合わせ祀ったもので、平安時代に創建されたものである。

 高津宮へは、地下鉄谷町九丁目が最寄である。
 一本北の道を西へ辿ると、冒頭の鳥居に達する。

 参道は北へと続く。
 梅乃橋を渡り、土塀の間へと到達する。
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 石段を登ると、正面に拝殿が祀られている。
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 境内は多彩である。
 先ずは参集殿である高津の富亭、五代目桂文枝一門に支えられ、文枝最後の口演「高津の富」が行われたのもこの場所で、師匠が亡くなった後に、石碑も建てられている。
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 その他にも、北前船の模型が、そして本殿の周囲は仁徳庭園とされている。
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『京都市・蚕の社』

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 京都市右京区太秦(うずまさ)に鎮座する「木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)」の元糺(もとただす)の池の中にある三柱鳥居(みはしらとりい)である。
 京都三珍鳥居の一つに数えられる。
 またこの神社は通称「木嶋(このしま)神社」とか「蚕の社」とか呼ばれる。

 神社へは京福電鉄嵐山線、通称嵐電(らんでん)の蚕ノ社駅から向かう。
 駅の少し京都寄りに参道がある。
 「蚕養神社」と書かれた燈籠、鳥居を潜る。
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 参道を辿ると左手の左手に杜がある交差点に出る。
 2の鳥居を潜ると境内である。
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 境内には、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)など5柱を祀る拝殿本殿が祀られている。
 提灯には葵の模様が書かれているのも珍しい。
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 この木嶋神社は、推古天皇の時代に広隆寺創建に伴い、勧請されたとの説があるが確定はしていない。
 この時代の太秦と云えば大陸から渡来した秦氏の主要な活躍地である。
 秦氏はこの神社創建はともかくとして、本殿の東隣に蚕養・織物・染色の守護神である萬機姫(よろずはたひめ)を勧請して蚕養神社を併祀し、そのことから蚕の社と云われるようになったものである。
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 本殿の左奥には元糺の杜がある。
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 この杜の中に冒頭の三柱鳥居と、その中央に神座と御幣が建てられている。
 この三柱鳥居の向いている方向は、秦氏に関係する双ヶ岡、松尾大社、伏見稲荷であるとも云われている。

『京都市・松尾大社』

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 京都市西京区の桂川の右岸、背後の松尾山を御神体とする式内社並み名神大社「松尾大社」の一の鳥居である。
 
 松尾大社は奈良時代になる前に、秦氏が創建した神社と云われ、秦氏の氏神として崇敬された。
 平安時代には上賀茂下鴨神社の東の鎮護に対して、都の西の鎮護とされたと云われる。
 祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)、市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)と云われる中津島姫命(なかつしまひめのみこと) の2柱である。
 
 中世になっては酒造りの神として、醸造家の崇敬を集め、現在も信仰が篤い神社である。

 一の鳥居から参道が続き、2の鳥居を潜ると楼門があり、境内となる。
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 先ずは拝殿、そして中門、さらに瑞垣の中には室町時代に再建された重要文化財である両流造で松尾造りと云われる本殿が祀られている。
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 また境内には、醸造家に好まれる松尾山からの湧水「亀の井」と醸造家が奉納した酒樽が神輿庫に積み上げられている。
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 その他境内には客殿や、蓬莱の庭と名付けられた池泉回遊式の庭園もある。
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 松尾大社の南には摂社の一つである式内社名神大社の「月読(つきよみ)神社」が鎮座する。
 天照大神の弟神である月読尊を主祭神とする。

 鳥居を潜ると、神門、拝殿、本殿と並んでいる。
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 尚境内には、神功皇后ゆかりの月延石(つきのべいし)が祀られている。
 神功皇后が応神天皇を出産する際にこの石で腹を撫でて安産したと伝えられ、パワースポットとしても良く知られている。
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『摂津国・三田城跡』

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 兵庫県神戸市の北側に三田市と云う所がある。
 この三田市の市街地から北西方向に少し行った所に三田城跡がある。
 三田城の第一世代は、戦国時代に赤松氏が有馬に侵入し、その一族である有馬氏が三田城を築城したと云われている。
 有馬氏の家臣の車瀬氏が縄張りをしたので、車瀬城とも呼ばれた。
 その当時の城域は下図の茶色の部分であった。
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 その後荒木村重の支配下に入ったが、村重は織田信長に謀反をしたとのことで、秀吉や光秀に攻められ落城した。
 その後、池田氏、山崎氏が城主となったが、関ヶ原の後、再び有馬氏が、その後松平氏が城主となった。

 大坂の陣の後、内紛が起った鳥羽の九鬼氏はこの三田と綾部に分割移封された。
 三田には4男九鬼久隆が3万5千石で初代藩主となり、三田陣屋を築いた。
 陣屋は上図の中央の堀や池に囲まれた部分に建てられた。
 この陣屋跡地は、現在は三田小学校となっている。
 また、その南の大池で九鬼氏は水軍の訓練をしたとも云われる。
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 三田九鬼氏は後には城主格と認められたようで、再び三田城と称したと云われる。
 上図の堀の北の茶色の部分(小学校の道路を挟んで北側、下左写真の左手)は戦国の城の二の丸であったが、現在古城と呼ばれ、県立有馬高校が建てられている。
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 最後の城主、九鬼隆義氏は廃藩後三田藩知事に任じられた。
 そして神戸にて輸入洋薬の商社「志摩三商会」を設立するとともに、神戸女学院の設立にも尽力し、キリスト教の洗礼を受けたと云われる。
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 また九鬼藩主は、家臣の功績にこたえる手だてがなかったので、九鬼姓を与えたと云われる。
 その家老の娘婿九鬼隆範は当時日本の鉄道建設の技術者であるとともに、家老家にふさわしい住宅を設計し、建設したと云われる。
 この住宅は現在も旧九鬼住宅として残っている。
 当時は珍しい洋風のベランダを備えていて、観光の目玉となっている。
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『三田市・三田天満神社』

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 兵庫県三田市の天神3丁目に鎮座する三田天満神社の一の鳥居である。
 この神社の創建は千数百年前で、大歳大神(おおとしのおおかみ)を祀る神社で、三田神祠(じんじ)と号していた。
 その三田という地名の起こりは、奈良時代には既に大歳大神の御領田(みけだ)の意味で、三田と書かれたと云われる。

 この神社は、菅原道真公が讃岐国司であった時、京都から丹波路を通っての行き帰りの途中に立ち寄ったところで、道真公が亡くなって天神信仰が流行した時に、道真公を祀り天満神社としたもので、由緒多き神社である。
 三田から奥の丹波路の街道にもにも多くの天満神社が存在するのがその道真公の道行の証拠であると宮司氏も語ってくれた。

 三田天満神社は県立有馬高校の裏手にある。
 高校の校舎と裏手の農場の間の道を少し西に行くと天満神社への登り階段となり、冒頭の鳥居へと達する。
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 一の鳥居を潜り、二の鳥居と神門を潜ると境内である。
 訪問時は七五三の宮参りの時期なので、紅白の幕などが設けられている。
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 神門を潜ると左手に舞殿、その先に三の鳥居と拝殿・本殿がある。
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 拝殿前には、お決まりの神牛、飛び梅が祀られている。
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 境内には多くの摂末社が祀られている。
 八幡神社、金比羅神社、淡島神社、稲荷神社などである。
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 境内の右奥は三田市管理の公園となっている。
 天神公園と云い、周辺には時節柄もみじの紅葉も見られる。
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『京都市・大田神社』

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 京都市北区上賀茂に鎮座する大田神社である。
 山城国一之宮の上賀茂神社(賀茂別雷神社)の東にあり、現在は上賀茂神社の境外摂社となっている。
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 大田神社の創建は古く、賀茂氏がこの地に移住する以前から先住民によって祀られたといわれる。
 祭神は天鈿女命 (あめのうずめのみこと)である。
 現在の拝本殿は江戸初期の寛永年間の造営と云われ、両殿とも檜皮葺である。
 また拝殿は中央が吹き抜けて通れる割拝殿と云う珍しい形をしている。
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 また境内には朱塗りの瑞垣で囲まれた末社も祀られている。
 左から、船玉神を祀る百大夫社、大国主神と少彦名神を祀る鎮守社、そして白髭神社である。
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 鳥居前には大田のカキツバタとして知られる神苑があるが、今は花はない。
 その代りに周辺には、竹林を背後に紅葉の季節となっている大田神社である。
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『京都市・首途八幡宮』

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 京都市の上京区智恵光院通今出川上ル桜井町に鎮座する「首途(かどで)八幡宮」の一の鳥居である。

 この八幡宮は、平安京の大内裏の北東に位置するため王城鎮護の神とされ、元の名は「内野八幡宮」と云われた。
 宇佐八幡宮を勧請したもので、祭神は応神天皇と天皇の妃の比賣(ひめ)大神、母の神功皇后である。

 首途八幡宮の社名は、かつてこの辺りに東北地方の金を商う金売吉次の屋敷があり、義経が吉次に同行して奥州平泉に赴く時、この八幡宮に道中の安全を祈願して出立したことから、このように云われるようになったものである。

 境内へは一の鳥居を潜る。
 参道の途中には義経の首途の石碑がある。
 そして2の鳥居に達する。
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 鳩のレリーフの門を入ると3の鳥居である。
 本拝殿への石段は左右に分かれているが、鳥居を潜り石段を登ると本拝殿である。
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 本殿は少しの丘になっている。
 その右下には弁財天を祀る社もある。
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 神社の周辺一帯は西陣と呼ばれる。
 神社の北には櫻井公園、前には西陣中央小もある。
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 また、すぐ南の今出川通りを東に少し行ったところに、西陣の大きな石碑も建てられている。
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『徳島県・阿波の土柱』

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 徳島県の吉野川の左岸、阿波市に土柱と云う天然記念物がある。
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 この土柱は約100万年も前、この地が吉野川の川底であった時に砂礫層が浸食されてできたものと云われる。
 このような土柱は、アメリカのロッキー山脈、イタリアのチロルとこの徳島にしかないなものであり、世界三大奇勝と云われている。
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 冒頭の写真は波濤嶽(はとうがたけ)と名付けられていて、対面上部の展望台から眺めたものである。
 柱状の高さは約10mであり、南北に約90mの範囲に広がっている。

 また、下の写真は下部の展望台から眺めたものである。
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 付近には温泉もあり、また徳島の名産「すだち」も収穫時期である。
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『京都市・満足稲荷神社』

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 京都市左京区東大路仁王門下ルに鎮座する満足稲荷神社の正面の鳥居である。
 
 戦国時代に我が国を統一したと云われる豊臣秀吉が、自らの隠居城として築城した伏見城内に稲荷神社を祀ったことを起源とする。
 幾多の戦歴を重ね勝利してきた秀吉は、稲荷の加護に感謝するとともに、自らの戦勝に満足していたことから満足稲荷と名付けた。

 その後、豊臣家が滅亡し、伏見城も取り壊されたが、この神社は徳川綱吉将軍の時代にこの地に移され、祀られた。
 以後、この地の人々の崇敬を受け、繁栄をもたらしたと云われている。

 神社南の正面の鳥居を潜ると、舞殿、拝殿、本殿と続く。
 祭神は、稲荷大神の倉稲魂命(うがのみたまのみこと)である。
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 本殿の東に並んで、境内社がある。 
 天照大御神、大国主神、猿田彦神が祀られている。
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 また、東大路に面して鳥居がある。
 その鳥居を潜ると稲荷像が出迎えてくれる。
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 目立たない神社であるが、往時に触れることができる神社である。

『姫路市・姫路城好古園』

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 兵庫県姫路市の姫路城に付属する好古園の入場口である。
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 好古園は正式名称を「姫路城西御屋敷跡庭園好古園」と云い、江戸時代の初めの頃、姫路城の内堀の西外側に藩主本多忠政が下屋敷として西御屋敷と池泉回遊式の庭園を設けたのに端を発する。

 そして屋敷の南側には主だった家臣を住まわせた武家屋敷群を設けた。
 そして江戸時代の後期には、更にその南側に、好古園の名前の由来となった藩校「好古堂」が設置されたのであった。
 これらを一纏めにしたものが好古園のルーツである。
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 好古園は近世になって大型庭園として整備されたもので、姫路城の世界遺産登録に伴って、開園されたという経緯を辿っている。

 園内は9つの庭で構成されている。
 そしてその庭々は、かつての武家屋敷割の遺構の築地塀等で仕切られている。
 この種の庭園としては珍しい構成となっている。
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 園内に入場し園内を巡ってみる。
 先ずは西御屋敷からが順路である。

 西屋敷の門に繋がる築地塀と、その上に紅葉したモミジが覗いている。
 また姫路城側に西ノ丸の櫓が見える。
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 西御屋敷は数寄屋造りの2棟の建物からなっていて、木製の橋で結ばれている。
 そしてこれらの建造物が池泉回遊式の庭園を取り囲んでいる。
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 また、勧修寺型の雪見灯篭、大滝なども見られ豪華である。
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 武家屋敷の地割の築地塀が庭園を細分化している。
 それぞれ名称が付けられている。
 所々には、秋色が見られるのもこの時期ならではである。
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 また園内を散策中には紅葉した木の向こうの高台に西ノ丸の櫓を見上げることができるのも城の庭園ならではある。
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 姫路城西ノ丸と云えば、大坂の陣の時、大坂城落城間際に城内から助け出された家康の孫で豊臣秀頼の妻である千姫が、姫路城主本多忠刻(ただとき)と再婚し、住まいした所である。
 その嫁入りを記念して造られたのが百閒廊下や化粧櫓であるが、この写真が該当するのかどうか、定かではない。 

 茶の庭には、茶室双樹庵がある。
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 また流れの平庭には東屋、三角の雪見燈籠、ガマの穂も見られる。
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 好古園を後に、姫路城の内堀に沿って大手門に向かう。
 内堀の先に大手門が見える。
 大手門へと内堀を渡る橋「桜門橋」から好古園を見返してみる。
 そして内堀の外から改修を終えた姫路城が堂々としている。
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『大阪市東淀川区・崇禅寺』

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 大阪市東淀川区東中島にある曹洞宗崇禅寺(そうぜんじ)である。
 阪急電車の京都線に崇禅寺と云う駅がある。
 崇禅寺はその駅と新幹線新大阪駅との間にある寺院である。
 尚、寺の上空は伊丹空港への着陸路にあたっているため、ひっきりなしなしに航空機の騒音が降りて来る場所でもある。
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 崇禅寺は奈良時代になる前の天平年間に法相宗の行基によって創建された寺院である。
 その後荒廃していたが、室町第6代将軍足利義教(よしのり)を暗殺した赤松満祐(みつすけ)が自国播磨へ首を携え帰国途中にこの寺に埋めたとされる。
 幕府は義教の菩提をその地で弔うため、細川持賢に菩提寺として崇禅寺を再興させたと云われる。
 以来、細川家とも関係が深い寺院となった。

 時代は降って戦国時代、関ヶ原の戦いの前に、石田三成が大坂の細川屋敷に明智光秀の娘で細川忠興の妻であった玉(ガラシャ)を襲い、自害させた。
 焼け跡から宣教師オルガンチーノが遺骨を拾い、この崇禅寺に弔ったとされる。
 境内には、その義教の首塚、細川玉子の五輪の塔の墓が並び祀られている。
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 その他境内墓地には、仇討を演じたが返り討ちにあった「遠城(えんじょう)兄弟の墓」、墓地ではないが珍しい聖徳太子の小像も祀られている。
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 本堂正面の寺門の横には、摂津県並びに豊崎県の県庁所在地跡の碑がある。
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 寺を後にして、新大阪駅へ向かうと途中に中島惣社と云う神社がある。
 付近の神社8社を合祀したものである。
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 程なく新大阪駅へと到着し、東中島の散策は終了となった。
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『京都市・夷川発電所』

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 京都市左京区の琵琶湖から取水された琵琶湖疏水本流が、平安神宮や美術館のある岡崎地区を抜け鴨川へと近づいた手前にある疏水夷川(えびすがわ)発電所の建物である。

 明治になって、京都復興事業の一環で第1疏水に次ぐ第2疏水開削とともに建設されたもので、先に建設された蹴上発電所に次いで、この夷川と更に下流の伏見の墨染に発電所が建設された。

 夷川発電所は、東大路と川端通りの間にある。
 東大路から疏水南岸の遊歩道を発電所に向かうが、じきに建物が見えてくる。
 もう少し行くと「白河南殿跡」の石碑が建っている。
 白河上皇が僅か8歳の堀河天皇に譲位し院政を行った御殿であり、疏水の北側の京大熊野寮構内にある北殿と対をなしている。
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 もう秋色である。
 水面に木の葉が映える。
 その先、疏水溜りがあり、いよいよ発電所であるが、溜りの向こうにこの琵琶湖疏水開発のリーダーである時の京都府知事北垣国道氏の銅像が建てられている。
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 この発電所は今も現役で、関西電力の一事業所である。
 そして300kwの電力を発電している。
 そして疏水の管理事務所もこの場所にある。
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 発電所の放水口も秋色である。
 蔦であろうか、綺麗に色づいている。
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 発電所を後に、遊歩道を鴨川の方向に振り返りながら歩く。
 そして行き着くところは鴨川の手前の川端通りである。
 川端通りが疏水を越える橋は田邊橋という。
 名付けは、北垣知事の下で疏水開発を行った若き技術者の田邊朔郎氏を称えたものである。
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 琵琶湖疏水はこの後、鴨川の手前で左折し、鴨川に沿って一部暗渠となり、伏見の墨染発電所を経由し、酒蔵の伏見の町の濠川となって宇治川に流れ込むのである。

『高岡市・瑞龍寺』

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 富山県高岡市にある瑞龍寺の伽藍配置図である。
 瑞龍寺は加賀藩主の前田家第二代の利長公の菩提を弔うために、利長公の異母弟である第三代利常公が建立した曹洞宗の寺院である。

 場所は、あいの風とやま鉄道(以前はJR北陸本線)の高岡駅の南600m程度のところから西へ参道が繋がる。
 参道には利長公の銅像も建てられている。
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 参道を辿ると重要文化財の総門へと到着する。
 総門を潜ると、白砂の境内となり、その先に国宝の山門がある。
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 山門とその右手には現在修復工事中の大庫裏が見える。
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 そして山門を潜ると、その先は芝生の境内となり、正面に国宝の仏殿が見える。
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 仏殿の左手手前には、重要文化財の禅堂(僧堂)がある。僧たちが座禅を組む場所である。
 また右手反対側には修復工事中の大庫裏がある。
 後程、禅堂の内部、庫裏の内部を見た写真である。
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 仏殿の右手向こうには鐘楼がある。
 これらの建物はこれも重要文化財の回廊で繋がっている。
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 仏殿の奥はこれも国宝の法堂である。
 法堂(はっとう)に参内してみると、中庭の右手には重要文化財の大茶室が見える。 
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 寺院を後に、利長公の墓所に向かう。
 墓所は参道の逆方向、東にある。
 墓所までは八丁(約900n)の参拝道が続き、八丁道との名付けがある。
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 墓所は武将の中で最大の広さがあると云われている。
 入口から森が続き、左折して墳墓正面である。
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 墓所の周りを回って、高岡駅へと戻り、高岡の散策は終了したのであった。
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『重伝建・高岡市金屋町』

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 富山県高岡市の市街地の北西部、小矢部(おやべ)川の支流の千保(せんぼ)川の左岸に鋳物の町、そして千本格子の家並みで知られる重要伝統的建造物群保存地区の金屋町がある。
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 あいの風とやま鉄道(旧JR北陸本線)の高岡駅からは北西方向にあり、先ずは千保川に架かっている鳳鳴橋を渡る。
 橋の中央両側には、鋳物で作った鳳のシンボルがある。
 また歩道には、これも鋳物のレリーフが埋め込まれている。
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 橋を渡った左手が金屋町であるが、川に沿って金屋緑地公園が整備され、高岡鋳物発祥の石碑が建てられている。
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 その公園の西側の通りが千本格子の町並みの通りである。
 通りは石畳で200m位であるが、その両側に千本格子と云われる建物が並んでいる。
 
 建造物は真壁造り切妻平入で、桟瓦葺きである。
 そして1階にはサマノコと呼ばれる千本格子を設け、2階部分は、なげし、貫を化粧でみせ、白い漆喰壁とコントラストをなしているのが基本のようである。
 さらには両側に袖壁が設けられている。
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 また、その中には鋳物資料館となっている建物もある。
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 金屋町は、加賀前田家第2代の利長公が隠居城を築き城下を整備した時に、砺波郡西部金屋から7人の鋳物師を呼び、この地に土地を与え、鋳物造りを行わせたのが始まりである。

 その後、高岡鋳物は大いに発展し、現在でも多くの鋳物師や工場が仕事を継続している。
 通りには、釜師の家もあり、典型的な千本格子の家屋である。
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 通りから外れるが、北側には今は使われていないが、旧南部鋳造所のキューポラが国の有形文化財となり、凛として立っている。
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『街角のバラ園』

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 近所を散歩していると、時々、バラの花に出会う。
 色んなバラが楽しめる街角バラ園である。

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 これから花を開こうというバラも、なんとなく愛らしいものである。
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『重伝建・高岡市山町筋』

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上図の右が下図の左へと続く
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 富山県高岡市の街中にある重要伝統的建造物群の一つ山町筋の案内図である。
 高岡大仏の北、大仏から坂下町通りを西北方向に辿れば山町筋の北東の端に到達する。
 (上図は上が南西、左が北東となっている)
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 山町筋は、加賀藩前田家2代目の利長公が隠居城として高岡城を築造した時、城の西側に武家屋敷を置きその西に商人町を整備したのが始まりである。
 江戸時代は高岡経済の中心地として大いに発展したが、明治の中ごろに高岡大火があり、商人町も焼失した。

 その後、富山県令により、火事に強い土蔵造りの町屋が建設され、今日に至っている。
 土蔵造りの屋根の頂上尾根には、箱棟の上に雪割りが設けられ、両端にシャチが設けられているのが特徴である。

 山町筋は東西約500mで、旧北陸道の両側に土蔵造りの町屋が並ぶ景観を特徴としている。
 そして東からの入り口に近いところに土蔵造りのまち資料館がある。
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 西に向いて通りを進む。
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 しばらく行くと右手に国重要文化財の菅野家住宅、県の有形文化財の筏井家住宅がある。
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 高岡駅に通じる広い道路を渡ると、右手に井波屋仏壇店、左手にレンガ造りの富山銀行がある。
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 まだまだ土蔵造りの町屋が続く。
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 そして次の大きな通りに出たところで山町筋は終点である。
 そこには宿場の本陣跡もある。
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 この道を北西へと辿ると右手に高峰公園がある。
 消化薬「タカジアスターゼ」の発明で知られる高峰譲吉博士の生家があったところが公園化され胸像も建てられている。
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『重伝建・徳島県脇町』

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 徳島県美馬市脇町にある戦国時代に築城された阿波九城の一つ脇城の城下町として栄えた「重要伝統的建造物群保存地区」の「うだつの町」である。
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 脇町は吉野川の北岸の港と、池田と鳴門を結ぶ撫養(むや)街道と讃岐へ通じる街道との水陸の交通の要衝で、阿波の国のほぼ中心位置にある。
 そして藩主蜂須賀公が藩の産業として藍を保護したことがこの町の栄えた由縁である。

 この町には、自家に財力が付いたことを示すために、一階屋根の両脇の二階屋根との間に卯建(うだつ)という屋根つきの塀を設ける風習があった。
 その卯建が所狭しと並んでいる景観は見事なものである。
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 またそれぞれの町屋の玄関口には、妻入りと平入りがある。
 下の左側の妻入り町屋は、将棋名人の小野五平翁の生家「平田屋」ある。
 右側は平入りで、卯建の他、二階部分に虫籠窓(むしこまど)が設けられている典型例である。
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 この町で一番大きな家は吉田家という。藍問屋で屋号を「佐直」と云う。
 裏には吉野川と繋がる船着き場も持っていた。
 町屋は公開されていて、一部ショップにもなっている。
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 その他、最古の町屋と云われる国見家(1707年)、そして野崎呉服店、明治末建築の饅頭店川田光栄堂などが並んでいる。
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 丁度祭りの会期中であったのであろう。
 この脇町の通りで、阿波踊りの「連」が見事な踊り、鉦・太鼓の囃子を披露していた。
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 脇町の通りの東には川が流れているが、その川を越えたところに脇町劇場「オデオン座」がある。
 今も現役である。
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 明治時代になって吉野川の向こう岸に鉄道が走り、穴吹駅もできたため経済の中心がその方に移った。
 その結果近代化から取り残された形で江戸時代の町並みが残ったのであろう。

 尚、蛇足であるが、うだつにはもう一つ「梲」という漢字を当て嵌めるのが一般的である。
 この梲は、大抵の日本家屋にあるもので、天井の梁に垂直に立てその上に屋根の棟木を乗せるものである。
 このことから棟上げをする、即ち家を建てることを「うだつが上がる」と云うこともある。
 混同される場合があるので、注意を要する。

プロフィール

藤白 怜

Author:藤白 怜
気まぐれに各地の城跡、神社仏閣、路端や公園の草花、街角の風景などあっちこち出掛けては写真を撮ったり、その土地の歴史遺産を訪ねたりしています。
よろしかったら覗いてみて下さい。
よろしくお願いします。
最近、小品集を別ページにてアップしました。
右側リンクの「悠々紀行あっちこち」です。
併せてよろしくお願いします。

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